【21】①「成長」という"幻想”!? ~監視-AI-メガFTA-資本~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

近日イベントなどの告知 【7月20日更新】
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ヴァツラフ・ハヴェル・チェコ共和国大統領(当時)

近代という時代は、
もはや終焉したと考えてよいだろう。
現在のさまざまな状況は、
世界が過渡期にあること
を示している。
消えゆくものと、痛みをともなって生まれてくるものとが、
混在している。
あるものが崩れ落ち、
腐臭を放ちながら力尽きていく一方で、
その廃墟の中から
まだ形のない何ものかが姿を現しつつある
ようだ。」
(デイヴィッド・コーテン【著】/西川潤【監訳】/桜井文【訳】
『グローバル経済という怪物』P.3)

◆□●◇■〇◆□●◇■〇

高樹が
経済成長》について取り上げるのは、
今日の《グローバル化》の歴史や背景を
捉えるに当たって必要な一環
だと
思っているからです。


前回(c)】、【前々回記事(b)】でも、
デーヴィッド・コーテン
『グローバル経済という怪物』の内容を
引用に使っていますが、
今回記事では、
デーヴィッド・コーテンによる著書
『グローバル経済という怪物』で
紹介されている
経済成長》について取り上げます。

今回の記事のタイトルは
その『グローバル経済という怪物』のなかで
その第3章として設けられている題名
成長という幻想」から
そのまま拝借させてもらいました。


いまの世の中で
私たちが生きていくのに、
無くてはならない至上命題
のような
社会の中心的な軸の一つとして
「経済成長」という言葉

使われたり、
出てくるにもかかわらず、
しかし、


では、経済成長とは、
一体、どういう仕組みであるのか?


なぜ今の私たちの社会に
無くてはならないのか?


と問えば――自問すれば――、
その仕組みを説明できないことに
気づかされる
にもかかわらず、
《この現代社会では、
大きな位置を占める用語》であることは
間違いないのではないでしょうか?

それは、つまり、
経済成長》という言葉にすら、
私たちも社会も“振り回される”ほど

この社会で、
重大な位置を占めているモノ

とは言えるはずです。

その正体を、我らのほとんどが、
実は、よく理解していないのだけど、
世の中にあふれる言説を通して
この世の中では
至上命題のようになっていることだけは
感覚としては分かる、
尺度や用語としての《経済成長》。

しかし、
《経済成長》は
なぜ無くてはならないのか?

どのような状況や環境になったから、
《経済成長》は
無くてはならなくなったのか?

《経済成長》が
私たちに無くてはならないのは
本当のなのか?
無くてはならないのだとしたら、
何故か?


今回記事は、
それら疑問に
十分に答えるまでには
行かないかもしれませんが、
《経済成長》を
新たに捉え直すのに、
気づきをもたらす物の見方は
提示できるのではないか?
と意図するものです。

――・――・――・――

『グローバル経済という怪物』(邦題)
(原題「When Corporations Rule the World」)
の著者デイヴィッド・コーテンは、
アメリカ政府の
公的対外援助機関である
国際開発庁(USAID)で
上級顧問に就く開発エリートでしたが、
〈国際機関〉や〈多国籍企業〉が推進する
《開発》というものが、
人間や社会や環境を
破壊するものであること

自覚させられて
USAIDを辞職し、
「民衆中心の発展フォーラム」
というNGOを
ニューヨークに設立し、
そしてこの
『When Corporations Rule the World』
(邦題『グローバル経済という怪物』)
を書くなど発信活動や政治活動を
行なうのですが、
コーテンには、
次のような転換があったようです。


1937年に
ワシントン州の小さな町ロングビューの
保守的な白人中流家庭に生まれ育ち、
実家のレコード・電気器具店という家業を
引き継ぐつもりだったので、
国際問題に関心はなく、
スタンフォード大学で心理学を専攻し、
購買行動の心理などに
関心を持っていた著者が、
大学4年生のときに、
「現代革命論」という
政治学の授業を取り、
その授業では、
世界中では、
貧困が革命の温床となっており、
貧困と
世界中で起こっている革命とにより、
著者が自明視してた

アメリカ的なライフスタイルが
脅かされている、
という脅威意識や危機意識から、
スタンフォード経営大学院への進学に
進路を変更します。

アメリカ的生活の在り方を脅かす、
「貧困-革命の脅威」に対抗すべく、
“現代資本主義の恩恵を
まだ受けていない世界の人々に
企業経営知識と企業家精神を
もたらそう
”という意識から、
コーテン氏は
国際経営論の経営修士号、
組織論の博士号を取得し、
兵役義務を果たしたあと、
ハーバード経営大学院、
ハーバード国際開発研究所、
ハーバード公衆衛生大学院、
フォード財団、
アメリカの国際開発庁(USAID)に
勤務する
など、
様々なポストを渡り歩くような
開発のエリートであった著者が、
或ることに気がつきます。

自身の経歴を
詳しく紹介したあとに、
コーテンは、こう書きます。


‟こんなことを詳しく書いたのは、
私の経歴がいかに保守的であるかを
知ってもらいたいからだ。
だが面白いのは、
その過程における認識の変化である。
保守はのみならず
一部のリベラル派までもが推進している
「開発」というものが、
地球規模で進行する危機への解決策ではなく、
むしろその原因であると考えるようになったこと
だ。
(引用者中略)

70年代前半、私はINACの顧問として、
経営学の授業で使う
ハーバード大学院スタイルのケーススタディを
いくつも作成した。
ラテンアメリカで行われた
都市、農村の貧困改善プログラムの実例は、
政府や会社、非営利団体が主体となって
外から押し付ける
開発」が、
貧しい人々恩恵を与えるどころか
逆に彼らの人間関係と地域社会破壊して苦しめている

という思ってもみないメッセージを発していた。
反対に、自信を持った住民が
自発的に開発を行なえば、
よりよい社会を築くために驚くほどの力が発揮された

これからの開発計画は、
こういった自主的な草の根活動を支援すべきだ、
と私は思った。
(引用者中略)

〔コーテン氏が
マニラのフォード財団に移った後に、
フィリピン国立灌漑局(NIA)とフォード財団とが、
小規模の自営農家の灌漑システム整備事業で、
この事業を通じて、
NIAとフォード財団との間に
長期的な協力関係が生まれ、
さらにNIAと農民団体との間に協調関係が生まれて、
農民たちの自主的な運営を
NIAが任せるように変わる様子を、
コーテン氏が見て〕
 ここで感じたことは、
住民が主体となって開発を行えば、
驚くほどのエネルギーを住民から引き出せる
ということだ。
外国からの援助に頼ったお仕着せの開発計画では、
たとえ住民の参加が盛り込まれていても、
これほどのエネルギーを引き出すことはできない
・・・・USAIDが私を招いたのも、
この経験をアジア地域の開発に生かしてほしい、
という理由からだった。
私はUSAIDで8年間アジアの開発に携わったが、
最終的には、
巨大かつ官僚的なUSAIDには、
他の開発機関の民主化を効果的に促せるわけがない

という結論に達した。

 こうした経験を通じて、
本物の開発を外国の援助金購うことできない
と確信するに至った。
開発の成否は、
住民地元の資源
――土地、水、労働力、技術、そして人間の知恵と意欲――を
どれだけ管理できるか
そしてそれをどれだけ効率的に利用して
自らのニーズを満たせるか
にかかっている

ところが大きな開発計画のもとでは、
地域住民のニーズよく理解しない巨大機関
資源の管理権を握る
中央の機関から流れ込む金額が大きくなればなるほど
人々は依存体質に陥り
自分たちの生活や資源コントロールできなくなる
そして、権力を持つ者と、
地域社会で自助生活を送ろうとする者との溝が深まっていく


 私は、
経済成長
必ずしも 
人々に よりよい生活をもたらさないことを知り、
根本的な問いを抱くようになった
民衆を 成長達成のための単なる手段としか見ない
経済成長中心開発
をやめ、
民衆が主要な手段でもあり目的でおあるような
民衆中心の発展を実現するには、
どうすればいいのだろうか?
84年に『民衆中心の発展』、
86年に『地域社会運営論』というアンソロジーを編集したが、
いずれも、資源の管理権を
民衆の手に取り戻すことの重要性
を訴えた内容だった。

 開発から恩恵を受けるはずの人々が、
資源の管理権
巨大開発機関やプロジェクト奪われ
それでもなんとか自己の尊厳と生活水準を守ろうと
必死に闘う様子
を見るにつけ、
私は主流派の開発理論賛同できなくなっていった

88年に私はUSAIDを去ったが、
そのまま東南アジアにとどまった。

 公的開発機関幻滅した私は、
やがて非政府機関(NGO)の世界に身を投じ、
そこで知り合った仲間と、
開発とは何か、どうあるべきか、
といった基本的な問題を論じ合うようになった。
そして、
NGO同士の対話から生まれる集団的見解を調整し、
書きとめる役割を担った。
そこで学んだことをもとに、
私は次の著書『NGOとボランティアの21世紀』を執筆した。
テーマは、
貧困の悪化、環境破壊の進行、そして社会の分裂
という3つの大きな危機であり、
その原因
人間を
単なる手段としてしか扱わない経済成長中心開発モデルにある
と論じた。
現代社会の支配的制度
成長第一の開発思想産物である
から、
変革は自発的な市民運動の側から起こすしかない、
というのが結論だった。”
(D・コーテン【著】/西川潤【監訳】/桜井文【翻訳】
『グローバル経済という怪物』 P.8-9)

1992年夏に、
コーテン夫妻は
開発の現場である東南アジアから、
母国アメリカに戻るのですが、
彼らがアメリカに戻った理由を
彼らの友人や同僚に送った
クリスマスカードに、
次のように記します。


‟私たちが60年代前半に
東南アジアを目指したのは、
かの地こそ、学生時代に
自分の生涯を捧げようと決心した開発問題の中心舞台である
と信じたからです。
私たちには、
東南アジアの人々にアメリカの成功体験を分かち与え、
「彼ら」が「われわれ」のようになれる手助けする、
という大きな使命が待ち構えていました。

 30年前に私たちが学んだ開発は、
現在でも世界銀行国際通貨基金(IMF)ブッシュ政権
その他の世界中の強力な経済機関実践されていますが、
ほとんど成功しているとは言えません

しかも失敗の原因は、
いわゆる「低開発国」の貧しい人々にあるのではなく
大量消費の生活様式世界中に広め
社会と環境を自滅に導くような政策振り回す国々にある
のです。

 30年の年月がたち、
妻も私も少しは賢明になり、
アメリカの「成功」
世界にどれだけ大きな問題をもたらしているか
を悟りました。
それがもっとも顕著なのは
ほかならぬアメリカ国内
です。
母国を遠く離れてアジアで暮らす私たちには、
アメリカの実感がよく見えました。
アメリカ諸外国押しつけてきたのと同じ政策のせいで
いわば国内第三世界が作られています
貧富の差が拡大し
対外債務が累積し
教育制度が崩壊し
幼児死亡率が上昇し
残り少ない森林を伐採してまで1次産品輸出に頼り
有毒廃棄物が垂れ流され
家族や地域社会解体の危機に瀕している
のです。

 私たちがアメリカにいない間に、
ひと握りの有力者が
アメリカ中の富を手中に納め

貧しい隣人に対する責任を放棄していました

労働組合にも、かつての力はありません
職を失いなくない労働者は、
賃金カットに甘んじなければ
もっと厳しい状況にある失業中のメキシコ人や
バングラディッシュ人などと競争できないのです。
しかも、賃金カットをしているのは、
社名こそアメリカ風であれ、
国への忠誠心などかけらもない会社
なのです。

 私は外国の生活で多くのことを学びました。
次は母国に帰り、
問題の出所であるアメリカデ行動を起こすべきだ
と考えたのです。
世界有数の大都市ニューヨークには
第三世界の問題
すべて凝縮されています

街をさまようホームレスの隣で、
金持ちや有名人が繰り広げる途方もない贅沢

無為無策の政府。
そして無差別な暴力の横行。
この街こそ、
これからの活動拠点にふさわしいと思ったからです。
私たちは自らの怪物の懐に飛び込み、
30年の経験を生かして問題解決に取り組む決心をしました。

初めは、
貧困者の問題は彼ら自身にあると考え、
「われわれ」に近づけることによって
それを解決してやろうと考えた。
しかし私と妻がアメリカに戻ったのは、
ほかならぬ同国人に、
私たちがこの世界――アメリカも含めて――を
どれだけ破壊的な道に導いてしまったかを、
知ってもらうため
だった。

私たちが変わらなければ、
彼らは
私たちに奪われた社会的・環境的空間を取り戻すことも、
協調的パートナーシップに基づく
公正で民主的で持続可能な世界の中で
自らのニーズを満たすこともできないのだ。”
(同 P.12-13)

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デーヴッド・コーテン氏が、
開発エリートのキャリアを辞め、
ニューヨークを拠点にして

市民活動に取り組むようになり、
発信活動の一環としての本書を
書き著わす経緯を、
今回記事をもって、
以上に見ました。

次のページでは、
なぜコーテン氏が、
“成長という幻想”という題名で
まるまる1章を設けて
叙述を展開するのか、
その内容を見ていきます。

次のページ(本題
(【19-⑮e】「悪魔のひき臼」〈②「成長」という"幻想”!?〉))に続く〉