〈【前回記事(【21】 ①「成長」という"幻想”!?)】からの続き〉
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いつもは、不親切に、何の断りもなく、
異常に長い引用文を、冒頭に掲げるのですが、
今回は、めずらしく、断りや今回記事の要旨、
冒頭の引用の意図を、最初に述べさせてもらってから
今回記事を、始めさせてもらいます。
《テクノロジー》の機能の姿を捉えるに当たり、
前回記事も含めて、
《経済成長》の姿を探っているところです。
〈GDPのパイの大きさ〉が‟大きくなれば”
《経済成長》と言い、
「豊かさ」には、
《経済成長》が‟無くてはならない”ような空気が
いつの間にか出来上がっていますが、
しかし、《経済成長》は、
私たち一人ひとりの「豊かさ」に
本当に‟繋がり、直結しているもの”なのか?
捉え直そうとしているところです。
――たとえば、
滞ることのないように
社会的分業の循環に
必要な資源を輸入できて
その外貨を稼ぐチカラを
持っているかどうかは見逃せませんが――
じつは、問題は、
〈GDPのパイの大きさ〉では必ずしもなくて
――バブル経済や知的財産権による富の獲得は、
庶民に、恩恵をもたらしません――
ある程度の経済水準を持っていた場合、
〈分配の問題〉なのではないか?
という問いかけが、
デビッド・コーテン
『グローバル経済という怪物』に
所どころ出てきますが、
問題意識は、それ(分配の問題)に留まらず、
「基地から命(ぬち)へ」 ~小指に見る《日本の病理》~
に引用・御紹介させてもらった、
ハーヴェイの《略奪による蓄積》とも
重なるように、
《その経済成長のパイ》は
何か大事なものを
《犠牲にしたり、取り崩したり、浸食する》ことを‟通して、
構築されて大きくなって来ている”のではないか?
そして〈GDPのパイを広げるということ〉は
地球や世の中や私たちの生活空間における
〈非貨幣領域だったところ〉を
――隙間(すきま)産業的に製品やサービスを
新たに創出するなり、
(例えば、モバイル電話のように)
後に社会的に必需や必須となる、
“便利”な製品やサーヴィスを、
新たなニーズや必需品や必須サービスを
創出するなりして――
《商品化/貨幣化(GDPの対象化)すること》
なのではないか?
という意識にまで広がる、というのが、
今回記事で、主に見ていただく趣旨です。
この問題意識は、
この一連シリーズの過去記事で御紹介した
見田宗介氏による《貨幣への疎外》という視点や概念と、重なります。
☆【12-③】見田宗介氏による《根源的独占》 ~ビッグデータ=AI=メガFTA=資本~
(【関連記事】 ☆【12-①】《根源的独占》 ~人工知能=メガFTA=資本~)
ここに来て改めて、
《貨幣への疎外》や或る種の《原始的蓄積》
という考え方や見方を
再度取り上げるワケですが、
しかし今回記事では、
《経済成長の成り行き・都合上》から、
私たちは
《「貨幣への疎外」や「原始的蓄積」》に
"より細分化、精密化され、複雑する形で
より巧妙に、より根深く、
囲い込まれ、取り込まれている”ことを
確認します。
・・・が、そこで、
そうした物の見方の枠組みを確保すべく、
カール・ポランニー『大転換』の
第3章「居住か進歩か」に出てくる、産業革命での
《悪魔のひき臼》や《経済進歩》に伴う災厄、
《商業社会の下での機械の破壊的機能》の模様ついて、
以下に、まず御覧いただきます。
〈カール・ポランニー『大転換』第3章「居住か、進歩か」〉
‟18世紀における産業革命の核心には、
生産用具のほとんど奇跡的というべき進歩があった。
しかしそれは同時に、
一般庶民の生活の破局的な混乱をともなっていた。
(引用者中略)
どのような「悪魔のひき臼(satanic mill)」が、
人間を
浮浪する群衆へとひき砕いたのか。
どれほどのことが、
この新しい物質的な条件によって引き起こされたのか。
どれほどのことが、
新しい条件のもとで現われた経済的依存関係によって生じたのか。
そして、古くからの社会的な紐帯を破壊し、
そのうえで人間と自然を
新たなかたちで統合しようとしたにもかかわらず、
結局みじめな失敗に終わったメカニズムとは、
一体どのようなものであったのか。
自由主義哲学の欠陥の中で、
変化の問題に関する理解ほど
その誤りが明白なものは ほかにないだろう。
自然成長性に対する炎のように熱い忠誠心のために、
変化に対する良識ある態度は
打ち捨てられ、
それがどのようなものであろうと
経済進歩の社会的帰結を
進んで受け入れようとする不思議な態度が
それにとって代わったのである。
(引用者中略)
経済自由主義は、
産業革命の歴史を誤って解釈した。
というのは、この思想は、
社会的な事象を
経済的観点から判断すべきであると主張しているからである。
(引用者中略)
このたびもまた、出来事はイギリス特有のものであった。
このたびもまた、海上貿易が、
国土全体に影響を与えた運動の源泉であった。
そしてこのたびもまた、
庶民の居住に前代未聞の大混乱をもたらしたのは、
巨大な規模の進歩であった。
進歩が国を覆いつくしたときには、
もはや労働者は、
いわゆる
イギリスの工業都市と呼ばれた新たな荒廃の地へと押し込まれていた。
農村の人々は、
人間性を奪われ、スラムの住人と化していた。
家庭は、破滅の淵に沈みつつあった。
そして国土の大部分は、
「悪魔のひき臼」が吐き出した粉炭と廃物の山に埋もれて、
急速に視界から消えつつあった。
保守派も自由主義者も、資本家も社会主義者も、
ありとあらゆる見解と党派の著述家は一様に、
産業革命下の社会状況を
正真正銘の人間的堕落の深淵として描き出したのである。
この出来事について、満足のいくいかなる説明も
いまだに提示されていない。
同時代の人々は、
富者と貧困と支配する鉄の規則性のなかに
破滅の道を見い出したと考えた。
彼らはそれらを、賃金法則や人口法則と呼んだ。
しかし、そうした法則は誤りであることが示された。
富者と貧困をともに説明するものとして、もう一つ
搾取という概念が持ち出された。
しかしこの概念は、
賃金がさらに1世紀のあいだ、
全体として上昇しつづけた事実を
説明することができなかった。
(引用者中略)
われわれ自身の解答は
けっして単純なものではない。
実際のところ、
それは本書の大部分を占めている。
われわれが述べておきたいのは
次のようなことである。
すなわち、
囲い込み期をはるかにしのぐ数多くの社会的混乱が
イギリスに雪崩のように襲いかかってきたのであって、
この破局的災厄は、経済的進歩の巨大な動きにともなうものであった。
それはつまり、
まったく新しい制度的メカニズムが
西欧社会において作動しはじめたことを示すものであった。
このメカニズムの危険は、
最初にそれが出現したときに
すでに社会の急所を衝くほど強力なものであって、
それを真に克服することはけっしてできなかった。
そして、19世紀文明の歴史は、その大部分が
このメカニズムがもつ破壊作用の猛威から
社会を保護しようとする試みのうちにあったということである。
産業革命は、
かつての分離派教徒の燃え上がる心情と同様に
過激で徹底的な革命の始まりにすぎなかった。
しかし新しい教義は、
極度に唯物主義的であって、
際限ない量の物的商品が与えられれば、
あらゆる人間の問題は解決できるだろうと信じるものであった。
この物語は、
数えきれない幾度となく語られてきた。
すなわち、
市場の拡大、
石炭および鉄鋼の存在と
木綿工業に有利な湿潤な気候、
新しい18世紀の囲い込みによって財産を奪われたたくさんの人々、
自由な諸制度の存在、
機械の発明、
あるいはその他の原因が
相互に作用しあい、産業革命がもたらされたというのである。
そして結論的に示されたことは、
このような一連の事象には、
この突然で予期せざる出来事の
真の原因として取り上げられ、指摘されるに値するような
いかなる単一の原因も存在しないということであった。
しかし、この革命自体を
どのように定義すべきなのか。
その基本的な特徴は
どのようなものであったのか。
それは、
工業都市の勃興、
スラム街の出現、
児童の長時間労働、
あるカテゴリーの労働者の低賃金、
人口増加率の上昇、
あるいは
工業の集中であったのか。
われわれは、
これらのすべては
一つの基本的変化、
すなわち
市場経済の確立という出来事に付随しているにすぎず、
また市場経済という制度の本質は、
商業社会における機械というものの衝撃が
理解されないかぎり十分に把握されるものではない、
ということを述べておきたい。
われわれは、
機械の存在が
実際に起こったことのすべてをひき起こした
と主張するものではないが、
ひとたび商業社会において
精巧な機械と工場が生産に使用されれば、
自己調整的市場システムという概念が
必然的に姿を現わすものである
ということを強調しておきたい。
(引用者中略)
精巧な機械は高価であるから、
大量の商品が生産されなければ
生産は引き合わない。
機械は、
それが生み出す商品のはけ口が十分に確保され、
機械を円滑に動かすために必要な原材料の不足によって
生産が中断されることがない場合に限って、
損失をこうむることなしに利用することができるだろう。
このことは、
商人にとって、すべての関係する要素が
販売されていなければならないこと、
すなわち支払う用意のある人〔商人〕には誰でも、
それら要素が必要とされる量だけ
購入できなければならないということを意味する。
もしも この条件が満たされないなら、
自分の金を提供する商人の観点からしても、
所得、雇用、供給を途絶えることのない生産に
依存するようになる社会全体の観点からしても、
特化した機械を使って生産を行うのは
あまりにも危険が大きいことになる。
ところで、
農業社会においては、
このような条件が
最初から与えられているわけではないだろう。
つまり
このような条件は、創り出さねばならない。
かりにそれが徐々に創られていったとしても、
それにともなって生じる変化の驚くべき性質には影響しない。
この転換は、社会の構成員における行動動機の変化を意味する。
生存動機は、利得動機に置き換えねばならない。
すべての取り引きは貨幣取引となり、
それが、
経済生活のあらゆる節目における交換手段の導入を要請する。
あらゆる所得は、
なんらかの物の販売から生み出されねばならず、
個人の所得の実際の源泉がどのようなものであれ、
それは販売から生じたとみなされねばならない。
「市場システム」という単純な言葉は、
まさしくこのことを含意するものであり、
この言葉によってわれわれは、
右に述べたような制度的パターンを指し示すのである。
しかしながら、
このシステムのもっとも驚くべき特異性は、
ひとたびそれが確立されれば、
外部からの干渉を受けずに機能することが必要になるという事実にある。
利潤はもはや保証されず、
商人は 市場においてみずからの利益をあげなければならない。
価格は、
みずから調整することを認められねばならない。
このような諸市場の自己調整的システムこそ、
われわれが
市場経済という言葉で意味するものなのである。
過去の経済からこのシステムへの転換は
まったく完璧に行なわれているので、
連続成長とか連続的発展という言葉で
表現されるような種類の変化というよりは、
毛虫の変態に似ている。
たとえば、
商人=生産者の販売活動を、
その購入活動と
比較してみよう。
彼の販売するものは、
もっぱら人工的につくられた物である。
彼が買い手を見つけることができようができまいと、
社会の組織は
必ずしもそれに影響されない。
しかし、彼が購入するものは、
原材料と労働、すなわち自然と人間である。
商業社会における機械生産は、
詰まるところ、
まさに社会の自然的実在と人間的実在の、商品への転化を必要とする。
この結論は、
奇妙に聞こえるかもしれないが、
避けられないものであり、
これ以上のものは結論の名に値しないだろう。
このようなからくりによって引き起こされた混乱が、
人間相互の関係を解体し、
その本来の生活環境を破壊するおそれがあることは
明白である。
このような危険は実際に切迫していた。
われわれは、
自己調整的市場のメカニズムを支配する法則を
検討することによって、
この危険の真の性格を
認識することができるだろう。”
(カール・ポラニー【著】/野口建彦・栖原学【訳】
『大転換』 P.59-71)
文字数制限の都合上、
今回記事では、中途半端な格好で引用しつつ、
次回記事でも、今回記事の引用箇所と重複しますが、
続いて以下に、
デヴィッド・コーテンによる
『グローバル経済という怪物』
第3章「成長という幻想」の中から
《経済成長の或る創られ方の様子》を
以下に御覧いただきます。
‟成長に歯止めをかけろというと、
必ず、
貧困者を永久にそのままにしていおくつもりなのか
という抗議が起こる。
皮肉なことに、
貧困者の生活層の生活改善が経済成長次第だ
と主張するのは、
開発問題の専門家や、経済学者、金融業者、会社経営者など、
何の苦労もなく日々の糧を得ている人々だ。
貧困者の関心は、
生活の場であり生計の手段でもある土地や水の確保、
生活できるだけの収入が得られる仕事、
子供に対する医療や教育に向けられている。
金が支配する社会にあっては
彼らも「金がほしい」というかもしれないが、
「経済成長が第一だ」ということはまずない。
それも無理はない。
貧困層の生活は
景気のよい時に悪化し、不景気になると持ち直すことが多いからだ。
理由は簡単である。
経済成長を促す政策とは、
労働者を犠牲にして資本家の手に所得や資産を集中させる政策なのだ。
成長そのものが貧困の原因だとは言えないが、
成長の名のもとにとられる政策は
往々にして貧困を生み出す。
例えば、
次のような政策とその結果を考えてほしい。
・天然資源の枯渇を促す政策によって、
経済的強者が利益を得る一方、
弱者は生計の基盤を荒らされる。
・さまざまな活動が金銭に換算されることで、
労働者階級は
金への依存を強め、
ひいては、
資産を持ち、専門的サービスを提供し、
労働市場を握る富裕階級への依存を強めることになる
・農地、山林、漁場の管理権を、
実際にそれで生計をたてる人々の手から、
利潤を求めて投資する資産家の手に移すことによって、
生産レベルは上昇するが、
資産の所有権は
資本家階級に握られ、
低賃金労働者が拡大し、ひいては賃金水準も低下する。
フィリピン・ベンゲット地方の先住民であるイゴロット
(「山の民」の意)は、
先祖伝来のちに埋蔵された豊かな金の鉱脈を
少しずつ採掘しながら暮らしてきた。
男たちが山に小さなトンネルを掘り、
そこから出てきた石を女や子どもが砕いて、
トウモロコシの粒ほどの小金塊にした。
今その土地は、
フィリピン人富裕層、フィリピン政府、アメリカ人投資家が
ほぼ3分の1ずつ所有する、ベンゲット・コーポレーションの
巨大な金採掘鉱場がいくつもでき、
輸出用の金を大量に採掘している。
何十台ものブルドーザやクレーンやトラックが
山肌を切り刻み、樹木も土壌も根こそぎにし、
膨大な岩を川に捨てている。
先住民たちは嘆く、
水が汚染され、米やバナナを栽培することもできず、
山ひとつ越えないと飲み水の確保も水浴びもできなくなった。
会社の連中は
我々の採掘権を無視し、こちらの金鉱にまで手を出してくる、と。
イゴロットは
岩から金を分離するのに水を使うが、
会社は
シアン化合物などの有毒化学薬品を使い、使用後は川へ流す。
水が汚染され、それを飲んだ家畜は死ぬ。
下流にあるバンガシナン地方の水田では、
流れ込む排石のため収穫量が激減し、
推定で年間2億5000万ペソの被害が出ており、
多くの農民が田を捨てて移住している。
さらに下って海に出ると、
排石がサンゴ礁を覆ったため
漁業量が大幅に減少しているという。
だが、経済は成長した。
ベンゲットをはじめとする大手採掘会社は、
年間に総額11億ペソの利益を上げている。
膨大な富が、貧者から富者の手へ移動したことになる。
このような話は、
採掘会社が入り込んだ地域では
すっかりおなじみだ。
貧困層の生活が破壊されているのは、
金鉱の近くだけではない。
伐採業者は地元住民の権利を無視して森林を乱伐し、
山を裸にしている。
フィリピン南部、
ブキドノン地方のサンフェルナンド村に住む若い夫婦は、
「森がなければ食料が手に入らず、
食料がなければ生きていけない」と嘆いた。
ある老人によると、
伐採業者が来る前は
「魚もトウモロコシもコメも たくさんとれた」という。
それだけではなく、
川の流れが変わり、水も濁って浅くなってしまった。
これまで洪水などなかった地域でも、
モンスーンの季節には
あふれ出した川水で周辺の農地が水浸しになる。
乾季に畑をうるおしていた小川は消えた。
雨季になると、あちこちで土砂崩れが起きる。
以前はネズミも森でエサを探し、
天敵のおかげで適正数に抑えられていたが、
森が消えた後は
夜な夜な畑の農作物を荒らすようになった。
かつては豊かに栄えた村だったのに、
今では子どもの8割が栄養失調に苦しんでいる。
経済成長促進の旗印のもとに
莫大な公的補助金が支出され、破壊を助長されている。”
(デヴィッド・コーテン【著】/西川潤【監訳】/桜井文【訳】)
『グローバル経済という怪物』P.54-56)
〈次のページ(【19-⑮f】「成長経済システム」という《ガレー船を漕ぐ、我ら奴隷》)につづく〉