〈【12-②】効率化&コスト格差&市場淘汰による「根源的独占」~ビッグデ=AI=メガFTA=資本~からの続き〉
〈近日イベントのお知らせ〉
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前原誠司による民進破壊、
小池新党への改憲野党議員の集結化で、
これまで以上に輪をかけて、
夢のまた夢のような話をしているかのように
なってしまいました。
――・――・――・――・――・――・――
前回記事では、
イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティの道具』で提示された《根源的独占》というが概念を中心に、
経済循環システムな経済社会のなかで
経済生活を送って暮らしている〈私たち〉は、
経済活動の従事中でも、
《自分の形振りが、
情報機器や職場環境との関係によって、
様々な形で制約を受け、
変更を余儀なくされる》存在であり、
また日常生活を送る中でも、
自分のなりふりが、
《自分自身・他者・環境の間の
相互作用の産物》であるのならば、
現状の在り方と方向性のままならば、
《現代テクノロジー》から、
自分の身体=行動と精神とに、
意識的・無意識に差し込まれた《プラグ》を
一本一本「抜くこと」には、
《カネや支払いの発生を伴うプラグ》を
一本いっぽん「引き抜いて」、
《プラグ》の「(少)ない社会システム」へと、
「社会経済構造的」に変えていく必要がある、
と現在のボクには思われます
――この点については、後の記事で――。
そして今回では、
なぜ〈私たち〉が、
《テクノロジーへの依存度を高め、
自分たちの自律性を損ない、
情報機器や職場環境との関係によって、
様々な形で制約を受け、
変更を余儀なくされる存在》なのか、
〈自分の身の周り〉を、
見つめ「直す、新しい物の見方」を
提示したいと思います
‟電話がなくても人間は生きていくことができるが、
1990年代の東京で電話がないという家族は、
義務教育の公立学校「連絡網」からも脱落する
(「特別な処置」ではじめて「救済」される)存在である。
そしてこの義務教育に参加しないことは
「ニューヨークで12年間の学校教育を受けないものは
不具者のような扱いをうける」
(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』)
のことと同様の扱いを、日本社会でも受ける。
つまり
その生きている社会の中で「ふつうに生きる」ことができない。”
この文章を、ボクは、
イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』
のなかに 書かれていることだと思い込んでいて、
上記のような内容を見つけるべく、
『コンヴィヴィアリティのための道具』を
何度も読み返したのですが、
見つけることができず、
もしやと思い、
見田宗介『現代社会の理論』を開いてみると、
見田氏の文章であったことを知るのでした。
『コンヴィヴィアリティのための道具』などで、
イヴァン・イリイチ氏や様々な識者の方々が、
《生存上の必要から離陸した
過剰なテクノロジー利用や過剰な欲望や需要、
また大量エネルギー消費》の在り方や様子をして、
《テクノロジー過剰や大量エネルギー消費》の背後に、
《欲望過多》を見、
《持続可能的ではなく
自滅的な科学技術の利用の在り方》に対して、
「持続可能ラインへの節制の必要」の呼びかけを
これまで行われてきたと思うのですが、
《この現状》を見つめて、
今後の私たち在り方を考え合う上で、
いま一つ更に、
見田宗介氏が『現代社会の理論』のなかで指摘した
《‟北”の貧困》や《GNPへの疎外》
および《貨幣への疎外》 という視点も、
つけ加える必要があると思います。
――少なくとも、
この視点を一つ加えておいて損はない、 と思います――。
なぜ見田氏は
「北の貧困」「GNPへの疎外」「貨幣への疎外」
という問題意識と表現を持つのか、
以下に見ていきたいと思います。
‟〈貧困というコンセプト。二重の剥奪〉
・・・・アメリカの原住民のいくつかの社会の中にも、
それぞれにちがったかたちの、静かで美しく、豊かな日々があった。
彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、
共同体を解体された時に、
彼らは新しく不幸となり、貧困となった。
経済学の測定する「所得」の量は、
このとき以前より多くなっていたはずである。
貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。
金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。
貨幣からの疎外の以前に、
貨幣への疎外がある。
この二重の疎外が、貧困の概念である。
貨幣を媒介としてしか
豊かさを手に入れることができない生活の形式の中に
人びとが投げ込まれる時、
つまり人びとの生が
その中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、
あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、
貨幣が
人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介とする唯一の方法となり、
「所得」が
人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
(豊かさと貧困の近似的な尺度として存立し、
幸福と不幸の一つの基礎的な次元として成立する、というべきであろう。)
(中略)
1日に1ドル以下しか所得のない人が世界中に12億もいて、
75セント以下の「極貧層」さえ6億3000万人もいるという言説は、
善い意図からされることが多いし、
当面は よりよい政策の方に力を与えることもできるが、
原理的には誤っているし、
長期的には不幸を増大するような、
開発主義的な政策を基礎づけてしまうことになるだろう。
巴馬瑶族の人たちもアマゾンの多くの原住民も、
今日この「1日1ドル以下」の所得しかない12億人に入っているが、
彼らの「所得」を「1ドル以上」とするにちがいない政策によって、
幸福のいくつもの次元を失い、
不幸を増大する可能性の方が、現実にはるかに大きい。
(視える幸福とひきかえに視えない幸福の次元を失い、
測定のできる幸福とひきかえに
測定のできない幸福の諸次元を失う可能性の方が大きい。)
「自分たちの食べるもの」を作ることを禁止された
あのドミニカの農民たちは、
食べるものを市場で買うほかに生きられないから、
どこかの大量消費市場のための商品作物を作って
金銭を得るほかなく、「所得」は増大せざるをえない。
この市場から、
以前よりも貧しい食物しか手に入れることができなくなっても、
彼らは統計上、所得を向上したことになる。
1日1ドルという「貧困」のラインから「救い上げられた」人口の統計のうちに入るかもしれないのである。
このような「貧困」の定義は、まちがっているはずである。
(中略)
現代の「南」の人びとの大部分が貧困であることは事実だ。
けれどもそれは、GNPが低いから貧困であるのではない。
GNPを必要とするシステムのうちに
投げ込まれてしまった上で、GNPが低いから
貧困なのである。
自分たちの生きるために必要なものを自分たちの手で作る
ということを禁止されたあのドミニカの農民たちは、
こういう「南」の人たち全ての「貧困」の構造の、
赤裸々に短縮された典型であるにすぎない。
「南の貧困」をめぐる思想は、
この第一次の引き離し、 GNPへの疎外、原的な剥奪を
まず視界に照準しなければならない。
〈「北の貧困」。強いられた富裕〉
1988年のアメリカには約3100万人の人びとが
貧困ライン以下の生活をしていたという。
この「貧困ライン」とは、
4人世帯で年収1万2000ドル強にみたない生活であるという
この線は、
「南の貧困」を論じる時に世界銀行が用いる、
一人あたり年間370ドルという線とは、
ずいぶん開きあるようにみえる。
この「ダブルスタンダード」は、
「豊かな国」のぜいたくと偏見にみちた基準と考えることができるだろうか?
ある部分までは、そういう「ぜいたくと偏見」が存在すると考えていいかもしれない。
けれどもたとえば、アメリカ国政調査局の記述によると、
1972年には「すくなくとも1000万から1200万のアメリカ国民が、
あまりにもわずかしか食費にまわせないために、
空腹に苦しんでいるか、あるいは病気にかかっている。」
これは収入の数字ではなく、
実際に食物が手に入らないという数字である。
巴馬瑶族の村人は
4800円の年収で豊かに生きることができるが、
ニューヨークや東京の住民はその10倍でも、
ほとんど生きていくことができない。
これは単なるぜいたくや偏見の問題ではない。
アジアやアフリカの多くの村々で
テレビのないことは すこしも貧困ではないが、
東京やパリやニューヨークでテレビのないことは貧困である。
ロスアンジェルスで自動車のないことは、
「ノーマルな市民」としての生活が
ほとんど出来ないということである。
この新しい貧困の形を、
説明しようとする理論が一般に用いる用語法は、
「絶対的貧困」と「相対的貧困」というコンセプトである。
「南」の貧困は絶対的な貧困であるが、
「豊かな社会」の内部にも相対的な貧困がある、というわけである。
「相対的」という言い方は、
「豊かな社会」の内部の貧困を的確に把握する仕方だろうか?
すでに見たように、
東京やニューヨークでは、
巴馬瑶族の10倍の所得があっても
じっさいに「生きていけない」。
これは
隣人との比較や不平等一般の問題
ではなく、
絶対的な必要を充足することが
出来ないということである。
1990年代の東京で電話がないという家族は、
義務教育の公立学校「連絡網」からも脱落する
(「特別な処置」ではじめて「救済」される)存在である。
そしてこの義務教育に参加しないことは
「ニューヨークで12年間の学校教育を受けないものは
不具者のような扱いをうける」
(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』)
のことと同様の扱いを、日本社会でも受ける。”
つまり
その生きている社会の中で
「ふつうに生きる」ことができない。
これらは「羨望」とか「顕示」といった心理的な問題ではなく、
この社会システムによって
強いられる客観性であり、
構造の定義する「必要」の
新しい地平の絶対性である。
〈貧困〉のコンセプトは
二重の剥奪であるということを、
「南の貧困」に即して見てきた。
貨幣からの疎外という
目に見える規定の以前に、
貨幣への疎外という
目に見えない規定があると。
このコンセプトは、
形態をまったく異にするようにみえる「北の貧困」にも
そのまま当てはまる。
(中略)
現代の情報消費社会システムは、
ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを
この社会の「正常な」成員の条件として強いることをとおして、
原的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、
「必要」の常に新しく更新されていく水準を設定してしまう。
新しい、しかし同様に切実な貧困の形を生成する。
(P.104-111)
《新自由主義政策》と
《経済のグローバル化を促進する政策》とが
進められている中での
「格差社会」が深刻化している中では、
《この新しい貧困》、
つまり《貨幣への疎外
=GDPを必要とするシステムの内に
投げ込まれてしまった》中での
《貨幣からの疎外
=その都市社会での生活を
一般平均と同じように送れない》
という、
《根源的独占》絡みの話をするのは、
“ぜいたくな話”であると思います。
じじつ、イヴァン・イリイチが
少なくとも日本で
取り上げられ、話題になったのは、
1970年代~1980年代のようで、
私たちは、
新自由主義政策下で、
ボロボロな生活を
余儀なくされている為、
せめて1970年代や1980年代の
経済的余裕の水準に戻してからの
高望みな議論である可能性はあります。
にもかかわらず、
この時期に、
高嶺の花のような議論をする理由は、
《テクノロジー論》が
主要テーマのひとつである他に、
この《地震列島日本》で、
これから激しく頻繁化してくるとされる
《地震などの自然災害》に対して、
〈これまでの近代日本の
120年の経験的な想定内の閾や枠組み〉は
《無力にも、簡単に踏み潰される》ような気が
してならないからです。
いま「気がする」という言葉を使いましたが、
「胸騒ぎがする」というのではなく、
すでに30年~40年前に、
《その現代システム上の絶対的な脆弱性=死角》が、露わになっているからです――今回記事では、字数制限上、ご紹介できません――。
しかも、
《現在のテクノロジーを支配し駆り立てる論理》は、
今シリーズで述べてきたように、
《資本蓄積の要請》からくる《徴発性》、
そのための《効率性》《コストパフォーマンス》などです。
〈ダム、上下水道などの水〉、
〈電気などのエネルギー〉の供給に
《コンピュータが不可欠》の場合など、
地震が穏やかだったサイクルで
蓄積された近代日本の経験則に基づいた
災害への想定システムの下では、
《これからの災害レベル》に
“耐え得る”のか?
という危惧や懸念があるのです。
《根源的独占の中での
暮らしの営み方しか
学習していない私たち》が、です。
しかも、
《改憲志向や政権維持・政権交代しか
アタマに無い、
あたまのオカシイ政治家たち》は、
《壊憲めざして
どんな汚い手も使っている最中》です。
これで、
想定していなかった大震災が発生したら
『野火』で病院が攻撃を受けたように、
バカ政治家たちも、
右往左往するだけで、
ぶざまに野垂れ死ぬのでしょう。
いま最優先な安全保障問題は、
〈海外の問題〉ではなく
私たち人民の生命を
災害や持続性危機から
守り救うための
〈国内問題=列島内問題〉
だと、私は思います。
――米国から武器買って、
バカでしょ?アイツら。
インフラとかライフライン、
まったく考えてないでしょ――
築50年超の「老朽橋」が一気に倍増、地方は「通行止め」だらけになる ドローン活躍も限界…|ビジネス+IT https://t.co/oOCWE0IuOh
— 高樹‟こんな人たち” 辰昌 (@AntiBilderbergs) 2017年9月29日
下品で言葉が荒れましたが、
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