【10-②】人間の《資源化/在庫化》と、フランクルの「態度」という生き方 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


近代技術とは何であるか
それも一つの〈発掘すること〉ではある
(中略)
昔の風車にだって
近代技術と同じことが言えないだろうか。
違う。
近代技術を[支配/〕統括している〈発掘〉は、
自然に向かって強要して、
採掘して貯蔵できるような〈エネルギーを提供せよ〉と
強要する取り立て
なのである。
風車の羽の回りはするが、
吹きつける風まかせである。
風車は
気流のエネルギーを貯蔵するために
開発
したりはしない
(中略)
人間がすでに、
自然エネルギーを採掘するように
請求されている限りにおいてのみ、
このような押しつけがましい発掘
行なわれうるのである。
人間がこのように取り立てられ、
引っ立てられる
、のであるならば
自然がそうなっているという以上に
根源的に人間こそが取り立てられた在庫品の一部になっているのではないだろうか。
普通に言われる
人的資源とか臨床事例とかの言葉が
このことを裏書きしている。
(中略)
徴発性とは、
人間を引っ立て、人間から取り立てて、
現実のものを取り立てて貯蔵品になるように
発掘するように仕向けることの総称
である。
徴発性は
実は近代技術の本質を支配している発掘・開発のやり方であって、
それ自体技術的なものではない。”
 マルティン・ハイデガー「技術への問い」
(加藤尚武(編)『ハイデガーの技術論』)
※〔〕は引用者

――――――――――――――――――

“しかし技術は、明らかに、
純粋に自然科学が抱える事態では全くない。
技術は、同時に、歴史的な事態でもある
のだ。
(中略)
この発展を条件づけているものとして、
資本主義が、決定的なところで一枚噛んでいるということを、
実証主義は、見逃したのだ。”
(ヴァルター・ベンヤミン/浅井 健二郎 ほか訳
「エドゥアルト・フックス ~蒐集家と歴史家~」
『ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想』)

―――――――――――――――――――

おまえみたいな肺病やみを飼っておく余裕はねえ
病院へ帰れ。
入れてくれなかったら、死ね
それおまえのたった一つの奉公だ。”
(大岡昇平『野火』)

―――――――――――――――――――

人生それ自体は、何かであるではなく
人生は何かをする機会である!」
(フリードリッヒ・ヘッベル)

―――――――――――――――――――
【10】❝自由からの逃走❞と❝全体主義のイチ要素❞《人工知能=テクノロジー=メガFTA》からの続き〉
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


―――――――――――――――――

前々回記事【9】で、
『機械との競争』の両著者の提言に
そのまま従ってしまえば
松井博氏いわく‟帝国”企業の
プラットフォームの手のひらの上で飼われ、
自分たちの生殺与奪権を握られた状態

なるであろう――『機械との競争』の両著者も、
雇用の流動化》を提言してる――が、
雇用の流動化》となると、
好きなときに雇い、
好きなときに解雇でき、
好きなように異動させるのに定住は嫌い

従業員を《在庫品のように扱う人間の在庫化的な
労務管理になる
、ということを指摘するのを、
述べ忘れました。

両著者が勧める方向性だと、
すでに深刻化社会問題になっている
過労死や過労自死などの《長時間労働》問題が
避けられなくなることに触れました。

そしてまた前回記事【10】では、
全体主義》と、《ナチスドイツ》とについて
言及しましたので、これを機会に
いまの一連記事の【1】に引いた、
哲学者のマルティン・ハイデガーによる
1953年に為した論文「技術への問い」での
人間の在庫化=人的資源》の指摘を中心に、
いま私たちを取り囲む
この社会空間の尺度や論理内容》について、
ひとこと述べておきたく、
そして〈或る在り方のかたち〉も提示したいと思います。

―――・―――・―――・―――・――――

ぼくは、今回の一連記事の【1】で、
ハイデガー「技術への問い」の中の一節、
クレメンス・アウグスト・フォン・ガーレン司教の言葉
V・E・フランクル
『それでも人生にイエスと言う』
の言葉を引きました。

ぼくは、
昨年の《相模原施設殺傷事件/やまゆり事件》を
経た今日においては、
その悲劇》のことを目にする度に
このハイデガーの《近代技術》観が思い浮かんできます。

相模原殺傷】「障害者470名を抹殺できます」植松聖容疑者、衆院議長に手紙(全文

犯人を、
あたまのオカシイ異常者
とだけで片づけてしまうのは、
臭いものにフタをする片づけ方であって、
何の解決にもならない、
とボクには思えて仕方がありません。

相模原事件の悲劇》の衝撃をうけて、
ナチスのT4作戦》を取り上げる番組も、
製作・放送もされましたが、
この方向性で、いまひとつ、
掘り下げてみたいと思います。

そして何度も言いますが、
対案を提示したいと思います。






これらポスターを
ツイッターといったSNSなどを通じて
目にされた方も、いらっしゃるかもしれません。

これらポスターでは、
障害者を抱えると、
これだけの社会的コストとなり、
これだけのコストを
あなたも負担しなければならないのです

といったメッセージが表現されている
と思います。

そして実際に
患者や障碍者を
抹殺・排除》して行ったのでした。

ナチスによる、この《T4作戦》政策を
批判したのが
このガーレン司教の言葉なのでした。


"貧しい人、病人、非生産的な人、いて当たり前だ。
 私たちは、
他者から生産的であると認められたときだけ、
生きる権利があるというのか。
非生産的な市民を殺してもいい、という原則ができ、実行されるならば、
我々は老いて弱ったとき、我々も殺されるだろう。
 非生産的な市民を殺してよいとするならば、
いま弱者として標的にされている精神病者だけでなく、
非生産的な人、病人、傷病兵、仕事で体が不自由になった人全て、
老いて弱ったときの私たち全てを、殺すことが許されるだろう”

ぼくは、そのテレビ番組で、
この発言のことを初めて知りました。

この《ナチスT4作戦の論理》も、
神戸金史氏が
フェイスブックに書き込んだ思いに
寄せられた《批判的な内容の論理》も、
ボクにとっては“同じ水脈の世界観”と
思えて仕方がないのです。

しかし、ボクは、
神戸氏に批判を寄せた人を
批判している訳ではありません
また肯定的に賛同している訳でも
ありません。


というのも、
その論理や世界観》は、
この現在の社会を運営する論理内容や尺度
だと思うので、
この社会に生まれ、
この社会での過ごし方を見よう見まねで習得し、
その学習した世界観で、
過去と未来と自他を捉えることしか知らない、

あるいは、慣れきった中》では、
そのように
批判的な手紙を送らずにはいられない
神経は、
それはそれで、ボクには
理解できない訳ではない、からです。

ここで、先に
今回記事の要諦を申し上げたいと思います。

あのハイデガーの《近代技術》観の指摘、
つまり
人間の在庫化/資源化、生命の資源化》が
"やまゆり事件という悲劇に現われた
――〈その施設にいた障碍者の方々〉が
資源的・在庫的価値観》で
一方的に測られて
そして一方的に殺されてしまった――がしかし
その《ハイデガーの近代技術的論理》に
被害に遭われた方々ばかりでなく

じつは神戸氏に批判の手紙を書いた方
そして〈相模原事件の殺害犯人も、
つまり
私たちありとあらゆる人々ひとり一人〉が
縛られている
ということです。

そして、
このハイデガーが指摘した《近代技術的論理》に
対抗する、もうひとつの選択肢として、
ヴィクトール・E・フランクルが提示した「態度
という人生の臨み方/世界や人生のと捉え方を
提示したいと思います。


話を始めるために、
いま私たちが当たり前に思っている、
いや、思っているどころか、
当たり前すぎて、
意識すらしたことがないかもしれない
いま現在の私たちを取り囲む
この社会の運用論理や尺度》を、
岡目八目に眺めさせてくれる文章と見方を
まず以下に見てみたいと思います。

記号論学者で分析医のジュリア・クリスティヴァによるハンナ・アーレント講義のなかの一部です。


人間を無用視する」…・・・「倒錯した意志」には
根源的な悪」があるとアーレントが診断をくだすときがそうですが、
これは別の言い方をしますと、
過去のものでもまだ潜在しているものでも、
全体主義的な人間
自分自身の生の意味根絶して、人間的な生破壊するということです。
いやそれ以上です。
アーレントは
人間的な生を「無用視する傾向」が
帝国主義の興隆のうちに認められることを力説していますが

オートメーション支配されている現代の民主主義でも、
そういう傾向はなくなっているどころではありません


 「根源的な悪
 すべての人々ひとしく無用視するシステムと結びついて現れた
 と言っていい。
 そういうシステムを操っている者たちは、
 他の人々無用だと思っているだけでなく
 自分自身無用だと思っている

 全体主義における殺戮者たちそれ以上に危険なのは
 かれらが自分の生死を意に介することなく、
 自分は生まれても生まれなくてもどうでもよかった
 と思っている
からである。
 死体製造工場や忘却による裂け目がもたらした脅威
 今日では世界中で人口が増加し故郷喪失が深まるとともに
 無数の人々絶えず無用なものとされている事実である。
 世界功利主義的な用語で考え続けているかぎり
 そうなるほかはない
 政治的、社会的、経済的な出来事いたるところで
 人々無用なものとすべく考案された全体主義の様々な機構
 ひそかに結託しているのである。」”

 


 こういう脅威に対して、
アーレントが『人間の条件』で力強く擁護するものこそ、
まさに生そのものにほかなりません。
消費活動生命過程として捉える決定論によって
あるいは現代技術による「生命過程への介入によって
型通りに生み出される生命
とは正反対に、アーレントは、
端的に「生の奇跡と呼ぶものを開始するすべての人々の生誕を称賛します。
(P.6-7)

〔アリストテレスの〕『ニコマコス倫理学』を解釈することによって
アーレントは『人間の条件』では、
製作活動であるポイエーシス
実践活動であるプラクシスと区別しています。
アーレントは作品の製作ひそむ限界に注意をうながしています。
すなわち労働や「作品」あるいは「製品」では
躍動する人間的経験
所定の目的」をめざす手段」として「使用される」「もの」のうちに

物象化」されるわけです。
このように理解されるポイエーシスには、
人間の条件を制圧する物象化功利主義種子がすでに含まれています。
他方、「出現の空間」あるいは「公共空間」とみられるポリスでは逆に、
構築生産ではなく
ありうべき人間の在り方」である実践プラクシス)が展開されます。
アリストテレスにおけるエネルゲイア現勢態)という概念を使って言えば、プラクシスに含まれている活動特定の目標をめざすではなく(ateleis)、作品を残すこともなく(par'autas erga)、
それ自身において意味に満ちている実践だけで自己完結する活動なのです。”
(ジュリア・クリスティヴァ/青木隆嘉(訳)『ハンナ・アーレント講義』)

 以上に引用したクリスティヴァ講義の、
とくに最後の
それ自身において
意味に満ちている実践だけで自己完結する」活動

というのが、
今回記事の本題を展開する切り口にして、
また同時に、オチでもあります。

以上に引用した文章には、
近代に特有の
生命や人間の活動の《モノ化》や《功利主義化
に対するオルタナティヴ(別の選択肢)として、
プラクシス/エネルゲイア〉という
別の在り方がある、と提示されています。
つまり、
このように〈ポリス的な在り方〉が提示される事で
近代的なる功利主義的な在り方》が
相対化」されています。

 このブログで、ず~っと前に、
アウシュヴィッツ強制収容所で生涯を終えた
エティ・ヒレスムという女性について
取り上げたことがありますが、
その女性の生前の言葉に
“重要なことは、
どんな犠牲を払ってでも、
自分のいのち(our lives)を
守ってみせるかどうか、
ではなく
どのようにして守るか、
その守り方、です”
という言葉があります。

つまり、
どれだけ長く生きたか、
ではなく、
生き方のほうが、
問われるのではないか?
という言葉なのですが、

そこで、
人生の全うの仕方」のイチ尺度として、
ぼくは、しばらくの間、
ブレヒトの「何が美しいのか
という詩を気に入っていました。

人生観に関しては、
その詩しか知らなかったからです。

その詩には、
美しいのは、
ひとが困難を解決するときである。
したがって、美しいのは、行為である”
という美の定義がされてあります。

この場合の「美」とは、
上空になるほど藍染め色になる
星空を背にしつつも
真紅に映える茜雲に出会ったり、
また海岸の水面(みなも)や湖面に、
水平線に沈む夕陽のひかりを
千々にちぎれながら、
きらきらと反射させて輝く光景を見たり、
あるいは、夕焼け時に、
田んぼに一面に実った稲たちが、
風に揺られながら、
燃えるように黄金色に輝くのを見たときの、
――夕焼けばっかりだな――
あの心持ちとは、
また違った美のほうを、
ブレヒトは
“美しい(schön)”と言った訳ですが、
たしかに、〈ブレヒトが指摘したほう〉も
「感動はします」よね。

だから、毎年、
日本テレビ系列は、
夏の時期に、タレントさんを、
長時間、長い距離を、走らせて、
視聴者の心理を揺さぶっている訳でしょ。


しかし、
克服や困難を解決‟しない”と
美しく‟ないのか”?というと、
そういう訳でもないですよね。

この点で、
このブレヒトの詩には、
不満があったのです。

しかし、
このブレヒトが取り出した
「感動」を呼び起こす要素と同じ方向性で、
手塚治虫さんの『ブラック・ジャック』で
アリの足」という作品があります。
小児麻痺(ポリオ)に苦しむ光男くんが、
病気の恐ろしさを訴えるべく、
ハンデを抱えつつ、
広島から大阪まで行脚する話です。

この話では、
光男くんは、
ブラックジャックの愛の手を受けつつ、
ちゃんとゴールできるのですが、
仮にゴール出来なかったとしても、
人々に勇気をあたえ、感動をもたらし、
魂を揺さぶるはずです。

しかも、この作品を
個人的に気に入っているのは、
この光男くんが、
汗水流しながら歩いている最中に、
地面で、
あくせく頑張っている〈アリ〉を見て、
自分と重ね合わせて
行脚の励みにしている
シーンです。

〈アリ〉と〈光男くん〉の姿
〈それを見ている者〉に投げかけ、
見ている者の魂を揺さぶるとすれば
〈彼らがそれぞれ〉に投げかけているのは
態度」であるはずです。

だから、成否は、最終的には、
必ずしも問われるものではない、
と思うのです。

確かに、成功したり、達成できるのならば、
それに越したことはないのですが、
アウシュヴィッツ強制収容所から生還した
V・E・フランクルが見つけた人生観からすると、
生きる意味」の底にあるのは「態度」だと
――「態度」は「他者を奮い立たせ、生かします」―
提示しています。

だいぶ前の過去記事に引いた
エティ・ヒレスムは、
強制収容所の世界に耐え得る思想を
獲得しなければならない

と書き残して、
アウシュヴィッツ強制収容所で
その生涯を終えてしまったのですが、
しかし、
ヴィクトール・エミール・フランクルは、
鉄条網/強制収容所の中から
「その思想」を獲得して生還したのでした。

この「フランクルが
アウシュヴィッツから持ち帰ってきた人生観
」は、
やまゆり事件》や《近代技術主義》、
市場原理主義》や《棄民政治主義》、
自民党改憲草案の論理》への対案として
提示することができます。

このブログの文字制限の都合上、
今回記事で終わらせることが
出来なくなりましたが、
今回記事を締めくくるのに、
ハイデガーいわく、
この《人間の在庫化=人的資源》は、
近代技術》の特徴で、
その《近代技術》が人間にも自然にも強いる
資源への徴発》のワケを、高樹は、
資本主義ならではの要請》だと
拝察しているのですが、
しかし、
この《人間の在庫化人的資源の思想は、
近代技術=功利主義=近代資本主義》に限らず
《アジア太平洋戦争時の日本の軍国主義》にも
見受けられたこと確認して、
今回記事を締めくくります。
歴史家の保阪正康氏による
『昭和史のかたち』には、
やりきれない形で運用された
人間の在庫化=人的資源》の運用ぶり
紹介されています。


兵士たちには命の値段がつけられているというのは
あまりにも知られていない。

 この例をもっとも端的に語るエピソードとして、
わたしは特攻隊のケースを紹介しておきたい。
これは私自身の体験になるのだが、
私は
特攻隊の仕組みや隊員の苦悩を具体的に調べていて、
いつも不思議に思うことがあった
それは陸海軍あわせて三千八百余人の特攻隊が、
大本営の無責任な作戦指導の犠牲になったのだが、
その内訳を調べてみると
七割余は学徒兵だったり、少年飛行兵だったりする
それゆえに彼らの残した手記や遺書は、
私たちの胸を激しく打つ。
涙なしには読めない手記もある。
もっともそのような手記は、
大体が検閲を受けずに
密かに人づてに家族のもとに届けられた。

 それはともかく、
なぜ学徒兵や少年兵が特攻隊員に選ばれたのか
私はそのことに強い疑問を持った。

 その疑問を昭和五十年代に、
軍事指導層に属した将校や参謀を訪ね歩いてぶつけてみた。
なぜ特攻は
海軍兵学校や陸軍士官学校の軍事教育を受けた軍人たちが
行われなかったんですか

という問いである。
もっとも特攻の第一陣は
海軍兵学校七十期生の関行男(せきゆきお)大尉(死後・中佐)の敷島隊だが、
そのあとはこうした職業軍人は少ない。
職業軍人の名誉のために補足しておくが、
彼らは特攻作戦を回避したのではなく
陸海軍とも
こうした正式の軍人を特攻隊員にするのは避ける

という方針を密かに持っていたといってもよい。

 さて私の問いに対する答えである。
なかなか的確に答えてくれる元軍人は少なかったのだが、
航空畑のある参謀が、
君は軍国主義の時代を知らないんだね
と言ったあとに、次のような説明を行った。

一人の軍人を育てるため
国はどれだけのお金を使うと思う?
たとえ尉官でも十代から軍の学校に通っていると、
国はそういう人物
――そう、給料が四十円、五十円の時代に
千円や二千円を使っていたんだからね

そういう軍人
どうして特攻で死なせることができるかね


 私は脳天を殴られたような感がした。
では学徒兵少年兵には
国がお金を使っていないということですか

と尋ねた。
その参謀は、「そういうことだね」と応じた。

 こう書くと、この元軍人はなんと理不尽な、
人間味などこれっぽっちもないのか、と
どなりたくなる。
怒りもわいてくる。
しかしこれは軍事主導体制にあってはあたり前のことなのだ
軍事のためどれだけ役だつか
これこそ
戦時下における人間の価値」であり、「値段なのである。
むしろこの軍人は正直にそのことを教えてくれたのであった。

 軍事主導体制という網を張ると、
そこにそういう「人間の序列化」が始まるのはあたり前、
つまり軍事的に価値のない者から死んでいけ、というのが
日本軍国主義の特徴だったのである。
(中略)
 …・・・昭和二十年(一九四五)八月六日に
広島に原爆が投下された
翌七日に
広島市の近住の旧制中学や高等学女校の生徒
広島入りを命じられて市内に入り

亡くなった人たちの遺体処理を行っている
これも不思議なのだが、
なぜ江田島の海軍兵学校の学生たちが市内に入って、
この仕事に携わらなかったのか

それについて海軍の首脳部の、
彼らエリートである。
どうして彼ら
そういう仕事従事させるのことができようか

といった証言が残されている。
これも「地方人(一般の人びと)」と「軍人」の間に
差異化序列化がなされている
典型的なケースである。”
(保阪正康『昭和のかたち』P.43-46)


戦前回帰‟風”の
軍国主義路線を好む政治家たちが、
また同時に
新自由主義主義政策をも好むのは、
人間の在庫化=人的資源》で
共通している”からなのでしょうか?



つぎ【10-③】のページに続く〉