ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press


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お手数かけますがよろしくお願いいたします。

「六本木クロッシング2025展」に行ってきました。予備知識はおろか、作家さんのお名前も、何にも知りません。


現代美術を見に行くのも久しぶりですし、イベント出店の時以外は、住んでいる町から出ることはまずありません。

 

きっかけはネットで開催期間中であることを知ったことと、じっとしてるのもよくないかな、と。

現代美術の展示会だと、写真もOKだったりするので(作品によってはダメなものもあります)、安物のコンデジも持って行きました。

作家さんには失礼な表現になるのかもしれませんが、たくさんオモチャが並んでいるようなワクワク感があります。

 

展示されている文章は読まないし、図録も買わないので、クレジット的説明はできませんが、あしからず【コメントは個人の感想です】。

【瞑想する手。ヘタに印を組んでいないとこがいい。よ~く見ると小指を立てて写真を撮ってる変な人が写り込んでます。はずかしいなあ】


【燃え盛るエナジー】


場所は六本木の森美術館ですが、かつて通っていた会社は、銀座の方が近かったので、あまりなじみのないところです。

【これ、作品です。段ボールのような紙とペインティングでできています。ぼくが覚えている六本木のイメージはこっち】

六本木とか麻布近辺といえば、万華鏡屋さんに行ったことがあるくらいで、高速道路の下のごちゃごちゃしたところ、といったイメージしかなかったのですが、アークヒルズ方面は地下鉄から直結で、いかにもトーキョーって感じのシャレオツな空間になってました。

【これも。ぼくのコンデジで撮るといかにも昭和】

テーマは「時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」。

それってつまり、理性と魂のことだろうな、と勝手に解釈。

 

なんでも切り刻んでそこに嵩(カサ)としての時間を観るのは理性の方です。

 

永遠というのはそこに時間がないことで、魂に時間はありません。

 

「わたしたちは永遠(魂)」らしいので、できるだけ考えない(理性を動かさない)ようにしようとするのですが、どうしても考えてしまいます。作品を鑑賞する時ですら、魂より理性が勝つわけです。


特にこういう作品は、理性はそこに、笑う警官やサイレンの音を見たり、聴きとろうとします。

 

なんか仕掛けがあって、近くにいくと見えたり聴けたりするのかな、あれ、なんにもみえない、きこえないぞ、なんじゃこりゃ!(じつはそんなこと、どうだっていい)と、ついには理性はハラを立て始めます。もうちょっと静かに観られないものでしょうか。

 



その昔通っていた小学校では、ぼくが高学年に上がる頃、ちょうど木造校舎から鉄筋校舎へと移行する時期でした。

 

おそらくは、きれいな教室に先に入れて卒業させようという先生方の思いだったのでしょう、一足先にピカピカの鉄筋校舎へ移った教室の窓からはいつも、低学年の教室が残る、木造校舎の屋根瓦が隣に見えていて、窓際の席だったので、よく晴れた日には、てきめんに眠くなりました。

 

そんなときは、屋根瓦にモザイク状の文字が見えるような気がしました。なにが書かれていたかは、思い出せません。

 

その昔、テレビで、屋根瓦の上に座ったふたりが、星空を見上げながら語り合う(男の方がギターを弾く)光景を見たような気がしますが、今や周囲には、瓦屋根も星空もありません。

 

作品の屋根瓦の空には天空の詩(うた)が書かれていました。

 

 

現役時代には、決して味わうことのできなかった、平日午前中の甘美なひと時でした。



前回(「前世からの贈り物?」→)では、ギフテッド(最初ッからできる人たち)の話から、結局は「達人のサイエンス」という本の話になってしまいました。

ヤメるのはカンタンなんだけど、続けるのは難しい。

だもんで、達人は数が少ないんですが、むかぁ~し(といっても、そんなに昔ではありませんが)、若いあんちゃんが運転するタクシーに乗り合わせたことがあって、彼がしきりに、今の仕事を辞めたい辞めたいと繰り返すもんで、理由もきかずに、「とにかく続けろ」と、家に着くまで説得(?)したことがありました。

ジジイのよけいなお世話です。

 

それ以外のなにものでもないんですが、そのときも「達人のサイエンス」の話をした記憶があります。

   ☆

当時は、オヤジに先立たれたオフクロが、同じ市内で独り暮らしでした。

 

支援2、ヘルパーさんが週1で入っていて、まあまあ元気でしたが、オヤジに「頼む」といい残されたこともあり、一応毎日、安否確認の電話を入れて、ゴミ出しやら掃除やら食事(ホカ弁買いに行くだけですけどね)やら、ゲームの相手(勝負事が意外と好き)やら、毎週末にはちょっとした手伝いに、オフクロのところへいっていました。

 

クルマは運転しないので、自宅との往復には時々タクシーを利用していました。

 

若い運ちゃんと話をしたのはその帰り。

やがてオフクロも他界しましたが、両親の家のあと片付けをした帰りに、バスで帰ることもできたのですが、疲れたのでタクシーを呼びました。

 

するするっとやってきたのは、黒塗りのでっけえクルマ。

 

あれ、こんなの会社のえらいさんが乗るヤツじゃん、高級車なんか頼んだ覚えないのになあ、料金高いんとちゃうやろか……

 

と思いつつ、おそるおそる乗り込んでみると、あの若いあんちゃんでした。

   ☆

ぼくが乗ったときのことを覚えてくれてました。

そのときは、「辞めないでよ!」「はあ、考えときます……」みたいな感じだったけど……

ええ、ええ、辞めないでよかったです、今はハイヤーやってます、こっちの方が性にあっているみたいで ……え? 料金? 今は代打で来てるんで、フツーと同じっすよ。あれから3年ぐらいですかねえ……

オフクロのことも知っていました。

オフクロは足が悪かったので、外出時(滅多にしない)にはタクシーを利用していたのです。

 

他界したと伝えたら、一緒に悲しんでくれました。

彼もきっと今頃は、達人になっているにちがいありません。いや、もう3年もたってたから、達人だったのかな。


オチ? ありません。

 

あいすみません。



【ZenPad#05; Punzel 晩夏の感傷。祭りのおわり】

 


「読んではいけない(こちら→)」でも書いたが、原則、他人(ひと)様の作品にはあまりふれないようにしている。

かみさんが読みたいというので、話題の「成瀬は天下を取りにいく」と「成瀬は信じた道をいく」と、「成瀬は都を駆け抜ける」を買ってきたら、あっという間に読んだというので、話だけ聞かせてもらった。


話を聞いて、ぼくも成瀬のように生きたかったなあ、と思ったけれど、成瀬はきっと、成瀬のように生きたいと思って成瀬しているわけではなさそうなので、そう思っているうちはダメなのだろう。

 

ぼくのような凡人は、200歳まで生きようと思う以前に、セーセキをなんとかするために、ドリョクをしなきゃ……とか思ってしまう。いいガッコーに進学して、いいカイシャに入るためである。結果としては、あんまり実りはなかった。

 

   ☆


NHKだったと思うが「ギフテッド」という番組があった。努力しなくても、最初からできる人達のことだ。話を聞く限り、成瀬もそういう人のひとりなのではないのかなあ……と思った。


「えらい兄貴になりたくて奮闘努力((c)寅さん)」している身からすればうらやましい限りだが、こういう人たちの最大の悩みは、努力してできるようになるということ自体、理解できないこと……なんだそうである。

 

   ☆


昔、「達人のサイエンス」をという本を読んだ。


特定のスキルを身につけるために練習を始める。いわゆる努力だ。そうすると、少しできるようになる。そのあと、スキルアップはしばらく頭打ちになる。

 

続けていると、またちょっとできるようになる。そしてまたスキルアップは頭打ちになる。


「達人のサイエンス」では、頭打ちの期間を「プラトー(平原)」と呼んでいたと思うが、これがどのくらいの長さになるかは、身につけようとしているスキルの種類による。

基本的にはプラトーと漸進するスキルレベルの繰り返しなのだが、達人と凡人のちがいは、このプラトーの期間をどう過ごすかによる。簡単にいえば、プラトーの長さに耐えきれずに、途中で投げ出してしまうのが凡人で、継続できた人が達人になる。

プラトーの後のスキルアップは、難しいスキルであればあるほど微々たるものだが、結局は、その微々たるスキルアップの集積が達人と凡人とのちがいを生むというわけだ。

【ZenPad#35 Ⅸ(Nine) 次の段階へと進むサイン】

 

それをもってして全人的評価とされてしまっては、こちらとしては甚だ迷惑だが、ガッコーのセーセキも特定のスキルの評価である。

 

凡人は続けるしかなさそうだ。

「継続は力なり」。

むか~しっからいわれているけど、本当だったんだ……と、いまさらながら思う。

 

だからぼくは凡人なのだろう。

 

そっか……だからぼくの書いた話はおもしろくないんだな。出てくるのは、なにもしないでブラブラしてるか、なにかというとすぐ旅に出たくなったり、すぐ死にたくなったりする人たちばっかりだ(こういう人たちのプラトーは多分、今生には収まり切れないのかもしれない)。

 

ついでにいうなら、フントー努力をしなくてもできてしまうことが、果たして幸せなことなのかどうかも……よくわからない。

 

凡人なので。

 

「TOKYOタクシー」のことを書いた。

(前回記事(こちら→))

 

2年前まで介護施設の事務をやっていたが、高齢の方にまつわる描写がわりとよかったナ、と思い出したので、ちょっと追記。

(ご注意:この先、ネタバレを含みます)

 

   ☆


総じて些細な描写なのだが、時間だけはいやというほどあるということや(これは最近、ぼくにもわかってきた)、ちょっとだけ、腕を組みたいといいだすところとか。

 

すみれさんのご自宅の玄関ドアが、なんと義母の家のドアに似ていたことか。

 

義母本人も、住んでいた家も、今や実体はないけれど。

なんか……思いつきでわがままをいうところも。

 

そして、残された者は、最後のわがままをきいてやれなくて、最後の最後まで悔やむのである(ご参考→「もうカニは食わない」(父親の話ですが))。

   ☆

核家族化により、周囲では三世代同居は珍しいものになっている。今、校正している拙作の個人出版物、「天体観測とはなにか」の主人公は、10代まで、両親と、母方の祖母と一緒に、公団で暮らしていたことになっているが、ぼく自身は実際に祖父や祖母と暮らした経験はない。 所帯を持ってからは両親とも別居していた。

歳を取るということは、日常的な実感として、どうなっていくことなのか。

 

もし介護施設の仕事をしていなかったら、まったくわからないまま、現在の年齢になっていたにちがいない。

   ☆

若く元気で楽しいときは、ずっとは続かない。

 

しかし同時に、これは福音でもある。

 

辛くて苦しいときも、ずっとは続かないからだ。


ZenPad#83 Ixorus, 車輪はまわる。まわりつづける】

 

かみさんと映画を観に行った。

 

「TOKYOタクシー」。

 

前回は「銀河鉄道の父」だったから(ご参考「小槌の神秘」こちら→)二年半ぶり。が、感覚的には一昨日だ。イヤ、マジで。

「初学者のための魔法の基礎」(ご参考→こちら)でも書かせていただいたが、記憶は一見、特定の場所に固定的に刻まれているように見えるが、実態は、個々人別々の流れだ。場所は空間としての合意的な記憶を保持しており、表層的な記憶は人によって異なる。

ペイントソフトのレイヤのようなもので、ひとりひとりに別々のレイヤがある。ベースの線画は場所という空間だ。同じ場所を走っていても、タクシー運転手と客が観るレイヤは別なのである。


レイヤどうしはまったく無関係ではなくて、一般に現実と呼ばれる合意的なレイヤで交差する。作品はここで成立する。ペイントソフトも同じ。最終的には必要なレイヤがマージされて一枚の絵、作品になる。
 

若い頃、かみさんとよく都内をうろついていた。同じ映画を観ながら、ぼくはときどき別のレイヤを見ていた。


出演俳優さん方の名前がだいたいわかるという、今となっては希有な映画だった。観客はぼくらふたりと、老夫婦が一組。若い人はひとりもいなかった。一言でいえば、シニアな映画だが、別に、若い人がみてもいいと思う。


誰しも記憶の中で生きている。
年齢は関係ない。


【ZenPad(→「あとがき」) #90 Assunta ;生きているのはだれでもない。自然が生きている。】

 

☆解題☆

袖:

着物の袖。今のような洋服だと、袖触れ合うとケンカになるんじゃなかろうか。ケンカも縁だが、コミュニケーション としてはスマートとはいえない。

 

多生:

空間的意味→合意的現実で併存する多数の個的存在。

時間的意味→いわゆる過去世、現世、来世、そのすべての間で併存する多数の個的存在。

 

縁:

因果関係の、因と果の仲立ちをするとされる機序。

 

☆あとがき☆

ZenPad。現在作成中のオラクルブック。仮題。

「ZenPad」って、生産はすでに終わっているようですが、ASUSのタブレットの名前でした。正式名称は別に考えなきゃいけません。現状は、オリジナルのオラクルブックの開発コード名ということでご理解いただけると助かります。

 

お正月ともなれば、普段会わない身内に会うこともあります。誕生日も近いので甥っ子からプレゼントをもらいました。




【今レアなやつじゃない?】

 

ウンウン、ありがとう。
オジサン、感動したよ。
共通の趣味(LEGO)があってよかったなあ。


初めて会ったときはノートPCより小さかったのに。

ご参考:→こちら
 

ずっと心に残っていることは、川底の石のように、水の流れにいつまでもアクセントを与え続けます。

 

そんな石のひとつに、かなり以前に観た、NHKニュースの合間のレポートだったと思うのですが、紙芝居屋さんの話があります。

   ☆

紙芝居屋さん。

公園に、箱を積んだ堅牢自転車でやってきて、荷台の木箱を組み立てると、引き出し付きの小さな劇場になります。拍子木を叩いて、子供たちが集まってきたところで、引き出しから出した駄菓子を売り、子供たちは駄菓子を食べながら黄金バットやスペクトルマンのお話を聴きます。

 

ぼくよりちょっと上の東京出身の先輩は観たことがあるといっていましたが、ぼく自身は実際にそんな紙芝居を観た記憶はありません。近所に紙芝居屋さんが来るという話も終ぞ聞くことはありませんでした。

乱歩の少年探偵団の時代には珍しくなかったのかもしれませんが、くだんのNHKのレポートでは、とっくにいなくなったと思われていた紙芝居屋さんが、まだいた! という話でした。高齢の方で、昔やっていた道具やスキルをひっぱり出してきて、また始めたという話でした。

蔵前あたりに行けば、まだ問屋さんがあるのでしょうが、駄菓子などは10円20円の代物です。公園で遊んでいる子供の数も減ったのではないでしょうか。紙芝居で生計を立てることなど到底できず、奥さんがパートをしながら生活を支えているということでした。

   ☆

テレビを見ながら、かみさんは『奥さんタイヘンねえ』などといっていました。旦那の肩を持つわけではないけど、そういうことでもない気もします。

 

お金はご承知の通り、「この世に値段のつかないものはない」「お金で買えないものはない」といわれるほど、世の中の隅々にまで行き渡っている尺度です。

でもやっぱり。

それだけじゃないんじゃないか。

遊星出版もお金という面では、儲からないどころか、イベントに出れば出るほど赤字です。製造コスト以下で本を売っているのが主たる要因なんですが、大阪文フリで、それをお話ししたら「え。どうしてそんなことするんですか!」と目を丸くされました。

そのお答えを……と、ここに書くと長くなるので、遊星出版サイト、 「遊星出版の本を手に取って下さる方へ」に追記させていただきました。

 

ご覧いただければ幸いです。

 ↓

遊星出版ハンコ
 

そんなわけで、申告の必要もないんですけどね。

 

松本隆さんによれば、昔話をするのは気の弱い証拠だそうですが(*)、気が弱いのは今に始まったことではないので、昔話をします。

   ☆

昭和のオカルト・ブームには一次と二次があるそうです。
ぼくはといえば、一次の頃は小学生~中学生で、二次の頃は「中年の危機」の最中で、オウム事件の頃は結婚したばかりでした。

一次ブームの中学のころ、初めてタロット・カードというもの知りました。

きっかけはその頃、二見書房から出ていた「タロット占いの秘密」という本でした。

余談ですが、易を知ったのは、やはり二見書房から出ていた「筮竹占いの秘密」という本でした。「秘密」シリーズでは最近、「狐狗狸さんの秘密」が復刻されました(カバー裏に文字盤があります。巻末には文字盤(PDF)へのリンク(QRコード)も。昔は折り込み別紙でした)。当時の雰囲気を知りたい方は一読されるのも一興かと思います。

話を戻しますと、成績も並で運動神経も鈍いのび太くんのような田舎の中学生は、「タロット占いの秘密」を読んで(ていうか、使って)、自分でもそんな占いカードを作ってみたくなりました。

母親は空き箱を大量にため込んでいましたが、勝手に使うと怒られるので、頼んで分けてもらった牛乳石鹸の空き箱を切り抜いて、花札くらいの大きさの「カード」を作りました。枚数は忘れましたが、その貴重な1箱から作れる分だけだったと思います。

作った「カード」の、ちょうど箱の裏側だったグレーのボール紙そのままの面に、ボールペンで稚拙な絵を描きました。キーワードや絵は思いつきのオリジナルだったと思います。具体的に何を描いたかはもうはっきりとは覚えていません。お金も技術もない田舎の少年のやることですから、今思い出しても、涙が出るくらいショボイものだったことは、よく覚えています。

しばらくその(とても「デッキ」とはいえない)「カード」の束を持ち歩いていました。

しかし、友だちに馬鹿にされたせいもありますが(発見即糾弾。子供は容赦しません。別に悪いことはしてませんでしたが)、すぐ飽きて放り出してしまいました。その後、その「オリジナル・デッキ」がどうなったかは覚えていません。

   ☆

ここのところずっとZenPadというオラクル・ブックを作っています。

(ZenPadについては、こちら→

こうしてフト、昔のことを思い出しますと、なんだか結局、その頃と同じことをやっているような気もします。

歳を取りましたので、少年の頃よりは、多少は知識も経験も増えたでしょう。個人でできる製本や印刷の技術は、当時からは夢想だにできないほど高度に発展しています。

ただ、絵を描くことにはずっとコンプレックスがあって、これは少年の頃からあんまり変わっていないような気もします。現在は、基本的に周囲は大人ばかりですから、作品をあからさまにけなすのは、かみさんくらいなものです。

絵を描くことなどは、学校以外でマトモに習ったことはありませんし、人物などはとても描けません。昨今はAIがやってくれたりもしますが、それでは「自分が描いた」とはいえないでしょう。

このコンプレックスのせいで、一定のやり方を踏めば絵心がなくても描けるゼンタングルに走ったようなところもあるのですが、具体物が描けないから、いきおい抽象画のようになって……オラクル・ブックの絵としては、まあ、かえっていいような気もします。

(ゼンタングルについては、こちら→

   ☆

ZenPadは00~99までのメッセージと、ゼンタングル(ZIA)で構成されたオラクル・ブックですが、現在のところ、なんとか87番まで漕ぎ着けました。



【#87 Drupe:楽しむことこそ、最大の成果である】

わりと苦労せず描けたのは半分くらいまでの話で、そこからは、ぐうっとペースが落ちています。1枚描く時間は、CD1枚分~長くて3時間ぐらいですが、いつアイディアが出てくるかわかりません。


アイディアが出ても、描いてみようというレベルまでに「内圧」が高まらないと、描き出せません。なので、単純計算で完成の時期を見積もることもできないわけです。

 

もちろん完成したら、またここで告知させていただきます。

   ☆

なんとかかんとか1枚描き終わると、いつもあの、切り刻まれた牛乳石鹸の箱が脳裏を横切ります。

♪ 牛乳石鹸 良い石鹸

モ~

 

青春は、こまわり君とエコエコアザラクで終わった白橋升

 


 

(*)大滝詠一「雨のウエンズデイ」(作詞:松本隆)

今から30年以上前の話ですが、テクニカルライターになりたいと思っていた時期がありました。テクニカルライターというのは、当時だと、おおむね、ソフトウェア(もちろん、それだけではありませんが)のマニュアルを書く人を指していました。


その頃はパッケージソフトを買うと、分厚いマニュアルが付属していたものです。クルミ製本の、いかにも「本~っ!」ってやつです。

アキバでVZエディタの「本~っ!」と、3.5インチフロッピーがハダカでシュリンクされただけのパッケージを買って帰った時の高揚感は、今でも覚えています。
『これでやっと、自宅のパソコンで文章が打てるぞ!』
VZエディタはもうありませんが(ないよね?)、その規模のソフトやマニュアルなら、今なら数秒でダウンロードできます。

 

パソコンやアプリケーション・ソフトウェアのMMI(マン・マシン・インターフェース)も洗練 ・統合されてきて、付属マニュアルという「本~ っ!」も(ないことはないけど)、あまり見かけなくなりました。パッケージソフト自体、珍しいものになりつつあります。

最初に転職した会社では、千数百頁以上のシステム・マニュアルを……書いたわけではないけど(書いたのは外注さん。きっちり仕事をする方々でした)、マニュアル開発の社内窓口になったこともありました。シソーラス作りから始まって、なかなか大変な仕事でしたが、実態はアメリカで開発されたシステム・マニュアルの翻訳でした。

まあそれで、テクニカル・ライティングの本などを読んだりもしていたのですが、その中の一冊に「マニュアルは文学作品ではない」という一節があって、その一節だけが、ずっとひっかかっていました。

   ☆

DTP技術とwebサービスの発展により、曲がりなりにも個人で書籍を作れるようになって、文フリなどにも出させてもらっている昨今ですが、また「マニュアルは文学作品ではない」が気になってきました。

ほんとにそうなの? って話です。

アタリマエだろ! といわれそうですが、別にマニュアルが文学であってもいいんじゃないか、なんて思っています。

くだんのテクニカル・ライティングの本にも、「マニュアルが文学作品であっては『ならない』」とまでは、書かれていなかったと思います。

いや、書いてあったのかな。

この一節が書かれていた本の書名や、一節が書かれていたところの文脈は完全に記憶からトンでいますので、フレーズだけがぼくの中で一人歩きしています。

   ☆

自分都合で解釈を進めることにしまして、そこまでは書いてなかったとすれば、「マニュアル文学」なんていうのもあってもいいかも……などとも思います。まあ、その前に文学(リタラチャ)ってなによ? ということを、とりあえず、はっきりさせておかなければなりません。

母親の形見の真っ赤な電子辞書、広辞苑 第7版によれば、文学とは「言語によって人間の外界および内界を表現する芸術作品」と、簡潔な説明があります。「言語による」は外せないでしょう。芸術となると……また、芸術とは何か……となり、キリがありません。

いろいろ定義はあると思います。文フリでは、文学とは「オノレがそう信じるところのもの」とされています。

自分なりに愚考してみるのですが、今のところは、文学って「鑑賞することで鑑賞者(つまり読者)の意識に何らかの変化をもたらす、書かれた言語で構成された装置」ではないかと思っています。

そのように考えると「マニュアルは文学作品ではない」こともなく、「マニュアルは文学作品にもなりうる」のではないでしょうか。

   ☆

「初学者のための魔法の基礎」は、ちょっとばっかり、そんな思いを込めて書かせてもらったものです。まだ在庫が若干残っていますので、来年のSF(少シ不思議)フリマで頒布する予定です。出店前にはまたこのブログで告知いたします。

 

これが鑑賞者の意識に何をもたらすかは未知です。ただ、読んだからといって魔法が使えるようになるわけではないと(笑)、お断りしながら売っています。
(内容については、こちら→

「ZenPad」は、ただいま作成中のオラクル・ブックです。上のような思いから、先にマニュアルを書いてしまいました。リリース時期は未定です。

マニュアルの内容は、ZenPadとは何で、どうやって使って、何を目指しているのかを、タメ口で説明している30頁あまりの冊子です。これは鑑賞者にZenPadのユーザー意識をもたらすために作った装置です。

 


本体の方は200頁くらいになると思いますので、セットで頒布しようかと考えています。
(ZenPadについては、こちら→

以上結局、PRになっちゃいましたが、最近の作品の、創作背景のお話でした。

白橋升@遊星出版 店主敬白

 

遊星出版

PS.

書いていて思い出しましたが、ヨハン・ヨハンソンの「IBM 1401 A USER'S MANUAL」というアルバムは、一部、マニュアルそのものが音楽という芸術になっています。
 

「成瀬は天下を取りにいく」を読んだ。

 最初の数頁だけ。

 電車で読むからと、かみさんが持ってった。

 でも、なるほどこれはおもしろい、と思った。

 若い人のお話だあ、とも思った。

 うらやましいような、目新しいような。

   ☆

 モダンな住宅街の中に
 朽ち果てそうな湯屋がある。

 散歩で見かけることもあるが
 やっているのを見たことがない。

 まだ暑い頃だったが
 夕方その前を通りかかった。

 歩行器を押す痩せた高齢女性と
 付き添いの女性が歩いていた。

 娘さんかお嫁さんだろう。
 ヘルパーさんではなさそう。

 女性が抱えた洗い桶には
 タオルとシャンプー。

 あたり一面
 空気までが黄昏色。

 煙突からは煙が立ち上り
 入り口には真っ新な暖簾。

 ぼくは、こういう方が好きかな。
 

ZenPad #85 Courant "U ARE NOT ALONE"】