サザンオールスターズ『いとしのエリー』誕生秘話⑤ ~『当って砕けろ』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年、サザンオールスターズは、3枚目のシングル、

『いとしのエリー』

をリリースした。

『いとしのエリー』

は、桑田佳祐原由子のために書いた曲であるが、

現在、その『いとしのエリー』誕生秘話を、当ブログにて連載中である。

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルに入った。

そして、その「AFT」には、原由子の1年先輩だった桑田佳祐という男が居た。

こうして、1975(昭和50)年4月、桑田佳祐原由子は、

「運命の出逢い」

を果たした…。

という事で、青山学院で出逢った桑田と原が、その後、どうなって行ったのか…桑田と原の「青春物語」を描く。

それでは、『いとしのエリー』誕生秘話の「第5回」、

『当って砕けろ』

を、ご覧頂こう。

 

<1975(昭和50)年4月…原由子と「モリ」が、「ジェロニモ」として「AFT」に入部>

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子青山学院大学に入学し、

「AFT」

という音楽サークルに入った。

その「AFT」には、原由子の1年先輩として、桑田佳祐という男も居たが、当初、桑田は、原由子が青山学院に入った後に知り合った「ノリ」という美人の女の子にゾッコンだった。

一方、原由子は、フェリス女学院高校時代に、「モリ」という親友が居り、高校時代、原由子と「モリ」は、

「ジェロニモ」

というユニットを組み、音楽活動をしていた…という事は、既に述べた。

その「モリ」は、某女子大に入学していたが、「AFT」は、

「他大学の人でも入部は大歓迎」

という方針だったので、「モリ」「AFT」への入部が認められ、原由子と「モリ」は、

「ジェロニモ」

として、「AFT」に入った。

だが、その頃、他の女の子達が、

「先輩、コード教えて下さい!!」

などと言って、上手く先輩達に溶け込んでいるのに対し、「ジェロニモ」の2人組は、出遅れてしまった。

だが、それに気付いた時は、時既に遅しだった…。

「しまった!!」

と、原由子は思ったが、「ジェロニモ」は放っておかれっぱなしだったという…。

「こうなったら、高校時代までのように、「ごっつく」音楽を練習しよう」

…と、彼女達は決意していた。

 

 

また、原由子は、小学校の高学年の頃から、

「肥満化」

してしまい、同級生の男子達から、それをネタにしていじめられたり、からかわれたりした事があり、

高校は女子高だったので、3年間、男子から隔離されていた事もあって、その頃は、

「男性恐怖症」

になっていたという。

なので、「AFT」の集まりに行く時に、

「そこに男の人が居る」

というだけで、原由子は緊張してしまっていた。

つまり、原由子は、それまでの「トラウマ」が有って、すっかり男性が苦手になっていたのだった。

そんな事情もあり、原由子は男性に対し、「壁」を作ってしまっていたという。

 

<「音楽と女」に夢中になっていた、桑田佳祐…~バンド名を「温泉あんまももひきバンド」⇒「ピストン桑田とシリンダーズ」に改名>

 

 

一方、その頃、桑田佳祐は…。

大学2年生になった桑田は、ベースの関口和之など、「AFT」の仲間達と、

「温泉あんまももひきバンド」

なるバンドを組み、活動していたが、そのバンドは、スタジオで練習したりする一方、桑田の友達がアルバイトをしていた、バーやスナックなどに行き、そのステージで演奏したりしていた。

ちゃんとしたライブハウスではなく、

「場末のバーやスナックだった」

という事であるが、少ないながらも「ギャラ」を貰ったりしていたという。

その頃、バンドの中で、車の運転が出来るのは桑田だけだったので、桑田が車を運転し、バンド仲間の楽器を運んだりしていたが、そのように、バンド活動を盛んに行なっていた。

「俺達って、何か『セミプロ』みたいじゃないか!?」

その頃、桑田はそんな事を思ったりしていたという。

桑田は「学業」など、そっちのけで、バンド活動に夢中になっていた。

ちなみに、その頃のバンド演奏のレパートリーは、

ビートルズ、ボブ・ディラン、ステッペン・ウルフ、グランド・ファンク・レイルロード…

などなど、とにかく桑田達が、

「これは、カッコいい!!」

と思った曲は、何でも演奏していた。

そして、バンドで演奏するために、桑田達は更に色々な音楽を聴くようになって行った。

なお、1975(昭和50)年5月頃、桑田が率いるバンドは、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

と改名したが、桑田佳祐がボーカルを務め、引き続き、関口和之がベースを弾いていた。

 

 

そして、その頃の桑田佳祐「バンド活動」と共に、夢中になっていたもの…それは、

「女性」

である。

当時の事を、桑田佳祐は、このように回想している。

「大学でサークルに入ってると、いろんなライバルが出てくるじゃない。ギターの上手い奴が沢山出て来たりとか…。そういう奴らと喧嘩したりしてさ。ま、色々と良い勉強になったよね。その頃はもう、音楽と女ひとすじ…」

桑田が、そのように振り返っている通り、その頃の桑田の頭の中を占めていたのは、

「音楽と女」

の事ばかりだったという。

その頃、桑田は色々な女の子にアタックしたりしていたが、その女の子達とは、上手く行ったり、行かなかったり…と、色々有ったが、当時の桑田は、

「恋多き男」

だったようである。

このように、青春真っ只中の桑田は、

「音楽と女」

に、全力で夢中になっていたのであった。

 

<相変わらず(?)、原由子の友達の「ノリ」にご執心だった桑田佳祐は…?>

 

 

さて、「音楽と女」に夢中になっていた、その頃の桑田佳祐であるが、

桑田は、相変わらず、原由子の友達の「ノリ」に、ご執心だった。

例えば、原由子と「ノリ」が、並んで青山通りを歩いていると、後ろから物凄い勢いで桑田が走って来て、

「あ!ノリちゃん偶然だなあ!一緒に帰ろう!!」

などと言って来た事が、度々有ったりしたという。

これは、どう見ても桑田が「偶然」を装って、狙っていた事だったが、

「全く、わかりやすすぎる奴である」

…と、後に原由子は振り返っている。

また、ある時、「ノリ」が、ある男の子から、

「新宿で、ビートルズの3本立ての映画が有るから、見に行こう」

と、「デート」の誘いを受けた。

ここで大問題が起こった。

「ノリ」原由子に対し、

「心細いから、どうしても一緒に来て欲しい」

と言って来たのである。

しかし、そんな事をすれば、単なる「お邪魔虫」になってしまうので、それは嫌だ…と、原由子は断ったが、

「お願いだから、どうしても来て!!」

と、「ノリ」はそう言って聞かなかった。

「どうしよう…」

と、原由子が悩んで来た時、あの男…桑田佳祐が割り込んで来た。

「ノリちゃん、あいつとビートルズ見に行くんだって?僕もビートルズ見に行きたかったんだ。一緒に行こう!!」

桑田はそう言って、強引にくっついて来てしまった。

「私が悩んでいたというのに、デリカシーのひと欠片(かけら)も無い奴である」

原由子は、後にそう振り返っていたが、結局、そのビートルズの3本立ての映画は、「ノリ」を誘った男の子と、「ノリ」が両端に座り、「お邪魔虫」桑田佳祐原由子が、その2人の間に入り、並んで真ん中で見る事になってしまった…。

「全く、あの男の子には、可哀想な事をしてしまった…」

と、原由子は申し訳無い気持ちでいっぱいだったという…。

 

 

そして、原由子「ノリ」が、東横線に乗って横浜方面に帰る時、桑田佳祐も付いて来ていたが、

「ノリ」はいつも、先に菊名で降りてしまうので、最後は桑田と原だけが残されてしまっていた。

その度に、原由子は申し訳無い気持ちになってしまっていた(?)というが、

「何で、私が気にしなきゃならないんだい!!」

と、原は思っていた。

しかし、前述の、

「新宿デート事件」

の時も、実は桑田が割り込んで来てくれたお陰で、原由子は、

「邪魔者は私だけじゃない!!」

と思い、少し気が楽になっていた。

また、原由子と「モリ」による、

「ジェロニモ」

の練習にも、桑田は飛び入りで参加してくれたりするようになっていた。

そんな事もあり、原由子は、相変わらず「男性恐怖症」は治っていなかったものの、桑田とだけは、あまり緊張せずに話せるようになっていた。

 

<1975(昭和50)年6月…目黒区民センターホールの「AFT」のライブに「ピストン桑田とシリンダーズ」出演~ディープ・パープル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』などを歌う桑田佳祐に、原由子が感心>

 

 

1975(昭和50)年6月の、ある日の事である。

この日は、目黒区民センターホールで、

「AFT」

の定例ライブが開かれていたが、そのライブに、桑田佳祐が率いる、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

も出演していた。

後から振り返れば、このライブは、桑田佳祐と原由子にとって、大きな「分岐点」となるライブとなった。

原由子にとって、「AFT」に入ってから、初めてのライブだったが、

この時、原由子は初めて、桑田が率いるバンドのライブを見る事となった。

そして、この時、原由子は衝撃を受けた。

 

 

「ピストン桑田とシリンダーズ」

は、その時のライブで、ディープ・パープルの、

『スモーク・オン・ザ・ウォーター』

や、エリック・クラプトンが所属していた伝説のバンド・クリームの、

『ホワイト・ルーム』

といった楽曲を披露したが、桑田佳祐のボーカルは、とてもカッコ良かったのである。

「へー!!この人って、歌も歌えるんだ!?ただの『わかりやすい人』じゃなかったんだね…」

原由子は、ビックリしてしまった。

「桑田さんって…カッコイイ…」

この時、原由子は初めて、そう思ったという。

原由子がそう思っていた通り、その頃、桑田はボーカルとしての才能が開花していた。

こうして、原由子の桑田佳祐に対する見方は、ガラッと変わった。

そして、原由子「モリ」「ノリ」といった友達を連れて、渋谷の宮益坂のスタジオに、

「ピストン桑田とシリンダーズ」

の練習を見に行くようになった。

そう、この時、原由子は桑田佳祐の「ファン」になった…という事である。

 

<1975(昭和50)年夏…「AFT」内部で紛争が勃発!?~「AFT」は「フォーク派」と「ロック派」に分裂し、桑田佳祐・原由子ら「ロック派」は「ベターデイズ」結成!!>

 

 

1975(昭和50)年夏、

「AFT」

は、河口湖にて、恒例の夏合宿を行なっていた。

「AFT」

というサークルは、実は上下関係が厳しく、先輩が後輩に、ライブの「スタッフ」をやらせたりしていた。

また、「AFT」は、クラブとしての親睦を重視する団体だったが、このサークルの伝統として、

「シング・アウト」

なる物が有り、ライブの最後には、必ず部員達が並んで、全員で歌う…というような行事も有った。

しかし、桑田佳祐は、「AFT」では「異端児」であり、桑田は一人だけ、ジョン・レノンのようなデカいサングラスを付けていたりしたので、

「シング・アウト」

の時も、桑田はかなり浮いていた。

そんな桑田を見て、他の部員が笑ったりしてしまっていた…との事だが、1975(昭和50)年、桑田が2年生の頃になると、「AFT」には、桑田の他にも、どんどん「異端児」が入って来るようになってしまった。

もしかしたら、「AFT」の先輩達は、そんな桑田達、「異端児」の事を、苦々しく思っていたのかもしれない。

そして、1975(昭和50)年夏、河口湖での「AFT」の夏合宿で、「事件」は起こった。

突然、「AFT」の部員達が、宿舎の大広間の座敷に集められると、「AFT」の部長が、いきなり、こんな事を言い出した。

「この中に、クラブの和を乱す人達が居る。そういう人達は、ここから出て行ってくれ!!」

部長はそう言って、ある部員の事を名指ししたが、その人は桑田と同じ茅ヶ崎の出身の先輩で、桑田もお世話になっていた人だったという。

 

 

こうして、部長に名指しされてしまった、桑田の先輩であるが、

「AFT」

は、その事件を境に、

「部長派」「先輩派」

に、分裂してしまった。

「部長派」は、フォーク指向の人達が多く、「フォーク派」と称され、

「先輩派」が、ロック指向の人達が多く、「ロック派」と称された。

「やはり、音楽の好みと人間性って、何か関係が有るのかな…」

と、原由子は思ったというが、

「クラブの親睦も大事だけど、それよりも、好きな音楽をやろうよ!!」

という人達が、「先輩派=ロック派」には多かったという。

そして、原由子と「モリ」のジェロニモの2人組と、「ノリ」という、原由子と友達の一派は、仲が良かった先輩が多かった事もあり、「先輩派=ロック派」に付いて行く事にした。

 

 

 

 

こうして、「AFT」は、

「フォーク派」「ロック派」

に分裂してしまったが、

「フォーク派」が「フォーク・イン・青山」というサークルを立ち上げる一方、

「ロック派」は、先輩の発案により、

「ベターデイズ」

というサークル名を名乗る事となった。

ちなみに、

「ベターデイズ」

という名前は、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのアルバムのタイトルから取られた名前だったそうだが、原由子は、

「何てカッコイイ、素敵な名前なの!!」

と思い、原由子は一遍で、「ベターデイズ」という名前が気に入ってしまった。

 

 

こうして、

「ベターデイズ」

はスタートしたが、当初は20人ほどの集まりに過ぎなかったものの、原由子は、新たな始まりに、希望に胸を膨らませていた。

だが、当初、桑田佳祐「ベターデイズ」の集まりには顔を出さなかった。

「何が分裂だ!!バカバカしい!!俺は俺で行く!!」

桑田は、昔から、小さい事でガタガタ言うのは嫌いだったらしく、今回の騒動でも怒っていた。

なので、桑田は当初「ベターデイズ」には入らず、「ベターデイズ」の溜まり場だった、青山学院の学食にも顔を出さなかった。

しかし、結局、その後すぐに、桑田は「ベターデイズ」に入り、原由子達と一緒に活動する事となった。

ともあれ、紆余曲折を経て、桑田佳祐原由子は、新サークルの、

「ベターデイズ」

で、共に音楽活動をするようになった。

 

<サザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバッド』のB面曲で、サザンのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』に収録されていた『当って砕けろ』>

 

 

…という事であるが、

この頃の桑田佳祐原由子は、まさに青春真っ只中であり、若さと情熱で、色々な事に挑戦していた。

その頃の桑田や原の青春の日々は、まさに、

「当って砕けろ」

の精神だった…と言えよう。

というわけで、後にサザンオールスターズのデビュー曲、

『勝手にシンドバッド』

のB面曲となり、サザンのファースト・アルバム、

『熱い胸さわぎ』

にも収録された楽曲、

『当って砕けろ』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『当って砕けろ』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

※いの一番に 飛んでいきましょ

昔の女なんて おさらば

心に火がついたら もうそれだけ

他人(ひと)の事など どうでもいい※

 

その気になれば いつでも逢える

噂 気にするなんて ないじゃない

当って砕けること 忘れないで

恋を知らずに 何が出来ようか

 

※※本当の幸せ あなたは教えてくれたの

私に 何かにつけて

心がさめれば 別れもくるだろ

いつかは二人で 話し合わなきゃ※※

 

抱きしめるほどに恋が果てることなく

このまま別れ話もないまま

涙流すことなく

 

※※

 

誰かが教えてくれた

あんた このごろ 嫁入りしたいそうではないかいな

ここで覚悟を決めて

 

Keep On Smilin' Keep On いつも……

 

(つづく)