【26-b】②デヴィッド・ハーヴェイ《あらゆるものの商品化》 ~AI-メガFTA-資本~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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前ページ】では、
デーヴィッド・ハーヴェイ【著】『新自由主義』での
「略奪による蓄積」の説明の箇所を見ました。

『新自由主義』では、
その後に、その〈主要な4つの特徴〉が説明され、
それに続く格好で、
今回記事で見る《あらゆるものの商品化》の叙述が
為されるのですが、
この一連ブログ記事では
成長経済システムの途上で、
〈本来は商品ではないもの/なかったもの〉が
《貨幣領域の対象になってしまう》から、、
"貧しく生きづらくなってきている”のではないか?
"やたらカネの掛かるライフスタイルではないか"?
という、
デヴィッド・コーテン『グローバル経済という怪物』
第3章「成長の幻想」での問題提起の1つについて
考察を進めるかたちで、
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』の、
テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』の、
マウリツィオ・ラッツァラート
『〈借金人間〉製造工場――"負債"の政治経済学』の
一部を取り上げるつもりなので、
今回記事では、
《あらゆるものの商品化=万物の商品化》について、
まず注目したいと思います。



    《あらゆるものの商品化》

 市場とそのシグナルが
あらゆるものの配分を 最も適正に決定できると想定すること
は、
あらゆるもの原則的に商品として扱われうると想定することである
種々のプロセスやモノや社会関係に対する所有権が存在し、
それらに 価格をつけることができ、
合法的な契約にしたがって取引することができる
、というのが 
商品化に内在する想定である。
市場は、
人間のあらゆる行動にとっての適切な指針――つまり倫理――として機能する と想定されている

もちろん実際問題としては、
あらゆる社会は、
商品化始まる所終わる所に 境界を設けている
この境界が どこに設けられるかは、議論のある問題
である。
特定の薬物は違法だと考えられている。
性を売買することは
アメリカのほとんどの州で禁止されているが、
合法化して非犯罪化しているところや、
産業として国家が管理しているさえある。
(引用者中略)

セクシュアリティや文化や歴史や遺産商品化
美しい風景や癒しとしての自然商品化
あるいは、
たとえば骨董品や芸術のように
独創的なもの、真正のもの、唯一のもの
から
独占的に使用料(レント)を引き出すこと
――これらはすべて、
実際には商品としてつくられたわけではないもの
価格をつけることに 他ならない

〔D.Harvey,
‘The Art of Rent
:Globalization, Monopoly and the Commodification of Culture',
Socialist Regiter (2002)〕

商品化は適切なのか(たとえば宗教行事や宗教シンボルの商品化)、
あるいは
誰が所有権を行使したり料金を得るべきなのか
(たとえば、
アステカ遺跡の利用料やアボリジニー芸術の売買などをめぐって)、
これらについては、しばしば意見の相違が存在する。

 新自由主義化は明らかに、
商品化の境界線を押し広げ合法的な契約の範囲大いに拡大した

新自由主義は たいていの場合、
うつろいやすさ短期的な契約賞賛する
(多くのポストモダン理論がそうしているように)。
たとえば婚姻は、
神聖で壊れることのない契りというよりも、
短期的な契約上の取り決めだ とみなされている。
新自由主義と新保守主義との分かれ目は、
一つには、
このラインをどこに引くかをめぐる違いを反映している。
新保守主義者は概して、
彼らが社会秩序の解体や不道徳だとみなすものの責任は、
大企業の資本家たち(ルパード・マードックのような)
ではなく、
「リベラル」や「ハリウッド」、さらには「ポストモダン」にある
と非難する。

だが実際には、資本家たちこそが、
時に わいせつとさえ言える性的なあらゆるものを
世界に押しつけることで、
新保守主義が非難する多くの害悪の大半を生み出しており

しかも、彼らはつねに、
その終わりなき利益追求において
長期的な約束よりも 短期的な約束の方を多いの好む
と公言しているのだ。

 しかしここには、単に、
何らかの大切な物やある特殊な儀式を、
あるいは
社会生活の特定の側面を、
金勘定や短期契約から守ろうとすること以上の、はるかに深い論点がある。
なぜなら、
自由主義理論および新自由主義理論中心に位置しているのは、
土地と労働と貨幣のための統一した市場を構築すること必要性であるが、
カール・ポランニーが指摘したように、
それら
「明らかに商品ではない
からである。
労働土地貨幣
商品として描くのは、
まったくの擬制
なのである」

資本主義
このような擬制なければ機能しない
が、
同時に その背後に 複雑な現実があること
認識しそこなうと、甚大な損害がもたらされる

ポランニーは、
有名な一説の中で、このことを 次のように述べている。


  市場メカニズムに、
 人間の運命とその自然環境唯一の支配者となることを許せば
 いやそれどころか、購買力の量と使途とについてそれを許すだけでも、
 社会は いずれ破壊されてしまうことになる
だろう。
 なぜなら、
 いわゆる労働力商品は、
 たまたまこの特殊な商品の担い手となっている人間個々人にも
 影響を及ぼさずには無理強いできないし、
 見境なく使ったり、または使わないままにしておくことさえ
 できないからである。
 つけ加えれば、人間の労働力を処理する場合、
 このシステムは、労働力というレッテルの貼ってある
 肉体的、心理的、道徳的実在としての「人間」
 処理することになるのである。
 文化的諸制度という保護の覆い取り去られれば
 人間は 社会に生身さらす結果になり
 やがては滅びてしまう
であろう。
 人間は、
 悪徳、堕落、犯罪、飢餓という激しい社会的混乱の犠牲となって
 死滅してしまう
だろう。
 自然は 個々の元素に分解され
 近隣地域と風景汚され
 河川汚染され
 軍事的安全は脅かされ
 食料、原料の生産力破壊される
だろう。
 最後に、
 市場による購買力管理
 企業周期的に破産させることになる
であろう。
 なぜなら、
 貨幣の不足と過多は 
 企業にとっては
 未開社会での洪水や干魃と同じくらいの災難であろう
から”
 〔Polanyi, The Great Transformation, 73/
 カール・ポランニー【著】/野口建彦・栖原学【訳】
 【新訳版】 『大転換』 P.126、東洋経済新報社〕


  グローバルな信用制度内部における擬制資本
この「洪水と干魃(かんばつ)」を通じて与えられた損害
は、
インドネシアであろうと、
アルゼンチンやメキシコ、さらにはアメリカであろうと、
ポランニーの最後の論点を あまりにもよく立証している
しかし労働と土地についての彼の命題は
さらに展開する価値がある。

 諸個人労働市場に参入するのは、
固有の人格を持つ者としてであり、
社会関係のネットワークに埋め込まれ多様な形で
社会化された個人として
であり、
ある特殊(姿形やジェンダーなど)によって
区別できる身体性を持った存在として
であり、
多様な技能(「人的資本」と呼ばれることがある)
思考
(「文化資本」と呼ばれることがある)
蓄積した個人として
であり、
また、
夢や欲望、野心、希望、疑い、恐れをもつ生きた人間としてである。
しかし資本家にとっては、
そのような個人も 一つの生産要素にすぎない

もっとも、雇用者は
労働者に対して、
強健な身体、技能、フレキシビリティ、従順さなど、
仕事に適合した一定の資源を要求する
ため、
生産要素と言っても画一的な要素ではない
労働者は
契約によって雇用されるが、
新自由主義の理論設定からして、
フレキシビリティを最大化するために 短期契約が選好される
歴史的に 雇用者は、
労働要因(プール)内部の差異を利用して 分割統治を行なってきた
こうして分断的労働市場が出現し、
人種、エスニシティ、ジェンダー、宗教の区別が、
雇用者の利益になるように
しばしば露骨にあるいは密かに利用された
反対に労働者は、
自分たちを取りまく社会的ネットワークを利用して、
特定の職種を特権的に獲得する
かもしれない。
彼らは概して 技能を独占しようとするし、
集団的行動やしかるべき機関〔労働組合など〕の形成を通じて、
自分たちの利益を守るために 労働市場を規制しようとする

この点では 労働者は、
ポランニーの言う「文化的諸制度という保護の覆い」を
構築しているにすぎない


 新自由主義化は、
埋め込まれた自由主義」によって可能とされ

時には育まれもしたこの保護の覆い
はぎ取ろうとする。
労働者に対する総攻撃は 二面的なものであった。
各国内では、
労働者組合をはじめとする労働者階級の諸機関の力
押さえ込まれ解体される(必要とあらば暴力によって)。
フレキシブルな労働市場確立される
国家
社会福祉の給付から手を引き
雇用構造の再編技術的に誘導する
それによって 労働力の大きな部分を過剰労働力にして
労働に対する資本の支配が 市場において完成する
そして個人化され総体的に無力にされた労働者は、
資本家の個々の要望にもとずく
短期的契約しかない労働市場直面する

終身在職権(テュニア)の保障は 過去のものとなる
(たとえばサッチャーは大学でそれを廃止した)。
個人責任制」(鄧小平の言葉は なんと的確であったことか!)が
以前は
雇用者や国家の義務であった社会的保護
(年金、医療、労災補償)に
取って代わる
その代わりに諸個人は 市場で社会的保護を 商品として購入する
それゆえ 個人の安全保障は 個人的選択の問題にされるが、
この選択
リスクのある金融市場に埋め込まれた金融商品に
手が届くかどうか
に 縛られている
のである。

 攻撃第二の方面は、
労働市場の空間的・時間的調整を 変容させることである。
あまりに多くの人々が、
最も安く最も従順な労働供給を見出すための「底辺の競争」に
巻き込まれて行く
一方で、
資本地理的移動性をもつので
地理的移動性に制限のある労働者
グローバルに支配することが可能となる

移住が制限されているため、
同じ場所で働かざるをえない労働者は 豊富に存在する
こうした障壁から逃れるには、
違法な移住(これは容易に搾取される労働力を生み出す)か、
短期契約によるしかない。
たとえばメキシコの労働者は、
短期契約によって
カルフォルニアのアグリビジネスで働くことができるが、
病気になるやいなや(さらには浴びた農薬が原因で死亡した時でさえ)、
メキシコへと情け容赦なく送り返される

 新自由主義化のもとでは、「使い捨て労働力」が
世界的規模で 労働者の典型(プロトタイプ)として現れる

〔K.Bales, Disposable People: New Slavery in the Global Economy
(Berkeley: University of Calfornia Press, 2000)
ケビン・ベイルズ【著】/大和田英子【訳】
『グローバル経済と現代奴隷制』 凱風社、2002年
M.Wright, ‘The Dialectics of Still Life: Murder, Women and Maquiladeras',
Pablic Culture, 11 (1999), 453-74〕

世界中の苦汗工場(スウェットショップ)で働いている労働者の、
ぞっとするようなひどい労働条件専制的状況についての話が
満ちあふれている
中国では、農村出身の若い女性労働者の労働条件は、
まったくひどいもの
である。
耐えられないほどの長時間労働、標準以下の貧困な食事、
狭苦しい寄宿舎、殴ったり性的に虐待するサディスティックな経営者、
支払いが数か月遅れたり 時にはまったく支払われない給料
」。
〔A.Ross, Low Pay High Profile: The Global Push for Fair Labor
(New York: The New Press, 2004), 204〕

(引用者中略)

〔シンガポールを拠点にする
Levi's(リーバイス)・ストラウス社の下請け工場での
劣悪な労務管理の様子についての
インドネシアの若い2人の女性による証言内容が
引用紹介される〕


 似たような話は、
メキシコのマキーラ工場や、ホンジュラス、南アフリカ、
マレーシア、タイの台湾資本・韓国資本の製造工場にもある

健康に対する危険性や、さまざまな有害物質にさらされること、
作業中の死亡事故など
が、規制されることこも注目されることもなく 
日々起こっている

上海では、ある繊維工場で
「倉庫に閉じ込められた61人の労働者が焼死した」事件が起こった
が、
その工場を経営する台湾人事業家は、
2年間の執行猶予という「寛大な」判決を受けた
その理由は、
彼が「改悛の情を示しており」「火事のあと協力的だった」からであった。

 この種の非人道的で健康を破壊する危険の重荷
背負わされているのは、
大部分女性であり、時には子ども
である。
〔C.K.Lee, Gender and South China Miracle
(Berkeley: University of Calfornia Press, 1998)
;C,Cartier, Globalizing South China(Oxford: Basil Blackwell, 2001)
とくに第6章を見よ〕

新自由主義化社会的帰結は 本当に無残である
略奪による蓄積」は総じて、
世帯内の生産と売買のシステム内部で、
あるいはまた
伝統的な社会構造の内部で
女性が持っていたかもしれないあらゆる力掘りくずし
あらゆるもの
男性中心の商品・金融市場の中に置き直す

発展途上国の伝統的な家父長制的支配からの
女性の解放がたどる道の途上にある
のは

非人間的な工場労働
セクシュアリティを売る仕事
すなわち、ホステスやウェイトレスといった
相対的にましな仕事から性売買

(現代の全産業の中でも
最も儲かっているものの一つであり、
そこでは 相当数の人が奴隷状態にある)にいたるまでの仕事である。
先進資本主義国における社会的保護喪失は、
とくに下層階級の女性不利益をもたらした

そして、ソヴィエト・ブロックの旧共産主義諸国の多くでは、
新自由主義化による女性の権利喪失
まったく壊滅的
である。

 それでは、
かつてはささやかながらも
一定の尊厳と支えを与えてくれた集団的制度が
破壊された後で
フレキシブルな労働市場と短期契約、慢性的な不安定雇用、
社会的保護の喪失、健康を喪失する労働という世界
において、
使い捨て労働者――とりわけ女性――は、
いったいどうやって
社会的にも精神的にも生きていくことができるだろうか

たしかに労働市場におけるフレキシビリティの増大
利益になった人もいる
それが物質的な利益につながらない場合であっても、
比較的容易に、
そして家父長制や家族という伝統的な社会的束縛から
自由に仕事を変えることができる という権利だけでも、
無形の利益をもたらす

労働市場をうまく切り抜けていくことができる人々にとっては、
資本主義的消費文化世界の中に
一見 豊富な見返りが存在するように見える。
だが不幸なことに、その文化が
いかに壮麗で華やかで魅惑的であろうとも、
それはいたずらに欲望をもてあそぶだけで、
ショッピングモールで得られる貧しいアイデンティティや、
美貌(女性の場合)と物の所有がもたらす
ステータスの渇望以上の満足を
けっして与えることはない

われ買う、ゆえにわれありという信条所有的個人主義
一体になって

表面上は刺激的だが 奥底では空虚な、偽りの満足の世界
作り出している


 しかし、仕事を失った人々や、
では世界の使い捨て労働者の大半危険な逃げ場を
与えてくれる広大なインフォーマルな経済
から
抜け出そうとして果たせない人々にとっては、
話はまったく異なっている

およし20億人もの人々が
1日2ドル未満の生活に追いやられているというのに、
資本主義消費文化のあざけるような世界
金融サービスで稼ぎ出される膨大なボーナス
新自由主義化と民営化と個人責任の開放的な潜在力を云々する
自己満足的な議論
は、
残酷な冗談のようにしか思えない。
(引用者中略)

 新自由主義化は、
労働は 他のいかなるものと同じ商品である
強調することによって
社会秩序における労働者・女性・先住民集団位置づけを
変えた

生きた民主主義的制度という保護の覆いはぎ取られ
あらゆる種類の社会的解体脅かされた使い捨て労働者
社会的連帯を構築し集団的意思を表明するための
別の制度的諸形態を頼みにせざるをえない

ギャングや犯罪集団、麻薬売買のネットワーク、地域マフィア、
スラム街のボスから、
コミュニティ、草の根組織や非政府組織
そして現世的カルトや宗教的セクトにいたるまで
あらゆるものが その対象となる。
これらは、
国家権力や政党やそのほかの制度的諸形態が
集団的営為や社会的きずなの中心
としては
積極的に放逐され、あるいは単に衰退していった
その後に残された真空
代わりに埋める社会的諸形態
である。”
(デヴィッド・ハーヴェイ【著】/渡辺治【監訳】
【翻訳】森田成也・木下しがや・大屋定晴・中村好孝、P.230-236)


引用の最後のほうに出てきた
《政府による政策や措置を通じて/介して》、
新自由主義政策の‟破壊的帰結”として、
その後に残された真空を
代わりに埋める社会的諸形態

という文言や指摘は、
たとえば一方に、
子どもの貧困や
地域社会の崩壊や底抜け
に対して、
自分たちに出来ることで
何か出来ることは無いか

という意識からの
子ども食堂のような
草の根の取り組み
〉から、
また、もう一方の極端に位置する
JKビジネス》や《貧困ビジネス》、
または《現世的カルト&宗教セクト
のようなものまでを、
個人的には思い浮かんでしまうのですが、
鳥瞰的に眺めることが
仮に出来るのだとしたら、
じつは厳密には
その色彩的な境界線を引くことができない
虹のように、
グラデーション状を為しているかもしれない
〈この両極端な光景〉は、
しかし、
新自由主義化社会的帰結》を
《現実的背景や社会的背景にもって》、
その現状を前提》にしての〈
として、
見ることができるのではないでしょうか?

《あらゆるものの商品化/万物の商品化》を
今回ページで確かめた上で、
次のページでは、
その《略奪による蓄積》の
〈主要な4つの特徴〉
について、
同じく、D・ハーヴェイ『新自由主義』から
見ていきたいと思います。

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