《沖縄ヘイト》と《LGBTヘイト》と《生保バッシング》と《"自己責任”型全体主義》と |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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突きつめれば「命どぅ宝」!
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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


複数性」は「所有」できるようなものではない
「家族」や家族の展開した組織体のなかで
「力」を「所有」しようとする場合、
ひとは
「神」のように自分の「似姿」をつくろうとしてしまう
家族的な人間関係は、
異なる意見が流入する場であるというよりも、
親和的で単一的な意見が支配する場である。
そこでは
もっとも相違するひとびと」、
すなわち個々の人間の独自性排除され
複数性」という「政治的なるもの」にとって
欠くことのできない特質
捨て去られている
(引用者中略)

『全体主義の起源』第2部「帝国主義」の最終章で、
アーレントは、
「人権」概念のアポリアを分析している。
それによれば、
哲学および神学の伝統のみならず、
近代の政治的革命の自己理解も、
単数の人間」という発想をまぬがれていなかった。
「人間の概念は、
政治的に使用可能な概念となるためには、
人間を複数として包括するものでなくてはならない」。
(Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft,cit.,S.454.)

神の前の平等」はすでに保証能力を失った
法の前の平等」は人間じたいを権威の源泉とした
それによって人間は、
いっさいの権威と条件から解放された
のだが、
他方、その「なかに
あらためて権威を帰することができるような「人間一般」などは
どこにも存在しない。
それゆえに、近代革命が、
なんらかのより包括的な秩序関係なく
自分自身の中に尊厳を保持する「人間」

つまり
「完全に解放され」「完全に孤立した」「人間」という存在を
つくりあげた
としても、
その「人間」は、
すぐさま「人民の一員」へと解消されてしまうために、
複数性見失われる
そこでは「人間の複数性」は、
「人間」と「人民」が同一視されることによって
かろうじて形式的に可能となっているだけである。
(引用者中略)

人間の「なか」に「政治」はない
個人のなかに政治的本質があるのではなく、
政治」はあくまで一人の「人間」のそと」に
つまり複数のひとびとの《あいだ》に、
ひとびとを「関連づける」ものとして成立する

(引用者中略)
「人間」が政治的なのではなく、
複数として《あいだ》を成立させることが、
アーレントにとっての
もっとも「人間的な」ことなのだ。
しかも、この空間
なんらかの個人に内蔵するものでもない
それは
アーレントがのちに強調することになる《世界》
ほかならない。

 アーレントは、
人間が相互に「関係」もたずに孤立する状況
全体主義を生み出す土壌
と考える。
孤立するした人間が無限に併存する状況においては、
そもそも《あいだ》の空間など生じないばかりか、
そういう《世界》がありうることすらも忘却されている
の「無世界性」を全体主義襲う
全体主義のテロル
人間と人間の《あいだ》の空間完全に無化

巨大なひとつの「人間」にした
その《あいだ》こそは、
アーレントの意味する「自由」の存在する空間
なのである。
しかし、それは
現代の発想では
想像することさえ難しい「自由」となってしまった。
(引用者中略)

政治の意味は自由である」とアーレントはいう。
意味」とは、
目的手段関係とは別の「存在理由」
である。
「目的」が
「そもそも
それを産出した行為が終わってから現実となる」のにたいして、
意味」は「遂行中に開示される」。
くりかえすが、
自由」とは、
「相違」しかつ「対等」なひとびとの《あいだ》で
行為でいること
を指している。
それは、
ひとが単数の「人間」としての自分自身の「そと」に出ることができる
ということであり、
「複数性」を「共有」することであり、
さらには他者との交わりのなかで
自分のかけがえのない「交換不可能性」を獲得できる

ということである。
それを、アーレントは
《現われ》(Erscheinen,appearance)としての《活動》(Handeln,action)と呼んだ。
アーレントにとっては「政治」は《現われ》であり、
「政治」にかんするかぎり、《現われ》がすべてである。
《現われ》こそは、
人間を複数として包括する概念」であり、
「人間の尊厳」を「保証」するための装置である。
(引用者中略)

「政治」は、関係としての対等性である。
関係性に相違するひとびとでなく、
「絶対的に相違するひとびと」を組織する
ここから、アーレントの意図する「政治」が、
「絶対的に相違するひとびと」を「関連づけ」、
そうしたひとびとの《あいだ》に
関係として「対等性」をつくりだすこと
によって、
それぞれの個々人の「交換不可能性」を保証することである
と結論づけても まちがいあるまい。”
(矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』P.58-63)

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松本春野さん、辛淑玉さん、宇都宮けんじ候補
@渋谷2014/2/2


180808 NO HATE TV 第44回
「杉田水脈こそが自民のエッセンス」


NO OSPREY 東京集会
翁長雄志 共同代表・市長会会長 あいさつ


2013-01-27 オスプレイデモ


翁長沖縄県知事逝去
杉田暴言に続く抗議
水道民営化
安田純平さん
ウィークエンドニュース デモクラシータイムス


20150302 のりこえねっとTV
「曽野綾子さん、あなたアウトです!」
斎藤貴男×野間易通

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杉田水脈議員による生産性》尺度に基づく
LGBT者、障碍者や老齢者などへの
存在否定に結びつく《ヘイト》発言

【《生産性》についての関連記事】
【10-②】人間の《資源化/在庫化》と、フランクルの「態度」という生き方
【10-③】V・E・フランクル「態度」《監視社会=人工知能=プラットフォーム=メガFTA=資本》

同じく杉田議員による
科研費をめぐるアカデミズム攻撃》、
また小泉チルドレン議員の《生活保護バッシング》や
《レイシズム》、
そして生前に翁長雄志氏が
2013年の「NO OSPREY 東京行動」で
銀座の沿道から、
ウヨ達から浴びせられた《ヘイト的罵声》などへの
この現在の日本社会で、
杉田水脈議員が、
世間に対して《煽って噴出させようとした
怒りや報復、攻撃のマグマ
》を捉えるのに、
今から約14年前の刊行になりますが、
いま現在において、
〈杉田水脈議員のような人間たち〉が
《ヘイトを掻き立てよう》とする際の、
《社会的環境や社会的背景》
を考える
のに
いまだに、その新鮮さを保っている
テッサ・モーリス=スズキ氏による
『自由を耐え忍ぶ』の「あとがき」の箇所は
学ぶ点が多いように高樹には思われ、
以下に御紹介します。

がしかし、
テッサ・モーリス-スズキ氏の叙述中に
出てくる“全体主義的個人主義
という表現については、
お断りの必要があるかと思い、
僭越ですが、
前置きを述べさせていただきます。

個人主義」という言葉や概念は
〈立憲主義を理解している人〉と
〈立憲主義を理解していない人〉とでは、
「個人主義」という言葉に対する見え方が
まったく異なっています

右寄りの人が、
「個人主義」を
‟我関せず”主義であるかのように
理解・認識したまま
個人主義や、
日本国憲法のコア思想である
「基本的人権の尊重」に対して
憎く思っているような言動を
目耳にすることがありますが、
‟我関せず”主義
“自分さえ良ければいい”主義だと、
トンチンカンに誤解したままだと、
なぜ憲法学者の方々や弁護士さんが
自民党改憲草案への改憲に対して
反対してたり危険視しているのか、を
‟理解しないまま“、
それこそ、
〈イデオロギー的な事柄〉に見えてしまうでしょう。

すくなくとも何故に弁護士さんが
《自民党改憲草案》を危険視し、
「個人的人権の尊重」という枠組みを
大事にしているのか
というと、
国家権力など公権力の横暴》や
恣意的な権力行使》から

私たち一人ひとりの個々の生命や身体、
自由や精神
価値観思想信条)を
傷つけられないように守ってくれる
‟個人主義”という法思想の枠組み」が
「確保してくれる」
からです。

その事から、
自分の精神や思想の内容が
たとえば〈保守思想〉であった時に
〈全体主義や専制主義の政府〉によって
《旧ソ連バンザイ主義》に
自分の思想信条を、
《拷問や洗脳などの暴力》でもって、
《強制的に変えさせられる》のは、
苦痛ですよね?

そこで
《国家による拷問や洗脳の暴力》から
自分の生命・身体・精神・財産を
権利として「守ってもらう」
ために、
「公権力を縛る、法の仕組み」として、
(国家は
個々人の社会契約から成り立っており、
個々人が国家に「先行」する位置づけの)
「個人主義」という思想内容の枠組みが
拵えられている、と考えた場合、

“自分さえ良ければいい”主義とは
だいぶ違って見えるはずです。

〈参考記事〉☞「個人の解放としての人権」と《同調圧力》 (樋口陽一 『四訂 憲法入門』より)


樋口陽一さんが語る
一人ひとりの「個人」の自由の大切さ

《マガ9学校 第28回 立憲主義と民主主義
~主権者って何する人?~ 伊藤真さん》


以下に見ていくモーリス-スズキ氏による
”全体主義的個人主義”という表現を、
高樹は、個人的には、
全体主義的自己責任主義”や
自己責任型全体主義”として
改めて読み替えて
理解・認識しています。

というのも、
以下の引用文出てくる叙述で
展開されているように、
かかる個人の責任ではないもの
(人災や環境や社会的構造、
《政治的人災など
個人の問題ではないもの)まで
同調圧力的や全体主義的に
個人の責任にさせられる空気》が
描かれ、指摘されているからです。



“イラクで武装勢力に誘拐されて
生命の危機にさらされていた
フィリピン人トラック運転手のアンヘロ・デラクルスは、
2004年7月20日に無事解放された。
フィリピン政府が
武装勢力の要求を受け入れ、
イラクから軍を撤退させる決定を下した直後のことだった。
フィリピンに帰国したデラクルスを
大勢の人々が出迎え、
政治家ら要人が人質の生還を歓迎した。
マニラ中心部の高速道路には
「おかえりなさいアンヘロ」
と書かれた派手な横断幕まで掲げられた


 オーストラリアのあるテレビ局は、
そのようなフィリピンでの様子の映像を冒頭にする
ドキュメンタリー番組を制作し、
4月にイラクで拘束された3人の日本人、
今井紀明、郡山総一郎、高菜菜穂子への日本の反応と
フィリピンでのそれとの違いを鮮明に対比させた

そのドキュメンタリーは、
日本のメディアや世論の多くが、
解放された人質に対し
敵意や怒りを向けたことについて、
驚きを表明している

さらに、その3人や3人の家族が
今も受ける苦痛を克明に映し出した。

 実際、イラクでの人質事件に対する日本の世論の反応は、
世界中で驚きをもってむかえられた

日本のメディアが、
人質になった人々やその家族たちに
同情しないばかりか、
人質が危険な地域に出向いたことを非難したり、
また人質救出のため家族が日本政府に
イラクからの自衛隊撤退を要求したことを批判したりするのを観察し、
多くの海外メディアは当惑した。
人質に対して「自己責任」論が最高潮に達した時、
私はオーストラリアのあるラジオ局から電話を受け、
コメントを求められた。
人質に対する今回の異常な反応は、
「罪の文化」ではなく
「恥の文化」を持つ日本社会の特異性の発露であり、
それを強調するのが、番組制作の意図だという。
私はその依頼を受けることができなかった。
今回のできごとが持つ意味は、
「恥の文化」などという陳腐なステレオタイプで説明がつくものではない。
しかし、(ありがちな話だが)
マスメディアは 手短で単純な説明を求める。

 他の出来事に対するメディアの過剰反応と同じく、
この人質事件もしばらく経つと沈静化した
しかし、

今回の「自己責任」についての議論奇妙な転倒
再考する意味はあるだろう。
というのも、
単にそれが解放された人質たちの生に 大きな影響を与えた
ということだけでなく、
本書のテーマでもある現在進行中の社会現象
根強くつながっている
からである。

 言うまでもなく、
自己責任にかかわる言説
自由の概念と密接不可分な関係にある。
近代の自由主義思想は、
自由な選択とその選択の結果に責任を負い
政治経済生活にいそしむ自律的な個人像の上に立脚している

しかし、21世紀初頭の自由主義思想においては、
自由や責任にかかわる諸概念
いくつかの特異な政策獲得し、変容を遂げた


「自己責任」のイデオロギーは、
多くの局面で原理主義的熱狂をともない追及され
あらゆる問題一つの説明原理減価した

すべてのこと自律した個人による自由な選択の帰結である
とする説明
である。
(その説明を採用すると)
イラクでの拘束という事態は、
単に危険な場所に身をさらした人々自身の意志決定から派生したものに過ぎない
同様に、失業者やホームレスも
純粋にその人々自身が成功する能力に欠けていたからである。
自己責任へのこの原理主義的なアプローチは、
個々人の選択背景にある
政治的、社会的、経済的文脈にかかわる複合的な諸問題
から
目をそらすことを容認させる

産業構造の変化、技術革新、教育政策の失敗といった
いろいろな要因
が、
失業や貧困をもたらしているのではないか
という問い不必要となる

イラクでの人質事件についていえば、
イラクの武装勢力が日本を敵視する理由は何か
とか、
主要メディアが
戦闘に参加している軍の戦略に
「埋め込まれて(embedded)」しまった戦争において、
フリージャーナリストの役割がいかに重要か、
といった重大な疑問
問われない

 我々がこのように極端な原理主義的方法で
「自己責任」の概念を追求すると、
いったい何が起こるのだろうか?
第一に、
責任の所在
完全に個人に帰されるゆえ

個々人の小さな決定を批判することは容易となる

しかし、例えば
政府や企業の判断といった
多くの個人による複雑な絡み合いの中で生じた大きな集合的決定
批判すること
まず不可能となる

その結果、イラクで拘束された人々
日本政府に「迷惑」をかけた者として非難され

後に存在しないことを認めざるをえなくなった大量破壊兵器を
破壊するための戦争に加担した
日本をはじめとする各国政府の「責任」

不問に付される

だからイラク侵略の過程で
1万人以上のイラク人を殺害した「迷惑」についての責任
を、
各国政府はまだ認めないまま


 同じく、
自己責任」を武器として
人質への攻撃に加わったメディアが、
報道という自らの基本的な責任放棄していること
批判されることはない

この際のマスメディアの基本的責任とは、
例えば、
政府発表を検証することや
日々変化する事態にかかわる客観的な取材、
そして視聴者・読者へその情報を提供すること
である。
イラク侵略にかかわる各国政府の発表を無批判に受け入れ
その戦争への反対意見冷ややかな反応を示した

アメリカ、オーストラリア、日本のメディアの
編集責任者やプロデューサーたちが、
自分たちの「無責任」ぶり
を謝罪したという話を
私は今まで耳にしたことがない。

 「自己責任」の論理をさらに突き詰めると、
個々人が それぞれの生について
全面的最終的に責任を負うのであって、
(それゆえ論理的には)
誰も他人については責任を負う必要がなくなる

その結果
非常に偏狭で内向きで閉じられた個人主義助長される

既存の社会秩序
あるいは
他人に「迷惑」をかける危険性のある外部世界
との交渉
忌避されることになる


 イラクでの人質事件にかか割る議論で
もっともアイロニーに満ちた局面は、
おそらく大衆感情の盛り上がりだった。
それは「自己責任」という価値観服従せよ
とする共同体ヒステリーと化した

人質たちに憎悪のメッセージを発することにより
その帰属と連帯を強化しようとする試みが、
全国規模で行われた

この憎悪が持った力は、
今回の一連の事件の中で最も困惑させられる出来事だった。
(中略)

 この極端な原理主義は、
個々人は
自らのことのみに関心を持つべき
であり、
従って、
なにごとも社会に要求せず
国家に「迷惑」を及ぼすことを禁ずる
ポピュリズムによるヒステリーの助けを借りた
政府及び企業市場が強調する個人主義である。
すなわち、自己責任の教義は、
ここ全体主義的個人主義(totalitarian individualism)に変質する


 おそらく全体主義的個人主義は、
その言葉が示すほどには
矛盾を孕むイデオロギーではあるまい。
極端な自己責任のイデオロギー共同体的憎悪の高まりの間には
直接的な連関
がある、
とジグムント・バウマンは指摘した。
ジャーナリスト、デッカ・アイケンヘッドによる
イングランド西部で自然発生したデモについての記事を、
バウマンはその一例として紹介する。
小児性犯罪での服役を終え出所した者に向かい、
ごく普通の人々が、
「ここから出て行け!」とヒステリカルに叫ぶ。
アイケンヘッドも述べているように、
このデモは小児性犯罪防止にとって
ちっとも実効性のある行動ではない
むしろ、このデモは
「咎めをうけることなく他人に対して
大声で公然と憎悪を表明する数少ない絶好の機会」だった

現代社会では、
個々人は
ますます自己責任を負うように迫られ

労働組合、宗教、地域社会といった、
かつて人々に帰属意識や生きる意味を提供してきた社会組織は
その結合力を失っている
まさにこの文脈によって、
憎悪の共有だけが、人々に他者とともに帰属と連帯感を、
素早く強力に しかも心地よく提供する唯一の道となってしまった

こうして人々は、
バウマンがいうところの
プライバシーの刑務所(the Prison of privacy)」からの
つかの間の安らぎを享受することができるのである。

 普段は見つけることができない
政治的なはけ口や恐怖やフラストレーションを、
人々は
憎悪によって代替し、表現できる
それゆえ憎悪の共有と高揚は ますます増大する
のだろう、
とバウマンは述べた。
この意味において、
憎悪およびヒステリーの政治学は、
私が本書で論じた政治的無力感
深く結合したものである。
自由を謳歌せよ、自己責任を負え
と いかに教化されようとも、
多くの人々は、
自分たちが理解も管理もできない力の支配下にあること
知っていた


 同じく、多くの人々は、
不公正で欠陥に満ちた社会に生きていること
自覚しているが、
その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる
何もすることができないまま
不公正な社会生きるには、
その対応として、
次の二つの選択肢を採用する

一方は、
世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、
他方は、
外部に標的を定めて感情を表出することである。
そして、
不公正の原因が特定できない時、
この怒りの破壊的な力は、
壊しやすいものに向くことになる。

すなわち弱者や少数者や異物が
標的と定められる

デッカ・アイケンヘッドが報道した憎悪
および
日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、
換言すれば、
自身をとりまく世界に有意義な関与ができないことに対する
個々人の大きなフラストレーションから発した
行き場のない憎悪が出口を発見した
といえる。
現在世界は、
はけ口を探す絶望的なフラストレーションと
さまよい歩く恐怖で、満杯となった容器
のようだ

とバウマンは述べた。

 現代社会が孕むフラストレーションの具体的な痕跡
「2ちゃんねる」のようなインターネットの掲示板
見ることができる。
その掲示板の書き込みを読んで驚くのは、
(おそらく)教育水準もそれほど低くない若者たちが
毒々しい憎悪をあからさまに表現している
というだけでなく、
それが執拗に繰り返されている点だ。
その悪意に満ちた言葉は、
まるで出口を求め制限された空間の中を飛び回るハエの羽音のようだ

掲示板に書き込まれるレトリックは
同じものの繰り返しにすぎないが、
しかしその標的は目まぐるしく変化する
ある時は憎悪の行き先が
北朝鮮や「中国人犯罪」だったかと思うと、
次に
イラクで拘束された3人のような特定の個人や集団へと変化する。
標的を求めて「彷徨する」憎悪である。
まさにそれゆえ、
この憎悪は深刻に受けとめねばならない

イラク人質に対する憎悪の嵐
たとえ過ぎ去ろうとも、
新しい危機また訪れ
その際にはより大きい共同の憎悪の標的
必ず新たにデッチ上げられる
のだから。

 この「自己責任」にかかわる議論には、
全体主義的個人主義という落とし穴
回避する可能性も含まれている
はずだ。
結局のところ、日本全体のすべてが
イラクで拘束された人質への憎悪の大合唱
加わったわけではなかった

残念なことに、
オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパなど各国のメディアは、
日本のメディアが主導した人質に対する憎悪のヒステリー
同調しない人々について、
ほとんど報道しなかった
。(後略)”
(テッサ=モーリス・スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』P.201-208)

※太字・下線・色彩などでの強調は
引用者によるものです。


 普段は見つけることができない
政治的な捌け口やフラストレーション
への
怒りの炎焚きつけ》、
その集団ヒステリーの同化・一体化》による
ストレス発散からくる《快楽》を
――《集団リンチのサーカス》――を
誘った
かのようにさえ見える
杉田水脈議員と、
杉田議員の言動を断罪せず、実質的に容認する
自民党の姿勢
相当に質が悪い”ように見えます。