〈【前のページ(0-L)】からの続き〉
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
対談 #何度だってやり直せる社会へ
亀石倫子(弁護士)× 奥田知志(抱樸理事長)
(14分05秒~15分00秒)
生きる_予告篇
Ikiru, Akira Kurosawa, 1952 - Snow Song
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
引用文中でのイタリック斜体は、引用文における引用箇所
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
〈生きる意味と価値〉
ここで、生きる「意味」の問題について
いわなければならなかったことを まとめてみましょう。
生きるとは、
問われていること、答えること
――自分自身の人生に責任をもつことである。
ですから、生はいまや、
与えられたもの(ゲゲーベンハイト)ではなく、
課されたもの(アウフゲゲーベンハイト)であるように思われます。
生きることは いつでも課せられた仕事なのです。
(中略)
けれども、ここで、
つぎのことを付け加えなければなりません。
宗教的な人間は、生きている実感、
いわば「存在理解」が優れていて、もう一歩先に進みます。
人生を仕事と心得ている人たちをしのぎます。
課された仕事だけではなく、
いわば、仕事を「課す」または「課した」決定機関である神格をも知っています。
いいかえれば、宗教的な人間は、
人生は神が課した使命だと知って生きているのです。
最後にまとめていうと、
生きる「価値」の問題に対しては
どんなことをいうことができたでしょうか。
ここで明らかになった見解は、もしかすると、
ヘッベルの言葉で
もっとも適切に表現できるかもしれません。
彼はいいます。
「人生それ自体がなにかであるのではなく、
人生は なにかをする機会である!」”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】
/山田 邦男、松田 美佳 【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年初版発行、春秋社、52-58頁)
――――――――――――――――
‟ けれども、
人生に重みを与えているのは、
ひとりひとりの人生が一回きりだ
ということだけではありません。
一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が
一回きりだ ということも、
人生に
おそろしくもすばらしい責任の重みを
負わせているのです。”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】
山田邦男・松田美佳【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年、春秋社、50頁)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
“
〈世界大戦への従軍と
悲劇『ハムレット』の追体験〉
第一次世界大戦の勃興を受けて
ポランニーは、
ハンガリーの民主化運動への情熱的な係わりを断ち、
翌年の1915年に
ハプスブルク帝国下の旧オーストリア=ハンガリー軍の騎兵将校として従軍した。
負傷して1917年に除隊するまでの間、
ポランニーは
シェークスピアの悲劇『ハムレット』を何度も繰り返して読み、
主人公ハムレットの苦悩に満ちた人生と重ね合わせて考察した。
ポランニーは
ほぼ40年後に書いた小論「ハムレット」(Polanyi,1954)のなかで、
自分の人生の使命が、
心身の極限状態で読んだ『ハムレット』を通して
啓示された、
と告白している。
「 寒々とした孤独のなかで、
自分が繰り返し
『ハムレット、デンマークの王子の悲劇』を
読んでいるのに気づいた。
〔中略〕
私は、私の『ハムレット』を読んだ。
主人公の叫ぶあらゆる言葉、言い回し、抑揚は、
いともたやすく、そしてはっきりと
私の奥に届いたのである。」
Polanyi, 1954: 336)
(Karl Polanyi,
"Hamlet",
The Yale Review, vol. 43, no. 3,1954.)
父を殺害し母を奪ったクロ―ディア王への復讐を
ハムレットが ただちに「実行することを
ためらい(inaction)」、
憂鬱に耐えながら
死の直前まで先延ばしにしたのは
なぜなのか。
ポランニーの解釈によれば、
物語に埋め込まれたハムレットの憂鬱の「秘密」は、
自らの願望や意思のままに生きられない社会的存在としての人間の条件を示している。
(Polanyi, 1954: 336-338)
ハムレットの憂鬱について考えることを通じて、
精神的な病に長年苦しんでいたポランニーは、
20世紀最初の世界大戦を避けられないものにした時代の苦悩と
ハンガリーが経験してきた政治的受難が
彼〔ポランニー〕の人生と
分かちがたく結びついている、という事実を受容する。
ハムレットのためらいについて、
ポランニーは次のように解釈している。
「ハムレットのためらいは、
彼の人生に課される制限に対する戸惑いと拒絶を
表現している。
叔父のクロ―ディアスによる父の殺害と王位の乗っ取り、
母と叔父のおぞましい再婚、
そして父の亡霊が命じる復讐という行為は、
いずれも
ハムレットの意志から生じた事柄ではない。
父の亡霊の命じるままにクロ―ディアス王の殺害を実行すれば、愛するオフィーリアや友、自分の王位、母、そして自らの命など、彼が大事にしてきたすべてを喪失してしまうかもしれない。
ハムレットの人生は嫌悪と不安が生じる状況に否応なしに組み込まれており、彼はそこから自由になれない。
ハムレットは、
どのように生きるか決断することができなかった。
行為の決断を強いられない限り、
彼は人間として存在することができる。
人生を熟慮に基づいて選び取ることができないのであるから、
生きるか死ぬかを即座に選ぼうとしたら
彼は破滅してしまうだろう。
これが、
人間存在という点から見た
ハムレットの憂鬱の意味である。」
(Polanyi, 1954: 339)
ポランニーが強調するのは、
復讐の時を待たずに叔父の殺害を即座に決行したら
ハムレットの精神生活は破滅していただろう、という点である。
(Polanyi, 1954: 339-341)
ハムレットは復讐を遅らせた代償として憂鬱に苛まれる。
ハムレットが、
時に狂人のように振舞いながら
「ただ歳月を数えるようにして」生き続けて復讐を「延期」したのは、
自分自身の人生を否定するような憂鬱、
つまり「混乱した心的状態」が続いた「間」だった。
『ハムレット』を読むことを通して彼は、
社会的存在としての人間の条件について考察を深め、ポランニー社会哲学の根元となるような着想を得てゆく。
ポランニーによれば、復讐という行為が
「強いられた」行為となる間は、
ハムレットは
精神生活の破滅を避けるために
なんとしても「決断」を
遅らせなければならなかった。
とはいえ、
そもそも精神生活を破滅させないで
復讐を成し遂げることは、
果たして可能だっただろうか。
ハムレットは、
できるなら決断を
永遠に遅らせたかったのではなかろうか。
ほとんどの人間は、
自らの意志や望んだ結果ではない人生の選択肢から 逃げ続け、
決断すべき決定的な瞬間を
意識的に取り逃して、空虚な人生に甘んじる。
(Polanyi, 1954: 348)
では、
復讐を実行したハムレットは、
決断すべき瞬間を
どのようにして捉えたのだろうか。
ポランニーによれば、
悲劇の進行が示すように、
愛しいオフィーリアの父を
ハムレットが誤って殺害する事件がその発端となる。
その事件からオフィーリアは
狂い死してしまうのであるが、
ハムレットは、
自らの過失が
彼女を死に至らしめた罪深さを 受容する過程で
人生の「本源的意味」を知り、再生する。
(Polanyi, 1954: 342-343)
このとき、復讐という行為は
ハムレットにとって
強いられた選択肢ではなくなり、
彼はとうとう「決断」の時を迎えるのである。
この展開について、
ポランニーは次のように解釈する。
「 ハムレットは
喜んで人生を手放す。
彼は人生の絶望からではなく、
その充実においてクロ―ディアス王の殺害を実行する。
彼の死の対する準備(readiness)は、
彼が真の意味において人生を受容したことと同じである。」
(Polanyi, 1954: 349)
ハムレットが
「喜んで人生を手放した」のは、
彼が死を望んでいたからでも、
死を怖れぬほど勇敢な性格だったからでもない。
それは、
叔父や母だけでなく自分自身も
他者を傷つけてしまう社会的存在だからである、
という事実を受容できたからだ、
とポランニーは説明する。
そのときから
ハムレットの人生は充たされ、
長い憂鬱から解放された。
ポランニーは
ここに、ハムレットの人生における再生の局面を
見出している。
そして再生を経たハムレットだからこそ、
神聖な復讐の「決定的な瞬間」を捉えられたのである。
死は間近に来ていたが、
人生の決定的な瞬間に
「乗り遅れ」なかったハムレットは、
人間存在として幸福な状態を最期に手に入れたのだった。
「 人生とは、人間が決定的な瞬間に乗り遅れることである。
しかし最期に、
われわれの愛すべき主人公は、
人生の充足の幾分かを取り戻した。
閉幕後にわれわれは充足の状態に置かれるだけでなく、
ハムレットに対して感無量の賞賛を抱く。
それはあたかも、
彼の苦しみが空虚なものでは決してなかった、
とでもいうように。」
(Polanyi, 1954: 350)
第1次世界大戦中のガルシアの大地で
『ハムレット』を通じて
ポランニーに啓示された使命とは、
多くの人びとを戦争で傷つき殺害した大変動の起源を
冷静に追跡する仕事である。
社会的存在である人間は、
時代の過ちや社会の苦しみと
分かちがたく結びつけられている。
死の淵にあって、
自らの人生をこのように捉え直したポランニーは
帰還後、人生の伴侶に出会い、
うつ病からも回復する。
そして、20世紀の生き証人として
社会科学者の道を志してゆくのである。”
(若森みどり【著】
『カール・ポランニー ~市場社会・民主主義・人間の自由~』
NTT出版、2011年、24-27頁)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
〈【次のページ(0-mろ)】に続く〉
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
‟まず自由という文字と
その本来の意義について
少しく弁じてみたい。
元来 自由という文字は
東洋思想の特産物で
西洋的な考え方にはないのである。
(中略)
・・・フリ-ダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、
そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、
仏教の語である自由を持って来て、
それにあてはめた。
それが源(もと)になって、
今では自由をフリーダムやリバティに該当するもの
と決めてしまった。
西洋のリバティやフリーダムには、
自由の義はなくて、
消極性をもった束縛や牽制(けんせい)から解放せられるの義だけである。
(中略)
自由はその字のごとく、
「自」が主になっている。
抑制も牽制もなにもない、
「自(みずか)ら」または「自(おのずか)ら」出てくるので、
他から手の出しようのないとの義である。
自由には元来 政治的意義は少しもない。
天地自然の原理そのものが、
他から何の指図もなく、制裁もなく、
自(おのずか)ら出るままの働き、
これを自由というのである。
(引用者中略)
自由の本質とは何か。
これをきわめて卑近な例でいえば、
松は竹にならず、竹は松にならずに、
各自にその位に住すること、
これを松や竹の自由というのである。
これを必然性だといい、
そうならなくてはならぬだというのが、
普通の人々および科学者などの考え方だろうが、
これは、
物の有限性、
あるいは
これをいわゆる客観的などという観点から観て、
そういうので、
その物自体、すなわち その本性なるものから観ると、
その自由性で自主的にそうなるので、
何も他から牽制を受けることはないのである。
これを天上天下唯我独尊【ゆいがどくそん】ともいうが、
松は松として、
竹は竹として、
河は河として、
その拘束なきところを、
自分が主人となって、働くのであるから、
これが自由である。
(引用者中略)
今日、われわれ日本人の中でも、
とくに若い人々の中では、
「自由」の本来の東洋的意義を知っているものは、
一人もいない、といい切っても可なるべしと、
自分は信じる。
(中略)
よく自由と放逸(ほういつ)とを混同する。
放逸とは自制ができぬので、
[放逸は]自主自由とはその正反対になる。
まったくの奴隷制である。(中略)
「心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」
などということは、
わがままものの夢にも及ばない境地である。・・・
禅坊さんにこんな歌がある。
生きながら
死人となりて
なりはてて
思ふがままに
するわざ〔業〕ぞ よき
(すこし違ったかもしれぬが)、
こんな具合に人間は
どうしても一遍(いっぺん)死んで来ぬといけない。”
(鈴木大拙【著】
『東洋的な見方』
1997年、岩波文庫、64-68頁)
―――――――――――――――――――――
“仏教において観ずるということは、
対象的に外に仏を観ることではなくして、
自己の根源を照らすこと、省みることである。
外に神を見るというのあらば、
それは魔法に過ぎない。
何故に我々の自己は、
その根源において宗教的であり、
自己自身の底に深く反省するに従って、
即ち自覚するに従って、
宗教的要求というものが現れ、
宗教的問題に苦しまねばならないのであるのか。
・・・・我々の自己は、
絶対に自己矛盾的存在であるが故である。
絶対的自己矛盾そのことが、
自己の存在理由であるが故である。
すべてのものは変じ行く、移り行く、
何物も永遠なものはない。
生物は死んで行く、死なき所に生命はない。
そこにも既に自己矛盾があるといい得る。
しかし生物は自己の死を知らない。
自己自身の死を知らないものは、
自己を有【も】つものではない。
そこにはいまだ自己というものはないのである。
自己のないものには死というものはない、
生物には死がないということができる。
死とは、
自己が永遠の無に入ることである。
この故に
自己は一度的である、
自己は唯一的である、
個であるのである。
しかも
自己自身の死を知ることは、
死を越えることである、
しかも
単に死を越えたものは
生あるものでもない。
自己自身の死を知るということは、
無にして有ということである。
絶対の無にして有ということは、
自己矛盾の極致でなければならない。
しかも
そこに
我々の真の自覚的自己があるのである。
我々は
自己の行為を越えて、これを知る。
普通には、これを自覚という。
しかし
それだけなら、
自己は一般的存在、理性的存在ともいい得るのである。
そこには、
一度的にして唯一なる自己というものはない、
真の自覚というものはないのである。
故に右の如き
我々の個的自己、人格的自己の成立の根拠には、
絶対者の自己否定というものが
なければならない。
真の絶対者とは
単に自己自身に対を絶するものではない。
何処までも自己自身の中に自己否定を含み、
絶対的自己否定に対することによって、
絶対の否定即肯定的に自己自身を限定するのである。
かかる絶対者の自己否定において、
我々の自己の世界、人間の世界が成立するのである。
かかる絶対否定即肯定ということが、
神の創造ということである。
(引用者中略)
神と人間との対立は、
何処までも逆対応的であるのである。
故に
我々の宗教心というものは、
我々の自己から起るのではなくして、
神または仏の呼声である。
神または仏の働きである、自己成立の根源からである。
(引用者中略)
人格的なるキリスト教は
極めて深刻に宗教の根源を
人間の堕落に置く。
創造者たる神に叛【そむ】いたアダムの子孫には
原罪が伝わっている。
生まれながらにして罪人である。
故に人間からしては、これを脱する途【みち】はない。
唯、神の愛によって神から人間の世界へ送られた、
神の一人の子の犠牲によってのみ、
これを脱することができる。
我々は
キリストの天啓を信ずることによって救われる
というのである。
生まれながらにして罪人というのは、
道徳的には極めて不合理的と考えられるであろう。
しかし
人間の根底に堕罪を考えるということは、
極めて深い宗教的人生観といわざるを得ない。
・・・それは実に
我々人間の生命の根本的事実を
いい表わしたものでなければならない。
人間は
神の絶対的自己否定から成立するのである。”
(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」
上田閑照【編】
『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』
1989年、岩波文庫、338-341頁)
―――――――――――――――
“我々は神に対することによって人格となるのである。
而して
斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、
逆に
我々が神に結び附くことでなければならない。
神と我々とは、
多と一との絶対矛盾の自己同一においてあるのである。
(引用者中略)
我々は
我々の自己成立の根底において
神に接合するのである
(我々は被創造物であるのである)。
過去と未来とが
自己矛盾的に、
現在において同時存在的なる
矛盾的自己同一的現在の形勢要素として、
我々は
生命の始めにおいて
かかる約束の下に立たねばならない。
我々はいつも絶対に接しているのである。
唯これを意識せないのである。
我々は
自己矛盾に底に深く省みることによって、
自己自身を翻して絶対に接合するのである、
即ち
神に帰依するのである。
これを回心【えしん】という。
そこには自己自身を否定することよって、
真の自己を見出すのである。
ルターは
基督【キリスト】者の自由を論じて、
すべてのものの上に立つ自由な君主であって、
すべてのものに奉仕する従僕であるという。
故に
我々は
この世界の中に自己同一を置く我々の行為によって
宗教に入るのではなく、
かかる行為そのもの、自己そのものの
自己矛盾を反省することによって
宗教に入るのである。
而して
我々が斯く自己自身の根底において
自己矛盾に撞着【どうちゃく】するというのも、
自己自身によるのではなく
絶対の呼声でなければならない。
自己自身によって自己否定はできない・・・・。
(引用者中略)
・・・宗教は
絶対矛盾的自己同一的立場として、
それによって
真の文化が成立するのでなければならない。
我々は何処までも
超越的なる一者に対することによって、
真の人格となるのである。
而して
超越的一者に対することによって
自己が自己であるということは、
同時に私がアガぺ的に隣人に対することである。
他を人格と見ることによって
自己が人格となるという道徳的原理は、
これに基づくものでなければならない。”
(西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」
上田閑照【編】
『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』
1989年、岩波文庫、77-79頁)
―――――――――――――――
“我々の自己が意識的に働くというのは、
我々の自己が
世界の一表現点として、
世界を自己に表現することによって
世界を形成することである。
世界を自己において表現するということは、
世界が自己において主観化せられることでなければならない。”
西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」
上田閑照【編】
『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』
1989年、岩波文庫、305頁
―――――――――――――――
“我々の自己は、
かかる世界の個物的多として、
悪魔的なるとともに神的である。
場所的論理的神学は、
テースムスでもなく、デースムスでもない。
精神的でもなく、自然的でもない、
歴史的である。”
西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」
上田閑照【編】
『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』
1989年、岩波文庫、337頁