第二次大戦後に世界的に展開された
《発展》や《開発》 ――(development)―― や
《成長経済》を見つめる上で、
【前回記事】で大きく負った
鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』で
説明案内されている、
アメリカの地理歴史的側面から来る
アメリカ型資本主義的性格である
《大量生産・大量消費の“消費資本主義”》を
今回記事でも、
鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』から
見ていきたいと思います。
〈「理念国家」アメリカ〉
アメリカは17世紀初頭に渡米したヨーロッパ人たちが
先住民を駆逐しながら作りあげた人工国家だった。
その後の急速な経済領域の拡大とともに、
やがて、世界各地から大量の移民を受け入れる。
どのように、
文化や風習、価値観の異なるこれらの人々を一体化させ、
ひとつの国家にまとめあげてゆくか、
これが出発点だった。
その柱のひとつは理念の力に求められた。
ピューリタン以来のキリスト教徒と、
フランスに端を発する啓蒙思想の影響を強く受けた独立宣言を基礎に、
個人の価値と尊厳を最大限に重視する個人主義が信奉され、
政治的には主権在民の民主主義と共和制、
経済的には市場における自由競争、市場国家が
いわば国是となった。
吉田和男氏が簡潔に整理されたように、
異なる価値観をもった人々に共通に受け入れられる経済システムとは、
個人が自らの利益を自由に追求できる市場経済と自由競争なのであった。
いずれもヨーロッパで生まれた原理だが、
アメリカでは
その展開を邪魔する政治、経済、社会的な伝統が少なく、
また、この国が
イギリスからの独立革命によって成立した「革命国家」であったがゆえに
これらは本家よりも先鋭かつ純粋に社会に広がった。
これらの理念は
経済的な成功を通じて強い社会的基盤を獲得した。
19世紀のアメリカ経済の劇的な成長は
内陸部に存在した広大な処女地、フロンティアを
ヨーロッパからの移民と技術、資金によって開発することによって
もたらされた。
そこには
所有者を特定できない土地に代表される豊かな経済領域が無限に広がり、
人々は宗教や社会にしばられず、
自由に市場に参入して、
自らの才覚のみを頼りに自己利益を徹底的に追求した。
苛烈な競争に勝ち抜き成功をおさめれば
巨富を築き、出自を問わず社会的に上昇できる
という「アメリカン・ドリーム」が 人々の心をひろくとらえた。
かくて個人主義は、個人の自由な競争こそが最善だとする理念として、
多くの国民の生活信条となった。
旧世界では伝統によって抑制されていた経済的な自由主義が、
いわばむき出しのかたちで展開されたのである。
アメリカの経済的成功を支えた生産と消費のありかたもまた、
理念の生活信条化に大きく貢献した。
アメリカの強さと豊かさの象徴は
工業製品の大量生産と大量消費にあった。
工場をあふれ出る大量の消費財は
人々に平等で豊かな物質的な生活を保障し、
生活水準の飛躍的な上昇と生活の隅々にまで及ぶ近代化・合理化を
実現した。
この大衆的な規模での消費の拡大と生活水準の絶えざる上昇こそは、
佐伯啓思氏の指摘を借用すれば、
多民族国家アメリカをまとめあげる最大の軸だった。
アメリカの経済思想における消費者の重視、
アメリカが「消費資本主義」と呼ばれる特質をもつようになった遠因も
ここにあった。
(P.5-8)
伝統や社会に縛られず自由な空気の中で
資源が豊富にある地理的環境にあるアメリカでは、
上記のような背景のもとで
〈アメリカ型資本主義〉が
❝むき出しの形で展開❞された結果、
ついに19世紀後半には
ドイツと並んで
イギリスの地位を脅かすような
経済大国にへと躍り出るのでした。
〈19世紀末――世界最大の工業化へ〉
豊富な資源に恵まれたアメリカは、
19世紀から世界屈指の農業・資源大国だった。
それは食品や鉄鋼、石油など多くの製造業を育てるとともに、
その発展に必要な国内市場の拡大をも準備した。
他方、
19世紀初頭から北東部ニュー・イングランドの綿工業を中心に始まった
本格的な工業化の波は、その後、
南北戦争と全国的な鉄道網の建設に刺激されて中西部へと広がった。
世紀後半は
電気、化学、内燃機関など新たな技術革新が続々と生まれた
「第二次産業革命」の時代といわれるが、
アメリカはその多くの分野でヨーロッパの発明をいち早く産業化し、
ドイツと並んで、時代の先頭を走った。
鉄道や鉄鋼、石油などの新産業では株式会社が広がり、
トラスト運動と呼ばれる大規模な企業合併を通じて
世界第一級の規模をもつ巨大企業が誕生した。
早くも1880年代前半にアメリカは
「世界の工場」イギリスを抜いてナンバーワンの工業国へと躍進し、
90年代にはいると当時の花形産業だった鉄鋼生産でも
イギリスを上回ったと推定された。
19世紀後半から20世紀初頭にかけての経済成長のスピードは
ずば抜けて高く、
一国の経済規模を表わす国内生産(GDP)の総額でも、
また国内の豊かさと生産性の高さを示すその一人当たりの金額でも、
1900年には世界最高だった。
工業化の躍進とともに、
「メイド・イン・アメリカ」は世界へ浸透した。
20世紀が始まった最初の年、1901年に、
あるイギリス人ジャーナリストは
「世界のアメリカ化」という一文を雑誌に発表して、
いかにアメリカ製品がイギリスの家庭に入り込んでいるかを
明らかにした。
(同 P.9-10)
――・――・――・――・――・――
〈「パックス・ブリタニカ」から
「パックス・アメリカーナ」へ〉
20世紀の2つの世界大戦が、
19世紀世界をリードした「パックス・ブリタニカ」から
「パックス・アメリカーナ」「アメリカの世紀」への橋渡しをつとめた。
まず第一次世界大戦により、
英仏独など世界の中心にあった国々は経済的に疲弊し、
民族独立運動やロシア革命など政治的な不安にも直面した。
他方、アメリカの経済力はいっそう高まった。
世界最大の債権国へと躍進し、
イギリスに取って代わるところまでにはゆかなかったにせよ、
それに並ぶ金融力を蓄えた。
ヨーロッパの戦後復興に必要な資金を供給したのも
結局はアメリカだった。
それでもウィルソンの理想主義的な戦後再建策が失敗した後は、
国際政治・経済には概して無関心な内向きの政策をとり続けた。
世界最大の経済力を獲得してから、
それに見合った「国際的責任」を果たすまでには、
アメリカでもかなりの時間がかかったのである。
他方、国内の産業発展は
20世紀にはいるとさらに多彩となり、
アメリカの工業力の世界的な優位はさらに高まった。
鉄鋼など伝統的な重工業に加え、
ヘンリー・フォードのT型車に代表される大量生産方式の完成を通じて、
自動車、電気機械を筆頭とする耐久消費財産業が急成長し、
それを支える電気や石油など多くの新産業も発展した。
こうして1920年代にアメリカは、
世界の工業発展の最先端に躍り出ると同時に、
戦後に本格的に花開く「豊かな社会」をかなりのところまで実現した。
これらの産業の多くは第二次世界大戦後になると
ヨーロッパや日本などでも同じように成長し、
20世紀後半まで各国の経済発展をリードする。
20世紀が
自動車文明あるいは石油文明の時代といわれるゆえんである。
それでは大量生産方式とは何か。
それは なぜアメリカで完成し、
この国の経済の強さと豊かさの象徴となったのであろうか。
(中略)
大量生産方式とは、ごく単純化すれば、
使い手に特別な知識や経験を要求せず、
スイッチを入れれば誰にでも動くように設計された製品を、
機械を多用し、作業を単純化して、
誰にでもまずまずの品質と高い能率で作れるようにした革命的な生産方法だった。
それは当時の先進工業地域ヨーロッパに生まれた技術をもとに、
世界中から集まった多様で不均質な人々が顧客であり、労働者でもある
多民族国家アメリカという特殊な環境の中で育った生産方法だった。
それゆえ、このシステムは、
自動車に限らず多くの製造業さらにサービス業の一部にも普及し、
アメリカのモノ作りの特徴となった。
大量生産方式の完成によってアメリカ経済は、
歴史上かつてない物的な豊かさを実現した。
工場の生産性は飛躍的に上昇し、
製品価格の低下と品質の改良を通じて販売高は激増した。
生産量の増大に伴って、工場と雇用は拡大し、賃金も上昇し、
それがさらに販売を増加させる好循環が生まれた。
19世紀ヨーロッパの工業世界とは異なって
労働者は消費者となり、高い生活水準を享受した。
1930年代の大不況期に
機会を求めてカリフォルニアへ移る困窮した農民でさえ、
旧世界ではごく少数の金持ちの所有物だった車に乗っていたのである。”
(同 P.11-13)
御承知のような、
アメリカが
第二次大戦後に世界の覇権国となる
1945年以降の展開ぶりを
以下に眺めていきます。
" 〈アメリカの世紀の完成〉
第二次世界大戦を境にアメリカの世界政策は劇的に転換した。
アメリカはルースの主張した通り「自由と民主主義」を掲げて参戦し、
戦後には
ソビエトと対抗する西側世界の政治・軍事的、経済的リーダーとなった。
こうして名実ともに「アメリカの世紀」が完成した。
経済力も、
かつての主要工業国が戦争によって大きな被害をこうむったため、
戦後にはさらに高まり、産業はいっそう強力となった。
20世紀初頭以来の量産産業は隆盛を極める一方、
少なからず
戦時の科学技術発展の産物である
コンピュータ、半導体などエレクトロニクスや石油化学を筆頭とする
ハイテク産業が生まれた。
アメリカは大量生産方式に加え、
基礎研究でも世界の群を抜く存在となった。
この技術力が核を支え、人類を月に送るとい「夢」を実現させた。
そのうえ世紀後半には、
外食チェーンから医療、情報処理や通信など一群のサービスや情報産業も
誕生し、
経済の「サービス化」「情報化」でも世界をリードした。
これらの産業のかなりのものもまた、その後各国で成長し、
先進工業国の産業構造は著しく似通ったものとなった。
各国の技術や経営方法もアメリカ化した。
既に第二次世界大戦前に、
ヨーロッパなどの技術者やビジネスマンは、
テイラー主義と呼ばれる「科学的管理法」を自国に積極的に紹介したし、
革命後のソビエトでもレーニンは
その「ブルジョワ的搾取の洗練された残忍さ」を否定しながら、
社会主義建設の触媒として「豊富な科学的成果」に大きな関心を寄せた。
フォード自動車生産の影響はさらに大きかった。
ヨーロッパの自動車会社の経営者や技術者は
相次いで、デトロイトを訪れ、
その生産技術を自国の風土に合わせてコピーしようとした。
ヒトラーがフォードの熱心な崇拝者だったこともよく知られている。
戦後、この動きはさらに大規模になった。
ヨーロッパ諸国は産業の近代化を目的に
アメリカの技術と生産システムを導入し、
その前提となるアメリカ的な大市場をEECによって作りあげようとした。
米国系多国籍企業対欧投資もその一助となった。
また日本は
もっぱら技術導入を通じてアメリカの先進技術をとりあげたが、
政治、経済、さらには文化のアメリカナイゼーションは
ヨーロッパよりさらに徹底していた。
こうして20世紀後半の西側世界では、
アメリカが作りあげた安定した国際政治・経済秩序のもとで、
アメリカの生産システムが積極的な設備投資を通じて普及し、
歴史上まれに見る高成長の時代が出現した。
アメリカという特殊な自然地理的、歴史的条件のなかから
生まれた生産システムが、その抜群の生産効率のゆえに、
20世紀をリードする「指導的な生産方式」(橋本寿朗『日本経済論』)となったのである。
(P.13-15)
ところが、1960年代~1970年代になると、
アメリカ自らが作り上げた
戦後の世界秩序を維持する能力を失った背景の・・・
“第三に、石油危機の発生があった。”
大量生産が実現した豊かさは、なによりも、
石油を筆頭とする資源の大量消費のうえに成り立っていた。
アメリカ的な消費生活と豊かさが
広く先進国で享受されるにつれ資源の受給関係は
一時的にせよ逼迫し、
石油価格の暴騰を誘って大量生産システムの基盤を消失させた。”
(P.17)
次の記事では
アメリカ式大量生産方式を可能にした土台としての
《部品の標準化や互換性》技術の歴史的経緯について
すこし眺めます。
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