【10-④】V・E・フランクル「態度」《監視社会=人工知能=プラットフォーム=メガFTA=資本》 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

〈前ページからのつづき〉
以下では
V・E・フランクルが紹介した「態度(価値)」を
『それでも人生にイエスと言う』を通じて
御覧いただきます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


‟あるとき、生きることに疲れた二人の人が、
たまたま同時に、私の前に座っていました。
それは男性と女性でした。
二人は、声をそろえていいました。
自分の人生には意味がない
人生に もうなにも期待できないから」。
二人のいうことは ある意味では正しかったのです。
けれども、すぐに、二人のほうには
期待するものがなにもなくても
二人を待っているものがあることがわかりました。
その男性を待っていたのは、
未完のままになっている学問上の著作です。
その女性を待っていたのは、子どもです。
彼女の子どもは、当時遠くの連絡のとれない外国で暮らしていましたが、
ひたすら母親を待ちこがれていたのです。
そこで大切だったのは、カントにならって
「コペルニクス的」〔引用者:従来の考え方を覆す画期的な見方の転換〕ともいえる転換を遂げることでした
それは、ものごとの考えかたを180度転換することでした。
その転換を成し遂げてからはもう、
私は人生にまだなにを期待できるか
と問うことはありません
いまではもう、
人生は私に何を期待しているか
と問うだけです。


人生が出す問いに答える
 ここでまたおわかりいただけたでしょう。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、
はじめから誤っている
のです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い
人生の問い」に答えなければならない

答をださなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちがいきていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。”
(P.26-28)

‟ある日、ひとりの青年が私のところにやってきて、
ほかでもない生きる意味の問題、
というよりも
生きる意味がないという問題のことで
私と議論しました。
そのとき、その青年は、次のような異論を唱えました。
あなたはなんとでもいえますよ
あなたは現に、相談所を創設されましたし、
人々を手助けしたり、立ち直らせたりしている。
でも、私はといえば……。
私はどういう人間だとお思いですか。
私の職業をなんだと思いですか。
一介の洋服屋の店員ですよ。
私はどうしたらいいんですか。
私は、どうすれば人生を意味のあるものにできるのですか
。」

 この男の忘れていたのは、
なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは
結局はどうでもよいことで、
むしろ重要なことは、
自分の持ち場、自分の活動範囲において
どれほど最善を尽くしているかだけ
ということです。
活動範囲の大きさは大切ではありません。
大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、
生活がどれだけ「まっとうされて」いるかなのです。
各人の具体的な活動範囲内では、
ひとりひとりの人間かけがいのなく代理不可能なのです。
だれでもそうです。
各人人生が与えた仕事は、
その人だけ果たすべきものであり、
その人だけに求められているのです。
そして、より大きな活動範囲に
ほんとうにふさわしい働きができなかった人の人生は、
もっと狭い範囲でも
それをほんとうに満たした人の人生にくらべると

まっとうされずに終わるのです。
この洋服屋の店員は、具体的な生活環境のなかでは、
彼がうらやんでいる人が
自分の人生の責任がもっと大きいことに気づかず
その責任をまっとうしないなら、
それよりもっとたくさんのことを行なうことができるのです。
自分の活動を通じて
もっと有意義で、もっと意味に満ちた人生をおくることができるのです。
(P.31-32)


“〈人間の不完全性と意味
 時間の中で生きている人間の本質的な有限性
さきのことえであっても
いずれ死がおとずれるという事実にあらわれていますが、
この時間的な有限性が、
人生を意味のあるものにする唯一の有限性ではありません。
ひとりひとりの人間が
他の人間といっしょに生きているという有限性もおなじように、
ひとりひとりの人生を無意味なものにはせず、
むしろそもそも意味のあるものにするのです。
私がいっているのは、人間が不完全であり、
たとえば
その人のさまざまな素質によって決まっている精神的な制約を持っているという事実のことです。
(中略)
ひとりひとりの人間は、たしかに不完全ですが、
それぞれ違った仕方で、「自分なりに不完全なのだということを
忘れてはなりません。
その人のやりかたで不完全なのはその人だけです。
こうして、積極的な表現をすると、
ひとりひとりの人間
なんらかの仕方でかけがえのなく
代替不可能で、代わりのいない存在になる
のです。
(中略)
 さきほどの議論で、
が、生きる意味になくてはならないものであることがはっきりしました。
一回きりの人生私たちの責任存在基礎づけているからです。
おなじように、ここで、
人間の不完全性生きる意味なくてはならないものであることもはっきりします。
不完全性は、いまでは肯定的な価値と考えられます
私たちのさまざまなあり方不完全であるからこそ
唯一のものになることが明らかになります。

 けれども、
ただ唯一であるそれだけでは、
唯一であることは肯定的な価値になりません。
ひとりひとりの人間が唯一の存在であることに価値があるのは、
人間の共同体という上位におかれた全体に関与することによってです。
(中略)
唯一のあり方に価値がありうるのは、
ただ、自分だけで唯一であるのではなく、
人間の共同体にとって唯一である場合だけです。
(中略)

 人生が一回きりひとりひとりの人間唯一であること
 しかもあるものにとって唯一であること、
つまり他者にとって、共同体にとって唯一であること
一つの公式にまとめてみましょう。
それは、
人間のおそろしくもすばらしい責任人生の重大さ
私たちの注意を促すような公式です。
そうすると、
タルムードの創始者のひとりであるヒレルが
およそ二千年前にモットーにした言葉を
引き合いに出すことが出来ると思います。
その格言というのはこうです。

もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、
私は何であろうか。
そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。


私がしなければ」というところに
各個人が唯一だということが含意されています
「自分のためにだけにするなら」というところに、
唯一であってもなにかに尽くさなければ、
価値がないし無意味だということが含意されています。
いましなければ」というところに、
そのときどきの状況一度きりだということが含意されています。


生きる意味と価値
 ここで、生きる「意味」の問題について
いわなければならなかったことを まとめてみましょう。

 生きるとは、問われていること、答えること
 ――自分自身の人生に責任をもつことである。
ですから、いまや、
与えられたもの(ゲゲーベンハイト)ではなく、
課されたもの(アウフゲゲーベンハイト)であるように思われます。
生きることいつでも課せられた仕事なのです。
(中略)

 けれども、ここで、
つぎのことを付け加えなければなりません。
宗教的な人間は、生きている実感、
いわば「存在理解」が優れていて、もう一歩先に進みます。
人生を仕事と心得ている人たちをしのぎます。
課された仕事だけではなく、
いわば、仕事を「課す」
または「課した」決定機関である神格をも知っています。
いいかえれば、宗教的な人間は、
人生神が課した使命だと知って生きているのです。

 最後にまとめていうと、
生きる「価値」の問題に対しては
どんなことをいうことができたでしょうか。
ここで明らかになった見解は、もしかすると、
ヘッベルの言葉で
もっとも適切に表現できるかもしれません。
彼はいいます。

「人生それ自体がなにかであるのではなく
人生なにかをする機会である!」”
(P.52-58)

意味
三つの主要な方向で実現されることができます。
人生を意味のあるものにできるのは、
第一に、
なにかを行なうこと、活動したり創造したりすること、
自分の仕事を実現すること
です。
第二に、
なにかを体験すること、
自然、芸術、人間を愛することによっても
意味を実現できます

第三に、
第一の方向でも第二の方向でも
人生を価値のあるものにする可能性
なくても
まだ生きる意味を見いだすことができるのです。
自分の可能性が制約されているということが、
どうしようもない運命であり、
避けられず逃れられない事実であっても、
その事実に対してどんな態度をとるか
その事実どう適応し
その事実どう対応し
その事実に対してどうふるまうか
その運命を自分に課せられた十字架」として
どう引き受けるか
に、
生きる意味を見いだすことができるのです。”
(P.63-73)


“〈ある男性の場合
 私がお話しするのは、まだ若かったある男性のことです。
彼は、活動的でやりがいのある職業生活を送っている最中でした
多忙な広告デザイナーだったのです。
ところが、その職業生活を突然中断せざるをえなくなりました
悪性で手術もできない重篤の脊髄腫瘍をわずらったのです。
この腫瘍のせいで、
すぐに手足が麻痺状態になりました。
そこで、彼はもう、それまで主として自分の人生を意味のあるものにしてきた活動的な生活という方向を維持することができなくなりました
そこから閉め出されて、なにかほかの方向に向かうように迫られたのです。
彼は、活動的な生活を送れないようになってくると、
活動範囲がせばまった状況生かして受け身の体験に没頭し、
そのように制限された可能性の範囲内でも
まだ生きる意味を どうにか手に入れようとするようになってきました

その患者さんはどうしたでしょうか。

 病院で横になっているとき、
彼は猛烈に読書に取り組みました
以前余裕のない職業生活を送っていたときは
読む時間がすこしもなかった書物を読みました。
せっせとラジオを音楽できき、
他の患者さんのひとりひとりと活発に会話をかわしました


こうして、彼は、活動的な生活を離れ、受け身になって、
自己の内に世界(とくに精神的な世界)を取り入れることによって、
それでもなお人生を意味のあるものにし
人生が出す問い答えることができる生き方に引き下がった
のです。
これでおわかりでしょう。
この勇気のある人は、その当時でもまだ、
どれほど制限されていても自分の人生が無意味になったとは
けっして思っていなかったのです。

 ところが、それから病気が進行して、
もう書物を手にすることもできなくなるときがきました
それほど筋力が衰えたのです。
そのときには、
もはやヘッドホーンの重みにも耐えられませんでした
ヘッドホーンをつけると、
頭蓋骨の神経の苦痛がとてもひどくなったのです。
そのうえとうとう、話すこと困難になりました。
他の患者の人と才気に満ちた会話をすることもうできなくなりました
こうして、この人は、またもや方向転換を迫られたのです。
運命に命じられたのです。
けれども、いまでは、創造的な価値実現の世界だけではなく、
体験によって価値を実現する世界からも
去らなければならなかったのです。
それが、病気に制約された彼の人生最後の日々の状況でした。
けれども、そういう状況でもまだ
どうにか意味を手に入れることできた
のです。
まさに、そういう状況に対して彼がとった態度によって、
意味を手に入れることができた
のです。

 その患者さんは、
自分の命がもう長くないことを、
それどころかあと数時間しかないことを
まったく正確に知っていました
私はちょうどそのとき、その病院の当直医として、
この男性の最後の午後の回診をしなければなりませんでした。
そのときのことをいまでもはっきりと覚えています。
ベッドのそばをとおりかかったとき、
彼は合図をして私を呼び寄せました。
そして話すのに苦労しながらこう伝えました。
午前の病院長の回診のときに聞いて知っていたのだが、
G教授が、死ぬ直前の苦痛を和らげるため、
死ぬ数時間前に私にモルヒネを注射するように指示したのです。
だから、今夜で私は「おしまい」だと思う。
それで、いまのうちに、
この回診の際に注射を済ましておいてください。
そうすればあなたも 当直の看護婦に呼ばれて
わざわざ私のために安眠を妨げられずにすむでしょうから、と。
このようにして、この人は
人生の最後の数時間でもまだ、
まわりの人を「妨げ」ずにいたわろうと気を配っていた
のです。
どんなつらさにもどんな苦痛にも耐えた勇気はともかくとして、
こういうさりげない言葉、
このようにまわりの人のことを思いやる気持ちを見てください。
まぎれもなく死ぬ数時間前のことです。
ここにすばらしい行いがあります。
職業上の行いではないにしても、人間らしい無比の行いがあります。

 私がいまから主張することもおわかりいただけると思います。
この患者さんがいまでも現役で職業活動を送っていたら、
もっとすばらしい広告デザインも、
世界中で一番立派で美しい広告デザインも、
いまお話しした死ぬ数時間前のふるまいにあらわれている行いには
かなわなかったでしょう。
それは、さりげないけれども、人間らしい行いなのです。

 以上からわかるように、
病気になったからといって、かならずしも、
生きる意味がなくなったり乏しくなったりするわけでは
けっしてありません

むしろ、病気意味のあるものになる可能性もつねにあります。
からだを、身体の一部を失うような場合でも、
かならずしも、意味がなくなるというものではありません
(中略)

〔映画『タイタニック号』で〕フリッツ・コルトナーが、
手足が麻痺した車椅子の詩人の役をすばらしい演技で演じていました。
その詩人は、立ち上がろうとしますが、立ち上がることができません
それから、出水が頭のところまで上がってくるに任せます
そして、主の祈りを先になって唱えるのです。
こうして、しっかりと意識して
小さな運命共同体を死に導いた
のです。

 私はこの最初の映画体験に衝撃を受けて映画館を出ました。
そして意識して死に赴いていくというのは、
運命の贈りものに違いないと考えました。
いまや運命は、私にも、意識して死に赴いていくことを許したのです。
私は、もう一度自分の闘争心を試すことを許されたです。
しかし、〔自分の死に対するこの戦いでは
そもそも勝利すること問題なのではありません
闘うことだけが問題なのです。
(中略)

 もう明らかだと思いますが、
外面的に不成功に終わった世の中で失敗したりしても、
病気とから得られる意味
そこなわれることはありません
内面的に成功するかどうかこそ問題なのです。
そして、その内面的な成功は
外面的な成功がなくても成り立つのです
また、もしかすると
これも明らかなことかもしれませんが、
外面的な成功ではなく内面的な成功が問題だということは、
特殊なケースにだけ当てはまるのではありません。
それは、すべての人の人生に、
しかも
その全生涯に適用されなければならないこです。
とういのは、成功とは外面的な成功のことでしかないと考えると
だれの人生も最終的には、ある意味で不成功に終わる
からです。
(中略)

・・・内面的な成功は、とにかく実現されたときは、
「確実に」到達されたものなのです。
(中略)

 生きる意味を実現するという目標は、
人生が終わるときになって
ようやく到達されることがよくあります。
けれども、だからといって、生きる意味
そこなわれるというようなものではありません
逆に、人生の終わり意味が実現されることで、
人生の「終わり(エンデ)」は
完全なもの(フォルエンドゥング)になる
のです。”
(P.74-85)

“〈愛されている人間は、役に立たなくても、かけがいがない〉”
・・・…私たちの祖父母は、
たいへん「非生産的に」晩年を過ごしています。
けれども、非生産的だというだけで祖父母を殺害することは、
ほかの非生産的な生命を殺害を支持するような人たちでも
忌みきらうでしょう。

 家にいて、ほとんど歩けず、窓ぎわの肘掛けいすに座って、
うつらうつらしているおばあさん
は、
たいへん非生産的な生活を送っています。
それでもやっぱり、
子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています
このような愛情に包まれてこそ
うちのおばあちゃんなのです
うちのおばあちゃんである彼女
このような愛情に包まれて
代理不可能かけがえいのない存在
なのです。
まだ職業をもって仕事をしている人が
共同体に関与する行ないで
代理不可能で かけがえのない存在になるのと まったく同じことなのです

 第一講演では、
ひとりひとりの人間唯一であり一回きりであることが
その人の価値
ということをお話しました。
また、その価値は共同体に関与していなければならず、
唯一であることは「共同体にとって」価値があることを
お話ししました。
そのとき主に念頭にあったのは、共同体のためになにかを行なうということでした。
ここではっきりすることですが、
第二の方法があって、
その方法でも、人間は、
唯一で一回きりの存在として認められます

その方法でもその人の人格価値実現され、
その人の個人としての具体的な生きる意味実現されます

それは、愛という方法です。
愛される方法といったほうがいいでしょう。

 それは、いわば受け身の方法です。
ふつう行動で手に入れなければならないものが、
愛されることで、
なにかを成しとげたり
なにかを積極的におこなったりしないでも
「自分でなにかをつけ加えないでも」、
いわば向こうからおのずと与えられてくるのです。
このように、愛されるという方法では、
行ないによって功績としてしか かち取られなければならないことが、
なんら功績がなくても手に入るのです。
それどころか、愛を自分の功績で手に入れることはできないのです。
そもそも、愛は功績ではなく、恵み(グナーデ)なのです。
それで、愛を通っていくことによって、
恵みの道で」、他の場合には働いて得なければならないもの、
活動によって手に入れなければならないものが与えられるのです。
つまりそれぞれが唯一であり一回きりであることが実現されるのです。

 愛が性を超越したものであると考えるとすれば、
他の人間自分が愛している人間に対する態度が、
無比でかけがえのない人間に対する態度になるということが、
愛の本質
なのです。

 愛することによって、自分が愛する人
まさに唯一であり世界でただひとりだということが
気づかれるということが、愛の本質
なのです。


知恵遅れの子どもたちほど、両親の愛情が深い
 さて、私はつぎのような反論が出てくることも覚悟しています。
私がいうことは、だいたいは当たっているが、
人間とよぶことがすこしためらわれるようなかわいそうな人たち、
たとえば精神薄弱で、
については
たぶんほとんど当たっていない、と。
でも、そういう子どもたちほど
特別に両親深い深い愛情によって暖かく包まれ大事にされていること

よく目にするとお話しすると、
みなさんは驚かれることと思います。
けれども、経験を積んだ精神科医にとっては
ぜんぜん驚くことではありません。
安楽死処置というご存知の時代の趨勢の中
子供をなくすことになった母親の手紙を読みあげることを
どうかお許しください。
この手紙は
ごく最近ウィーンのある新聞にのったものですが、
その一節に次のように記されています。

「私の子どもは、
胎内で頭蓋骨が早期に癒着したために不治の病にかかったまま、
1929年6月6日に生まれました。
私は当時18歳でした。
私は子供を神さまのように崇め、かぎりなく愛しました
母と私は、このかわいそうなおちびちゃん助けるために、
あらゆることをしました

が、むだでした。
子供は歩くことも話すこともできませんでした。
でも私は若かったし、希望を捨てませんでした。
私は昼も夜も働きました。
ひたすら、かわいい娘栄養食品や薬を買ってやるためでした。
そして、娘の小さなやせた手を私の首に回してやって、
『おかあさんのこと好き? ちびちゃん』ときくと、
娘は私にしっかり抱きついてほほえみ
小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。
そんなときしあわせでした
どんなにつらいことがあっても
かぎりなくしあわせだったのです
。』”
(V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』P.100-104)”
※下線、太字、色彩強調は引用者。
斜体は訳文では傍点



【10-⑤】へつづく〉