私は乳糖不耐症なので、あまり牛乳を飲まない。
 牛乳の健康効果については「むしろ害悪」とする意見もある(そのせいで飲まなくなったわけではない)。

 将来の飢餓に備えて虫を食うという文脈の一方、膨大な食品ロス、大量に余って廃棄されている牛乳という現実がある。
 保存できる加工食品にすればいいという意見もあるが、百も承知でフル稼働しても消費しきれないのだという。

 というわけで、政府がホルスタインの殺処分に補助金を、などという話になってくる。
 いろんな違和感が押し寄せる現状には、うまく整理がついていない。

 卑近な話に引き寄せていえば、冒頭に書いたとおりだ。
 牛乳はまったく飲まないが、加工食品ならお腹はゴロゴロしない。

 一時ヨーグルトなどをよく食べていたときもあるが、食べるとしたらそれくらいだ。
 牛乳を利用した代表的な加工食品であるチーズには、あまりいい印象がない。


 アメリカ英語の俗語で、チーズといえば、うそ、まがいもの、ろくでもない。
 チーズのふりをしてそうではない商品、劣悪な品質のものが多かったせいだろう。

 あくまで個人的意見だが、食品としてのチーズをおいしいと思ったこともあまりない。
 写真を撮るときに日本人が「チーズ」と言うのは、もっといやだ。

 チーズと言いましょう、と英語圏の人間が言えばアクセントが「チー」にあるので口は「イ」の形になる。
 しかし日本語で「チーズ」と言ってしまうと「ズ」、つまり「ウ」の形になる。

 とうてい笑顔にはならないのに、外国の猿真似「チーズ」がそのまま使われているという倒錯的状況については、文化として受け入れてはいるがとても苦々しく思っている。
 放送の第一線からビデオテープが消えても、アナウンサーがVTR(ビデオ・テープ・レコーダー)という言葉を使いたがるのに似ている。

 まあ言葉の問題は些細なことだが、味覚的にもチーズという食品は好きになれない。
 まずいとは言わないが、人間の味覚が「カロリー魔王」の多くをおいしいと感じるようになっているだけの話だ。


 最近の食生活を顧みると、肉はもちろん乳製品すらほぼない。
 タマゴと、めんつゆに使われる魚介だしくらいは食しているが、それ以外はほぼベジタリアンに近い生活といっていいだろう。

 自分が殺せない生き物は食べない、というビーガンの根本思想には一定程度同意する。
 本物のビーガンは、肉はもちろん乳製品も口にしないという。

 狭い小屋に閉じ込められ、奇形的肉体に改造されて、体液を搾取される。
 工業製品化された生物、人間のエゴによって生み出された製品。

 自分がされていやなことは、家畜にもしてはいけない。
 納得のいく理由だ。


 とはいえ植物だって、大いに改造されている。
 なぜ植物はいいのか? という倫理の問題はさておこう。

 植物にとってはむしろ改造され、適応すること自体が生存戦略かもしれない。
 人間がいなければこれほど栄えなかった植物種が、どれほどあることか。

 植物の気持ちはわからない……が、改造されたホルスタインが幸せに思っているかどうかには、疑問の余地はある。
 人間がいなければ生きられないペットと同じで、ある種の「みにくさ」があるのは事実だ。

 かといって、需要に応じて供給しているだけの社会そのものを否定するところまで踏み込むつもりもない。
 奇形に頼るしかないレベルまで、人類社会が変質を遂げてしまっただけの話だ。


 持続可能という視点で分類する「運動」は広がっている。
 やり方によっては人口100億くらいならなんとかなる、という見方もあるようだ。

 国連の人口動態推計も、かつてはあっという間に100億を超えて破綻する的な危機感をあおっていた時期もあった。
 現在は、100億手前で上昇率は鈍化し、ゆるやかに安定傾向になると修正されている。

 似たような例で、21世紀には石油がなくなる的な「あおり」は、20世紀後半当時、うんざりするほど流布されていた。
 現実にはあと100年はいけそうらしいので、またぞろ化けの皮が剥がされたわけだ。

 マスコミは、なにがしたかったのか?
 もちろん「あおり」ビジネスだ。

 石油業界などの既得権をぶちのめしてやろう、といった個別の目的をともないながら、なんらかのムーブメントを起こすこと自体が利権である。
 結果的には、私のような懐疑主義者を増殖させていく効果を発揮したわけだが。


 20世紀の浅はかなマスコミのおかげで、私自身まずは疑うという精神を涵養される効果は、たしかにあった。
 21世紀のマスコミも似たようなことはやっているが、昔ほどあからさまではなくなったという意味で、成熟した社会は徐々に築かれていくということなのだろう。

 中国人にも「政府の発表は信じない」という人々が、一定のボリュームゾーンを形成しているようだ。
 昨今のゼロコロナ政策でも、終盤すでに国民の何割かは感染しているだろうという状況のなかで、数人とかいう規模の感染者数を発表している地方政府には、さすがに吹いた。

 まあこれは主語が共産党なので、すこし話はちがうかもしれない。
 共産党に都合がわるい情報以外の報道の自由は保障する、という「環境に適応」しているのが、現在の中国人という認識が適切だろう。


 いわゆる自由主義陣営にも、考察の余地はかなりある。
 国民の多くが発信者になれる時代においては、自由の弊害をこそ意識すべきだったりする。

 直感で怒鳴り散らす瞬間湯沸かし器のような性格の人間はまれによくいるが、行動するまえに6秒だけ深呼吸しましょう、というアンガーマネジメントはある程度有効だ。
 昨今、感情に任せたブログ記事やクソリプなどが炎上している案件にも、この指摘はじゅうぶん援用できる。

 目のまえにある情報だけにフォーカスせず、物事を広く見渡すこと。
 本ブログでもその点、努めていきたい。
 


 私は動画等の視聴において、もっぱら倍速を多用している。
 ポッドキャストから映画まで、等速で消費するコンテンツはほぼない。

 それでほんとうに理解できているのか?
 という危惧についての記事を読んだので、偽ソクラテスとして弁明しておきたい。

 記事はもっぱら、処理すべき情報が膨大にあるZ世代の特徴、などという文脈で語られることが多い。
 制作サイドとは異なる形で情報が伝わってしまう、という問題提起もあるようだ。

 その機能が搭載された当初から使い倒しているZ世代ではない年寄りとしては、「脳の訓練」にちょうどいい、と信じている。
 死ぬまでに1万冊の本を読み、1万本の映画を観る、という野望の途上にいる者としては、速読や倍速を否定されると、かなり困ったことになる。


 映画の制作者は、必然性があって、その上映時間の作品をつくった。
 再生速度を速めるほど、表情や伏線などを見落としやすくなり、映画の内容をじゅうぶんに理解できなくなる。

 作り手に敬意を払うなら、消費者は作品の鑑賞に必要な時間をかけて、きちんと(等速視聴で)観るべきだ。
 理屈としてはそういうことだが、部分的には認める。

 私も、よさそうな作品や名作などは、比較的低い(1.25とか1.5倍)速度で、じっくり味わうこともある。
 名作ですら等速じゃないの? という問いには、こう答えたい。

 まず映画という「一般向け」の娯楽自体がもつ不可避的な前提。
 いかなるターゲットに向けて制作されたか。

 よほどのマニア向けはともかく、名作となると、おおむね世の「多数派」をターゲットにしている。
 多数派は「平均」と言い換えてもいい。

 要するに統計学だ。
 「賢い」人々と「愚か」な人々のぴったり中間から、どちらかといえば「愚か」寄りの人々を狙うのが「ボリュームゾーン」となる。

 これは、とある少年誌の編集者が言った「読者は全員バカだと思って描け」という指摘にも重なる。
 そもそも「ゆっくりめにつくられている」ことには、一定の蓋然性があるわけだ。

 そのような計算に基づいたターゲットに比べて、私はほんのすこしだけ情報処理能力が高いと思っている。
 なので、作品を早めに消費するという選択は合理的なのだ。

 あとは趣味の問題があって、私もほんとうに好きな作品は等速で味わいたいと思うこともあるが、そんな作品はそれほど多くない。
 それ以外は全部、可及的速やかに消費する、という選択をした。


 つぎに、そもそも供給サイドにある問題点を指摘したい。
 貴重な可処分時間を費やそうとする人々に対する先制攻撃──端的に言えば「詐欺」だ。

 公共広告機構に相談してもいいくらいの案件が、この業界にはザラにある。
 動画でいえば釣りサムネにあたるだろうが、映画の場合は消費に1時間以上かかるので、被害はより深刻となる。

 人気作品に露骨に乗っかろうとするキャッチコピー、作品内にいっさい出てこないシーンのパッケージ、内容を知らずにつけたとしか思えないタイトル、そもそもジャンルさえおかしくないか?
 配給会社の「希望」だけを書き連ねたような詐欺的な宣伝文句の数々を見たければ、動画配信サイトをちょっと掘り下げるだけでいい。

 定額の配信ならともかく、有料レンタルだとそれなりにイラッとくる。
 まちがってクリックしたのかなと自分を責めたり、あまりの詐欺っぷりにポカーンとしてしまう経験は、多くのユーザーが味わわされているはずだ。

 ヘビーユーザーはもう慣れてしまって、そういうものでしょ、とあたりまえのように受け入れている傾向はある。
 が、冷静に考えて、われわれは「だまされている」点に、あらためて留意すべきだ。

 正直、内容とまったく関係ないパッケージやコピーを堂々と載せるような作品の消費には、倍速でも足りないと思う。
 もちろん売る側も、最初からそういう使われ方を織り込み済みで「客をだまそうとしている」と思う根拠はある。

 オレらはふざけた宣伝文句でオマエらだますけど、オマエらはふざけないでマジメにちゃんと観てくれよな!
 そんなこと、どの口が裂けたら言えるだろう?

 だまされてやった代わり、無駄な時間を最小限にすべく応じるのは、許容されるべき防衛本能だと思う。
 字幕なら、4倍速でもセリフは読める。


 そんな私にも、苦手なものはある。
 手持ちカメラだ。

 折に触れ書いているが、画面がブレると見る気をなくす。
 とくに倍速のPOVモノは、やってみればわかるが、ほとんど罰ゲームだ。

 映画ファンとしては致命的じゃない?
 と言われると、そうかもしれない。

 じっさい最近の映画は、かなり手持ちカメラが多い。
 コストが安く済むとか、臨場感が出るとか、そういう理由だと思う。

 たしかに映画として「うまくやれば」、コストパフォーマンスはいいのだろう。
 が、無駄に画面を揺らすだけの、ぶっちゃけ「下手な映画」が多すぎる。

 あまりにも画面がブレすぎて、なにをやってるかわからない、というレベルの映画はまさに「苦行」だ。
 信頼できるレビュアーの方々すら苦言を呈するレベルの「格闘アクション」は、15秒スキップ連打でいいと思う。


 無数にある駄作のタイトルを書き連ねてみても詮無いが、彼らの「誤解」について、だれか正してやらなかったのだろうか?
 基本的に、手振れは「悪」だよ、と。

 ファウンドフッテージものとか、POVで成功している前例があることは認める。
 簡単だし、マネしよう、と考える「新人」が一定数いるのだろうことも理解する。

 結果、それを楽しめない犠牲者が増える。
 上記のふざけた詐欺を乱発する「配給会社」の責任が大きいが、そもそも「制作者」に対しての教育も足りないのではないか、と憂う。

 なぜ、まわりのおとなが正してやらないのか?
 なぜなら、映画は「自己満足の世界」だからだ。

 語弊はあるが、要するに「自由の弊害」だ。
 自由な俺を見て、自分大好きな俺のつくった芸術を見て、これが俺なんだ、俺の生きざまを見て!

 画面が揺れるのは、カメラマンが生きているから。
 見て、生きているカメラマンの手ブレを見て!

 ──知らんがな、と毎回思う。
 おまえが生きるのは勝手だけど、こっちも生きてる時間を費やして映画観てんだよ。


 短い人生、できればお互いに敬意を払って、生きていきたい。
 が、相手にそのつもりがなければ、そのかぎりではない。

 そもそも映画を撮ろうと考える時点で、そうとうな自己顕示欲と承認欲求が爆発している人物像が想定される。
 その個性を補強しうる才能が伴えばともかく、たいていは、ない。

 それ(手振れ)だけで作品を評価することはしたくないが、そうとうのマイナス補正がかかるのはしかたない。
 もったいないな、と思うこともある。

 先達による「助言」は大切だ。
 監督とカメラマンが「暴走」するせいで、まあまあの脚本が台無しになっていく姿を見せられたときは、不運な新人脚本家のために合掌する。

 もちろん逆のパターンはいくらでもある。
 天才的な監督が、凡庸なシナリオを優れた映画に仕上げる姿には感心する。

 ともかく敬愛する映画監督さんたちには申し上げておきたい。
 手振れは悪ですよ、と。

 百も承知で使いこなしている方々は、もちろんいる。
 そうでない新人に、どうか助言をしてあげてほしい。

 撮りやすいより、見やすいを優先しろと。
 自分の都合しか考えない監督に、すこしは観客の都合を意識するよう、諭してほしい。


 一応言っておくと、私は「バカ映画」は大好きだ。
 いいおとなが、金と時間を使ってバカげた映画を本気でつくりあげる、その姿には感動すらおぼえる。

 しかし「バカ監督」がやりたい放題、浅薄な俺様を押しつけてくるような映画には、控えめにいってヘドが出る。
 異なる価値観そのものは容認するが、安易な画面ぐらぐらについては単純に「実害」があるので許せない。

 ぐらぐら揺れる駄作に酔いながら、そんなことを思った。
 最近は素人の撮った散歩動画でもできることを、どうかセミプロの監督さんも見習ってほしい、と。
 


 私は三大欲求の筆頭「食欲」の優先順位が低い。
 死なない程度に食えればいいし、食う目的は脳を動かすためだ。

 メニューを考えるのも面倒なので、毎日、決まったものを食っている。
 準備に時間がかからず、栄養的に過不足なく、特段にまずいわけでもない。

 上記の要件さえ満たしてくれれば、昆虫でも食う。
 完全栄養食のパッケージが販売されているので、もうすこし安くなったら試してみたい。

 そんな私のようなタイプは、おそらく少数派なのだろう。
 世の中には「美食」を重視している人々が、かなり多いようだ。

 その筆頭は、堀江さんに代表される「コオロギなんて食いたくない」派だ。
 一見して「食」への強いこだわりを感じる恰幅の良さは、アメリカ的な飽食の業界を支える重要なファクターであろうと拝察する。

 一方、世界食糧計画をバックにしたSDGs的な主張がある。
 こちらはこちらで、理想論すぎてイラっとくる感じは、私にもなんとなくわかる。


 一時、ゲテモノを食う動画を好んで見ている時期があった。
 ハチ、バッタ、カマキリ、ジョロウグモ、ムカデ、ゴキブリ、あらゆる昆虫が「加熱すれば食える」という信念を貫いている何人かのユーチューバーの思想には、共鳴しないこともない。

 彼らに言わせると、コオロギの味は昆虫のなかでは「中の下」らしい。
 最下級はゴキブリ──(種類にもよるが)人間が口にしちゃいけない味だという。

 最上級は、ハチノコ。
 新鮮な幼虫をバターしょうゆで軽く焼いて食している姿を見ると、ちょっと食べてみたくなる。

 長野にかぎりなく近い群馬で、一定期間育まれた。
 胎児期の私の身体の2%くらいは、イナゴによって育まれている可能性もある。

 そう、この国にも一応、虫を食う文化自体はあるのだ。
 考えてみれば甲殻類に近いし、アレルギーさえなければ虫を食うこと自体に、非合理的なものはない。


 とはいえ、虫なんかぜったい食べたくない、という人々の気持ちもわかる。
 そもそも日常的に接していない食べ物は、食べ物と認識するまでにすら時間がかかるものだ。

 そういう意味で、昆虫食をあつかっているメーカーのおえらいさんの意見は、的確だったように思う。
 基本的にビジネスライクで、感情以外の要素で批判する部分があまり見当たらない。


 ──それに価値があるかどうかは、市場が決める。
 脱毛したいひとがいるならそういうニーズに応える会社が必要であるように、虫を食べたいひとがいるなら供給する会社は必要だ。

 昆虫を重要なたんぱく源として利用しつづけている国はあり、安全性への疑義がジャンクフードよりも高いということはなさそうだ。
 環境負荷や食糧問題の切り札としての意義は、国際機関によっても強調されている。

 現在、それを利用していない国に対して、その新たな価値を訴求するというビジネスを、われわれは選んだ。
 通常の営業に「社会的意義」を絡めることで、ビジネスがやりやすくなるという部分は、たしかにある。


 ある意味「ぶっちゃけ」話のようでもあった。
 しごくまっとうなことを書いている。

 担当者がどんな営業をやっているのかはともかく、ビジネスをビジネスと割り切っているメーカーの「正直さ」は支持したい。
 むしろ「正直すぎる」という文脈での批判もあるようだ。

 これを取り上げて「意識が低い」「自分で言うな」と突っ込む記事を読んだ。
 それはそれで「マスコミらしいな」と思った。

 革命の闘士は信念をもってやらねばならず、ブームに迎合するような中途半端な態度は反革命的である。
 もっと熱烈にSDGsを支持する、意識高い系の活気ある環境保護戦士が必要だ。

 世界の潮流を読み、深い思想と信念をもって、その熱量で時代を動かしていくような社長のほうが、マスコミ的にはありがたい。
 そもそも記事にしやすいのだから、そうだろうとも。


 昆虫食支持と思われる食料新聞も、ちらっと流し読んだ。
 結論としては「安易な批判は避けるべきだ」という論調でシメられていた。

 昆虫食のメーカーを擁護し、世界の人口について憂い、自給率を盾に、個人の趣味嗜好よりも優先すべき未来の「危機感」を説く。
 ──これについては、だからダメなんだろうな、と思った。

 短いコラムとはいえ、「安易な批判を招いた自分たちのやり方は正しかったのか」という検証の姿勢が、皆無だったのだ。
 「自分はいいことをしている」と思い込んでいる連中に、よくある症状だ。

 反省すべきは自分ではない、という信念のひとたちには、いつもゾッとさせられる。
 熱烈な宗教信者から人民の革命解放軍まで、この手の連中はそうとうに度し難い。

 彼らの多くにみられる共通点のひとつとして、ほんとうに自分が正しいのかという「問い合わせは受け付けない」態度がある。
 新興宗教の集会などで、教団関係者と部外者では「議論にならない」状況を考えれば目安になるだろう。


 保守・革新の図式においても同様だ。
 右も左も、底辺の連中はおしなべて同じ症候群を呈しているわけだが、両者には微妙な差異がある。

 そう思うと気持ちいいから、というある種プリミティブな考え方が、右側には多い気がする。
 自分が正しいから、という正体不明の信念に凝り固まった左側の考え方のほうが、どちらかといえば厄介だ。

 個々人がそれぞれ、自分できちんと考えて、その結論に達したならいい。
 一部の人々が考えた結果「これが正解であり正義だ、おまえたちはそれにしたがえ」という方法論の末路に、刻み込まれた歴史的被害がすさまじすぎる。

 疑う余地のない正義。
 そんなものは、そもそも存在しない。


 大きな話になってしまったが、要するに、選択肢があればいいだけなのだ。
 推すのは勝手だし、断るのも勝手、その自由がある現状は、モアベターである。

 宗教的理由での選択肢と同列に、昆虫を加えればいいだけのことだ。
 そもそもこんなことが議論になっている時点で、平和だなと思う。

 好きなものばかり食えば食ったで、勝手に別の問題を引き起こしていたりもする。
 全体的には、そんなレベルの話ではないかなと思った。
 


 血液検査を主たる目的に献血にいってきたところ、はじめての事象に遭遇した。
 検査結果が2項目にわたって「赤字」だったのだ。

 過去、インスタントラーメンばかり食べて献血したところ、コレステロールだけが赤字になったとか、そういう実験的な経験はあった。
 体調的な問題で1項目だけ赤字になることはそれ以外も何度かあったが、2項目赤字というのははじめてだった。

 とはいえ実態は、基準値「31.7~35.2」%の項目で「31.3」。
 基準値「38~89」x10^2 /μLという項目で「37」──と、要するに「誤差の範囲」だ。

 よく酒飲みが血液検査で「2桁」ずれた異常値をたたき出し、医師から怒られていたりするが、そういうのとは質が異なる。
 今回も血液検査的にはパス、と受け取っていいだろう。

 さて、ここで言いたかったのは、たとえミリでも逸脱したら「赤字」という事実だ。
 以下、本題にはいる。


 あたりまえの話だが、ガキはバカである。
 いや自分は昔から頭のいいおりこうさんでしたよ、という方には本記事は向かない。

 決めつけるつもりはないので、あくまでも私の場合だが、正直そうとうなバカタレだった。
 いまもそれほどりこうだとは思わないが、輪をかけてクソガキだった。

 昔の自分を思い出すと、壁に頭をぶつけたくなることが、たまにある。
 とくに中2から高校くらいまでのガキというものは、たいへんバカなことをする。

 当然、社会はそういうクソガキの存在については予定していて、さまざまな教育、罰則、補導などの方法を編み出している。
 私自身、重大犯罪については厳罰化もやむなし、という立場ではある。

 バカなクソガキが「やらかした」場合、基本的には罰するべきだ。
 ──ただし、その罪の大きさに応じて。


 少年法の議論などにも絡むが、コンマ1ミリでも基準を外れたらブッたたく、という昨今の情勢には、若干の疑義がある。
 わかりやすい例でいえば、スシローの件だろう。

 食器をなめたとか、除菌スプレーをかけたとか、さほど大事件だとは思わない。
 が、たいへんな騒ぎになっている。

 子どもの「いたずら」が、広範に「発掘」され「炎上」している。
 とくに回転ずしが多い印象なのは、その普及度と難易度の相関関係によるだろうか。

 あらかじめ言っておくと、私は回転ずしの定期顧客ではない。
 そもそも飲食業界にほとんど金を落とさない私のような人間の見解は、業界自体にとってすら煙たい可能性はある。

 それでも昨今の「ヒステリックな反応」に対応せざるを得ない社会について、違和感を申し述べておきたい。
 「もうスシロー行けません」「しばらく回転ずしはない」など、この手の書き込みには辟易する。

 これは「だれが加害者か」冷静に判断すべき事案だ。
 もちろん筆頭が、火をつけたワルガキ自身である事実は揺るがないにしても、昔からこの程度のガキは一定数、必ずいたはずだ。

 それがどこまで懲罰されるべき罪であり、矯正のために必要な罰であるか。
 これについて、適正にバランスをとる必要がある。


 ここからここまでは合法、ここからは違法、という厳密に定義された世界は、正直、私のような人間にとっては心地よい。
 罪は罪として必ず罰されるべきだとは思う──が、それは罪の「量」に応じなければならないと思う。

 莫大な賠償とか、特定とか退学とか私的制裁とか、その「量刑」は適切か?
 とくに「マスコミ」と「市民」による「社会的制裁」なるものが、ものすごいことになっている現状を、どう理解すべきか。

 決められた基準から「ミリでも逸脱」したら、悪は悪、赤字は赤字だ。
 だからといって即逮捕、強制入院は、どう考えてもおかしい。

 その截然たる境界線の影に、「メートル単位で逸脱した腐れ外道」が隠れ潜んでいる。
 そもそもマスコミ自身が「正義」の「隠れ蓑」を欲しているのだから始末がわるい。

 この程度でいいんでしょ、こういうのが好きなんだよね、ご近所ゴシップくらいしか処理能力ないんだし、それで自分たちが正しいつもりになれれば心地いい、結局その程度なんだよね?
 と、われわれはそうとうバカにされているわけだが、これもまた現にそうなのだからしかたない。

 正義づらをした私刑集団が、ネットのこちら側にいる。
 彼らに燃料をくべるワルガキとマスコミのタッグマッチで、現代社会が成り立っている。


 ただの分析で終わるのも申し訳ないが、解決策はこれといってない。
 私も可処分時間の一部を使ってこれらの記事を消費していたわけだから、同じ穴のむじなとも言える。

 いろんな意味で、遺憾の意を表したい。
 ただ、できればもっと「マシなこと」に時間を費やしたい、という思いのほうが強い。

 そういう人間が、すこしでも増えてくれれば幸いだ。
 小人閑居して不善を為す、などと言われないように心がけたいものである。

 


 2月はだいぶ映画を観てきた気がするので、最後も映画で締めよう。
 ハンガリー・ドイツ合作、『家政婦の秘密(エメランスの扉)』(2012)。

 邦題がふたつあるらしい。
 原題は〝THE DOOR”

 買い付けた配給会社ごとに適当にタイトルをつけたせいで、ややこしいことになっている大昔のB級ホラーなど、この業界ではまれによく見かけるが、本作品についてはよくわからない。
 どのタイトルも、帯に短したすきに長しのような気はする。

 ともかく主人公エメランスの思想が、私にばっちり合った。
 以下、ネタバレを含むのでご注意を。


 エメランスはタイトルどおり家政婦で、有能だが性格にやや難がある。
 雇い主は元教師で小説を書いている奥さんとその旦那、信心深いアッパーミドルのご家庭だ。

 旦那のほうは当初、狷介な性格のエメランスに批判的だったりもするが、ともかく仕事はきっちりする。
 淡々と結果を出す人間に、なかなか文句は言えない、といった体のやりとりが前段。

 過去を連想させるくだりなどもあり、エンディングで回収される。
 シナリオ自体なかなか興味深いが、なにより私が注目したいのは主人公エメランスのキャラクターだ。


 仕事は優秀だが、人間関係では距離を置く。
 気難しく皮肉も言うが、けっしてウソはつかない。

 お世辞や美辞麗句は並べず、自分が感じたままに発言、行動する。
 数少ない友人の自殺を知っていても止めない、むしろ幇助する。

「毒だと死ねないこともあるから、首吊りのほうがいいと言った。埋葬の服も、いっしょに決めた」
「止めることは可能だった。けれど死を止める権利など、だれにもない。私は彼女が好きだったから、止めなかった」

 正しい、と思った。
 尊厳のある生がまっとうできなくなれば、つぎは尊厳のある死を選ぶ、当然だ。

 なぜ無理して生きなければならないのか?
 生きることが拷問になるとき、死は唯一の救いになる。


 作中では、日本人にはわかりづらい信仰の問題も問われていた。
 素人宗教研究家の私にとっては、またぞろ「ラスボス・神」のかけた呪いのターンだ。

 信者数や労働力が減るから、という理由で「死さえも許さない」傲慢な為政者や宗教者たちの築いてきた歴史が背景にある。
 神の名のもとに自殺が明確に禁止されたのは、2世紀あたりのカトリック教会らしい。

 呪われた暗黒の中世、『フランチェスコ』(1989)を観たときに感じた絶望的な気分を思い出した。
 死なせろと求める病気の貧民を、ただ抱きしめるしかできないフランチェスコ。

 信徒にとっては、すばらしい映画なのかもしれない。
 だが、随所にはさまる「狂信者」的シーンには、激しい悪寒をおぼえた。

 信じる神がいて救われるのは、もちろんいいことだし、正しいだろう。
 しかしその教義が抑圧となり、妄想、脅迫のレベルに達したら、もはや本末転倒だ。

 宗教問題については長くなるので、ここでは差し控える。
 ともかく昨今の神は、薄っぺらな「利用」のされかたが増えているな、と感じる。


 ──病気により、自分のことが自分でできなくなってきたので、そのまま引きこもり死のうとしていたエメランス。
 友人と同じ方法を用いなかったのは、生きているかぎりネコにエサをやりたかったからかもしれない。

 どうかと思う部分も見受けられるが、理屈としては筋が通っている。
 彼女はただ、静かに死にたい。

 しかしそこで死なせては映画にならないとばかり、おせっかい外野の登場だ。
 文字どおり「扉」をぶち破り、無理やり引きずり出されたエメランスは、そのまま入院させられてしまう。

 助けた側は一時の良心を満足させるものの、その後、働けなくなった彼女のめんどうをみるのはごめんだと言い放つ。
 他人なのだから、それはそうだろう。

 それでも善人ぶりたい雇い主は、おためごかしのウソをつく。
 けっしてウソをつかないエメランスについたウソが、バレる。

「(ウソで)私を救えると思ったら大間違いよ」
「あの家でまともなのはヴァイラ(犬)だけ」

 もちろん雇い主側にも、彼らなりの正義はある。
 自殺を許さない「信者」たちを含め、主人公が助けられたことをただ朴訥に喜ぶ観客も、けっして少なくないだろう。

 それぞれの思想が問われるところだ。
 じっさい、その選択の正しさを自分自身に問う映画、といってもいい。


 生きることで得られるもの、その価値が大きいことは理解する。
 だが当人の美学を無視して、自分用の価値観を押しつけるのは正しいことか?

 やさしいウソ、というものがあるらしい。
 たとえば治療法がないなら、ガンを告知しない、すぐに治るよとウソをつく。

 残念ながら中国では、それが常識らしい。
 おばあちゃんに病気の告知をしないという通奏低音のうえに、世界から家族が集う映画『フェアウェル』(2019)はたいへん評価が高いようだが、私の価値観では断じて許されざる「悪弊」にみえた。

 ウソはウソ。
 だいぶ長く生きてきて「冗談」くらいは理解できるようになったが、いまでも「ウソ」はいけないと思っている。

 ウソがつけなくなった一流弁護士のコメディ『ライアーライアー』(1997)。
 正直者であることがコメディになるくらい、世はウソにまみれている。

 私のような人間が生きづらいのは、そのせいもあるかもしれない。
 そうして私は、ウソばかりの現実からフィクションという仮想現実へと逃げ込んだ。


 最後に、エメランスと同時期の尊厳死映画をもうひとつ。
 『母の身終い』(2012)──じつにすばらしかった。

 死から逃げてはならない。
 本気で死と向き合い、愛する強さをもった女性を、心から尊敬する。

 


 実話をベースにしている映画『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』を観た。
 脳筋の3バカトリオが、ひたすらアホな犯罪をしでかすブラックコメディだ。

 バカなマッチョが、金持ちを誘拐して金儲けをする。
 「筋肉バカ」を映画にするとこうなる、というお手本だった。

 じつにおもしろい映画なので、オススメしたい。
 ステロイド天国のアメリカで、ひたすら筋肉だけを肥大させていった、極端なバカの末路を知っておくのもわるくない。

「やつらの犯した、もっとも重い罪は問われなかった。〝バカだったこと〟だ」
 私立探偵が最後に発したセリフが心に残る。

 もちろん当人がいちばんバカだが、まわりもたいがいバカばかりだった。
 アメリカとは、ほんとうにおそろしい国だと思った。


 と、他国をバカにしてばかりもいられない。
 マッチョが入り浸るワークアウトのジムは、巨大な「ダイエット」という業界の一角にすぎない、とも考えられるからだ。

 日本でも話題になった、食べるだけで痩せる食品。
 強制的に食欲をなくす成分で、健康被害をもたらしている。

 薬事法でいう違法な成分を含んでおり、アメリカでは治療目的に処方されていたシブトラミンを含み、販売中止となった。
 それでも買おうとする者がいるから、売ろうとする者がいる。

 この件について私が思うのは、買う側のバカさかげんだ。
 売り手がわるいのはもちろんだが、買い手は輪をかけた「愚者」である。


 私は人間の肉体の状態について、5段階で評価をしている。
 少数意見だと思われるので、閲覧注意でお願いする。

 ダイエットが必要なデブの評価が低いのだろうな、と多くの方が予想されるだろうが、ハズレだ。
 デブであることを自覚し、納得して受け入れている人間、そのうえでやるべきことをやっている人間には、なんの文句もない。

 いわゆる「デブキャラ」など、才能を損なわない範囲で選択された個性は、むしろ評価すべきである。
 相撲界なり芸能界なり、必要とされているデブはたしかにいる。

 デブがいない社会、全員が中肉中背で同じ顔をしている国のほうが、むしろディストピアだ。
 一定割合の確信的「キャラ」は、社会から「必要とされて」いる。


 さて、まずもっとも評価すべき「5」は、すなわち「アスリート」だ。
 トップレベルになるほど、彼らは自分の目指す記録、勝利、結果に対して最善の肉体をつくりあげるべく、想像を絶する努力をしている。

 筋肉をつけることはもちろんだが、減量することも目標だ。
 もっとも極端な例を挙げれば、ボクサーやマラソン選手の類だろう。

 ここでは「軽さ」が、彼らにとって「武器」になる。
 私にとって印象深いのは、旧ソ連圏の女子マラソン選手だ。

 30kg台の体重で、すばらしいタイムでフルマンソンを走り切っていた。
 昭和のブラウン管でその姿を見たときは、すげえ、とすなおに感嘆したものだ。

 長距離を走るためには、重さは邪魔でしかない。
 贅肉をそぎ落とすことはもちろんだが、彼女らにとっては「筋肉さえ邪魔」だ。

 走るために必要な、長時間使える遅筋タイプの筋肉を、足回りのみに装備する。
 合目的に特化したこの究極の訓練によって、彼女らは記録をたたきだした。


 ダイエットの定義は、適切な体重管理である。
 けっして「痩せる」ことが目的ではなく、これらのアスリートは合目的に管理された体重によって、最適解に達した。

 私はここに「ボディビル」を入れるかどうか迷って、彼らについては「4」にすることにした。
 ストイックに磨かれた筋肉は「美しい」かもしれないが、そもそもそれを「評価する」という時点で微妙だ。

 より速く走る、高く跳ぶ、遠くに投げるなどは、絶対的で時代や国籍に左右されない。
 しかし筋肉美や曲線美というものは、結局のところ主観にすぎない。

 わけのわからない「審査員」とやらが出てきて論評するようなジャンルの「スポーツ」については、私は一段階下にみている。
 「強い」とか「速い」というシンプルな評価基準は永久に変わらないが、「美しい」は時代や価値観の問題にすぎない。

 「見せる」ってなんだよ、なんの役に立つの?
 こっちのほうが美しいとか、あんたの気分、好みの問題じゃないの?

 じっさいリングに上がって強いならともかく、同じ体重のボクサーにも負ける程度なら、あまり意味は感じない。
 もちろん無意味とまでは言わないし、「3」の私にとっては見上げるレベルの「4」ではあるのだが、「5」には及ばない人々、それが「凡百のアスリート」だ。


 太りすぎも痩せすぎもしない、中間の体重「3」がモアベターである、という点に議論の余地はない。
 人間それぞれに最適体重というものがあって、その範囲であることがいわゆる「健康」なのだ。

 よって「2」は、無理な肉体改造で健康を損なっている人々になる。
 痩せることでなんらかの記録や成果に達するならともかく、ただ軽いだけに意味はない。

 ダイエットとは本来、その健康な体重を目指すもの。
 健康でさえあれば、私のような凡才でも脳のポテンシャルを最高に引き出せるし、それによってある種の「結果」を出せることも、もしかしたらあるかもしれない。

 筋肉をつけすぎても、体重を落としすぎても、それは愚行だ。
 平均体重で自己ベストの能力を発揮している平均的な人々のほうが、どう考えてもマシに決まっている。


 私は基本的にバランスのとれた「ニュートラル」が正しいと考える。
 ただし異常で極端な状態にも相応の価値はあり、場合によっては鑽仰すべきものであることも認めている。

 オオタニサンのメロン肩も、カンチェーラのハムストリングスも、あきらかに不自然な筋肉だ。
 だがそれは、彼らが目指すべき目標に対し、その実現の最適解として、必要とされて育て上げられた。

 野球界やロードレースで、彼らがたたき出した偉大な記録が、すべてを物語っている。
 ボクサーの異様に肥大した広背筋や、ランウェイを闊歩する針金のようなスーパーモデルも同じ、彼らは「目的」と「必要」に応じて、その体型になろうと決めた。

 法律、倫理、スポーツマンシップ、ルールに則って、だ。
 結局のところ重要なのは、正々堂々、だれに恥じることもなく、胸を張っていられるかどうかに帰結する。


 ツール・ド・フランス7連覇のアームストロングが、すべての記録を抹消されたのはなぜか?
 ウクライナ戦争以前に、ロシアがオリンピックに出場できなくなったのは、なぜか?

 ドーピングでスポーツ界から追放された選手、国家は、枚挙にいとまがない。
 それは、そもそも高いポテンシャルをもっていた人物、チームの努力さえ、無価値にする行為だからだ。

 であれば、そもそもの価値があまり高くない人間が違法薬物に手を染めたら?
 その評価は、もう下がりようのないところまで下がるしかないではないか。


 たかが「見た目」ごときのために、しかも「ズルして」でっちあげたマッチョやガリガリ女に、なんの価値があるか?
 何度でも言おう、ない。

 この無価値な人々が、犯罪者たちを太らせている。
 飲むだけで痩せるとか、注射するだけでマッチョとか、そういう文句に踊らされている人間たち。

 これが私にとっての最低評価「1」の人々だ。
 そもそも体重や見た目にこだわる人々からして、とても無駄でこっけいにみえる。

 が、そんな考え方は、残念ながら少数意見だと思われる。
 世間は「見た目」が9割で、残り1割の私などが大事にしているものは、容易に犠牲にされてしかるべきものらしい。

 やるべきことさえできているなら、見た目は割とどうでもいい。
 そう考えるひとが、もうすこし増えてもらいたいものだ。

 


 最近あまりアメリカ映画を観ていない。
 避けているわけではないし、それなりの数を観てはいる。

 が、それよりなぜか、中国香港、ロシア、イギリス、タイ、ノルウェー、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、南アフリカといった世界線の映画を観ることが多くなった。
 きょうは、とくに印象的だった2作について語ろう。

 制作国はドイツとフランス。
 宿命のライバルだ。

 これらの作品を選んだ理由は、とくにない。
 ほんとうにたまたまで、なんの他意もないことを申し上げておく。

 以下、ネタバレを含む。
 きらいな方は、ご注意を願いたい。


 まずは『タイムトラベラーの系譜』。
 ドイツ映画の三部作で、人気小説が原作らしい。

 なんの予備知識もなく観ながら思ったのは、この子いつ化け物に変身するのかな、だ。
 主人公の名がグウェンドリンというのだが、それが「グレムリン」に聞こえてしまった。

 第一の蹉跌だ。
 こうなると、もうそうとしか聞こえない。

 もちろん彼女がグレムリンでないことにはすぐに気づいたが、グウェンドリンの名を呼ばれるたびに、いつ水を浴びて増殖するのかな、とワクワクしてしまった。
 映画鑑賞のなかで、もっともくだらない楽しみ方といっていいだろう。

 ちなみに、あまり評判の良くない『グレムリン2017 ~異種誕生~』は、もはやグレムリンではなかった。
 シリーズものあるあるで、グレムリンやエイリアンなどは「2作目が最高傑作」だと思う(2017は3作目)。


 閑話休題。
 くだんの作品は、系統としては『トワイライト・サーガ』に似ていると思う。

 要するに少女漫画だ。
 この時点で、私の評価はほぼ定まっている。

 ドイツの少女漫画も、まったく琴線には触れなかったが、世間的には人気がある理由についてはなんとなく察せられた。
 私がクソつまらないと思ったということは、日本の少女たちにとってはものすごくおもしろいのかもしれない。

 ただ、ひとつだけ言いたいのは、オチがひどい。
 3部作6時間の終盤で判明する事実が、あまりといえばあんまりだ。


 すごいアイテムがあってはじめて実行できるはずのタイムトラベルが、じつはこの主人公だけは、アイテムなしでできました!
 ……すさまじいチートだが、それだけではない。

 主人公は不死身です、殺しても死にません!
 ……ええええ!?

 命をかけた緊張感ある戦いをさんざんやったあとで、べつに不死身だし、死なないし、とかいう事実が判明するって、どんな茶番だよ!?
 で、最悪の結末になった直前にもどって歴史を書き換える、そして愛のために永遠の命を捨てる。

 ──バカなのかな、ちっとも共感できないんだけど、わるいのはこっちかな!
 こういうのが好きな層にとっては感動の大作なのかもしれないが、残念ながら、私にとっては永遠に水平線のかなただった。


 さて、一方、フランスからエントリーのCGアニメーション。
 『ジャック&クロックハート 鳩時計の心臓をもつ少年』。

 あらかじめ言っておくと、世間の評価はあまり高くない。
 個性的な絵柄のせいもあるだろう。

 日本のいわゆる「アニメ顔」に見慣れた目にとっては、キモい、とさえ感じられるかもしれない。
 が、シュヴァンクマイエルや、不気味系のストップモーションアニメを楽しめる感覚のひとなら、受け入れられると思う。

 ハッピーエンドとはいえないし、キャラクターにはある種の毒々しささえある。
 そして、それがいい。


 まず、主人公を助けるマドレーヌさん。
 すばらしい、こういう女のひと、ほんと好き。

 魔女として、世間からは憎まれ、おそれられているのだが、じつは心優しい。
 この設定だけでヤバい。

 上述のとおり、絵柄でも好き嫌いが分かれると思うが、私は大好きだった。
 アンダルシアへ向けて走る列車には、蛇腹の動きに思わず呼吸を合わせたほどだ。

 生きるのに向いていない主人公が、ぎりぎりの生存境界線で鳩時計の心臓を動かしながら、見知らぬ世界へのあこがれに身をゆだねる。
 彼にとっての恋は死と同義だが、淡々とその生をまっとうする決意には、同意はしないが理解はできる。

 最期は自分の命を保つためのカギを、みずから捨て、みずから責任を引き受けて、みずから選んで逝く。
 主人公のために牢獄で死んだマドレーヌさんの世界へ、ゆっくりと昇って行くラストには不覚にも感動した。

 いさぎよい。
 命の使い方で、これほど共感できる流れはない。


 つねに生きることが正解ではない。
 死ぬことにも美学があることを、日本人なら知っている。

 もちろんそれを過剰に喧伝した過去の戦争は完全に誤っていたが、美学そのものは純粋かつ崇高だ。
 結論として、昨今のフランスvsドイツは、個人的にフランスの圧勝だった。

 『ジャック&クロックハート』が好きなタイプのひととは、たぶん話が合う。
 まあまあ鬱な会話になるだろうことは請け合いだが。

 

 

 なつかしさを感じつつ、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(2020)を観た。

 ワイヤーアクションやカンフーを取り入れ、妖術対決てんこもりでCG化する、要するに昨今よくある中国製の一般的な作品に成り下がっていた。

 

 べつに中国製を否定するつもりはないのだが、一時期、アマゾンで激安中国製品チャレンジ3戦3敗という記憶がまだ鮮明なので、なんとなく目を細めてしまう。

 激安なので3個買ってもじゅうぶん安かったが、さすがに全敗だと損しかない。

 

 と、中国製をディスる回にするつもりはない。

 くだんの映画も、べつに最低だったわけでもない。

 

 今回は、この作品をきっかけに感じた「笑い」の効用だ。

 とくにアスペ傾向のある人物にとっては、けっこうな重要な問題だと思う。

 

 

 悪役らしきものが登場してくるとき、やたらに笑い声がする。

 これは中国製にかぎらず、ハリウッドの大作でもよくあるパターンだ。

 

 いわゆる「悪の笑い」。

 wikiには「フィクションに登場する悪役につきものの昂揚した笑い方」と定義されている。

 

 かなり歴史的な表現方法のようだが、しばしば理解が及ばない。

 彼(彼女あるいは化け物)は、なぜ笑っているのだろう……。

 

 

 ふつうに自己紹介や状況説明をしながら、ははははー、と笑われてもどう受け取っていいのかわからない。

 掘り下げて類推すれば理解できるのかもしれないが、そういう負担を観客に強いる悪役はいやだ。

 

 そもそも「笑い」というのは、一般的にはポジティブなイメージだ。

 冷笑とか北叟笑むとか、ネガティブなイメージももちろんあるが、ほとんどの場合は楽しい、心地よい、おもしろい、という気分を表現するのが笑いだ。

 

 笑い=悪、という図式が、すんなりとなじまない。

 にもかかわらず、とくに創作物で多用される悪役の笑い声。

 

 無感情ではつまらないが、状況から考えて怒りや悲しみを表現するのはおかしいので、笑いならいいんじゃないかな、という制作側の都合をまずは感じる。

 意味不明な笑いで、悪役という不気味な存在を表現したい、という意図もあろうか。

 

 なんとなく笑顔を示しておくことはベターな選択肢、というのは日常生活でもよくあることだ。

 言葉の理解できない外国でも、とりあえず微笑しておけば問題にはなりづらい、という処世術はじゅうぶんありうる。

 

 

 つまりこの悪役は、笑っておいたら間がもつ、と考えているのかな?

 制作側としては、そのキャラが愛想笑いを得意とする小人物であることを表現している、という意味かもしれないな。

 

 ──こっちへおいで、あはは、あはは。

 悪役には、笑顔のキャラがとても多いな、と思う。

 

 問題は、それをどう受け取るべきか、考え込んでしまう私自身のほうにある。

 たしかに、そうかもしれない。

 

 元来、「無意味に笑う」ことが、かなりの苦行だ。

 もちろん生きていくうえで「愛想」が必要なことは理解しているし、努力すればできないこともない。

 

 だから作中の悪役たちを眺めていて思う。

 彼らも苦しんでいるのではないかな、たいへんだな、と。

 

 

 小学校や中学の授業で、このテーマをとりあつかうのも、おもしろいのではないか。

 感情を理解しづらいタイプの子どもも、一定数いるだろう。

 

 特定の映画を選び、なぜこの悪役はここで笑っているのか、説明しなさい。

 という問題を出されたら、じっさい、かなりの難問になると思う。

 

 苦痛、怒り、悲哀の感情表現は、理解しやすい。

 とくに映画だと、画面を見ているだけで、そりゃあ悲しいでしょうね、という展開はとてもよくわかる。

 

 しかし私にとって、笑いだけが、かなりの謎をかもしだす。

 とくに悪役の笑いは、ほんとうに闇が深い。

 

 よく笑う悪役を眺めていて、そんなことを思った。

 スーパーヴィランも、じつは苦労しているのかもしれないな、と。


 『トップガン・マーヴェリック』を観ながら思い出した。
 トップガンは海軍です、という在日米軍のツイートを。

 空軍というイメージが強いためのツイートらしいが、作中でトムも言っている。
 「俺の仕事は船を操ることじゃない、船に降りることだ」と。

 年代物の旧型機が第5世代機とまともに戦えるのかはともかく、きっちりとエンディングで回収されていた。
 さすがハリウッドのブロックバスター、良い出来だったと思う。


 とはいえ、やはり戦闘機を主役にするのは、そろそろ限界にも思える。
 作中でも言及されているが、どう考えても無人機のほうが使い勝手がいいからだ。

 生命維持やGを気にする必要はないし、人的損耗や無駄に高額な製造費もかからない。
 人間の内臓がぐちゃぐちゃになるような加速や旋回も、ドローンならできる。

 それでも人間は、速く移動したい生き物らしい。
 作中の極超音速機ダークスターの目標速度はマッハ10。

 マッハの定義は1気圧15℃で秒速3400m/sなので、ダークスターとはやや条件が異なるが、おおむね「すごい速度」だ。
 なにしろ国際宇宙ステーション(7700m/s)の半分も出ている。

 そして人間は、再び宇宙を目指す。
 アルテミス計画、じつに楽しみだ。


 宇宙における速度の考え方は、地球上とはかなり異なる。
 地球の公転速度(3万m/s)、太陽系の公転速度(24万m/s)、銀河系の移動速度(63万km/s)など、宇宙はものすごい速度で動いている。

 宇宙について考えはじめるときりがないので、今回は根本的な話をしよう。
 ただの妄言と思って読んでいただきたい。

 宇宙のはじまりはどうなっていたのか、宇宙の外はどうなっているのか。
 どんな人間も、たまにはそんなことを考えることがあるはずだ……と思う。

 諸説あるなかで、私がひどく納得したのが、「無の世界」だ。
 この世は基本的に「無」で、あぶくのように「有」が生まれては消える。

 そんな水面のような世界が「基本形」なのではないかな、と考えるのが合理的のように思われる。
 その世界観について、以下、いくつかのアイデアを足して、わかりやすく均してみた。


 まず、はじまりは「無」だったという考え方は、決定的な問題点さえ取り除ければ、非常に説得力があると思う。
 その「前」はどうだったとか、「外」はどうなのとか、そういう疑問に容赦なく答えられる万能アイテムが、「無」だ。

 なんにもないんだから、説明する必要がない。
 宗教的な人々はここに「神」を置くが、全能の存在を仮定してしまうと、どうしてもそれ自体を説明しなければいけなくなる。

 「無」なら、無問題だ。
 なにしろ、説明する必要も「ない」と一刀両断できる。

 なんにもない状態を説明するのに、感情も知識も必要ない。
 問いかける対象そのものがない、それが「無」だ。


 さて、それでは早速、最大の問題点を掘り下げよう。
 なぜ「無」から「有」が生じるのか。

 ここでいう「無」は、いわゆる量子的「無」である。
 数学の記号でいえば「0」、プラスマイナス0が永久不変に平均値である状態を、無の世界と定義する。

 興味深いことに、この値、飛び飛びである。
 平均すれば0なのだが、0であると同時に1でもある。

 直感には反するが、「やさしい」量子論の本を読むと、だいたいこう書いてある。
 それは「そういうもの」で、現に「そうなる」ので、「受け入れるしかない」と。

 さて、そうなると、証明可能な世界としての類推が可能になってくる。
 0であると同時に1でもありうる、とすれば。

 けっして乗り越えられない「無」と「有」の壁を、唐突に抜けてくる可能性。
 いわゆる「トンネル効果」だ。

 この空間をジャンプする現象は、すでにさまざまな分野で利活用されているので、興味がある方は調べていただきたい。
 乗り越えられない壁を乗り越えることは、ごくまれに、あるのだ。


 ただし、それは一瞬である。
 そもそも「無」に時間はないので、一瞬という言葉にもあまり意味はないのだが、「有」にとっては別だ。

 このとき乗り越えられない壁を飛んだ値が、問題である。
 そこに、われわれにとって最高に都合のいい物理定数が書かれていた場合にのみ、われわれは存在しうる。

 そうして爆発的に誕生した「有」が、空間を広げると同時に時間なる概念も生み出した。
 この「時間」は、生まれると同時に「無」に吸い込まれて消えるのだが、その一瞬だけ、宇宙は光の速度で無に吸い込まれる「直前の世界」に存在する。

 相対論によれば、極限の速さは「光」だ。
 光の速度で移動する物体の時間は(相対的に)無限に引き延ばされる。

 光の速度で「無」に吸い込まれて消える宇宙の果てを、われわれは観測できない。
 「無」にとっては無に等しい一瞬でも、「有」にとっては永遠に感じられる存在の泡、それがこの宇宙なのではないか。

 その「永遠」にすこしでも接近する方法が、マッハ10であり、宇宙旅行なのではないか。
 だからわれわれは、より速く、遠くを目指すのかもしれない。

 そんなことを考えながら、有限の時間をすごしている。
 最近あまり飛行機に乗っていないが、そろそろどこかへ出かけたい気持ちになった。

 


 先月、ついに日銀が十年債の金利上限を引き上げた。
 0.25に張り付いていた長期金利が、0.5へと上昇、イールドカーブのゆがみがほんのすこし修正された。

 ついに過ちを認めたな日銀、とばかり調子に乗った海外勢。
 さらなる政策修正を煽るべく、またしても国債売りを仕掛けた。

 そこで日銀がくりだした新たな秘策が、「共通担保資金供給オペレーション(共担オペ)」である。
 あいかわらず、とくにヘッジファンドに対して、日銀は笑っちゃうくらいコワモテだ。

 大金をぶち込んでいたハゲタカどもはびっくり仰天、文字どおり驚嘆《きょうたん》して資金を引き揚げた。
 結果的にイールドカーブは、より正常に近づいてしまった。


 ……海外勢、もう日銀と戦うのやめたらいいのに。
 勝つまでやりたい気持ちはわかるが、相手がわるすぎる。

 共担オペは、日銀が民間に一定の適格担保で低利の資金を供給し、国債などの購入を促すことで、日銀の国債大量購入による流動性低下を防ぐ効果がある。
 要するに今回は日銀だけでなく、国内の金融機関を巻き込んで海外勢を追い払った、という構図だ。

 日銀だけでも手ごわいのに、民間の銀行まで引っ張り出されたら、それはもう鉄壁すぎる。
 大量の資金供給が約束されたようなもので、さすがのヘッジファンドも驚いてケツまくった。

 二十年以上もまえから、このパターンがくりかえされている。
 日銀砲に吹っ飛ばされた恨み骨髄の金融屋たちによる復讐は、まだしばらくは達成されそうにない。


 日本国債の売り越しそのものは、市場原理ではある。
 実態よりも高い、という判断はたしかに正当な売り材料だ。

 問題は、海外勢による空売りである。
 ハゲタカファンドの短期決戦という図式があまりにも明確なので、そのような「輩」には屈しない、という毅然とした態度は必要だ。

 昨年はロシアのデフォルトなども騒がれたが、通貨危機というものは定期的にくりかえされるものだ。
 ギリシャ以降、高すぎる南欧国債が標的になったとか、一昨年はオーストラリアの中銀に対しても「仕掛け」があった。

 国際金融資本による空売り。
 日本においても、彼らとの戦いの歴史は日常茶飯事ではあるが、いまのところ全勝というのがすごい。


 あきらかに借金が多すぎる=国債が高すぎる。
 どうみてもそう判断されるので、バブル以降、たびたび売り仕掛けはあった。

 そのたびに日銀やメガバンクが買い支えているので、国債暴落という憂き目には遭っていない。
 日本の借金はほとんどが国内向け、という話の真意はこのあたりにある。

 あるときは「日銀砲」という悪魔の兵器で吹っ飛ばされた、外国のヘッジファンド。
 2004年当時は円高対策であったが、これによって倒産した「ハゲタカファンド」は2000以上にのぼったといわれている。

 昨年も「原資は無限」という「怒りの為替介入」があった。
 最近あまり成績のよくないミセスワタナベも、このときばかりは神田さんに乗っかって儲けたひとが多かったらしい。

 量的緩和、指値オペ、ETF買取、口先介入など、日銀がくりだしてきた武器はあまたあるが、今回そこに共担オペという必殺技がくわわった。
 新たな総裁とともに、無敗の日銀伝説、これからも見守りたい。