トンボがキリギリスの哲学をご紹介 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

子供の頃。

こんなことを聞かされたか
何かの本で読んだことがある。

「このままの調子で技術が発達すれば、やがて身の回りのことはすべて機械がやってくれるようになって、人間は働かなくてもいいようになる。そうなると人間はほんとうに創造的な仕事に専念することができるようになるだろう」

子供の頃だからそれは丁度、高度成長期と呼ばれる時代。
そんな背景もあってまことしやかに囁かれていたのだろう。

コンピュータの処理速度とネットワークに代表されるように(むろんそれだけじゃないけど)確かに技術は発達したが、その結果は余計に忙しくなっただけで、あいかわらず多くの人々が労働と呼ばれる活動に大半の時間をさいている。

   ☆

キリギリスの哲学

「キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生」
バーナード・スーツ 著
川谷 茂樹、山田 貴裕 訳
 ナカニシヤ出版 
2015/3/28

上の本はゲーム理論というよりゲーム哲学の本だ。

大半はゲームとは何かという定義の説明とその反証にさかれるが、副題が示すようにその結論というかオチは、ちょっと毛色がが変わっている。

あくまでぼく流にということだが、要約するとこんなふうになるだろうか。

「もし冒頭に書いたような労働から完全に解放された「ユートピア」があったとしたら、そこでなされる活動の一切はゲームであり、そうならざるを得ない」

「一切」というのは言い過ぎかもしれない。
たとえばこの「ユートピア」に参加したとしよう。

労働から解放された「ユートピア」だから何でもお望みのままだ。もちろん衣食住は完全に保証されている。
最初のうちは、好きなだけおいしいもの食べたり、世界旅行をしたり、大きな家に住んでみたりするかもしれない。

だけど、そんなことにはすぐ飽きてしまう。

なぜか。

そこが「ユートピア」であるが故にいともカンタンに実現してしまうそういう活動は、まったくもって本質的ではないからだ。

やがてその人はもっと本質的な活動を求めるようになるのではなかろうか。
それが「ゲーム」であるというわけだ。

「ユートピア」でのグルメや旅行は悪いことではないけれど、「ゲーム」ではない。

で、なにが「本質的」なのかということは「ゲーム」の定義に依る。
だからこの本では「ゲーム」の定義におおくの部分がさかれている。

なにが「ゲーム」であるかという定義の詳細は本をあたってもらうとして、ここでは、個人的かつイイカゲンな飛躍を許してほしい。

   ☆

想定された「ユートピア」はとりあえずは人間社会のように描かれているが、この宇宙そのものが、ぼくたちが暮らしている世界の基盤が、そもそも実は「ユートピア」なのではあるまいか。
そんなことを思った。

この宇宙。この基盤。
(ほとんど同義だけど)こいつらは端っから労働とは無関係だ。
ということは、それって「ユートピア」ってことなんじゃないの。短絡的にそう思った。

まてまて、宇宙だとぉ?
ヒトがいないところで「ユートピア」もへったくれもないだろうという話はさておく。

いかにもノーテンキな飛躍、戯言に聞こえるかもしれないが、もしそういってもいいのなら、その宇宙から起こってきた活動はすべて「ゲーム」なのである。

宇宙は、世界旅行しない。
うまいもん食ったり、でかい家に住んだりもしない。

その代わり(ってわけじゃないだろうけど)、銀河を創り、恒星を創り、惑星を創り、生命を創った。
その生命の一種としてヒトがいる。
「ユートピア」で行うことのできる本質的な活動。
それらはすべて「ゲーム」なのである。

興味深いのは、この本で説明されている「ゲーム」の定義に、ゲームをプレイする動機が含まれていることだ。
手前勝手なこの飛躍の文脈でいえば、それはつまり、宇宙がぼくらを創った動機ということになりはしないか。

言い換えれば、なぜぼくらはここにこうしているのか、人生の目的は何かという問いに対するコタエが、その定義の中にあるということになるのである。

おおすげえ。

というより、皆最初からウスウスわかっていたことなんだけれども……
というコタエであるような気もする。

大事なのは、
「実は人生はゲームなんだよ」
とかなんとか、
誰かから聞きかじったよーなことを右から左へのたまってるだけじゃなくて(あ、ぼくのことね)、自分で考えることの大切さだなあ……とベタな反省。

一般に思われているように「ゲーム」は暇つぶしの娯楽ではない。
娯楽は労働との対比で顕われる概念だ。
労働がなければ娯楽という話もでてこない。
「ゲーム」は娯楽や労働以前の本質的な活動なのである。

この本のタイトルにある「キリギリス」は
もちろん「アリとキリギリス」のキリギリスからきている。

アリは労働し、キリギリスはゲームをプレイする。

労働という概念が頭のいい誰かの創作による幻想だとすれば、すべてのアリはその頭のいい誰かに、キリギリスだということを忘れさせられたキリギリスだということになる。

アリは潜在的なキリギリスなのだ。

  ☆

この本によれば「アリとキリギリス」は
もともとは「アリとセミ」だったそうだ。
広辞苑によれば「極楽トンボ」は、ぼくのような
うわついたのんき者をののしって言う言葉だそうだ。

アリ、セミ、キリギリス、トンボ。

しかしまあ。

どうしてこう虫ばかりなのだろう。