ぼくは占い師じゃない -37ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

個人的かつマニアックな話が続いています。
今回は久しぶりに数少ない占例のうちからひとつ。
占例といってもぼくが占ったわけではなくて、出た卦の読み方を相談されたケースです。

ずいぶん前になりますが、旅行に関して卦をたてて「36:火水未済」が出て、全体的にはあんまりよくなさそうなんだけど、変爻は五爻で、爻位的にはわりといい感じで、これってどう判断したらいいの?
見合わせた方がいいの?

てなことをきかれことがありました。

   ☆

「36:火水未済」
(以下拙作ハンドブックより)

卦辞:
路はひらける。
子狐がほとんど河を渡り終えたところで尾をぬらす。
「よろしきところなし。」

五爻辞:
正しくあればよし。悔いはない。
君子の光あり。誠あり。
「よろしい。」

未済の判断

卦辞で「いいことなし」といっておきながら、爻辞(五)で「よろしい」とある。

卦辞を優先するか爻辞を優先するか。

おなじみの問題ですが、原則卦辞を優先します。
五は「子狐その尾をぬらす」という全体状況の中での、いちばんいいメッセージであると観る。
五の言っていることが「尾をぬらす」という結果を覆すことはないというわけです。
ここまでが教科書的判断。
あくまで原則です。

ぼくの判断ということになると、之卦は訟で、まず海外旅行という気がしました。

え、訟ってトラブルじゃないの?
なんで海外旅行なの?

これはぼく自身の経験で
(……って、もったいをつけるほどでもないんですが)
過去に何度か渡航する予定の方のことを占って、この卦が出たことがあったからです。
いずれの場合も別にトラブルはありませんでした。

それで今回も、訟だから即、争いやトラブルと観るというより、単純に「水(海)の上の天をいく」=Overseas tripであるということを、占の背景としてあらわしているだけ、いうふうに観ました。
とくにこの場合は訟は伏卦(之卦)ですし。

訟の意味するもの

ただ、行き先が紛争地域やその近辺、治安の悪い所であれば「訟」そのものですから、やめるという判断もアリです。

このような判断は得卦云々というより、常識的に考えてといったところでしょうか。

とくにアブナイところでなければ、見合わせるほどのことはないと思いました。

ただ本卦が「未済」なので、明確な目的がある旅である場合はその目的が完全に達成されない可能性があります。
目的がとくにない物見遊山的な旅であれば「尾をぬらす」程度の小難がある可能性があります。

帰りがけ旅の終わり頃はほっとしますので注意してください、ということになるでしょう(「子狐ほとんど河をわたらんとして」より)。
子供の頃言われましたよね、「ただいま~」といって家の玄関をくぐるまでが「遠足」だって。

いくいかないは以上のようなことを具体的事項にあてはめて判断することになります。

結局、この方は旅立たれましたが、その後の事は聞いておりません。
この辺のフィードバックをちゃんとしていないところがぼくのつめの甘さです。
だから占い師になれないんだと思います。
とほはへ。

前回記事では、正八面体を成す下半分の四角錐が反転して、上半分の四角錐に重なる様子を描いた。

お話の便宜のため、同じことを正八面体の各頂点を平面にならしたダイヤグラムで描いてみる。

平面反転図


そもそも「反転」という話がでてきたのは、左端の図「創造」と書かれたダイヤグラムをながめていて、足りないラインがあるように見えたことがきっかけだった。

欠落(1)、(2)とあるのがそのラインで、大成卦の初~上爻をたどるコースから外れた、正八面体の稜線である。

中心の黒丸、ゼロポイントをとおる線で下半分を下から上へ折りたたむと、ダイヤグラムは上半分の三角形に重なる(「反転」)。
そしてこんどは上半分を、さらにその先(向こう側)に倒して、上から下へ広げてみる。
そうすると、もとのダイヤグラムはさかさま(リバース)になる(「再創造」:「裏返し」でもある)。

さかさまになったダイヤグラムにあらわれたラインは、欠落(1)のラインを補い、欠落(2)のラインは「創造」の段階から「反転」をもたらす原動力(ダイヤグラムを折りたたむ力)が働く道筋と観ることができる……
と、欠落していると観えていたラインの意味をこのように観てみた。

「反転」の段階で何が起きているのか、もう少しくわしくダイヤグラム上でとらえてみる。

・三が五に重なる
「自我」が「SO:太陽系意識」にシフトする。
「自我」が、アストラルボディ、サトルボディ、イマジナルボディに統合される。

・二が四に重なる
今まで人間をサポートしていた「精霊」「諸力」といった存在(易システムでは八卦で象徴される)が、惑星レベル(FO:地球意識)に上昇。

・初が上に重なる
初には「時空/物質」、上には「元型の元型/セルフ」といった意味をつけていた(「大成卦と正八面体2 — 創造の6ステップを拡張する(*1)」を参照)。
ダイヤグラム上はふたつとも、もとから中心線、アクシス・ムンディ、本源上にあるものである。
正八面体の水平断である人間が観た場合に、それぞれちがって観え、呼称が異なっていただけだった……と観てもいいのではないだろうか。

そして、この「反転」の段階においては、四角形二三五四(正八面体の水平断である正方形)であらわされていた、通常の意味での人間が、不在になっている。

この「反転」の段階にある存在は、すでに人間ではなくなってしまっているのだ。
この状態(存在)を易システムでは、「先天大成卦」と呼ぶ8つのパターンで表現している。

唐突だが、今回はこのへんで。
なんだか、また長くなってしまいそうなので。

----------Link
(*1)
「大成卦と正八面体2 — 創造の6ステップを拡張する」

garasu


十年もかけて書かれただけあって、読後は、一生どころか二生、三生分くらい生きた気分になる。

本編と、主人公の別の人生を描いた三編の、付録のような物語から成るので正しくは四生だが。

まあ、そんなことはいいか。

二極性と均衡に到ろうとする煩悶。
社会構造のように描かれてはいるが、
それはそのまま個人の内側にもあてはまる。

だれか映画にしてくれないかなあ。

脚本は主人公であるクネヒトとデシニョリを軸に展開するだろう。

そうならざるをえない。

当の「ガラス玉演戯」は数学、音楽、哲学等を統合した一種の普遍言語であり、芸術らしい。
映像化不可能というのはこういうことをいうのだろう。

理想と現実、
学究と日常生活、
聖と俗、
魂と肉。

そして、

易と瞑想。


もう一度、前回の「マンダラ」を観ていただきたい。

マンダラ

【正八面体=大成卦=人間 マンダラ(再掲)】

「初」から「上」までジグザグに昇っていく矢印は、通常の発達段階に相当する。

初爻以前、本源と表記されたあらゆる可能性の海のうちの特定の可能性が、拡大・展開して、物質寄りの魂である精霊(「心/四元素」)のレベルを形成する。
宇宙が宇宙自身を味わおうとする衝動の作用であり、「初」と「二」の間で「宇宙的衝動」と書いた。

「初」と「上」はもともと中心線で結ばれている。
大本の衝動はこの中心線=「本源」で起こっている。

「心/四元素」(精霊)はさらに魂魄の結合により生じた「自我」を突き動かす原動力となる。
この力は「本能的衝動」と表記した。
心理学的病理が発生するレベルである。

自我は、人間が自律的にステップアップするために必須の機能だが、自己絶対化(インフレーション)にはまりやすい。
程度の差はあれど、インフレーションを起こした自我はゼロポイントを含む「三」—「四」のプロセスに捕縛されてしまう。

「GAP」と表記したこの状態には「人生ライン」「輪廻」といったコメントをつけたが、ここで「ゼロポイント」に気づかなければ、自我は相応のポテンシャルを得るまで、この段階を巡りつづける。この致し方のない堂々巡りをここでは輪廻と呼んでいる。

「ゼロポイント」は人間が抱えた「空虚」だが、この「空虚」はひたすら虚しいという意味ではなく、自我の自己絶対化からの自由になった瞬間、点を意味している。
ここは、とらわれの環からの出口でもある。
「ゼロポイント」に気づき、さらにそれを利用して上昇しなければ放蕩息子は家に帰ることができない。

では、
『「ゼロポイント」に気づき、それを利用する』
とは、どういうことだろうか。

それまでの習慣的なものの観方の根本的な変容かもしれない。
あるいはひょっとして、そのままであることかもしれない。
なんだ結局いままでどおりじゃないか、ということかも。

それはわからないが、ダイヤグラム上では、たとえば次にしめすような「反転」が起こらなければ、「自我」は「三」—「四」間で「輪廻」しつづけなければならない、としてみる。

反転

【正八面体が上下に分離、「下」の四角錐が手前から向こうへ反転】


合体

【反転した「下」の四角錐が「上」の四角錐に重なり、「本来の」ピラミッドに】

ひとたび「反転」が起こると、「自然力によるシフト」、そして「宇宙的シフト」とあるように、「努力する」日常とは全く別の次元で、自動的に人間は本源に還っていく。
このプロセスが「四」→「五」→「上」で、人間という存在にはこれらすべてのことが可能性として潜在している。

これが全体を四角で囲ってその全体を「人間」とした理由である。

最後にもうひとつ。
それは、人間は本来「本源」であり、その「本源」は不死であるということである。
それは、ダイヤグラム上では、正八面体をつらぬく中心線、アクシス・ムンディ(世界軸)として表現される。

まあ、すべてはお遊びだ。
本当かどうかはだれにもわからない。
それでもよろしければ、おつきあいのほどを。
いましばらく。
子供の頃。

こんなことを聞かされたか
何かの本で読んだことがある。

「このままの調子で技術が発達すれば、やがて身の回りのことはすべて機械がやってくれるようになって、人間は働かなくてもいいようになる。そうなると人間はほんとうに創造的な仕事に専念することができるようになるだろう」

子供の頃だからそれは丁度、高度成長期と呼ばれる時代。
そんな背景もあってまことしやかに囁かれていたのだろう。

コンピュータの処理速度とネットワークに代表されるように(むろんそれだけじゃないけど)確かに技術は発達したが、その結果は余計に忙しくなっただけで、あいかわらず多くの人々が労働と呼ばれる活動に大半の時間をさいている。

   ☆

キリギリスの哲学

「キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生」
バーナード・スーツ 著
川谷 茂樹、山田 貴裕 訳
 ナカニシヤ出版 
2015/3/28

上の本はゲーム理論というよりゲーム哲学の本だ。

大半はゲームとは何かという定義の説明とその反証にさかれるが、副題が示すようにその結論というかオチは、ちょっと毛色がが変わっている。

あくまでぼく流にということだが、要約するとこんなふうになるだろうか。

「もし冒頭に書いたような労働から完全に解放された「ユートピア」があったとしたら、そこでなされる活動の一切はゲームであり、そうならざるを得ない」

「一切」というのは言い過ぎかもしれない。
たとえばこの「ユートピア」に参加したとしよう。

労働から解放された「ユートピア」だから何でもお望みのままだ。もちろん衣食住は完全に保証されている。
最初のうちは、好きなだけおいしいもの食べたり、世界旅行をしたり、大きな家に住んでみたりするかもしれない。

だけど、そんなことにはすぐ飽きてしまう。

なぜか。

そこが「ユートピア」であるが故にいともカンタンに実現してしまうそういう活動は、まったくもって本質的ではないからだ。

やがてその人はもっと本質的な活動を求めるようになるのではなかろうか。
それが「ゲーム」であるというわけだ。

「ユートピア」でのグルメや旅行は悪いことではないけれど、「ゲーム」ではない。

で、なにが「本質的」なのかということは「ゲーム」の定義に依る。
だからこの本では「ゲーム」の定義におおくの部分がさかれている。

なにが「ゲーム」であるかという定義の詳細は本をあたってもらうとして、ここでは、個人的かつイイカゲンな飛躍を許してほしい。

   ☆

想定された「ユートピア」はとりあえずは人間社会のように描かれているが、この宇宙そのものが、ぼくたちが暮らしている世界の基盤が、そもそも実は「ユートピア」なのではあるまいか。
そんなことを思った。

この宇宙。この基盤。
(ほとんど同義だけど)こいつらは端っから労働とは無関係だ。
ということは、それって「ユートピア」ってことなんじゃないの。短絡的にそう思った。

まてまて、宇宙だとぉ?
ヒトがいないところで「ユートピア」もへったくれもないだろうという話はさておく。

いかにもノーテンキな飛躍、戯言に聞こえるかもしれないが、もしそういってもいいのなら、その宇宙から起こってきた活動はすべて「ゲーム」なのである。

宇宙は、世界旅行しない。
うまいもん食ったり、でかい家に住んだりもしない。

その代わり(ってわけじゃないだろうけど)、銀河を創り、恒星を創り、惑星を創り、生命を創った。
その生命の一種としてヒトがいる。
「ユートピア」で行うことのできる本質的な活動。
それらはすべて「ゲーム」なのである。

興味深いのは、この本で説明されている「ゲーム」の定義に、ゲームをプレイする動機が含まれていることだ。
手前勝手なこの飛躍の文脈でいえば、それはつまり、宇宙がぼくらを創った動機ということになりはしないか。

言い換えれば、なぜぼくらはここにこうしているのか、人生の目的は何かという問いに対するコタエが、その定義の中にあるということになるのである。

おおすげえ。

というより、皆最初からウスウスわかっていたことなんだけれども……
というコタエであるような気もする。

大事なのは、
「実は人生はゲームなんだよ」
とかなんとか、
誰かから聞きかじったよーなことを右から左へのたまってるだけじゃなくて(あ、ぼくのことね)、自分で考えることの大切さだなあ……とベタな反省。

一般に思われているように「ゲーム」は暇つぶしの娯楽ではない。
娯楽は労働との対比で顕われる概念だ。
労働がなければ娯楽という話もでてこない。
「ゲーム」は娯楽や労働以前の本質的な活動なのである。

この本のタイトルにある「キリギリス」は
もちろん「アリとキリギリス」のキリギリスからきている。

アリは労働し、キリギリスはゲームをプレイする。

労働という概念が頭のいい誰かの創作による幻想だとすれば、すべてのアリはその頭のいい誰かに、キリギリスだということを忘れさせられたキリギリスだということになる。

アリは潜在的なキリギリスなのだ。

  ☆

この本によれば「アリとキリギリス」は
もともとは「アリとセミ」だったそうだ。
広辞苑によれば「極楽トンボ」は、ぼくのような
うわついたのんき者をののしって言う言葉だそうだ。

アリ、セミ、キリギリス、トンボ。

しかしまあ。

どうしてこう虫ばかりなのだろう。
☆ おことわり ☆

以下の記事は映画「ゼロの未来」にまつわる個人的感想です。正しい内容紹介ではありません。

鑑賞後の感想であり、映画「ゼロの未来」の内容・結末に関する具体的描写を含みます。

この映画を観ていない方は読まないかあるいは、もし読んでいただけるのなら、映画を観た後に読んだ方がいいかもしれません。

   ☆

ずっと楽しみにしていた「ゼロの未来」を観る。
おもしろかったというか、期待どおりだったというか、宝物の様な映画がまたひとつふえた。

何年かぶりに買った映画のパンフレットは横長で、昔よく眺めていたシネフェックスの日本語版を思い出させる。

パンフ

【「ゼロの未来」映画のパンフ】

「ゼロは100%でなければならない」

すなわち、すべてはゼロでなければならない。
ゼロでないものがあってはならないし、
そんなもの、この世にあろうはずもない。

でもそのことは「証明」できない。

人間複合体は己の中心にこの爆弾のようなゼロを抱えている。
Qスーツを着たコーエン(主人公)は、LINK ERRORを起こしたのではなく、己の魂とリンクした(*1)。

現実のハードウェアで構成されるメインフレームとつながったわけではない。そのシステムの判断では画面に現れたメッセージ通りLINK ERRORなのだが、魂との関わりにおいてはCONNECTEDなのである。

CONNECTした魂。

顕在意識からするとデータのブラックホールのようにも見えるそれは、ゼロポイントそのものであり、コーエンはラストにそのブラックホールに身を投じる。

そこにはあの、たそがれのビーチがあった。

女(ベインズリー)は不在だ。

そもそもそこにはなにもなかった……
わけではなくて、最初からコーエンしかいなかったのである。

そして、たそがれのビーチは本当にたそがれて、やがて長い長い夜がやってくる。

映画はそこで終わる。

観終わった後、気分がよかった。
当日の晴天のせいもあったろう。
妙にすっきりした気分で身体が軽くなった。
あれでいいんだ、という感じがした。
その感じは数日持続した。

—— ゼロに未来はあるのか?
という問い(Q)については……

未来はない。
過去もない。
おそらく現在もないだろう。

ゼロはゼロなのであり、ゼロの定理はあまりに自明であるために、証明……以前に、対象化不可能である。

それを証明しようとすることは眼にその眼自身を見ろと命ずるようなもので、探求者はたちまちのうちに自己言及の迷宮に入り込んでしまう。
こうしてコーエンは自宅の端末を破壊する。
トンカチで。
これはすぐ修復されるが……
化け物のようなメインフレームも破壊する。
トンカチで。
これはトンカチでぶっ壊れてしまう。
そしてそこに姿を現すのは例のブラックホール。

—— コーエンに人生の目的を告げる電話はかかってくるか。

もちろん「人生の目的」などもない。
すべてはゼロなので。
あるのはそれ、0のみである。
いや、ふつうの意味での「在る」ともいえない。

0は0なのだ。

それ以外の何物でもないし、何物にもなれないし、何物である必要もない。
コーエン(というのも単なる記号名だが)=0であり、それがすべてだ。

逃げも隠れもしない。
できない。
する必要もない。

—— すべては0というのは虚しくないだろうか。

そんなことはない。虚しくはない。
というより、
虚しいとか虚しくないとかを区別する意味がないのである。
すべてが0なのだから。
今も昔もこれからも。
結局すべてが0で、オレもオマエも0なのだから。
0が0の中で何をしても0で、
そもそも「何かする」ということ自体が0なのだ。

   ☆

ひるがえって、自分(実は0)のことを想ってみる(「想うこと」も0)。
なんで「易システム(これも0)」なんかをいつまでもいじくりまわしている(いじくることも0)の?

改めてきかれると少々困ってしまう。

だけどほら。

コーエンがラストにビーチボールをポーンポーンとやっていたでしょう。
やがてボールが太陽に重なって、太陽になって。
コーエンは太陽そのものをポーンポーンとやりだすのだけれども……
あれですよ、あれ。
ポーンポーンするのはおもしろいし、愉快だからです。

トーラス

【遊びのひとつ。トーラスの「皮」をむく。映画には関係ないけれど】

易システムをいじること、飯を食らうこと、酒を飲むこと、本を読むこと、皿を洗うこと、仕事をすること、買い物をすること、映画を観ること。
雑多な「~すること」。
そのうちのひとつである人間にとっての「生きること」はあのビーチで太陽をポーンポーンとやることなのではないのでしょうか。

やがてそれにもあきるとポーンポーンもできなくなり、夜の帳が訪れる。

夜はおねむの時間。

でもずっとは続かない。
夜はやがて明けるのである。
必ず。

映画ではそこまで描かれてはいなかったけれども、暗闇の中で彼女が、ベインズリーの声が、耳元で聞こえていた。

「コーエン」

「コーエン」

「コーエン(起きて(*2))」

そして永遠の問いであるコーエン(公案)は目を覚ます。

そうだと思う。

たぶん。


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(*1)
ちなみに「Q」の尻尾(リンク・ケーブル)が抜けると「0(ゼロ)」になる。

(*2)
手前勝手な追記。たぶん幻聴。
「第四のものとして、全一なるものの生じ来たるなり」

   ☆

前回は、マリアの公理の最終節「全一なるもの」は結局、人間のことではないのか?というところで、話は終わっていた。

「大成卦と正八面体」シリーズでは、「ひとつの大成卦=ひとつの正八面体=一個の人間」として観たてている。
となると、正八面体の水平断である正方形は、一個の人間のさらにその本質ということになる。
マリアの公理に照らし合わせれば、この人間の本質が「全一なるもの」である。

もう一度、正八面体の各部分に観たてた意味をふりかえってみる。「大成卦と正八面体2 — 創造の6ステップを拡張する」で示した図を再掲する。

sixsteos

【各頂点に新しい定義を追加した正八面体】

「大成卦と正八面体」シリーズの観たてによれば、この全体が一個の人間である。
「一個の人間」などというと、いかにも一枚岩のような統一体を連想するが、実際のところ、人間はさまざまな要素の多重的多層的複合体である。

それら構成要素間では必ずしも統一がとれているわけではなく、むしろバラバラであることが当たり前で、その総体が人間と呼ばれる「パターン」ではないのか。

   ☆

そういったことと、今まで「易システム」の中で眺めてきたシステム構成要素を盛り込んだ図が次のマンダラである。書き込む事項が多くなったので、正八面体には申し訳ないが、いったん二次元の平面にぺたんとノビていただいた。

seihachimandara

【正八面体=大成卦=人間 マンダラ】

「人間複合体」は、主に二、三、四、五で示した要素から成り立っている(と、易システムでは観る)。
この4つは、拙作「易システムハンドブック」で提示させていただいた「魂のテンプレート」でもある。

   ☆

「魂のテンプレート」は、その後もう少し一般化して、単に「テンプレート」とした

この「テンプレート」は、それ自体人生という旅の縮図としても観ることができ、

その経路を日常時間(t)としてマンダラ上に描いた。t がたどる左回りの楕円上からは五(N)と二(G)は外れている。G(二)はOD(三)を支える背景であり、N(五)はこの輪廻をたどる限り到達することのできない理想状態(テンプレートでは先天大成卦であらわされる)であって、経路の通過ポイントではないからだ。

   ☆

「魂魄結合力」とある、初—四、二—五、三—上の対応(破線)は、大成卦上では「応・不応」の関係であり、上下卦を結びつける作用。

ところで、「風と羅針盤」では、大成卦をひとりの人間として観たてたとき下卦を不可視の基盤=魂とした。
一方、マリアの公理にしたがって正八面体/大成卦を眺めていると、魂は上から下り、魄(身体)は下から昇り、正八面体の水平断である正方形の人間として結実するようにみえる(前回記事参照)。

正八面体はひとりの人間、ひとつの大成卦だから、このときは上卦=魂となって「風と羅針盤」の大成卦=人間として観た場合と逆になる。
「魂」が下卦になったり上卦になったりと、混乱するかもしれない。
この混乱は、「魂」という言葉をアイマイに用いていることに起因している。

下の絵に示すように「風と羅針盤」でひとりの人間として観た大成卦と、正八面体/ひとりの人間として観た大成卦では、表現しようとしているクラスが異なる。

jouge

【日常的自己と宇宙的自己】

「風と羅針盤」で描こうとしていたのは、「スピリット」から成る「日常的自己」であり、眼に見える身体は「スピリット」がその性質を粗くしたものである。
正八面体/大成卦が描くのは、「ソウル(*1)」と「スピリット(*1)」の複合体としての人間、「宇宙的自己」だ。
なんだかいいわけがましい説明だが、二元的表現には常に矛盾がつきまとう。

魂魄の「魄」は道教的には肉体を支える気で、マンダラにおいては四の「気/鋳型」に近いが、ここでは物質でもある物質と表裏一体の「魂」である。人間は、この物質寄りの魂と天上の魂が二重に複合した存在ということになる。

二重の魂はもちろん易システムのオリジナルではなく、ゲリー・ボーネル氏の「ダイアード」/「トライアード」や、男性における「アニマ」/女性における「アニムス」、ドゴン族の神話などに、人間は二重の(対の)魂によって構成されるという概念がみられる。

   ☆

さて、お話は「正八面体=大成卦=人間 マンダラ」にもどる。

マンダラの中心は「ゼロポイント」であり、この「ゼロポイント」を経る三から四への経路が「ギャップ」であり、上下卦の狭間ということになる。地上的魂と天上的魂の接点、この「狭間」こそが、人間の「本質の本質」ではないのか……とうことで、「人間の核」とさせていただいた。

「日常的自己と宇宙的自己」の図を見ると、GAP、すなわちこの「核」は日常的自己から観ると上爻を超えたその上に位置している。これが意味していることは、「核」はふだんの生活からはうかがい知ることができない、ということだ。
これが、日常的自己から観た7番目、6(上爻)+1である。
人間の核は爻であらわすことのできない、爻と爻の「間の空間」ということになる。

わたしたちはそれぞれに、この得体の知れない「空虚」かかえた存在なのだが、この「空虚」こそがわたしたちの主題、人間が人間である最大の理由をあらわしている……と、易システムでは観る。

次回はそんなお話ができれば、と思う。


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*1 「ソウル」と「スピリット」
どちらも易システムにおいては、独自の意味で用いている。スピリットは「器」でソウルはその「中身」。中身はそのままで完全であり、器は中身のレベルに至るまで進化し続けようとする。以下は「風と羅針盤」の用語集より。

→スピリット
この言葉にはいくつかの側面がある。本源から区分された生命活動の器となる部分またはソウル(魂)の器になるもの。万物のエッセンス。万物の核に埋め込まれた傾向の総和。私たちのくらすこの宇宙の基盤である「無極」がベクトル化したもの。等々。

→ソウル
本源からわかれた(区分された)生命の実質となる部分。スピリットが形作る器と組み合わさることにより、生命活動が行われる。ソウル自体は時間の観念をもたない。

JR高架下のブックオフの出入口近くで、「フェッセンデンの宇宙」という文字を見かけた。
ああ、あれだな、と思ってなんとなく手に取って中を見る。
ああ、やっぱりあれだ、と思って本をもとに戻し店を出る。
開店時間から間もない、晴れた日曜日の朝。
人通りは少ない。
青空の下を歩く心地よさも感じてはいた。
だけど気持ちは、「フェッセンデンの宇宙」というタイトルにへばりついたままだった。
家への道を途中まで歩いて、歩いて来た道を振り返る。
高架下にもどって、本を買う。

ブックオフ

【河出書房新社のホームページより。現在は文庫版が出ている】

ハミルトンの短編集で日本で独自に編まれたものだということを解説で知る。
邦訳された短編集はこれでわずか三冊目だということも。

一冊目「フェッセンデンの宇宙(早川版)」
二冊目「星々の轟き(青心社)」
三冊目「フェッセンデンの宇宙(河出書房新社)」

一冊目と三冊目はタイトルが同じだが、別物である。
解説によれば、それぞれ別の視点で編まれたものでダブりは四編のみ。その四編も含めて三冊目の河出書房新社版ではすべて新訳ということだった。

昔、主に海外作品のSFファンだった頃、「星々の轟き」は読んだ記憶がある。今となっては内容はほとんど覚えていない。太陽系の惑星ごとどこかへ避難するようなメチャクチャな話があったかな……というようなことをかすかに覚えている程度だ。その「星々の轟き」を読んだ当時、「フェッセンデンの宇宙(早川版)」はすでに入手不可能だった。

最初に「フェッセンデンの宇宙」を知ったのは、文芸春秋の増刊で「文芸春秋デラックス—宇宙SFの時代」という雑誌だった。
本は当時のぼくにとっては高額なものだったので「宇宙SFの時代」も繰り返し眺めていた。
その中に、小松左京親子がAPPLEⅡのキャラクタ画面でスタートレックゲームに興じる記事など共に、スタジオぬえのイラストでさまざまなSFガジェットを紹介するコーナーがあって、そこで、フェッセンデンという物理学者が創造した箱庭宇宙として「フェッセンデンの宇宙」は紹介されていた。

文春

【「エドガー・ライス・バローズのSF冒険世界へようこそ(http://www.princess.ne.jp/~erb/bunshun_delux.html)より】

ミニチュアの本物の銀河系は、銀河鉄道999でもメーテルの手の中で浮かんでいたのを見たおぼえがある。
映画「メン・イン・ブラック」でも小さな球に入った銀河系が出てきた。
そんなふうに小さく凝縮されたものが昔から好きで、プラモデルもよく造ったし、博物館などに行くと展示から知識を得るというよりも、模型そのものに見入ってしまうようなところがあって『あの模型すごかったな』で終わってしまうこともしばしばだった。
もちろんぜんぜん詳しくはないが盆栽も好きだ。買ってきた盆栽は全部枯らしてしまったけれど。
赤ちゃんも(子供はいないが最近甥っ子ができた。かわいい)、般若心経も、小さくまとまったものはみんな好きだ。

そんなわけで「宇宙SFの時代」で「フェッセンデンの宇宙」のイラストを見た時から、その短編を読みたかったのだが、絶版で簡単に手に入らなかったこともあってずっと読めずにいた。

別に大層な理由もないのだが、そのうち、SFはもとより物語そのものを読むということからもすっかり遠ざかってしまって、そのまま年を食っていった。
それでやっと……30年越しということになるのだろうか、やっと読むことができた。

もしぼくがこのハミルトンのお話のようにホンモノの「フェッセンデンの宇宙」を見せられたとしても、自分の住むこの宇宙が、誰かに創られたものかも……
と思い煩うことはないだろうと思う。

理屈をいえば、この宇宙が誰かに創られたものだとしたら、その誰かがいる宇宙も別の誰かが創ったものかもしれないし、「フェッセンデンの宇宙」の中にも、フェッセンデンのように「宇宙」を創った者がいるかもしれず、さらにその「宇宙」の中にも……
という具合にたちまち上にも下にも無限の入れ子にとらわれることになる。
もし入れ子が連鎖的であるなら、連鎖のうちのどれかの宇宙が滅びれば、それより「下」の宇宙は存在できなくなる。
そしてもし、上にも下にも「無限」なら、ぼくたちの「上」の宇宙の中には何らかの要因で滅びる宇宙が必ず含まれているはずであり、そうなると、いまこうしてここにぼくたちがいることと矛盾する……

しかし、いちいちそんなことを論じるのは野暮もいいところだろう。寓話ととらえることもできるし、古典ではあるが、純粋にストーリーを楽しんでもいい。
短編集だからお話は「フェッセンデンの宇宙」だけではない。個人的には物語を読む楽しさを久しぶりに味わわせてもらって、大変に幸せな気分になれた。

最後にひとつだけつけ加えるとしたら……

そうですね、この河出書房新社流の懐石弁当はお酒のつまみにもなるということでしょうか。
よろしければ是非ご賞味ください。

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「フェッセンデンの宇宙(河出書房新社版)」

目次

フェッセンデンの宇宙
風の子供
向こうはどんなところだい?
帰ってきた男
凶運の彗星
追放者
翼を持つ男
太陽の炎
夢見る者の世界

二月のアタマの話になるが、
風邪をひいた。

朝からわずかな悪寒を感じてはいた。
変だなと思っていたら
夕方になって悪寒は全身に広がり、
筋肉や間接は痛みだし、
だるくなってきた。

閉まりかけた病院で熱を測った。

39度あった。

39度と聞かされたとたん、
アタマはモーローとしてきて、
ドクターに聞かれたこともよく解らずとんちんかんな返答。

ドクターにも、薬剤師のお姉さんにも、
「つらそうですね」
と、苦笑される。

頚から下はだるさと痛みと悪寒で、へろへろ。
頚から上はまるでサウナに入っているようで、
もわ~っとしているのである(*1)。

薬の引き換え券を見たら「115」とある。
普段は八面サイをつかって卦を立てているので、
三桁の数字を見てつい、

『11。純卦だ。乾為天。115。五爻、飛龍在天』

とやる。

もちろん、爻辞を全部覚えているわけではない。
乾為天の五爻は超有名な「飛龍在天」だったから覚えていただけ。

爻辞は覚えていたけど一応、ひっくり返してみる(*2)。

『之卦は大有か。天空高くお日様ギラギラだ』

飛竜

【乾の大有に之く】

モーローとしてはいたものの、
易卦を思い浮かべるくらいのことはできて、
なるほどな、とひとりで感心していた。

乾為天のイメージは比較的わかりやすく(*3)、
龍が深淵から躍り上がり天高く飛翔し、
昇りすぎて、ついには血を流しつつ、
陰陽の龍は相争う。

六つの爻はこのいずれかの段階を示す。

五爻は龍がもっとも高く昇りきった位で、
エネルギーに満ち満ちている。

ていうか、

エネルギーに満ち満ち「過ぎている」。
つまり龍は、この風邪、発熱そのものであり、
今がまさにピークというわけだ。

インフルエンザは陰性反応だったけど、
そんなことはあまり問題じゃない。

ウイルスだって生きている。
この熱、このふらふらはウイルスの生き様そのもの、
一匹の巨大な龍(*4)なのだ。

別名タオと呼ばれるこの龍(*5)は
ふだんはあらゆるものの背後にあって、
そのすき間に入り込み、
あらゆるものを駆動する根源的な力になっている。

それがなにかの拍子に、
たとえば身体に入り込み、
無数に増殖するウイルスの奔流となって、
ぼくのようなドンカンな人間にも、
その存在が感じ取れるようになることもある。

環境はこの流れと連動し……ていうか、
自分も環境もなく、本来すべては、
この流れそのものであるという証拠を、
たとえば薬局の薬の引換券の番号などで、
どうだ、と言わんばかりに誇示してくるのである。

こんな時、占術はてんで無力だ。
占うこと自体もその流れの中で、
「占わされて」いるようにさえ感じる。

「事前に結果を知って危険があれば回避する(*6)」
といったニンゲンの小賢しい知恵など、
どこかへ吹き飛んでしまう。

立春の嵐はようやくと首無し龍の群れ(*7)になって、
いずことも知れずに去って行ったが、その頃は、
ふらふらアタマで115に出会ってから、
はや一週間もたっていた。

ああ、はやくあたたかくならんかな。

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(*1)「もわ~っとしているのである」
感じようによっては、酒も飲まないでキモチイイ。
安上がりだけど、シンケーが煮えているかもしれない……
というシロートくさい不安も。

(*2)「爻辞は覚えていたけどひっくり返してみる」
我流だが、爻辞を全部覚える必要はないと思っている。
爻辞がわからなければその爻をひっくり返して之卦を観ればよい。
そういう法則性があるわけではないが、
之卦とその意味が連動している爻辞もたくさんある(と思う)。
乾為天の五爻と大有はイメージ的に連動している(ようにぼくには思える)。

(*3)「乾為天のイメージは比較的わかりやすく~」
初九、潜龍(ひそんでいる龍)
九二、見龍(あらわれた龍)
九五、飛龍(天高く舞い上がる龍)
上九、亢龍(舞い上がり過ぎた龍)
三、四はギャップ前後の位で「×龍」の表現はない。

(*4)「一匹の巨大な龍」
龍の数え方は「匹」でいいのだろうか。
だれか教えてほしい。

(*5) 「別名タオと呼ばれるこの龍」
タオはもちろん、数えられない。

(*6)「事前に結果を知って~」
これは比較的狭い意味での占術の捉え方である。
易システムではもう少し別の捉え方
——世界観であり、かつ、質問者・占者を巻き込む記号過程——
という捉え方をする。

(*7)「首無し龍の群れ」
「用九。群龍首なきを見る」より。
易の本を見るとそれなりの説明があるが、
それぞれの著者なりの解釈であることに留意しよう。
卦爻辞は一体に謎めいている。

「マリアの公理」というものがあるそうだ(*1)。

伝説の女錬金術師、予言者マリアが残した公理、ということで、練金術の分野では有名な「公理」だそうだが、ぼく自身はユングの著作の中で初めて知った。

   ☆

「伝説の女錬金術師、予言者マリア」なんていうとアニメの設定みたいだが、実在の人だったようで、彼女が残した「公理」とは、次のようなものである。

One becomes two, two becomes three, and out of the third comes the one of the fourth. 
「一は二となり、二は三となり、第三のものから、第四のものとして、全一なるものの生じ来たるなり」

   ☆

さて、「大成卦と八面体」シリーズでは、ひとつの大成卦をひとつの正八面体にあてはめて遊んでいる。

この大成卦が、初爻~上爻までの積み上げ式に創造されたと観た場合、その様子は、次のように正八面体をたどる、とした。

マスターエイト

【初爻~上爻まで。積み上げ式】


上の図は「大成卦と八面体」シリーズの最初に提示させていただいた絵だが、矢印はシンプルに下から上へとジグザグに昇っていく。

もちろんこれが悪いというわけではなく、レガシー(*2)においてはこれが基本だし、「創造の6ステップ」もこの行程を踏襲している。

   ☆

「マリアの公理」を知ったとき、全体に謎めいてはいるけど、もしこれが、正八面体=大成卦の成り立ちを説明しているとしたら、どうだろうかと想った。

そんなわきゃあねえだろ、「マリア」さんは易システムなど知らなかったはずで、大成卦なんかとは関係ない!

……それはそうだが、ここでいう正八面体に対応した「大成卦」は、ひとりの人間/ひとつの宇宙である。

「マリアの公理」が、マクロコスモスだけでなく、それに相似なミクロコスモスの成り立ちも説明するものだとしたら、正八面体=大成卦のダイヤグラムの成り立ちに適用してみるのも悪くはないだろう。

   ☆

「マリアの公理」は、数字としては1~4までについてしか語っていない。これを単純に初爻からあてはめても四爻までしか手が届かない。
つまり、積み上げ式の考えではダメで、アプローチを根本的に変える必要がある。

そこで、スタートを初爻と上爻の2カ所にとって、上から、そして下(初)から同時に創造は始まったとしてみる。

一から二

【一は二となり(One becomes two)】

二から三

【二は三となり(two becomes three)】

四

【第三のものから、第四のものとして、全一なるものの生じ来たるなり(and out of the third comes the one of the fourth.)】

上と下からきた創造の行程は、正八面体の水平断である正方形の中心で出会う。
この正方形こそが、「第四の」、「全一なるもの」、人間の本質……とは観えないだろうか。

すべて


真ん中の正方形が、人間の本質である……って、
結局、前回の「天人地」の話と同じことを書いている。

結論としては同じなのだが、洋の東の「三才観」と、洋の西の「マリアの公理」が一致を観せるところがおもしろい。

しかも、「マリアの公理」ではその第四のもの、人間の本質が、新しく生じた「全一なるもの」であるといっているようにみえる。

次回は、その「全一なるもの」をもう少し掘り下げてみたいと思う。

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*1 タレントの山田まりやさんがずいぶん以前に書いた「まりやの基準」という本があるそうだが、多分関係ない。

*2 レガシー
「易システム」以前の、「易経」やその周辺ドキュメント、慣習的解釈によって意味づけられた「易」。いわゆる「伝統的な解釈」。