“仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、
唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、
人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、
仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、
それをあえてすることが不当であるのと異ならない・・・”
(「個人の尊重」のテーマの導入部で、
J・S・ミル/塩尻=木村訳『自由論』が、
樋口陽一『四訂 憲法』 P.57)
“帝国憲法と対照的に
個人の尊厳を基本価値として掲げた日本国憲法のもとで、
公権力みずからが公然と人権を侵害する事例は、
一九四五年以前にくらべれば、比較にならないほど少なくなった。
(引用者中略)
・・・・政治的権力=国家に対してだけでなく、
社会的権力に対しても、
人権が確保されるために必要な制度上の条件は、
かなりの程度ととのえられている。
しかし、戦後解放された女性・農民・労働者たち自身を含めて、
ほかならぬ民衆自身が、みずから意識しないさまざまな偏見
――裁判所は時として、それを「社会通念」とよぶ――に
囚われている限り、善良な民衆自身が、
「社会的専制」を支えるものとなってしまうのである。(引用者中略)
・・・・社会そのもののなかにある偏見や「社会通念」の拘束から
自分自身を解き放つ努力が求められている・・・・。
その際一番重要な事は、
個人ひとりひとりが多様であることによって
かけがえのない価値をもつのだ、という視点である。
「みんな同じ」だからこそ平等、というのではなく、
みんながそれぞれ違うからこそ平等、という見方である。
これこそ、・・・・人権の問題すべてに共通する最大の核心に
ほかならない。”(樋口陽一、同書 P.80-81)