——狭いから人を刺した。
新潮2010年11月号 藤沢周『分身』198ページ

のっけからすごい引用文だが、過激な小説ではない。過激では
ないが、恐ろしい小説である、とはいえるだろう。

藤沢周さんは1959年新潟生まれ。現在法政大学で教鞭を執
氏の代表作である『ブエノスアイレス午前零時』で芥川賞を受
賞している。大学では日本近代文学を教えている。

――狭いから人を刺した。
(198ページ)


これは高校卒業の際の寄せ書きである。卒業後32年目の同
窓会で、担任の先生が持ってきたものだ。

「おまえらの寄せ書きは、ロクなもんじゃない」
当時から髪の薄かった担任は、ほぼ禿げ上がった頭をチョ
ーク胼胝(だこ)のできた指で掻きながら笑う。
「今も、こんなもんらろう」といったのは、男である。
照れや自意識、自己愛や絶望が飽和して、浸された角砂糖
のように今にも崩れそうな脆さを愛おしく思えるのも、中
年。もはや、高校時代の自分達が他人ほど遠いからこそ、
今、同じなんだ、と冗談がいえる。
(198~199ページ)


確かに高校時代は遠い。卒業から25年ほどたった私にもそ
れは遠い過去になった。夢の中でそれが一時よみがえるこ
とはあっても、もうその頃自分が何を考えていたのかは自
分の書いた日記やらノートを見てもよくわからない。

だからその頃犯した罪も笑って済ませるものなのだろう。

のどかなようで、ちょっとした拍子に暴発する危うさを孕
んでいるのを思ったのだろうか。
(200ページ)


それは過去のことなのだろうか。男は同窓会の帰りの新幹
線が、トンネルに入ったときに、妙な感覚に襲われる。息
苦しさを覚える。それは閉所恐怖症からくるパニックに近
い症状であった。

単純に、トンネルの中に突然吸い込まれ、いきなり車内が
狭くなったように感じられたせいだ。情けない。ほんの些
細な気分のボタンをかけ違えただけで、喘息を起こしそう
になるほど、繊細な一〇代でもあるまいに。
(201ページ)


パニック症を持っている人はみな自分自身と戦っている。
そして負ける。もう一人に辛辣な自分がいて、容赦ない非
難を浴びせてくる。それが自分自身を心理的に追い込んで
しまう要因なのであるが。

そんな辛辣な価値観もまた、自分の分身であり、その価値
観は自分に向けられるのと同じように外に対しても向けら
れる。

「おまえ、何、やってんだよッ」
「それでも男なのッ」
「何でこれしきのことが耐えられないんだ?」
「最初から入ってこなければいいのに、もうッ」
「使えねえ」
(202ページ)


こんな声を自分が発しているから、自分にも向けられるの
である。しかし残念ながらそのような価値観を容易に捨て
ることはできない。だからパニック症候群は治りにくいの
かもしれない。

海は窮屈だ、
(206ページ)


日本は新潟に限らず海岸線と高い山に挟まれた狭い土地で
生活を営んできたのだ。「海は広い」という考え方は、海
から外に出られることが前提である。そうでなければ海は
壁に等しい。

レッド・ツェッペリンもルー・リードも好きだったが、ま
た何も好きでなかった自分がいたのに違いない。
(206ページ)


自分を苦しめる価値観を受け入れている現実的な自分と、
それを非とするもう一人の自分。その自分が高校三年生の
寄せ書きに「狭いから人を刺した」と書いたとすれば、そ
れは自分を刺すのか、人を刺すのかの違いだった、という
ことになる。

変な納得の仕方なのかもしれないが、自分のパニック症が
なかなか治りきらないのは、自分が人を刺すことをしない
反対給付なのではないかと思った。一般論ではない。パニ
ック症候群に悩んでいる人でこれを読んで不快に感じたな
ら、どうか許してほしい。

私は自分の影と闘い続ける。負けても影は立ち去らない。
すぐ次の試合が行われるのだ。だから私はまた影に向かっ
ていかねばならない。その影と折り合いをつけることがで
きるのは医者でも薬でもなく、やはり自分だけなのである。

影との争いを終わらせることはどうやらできそうにない。
しかし、何とか引き分けに持ち込むことはやってみる価値
がありそうである。「うまく折り合いをつける」とはそう
いう意味だ。

こういう小説を読むと何となくだが、励みになる。

新潮 2010年 11月号 [雑誌]/著者不明

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