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‟「辺野古に新基地はつくらせない」
という主張を象徴として、
政治の大きな変革の原点をつくっていくことが
沖縄を変え、
日本を変えることにつながり、
真の民主主義を確立することに
つながるはずです。
とはいえ、
沖縄だけで
日本両政府の強大な権力に
立ち向かうことはできません。
そして、
確かな勝機もありません。
しかし、
勝てそうにないからといって、
相手の理不尽な要求に膝〔ひざ〕を屈し、
そのまま受け入れるのでしょうか。
もしそうならば、
私は
一人の人間として、
この世界に生きる意味が薄らぐのではないか
と思っています。
私たちには
少なくとも「主張する権利」があります。
これは人間の誇りと尊厳を賭けた戦いでもあるのです。”
(翁長雄志『戦う民意』角川書店、2015年、6-7頁)
――――――――――――――――
‟当たり前のことですが、
人生には必ず終わりが訪れます。
それは
人よりも早いかもしれないし、遅いかもしれません。
いずれ終わりが来る生に対して、
自分はどのように対処していくか。
生きている間に何をするか。
もし自分なりに考えを極めて
自分がこれだと思ったものがあるのならば、
それが本当に正しいかどうかは保証がなくとも、
真心を込めてそれに人生を賭けていくこと。
これは小さなころから死を意識していた私なりの人生観です。”
(翁長雄志『戦う民意』角川書店、2015年、228頁)
――――――――――――――――――――
――Q翁長さんはどんなものを背負っていたと思いますか?――
翁長樹子さん
「本当に信じられないかもしれないけど、
沖縄全部を背負おうとしていたの。
保守も革新もなく、ウチナーンチュ同士で争うことだけはやめたいという思いがすごく強かったし。
僕はいろいろなことを言っている人の後ろの人と喧嘩しているんだと、
この人たちと喧嘩しているわけではないと。
いろいろな立場それぞれあるから、
同じウチナーンチュ同士で、こんな風にやってしまったら、
喜んで見ている人がいると思ったら、
僕だけはできないと。(後略)」
(琉球朝日放送 2018年9月7日 〈翁長知事 撤回「命がけ」の決意〉)
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※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
また、〈〉で囲った表記部分は、引用原文では傍点で強調。
引用文中でのイタリック斜体は、引用文における引用箇所
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‟ これまで展開してきた決定論、非決定論、二者択一論の見解は、
基本的に三人の思想家の考えに従っている。
スピノザ、マルクス、そしてフロイトである。
三人とも〈決定論者〉と呼ばれることが多い。
それにはもっともな理由があり、
何より彼ら自身がそう言っている。
スピノザは次のように書いている。
「精神には
絶対的な意志、あるいは自由意志というものはない。
あれをしたい、これをしたいと決めさせるのは原因であり、
その原因もまた原因によって決まり、
またそれを決める原因があり....と、無限に続く」
(『エチカ』第二部、定理四八)。
スピノザは、
私たちが自分の意志は自由であると主観的に経験する
――カントやその他の多くの哲学者にとっては、
それがまさに意志が自由であることの証明だった――
のは 自己欺瞞の結果である という事実について説明している。
私たちは自分の欲望を自覚しているが、
その欲望の動機は自覚していない。
そのため
欲望の“自由”を信じている。
フロイトもまた決定論者の立場を表明している。
精神の自由とその選択を信じるということ。
彼は非決定論者について、
「まったく非科学的で・・・・・・
精神生活さえ支配する決定論の主張の前には屈するしかないだろう」
と述べている。
マルクスも決定論者だと思われる。
彼は歴史の法則を発見し、
政治的な出来事は階層分化と階級闘争の結果であり、
後者は現存の生産力とその発展の結果だ と述べている。
三人の思想家は
人間の自由を否定し、
人間の背後で働き、その人に何かをしたいと思わせ、
行動を決定する力を発揮するものを
人間のなかに見いだしているように思える。
この意味でマルクスは、
もっとも厳密な意味でヘーゲル主義者だと言えるだろう。
彼にとっては必然に気づくことが最大の自由なのだ。
スピノザ、マルクス、フロイトは、
自ら決定論者と規定するような表現をしているだけではない。
その弟子たちも、彼らを決定論者として理解していた。
それは特にマルクスとフロイトに当てはまる。
“マルクス主義者”の多くは、
歴史には修正できない流れがあるかのように
話していた。
つまり未来は過去によって決められ、
ある出来事は起こるべくして起こる、ということだ。
フロイトの弟子の多くも、同様の見解を主張した。
フロイトの心理学は、
まさに先行する原因から結果を予測できるからこそ、科学的なのだ
と主張している。
しかし
スピノザ、マルクス、フロイトが決定論者である
というこの解釈は、
この三人の思想家の哲学的な他の面を
完全に忘れている。
“決定論者”スピノザの主要な業績が
なぜ倫理【エチカ】についての本なのか。
マルクスの目的が
主に社会主義革命であり、
フロイトが主にめざしたのは
精神的な病気に悩む患者の神経症の治療法であったのは
なぜなのか。
これらの問題への答えは、ごく単純だ。
三人の思想家たちは みな、
人間や社会が ある程度まで、
特定の行動をとる傾向を持つこと、
そしてその傾向の程度が
決定的なものになりうることを
理解していた。
しかし同時に、彼らは
説明や解釈をしたがる哲学者というだけでなく、
変化と変革をめざす人々でもあった。
スピノザにとって
人間の務め、つまりその倫理的目的は、
決定を減らして
自由への最適条件を得ることだった。
人間は自らを意識すること、
つまり
目をくらませ鎖につなぐ情念(受動的感情)を、
人間としての真の興味に基づいて
動けるようにする行為(能動的感情)へと
変えることにより、
それを成し遂げる。
「受動という感情は、
はっきりした明瞭なイメージをつくりあげられたとたん、
受動ではなくなる」
(『エチカ』第五部、定理三)。
スピノザによれば、
自由は〈与えられるもの〉ではない。
それ〔自由〕は
ある制約のなかで、
洞察力と努力によって
手に入れられるものである。
精神的な強さと自覚があれば、
選択肢をもつことができる。
自由の獲得は困難であり、
だからこそ
ほとんどの人が失敗する。
スピノザは『エチカ』の終わりで 次のように述べている
(第五部、定理四二注記)
〈 私はこれで、
感情と精神の自由に影響する精神の力について、説明したいと
思ったことすべてを完了した。
これによって、
賢者がいかに有能であり、
欲望でしか動かない無知な人間より いかに優れているかが
明らかになる。
無知な人間は さまざなかたちで外部の要因に邪魔され、
精神の真の満足を決して得られないだけでなく、
自分自身も神も物も ほとんど意識せずに生き、
そして
耐えるのをやめる(スピノザの言う意味で、受動的になる――フロム注)と
すぐに、存在することをも やめてしまう。
これに反して
賢者は、
賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、
自分や神や物を ある永遠の必然性によって意識し、
決して存在するのをやめず、
常に精神の真の満足を備えている。
このような結果へ到達するものとして
私の示した道は
きわめて困難であるように思えるが、
発見される可能性はある。
また
このようにまれにしか見つからないものは
困難なものであるに違いない。
もし救済がすぐ手近にあって たいして苦労なしに見つかるとしたら、
ほとんどすべての人から顧みられないことが どうしてあるだろうか。
すべての優れたものは
まれであるとともに困難である。〉
近代心理学の祖であるスピノザは、
人間に決定をさせる要因を理解しているが、
にもかかわらず『エチカ』を書いているのだ。
彼〔スピノザ〕は
人間が
どのようにして束縛から自由へと変化するのか
を示そうとした。
そして彼の“倫理〔エチカ〕”の概念は、
まさに自由の獲得である。
それを獲得するには
理性、適切な考え、自覚が必要だが、
それは
ほとんどの人が進んで行なおうとする以上の労力をもって
初めて可能となる。
スピノザの業績が
個人の“救済”をめざす著述だとすれば
(救済とは自覚と勤労による自由の獲得である)、
マルクスの目的もまた 個人の救済である。
しかしスピノザが
個人の非合理性について考察しているのに対し、
マルクスは その概念を拡大している。
彼〔マルクス〕は
個人の非合理性は、
その人が住む社会の非合理性が原因であり、
その非合理性自体、
経済・社会の現実に内在する無計画さと矛盾の結果だ
と考えている。
マルクスの目的は スピノザと同様、
人間が自由で独立することだが、
この自由を手に入れるために、
人間は
自分の背後で動き、決定を行なわせている力に
気づかなくてはならない。
解放は その自覚と努力の結果である。
もっと具体的に言うと、
労働者階級は すべての人間を解放するための歴史上の代理人である
と考えていたマルクスは、
階級意識と闘争が 人間解放のための必要条件だ
と信じていた。
スピノザと同じく、
マルクスも
次のような発言の意味において決定論者だった
――あなたが何も見ようとせず、
最大限の努力をしないなら、
あなたは自由を失うだろう。
しかし
スピノザと同じく、
彼も解釈を考えるだけでなく、
変革を望む人間でもあった。
言ってみれば
彼〔マルクス〕のしようとしていたことは
すべて、
どうすれば
気づきと努力によって自由になれるか
を教える試みなのだ。
誤解されることが多いが、
マルクスは
決して自らが予測する歴史的な出来事が必ず起こる
とは言っていなかった。
彼は
常に二者択一論者だった。
〈もし〉人間が自らの背後で働いている力に気づけば、
〈もし〉自由を勝ち取るために最大限の努力をすれば、
必然の鎖を断ち切ることができる。
(引用者中略)
決定論者であるフロイトも
やはり変革を望んでいた。
神経症を健康にして、
イドの優位をエゴの優位に置き換えることを
望んでいた。
人が合理的行動を行なう自由を失う以外、
(種類はどうであれ)
どのような神経症があるのか。
人が本当に関心があるものに従って行動する以外に、
どんな精神的健康があるのか。
フロイトも
スピノザやマルクスと同じように、
人がどの程度まで決定されているのか
理解していた。
しかしフロイトは
ある種の非合理的で
それゆえに破壊的な行為の衝動脅迫は、
自覚と努力によって変えられる
ということも認識していた。
だからこそ、
自覚によって神経症を治療する方法を
考察しようとする彼の仕事と、
その治療のモットーは
「真実はあなたを自由にする」
であった。
いくつかの主要の考え方は、
三人の思想家に共通している。
(1)人の行動は
それに先行する原因によって決められているが、
自覚と努力によって
それらの原因の力から自分を解放することができる。
(2)理論と実践は不可分である。
“救済”あるいは自由を手に入れるには、
正しい“理論”が必須である
と知っていなければならない。
しかし
行動し闘わなければ、知ることはできない。
理論と実践、解釈と変化が
不可分である
ということは、
まさにこの三人の思想家の偉大な発見である。
(3)彼らは
人間が
独立と自由を勝ち取るための闘いに
敗れる〈可能性はある〉
という意味では決定論者だが、
基本的には二者択一論者である。
人間は真偽を確かめることができる可能性のなかから
選択できること、
それらの選択肢のどれが現実になるかは
その人次第である
と教えていた。
スピノザは、
誰もが救済を得られる
とは信じていなかったし、
マルクスは
社会主義が〈勝利するはずだ〉
とは信じていなかった。
フロイトは
すべての神経症が自分の開発した治療法で治る
とは思っていなかった。
むしろ三人とも
懐疑主義者であると同時に、
強い信念を持っていた。
彼らにとって自由とは、
必然を意識して行動すること以上のものだった。
それは人間にとって、
悪ではなく善を選ぶチャンスだった。
自覚と努力に基づき、
現実的可能性のなかから選ぶチャンスである。
彼らの立場は
決定論者でもなければ、
非決定論者でもなかった。
現実的かつ批判的なヒューマニズム
という立場だった。”
(エーリッヒ・フロム【著】/渡会圭子【訳】
『悪について』
ちくま学芸文庫、2018年、200-207頁)
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“自然学は、
思弁的観点の自然主義である。
自然学の核心は、
無限の論理と、
時間的最小と空間的最小の理論である。
ルクレティウスの最初の二巻は、
自然学の根本的な対象、
すなわち、
真に無限であるものとそうではないものを
決定すること、
真の無限と偽の無限を区別することにあてられる。
真に無限であるものは、
原子の総和、空虚、原子の総和と空虚、
同じ姿形と背丈の原子の数、組み合わせの数、
われわれの世界と相似たり異なったりする世界の数である。
無限でないものは、
物体の部分、原子の部分、原子の背丈と姿形、
とりわけ、
世界の組み合わせや内部ー世界での組み合わせのすべてである。
さて、このように
真の無限と偽の無限を決定することにおいて、
自然学が
必当然的な仕方で作用していることが注目されよう。
同時に、ここで、
自然学が
実践や倫理に従属していることが
明らかになるのである。
(反対に、自然学が、
例えば有限な現象の解明のために仮言的に進むときには、
自然学は倫理にほとんど何ももたらさない)。
したがって、
われわれが問い尋ねるべきは、
何故、真の無限と偽の無限を
思弁的な仕方で必当然的に決定することが、
倫理や実践の必要手段であるのか
ということになる。
〈魂のトラブル〉
実践の目的や対象は、快楽である。
さて、快楽は、
この意味では、
苦痛を減らし苦痛を避けるための手段なら
何でもわれわれに勧めるだけである。
ところが、
われわれの快楽に対しては、
苦痛そのものより強力な障害がある。
すなわち、
幽霊、迷信、恐怖、死の恐れであり、
これらは
魂のトラブルを形成する。
人類の絵画があるとすれば、
それは、
苦痛のトラブルというよりは
恐怖のトラブルを抱える人類の絵画である
(ペストでさえ
それが広める苦痛によってだけではなく、
それが設ける全般的な魂のトラブルによって
定義される)。
魂のトラブルこそが
苦痛を増加するのである。
魂のトラブルこそが
苦痛を抗い難いものにするが、
魂のトラブルの起源は、
苦痛の起源とは別のもっと深いところにある。
(引用者中略)
クリナメンが
思考に自由についての偽の考え方を吹き込むのと同様に、
シミュラクル〔見せかけ〕は
感性に意志と欲望についての偽の感情を吹き込む。
感性可能な最小以下で存在させ活動させる速さの故に、
〈シミュラクルは
それが形成するイマージュの中に偽の蜃気楼を生産するし、
シミュラクルは、
快楽の無限の容量と苦悩の無限の可能性
という二重の幻覚を生み出し、
宗教的な人間に特徴的な、
貪欲と不安の混在、強欲と罪責の混在を生み出す。
特に、
最速の第三種類の幻影において、
幻覚と幻覚に伴う〈神話〉が発達するのに
立ち会わされることになる。
神学・官能・夢幻の混在において、
愛の欲望が所有するのは
シミュラクル〔=見せかけ〕だけであって、
これによって愛の欲望は、
それが無限であることを望む快楽においても、
苦渋と苦悩を思い知らされるのである。
また、
われわれの神々の信仰が依拠するのは
シミュラクルであって、
これが、
われわれには、
踊ったり振舞いを変えたり、
永遠に罰を告げる大声を発したりすように見え、
要するに
無限を表象するように見えるのである。
〈自然主義と神話批判〉
真の無限をそれとして厳格に識別すること、
また、時間が含意する限界以降も含め、
お互いに入れ子状になった時間を
正しく評価すること、
それ以外によって、
いかに厳格を防ぐことができようか。
これが自然主義の意味である。
そのとき、
幻影そのものが快楽の対象になる。
幻影が生産する効果においても、
終には、そのまま現出する効果においても
快楽の対象になる。
その際、極めて雑多な対象からの外的干渉に結び付けられる、
速さと軽さの効果が、
継起と同時性の縮約として現出するのである。
偽の無限は、魂のトラブルの原理である。
自然主義としての哲学の
思弁的対象と実践的対象、
すなわち、科学と快楽は、
次の点で一致する。
幻覚、
偽の無限、
宗教の無限、
宗教の無限が表現される
神学的-官能的-夢幻的神話すべてに対して、
破棄通告することが常に肝心である
ということにおいてである。
「哲学が何の役に立つか」
と問い尋ねる者に対しては、
こう答えるべきである。
自由な人間のイマージュを
立ち上げること、
その力能〔=権力〕を
安定させるために
神話と魂のトラブルを
必要とする一切の力に
破棄通告をすること、
この程度のことでも関心を抱いている者が他にいるのか、と。
自然は慣習に対立しない。
自然な慣習があるから。
自然は慣習に対立しない。
法律が慣習に依存するにしても、
自然法の実在が排除されるわけではない。
言い換えるなら、
欲望の非合法性を、
欲望が伴う魂のトラブルでもって計測する
という法律の自然な機能の実在が
排除されるわけではない。
自然は発明に対立しない。
発明は自然そのものの発見にほかならないから。
しかし、
自然は神話に対立する。
人類の歴史を記述しながら、
ルクレティウスは われわれに
一種の補償法を提示している。
人間の不幸は、
人間の習慣・慣習・産業から由来するのではなく、
そこに混在する神話の部分と、
神話が人間の感情と作品に導入する偽の無限から
由来する。
言葉の起源に対しては、
また、火と最初の金属の発見に対しては、
その原理において
神話的な王国・富・所有が接合される。
法律と正義の制度に対しては、
神々に対する信仰が接合される。
青銅と鉄の使用に対しては、
戦争の発展が接合される。
芸術と産業の発明に対しては、
奢侈と熱狂が接合される。
人類の不幸を作り出す出来事は、
そんな出来事を可能にする神話と
切り離せない。
人間において、
神話に帰すものと
自然に帰すものを
区別すること、
自然そのものにおいて、
真に無限であるものとそうでないものを
区別すること、
これが
自然主義の実践的で思弁的な対象である。
最初の哲学者は、
自然主義である。
最初の哲学者は、
神々について述べるのではなく、
自然について述べるのである。
最初の哲学者が、
自然から積極性を奪い取るような神話を
哲学に導入しないことを条件に。”
(ジル・ドゥルーズ【著】/小泉義之【訳】
「ルクレティウスとシミュラクル」
『意味の論理学(下)』所収
2007年、河出文庫、168-179頁
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“・・・フーコーは、
初期から晩年にいたるまで、
真理の権力に真理の勇気を
対置させている。
そして最初期から最晩年の著作まで、
彼の哲学は
政治と倫理を分けたことがない。
カンギレームは正しい。
知-権力のフーコーのあいだに断絶はない。
フーコー自身が1984年に述懐しているように、
彼の研究を
「知を権力に還元する試み、
知を権力の仮面に仕立て上げる試み、
主体に居場所がない諸構造のなかで
そうした試みを行うこと」
として紹介することは、
「たんなるカリカチュアでしかありえない」。
われわれはたしかに、
統治が抑圧を経由する社会に生きている。
しかしそれと同時に、
〔統治が手段として抑圧を経由する〕より一般的には、
統治がエートスの形成を経由する社会にも生きている。
個人を
自らの振る舞いの道徳的主体へと構成するエートスである。
主体なくして従順も自発的隷属もない。
しかしまた、
フーコーにとっては特に、
主体なくして「反省的非従順」の技術も
「自発的非隷従の技術」も存在しない。”
ファビエンヌ・ブリオン&ベルナール・E.アルクール【編集者 記】
市田良彦【監訳】/神尾真道&信友建志&箱田徹【訳】
『悪をなし真実を言う~ルーヴァン講義1981年 ミシェル・フーコー~』
2015年、河出書房新社、10-11頁
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〈【次のページ(0-m)】に続く〉