そこには死者の影の、そのまた影があった。
文春文庫 村上春樹『レキシントンの幽霊』より
『トニー滝谷』143ページ
私は村上春樹の作品が、過去に何度か映像化されたものをほとんど
見ている。この『トニー滝谷』もそのうちに一つである。宮沢りえ
が妻とアルバイト女性という二人の重要な存在をうまく演じていた。
村上作品を完全に映像化できているかは別にして、結構好きな作品
である。この映画が好きになれたのは、むしろ作品と絶妙な距離感
を保ったことが理由なのかもしれない。
戦前戦後の難しい時代を自由奔放に生きた、ジャズのトロンボーン
奏者の父を持つ滝谷トニーは、孤独に慣れた敏腕イラストレーター
であった。彼は美術大学時代から「写真よりも精緻」な写実画を画
くことを好んだ。
まわりの青年たちが悩み、模索し、苦しんでいる間、彼は何も考え
ることもなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた。それは青
年たちが権威や体制に対して切実に暴力的に反抗していた時代であ
ったから、彼の描く極めて実際的な絵を評価するような人間は周囲
にはほとんど存在しなかった。美術大学の教師たちは彼の描いた絵
を見ると苦笑した。クラスメイトたちはその無思想性を批判した。
しかしトニー滝谷にはクラスメイトたちが描く「思想性のある」絵
のどこに価値があるのかさっぱり理解できなかった。
(122ページ)
ノンポリ批判である。ノンポリという言葉は私が学生の頃にすでに
死語となっていた。だからよくわからないが、団塊の世代の人に聞
くと、かつては考えが政治的であるか、そうでないかによって人間
は二つに分類されていたそうである。政治的なスタンスをとらなけ
れば、ノンポリと呼ばれ「いじめ」られた。批判されたのではない。
ただ単にいじめられただけなのだ。
しかしいったん大学を卒業すると、事情はがらりと変わった。その
極めて実践的な技術と、現実的な有用性のおかげで、トニー滝谷は
最初から仕事に不自由しなかった。複雑な機械や建築物を彼ほど克
明に描ける人間は誰一人としていなかったからだ。
(122~123ページ)
Industrialということばで表現され、また悪意を持って表される分
野にトニー滝谷はいる。そこのは芸術の魂のようなものが欠落して
いたが、それはIndustryな世界からは歓迎される。トニー滝谷は30
歳代半ばにして一財産を作っていた。
彼は突然恋に落ちて結婚する。その女性の希望もあって、二人は父
滝谷省三郎の演奏を聴きに行くのである。
父親のプレイはとても滑らかで、品が良くて、スイートだった。そ
れは芸術ではなかった。しかしそれは一流のプロの手によって巧妙
に作り出され、観衆を心地良い気分にさせる音楽だった。
(129ページ)
しかししばらく演奏を聴いているうちに、まるで細いパイプに静か
にしかし確実にごみが溜まっていくみたいに、その音楽の中の何か
が彼を息苦しくさせ、居心地悪くさせた。その音楽はトニー滝谷が
記憶しているかつての父親の音楽とは少し違っているように感じた。
(中略)でも彼にはその違いが重要なことであるように思えた。ほ
んの僅かな違いかもしれない。でもそれは大事なことなのだ。彼は
ステージ上がっていって父親の腕を掴み、いったい何が違うんだい、
お父さん、と問いかけてみたかった。
(129~130ページ)
詳しくは引用しないが、父が戦後中国から死なずに戻ってこれたの
は、父の非思想性ではなかったか。もし彼が戦前の罪に問われ、死
んでいれば、トニー滝谷はこの世に存在しない。父が芸術性を失っ
たのはどのような理由からなのか、何が原因なのか。いろいろと考
えを巡らすことができる。複数の答えを見つけることができる。そ
れがこの小説のおもしろいと感じる部分である。
トニー滝谷の妻は洋服を際限なく買ってしまう、今では心の病の一
種と考えられている癖があり、それが彼にとって悩みの種となる。
彼は勇気を持って、彼女に服を買い過ぎないように注意をするが・・・
トニーが彼女の不合理性に気がついたときにはすでに遅過ぎた。彼
自身もまた極めて現実的な存在から、不条理な存在へと変わってい
く。彼がアルバイトの女性に要求したことは、どう考えても変であ
る。トニー滝谷は自分が変であることを十分理解していたのである。
ときどき彼はその部屋に入り、何をするともなくただぼんやりして
いた。一時間も二時間もそこの床に座って壁をじっと眺めた。そこ
には死者の影の、そのまた影があった。
(142~143ページ)
死者の影とは「現実的」な彼の妻自身のことであり、そのまた影と
は、彼が受け入れることができなかった彼女の不条理性や非生産性
や非効率性である、そう理解しても良さそうである。アルバイトの
女性のことが彼の記憶に強く刻まれたのは、彼女が妻の不条理を何
の抵抗もなく理解してしまったことにたいする彼の畏怖ではなかっ
たか。
やがて父が死に、その部屋に今度は父が残した大量のジャズのレコ
ードが運び込まれると、トニー滝谷は再び息苦しさを感じ、レコー
ドを処分してしまう。妻が残した大量の洋服を処分したのと同じよ
うに。
洋服が大したお金にならなかったのに対して、古いレコードは「小
型自動車が買えるほどの」お金になったのは、まさに皮肉である。
真の価値とは何であるのか、トニー滝谷は最後まで理解することは
なかった。
人間は自分をたくましくさせる何かを持っていると同時に、自分を
破滅させる何かを併せ持っている。
村上春樹の作品に共通してみられるテーマである。昨日私が記事の
中で「影」と書いたものは、村上春樹から学んだ考え方である。私
だけではなく、すべての人は「自分の影」とうまく折り合いをつけ
て生きていかなければならない運命にある。
レキシントンの幽霊 (文春文庫)/村上 春樹
¥480
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文春文庫 村上春樹『レキシントンの幽霊』より
『トニー滝谷』143ページ
私は村上春樹の作品が、過去に何度か映像化されたものをほとんど
見ている。この『トニー滝谷』もそのうちに一つである。宮沢りえ
が妻とアルバイト女性という二人の重要な存在をうまく演じていた。
村上作品を完全に映像化できているかは別にして、結構好きな作品
である。この映画が好きになれたのは、むしろ作品と絶妙な距離感
を保ったことが理由なのかもしれない。
戦前戦後の難しい時代を自由奔放に生きた、ジャズのトロンボーン
奏者の父を持つ滝谷トニーは、孤独に慣れた敏腕イラストレーター
であった。彼は美術大学時代から「写真よりも精緻」な写実画を画
くことを好んだ。
まわりの青年たちが悩み、模索し、苦しんでいる間、彼は何も考え
ることもなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた。それは青
年たちが権威や体制に対して切実に暴力的に反抗していた時代であ
ったから、彼の描く極めて実際的な絵を評価するような人間は周囲
にはほとんど存在しなかった。美術大学の教師たちは彼の描いた絵
を見ると苦笑した。クラスメイトたちはその無思想性を批判した。
しかしトニー滝谷にはクラスメイトたちが描く「思想性のある」絵
のどこに価値があるのかさっぱり理解できなかった。
(122ページ)
ノンポリ批判である。ノンポリという言葉は私が学生の頃にすでに
死語となっていた。だからよくわからないが、団塊の世代の人に聞
くと、かつては考えが政治的であるか、そうでないかによって人間
は二つに分類されていたそうである。政治的なスタンスをとらなけ
れば、ノンポリと呼ばれ「いじめ」られた。批判されたのではない。
ただ単にいじめられただけなのだ。
しかしいったん大学を卒業すると、事情はがらりと変わった。その
極めて実践的な技術と、現実的な有用性のおかげで、トニー滝谷は
最初から仕事に不自由しなかった。複雑な機械や建築物を彼ほど克
明に描ける人間は誰一人としていなかったからだ。
(122~123ページ)
Industrialということばで表現され、また悪意を持って表される分
野にトニー滝谷はいる。そこのは芸術の魂のようなものが欠落して
いたが、それはIndustryな世界からは歓迎される。トニー滝谷は30
歳代半ばにして一財産を作っていた。
彼は突然恋に落ちて結婚する。その女性の希望もあって、二人は父
滝谷省三郎の演奏を聴きに行くのである。
父親のプレイはとても滑らかで、品が良くて、スイートだった。そ
れは芸術ではなかった。しかしそれは一流のプロの手によって巧妙
に作り出され、観衆を心地良い気分にさせる音楽だった。
(129ページ)
しかししばらく演奏を聴いているうちに、まるで細いパイプに静か
にしかし確実にごみが溜まっていくみたいに、その音楽の中の何か
が彼を息苦しくさせ、居心地悪くさせた。その音楽はトニー滝谷が
記憶しているかつての父親の音楽とは少し違っているように感じた。
(中略)でも彼にはその違いが重要なことであるように思えた。ほ
んの僅かな違いかもしれない。でもそれは大事なことなのだ。彼は
ステージ上がっていって父親の腕を掴み、いったい何が違うんだい、
お父さん、と問いかけてみたかった。
(129~130ページ)
詳しくは引用しないが、父が戦後中国から死なずに戻ってこれたの
は、父の非思想性ではなかったか。もし彼が戦前の罪に問われ、死
んでいれば、トニー滝谷はこの世に存在しない。父が芸術性を失っ
たのはどのような理由からなのか、何が原因なのか。いろいろと考
えを巡らすことができる。複数の答えを見つけることができる。そ
れがこの小説のおもしろいと感じる部分である。
トニー滝谷の妻は洋服を際限なく買ってしまう、今では心の病の一
種と考えられている癖があり、それが彼にとって悩みの種となる。
彼は勇気を持って、彼女に服を買い過ぎないように注意をするが・・・
トニーが彼女の不合理性に気がついたときにはすでに遅過ぎた。彼
自身もまた極めて現実的な存在から、不条理な存在へと変わってい
く。彼がアルバイトの女性に要求したことは、どう考えても変であ
る。トニー滝谷は自分が変であることを十分理解していたのである。
ときどき彼はその部屋に入り、何をするともなくただぼんやりして
いた。一時間も二時間もそこの床に座って壁をじっと眺めた。そこ
には死者の影の、そのまた影があった。
(142~143ページ)
死者の影とは「現実的」な彼の妻自身のことであり、そのまた影と
は、彼が受け入れることができなかった彼女の不条理性や非生産性
や非効率性である、そう理解しても良さそうである。アルバイトの
女性のことが彼の記憶に強く刻まれたのは、彼女が妻の不条理を何
の抵抗もなく理解してしまったことにたいする彼の畏怖ではなかっ
たか。
やがて父が死に、その部屋に今度は父が残した大量のジャズのレコ
ードが運び込まれると、トニー滝谷は再び息苦しさを感じ、レコー
ドを処分してしまう。妻が残した大量の洋服を処分したのと同じよ
うに。
洋服が大したお金にならなかったのに対して、古いレコードは「小
型自動車が買えるほどの」お金になったのは、まさに皮肉である。
真の価値とは何であるのか、トニー滝谷は最後まで理解することは
なかった。
人間は自分をたくましくさせる何かを持っていると同時に、自分を
破滅させる何かを併せ持っている。
村上春樹の作品に共通してみられるテーマである。昨日私が記事の
中で「影」と書いたものは、村上春樹から学んだ考え方である。私
だけではなく、すべての人は「自分の影」とうまく折り合いをつけ
て生きていかなければならない運命にある。
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