【10】自己憎悪社会 ~《現代化された貧困(根源的独占)》と「社会的ネットワークの根」~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


【関連記事】
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〇【19-⑨】〈分業社会〉に突きつけられた《福井豪雪》【監視-AI-メガFTA-資本】
〇【6】「土壌(地表)」――素晴らしき哉、この“複雑系”なる世界
――――――――――――――――――――――

“医療破産したある女性は、取材のなかで私に言った。

一番こわいものは
テロリストでも大不況でもなく、
いつの間にか
私たちがいろいろなことに疑問を持つのをやめ
気づいた時には
声すら自由に出せない社会が
作られてしまうこと
の方かもしれません」”
(堤未果【著】『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』
岩波新書、2010年、213頁)

――――――――――――――――

無知無関心は、
「変えられないのでは」という恐怖を生み
いつしか無力感となって私たちから力を奪う
だが目を伏せて口をつぐんだ時、私たちは初めて負ける
のだ。
そして大人が自ら舞台を降りた時が、
子供たちにとっての絶望の始まりになる

(堤未果 『貧困大国アメリカ』2008年、岩波新書、206頁)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

今回も、いま少し
貧困の現代化/根源的独占》について
見ていきたいことがある。

ただし今回は、
”社会的ネットワーク”との関係で
《貧困の現代化(根源的独占)》を見ていく。

それに当たり、その前に、
私たちの「日常の繰り返しパターン」と
「社会的ネットワーク」との関係性
で、
見つめて確認したい点がある。

ーーーーーーーーーーーーーー

私たちは、
日々、“無数の人々が影響しあっている
この複雑な社会”にあって、
社会の実態は複雑であるにもかかわらず、
私たちは、誰もが、
複雑な社会全体を把握せずして、
日々を営むことが出来ている。
なぜ・どうして、私たちは、
日々の行為や営みに対しては
疑問をもたずに、

日々の営みをこなせるのだろうか。

それは、
私たちが日常を営むにあたって、
毎日、繰り返し(反復し)て使える
「繰り返しパターン定型」「ノウハウ」
「慣行・ルーティン」を、
学習している・身につけている
からだ。

たとえばお子さまは、
「日常における家族との共同生活」を通して、
言葉の使い方も、生活の仕方の何もかもをも、
生活における「慣行・ルーティン作業」
「繰り返しパターン」
(「生活のノウハウ」)
「毎日反復のきく定型行動」のひとつひとつを
学習して身につけている

それは家庭内だけでなく、
家の外に出れば、
家の外でいろんなことを学んでくる。

昨日も今日も明日も反復のきく、
「慣行・ルーティン作業」「繰り返しパターン」
「定型行動」
(以降「「繰り返しパターン」」という表現にまとめる)
これら「繰り返しパターン」を獲得することで、
複雑な社会全体の動きが、どうなっているのか
その全体を把握していなくても私たちは、
作業も時間も組み立てることができる。
この「繰り返しパターン」を
創造的に組み合わせたり、
定型の基本的手順をつくる事で
時間を作ったり・確保することができる。


それだけでなく、私たちは、
いくつもの
「反復のきく定型のルーティンや慣行」、
「繰り返しパターン」を持ち、
それらを駆使しつつも

同時に他方では、自分の日常に、
何か新しいもの・要素”が、
新しい繰り返しパターン》として加えられる
ことがある。

いかに日常が徐々に変わっているか、
振り返ってみると、
20年前には“ツイッター”は無かった。
今日では、スマートフォンが無いと、
むしろ不便になっている。
1990年中頃、トイザらスなどの侵入に
日本の小さい商店は恐れていたのが、
今では、そのトイザらスがAmazonに倒された。

11】プラットフォームによる支配《監視社会=人工知能=プラットフォーム=メガFTA=資本》



私たちは、新しい要素》も、
繰り返しのきく「繰り返しパターン」に
取り込んでいる


その意味で、
私たちのこうした日常作業のあり様を、
"複雑系経済学”という学問分野をつくった
塩沢由典氏は
反復とゆらぎのある定常過程」と言っている。

「慣行・ルーティン作業」「繰り返しパターン」
「定型行動」
というのは、
この塩沢由典氏による『複雑系経済学入門』から
拝借した述語である。

ゆらぎ”というのは、何か編成や変化、
何かを新しいものを取り入れている様子
をも言う。

"複雑系経済学”では、
経済(活動)は
「基本的な過程の繰り返し」で成り立っている

という前提に立っている。
というのは、人は、
世界全体の動きを把握できるような
全知全能の合理的経済人ではなく
視野にも情報処理能力や計算力にも
働きかけにも、限界があるからだ。
逆にいえば、
そうした限界があるからこそ、
複雑な社会のなかで、人は、
自分の動作や行動・判断をするために、
適切な「反復のきく繰り返しの定型」の蓄積を獲得している
のだという。



“わたしたちの日常生活を振り返ってみましょう。
朝起きて夜寝るというのも、ひとつの繰り返しパタンです
朝起きて、仕事に出掛けるまでにすること、
たとえば、新聞を読む、朝食を取る、身繕いをする、
時計を腕にはめ、
筆記用具とハンカチと定期券とティッシュペーパーを
あちこちポケットに入れる、
これらもみな、反復される行動です。

 会社の仕事として典型的な、事務の仕事でも、
事情は同じです。
ひとつひとつの仕事に手順があり、
必要な要件ごとに、手順にしたがって書類が処理されます

やってくる仕事の種類が多く、
いつどの仕事が飛び込んでくるか分かりませんが、
その一つ一つについて見ますと、
たとえ一件ごとに固有の判断を要請されるにせよ、
その作業がきわめて定型的で類型化されていることは
驚くべきことです。

 程度の差はありますが、
おおくの人にとって、仕事の大部分は、
いわゆるルーティンの仕事です。
創造的と思われるファッション・デザイナーなどにとっても、
この事情は変わりません。
一枚一枚の服は新しいアイディアによるものであっても、
デザイン画から、生地の選定、裁断、縫製、着付けにいたる作業は
明確な手順があり、それによって仕事が分担されています。
こうした基本的な手順に反復の要素がなければ、
どの仕事にどのくらいの時間が必要になるかの見通しも立たず

さらにはコレクション発表の予定も建てられないことになります。

 もう少し視野を大きくとって、
一つの企業の仕事の全体をみても、
同様の反復が見られます。
そこには多くの仕事が、長短のリズムに従って、
同時並行的に進められています。
しかし、
ある製品の生産と販売に関連した仕事をたどってみると、
そこにはある定型化された仕事の体系が見えてきます。
関係する仕事はじつにたくさんあります。
生産そのものの組織の他、原材料の発注、在庫管理、
人員計画、費用支払い、発送・納入、代金の請求と領収、
各種帳票への記入と発給、など多数の仕事が付随しています。
これらは、しかし、
仕事ごとにどのような処理が必要か、
あらかじめ決められています

そのような規則化が可能になるのは、
仕事の内容に反復・繰り返しがあり、
必要な処理が類型化されているから
です。”
(塩沢由典【著】『複雑系経済学入門』
生産性出版、1997年、345-346頁)


ビル・ゲイツのマイクロソフトのOS「Windows」が
またジェフ・ベゾスのAmazonのサービスが、
世界中の先進諸国の
日常の定常過程」に重要に入り込み
《スタンダード化》したこと

彼らは、世界的な富豪になっている。

ブライアン・アーサーの進化経済学の影響を
受けている塩沢由典氏の複雑系経済学でも
「連結の効果」
「デ・ファクト・スタンダード」
「互換性」

という概念を使って、
ある製品が市場で席巻するプロセスや様子の説明をしている。

インターネット配信で映画を観る今日の人にとっては想像しにくくなっているかもしれないが、
むかし、ビデオという録画機器の製品市場をめぐって
β(ベータ)方式のビデオとVHS方式のビデオとで、
どちらがビデオ市場を支配するか、経済競争があった。
β方式とVHS方式とでは、
サイズや規格が、何もかも異なり
β方式の機械で、
VHS方式のビデオソフトの録画も再生もできず、
逆もまた然りで、
機械とソフトとが一致する必要があった

初期の段階では、
ベータ方式のほうが録画に優れている、
という評価があった。
しかし、
ビデオ市場で勝利したのはVHS方式であった。
VHS方式が勝利した決め手は
「互換性」の面で豊富化したからだ
、という。



“そのころ、VHSでは片道2時間の録画可能なテープがありました。
これがスポーツ放送の録画に便利というので、
北米ではVHSがやや優勢でした。
ヴィデオ・パッケージが作られるようになると、
より売れる方式というので、VHSのソフトが増えました。
これは売る側の事情です。
ところが、これが今度は、ソフトが豊富だというので
使う側にVHS方式の機械を買わせることになりました。
こうして、VHSとβの差がどんどん広がって、ついに数年まえ、
β方式を開発したソニーもβ方式の機械の製造を停止して、
β対VHSの戦いはVHS方式の完全な勝利に終わりました


 この話で特異なのは、
VTRが市販のヴィデオ・テープと関係をもっていたことです。
ヴィデオ・デッキとヴィデオ・カセットとは、
おなじ方式によるものでなければ使うことができません
(中略)
・・・VTRの場合、市販のビデオ・カセットが使えなえれば、
VTRとしての機能が半減してしまいます。
これが、二方式の一方を完全勝利に導いた大きな原因
です。


〈連結の効果とデ・ファクト・スタンダード〉

 互換性は
もともと小銃などの部品交換の可能性を与えるために生まれた概念です。
ところが、
情報機器の一般化によって、
完成品同士の互換性が問題にされるようになってきました。
このような互換性が必要な商品では、
どの方式が一般に採用されているかが
商品の利用可能性を大きく左右することになります

このようなことは、VTRに限りません。
パーソナル・コンピュータの場合も、同じです。

 現在パソコンの世界では、
マイクロソフト社のウィンドウズが
OS(操作システム・ソフト)の七割を占めている
といいます。
それは、
ウィンドウズが世界的に普及していて、
ウィンドウズを使えば、
全世界のいろいろなアプリケーションソフトが利用可能になる
からです。
CPU(中央演算処理装置)の八割はインテル社が占めており、
マイクロソフト社とインテル社の連合はウィンテルと略称されて、
パソコン業界の覇者となっています。
パソコン業界の開拓者であったアップル社は、
こうした市場の激変に対応できずに、企業業績の悪化に悩んでいます。

 利用・使用の側面で、
このような連結の効果が出てくると、
上のように、相互に助け合って、
ある一方式が圧倒的に有利になること
があります

これをデ・ファクト・スタンダードといいます。
協定などで決めた標準でないのに、
このように連結の効果により、
他の方式の参入がきわめて難しくなっていて、
事実上の標準化が成立している
からです。
このようなことは、
商品がそれぞれに独立に使用され、
その有用さが商品固有の性質によっている間は起こらなかったことです。
連結の効果が
消費者ないし使用者の手において発生するようになった
ため、
従来の商品需要とまったく異なる動きをするようになりました。

 ブライアン・アーサーは、
この利用の側面における連結の効果をも収益逓増と呼んで、
デ・ファクト・スタンダードの説明をしています。”
(塩沢由典【著】『複雑系経済学入門』
生産性出版、1997年、358-360頁)


そこで、
私たちの日常における、
〈繰り返しパターン/反復的定型〉と
〈テクノロジー〉との関係性や繋がり
について、
ある“非常事態への遭遇”を通して、
確かめてみたい。

たとえば、
病院の日常業務や作業における〈繰り返しパターン〉と、その〈繰り返しパターン〉の日常作業に占める“デジタル機器やパソコン(テクノロジー)の位置の大きさ”について、である。


【特集】サイバー攻撃と戦った公立病院の2か月間
『電子カルテが暗号化』
過去の検査結果も病歴もわからず
...手書き対応にも苦労(2021年1月

記憶喪失になった病院
ーサイバー攻撃に直面した48時間ー

ハッカーが人を殺す日
……サイバー攻撃の新たな脅威


私たちの日常は
〈反復パターン〉の獲得・確保によって
支えられている
ことを見た。

「互換性」をより獲得する等により、
より広く、より多く、より深く、
より多くの人によって
“共有される”事になる、
或る「定型パターン」の行動様式や思考様式が、
世間でシェアを広げ、浸透化し、
スタンダード化すればするほど、
その「定型パターン」行為を
行なうに当たっての、
その使用・利用を“前提とする”
《テクノロジー》やツールも、
同じく「標準化」や「スタンダード化」すること

同時に意味する。

そのことは、
さきほどの、
病院の《パソコンやサーバー》へのサイバー攻撃による、病院の“記憶喪失化や日常業務の停止化”を、 その一例として確認した。


ここで、
広い意味で「技術」というものを、
次いで、
“(社会的)ネットワーク”の視点で、
捉えなおしてみたいと思う。

――・――・――・――・――

哲学者の村田純一氏は、
技術に対する哲学的考察を通して、
〈技術〉と〈社会の在り方〉とには
“不可分な相互関係/「間」”があり、
かかる技術が、
社会や文化的脈絡の影響作用を受け

また場合によっては
政治的選択や政治的価値判断の決定を受けている
と指摘・主張している。
その事から、
技術は、それを取り囲む社会的・文化的文脈から切り離されて、独立して存在しているものではなく、
非-中立的なもの、という。
というのは、
技術の変化には、
ブライアン・アーサーの主張と同じく、
恣意性、偶然性、拡大と縮小などの両義性など
見受けられるからだ、という
恣意性や偶然性をしめす事例として
村田氏は「風車」という技術を挙げている。
というのは、時代と地域によって、
〈その使われ方が異なる〉
からだ。
たとえば、チベットでは祈祷に使われ、
アフガニスタンでは粉ひきの為に使われるが、
中国では粉ひき用には使われず、
ポンプや運河の水門を引き上げる為には使われる、
というように、
〈それぞれ違った風車が存在していた〉として、
技術とその社会的・文化的文脈の不可分性と
地域や時代による恣意性や偶然性
を、
説明している。

また、このブログでは
政治経済学者のスーザン・ジョージによる
《緑の革命》テクノロジーの
《非-中立性》や《恣意性》を、
見たことがある。

19-⑤】《技術》としての"緑の革命"~技術は「中立的」か?~【監視-AI-メガFTA-資本


 村田氏は、
マルクスたちが行なった
〈道具〉と〈機械〉との区別を取り上げながら、
その内容の修正・批判をしている。

道具とは、
職人が行なう際に使う器具で、
一方の機械とは、
その道具を使いこなす職人の熟練(人間の手)を
《前提としない作業を可能にするもの》で、
水車工場などの大工業では
自然条件の制約からも《自由になっている》。
たしかに、
マルクス『資本論』よりは新しい本で、
職人の熟練を必要とせず、
人が画一化された互換性部品であるかのように、
〈作業のマニュアル化などの仕組み〉が紹介された
ジョージ・リッツア『マクドナルド化した社会』
というベストセラー本があった。
また、今日における
グローバル化やアウトソーシング、
また、Uber(Eats)などのシェアリング・エコノミーを可能にしている性質として、
この《熟練を必要とせず》、
《自然的条件の制約からの自由》を
確認することができる。

ただし、
村田氏は、
道具と機械とを
“抽象的に”区別しようとする試みは成功しない、
という日本近代技術史家の三枝博音氏の主張を
引用しつつ、
道具や機械が置かれている《社会的文脈》を、
視野や入れて考える必要がある重要性を指摘する。


“…三枝博音自身も、
道具と機械を区別するさまざまな考え方を検討したうえで、
道具と機械とを抽象的に区別しようとする試みはすべて成功しない
とみなしている。
そして、
「わたしは
道具といわれるものの中に機械の機構性があることを認め、
他方において機械のうちに
道具が構成因子となっていることを知らねばならないのだと思う。」
と述べた後に次のように主張している。
「現代の機械の持つ純然たる機構性は、
機械がその中へ置かれている今日の産業形式や政治形式と
独立に考えられるべきものではない
ことを提言したいと思う。」
換言すると、
「道具」と「機械」という言葉で象徴されている区別に
意味を見いだそうとするには、
それぞれ単独の「もの」の構造を比較したり、
人間――手段という関係をそれだけ単独で考察するのではなく、
より広い社会的脈絡の中において考える必要があるのである。

 確かにマルクスは
機械制大工場が、
それ以前のマニファクチャーと比較すると、
社会的、自然的脈絡から相対的に独立であることを強調した。
しかし、このことは、
マニファクチャーから大工場制へと
生産における社会的関係が大きく変化する過程で、
「機械」が重要な社会的意味を持ったことを
否定するものではないし、
それがどんな環境でも直ちに操業可能となったことを
意味するわけでもない。
このような社会的変化の過程で
機械が人間の手から独立するということは、
生産手段が一部の人間に占有される過程、
そして他方で、
自らの道具を用いて仕事をし、同時に商売をする
という職人的労働のあり方が解体される過程を示している。
したがって、
社会環境の準備が整わない時に機械が持ち込まれると
多くの混乱をもたらすことになることは、
機械によって職を失うことを恐れた手工業者たちによるラダイムズなどが典型的に示している


 さらに、機械制大工業の技術は、
伝統的な技術と同じ社会的、自然的脈絡への依存関係は
持たないにしても、
別な新しい形で、
それに代わる広大な社会的、自然的なネットワークを形成しなければ、
機能し得ないこと

このことは技術移転の例などがはっきりと示している。

 中岡哲郎は
日本の明治初期における製鉄業と紡績業の導入の例に即して、
近代化の過程での機械制大工業の導入が、
それまでの技術を支えていた自然的、社会的リンクを
一つ一つ切断して
それに代わる新たなリンクを形成する過程であったこ
とを
印象深く描いている。
釜石製鉄所における製鉄技術の確立過程の分析をふまえ、
中岡は次のように述べている。

〈「釜石に近代製鉄業が発展し、
コークス銑鉄にとってかわられていく、一つ一つの過程は、
同時にまず伝統的たたら業者が姿を消し、
次に製鉄と木炭産業や牛馬輸送のリンクが断ち切られ
釜石の製鉄業が発達した交通を媒介に、
はるかに遠い炭鉱や機械工業地帯との間に
強力なリンクを確立していく過程
であった。
それと同時に周辺山村の商品経済の発展はとまり
以後それらの山村は、
日本でも有数の僻地として取り残されて行く
のである。」〉

 同じことが紡績業についても見られる。
近代的紡績工場に見られるような機械に
全面的に依存した技術であっても、
「機械を操作し保守する労働者の訓練」
「材料と製品と操業方法の組み合わせに関する技術者の能力」
といった直接的前提のほか、
「機械工業を中心とする関連工業の広がり」
「交通の発達の度合いと立地」
「経営者と労働者の質またはそれらを包んでいる社会的文化」
などの社会的基盤に支えられなければ実現しえない
のである。

 これらの技術移転の事例は、
一方的な技術決定論が誤りであると同時に、
技術の在り方が経済や社会のあり方によってもっぱら規定される
という社会決定論もまた成り立たないことを示している。
例えば、
機械制工場が機能するには、
経営者や労働者の仕事の仕方が変化しなければならないが、
その変化にあたり、
機械と機械が置かれた工場の要求する秩序が、
仕事の規律に対する「正当化」の根拠として機能することもあるからである。
機械が機械で「ある」というそのこと自体が、
技術とそれを支える社会とが作るネットワークによって
可能になっている
のであり、
他方、
そのような社会の「存在」もやはり、
社会的な要因と技術的な要因との両方から成り立っているのである。
このような意味で、
機械技術の場合にも、
技術は技術と社会の「間」にある本質的に両義的存在なのである。”

(村田純一「技術の哲学」
『岩波講座 現代思想13 テクノロジーの思想』所収、
岩波書店、1994年、20-22頁)

――――――――――――――

社会哲学や開発学を専門とする中野佳裕氏は、
約170年もの歴史のある和菓子店を、
実家に持っていたことを、
御著書の『カタツムリの知恵と脱成長』(コモンズ)
のなかで紹介している。
江戸時代末期から続いていた
「中野昌晃堂」という和菓子店は、
山口県の室積半島という地理的条件と
そこの歴史的条件と地域の人々の営みと
職人の熟練と関連産業が供給する道具との
積み重ね・折り重なりであることが分かる。
それは、
先ほどの《マクドナルド化》や《グローバル化》などの術語で説明されるような今日とは、
まったく異質の構成要素や条件にもとで
成り立っていた空間、のように見える。

「中野昌晃堂」という和菓子店の造りは、
江戸時代に宮大工によって建てられ、
建て方も、使われた建築資材も、建物の構造も、
江戸時代の構造
を帯びている。
釘は一本も使われず、
地震の際には、
建物が揺れる形で地震の衝撃を分散させ、
空調などの調節管理は、
海風を利用した造りになっている
、という。


今日の我々の周囲環境や日常と、
中野昌晃堂、という和菓子店や、
その和菓子店が作ってきた名物和菓子の
「鼓乃海(つづみのうみ)」とを比較した場合に、
その和菓子店と和菓子とが教えてくれることは、
その地域の歴史風土と
和菓子職人の熟練経験とによって
“形成され・条件づけられた”
「他に替えのきかない唯一性」
を持っていた、
ということのように私は思う。

名物であった「「鼓乃海」という饅頭じたいが、
その室積半島の地理性と歴史性、
和菓子職人の熟練経験と、
職人の「身の丈の制約」など
重層的に様々なものを帯びた
伝統的な和菓子であった
、のではないか。



“〔和菓子の〕製造場で見る「鼓乃海」の価値は、
一つの記号で表すことができるものではなかった

その価値は実に多義的である。
それは幾重もの有形・無形の技術の結晶であり、
江戸時代の室積半島の交易の歴史と文化の産物であり、
この和菓子の味と形が
長年にわたって
多くの人びとから信用を得られていることへの敬意
であった。”
(中野佳裕【著】『カタツムリの知恵と脱成長』
コモンズ、2017年、87-88頁)

さきに、
中岡哲郎氏の叙述を引用した、
先ほどの村田純一氏による
技術に“まつわる”
「社会的、自然的脈絡とのネットワーク関係」
の論点で、次の引用を見ると、
今日の《現代化された貧困》の度合いの深刻さ
感じざるをえない。
この《現代化された貧困》は、
シモーヌ・ヴェイユが『根を持つこと』で
根こぎ現象》と呼んだ近現代の状況
或る種、重なるかもしれない。

歴史や伝統から完全に切り離された
根こぎ現象/根なし草状況》のなかでは、
人は“破壊への誘惑”に向かいやすくなる

という、あの警告。

また、「」に関して、ちなみに、

イヴァン・イリイチが使っていた述語で、
土着の”“その土地固有の”という意味をもった
ヴァナキュラー【vernacular】」という言葉がある。

この「ヴァナキュラー」という言葉は、
ラテン語で「家を養う、家で紡ぐ、
家で成長する、家でつくる」という意味の言葉で、
〈市場で交換するもの〉とは異なり、
自律的で、使用価値のあるもので、
日々の生活の必要を充たすもの

というニュアンスでイリイチが使っていたが、
「ヴァナキュラー【vernacular】」の
インド=ヨーロッパ語での元々の意味は、
根づいた(rootedness)」とか
「居住する(ebode)」であった、という。

歴史や風土地理性、
身体的制約や熟練などの「条件」は、
一面では、制約ではあるものの、
他方で同時に
「自分たちの唯一性」や
「自分のかけがえのなさ」
その土地に生きる基盤としての「根を張ること」を
支えるもの
であったのではないか。



“都会の生活に憧れる一方で、
自分のアイデンティティが
室積半島特有の風土に深く根差していたこと

否定できない事実である。”
(中野佳裕、『カタツムリの知恵--』、86頁)

それが、この約150年以内に、
私たちの「根づく生命力」は
根こそぎにされた
のかもしれない。
(祝島がある瀬戸内海にも日本にも、
この地球上の何処にも
原発も核処理施設も核のゴミも、要らない)

そうした《根なし草》状況の下では、
人びとは《全体主義》に傾いてしまう


この点に関して、興味深い共通点として、
カール・ポランニーが『大転換』を書いた動機は、
〈なぜ社会がファシズムに至ったのか?〉、
その根源を歴史的に探ること
であった。

(「ドイツのファシズムを理解するためには
リカード時代のイギリスに立ち戻らねばならない
。」
カール・ポランニー【著】/ 野口 建彦・栖原 学【訳】
〈新訳〉『大転換』2009年、東洋経済新報社、50頁)
26-b】②デヴィッド・ハーヴェイ《あらゆるものの商品化》 ~AI-メガFTA-資本~
22】「悪魔のひき臼」〈②「成長」という"幻想”!?〉 ~監視-AI-メガFTA-資本~


中野氏は、「地域」について考えるとき、
複数の陸地や島を多様なままに結ぶ内海のイメージ」だという。

この「ネットワーク状の多様な根」の
一つ一つが切断されていく
ような様子を、
中野氏の叙述から垣間見ることができる。



饅頭を包む和紙は愛媛県の和紙職人が、
箱の包装紙は京都の職人が作っていた。
これら西日本に広がる伝統職人業のネットワークに支えられて
「鼓乃海」は地元で愛される伝統和菓子として
細く長く生き残ってきた
のだ。
ところが、
日本が構造的不況に突入した1990年代ごろから
原材料の入手は困難となり
愛媛や京都の職人も後継ぎがいなくなった。
饅頭を伝統ある形のまま残すことが不可能となっては、
続けていても仕方ない

父親の健康状態も悪化した2015年12月末、
約150年に及ぶ和菓子屋の歴史は終了した。”
(中野佳裕【著】『カタツムリの知恵と脱成長』
コモンズ、2017年、87頁)

哲学者の三木清は、
西田幾多郎の哲学の影響を受けて、
人間は、
社会環境を含めた自分の周囲という環境に対して、
自分が働きかけ作ると共に、
同時に逆に、

その環境から働きかけられ作らる存在だといった。

人間は
つくり・つくられる関係にある環境を
みずから形成することによって
自己を形成していく存在
であるが故に、
生命」的な営みは、
自己の周囲との関係を育て上げる力」だという。


”一方、どこまでも環境から限定されながら
同時に他方どこまでも自己が自己を限定する
という
即ち自律的である。
(中略)
我々は環境から作用され逆に環境に作用する、
環境に働きかけることは同時に自己に働きかけること
であり、
環境を形成してゆくことによって自己は形成される。
環境の形成を離れて自己の形成
を考えることはできぬ。”
(三木清【著】『哲学入門』
岩波新書、1940年、7-8頁)

その地域に「根」づいた
地理歴史的蓄積によって形成された
「ヴァナキュラーな根っこをもった
環境」
グローバル化やテクノロジー
効率主義や市場の論理など
によって、
ひとつ一つ剥ぎ取られ
世界のドコでも構わない
アウトソーシングの下請け先の、
コスパと都合の良い一つの場所
でしか
無くなっている
時、
私が形成/限定し・私が形成/限定される「環境」喪失し、
その環境との相互作用関係としての「生命」
すでに失っているのではないか?

「ヴァナキュラー」な性質の「根」や「環境」失うのと軌を一にして
《現代化された貧困》の要素や性質が強いテクノロジーの一つひとつが、私たちの〈日常の定型パターン〉の多くを占めるようになっている
とき、
「生命力」の脆さと《無力さ》を思わざるを得ない。

「根」をも奪われた人間は
環境からの限定を受けない点でも
様々な限定から解放された”バラバラの大衆”として
全体主義に傾きやすくなっているかもしれない。

スピノザの哲学から、
精神分析家のエーリッヒ・フロムは、
人の生き方や生き様が、建設的か否か
また自由か否かを、
生産的能動性」か「受動性」かに分けた。

「根」を奪われ、
状況に翻弄される我われ現代人
は、
“受動的”な存在ではないだろうか。

B【0-L】「能動的情動」状態・「自由」「自己愛」を獲得せんとする《荊の道》~フロム『悪について
〇【12】〈序〉K・ポランニー「政治と経済は本質的に宗教的/人格に関するテーマ」

<底なし!金喰い万博>【山田厚史の週ナカ生ニュース】
「トヨタEV生産でギガキャスト技術
(ギガキャストという、
電気自動車製造の革新技術による、
既存技術の裾野関連産業への破壊性


(1時間14分以降~)

【11】につづく
ニューノーマル時代の人類へのメッセージ
(ヴァンダナ・シヴァ氏)

バンダナ・シバ:(2)
1%のマネーマシン 2019.02.22 放送

中村哲医師追悼の会
ーー中村先生と共に歩むーー

(3分30秒から9分あたりまで)