【19-④】製造部品の《規格・標準化》と「新大陸アメリカ」~【監視-AI-メガFTA-資本】~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


前回記事からの続き】
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※今回記事での
プロイセンやフランスなどヨーロッパ大陸における
《互換性部品》開発の必要の歴史的背景については、
橋本毅彦『〈標準〉の哲学』に負っています。



1851年に、
史上初の万国博覧会が開催されたのですが、
イギリスの工業力を誇示するはずの同博覧会では、
新興国だったアメリカやドイツの技術力の高さに
専門家は驚かされた
と言われます。

なかでも、アメリカ製品の「実用性の徹底
専門家たちは目を見張り、
イギリスの新聞は、
アメリカの技術力が、イギリスを追い抜くだろう
という記事まで書くのでした。
博覧会では、
ロビンズ・アンド・ローレンス商会が、
自社のライフル銃を、観衆の前でバラバラに分解
そして今度は、
そのバラバラになった部品の山から、
また再び完成品を組み立てる

というパフォーマンスさえ見せたようです。

このアメリカの強みとして
分解できる《部品の互換性と標準化》
あったのでした。

この《部品の標準化や互換性》が生まれる発端は、
重厚な大砲を構えた城塞攻防を中心とする
動かない戦闘様式
裏を突いて
部隊を迅速に移動させることで、
重厚な大砲のゆえに動けない敵弱点をつく
という従来にない、
プロイセンのフリードリヒ2世による機動的戦術

受けてから、であることが、
『〈標準〉の哲学』から知ることができます。

重量のある大砲を抱えて
フリードリヒ2世に敗かされたフランス
従来の、重厚な大砲を抱えた戦い方から
大砲抱えたまま
部隊を迅速に機動させる闘い方開発の必要
余儀なくされた
のでした。


部隊を迅速に動かす為には
大砲軽くすしかないが、
大砲の鉄の重量軽くすれば
砲撃の反動で
大砲が大きく後退してしまい
発射の定位置に
大砲と砲車とを戻すのに時間が掛かり
次の砲撃への時間が掛かって
戦闘が不利になってしまう


その弱点補うべく
軽量化した大砲&砲車を
地面に吸収するような砲車構造にすれば
砲撃の反動の衝撃構造的に耐えられず
砲車が壊れてしまう


しかし、それでは、と、
砲車頑丈にすれば

重くなって
機動的に部隊を動かすこと出来なくなる


そこで編み出された工夫が、
大砲&砲車の部品が、戦場で壊れても
すぐに修理できるように
互換性のきく標準的なスペアの部品》を用意する

ということでした。

そうすれば
軽量大砲を持った機動力のある部隊
もつことができる
からです。

しかし、
互換性のきく標準的な部品を製造する》ためには
尺度も統一する必要」があり、
フランスの科学者と技術者の奮闘努力により、
メートル法の単位制度が
全国一律の度量衡尺度として統一
」され、
標準化された互換性部品製造技術》が
開発されるようになるのでした。

今日の我々にとっては当たり前の《互換性部品》ですが、
18世紀のフランスで、
標準化された部品をつくる互換性技術》を
開発するためには、
数学や自然科学などの知識

時代的に揃っている必要があり、
当時のフランスの啓蒙主義的合理精神〉があってこそ
初めて可能であったようです。

しかし、前回記事と後述の歴史的展開に見るように、
この《互換的部品の標準化技術》が❝発展する❞のは
フランスなどのヨーロッパ大陸という〈旧世界
ではなく
北アメリカという〈新世界〉なのでした。

(前回記事でも、その背景を見たのですが)
なぜ部品の標準化=互換技術》は
ヨーロッパ大陸ではなく
アメリカ大きく発展した
のでしょうか?


以下は、前回、前々回と同じく、
鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』の中を
見ていきます。


❝      〈なぜ、アメリカに


 しかし、
機械化や互換性部品の利用によって手作業の限界を超え、
製品を大量に生産しようという試みは、
むろんアメリカの専売特許ではなかった
それは工業生産一般の原理であり、
イギリスなどヨーロッパの先発工業国では一足先に実行に移されていた
生産の機械化という点ではイギリスがリーダーだった。

 19世紀半ばのイギリスでは、
綿工業を筆頭に機械や鉄鋼など多くの強力な工業が急成長し、
そこではアダム・スミスやマルクスが描いたように、
工場制度が確立し、分業と専門化がを通じて
のちには蒸気を利用した動力付きの機械未熟練労働者によって、
従来とは比較にならない量の製品が安価に生産されていた。
また、すでに18世紀末から19世紀前半にかけては、
モーズレィを筆頭とした多くの機械工たちが
木工工作機械や汎用金属工作機械・工具を発明し、
部品の精密な加工をできるようにした

互換性部品も登場し、
滑車や錠前、工作機械から繊維機械などでは大量生産が始まった。
とくに工作機械の製造工場では、
流れ作業に近いものまで実現したところもあった
という。

 他方、互換性部品を用いた生産というアイディア
主として18世紀末のフランスに由来した。
当時フランスは陸軍で用いる兵器の標準化に着手し、
1780年代には兵器生産者のオノレ・ブランが
小銃の互換性生産を実現した。
それを知った当時の駐仏大使のトマス・ジェファーソン
その方式を学ぶべきだと、
銃の見本をアメリカに送ったほど
だった。

 しかし、互換性部品を用いた工業製品の大量生産
19世紀前半のイギリスをはじめヨーロッパでは
ごく一部の資本財で実現したにとどまった

その完成と消費財を含めた多くの産業への普及アメリカ委ねられた

なぜヨーロッパで種をまかれた技術
アメリカ収穫されたのであろうか
。”
(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』P.23-24)



❝      〈互換性生産の完成
 まず第一に、
アメリカ的製造方式の核心をなす互換性生産という当時の最先端技術
フランスから導入され
連邦政府の積極的な助成策のもと

軍事技術として国産化されたこと重要だった。

 19世紀初頭に英米戦争
不完全な銃砲その供給不足に悩まされた政府は、
終戦後にその改革に着手した。
手本は
小銃の互換性生産すでに達成し、
当時のアメリカ軍兵器技術や教育訓練の指導をあおいでいたフランスだった。
早速、有名なイーライ・ホイットニーらによるその模倣が試みられたが、
必ずしも成功せず、
19世紀初頭になって政府は
陸軍兵器局の管理する二つの兵器廠〔ショウ〕において
本格的な試作に乗り出す。
兵器廠ではまず、
互換性生産のポイントとなる部品の精密加工のため、
多数の専門工具や工具機械、測定器具を開発した
また、冶金技術を改良して兵器に適した金属材料も作り出した
工場の生産と労働者の管理のために、
のちに鉄道業で開花するさまざまな管理手法も考案された

さらに兵器廠は
自ら開発した工作機械やその製図、製法などの技術情報を
民間の請負業者に広く開放

新たな生産方式支える産業基盤作りあげた
こうして兵器廠と民間企業との密接な協力によって、
ようやく1840年代初頭
互換性部品からなるマスケット銃国産化に成功する
これに要した政府の総投資は200万ドルを越えると推定された。
当時の民間企業ではとうてい負担できない金額だった。

 兵器廠で完成された技術は、その後すみやかに民間へと移転された
兵器廠で育った管理者と労働者民間企業へと転じ
鉄鋼業や工作機械産業の発展に貢献した

後者からは間もなく
フランス盤やターレット盤など最先端の旋盤も生み出された
こうして生まれた新しい技術
ロンドンで〔開かれた第1回万国博覧会〕ハイドパーク
イギリスの専門家を驚かせた小銃農機具、のちにはミシン自転車

そして自動車大量生産を実現した
のちにふれるが、
自動車産業で初めて互換性生産を実現したヘンリー・レーランドもまた、
スプリングフィールド兵器廠の出身者だった。
それはちょうど、
第二次世界大戦後の軍事技術
数多くの民間製品の開発つながったのと同様
である。

 政府の助成がなくとも、アメリカ式製造方式は
いずれは普及したかも知れないが、
それには相当長い時間を要したであろう。
自動車の大量生産もさらに後のことになったに違いない。
一般に、アメリカでは他の資本主義国に比べ、
政府が産業育成に果たす役割が小さいとされ、
近年では産業育成を求める声も高まった。
だが、少なくとも19世紀前半の後発工業国の時代には、
戦後の日本や最近のNIESと同様に、
アメリカ政府もこの点で重要な貢献をしたのである。

 互換性生産の成立について
ひとつだけ捕捉を加えておこう。
19世紀半ばにはそれは広く民間企業に普及していた
というのが定説だが、
ハウンシェルなど最近の経済史家たちの研究によれば、
精密な工作機械や測定装置を用いて部品の互換性を実現していたのは
ニュー・イングランドの兵器廠の一部に過ぎなかったという。
それを作るのに必要な高価な機器投資できたのは
巨大な政府市場が約束されていた兵器限られていた
そのうえ、
互換性部品を用いた生産コストや能力伝統的な手作業より劣った

それにもかかわらず政府
これに固執して小銃を生産しようとした
のは、
戦場で熟練した鉄砲鍛冶の助けを借りずとも簡単に修理できることにあり、
経済上の考慮ではなかった
というのである。

 互換性生産はその後も容易には普及しなかった
それを用いた代表的な企業とされるシンガー社やマコーミック社でも、
1880年代までは伝統的な方法でミシンや農機具を大量に作り続けた。
その原因主として、
19世紀後半まで
熱処理によって強化された金属を簡単に加工できる技術
存在しなかったことにあった

このため、部品は最初に金属加工され、その後、
熱を加えて硬くされたが、
熱を加えれば部品は変形し、組み立てる場合には、
あらためてて作業による調整が不可欠だったのである。
ようやく1880年代に
ミシン・メーカーのブラウン・アンド・シャーぺ社のエンジニアだった
ヘンリー・レーランドが、
強化済みの金属を
容易に機械加工できる旋盤と精密な測定器具を開発して
その障害を取り除いた

この頃にはまた、素材技術も発展し、
大量の機械加工が不要となる鍛造品
のちにはプレス機械を用いたスタンピング部品も開発された。

 こうして互換性部品製造コスト
大幅に低下し、品質も改善された

19世紀末の自転車の生産を皮切りに、
アメリカの産業に普及していったのである。
だがなお互換性生産コスト高かった
これを採用して
シンガー、マコーミック、ポープ(自転車)などが作った製品のコスト
伝統的な生産方法より高く
したがって各社とも最高価格の商品を製造、販売した。
最低価格の商品を量産し、しかもその価格を
急速に引き下げたフォードとの距離はなお大きかったのである。”
(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』P.24-28)


当初は「コスト的に高かった」にもかかわらず、
《この互換的な大量生産方式》が
なぜアメリカで"花開いた"のでしょうか?



❝・・・・このような新技術が
アメリカ製造業一般に広く普及した
のには、
それを受け入れるだけのアメリカの経済社会の特質があった

 まずアメリカはヨーロッパに比べ、
土地にはじまり、水や木材、鉱産物など天然資源が豊富だった反面、
開発すべき資源に対して、労働力が希少であり、慢性的に不足していた
もともと広大な国土を移民によって開拓した
というこの国の歴史的な伝統に加え、
ヨーロッパのように手作業が十分に発展せず、
職人の養成制度も十分に整備されていなかった
ため、
熟練労働者の供給は限られていた
また未熟練労働者については、
フロンティアの存在によって土地を容易に取得でき、
彼らが農民社会へと吸収される過程が長く続いたことが
その主たる原因
であった。
このため、後発国の時代から、アメリカの賃金は
国際的に見てきわだって高い水準
にあった。


 従ってアメリカでは、当初から
機械の徹底した利用によって労働力を節約する生産方法が選好された

とくに熟練工ばかりでなく、
単純労働までを節約しようとしたことアメリカの特徴だった。
農業では広大な土地を少ない農民で開発するため、
土地の生産性を高めることより
一人当たりの工作面積を極大化する目的で農機具の利用が促された

イギリスからの技術移転によって発展したアメリカの綿工業でも、
イギリスの主流とは異なる技術が選択された
熟練した紡績工、織布工に加え
成年男子労働節約的で婦女子によっても操作できる
ウォーター・フレイム紡績機が広く採用され、
織布工程でもイギリスで開発されながら、
豊富な手織工の存在によって普及が限られていた力織機が、
改良のうえはるかに大規模に導入された
そのうえアメリカでは、
同一工場内で
紡績から織布、仕上までの一貫生産システムが開発され
機械化大規模化飛躍的に進んだ
のちにこの経験のなかから、
それまでの紡績機に比べ3倍の速度をもつリング紡績機が発明され、
イギリスを上回る能率をもった独自の生産技術が開発されたのである。

 しかし、機械の利用資源の大量消費をともなう
アメリカは資源を大量消費する機械の利用によって
労働力をむしろ節約した
のである。
アメリカ的製造方式その典型だった。
家具製造に木工機械を用いたのは、
木材の大量消費によって労働力を節約できるからであり、
資源が豊かな国では合理的な選択だった
小銃の製造でも、
最小の労働量で銃床を成型するため多くの機械工具が開発されたが、
これまた木材を大量消費した。
しかも木材に代表される豊富な資源の存在は、
資源浪費的な機械安価に生産することを可能にし
専用木工機械や農機具などでのアメリカの技術的優位を支えた。
かくて、馬場宏二氏の優れた着想に従えば、
アメリカの生産システム最初から資源浪費的だったのである。

 労働力の相対的な不足に加え、
アメリカにおいては職人的な伝統希薄であり、
組合運動未成熟だったことから、
新技術導入に対する労働力の反発
イギリスに比べ軽微だった

むしろ機械化の進んだ部門でのアメリカの労働者は、
機械の利益を積極的に評価し、
その導入に協力したばかりか、
自ら工場で機械の発明や改良に熱心に取り組み
社会的な地位の上昇をはかった

当時のアメリカの教育制度や社会的な流動性の高さが
影響していた
のであろう。
同時に、彼らには
職人的な技術、伝統へのこだわりなかったから、
すぐに後でふれる市場の性格ともあいまって、
実用性を重視した製品開発が促された


 以上の供給面の特質に加え、
ヨーロッパとは異なってアメリカでは
工場で大量生産された規格品への巨大な需要が存在したこと
決定的に重要だった

まず18世紀末から19世紀半ばにかけて、
アメリカ経済は急速に成長し、市場もめざましく拡大した。
フロンティアが存在し、良質な土地が安く入手できたこと
未来への楽観主義
を生んで、
人口の急激な増加と新家庭の形成、
高い出生率と移民の増加をまねいた。
同時に、高い農業生産力は農家所得を上昇させ、
食糧価格を相対的に低く抑えた
労働力不足のため労働者の賃金水準は相対的に高かったから、
工業製品に対する支出余力は大きかった


 これと並んで国内需要の性格も
ヨーロッパに比べ均等だった
貴族いない相対的には平等なアメリカ社会のもとで、
工業製品市場は
ヨーロッパのように少数の金持ち牛耳られない大衆の市場となった
消費財の供給が豊かではなく、
広大な国土のなかで孤立した厳しい自然条件のなかで暮らしていた
当時の多くの消費者は、
見栄や派手さよりも実用本位の商品を購入した。
生活必需品であった小銃や農業機械においても、
デザインや機能が単純で、操作が簡単、故障の修理が容易なものが
強く選ばれた

また当時、移民としてアメリカに流入した多くの人々は、
標準化製品積極的に受け入れることによって
アメリカ社会同化しようとした

こうしてアメリカでは
ヨーロッパであれば とても主流になれない
大量生産された低価格の工業製品に対する巨大な需要が存在した


 以上をごく簡単に要約すれば、
アメリカ的製造方式は、
イギリスなど当時の先発工業国で育まれた技術と生産組織を、
新世界の異なる環境のなかに移植する過程で生まれた
新たな生産システム
だった。
そこでは
労働力の相対的な不足
規格化された製品への大量の需要という条件のもと、
機械化と省力化を通じた工業製品の大量生産が、
ヨーロッパ世界におけるよりも
純粋かつ大規模に、また徹底的に追求された
のである。”
(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』 P.28-32)
※下線・強調などは引用者

既存社会の仕組みや規制勢力が出来あがっている
〈旧大陸/ヨーロッパ大陸〉では
アメリカのように発展する社会環境になく、
他方、アメリカでは、
米英戦争での痛感から、
兵器部品の互換性技術のフランスからの導入を決めた
アメリカ政府が、国策として
フランスから互換性技術を導入し、
財政投入と兵器開発の基盤整備の国家事業という
アメリカ政府による積極的な国家事業」と、
政府の兵器廠で開発された技術の民間への移転と、
それによる産業基盤の形成化」、
そして"サラダボウル国家"アメリカ合州国ならでは
地理歴史的な事情
が❝絡み合ってこそ❞、
資本主義的論理では説明がする事出来ない―、
第2次大戦後に、
〈世界中の文化やライフスタイル〉を
席捲してしまう❞ことになる
アメリカ型の大量生産方式&大量消費文化》が
20世紀に花開くのを、今回、以上に見ました。

この開発》が、第二次大戦後は、
この地球上すべてを舞台にして推進される
のでした。
――トルーマン大統領(当時)が
"貧困の撲滅のために"と言った《開発を、
イヴァン・イリイチは
"サブシステンス仕掛けられた戦争"と形容した
それ》――


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