1975(昭和50)年、広島東洋カープは、球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成し、
日本中に、爆発的な「赤ヘルブーム」を巻き起こした。
そして、それは広島の栄光の時代の幕開けでもあった。
今回は、「マスコットで振り返るプロ野球史」の、広島編の「中編」をお送りするが、
広島カープの黄金時代と、その後に長く続いた苦闘の時代を、
「カープ坊や」と「スラィリー」という個性的なマスコットは、どのように見守って来たのであろうか?
それでは、早速ご覧頂こう。
<1970(昭和45)年に、スタジアムジャンパーで使用された「鯉のぼり」マーク~広島カープと「鯉のぼり」の、面白い関係とは!?>
「マスコットで振り返るプロ野球史」の、「広島編(前編)」で、お伝えした通り、
「カープ」の球団名は、「広島城(鯉城)」が由来である。
1970(昭和45)年には、ご覧のように、カープのスタジアムジャンパーに、「鯉のぼり」をあしらったマークが使用されている。
カープには、実は昔から、こんな「ジンクス」が有る。
「カープは、毎年、開幕当初は好調で、5月5日の『子供の日』、鯉のぼりの季節までは突っ走るが、そこから必ず失速する」
これは、不思議な事に、かなりの確率で当てはまるわけであるが、
球団創立当時は、「広島は、お金が無いから、5月5日頃になると、選手が栄養失調になってしまうから、その時期に、決まって失速するのだ」という事が、まことしやかに囁かれたりしたという。
事の真偽はともかくとして、カープは本当に、「鯉のぼり」の季節を境に、急降下する事が非常に多い。
しかし、1975(昭和50)年の広島カープは、鯉のぼりの季節を過ぎ、夏場を過ぎ、秋口を迎えても、最後まで失速する事なく、遂に初優勝のゴールテープを切ったのであった。
<1975(昭和50)年に初登場した「カープ坊や」…その後、カープのユニフォームが変わる度に、「カープ坊や」も「お色直し」>
1975(昭和50)年、広島カープが初優勝を飾った年、「カープ坊や」が登場したが、
以後、「カープ坊や」は、ご覧の通り、カープのユニフォームが変わる度に、
「カープ坊や」も一緒に、ユニフォームを「お色直し」して来た。
言わば、カープと「カープ坊や」は、一心同体の関係であると言って良い。
なお、再三述べている通り、「カープ坊や」の登場は1975(昭和50)年だったにも関わらず、
後年、実際に「カープ坊や」が登場する以前の年代、カープのユニフォームが「赤」ではなく、「紺」だった頃のデザインをあしらった、
「オールド・カープ坊や」のグッズも登場したりしている。
とにかく、「カープ坊や」は、デザインも可愛らしく、使い勝手が良いので、様々な場面で活用されやすいのである。
<広島カープ黄金時代(1975~1986年)を引っ張った超強力コンビ、「ミスター赤ヘル」山本浩二&「鉄人」衣笠祥雄>
1975(昭和50)年の初優勝をキッカケに、カープに黄金時代が到来した。
1975(昭和50)~1986(昭和61)年の間に、広島カープはリーグ優勝5度、日本一3度、12年間でAクラス(3位以上)10度と、
毎年、優勝戦線に顔を出す「強豪」に成長した。
その「広島黄金時代」を引っ張ったのが、1975(昭和50)年のカープ初優勝時にも大活躍した、山本浩二&衣笠祥雄という、超強力コンビである。
山本浩二は、20代の頃は中距離打者だったが、30代を過ぎてから、長距離砲に「変身」し、
ホームラン王4度(1978、1980、1981、1983)、5年連続40本塁打以上(1977~1981)など、
プロ野球を代表するスーパースターに成長し、「ミスター赤ヘル」と称され、カープファンから圧倒的な大人気を得た。
山本浩二が打席に立つと、カープファンからは一斉に「コージ」コールが起こったが、
これが、日本プロ野球における、個人への応援の走りだと言われている。
一方、人一倍、頑健な肉体を持つ衣笠祥雄は、1970(昭和45)年10月19日以来、1試合も休まずに試合に出続け、
「連続試合出場」の世界記録達成に向け、毎年、全試合出場を持続していた。
衣笠は、どんなに大怪我をしても、絶対に試合を休まず、持ち前の豪快なフルスイングで、ホームランを連発した。
いつしか、衣笠はファンから畏敬の念を込めて「鉄人」と呼ばれるようになった(※入団当時「鉄人28号」と言われていたようだが、この頃、衣笠は本物の「鉄人」になった)。
<「広島カープ黄金時代」を率いた「名将」古葉竹識監督~「耐えて勝つ」がモットーで、ベンチの陰に半分隠れながら(?)カープを見守った名監督>
1975(昭和50)年、シーズン途中で、前任のジョー・ルーツ監督から引き継ぎ、
広島の監督に就任した古葉竹識は、見事に初優勝を達成したが、以後、1985(昭和60)年までカープの監督を務め、
その間、広島は優勝4度、日本一3度を達成した。
その古葉監督のモットーは「耐えて勝つ」というものであり、古葉監督は、まさに耐えて耐えて耐え抜いて、カープを強豪に育て上げた。
古葉監督といえば、ご覧のように、ベンチの陰に、姿を半分隠しながら(?)、
じっと戦況を見守る姿を覚えていらっしゃる方も多いと思われるが、
古葉監督曰く、この位置が最も良くグラウンドを見渡す事が出来たとの事であった。
<広島カープ黄金時代①~1979(昭和54)年…広島カープ2度目の優勝&「江夏の21球」で、広島初の日本一!!>
1979(昭和54)年、広島は、守護神・江夏豊が大車輪の活躍を見せ、2度目のリーグ優勝を果たすと、
広島と近鉄の日本シリーズでは、3勝3敗で迎えた第7戦、広島が4-3とリードして迎えた9回裏、江夏は無死満塁の絶体絶命の大ピンチを切り抜ける、「江夏の21球」という劇的なドラマで、見事に広島を初の日本一に導いた。
なお、「江夏の21球」については、以前、当ブログでも詳しく述べているので、宜しければ、お読み頂きたい。
<広島カープ黄金時代②~1980(昭和55)年…広島カープ、2年連続日本一!!~セ・リーグでは巨人以外では唯一の「2年連続日本一」>
1980(昭和55)年、広島はぶっちぎりの強さで、リーグ2連覇を達成すると、
2年連続で、広島と近鉄が対決した日本シリーズでは、広島が近鉄を4勝3敗で破り、
見事に、広島が2年連続日本一の座に就いた。
なお、セ・リーグで、巨人以外の球団が2年連続日本一を達成したのは、今の所、1979(昭和54)~1980(昭和55)年の広島が唯一の例である。
<広島カープ黄金時代③~1984(昭和59)年…広島が、1975(昭和50)年のリベンジを果たし、阪急を破り3度目の日本一!!>
1975(昭和50)年、「赤ヘル」ブームに乗り、広島カープは初優勝を達成し、
日本シリーズで、広島は上田利治監督率いる阪急ブレーブスと対決したが、
この時は、広島は阪急には全く歯が立たず、0勝4敗2分で広島は阪急に完敗し、一敗地にまみれた。
それから9年の歳月が流れ、広島カープはリーグ屈指の強豪に成長し、
1984(昭和59)年、4度目のリーグ優勝を達成した広島は、9年振りに、上田利治監督率いる阪急ブレーブスと日本シリーズで対決する事となった。
今回も、「古葉・広島VS上田・阪急」という顔合わせとなったが、果たして、今回はどちらに軍配が上がるか、注目された。
1984(昭和59)年の広島VS阪急の日本シリーズは、激闘となったが、
9年前よりも、一回りも二回りも成長した広島が、阪急を僅かに上回り、
広島が、4勝3敗で阪急を破り、見事に1975(昭和50)年のリベンジを果たし、広島が3度目の日本一の座に就いた。
なお、今のところ、これが広島カープ最後の日本一である。
<広島カープ黄金時代④~1986(昭和60)年…「炎のストッパー」津田恒美の大活躍で、広島5度目の優勝!!~「ミスター赤ヘル」山本浩二は現役引退>
1986(昭和61)年、長年カープを率いていた古葉竹識監督に代わり、阿南準郎が新監督に就任したが、
阿南監督率いる広島は、「炎のストッパー」と称された津田恒美の大活躍もあり、
シーズンの最後の最後まで続いた、巨人とのデッドヒートを制した広島が、見事に5度目のリーグ優勝を達成した。
なお、広島が優勝を決めた試合で、エース・北別府学は、完投ペースだったが、胴上げ投手を、この年(1986年)のカープ快進撃の功労者・津田に譲るという「男気」を見せた。
なお、広島と西武が対決した日本シリーズでは、広島は3連勝の後、4連敗を喫してしまい、日本一を逃してしまったが、
この日本シリーズを最後に、「ミスター赤ヘル」山本浩二が現役引退した。
<1987(昭和62)年…「2215試合連続出場」の「世界新記録」を達成した「鉄人」衣笠祥雄が現役引退>
1987(昭和62)年、衣笠祥雄が、アメリカ大リーグのルー・ゲーリッグが樹立した、「2130試合連続出場」の「世界記録」を更新し、
最終的には「2215試合連続出場」まで記録を伸ばし、この年(1987年)限りで現役引退した。
山本浩二、衣笠祥雄という、カープの「象徴」が相次いでグラウンドを去り、一つの時代が幕を閉じた。
<1991(平成3)年…津田恒美が、脳腫瘍のため戦列離脱~津田のために一致団結した広島が、6度目の優勝!!~以後、長らく優勝から遠ざかる>
1991(平成3)年、山本浩二が広島カープの監督に就任して3年目のシーズン、それまで2年連続2位だった山本浩二監督は、優勝を目指していたが、シーズン開幕早々、津田恒美が身体の不調を訴え、早々と戦線離脱した。
実は、この時、津田は原因不明の頭痛に悩まされていたが、津田は脳腫瘍という恐ろしい病に冒されていた。
その後、広島は「津田のために、何としても優勝しよう!!」と一丸となり、
広島は、シーズン終盤まで続いた中日との優勝争いを制し、広島が見事に6度目の優勝を達成した。
カープが、広島市民球場でリーグ優勝を決め、山本浩二監督が胴上げされたが、
その後、プロ野球史上初めて、球場のグラウンドでビールかけが行われ、カープとファンは優勝の喜びを分かち合った。
しかし、まさかこの後、カープが四半世紀(25年)も優勝から遠ざかるとは、一体、誰が予想したであろうか?
<1993(平成5)年7月20日…津田恒美が、享年32歳で死去~オールスターゲーム当日に亡くなり、津田晃代夫人が「最後のストライク」と称す>
津田恒美は、脳腫瘍に倒れて以来、ずっと闘病生活を続けていたが、
1993(平成5)年7月20日、津田は享年32歳の若さで亡くなり、帰らぬ人となった。
この日は、プロ野球のオールスターゲーム当日であり、そのオールスターゲームのテレビ中継で、
アナウンサーから、津田の訃報が伝えられたが、津田の奧さん、晃代夫人は、
「全国の野球ファンが注目する、オールスターゲームの日に亡くなったツーちゃん(※津田)の、最後のストライクだった」
と言って、その「最後のストライク」と題した本を、後に出版している。
<広島カープ暗黒時代と「スラィリー」…1995(平成7)年、「スラィリー」登場!!~広島は「暗黒時代」に逆戻り>
1995(平成7)年6月、広島カープ史上初の球団マスコット「スラィリー」が、
突如、広島市民球場に現れたが、謎の生物(?)「スラィリー」は、ご覧の通り、
何とも特徴的な外見であり、非常にインパクトが有った。
なお、「スラィリー」は、基本的には身体は緑色なのだが、
カープが好調だったり、大型連勝したりする際には、ご覧の通り、身体がピンク色に変わる(?)のが特徴である。
しかし、「スラィリー」登場を境に、カープは坂道を転がり落ちるように弱体化し、「暗黒時代」に逆戻りしてしまった。
<広島カープ「暗黒時代」の到来~主力選手が次々にFAで流出し、カープの屋台骨はガタガタになり、1998(平成10)~2012(平成24)年まで「15年連続Bクラス」と低迷>
では、何故そんなに、カープが弱体化してしまったのかといえば、
ご覧の通り、せっかくカープが育て上げた主力選手が、次々にFAで「流出」してしまったからである。
何しろ、カープにはお金が無い。
主力選手がFA宣言しても、引き止める資金力など、カープには無かった。
カープは、江藤智、前田智徳という、強打者を育て上げ、
2人は大活躍したが、1999(平成11)年オフ、江藤智はFA宣言し、長嶋巨人に掻っ攫われてしまった。
せっかく、自前で育て上げた主砲が去って行くのを、カープは為す術無く見送るしか無かった。
2002(平成14)年オフ、カープは、走攻守の三拍子揃った名選手、金本知憲を、
今度は、星野仙一監督の阪神タイガースに、FA宣言で掻っ攫われてしまった。
とにかく、カープにはお金が無く、この時も、金本が出て行くのを、指を咥えて見ているしか無かった。
2007(平成19)年オフ、今度は、江藤の後釜として、
カープが長距離砲に育て上げた新井貴浩が、FAで阪神に去って行った。
新井は、FAで阪神に移籍する事を表明した記者会見で、
「辛い(つらい)です…。カープが好きだから」
と、涙ながらに語ったが、カープファンからは、
「出て行かれる、こっちの方が辛いわ」
「泣くぐらいなら、出て行くなよ」
「泣きたいのは、こっちの方じゃ」
と、新井に対し、大ブーイングであった。
同年(2007)年オフには、カープがエースに育て上げた黒田博樹も、
FA宣言により、アメリカ大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースへと移籍した。
黒田は、記者会見で「広島東洋カープから来ました、黒田博樹です」と言って、
カープ出身であるという誇りを滲ませた。
ともあれ、これだけ主力が出て行ってしまっては、カープがガタガタになってしまうのも、無理はあるまい。
カープは、1998(平成10)~2012(平成24)年まで「15年連続Bクラス」と、長い長い低迷期に入ってしまった。
<2005(平成17)年…「ベースボール犬・ミッキー」が大人気に!!~カープ暗黒時代を盛り上げた功労犬(?)>
2005(平成17)年、広島市民球場に、「ベースボール犬・ミッキー」が登場した。
「ミッキー」は、審判に野球のボールを届けるなど、球場で仕事をするように仕込まれた野球犬であるが、
「ミッキー」が登場すると、広島市民球場からは、大歓声が起こった。
当時、暗黒時代に低迷するカープにあって、「ミッキー」が一番の人気者だったと言っても過言ではなかった。
なお、「ミッキー」は2009(平成21)年に、惜しまれつつ、老衰のため、11歳で亡くなった。
「ミベースボール犬・ミッキー」もまた、紛れもなく、広島カープ球団史を彩った功労犬(?)であった。
<2008(平成20)年…「さよなら広島市民球場」~カープ熱戦に舞台となった51年間の歴史に幕を閉じる>
2008(平成20)年、半世紀にわたり、カープの熱戦の舞台となっていた広島市民球場が、老朽化に伴い、取り壊される事となり、51年の歴史に幕を閉じた。
カープが強かった時も、弱かった時も、常にカープの戦士達の戦いの舞台だった、広島市民球場との別れを惜しみ、
ラストゲームには、超満員の観客が詰めかけたのであった。
(「マスコットで振り返りプロ野球史」広島編(後編)に続く)