ひさしぶりにウィキ先生から、寄付しやがれこんちくしょうメールが届いた。
謹んでご入金させていただいた。
「長年にわたり、私たちは決して妥協することなく、信条を貫いてきました。正直に申し上げます。もう、たくさんです」という、いつもの文面。
これには多くのユーザーも「もうたくさんです」と共感していることだろう。
もちろんウィキペディアは絶賛活用しているので、広告が表示されないためなら多少の寄付は惜しくない。
広告非表示のための課金制度という考え方もあるようだが、それだと中立性が脅かされるらしい。
中立性、バランスをとること。
これが、意外にむずかしい。
私は現在、歴史的、思想的な問題に踏み込んだ物語を書いている。
そこで、さきほど「階級闘争」という言葉について、ウィキ先生に教えを請うた。
すると以下のような記事が見つかった(23年5月時点)。
やや長いが、概要の全文を引用しておこう。
マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)においては「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定され、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられている。
ソ連や中華人民共和国、民主カンプチアは「階級闘争」の名目で貴族、資本家、クラーク、地主などを「階級の敵」として強制収容所に送ったり、強制労働に動員したほか、裁判なしで粛清するなどの迫害を加えた。ただし、共産主義国家以外の体制においても、市民が強制労働をさせられたり裁判なしで処刑されるなどの人権侵害が行われる事は往々にしてあった。
──「ただし」からあと、要らない気がしないだろうか。
すくなくとも辞書としてのバランスを毀損しているような気がする。
一見、この文章は「たしかに共産主義はひどいことをしたが、それ以外の体制でもやっていたんだよ」と、共産主義が特別ひどいわけではない、と言っているように読める。
だとしたら、こう問い返さざるをえない。
共産主義「以外」の体制が行なった人権侵害を記述するたびに、「ただし、共産主義のもたらした被害の規模に比べると軽微である点には、留意する必要がある」的な記述が、バランスをとるために必要では?
なぜそれがほとんど見つからないのか、なぜならそんな「擁護」や「忖度」は、事実のみを書くべきウィキペディアには必要ないからだ。
が、上記の記事の執筆者は、そういう判断をしなかった。
おそらく彼は、それ以外の体制は擁護されなくても、共産主義だけは擁護されるべき、という考え方なのだろう。
まあ現にこの体制下にある国はそれなりにあるので、そういう考え方を鼓吹する動機については推察しやすい。
いまだにマルクスを読んでいる人々は少なくないらしいので、需要はあるということなのだろう。
正直、私自身にも共産主義的な考え方はある。
四半世紀早く生まれ、その熱狂の時代に生きていたら、もしかしたら革命の思想にかぶれていたかもしれない。
しかし同時に「世捨て人」的な性格も持ち合わせている。
金銭にあまり執着しないのはそのせいだろうし、静かに生きられればそれでいいという志向が、年を経るほど強くなっている。
だから最近、ちょっと流行った中国人の「タンピン主義」の気持ちがよくわかる。
結婚しない、子どもも要らない、家や車も買わない、消費しない、最低限しか働かない、寝そべって過ごすという若者たちを指す流行語だ。
社会の現状に対し、彼らなりにバランスをとっている、という言い方もできる。
史上もっとも成功した社会主義国である日本人の目から見ても、最近の中国は共産主義らしくない。
なぜそうなるのかといえば、中国の共産主義は「思想」というより、単なる「権力闘争の道具」にすぎないからだ。
偏った状況で利益を得る権力機構にとって「バランスをとられる」ことは、けっして好ましいことではない。
だからタンピン主義は政府レベルで批判されているし、なんなら宗教的な迫害の憂き目に遭っている。
共産主義が宗教をアヘンとして迫害したのは、彼ら自身が新たな宗教にとって代わるためだった、という分析は的確だ。
イデオロギーにしろ宗教にしろ、彼らは「熱狂」してほしい。
逆にいえば、バランスをとってほしくない。
信者が読むのは自分たちの聖典だけなので、その文章だけ信じておけばよい。
それ以外のところで聖典が腐されていたら、とにかく擁護だけしておけばよい。
その場の印象が希釈されればよく、それ以外の記述とのバランスや整合性については、あまり考えない。
とにかく信じろ、話はそれからだ、という本質をウィキペディアからさえも滲み出させてしまう、階級闘争という項目それ自体。
宗教的熱狂の業の深さ、ということなのかもしれない。
近年、旧統一教会などがクローズアップされているが、けっして新興宗教だけの問題ではない。
あらゆる偏った状況というのは、そのピラミッド構造の上の人間にとっては、おしなべて都合がいい。
対して、私のようにできるだけバランスをとりたい人間にとっては、この部分だけがどうしても相いれない。
前述のとおり、心の底ではかなり社会主義寄りの思想をもっているだけに、昨今の「闘士」たちの現状には慨嘆を禁じ得ない。
通例、共産主義者のフリをした人間が、いちばん共産主義を破壊しているのだ。
ということは、中国共産党、もうすこしがんばってもいいかもしれない。
がんばればがんばるほど破綻が近づく体制とは、因果なものだ。
歴史的に共産主義者が自滅していくありさまには慣れている。
そうして中国が、もしかしたら私の理想とする、もっと自由でマイルドな社会主義へと変遷していく可能性を、すこし夢想した。
権力闘争が苛烈になりがちな国には、じつは可能性がある。
それについて語ると長くなるので、いずれどこかでまとめたい。