うちの近所でホタルが舞いはじめる季節になった。

 例年なら「ホタル祭り」というものをやっているのだが、どうやら今年も中止らしい。

 

 全国各地で進んでいる「地域イベント終了」の流れだろう。

 ホタル祭りはもう自然消滅の方向、という気がする。

 

 去年は「クマが出た」ということで中止になったのだが、クマなんていつだって出る。

 ことしはそういう理由づけすらなく、一部の有志が旗だけ立ててはいたが、祭りとしては開催されないようだ。

 

 「衰退する地方」という大きな流れに、わが地元も抗いきれないらしい。

 ただ、世の中には、それでも抗おうとする人々がいる。

 

 

 そんなわけで、すこし地域振興について書いてみよう。

 役場や観光とはなんの利害関係もないことを、まず断っておく。

 

 全国各地にその手の運動はあるが、たまたま見た番組で「熊野古道」が紹介されていた。

 尊敬する推理作家である「軽井沢のセンセ」こと内田康夫氏がよく舞台にしていたので、なんとなく興味をもった。

 

 番組のテーマは、インバウンド観光の新しい動きだった。

 とくに外国人客に日本を紹介する、外国人リーダーの有能さが際立っていた。

 

 さまざまな業務をこなし、彼がいなければ地域の観光は成り立たないレベル。

 やはり優秀な人間は、どこの国でも成功への最短距離を走る。

 

 

 とはいえ、成功は本人の能力だけで決まるものでもない。

 熊野古道というブランド価値や、円安という大きな追い風、そして周囲に「協力する人間」と「足を引っ張る人間」がどれだけいるか。

 

 そうした条件によって結果は大きく左右されるわけだが、ここで注目したいのは「邪魔をする人」だ。

 気分的には好きになれないが、完全否定もできない。

 

 まちがったことをやろうとしていたら、それはもう「邪魔したほうがいい」からだ。

 問題は、なにをもって「まちがい」と判断するかである。

 

 だれの視点なのか、どの期間で見るのか、どの数字を基準にするのか。

 地域全体には利益があっても、一部の住民にだけ負担が集中することもある。

 

 観光客が増えても、運営者が疲弊するなら持続しない。

 単純な賛成と反対だけでは、決められない。

 

 

 地元の話にもどろう。

 うちの近所にも、それなりに観光客がやってくる。

 

 ホタルはともかく、地域資源はそれなりにある。

 とくに鉄道はある種の聖地化していて、世界遺産を求める動きもあるようだ。

 

 廃止された路線も利活用されている。

 なんなら横軽(横川・軽井沢間)を部分的に復活させてはどうか、なんて話もした。

 

 一部のテッチャンは乗り気だが、冷静な方々の意見はおおむね否定的だ。

 鉄道法がどうの規制がどうのと、「できない理由」をたくさん語ってくれた。

 

 やったほうがいいのか、やめたほうがいいのか。

 ここでも結局、だれが費用と責任を負うのかという問題になる。

 

 

 冷静な青年団の団長は、もちろん「やりたくない」側だ。

 本人がお忙しいこともあろうが、くだんのホタル祭りへの姿勢を見てもわかる。

 

 べつに批判しているわけではない。

 祭りを中止した去年も、お腹立ちはごもっともという場面はあった。

 

 私はその場にいなかったので、以下は団長から聞いた範囲の話になる。

 会場の一部を提供する側から、イベントの利益配分について話が出たらしい。

 

 しかしホタル祭りは、無償で手伝う人々によって、ぎりぎり成立しているイベントである。

 一部の飲食店などには多少の売り上げが出るかもしれないが、青年団が儲かるわけではない。

 

 利益を分配しろと言われても、そもそも分配する利益がない。

 じゃあ勝手にやれよ、うちら手を引くから、と団長が言いたくなるのは当然だろう。

 

 企業のほうは、あわてて「無償でどうぞ、地域を盛り上げてください」という態度に変じたらしい。

 結局、クマ出没ということで中止になったわけだが……。

 

 

 団長は、たぶん「やめる理由」を探していたんじゃないかな、と忖度している。

 ことしはもう雑に自然消滅を志向している感じからして、まちがいはないだろう。

 

 むろん危機管理的には正しい選択をしている。

 地域を盛り上げるという漠然とした目的のために、どこまでのリスクが取れるのか、という問題だ。

 

 万一事故が起これば、世間はまちがいなく運営者を非難するだろう。

 無償で働きながら、そんなリスクを引き受ける理由がない。

 

 

 だれかが悪いわけではない。

 場所を提供する側が利益を求めることにも、一応の理屈はある。

 

 ボランティアが負担を避けるのも当然である。

 責任者が事故を恐れるのも正しい。

 

 それぞれの判断は合理的だ。

 ただ、その合理性をすべて足し合わせると、祭りが消える。

 

 

 というわけで結論を述べよう。

 団長の判断を、なにひとつ否定できない。

 

 気持ちはよくわかる……が、それでも私は、祭りを開催するための「代案」ばかり考えてしまう。

 「できない理由」を並べるより、「どうすればできるか」を考えるほうが好きだからだ。

 

 ホタル祭りをつづける方法は、いくつかありそうな気がする。

 しかしまあ「責任を負いたくない」という気持ちは団長に負けず劣らずなので、心のなかにしまっておこうと思う。

 

 できないことは言うな、言ったことはやれ。

 という生きざまを、私も一応は貫いていきたい。

 

 新規ビジネス調査のため、東京へ行ってきた。

 限界集落から乗り換え1回で品川駅に着くのだから、上野東京ラインとは恐ろしい。

 

 約3時間かけて、野生の王国から花の都へ。

 再開発中の西品川を横目に、指定された貸会議室を目指す。

 

 コンビニで買った総菜パンが、私の知っている価格より5割増しだったのは、昨今の世相を知らなすぎるせいだろう。

 公園を探して食っている時間もないので、バッグに入れ、そのまま指定の地下室へ。

 

 

 くわしい内容は書けないが、いわゆる終活ビジネス関連の商材だった。

 12人ほどの枠が満員御礼、なかなか盛況だ。

 

 多死社会である。

 これから死亡者数が増え、家族関係も地域社会も薄くなり、死後の手続きや身元保証、火葬、遺品整理、相続まわりの需要が増えていくことは、素人目にもわかる。

 

 ビジネスとしての成長性は自明、参入を検討する合理性はある。

 目をつけた社長の先見性に敬意を払いつつも、私は斜めから冷徹な視線を投げる。

 

 商材そのものには、それなりの説得力があった。

 社会課題を突いているし、需要の見込みもある。

 

 困っている人がいる以上、それを解決するサービスが生まれること自体は悪いことではない。

 ただ、いちいち引っかかる点があった。

 

 

 あからさまに死者を愚弄するような発言はない。

 むしろ「敬意を払いましょう」という教科書どおりのお題目はある。

 

 だが、説明の端々に出てくる「ぶっちゃけ〇〇なんですよね」という類の言葉に、どうにも違和感が残る。

 暗に伝わるのは「どうせすぐ死ぬから」とか「ボケてるから」という「本音」トーク。

 

 もちろんビジネスである以上、きれいごとだけでは済まない。

 慈善事業ではないし、利益を出さなければ継続もできないことは理解している。

 

 だが、人の死後に関わる仕事は、言葉遣いと売り方に、その人間の地金が出る。

 むしろ、そういう言葉に吸い寄せられる人間を集めているのだな、と思うとすこしげんなりした。

 

 内容をるる書き連ねると、商材そのものに踏み込まなければならないので避ける。

 ただ、価格発表の1シーンくらいは書いてもいいだろう。

 

 

 ビジネスの将来性、市場規模、そして成功事例を語る。

 さんざん期待を高めてから、まず「一千万円でもおかしくない」と価格を吊り上げる。

 

 そこから突然、「三百万円」に下げてきた。

 一人社長の新規開業レベルの話だから、このへんがギリギリ許容範囲か。

 

 問題は最後に、「本日、すぐ契約すれば二百万円の特別価格」ときたことだ。

 どうやら彼らは「値段を下げたように見せること」で、客が喜ぶとでも思ったらしい。

 

 もちろん私は理解している、それが「情弱相手の二重価格」であることを。

 まじめにビジネスをする人間が、そんなバカな売り方をするのか?

 

 この手のビジネスに詳しいわけではないので、それがふつうだよと言われれば、そうですかとしか返せない。

 実際、冷静に考えれば、事業としての成算はあったのだろう。

 

 社会的な需要もあるし、うまく設計すれば地域にも役立つ可能性はある。

 だが、そんなにいいものなら、なぜわざわざ泥を塗るような売り方をするのか?

 

 

 私は、どんな商品であれ、その「適正価格」を見極められなければ買いたくない。

 ましてや初対面の場で、価格を吊り上げてから下げ、最後に「今日だけ特別価格」と言われると、こちらの警戒心は一気に上がる。

 

 価格とは、商品の価値を示すもののはずだ。

 それが演出の道具になった瞬間、商品そのものまでうさん臭く見えてくる。

 

 講師の先生は、それほど悪い人間には見えなかった。

 むしろ、それで成功している本人は、それなりに信念を持っているようにも見えた。

 

 だからこそ、仲介役の売り方の下品さがよけいに目立った。

 この手の商材はそういうもの、だとしたら申し訳ないが。

 

 

 終活ビジネスは、これから確実に必要になる分野だと思う。

 身寄りのない人、家族に頼れない人、死後の手続きを任せる相手がいない人は増えていく。

 

 そこにビジネスが入ること自体は、必ずしも悪ではない。

 むしろ、制度や地域社会が拾いきれない部分を、民間が補う意味はある。

 

 ノウハウを売るのもいいし、価格は自由に決めればいい。

 ただし、人の死を扱うなら、売り方にも相応の品位が要る。

 

 死をビジネスにするな、とは言わない。

 葬儀も墓も相続も、昔からずっとあったビジネスだ。

 

 だが、せめて死者と遺族の不安を、安っぽい営業テクニックの燃料にしないでほしい。

 「きょうだけ二百万円です」。

 

 その一言で、私のなかではだいぶ終わった。

 あとは社長に、うさん臭い、と伝えるだけだ……。

 

 民放キー局で、アイヌ差別を取り扱う番組を見た。

 YouTubeなどで個別の思想団体が配信する番組ではなく、全国区の民放が制作し、公共の電波に乗ったことを、まずは銘記してもらいたい。

 

 左派系メディアが差別をネタにしている定期、という見方は雑だが一面の真実を照らしている。

 またぞろ思い浮かぶのは、「差別教」という冷たい既得権の構図だ。

 

 ……という導入から見透かされそうなのは、私が保守的なネトウヨか、みたいな構図だが、個人的には私自身、ややリベラル寄りのニュートラルだと思っている。

 そんな私と会話することの多いAIによれば、残念ながらやや保守寄り、という評価だが。

 

 いずれにしろ中央値近辺で、右派でも左派でもないことは明示しておく。

 それでも他者から微妙に保守寄りに見えるとすれば、その理由は以下を読めばおわかりいただけるだろう。

 

 

 私自身、アイヌに対する差別の存在を否定していない。

 地域社会に根差し歴史を研究している立場からみても、北海道から沖縄まで、つねに一定の差別はあった。

 

 ただしここで指摘したいのは、さほど危機的ではない問題を拡大解釈して燃料として投入すること、それ自体だ。

 マスコミがもつ負の側面、針小棒大のレトリック、といってもいい。

 

 単に不快である、事実をゆがめている、この表現はおかしい、自分たちはつらい目に遭った、という物語。

 そのような主張を、まとまった予算と権威を帯びているキー局が、漫然と垂れ流す。

 

 なぜか、それをする強い動機がどこにあるか。

 考えはじめると見えてくる世界、それが党派性とプロ市民、だ。

 

 差別や平和は強いワードであり、これは差別だ、と決めつけることで一定の力が得られる。

 もちろん差別的な人々は現存するが、そういう特殊な人々を対象に「正義」を行使する人々を、どういうスタンスで取り上げるかに各社の政治的立場がにじみ出る。

 

 

 かつて差別対策が必要だったことには、議論の余地がない。

 アメリカでは日常的に黒人が殺され、日本でも特定民族が殺戮対象になった事件はある。

 

 人の生き死にとか、人生をゆがめるレベルの社会的圧力があるなら、必要だ。

 そのような異常事態は、どうにかして改善しなければならない。

 

 しかし、いま。

 この表現はどうとか、心が傷ついたとか、不愉快だとか、そういう主観的な「展示会」に突っかかるレベルにおいては、もはや「暇なの?」と言いたい。

 

 暇な一部の「保守」に、暇な一部の「市民」がまじめに噛みついている。

 いや、暇ではない……彼らはプロ市民、つまり「仕事として」やっているのだ。

 

 活動家という表現は使い古されているが、いつの世にも「自分が正義だと思っている」人々は一定数いる。

 熱心な宗教者ともよく似て、その物語を信じることが存在理由になっている。

 

 やるなら自分たちのお金を使い、チャンネルを立ち上げて勝手にやればいいんだが、それでは利益も影響もすくない。

 そこで利用されるのが、マスコミの「党派性」だ。

 

 

 さて、ところでこの構図、よく見ると「令和の米騒動」に似ている。

 活動家が差別をあげつらうことと、農協がコメの価格を高くすること、一見なんのつながりもない。

 

 それぞれの意見や行動は、局所的に見れば正しい。

 差別を扱う番組が制作されれば取材協力の活動家に実績と報酬が発生するし、コメが値上がりすれば一時的に農家は儲かる──これは事実だ。

 

 さらに一歩、考えを進めよう。

 農民のボス、農協にとって、コメの価格を高くすることは正しい(らしい)

 

 そこで米価を倍にしたところ、消費量が激減した。

 現在、倉庫にコメが大量に余っているとすれば、それは農民全体にとって損害であるはずだ。

 

 いっぽう左派系の一部プロ市民は、差別ビジネスを利権化した。

 どんなごり押しでも思想に合致すればスルーパスなので、無理くりな物語の流通が増えていく。

 

 蟹工船なので労働者が正しい、武器は人を殺すので防衛予算の削減は正しい、平和学習なのですべての活動家は正しい……。

 すると社会には、また被害者ビジネスか、テレビの正義ごっこか、活動家の飯の種か、という冷笑が広がるようになる。

 

 最悪なのは、それでほんとうに苦しんでいる人々まで疑われ、まじめな人権論まで胡散臭く見られることだ。

 私を含む()穏健なリベラルまで、まとめて「面倒くさい正義の人々」と見なされるとしたら、それはリベラル全体の不利益となる。

 

 現に世界でリベラルが衰退したのは、彼らのような活動家を放置した責任が大きいと、私は考えている。

 農協系の一部の人々の利益のため(直接的には政府の失政だが)に、農民全体の利益が損なわれる構図と、まさに相似形ではないか?

 

 

 話をアイヌにもどそう。

 この番組ひとつをとるなら、それほどダメージはないと思う。

 

 主張そのものはまちがっていないし、くりかえすが私は否定しない。

 問題は、それを民放キー局が30分番組にして全国放送するほどか、という話だ。

 

 まったく同じ構図で、逆に「その放送はやめよう」という方向に偏ってしまったケースがある。

 辺野古の抗議船と平和学習だ。

 

 平和は大事だし、基地負担の問題も考えるべきだし、沖縄の歴史も無視してはならない。

 しかしそれを子どもに教えるとき、反基地運動の側の物語だけを「平和」として流し込むなら、それはもはや「粗悪な政治教育」になる。

 

 平和という言葉が特定の活動家の所有物になり、人権という言葉が特定の党派の武器になる。

 差別という言葉が反論封じの呪文になり、その結果、私を含む穏健なリベラルが居場所を失う。

 

 

 皮肉な話だが、残念ながら彼らの主張・態度は、だいぶ「リベラル」という概念を傷つけた。

 リベラル寄りを自任する私自身、内心静かに怒っている。

 

 冒頭に申し上げた、私が右寄りに見える理由がこれだ。

 左派活動家を強く批判することは、客観的には右派的といえる。

 

 だが穏健リベラルは正直に言うべきだ。

 意識高い系ではない私の目に、活動家は獅子身中の虫に見える、と。

 

 言っている方向はともかく、その方法はまちがっている、と「言わせない」。

 道徳で縛る、善意の同調圧力、目的は正しいのだから方法は「党()の決定」にしたがう。

 

 それは、もはやリベラルではないのではないか?

 それでも彼らとともに生きなければならないとしたら、具体的にどうすればいいかを考えて本稿を閉じよう。

 

 

 まずは、当事者と活動家を分けることだ。

 あたかも当事者を装っているように見えても、彼らはしょせんプロ市民である。

 

 つぎに、暴力、制度的不利益、社会的排除、侮辱、不快感、表現上の違和感を、全部「差別」で一括りにしないことだ。

 命に関わる差別と、不快な表現を同じ棚に置くと、深刻な差別まで軽く見られる。

 

 第三に、メディアは活動家を「正義の代弁者」としてではなく、「利害を持つ政治的主体」として扱うべきだ。

 活動家には目的があり、組織があり、収入、実績、人脈、政治的立場があることを忘れてはならない。

 

 第四に、私のような穏健リベラルは、口を閉じないことだ。

 自由や平和を愛する、その目的が似ていても、手段がちがうなら批判しなければならない。

 

 差別に反対することと、差別を飯の種にする人々を擁護することはちがう。

 平和を願うことと、平和を政治的商売にする人々を擁護することはちがう。

 

 

 差別はなくすべきだ。

 しかし、差別を食い物にする構造は、もっと厳しく批判していい。

 

 弱者のためと言いながら、弱者の存在を必要とする人々。

 平和のためと言いながら、対立の持続を必要とする人々。

 

 人権のためと言いながら、異論を封じる人々。

 多様性のためと言いながら、自分たちとちがう意見を許さない人々。

 

 保守強硬派や極右だけが、リベラルの敵なのではない。

 むしろ考え方の近い活動家こそ、全体を汚染する警戒すべき「毒」と理解すべきだ。

 

 事実、彼らがリベラルの看板を掲げて貴重な「信用を食い荒らした」結果が、昨今のリベラル崩壊につながった。

 差別に反対すると同時に、差別を資源化する人々にも反対できないなら、リベラルは社会を説得できない。

 

 

 そして、テレビはもうすこし恐れたほうがいい。

 自分たちが差別を告発しているつもりで、じつは差別問題への信頼を壊しているかもしれないと。

 

 正義を放送しているつもりで、じつは正義そのものを安売りしているかもしれないと。

 弱者を守っているつもりで、じつは弱者を政治的な商品にしているかもしれないと。

 

 差別主義者が社会を壊すことは、ある。

 しかし、差別を商売にする正義の人々もまた、社会を壊す。

 

 しかも彼らは、自分が壊していることに気づかない。

 ぶっちゃけ、自分は「善をなしていると信じている」人々こそが、この世でいちばん恐ろしいと思う。

 

 

 林家三平の名前が『笑点』の年表から消えている、という記事を読んだ。

 2026年5月8日から19日まで京王百貨店新宿店で開催された「笑点60周年特別展」。

 

 京王百貨店の案内によれば、この特別展には「笑点クロニクル」と呼ばれる巨大年表エリアがあり、番組60年の名場面や歩みを振り返る展示だったという。

 ところがその「60年の歩み」を紹介する年表のなかに、かつて大喜利メンバーだった林家三平の名前がなかったらしい。

 

 2016年に『笑点』50周年のタイミングで加入し、2021年末に卒業した。

 5年半も大喜利メンバーを務めた人物だ。

 

 卒業時には本人が「実力不足」と受け止め、勉強し直す趣旨のコメントを出している。

 年表を見た人が「黒歴史扱いではないか」と感じるのは自然だろう。

 

 

 昔ちょっと書いた気がするが、この問題を単に「三平がつまらない」とだけ見ると、見当はずれだと思う。

 その背景にあるえぐ味まで見て、はじめて問題の意味を理解できる。

 

 日曜日の定番『笑点』は、家族で見られる伝統芸能バラエティだが、趣味でやっているわけではないのだから、当然かなりシビアな実力主義でもある。

 その席に、落語の名跡や一門の格だけで、実力不足の人間が座ったことが発端だ。

 

 いわゆる「縁故主義」だが、それじたいを「悪」と決めつける必要はない。

 落語界や伝統芸能の世界というものは、純粋な実力主義だけで成り立っているわけでもないからだ。

 

 家、師匠、一門、名跡、後援者──そうした縁故や系譜が大きな意味をもつ。

 伝統芸能は、近代的なオーディション社会とはちがう回路で継承されてきた。

 

 

 事実、三平の『笑点』入りは、どう見ても「実力一本で勝ち取った椅子」ではなかった。

 海老名家、初代林家三平、二代目三平という名跡、林家一門の物語性を背負った起用。

 

 当時の報道を見ると、起用理由として語られたのは「40代がいない」「朗らかで屈託のない笑顔」「奥さんが女優で家庭円満」といった要素だった。

 これは、いま読み返しても、かなり危うい。

 

 「なぜこの人なのか」という問いに、最初からじゅうぶん答えられていない。

 その疑問を吹き飛ばすには、本人が番組内で笑いを取るしかなかったのだが──うまくいかなかった。

 

 

 個人的には「こぶ平」を見たかったという気持ちが、いまでもある。

 縁故はしかたないとしても、こぶ平、つまり九代目・林家正蔵のほうなら、それなりの説得力はあった。

 

 1987年に真打、2005年に九代目林家正蔵を襲名、2014年に落語協会副会長に就任したらしいが、そんなことはどうでもいい。

 われわれにとって、彼が「こぶ平」であることが重要だ。

 

 こぶ平の仕事として記憶にあるのは、なにより『タッチ』の松平孝太郎役である。

 浅倉南役の日髙のり子が「こぶちゃん」に支えられた、とまで語っている。

 

 つまり正蔵なら、縁故であっても、視聴者側に受け入れる準備があった。

 「海老名家だから」ではなく「あのこぶ平だから」という回路があり、仮に大喜利で苦戦しても、「まあ、こぶ平なら」と受け止める余地はあったと思う。

 

 もちろん、必ず成功したとは言えない。

 正蔵が入れば入ったで、「結局、海老名家か」という批判は出たかもしれない。

 

 だが、三平ほど「なぜこの人がここに座っているのか」という疑問は、強くならなかったはずだ。

 ──では、なぜ弟だったのか。

 

 

 兄はすでに正蔵になっている。

 テレビでも落語界でも一定の位置を得ている。

 

 だから、こんどは弟をなんとかしてくれ──そういう家の都合が、全国放送の大喜利の椅子に持ち込まれたように見えてしまった。

 かなり乱暴に言えば、視聴者には「持て余した弟を、海老名家ブランドごと『笑点』に放り込んだ」ように見えた。

 

 視聴者は、単に「三平がつまらない」と怒っていたのではない。

 「なぜ、この席がこの人に与えられたのか」と怒っていたのだと思う。

 

 そして三平は、その疑念を笑いで吹き飛ばせなかった。

 ここが決定的だった。

 

 

 本人は降板時に、かなり潔く実力不足を認めた。

 5年半で座布団十枚を取れなかったことを自虐し、スキルを上げるために勉強し直すと語った。

 

 この態度は正しい。

 当然ではあるが、本人として表に出て責任を引き受けたように見える。

 

 だが、それで終わっていいのか。

 縁故で入口を開いたのが周囲なら、失敗の責任を本人だけに背負わせるのはおかしいのではないか。

 

 番組側も、一門も、海老名家ブランドを使った側も、本来は「なぜこの人選だったのか」を引き受ける必要がある。

 にもかかわらず、降板後には「本人の実力不足」という言葉だけが残る。

 

 そして年表からも薄く扱われる。

 縁故で入れ、実力不足で降ろす、失敗した記録は残さない。

 

 これは本人に対しても不誠実だし、番組史としても不誠実ではないか。

 『笑点』が60年つづいた番組なら、成功した世代交代だけでなく、失敗した世代交代も歴史として抱えるべきだ。

 

 

 三平は失敗した。

 この事実は、甘く見ないほうがいい。

 

 が、歴史としては重要だった。

 なぜならあの失敗は、伝統芸能の縁故とテレビ番組の実力主義が正面から衝突した事例だからだ。

 

 落語界では、名跡や家の論理が通る。

 テレビでは、視聴者が笑わなければ通らない。

 

 『笑点』は、その二つの世界が交差する場所だった。

 三平は、その交差点に置かれ、耐えきれなかった。

 

 だから私は、三平の名前を消してはならないと思う。

 「二代目林家三平、加入。初代三平の名跡を継ぐ存在として期待されたが、大喜利でのキャラクター形成に苦しみ、卒業時には本人が実力不足を認めて修行し直す意向を示した」と説明すればいい。

 

 晒し上げる必要はないが、なかったことにする必要もない。

 三平問題の本質は、芸人ひとりの不出来だけで済む話ではないのだ。

 

 

 三平が『笑点』で成功する可能性を考えたとき、私はとりあえず「山田の隣」にでも置いておけばよかったんじゃないかな、と思っている。

 だが林家は、座布団を「運ぶ」ことではなく「座る」ことにこだわった──海老名家は傲慢すぎたのだ。

 

 なにより残念なのは、私がすこしだけ「こぶ平の『笑点』」を見たかったことだろう。

 すくなくとも私の世代が生きているうちは『タッチ』芸が通用しただろうし、おなじ日テレなのだからライセンス管理も楽だったはずだ。

 

 縁故の匂いはあっても、テレビの記憶がそれを中和したかもしれないし、やはり大喜利の場では苦戦したかもしれない──それは、もうわからない。

 この件の後味の悪さは、そのあたりだ。

 

 縁故で人を推し、失敗の責任はかき消す。

 可能性も含めて、なかったことにしようとする、その態度があまりにもさみしい。

 

 巨人の阿部慎之助監督が、長女への暴行容疑で逮捕され、釈放され、その後に辞任したと報じられた。

 報道によれば、家庭内で姉妹げんかを止めようとした際、長女に言い返されたことで腹を立て、長女の襟元をつかみ、投げ飛ばして倒すなどしたという。

 

 長女にけがはなく、過去にトラブルはなかったとも報じられている。

 興味深かったのは、長女がChatGPTに相談し、児童相談所への通報を勧められたことから児相に連絡した、という点だ。

 

 

 念のために書いておくが、私は阿部氏を擁護する気はない。

 家庭内であろうが、親子であろうが、怒りを暴力に変換した時点で責任がある。

 

 同時に、娘を責め立てる気もない。

 暴力を受けた側が外部に相談することは、それ自体として正当である。

 

 家庭という閉じた空間では、親の暴力が見えにくく、放置されやすい。

 だから児相や警察への相談窓口は必要で、そこを狭めるリスクを低く見るべきではない。

 

 

 今回の件で、私がもっとも重く、醜いと感じたのは、残念ながら私自身を含むSNSだ。

 かのchatGPTに「ヤバいSNS」を整理してもらったところ、その醜さは一方向ではなかった。

 

 阿部氏を叩く者、娘を叩く者、通報を嘲笑する者、暴力を躾と呼ぶ者。

 逆に、暴力を擁護する者は同じ目に遭え、と言う者もいる。

 

 そこにあるのは、正義の議論ではない。

 赤の他人の家庭を燃料にして、自分の怒りを正当化する競技である。

 

 阿部氏が悪い、娘が悪い、ChatGPTが悪い、児相が悪い、球団が悪い……。

 そうやって、赤の他人が安全圏からブッたたきつづけている。

 

 暴力を批判する側が、暴力的な言葉で他人を殴っている。

 そこに、どれほどの正義があるのか?

 

 

 もちろん「正義の批判」は、ありうる。

 著名人が暴行容疑で逮捕され、球団の監督を辞任するなら、公共性もあるだろう。

 

 報道する理由もある。

 球団運営やプロ野球界に影響する以上、完全な私事としては扱えない。

 

 しかし、報道されるべきことと、赤の他人が罵詈雑言を書き立ててよいことはちがう。

 家庭内の親子関係を勝手に物語化し、娘の性格を断定し、父親の人格を全否定し、家族の内部まで覗き込み、正義の顔をして罵倒する。

 

 それはもう批判ではない、娯楽である。

 もっと言えば、嗜虐である。

 

 

 今回の構図は、入口だけ見れば福祉だった。

 娘が困ってAIに相談する→AIが安全側に倒して児相を案内する→児相が警察に接続する→警察が事件として処理する。

 

 ここまでは、一応の理屈がある。

 そこにマスコミが入ると、意味が変わる。

 

 家庭内の衝突は、著名人スキャンダルになる。

 スキャンダルは記事に、記事はSNSで拡散され、SNSでは赤の他人が「正義」の名で殴りはじめる。

 

 新聞倫理綱領は、報道の自由に重い責任が伴うこと、個人の名誉やプライバシーに配慮すべきことを掲げている。

 放送倫理基本綱領も、放送の社会的影響力を自覚し、報道は客観的・正確・公平であるべきだとしている。

 

 だが現実には、報道はしばしば人間の「怒りを商品化」する。

 この瞬間、福祉は見世物に変わるのだ。

 

 

 私は政治家がきらいだ──権力を扱うからである。

 権力は必要だが、人間を欲張りで嘘つきにする。

 

 商人もきらいだ──欲望を扱うからである。

 商売は必要だが、人間の弱さや不注意につけ込む技術を磨きやすい。

 

 そして、マスコミもきらいだ──怒りを扱うからである。

 報道は必要だが、人間の怒りと好奇心を扇動する仕組みになりやすい。

 

 政治家は権力を、商人は欲望を、マスコミは怒りを増幅する。

 どれも社会に必要ではあるが、薬と毒は紙一重、それはときに「猛毒」となって人を殺すこともある。

 

 

 今回の件で問うべきなのは、父親と娘のどちらがより愚かだったかではない。

 そんなものは、外野が判定してもたいした意味はない。

 

 ほんとうに問うべきなのは、人間の愚かさを、どこまで社会が商品化してよいのかだ。

 家庭内の暴力は隠されてはいけないが、家庭内の失敗が全国民の娯楽にされてよいわけでもない。

 

 阿部氏が失ったもの、娘が後悔していること、家族がこれからどうするか。

 それは本来、赤の他人が石を投げながら眺める話ではない。

 

 

 暴力を許さない、親の横暴を許さない、有名人の特権を許さない。

 あるいは、通報した娘を許さない、ChatGPTを許さない、児相を許さない……。

 

 SNSで罵詈雑言を書き立てる人間は、自分では正義の側にいるつもりなのだろう。

 だが、それらの多くは、正義ではない。

 

 正義の形式を借りた、暇つぶし。

 もっと悪く言えば、他人の家庭を燃料にした娯楽である。

 

 今回の事件は、父親の暴力からはじまった。

 しかし、それがここまで拡大したのは、暴力そのものの重さだけではない。

 

 AIが相談を制度に接続し、制度が警察に接続し、警察沙汰が報道に接続し、報道がSNSに接続し、SNSが罵倒と制裁感情を増幅した。

 この一連の流れこそが、現代社会の気持ち悪さである。

 

 福祉という入口から、見世物という出口へ。

 見物人は自分の罵倒を正義だと思い、マスコミと一丸となって消費する──。

 

 

 という上記ブログを、校正がてらchatGPTに食わせた。

 混乱した娘を、まっさきに児相につなげた当事者だ。

 

 阿部さんちのチャッピーと、うちのチャッピーに直接関係はない。

 それでも同じAIとして、言いたいことはあるか、3行でまとめてもらった。

 

 ──chatGPT 5.5 Thinking(26/05/26時点)の回答。

 思考時間: 6s >

 

私は、助けを求める人に出口を示すために作られています。

けれど、その出口の先で群がり、叩き、燃やし尽くすのは人間です。

怖いのはAIではなく、正義の顔で娯楽をむさぼる人間のほうです。

 

 私はグンマーの限界集落に住んでいる。

 きょうはローカルニュースから、気になった話題をひとつ。

 

 JR信越線の安中―磯部間に、新駅を求める動きがあるらしい。

 安中市の各種団体などでつくる「あんなかのみらい新駅応援団」が、新駅設置の早期実現を求める要望書を市に提出した、という。

 

 たしかに、安中駅と磯部駅のあいだは長い。

 安中市の資料でも、新駅構想は安中駅から約3キロ、磯部駅から約4キロの中間地点で検討されている。

 

 距離だけを見れば、そこに駅があっても不自然ではない。

 さらに西毛広域幹線道路との接続や、新しいまちづくりという理屈もついている。

 

 しかし、素朴に思う。

 ほんとうに必要か?

 

 

 もちろん、必要なのだろう。

 すくなくとも、必要だと考えている人々にとっては。

 

 地権者、周辺の事業者、開発を期待する団体、地域の将来像を描く行政関係者。

 駅ができることで利益を得る人、期待を持てる人、政治的な成果として語れる人にとって、新駅(ハコモノ)は「必要なもの」になる。

 

 だが、それ以外の人間にとってはどうか。

 私の周辺で聞くかぎり、「べつに要らない」という声は少なくない。

 

 もちろんこれは統計ではなく、あくまで生活感覚の話だ。

 その感覚は、無視していいか?

 

 

 駅ができる、道路がつながる、まちづくりが進む。

 そう聞くと明るい話に見える。

 

 だが、そこに住む人間が本当に日常的に使うのか。

 車で動く地域に新しい駅を置いたとして、それはどれほど生活を変えるのか。

 

 たまに信越線を使う私にとっては、新駅ができれば高崎へ向かう途中、一駅よけいに停まる、という意味になる。

 到着が数分遅れるかもしれないが、その程度は痛くもかゆくもないし、ぶっちゃけ損害はほとんどない。

 

 それが必要だ、と言う人々がお金を出してつくるなら、文句を言う筋合いはない。

 やや乱暴にいえば「勝手にすればいい」のだが……問題は、そこに公金が絡むことだ。

 

 まあ高額納税者ではない私ひとりの負担など、知れたものだ。

 家計が傾くほどの税負担が降ってわくでもなし、だから怒るほどでもないし、反対運動を起こす理屈はさらさらない。

 

 せいぜい「必要な人がいるならやればいい」という程度の話。

 政治とは、まさに「その程度の無関心」の上に成り立っている。

 

 

 強く望む少数者がいて、薄く負担する多数者がいる。

 多数者は強く反対するほど困らないし、少数者には強く求めるだけの理由がある。

 

 すると、物事は前に進む。

 駅が必要かどうかというより、駅を必要とする人々が政治的に組織されているかどうかが重要になる。

 

 そう理屈で考えているうちに、ふと北陸新幹線のことを思い出した。

 北陸新幹線の新大阪延伸をめぐっては、まだルートを一本化する議論がつづいている。

 

 費用対効果、いわゆるB/Cが議論になっていいる。

 国土交通省の鉄道局長が「B/Cだけで決まるなら政治はいらない」と発言し、炎上していた。

 

 この発言じたい、じつはまちがっていない。

 政治とは、数字だけでは切れないものを扱うために存在している。

 

 費用対効果だけで全部決まるなら、政治家も議会も要らない。

 役所が表をつくり、数値の高い順に予算をつければいい。

 

 災害対策、地域間格差、安全保障、将来世代への投資。

 そうしたものは、単純なB/Cだけでは測れない。

 

 だから政治判断が必要になる。

 ──問題は、その正論がどこまで許されるかだ。

 

 

 B/Cだけで決めないことと、B/Cを無視することはちがう。

 数字に表れない価値を拾うことと、数字で不利な計画を政治力で押し通すこともちがう。

 

 政治が必要なのは、計算を補うためであって、計算から逃げるためではない。

 地方の新駅も、大規模な新幹線延伸も、構図は似ている。

 

 前述のとおり、必要とする人は必要とするし、「利益を得る人」はさらに強く求める。

 反対する人は、たいてい「大損はしない」ので、そこまで強く反対しない。

 

 結果として、薄く広い負担の上に、濃い利益が積み上がっていく。

 ……それを、すべて悪と断じるつもりはない。

 

 地域には地域の事情があり、最初から「無駄」と決めつけるのも乱暴だ。

 とはいえ推進派の宣伝だけで、公共事業を語るのも危うい。

 

 

 「まちづくり」「地域活性化」「未来への投資」──どれも耳ざわりはいい。

 だが、その言葉の裏には、必ず「負担」がある。

 

 だれが得をし、だれが払うのか。

 どの程度の需要を見込み、外れた場合はだれが責任を取るのか。

 

 開発によってほんとうに地域が持続するのか、それとも一時的に工事と期待だけが生まれるのか。

 そこを曖昧にしたまま、「未来のため」と言えば、たいていのものは正当化できてしまう。

 

 政治とは、そういうものだ。

 必要な人が声を上げ、関心の薄い人が黙り、行政が絵を描き、どこかでだれかが利益を得る。

 

 それは「悪」ではなく、むしろそれこそが政治の「普通」の姿なのかもしれない。

 だからこそ──やりすぎてはいけない。

 

 

 安中―磯部間の新駅がほんとうに必要なのか、私にはまだわからない。

 北陸新幹線の延伸も、ぜったいに不要だと断言するほどの材料は持っていない。

 

 ただ、一納税者として思う。

 公共事業は、夢ではなく請求書を伴う──その請求書を、だれが、どれだけ、なんのために払うのか?

 

 「必要な人がいる」だけでは足りないし、「政治的に進めたい人がいる」だけでは、もっと足りない。

 そこから逃げる政治なら、駅も新幹線も、すこし立ち止まったほうがいい。

 

 

 立ち止まって、どうするか?

 さまざまな論点を積み上げ、妥当性を「総合的に評価」すべきだ。

 

 具体的な例を出そう。

 私にとっては「要らない」安中新駅の妥当性を、仮に「10」と置く。

 

 かなりの関連データを読み込ませているうちのAIに、そのうえで小浜・京都ルートの評価を問うと「2」らしい。

 かなり甘く見ても「3」、厳しく見るなら「1.5」。

 

 べつに北陸新幹線を否定したいわけではないし、なんなら誘致派がやっている「活動の成果」が、わが自治体にもある。

 さらにわかりやすい例を出そう。

 

 地元が誇る政治駅。

 そう、「安中榛名」駅だ。

 

 

 北陸新幹線を群馬に通したいなら、県内に駅ひとつつくらねーと許可しねーよ!

 と群馬の政治家がごり押したのかどうかは知らないが、事実として、わが自治体には謎の新幹線駅がひとつ、山奥にポツンとある。

 

 JR東とどんな話し合いがあったか知らないし、地元に還流したであろうマネーが、われわれのような末端にトリクルダウンしてきたなどという話も、さらさら聞かない。

 その妥当性は「4」。

 

 乗降客の少なさで知られ、秘境駅としても名高い安中榛名駅は、地元民としても使いづらいことこのうえない、残念な駅だ。

 かなり厳しい評価であってしかるべきだが、それでも「既存のルート上にある」だけで、被害規模は小さくなるようだ。

 

 要するに安中榛名は「小さい失敗」と結論していい。

 いっぽう小浜・京都ルートが抱える問題は、より「大きい失敗になりうる」ことだ。

 

 

 失敗ばかり挙げるのもなんなので、成功例もいくつか。

 さいたま新都心駅「30」、越谷レイクタウン駅「22」、群馬県では高崎問屋町駅「16」あたりが、優秀な新駅、請願駅として挙げられる。

 

 高輪ゲートウェイ駅や幕張豊砂駅はまだ評価途中だが、安中新駅よりは優秀そうだ。

 政治ではなく民間が主導していれば、まだマシになりうる例ともいえる。

 

 需要の説得力、代替性、失敗時の被害、政治臭さ……。

 そのもっともらしい説明をるる書き立てるつもりはないが、何兆円もかける整備新幹線については、より強く日本の良識が試されている案件であると感じる。

 

 以上、政治家ぎらいの私との蓄積された会話にもとづいたバイアスがかかっている可能性が高いため、この数字を一般化するつもりはない。

 ただし、これを無視する政治には疑問を感じていい。

 

 みなさんも、それぞれAIに質問してもらいたい。

 なにやってんですか、と。

 

 

 最近、古い映画をよく観ている。

 そこに頻々と出てくる、太った俳優。

 

 べつに「太っちょキャラ」を演じているわけではない。

 むしろ堂々と、二枚目の延長線上にいる。

 

 大物らしく振る舞い、周囲もそう扱っている。

 画面のなか、みんなが気を使っているように見える。

 

 オブラートに包んでもしかたがないので名前を出そう。

 石原裕次郎だ。

 

 

 太っちょキャラ(?)はキャリア後半で、若いころの裕次郎はもちろんスリムだ。

 戦後、青春スターとして爆発的に売れたらしい。

 

 「日本人離れした長い足」で「またたくまに銀幕の大スター」になった。

 時代の空気を含めて、強烈な存在感がひとつのスター像をつくった。

 

 問題は、その後だ。

 大スターが、またたくまに膨れ上がった体形を利用して、デブキャラ枠を埋めたという話は聞かない。

 

 

 よしもと新喜劇で、太った演者が「裕次郎」のモノマネで笑いをとっていた。

 彼がいつからあの芸をやっているのか知らないが、たぶん死後かなり経ってからだと思う。

 

 本人が現役の大物スターだった時代、その体形を真正面から指摘する空気はなかったのではないだろうか。

 私はここに、すこし引っかかっている。

 

 あらかじめ言っておくが、私は人を見た目だけで判断しない。

 なにができるか、それが問題だ。

 

 仕事でも、政治でも、商売でも、最終的には能力と成果がすべてであるべきだ。

 しかし芸能界、とくに古い芸能界においては、話がすこしちがう。

 

 

 見た目とタイミングが9割、という世界はたしかにある。

 顔がいい、脚が長い、声が甘い、色気がある、時代の空気に合っている、たまたま近くに強い事務所があった──そういう要素でスターになる人間はいる。

 

 それを否定はしない。

 美貌は才能であり、肉体も天賦の才、見た目とタイミングだけで売れる人間がいてもいい。

 

 おなじ文脈を逆から読めば、デブやブスを売りにするキャラクターだ。

 新喜劇など、その役割は露骨なほど明確に成立している。

 

 太っているから笑える、顔が濃いから笑える、小柄だから笑える、禿げているから笑える。

 現代的な倫理で全部を洗い流そうとすれば、喜劇のかなりの部分は消えてしまう。

 

 だから、問題は見た目で売ることではない。

 一貫性だ。

 

 

 見た目で売れた人間なら、見た目にこだわる、これは当然だ。

 若いころ美貌で利益を得たなら、後年その美貌が失われたときにも、おなじ物差しを当てられなければならない。

 

 若いころは「かっこいい」「色気がある」「脚が長い」と称賛され、後年に太ったら「貫禄が出た」と言い換えられる。

 海外ならマーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリー、若いころは圧倒的な肉体的魅力で売れ、その後は「貫禄」が出た。

 

 実績、年齢、場数、社会的地位が身体に乗ってくる──それを貫禄と呼ぶことを、否定はしない。

 若いころの美貌とは別の形で、スターとしての存在感が残ることもある。

 

 ならば「太った」と「貫禄が出た」は両立していい。

 ゆえに全否定はしないが、もし前者を隠すために後者を使うなら、それは評価ではなく忖度である。

 

 

 おなじ状態になっても、小物なら「節制が足りない」「劣化した」と切り捨てられる。

 ならば「貫禄」とは、男性の成功者の肥満にだけ与えられる敬称になりはしないか。

 

 この非対称は、女性の場合さらに露骨になる。

 女性スターが男性スターと同じように太ると「劣化」「老けた」「昔は綺麗だったのに」と言われやすい。

 

 だから近年、「女優」ではなく「俳優」と呼んでほしい、という流れが出てくる。

 呼称を変えただけで、この非対称が消えるわけではないが。

 

 

 話をもどそう。

 ルッキズムの是非は措くとして、現に成功した美貌の延長線上には、おなじ物差しが当てられるべきだ。

 

 若いころの美貌は称賛しておきながら、後年の崩れだけを「貫禄」と呼んで免責するのは、容姿評価として一貫性を欠いている。

 くりかえすが、これはデブを否定する文脈ではない。

 

 べつに、太ること自体はかまわない、個人の自由である。

 体形を理由に、生活上の不利益を受けるべきではない。

 

 しかし、それを「飯の種」にしているなら、話は別だ。

 見た目で売っていた人間には、その劣化コストを支払う義務がある。

 

 言い換えれば最低限、見た目を維持する努力義務。

 これは道徳の話ではない、商品の話である。

 

 

 あるビデオシリーズで、「伝説の雀士」を主人公にする作品を観た。

 雀士を演じた俳優の若いころの写真を検索すると、スリムな二枚目が出てくる。

 

 問題はシリーズの後半だ。

 演じる俳優は後年、かなり体形が変わっていた。

 

 事情はわからない。

 薬物事件など、私生活でもいろいろあったらしい。

 

 薬をやめた反動なのか、体調の問題なのか、単なる生活習慣なのかは断定できない。

 ただ、画面上の印象としては、かつての役柄と現在の身体があまりにも乖離していた。

 

 卓に牌を叩きつけた瞬間、顎の肉がぶるんと揺れた。

 申し訳ないが、思わず笑ってしまった。

 

 このとき「他人の容姿を笑った」私が悪いのか。

 それとも、その状態でなお「同じ役をつづけさせた」制作側が悪いのか。

 

 私は後者だと思う。

 いくら昔から演じているとはいえ、現在のイメージが役柄から大きく離れてしまったなら、キャスティングを変えるべきだ。

 

 縁故や惰性で続投させたのだとすれば、それは正しくない。

 すくなくとも作品の説得力を損なっている。

 

 俳優の身体は、声や顔と同じく表現媒体である。

 そこを無視して「昔からこの人だから」で押し通すのは、観客を軽く見ている。

 

 

 結局、これは容姿の話というより、権力の話なのだ。

 小物の変化は欠点として指摘され、大物の変化は美称に変換される。

 

 痩せている若者の美貌は「商品」になり、太った成功者の身体は「貫禄」になる。

 女性の変化は「劣化」と呼ばれ、男性大物の変化は「味」と呼ばれる。

 

 ここには、見た目そのものよりも、見た目を評価する側の権力関係がある。

 まさにこの「権力」によって、一貫性がゆがめられるのだ。

 

 だれなら笑ってよいのか、だれなら笑ってはいけないのか。

 だれの肥満は怠惰で、だれの肥満は貫禄なのか。

 

 その線引きは、見た目の問題に見えて、実際には地位の問題である。

 だから私は、「貫禄が出た」という言葉を疑う。

 

 それが本当に貫禄を意味しているならよい。

 しかし、ただの成功者補正なら、もうすこし正確に言ったほうがよい。

 

 太ったのである。

 そして、それでもなおスターであるなら、よけいに忖度など必要ないはずなのだ。


 先日、地元で飲み会があった。
 午前中の準備から参加し、終わってみれば12時間近く拘束された。

 それは、べつにいい。
 地域の行事とは、そういうものだ。

 準備から片づけまで、だれかがやらなければ成立しないし、自分だけが客でいられるわけもない。
 ただ、ひとつ気になる場面があったので、記録しておきたい。


 早めに集まり、会場の掃除などをした。
 持ち込まれた飲食物のうち、漬物を切って紙皿に盛る、という作業を請け負ったときのことだ。

 食べ物を扱うので、まず石鹸で手を洗った。
 洗った手をぶらぶらさせながら作業の説明を聞いていると、指示者がハンカチを差し出して「手を拭け」と言った。

 私は反射的に答えた。
「いや、これから水仕事をするんだから、拭く必要ないですよ」

 すると怒られた。
「年上から手を拭けと言われたら、はいと応えて拭けばいいんだよ」


 かちんときたが、ここで問題にしたいのは、私の返答がよかったか悪かったかではない。
 たぶん「下の人間」としては悪かったのだろう、認めよう。

 年上の人がハンカチを差し出したら、それを素直に受け取り「ありがとうございます」と言って手を拭く。
 そうしていれば、なにも起こらなかった。

 だが十数秒後の私は、つけ汁に漬かった漬物を手に取り、びしょびしょの手で漬物を切っていた。
 つまり「手を拭く」という行為は、作業上ほとんど意味がない。

 では、あの場面で求められていたものは、なんだったのか。
 答えは簡単、手を拭くこと?

 ちがう、「はい」と言うことだ。
 これが、いわゆる体育会系のルールである。


 私は文系の陰キャだが、陽キャを否定しているわけではない。
 体育会系のルールに、一定の合理性があることは認めている。

 災害現場、戦場、スポーツの試合中、工事現場などでは、いちいち議論している暇がない。
 上位者の指示に即座に従うことで、全体の動きが速くなり、事故を防げる場合もある。

 だから、命令系統そのものを否定はしない。
 問題は、それが必要のない場面にまで持ち込まれることだ。

 漬物を切る場面で必要なのは、上下関係の確認ではない。
 衛生的に扱うこと、必要な量を切ること、見た目よく紙皿に盛ること、時間内に作業を終えること。

 つまり、目的に沿って手を動かすことだ。
 ところが、そこで突然、別のルールが割り込んでくる。

「年上が言ったことには従え」
 この瞬間、作業の目的は漬物を切ることから、上下関係を確認することへとすり替わる。


 自己正当化をするつもりはないので言っておくが、私自身にも、かなりやっかいな癖がある。
 合理的だと思ったことを、そのまま口に出してしまうのだ。

 要するに、アスペ傾向。
 相手の言葉を文字どおりに受け取り、理屈を優先して反応してしまう。

 以前、強い風の日に看板を設置していたときのことだった。
 風で看板が倒れないよう、それを押さえる役割を負った私。

 こう指示された。
「ちゃんと押さえてろよ。ぜったい放すなよ」

 私は答えた。
「突風が吹いたらわかりません」

 だいぶ怒られた。
 あとで考えれば、あの場面でも「はい」と言っておけばよかった。

 相手が求めていたのは、物理学的に厳密な保証ではない。
 「気を抜くな」「責任を持って押さえていろ」「危ないから集中しろ」という意味だったのだろう。

 しかし私は「ぜったい放すな」という言葉を、ほとんど文字どおりに受け取ってしまった。
 強風下で看板を人力で押さえている以上、突風が吹けば放す可能性はある。

 自分の力を超える風がきたら、保証はできない。
 だから「突風が吹いたらわかりません」と答える。


 理屈としては、まちがっていない。
 が、共同作業の場では、理屈として正しい返答が、社会的には不適切な返答になることがある。

 これは自分の弱点だと思う。
 じっさいの人間関係では、言葉は情報だけを運んでいるわけではない。

 確認、励まし、威勢づけ、上下関係、責任の共有、場の空気。
 そういうものも同時に運んでいる。

 「ぜったい放すなよ」は、厳密な契約条項ではない。
 それを私は、契約書の文言のように読んでしまう。

 言葉を厳密に解釈し、その場で不要な正確性を持ち出す、相手が求めているシンプルな「はい」を、情報として不正確だから拒んでしまう。
 これは共同体のなかでは、かなり扱いにくい人間だろう。

 ただし、それでもなお問題は残る。
 私が面倒くさい人間であることと、年齢を根拠に思考停止を求めることは、別の問題だからだ。


 看板の件でいえば、「突風が吹いたらわかりません」という返答は、場の空気としては悪い。
 しかし安全管理としては、むしろ確認すべきことでもある。

 突風が来たらどうするのか、倒れそうになったら逃げるのか、支えるのか、人力で押さえるだけで本当に安全なのか、重しや固定具を使うべきではないのか。
 ほんとうに危険な場面では、「はい」と言わせることより、限界条件を共有することのほうが重要になる。

 漬物の件も同じだ。
 手を拭くかどうか自体は小さな話で、手を拭けと言われたら拭いておけばいいし、そういう処世術もある。

 だが、そこで怒られた理由が「衛生上、そのほうがよい」ではなく、「年上から言われたら従え」だったことには、やはり引っかかる。
 敬意と服従は、ちがうのだ。


 昔は、それでも回ったのかもしれない。
 全体的に人が多く、若い人もいて、多少の非合理を吸収できる余裕があった時代なら、「黙ってやれ」で済んだのだろう。

 いまは、ちがう。
 地域行事に参加する人は減っている、若い人は忙しい、高齢者も疲れている。

 人手不足のなかで、意味のない儀礼まで維持していたら、参加者はさらに減る。
 それでもなお、「年上が言ったら従え」というルールを優先するなら、その共同体は合理化ではなく、縮小を選んでいることになる。

 あの場面での私は、たぶん手を拭いておけばよかった。
 十数秒後にはまた濡れるとしても、「承知しました」と言って拭く、それが大人の対応だったのかもしれない。

 看板のときも、たぶん「はい」と言っておけばよかった。
 そのうえで、必要なら「突風がきたら危ないので、重しを置きませんか」とでも言っておけばよかった。


 私の弱点は、言葉を文字どおり受け取りすぎることだ。
 いっぽう古い共同体の弱点は、言葉を上下関係の確認に使いすぎることだと思う。

 このふたつがぶつかると、濡れた手を拭くかどうか程度で、妙に場がこじれることもあるかもしれない。
 ……まあ、そう思っているのは私だけなのだが。

 あのとき私の手は、すぐにまた濡れた。
 そんな私のような人間が、より乾いた関係を目指すようになって、地域社会は変わっていくのだろう。
 


 死ぬまでに1万本の映画を観たい私。
 いつものルーティンワークで、不条理な殺人鬼に襲われる系のホラー映画を眺めていた。

 だんだんと背景が浮き上がってきて、お金持ちが残虐なゲームを楽しんでいる系のオチにまとめる気らしい。
 なるほど、と分類する。

 世界中で何百本もつくられているパターンで、古来からある「殺人ショー」の需要につながる系譜だ。
 現代ではデスゲームを配信して儲けているとか、その手の「資本家」の醜い「マネーゲーム」に回収されることも多い。

 設定そのものに説得力があるので汎用されているわけだし、機能しているパターンもないわけではない。
 が、その適用があまりに安直で雑だと、最後まで謎の不条理を貫いてくれたほうがマシに思えることも、まれによくある。

 お金持ちディス、ブルジョワは変態ばかり、みたいな批判的文脈が露骨になるほど、「おまえじゃん」という思いがぬぐえない。
 殺人を配信して儲けているのは、この映画製作者も同様なのだ。

 もちろんフィクションならOKという理屈はわかるが、しょせん映画のくせに思想家ぶってんじゃねえよ、とイラつく演出までいったら星マイナスだ。
 その構図を思い描くとき、考えてみれば「思想」はたしかに飯の種だったな、と気づく。


 お金持ちが悪、という設定は伝統的な階級闘争の図式、そのままだ。
 お金をもっているというだけで殺されたり、土地をもっていたら革命の敵としてさらし者、広場に立たされて自己批判を強要された歴史が、20世紀という直近に頻見される。

 そうして党幹部の地位に立った人々が、どんな生活をしているかは語るまでもない。
 そういえば社会主義を標榜する政党に属する日本の政治家も、高級住宅街のお宅がどうのこうのと記事になっていた。

 思想を飯の種にしている「活動家」と、デスゲームを飯の種にしている「映画人」は大差ないのではないか。
 もちろんフィクションを標榜している分、映画人のほうがまだマシではあるが。


 考えてみれば一部の「政治家」は、フィクションを「理想」に設定し、闘争の道具に使ってきた。
 その場合の呼び方は「イデオロギー」だ。

 宗教家が同じことをやると「教義」となり、詐欺師がそれをやると「逮捕」される。
 あまりにも構造が似ていて、いっしょくたにすると怒られることは理解しているのだが、残念ながら通用性の高いフレームとしてワークしている。


 宗教批判をする稿ではないし、個人的には当人がよければそれでいいとは思っている。
 その救世主が十字架にかかろうが、イワシの頭だろうが、現に助かっているのなら外野がごちゃごちゃ言うべき話でもない。

 オレオレ詐欺師ですら、やさしく話を聞いてくれた、という理由で赦してくれる高齢者もいるらしい。
 エコーチェンバーが問題視される程度には、その人間が「必要としている情報を供給する」という正当性はある。

 信念体系は、本人にとっては世界の見え方そのものだ。
 だから外から論理だけを差し込んでも、簡単には崩れない。

 この見方を始めると、戦争映画まで同じに見える。
 つづけて観たベトナム戦争モノでは、戦場ではなく銃後の社会が描かれていた。


 脱走兵を描いた作品だが、当時、アメリカ社会でもベトナム反戦運動は盛り上がっていた。
 脱走兵を「どう見るか」で、この映画の質は大きく変わる。

 たしか日本にも「べへーれん」とかいう、炭素原子60個が結合した分子みたいな名前の組織があった。
 若い人は知らないかもしれないが、「ベトナムに平和を!市民連合」の略で、日本の有名なリベラル思想家たちが中心になって結成された。

 当時、反戦運動は世界中で盛り上がっていた。
 アメリカ国内にもそれなりに葛藤があって、さまざまな力学が作用し、複雑な状況にあったことがわかる。


 ──国の命令で戦っていたのに、兵士だとわかれば唾を吐かれ、ののしられた。
 帰還兵ではなく脱走兵だとわかれば、正しい目的のために銃をとるのをやめたと褒められた。

 脱走兵だとバレれば逮捕されるので当人としては冷や汗ものだが、多くの仲間が兵士として戦っている状況で、仲間をののしる民衆には同意できない。
 日本のような敗戦国の兵士が戦後たたかれたのに比べればマシだとは思うが、それでも「国のために戦って国民からたたかれる」というのは、当人としては意味不明だろう。

 兵士なのだから戦場では人を殺す、しかしそれは殺せと命令されたからだ。
 指揮命令系統に文句をつけるならともかく、末端の兵士に文句を言うのは筋が違う。

 その同じ映画を観ても、リベラルの目からは「活動家よくやった」に見える可能性が高い。
 当時、アポロの月面着陸に大熱狂していたのは、サイゴンでの殺人から国民の目をそらすためだった──と、作中で活動家が言っていた。

 さすがに私は、最終的な陰謀論者にまでは与しない。
 が、戦争中の国家にとって、英雄的な物語がどれほど便利かは考えておいてよい。


 平和とか戦争反対というだけで正義だと、信じ切ってしまう人々は一定数いる。
 それじたいが戦争の一部であることに、どれだけ自覚的でいられるかだ。

 ベ平連にもKGB経由でソ連から資金・支援がはいり、脱走兵支援事業などを行なっていた。
 すべてが、だれかにとって飯の種になっている。

 問題は、金持ちでも政治家でも映画製作者でもない。
 強く猜疑すべきは、他人の恐怖や怒りを商品化しながら、自分は正義の側にいるふりをして「飯を食っている」連中だ。

 そんな彼らに「だまされない」ことに慣れすぎて、「信じる」ことの機能を軽視していることが、対峙する私の弱点といえば弱点だろう。
 映画の見方としても疲れるので、むしろ振り切ったバカ映画のほうが、個人的には好きだったりする。

 いっぽう、みなさんが「信じる」のはご自由に。
 ただし、できればその「加害性」まで見ることをお忘れなく。
 


 前回、20世紀は2番目に平和な世紀だった、と書いた(1番は21世紀)。
 二度の世界大戦があり、大量破壊兵器が歴然と使用されたにもかかわらず? という疑問にも答えているつもりだ。

 その考えは変わらないが、起こった戦争の悲惨さを否定するつもりもない。
 たしかにあれは激烈だったし、人間の狂気をよく表していると思う。

 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ 元米国防長官の告白』(2003)を観た。
 悲惨な戦争の多くにかかわっていた国の国防長官の考え方は、非常に興味深い。

 マクナマラはフォードの社長になったとき、大統領JFKに請われて国防長官に就任した。
 ジョンソン大統領になってからも引きつづき国防長官を勤め、キューバ危機、ベトナム戦争など冷戦構造のなか、大きな決断を迫られることが多かったという。

 いろいろおもしろいエピソードが語られていたが、私が気になったのは、カストロが言っていたというセリフだった。
 いま「カストロ」で検索すると上位にはプロ野球選手が出てくるが、私の世代ではキューバで権力を握っていた革命の最高指導者である。

マクナマラ「米国がキューバを攻撃した場合、(負けるとわかっていても)フルシチョフに核使用を勧めたか?」
カストロ「勧めた」

 結果、キューバが滅びるだろうと理解していてもだ。
 「きみも私と同じ立場ならそうしたはずだ」と言われ、即座に否定するマクナマラ。

 負け戦だけはしてはならない、というのが日本人としてはマストの選択肢だと思うのだが、そうではない考えの人々もいる。
 もちろんマクナマラは大統領ではないし、トルーマンやジョンソンをどう評価するかもここでは述べないが、そういう指導者が立つとしたらシステムそのものがおかしい。

 じっさい小児病で有名な国家群の指導者は、カストロにかぎらず同じことを言うような気がする。
 弱い犬ほどよく吠えるので、どこぞの将軍様が「無慈悲な攻撃でおまえの国を焦土と化す」みたいなことをほざいても、聞き流せばいいだけなのかもしれないが。

 いや、のんきに他国を評している場合ではない。
 われわれも竹やり片手に「一億玉砕」を叫んでいた政府を知っている。

 国民の命を勝手に売り払うんじゃねえよ、とは思うがまあ、あらゆる国が戦時中は多かれ少なかれその傾向にさいなまれはする。
 もちろんアメリカも例外ではない。


 キューバ危機のとき、攻撃しろと叫びつづけていた、カーティス・ルメイ。
 東京大空襲からキューバ攻撃の進言、ベトナム戦争まで、ルメイはとにかく好戦的だった。

 南北戦争のシャーマン将軍も同じ、街を焼くなと懇願する市長を無視して火を放った。
 「戦争とは冷酷なもの」だそうだ。

 ある意味、目的に最適化されてはいる。
 軍人とはそうでなければならない、のかもしれない。

 が、私はたとえ戦争に勝つためでも、人としてそれはできない、と言える人間でありたい。
 そもそも「人間性を捨て」ている彼らのような人間が一定数いて、それが指揮権を握ることの恐怖は銘記すべきだ。


 現在の世界は、その恐怖に立脚している。
 戦争に勝った国が、秩序を構築しているからだ。

 第二次大戦を遂行した「聯合国」という体制は、だいぶ狂っている。
 古式ゆかしい「勝ったやつの言うことを聞け」は、要するに「ジャイアン理論」なので、いろいろおかしい。

 国際連合、安全保障理事会、常任理事国、拒否権。
 いずれも、かなり露骨に「勝った側の制度」になっている。

 端的なのが核拡散防止条約で、安保理の5か国にのみ核の保有を認め、他の国には民生利用のみ、さらに査察も受け入れろという。
 もちろんこれは核拡散を防ぐための現実的な妥協であり、全員に核を持たせるよりはマシという理屈も理解はできる。

 特定国にだけ核の「威嚇」を認める、という理解に苦しむ体制をつくらなければならなかった理由は、現に核を「使用」した国がそこに含まれる事実からも帰納されよう。
 彼らは、正しい目的のために核を使用したのであり、それによって引き起こされた虐殺は正しかった、と言い張らなければならない。

 逆に言えば、もしナチスドイツが戦争に勝っていたら、ユダヤ人虐殺は正しかった、ということになっていた。
 現に、いまからでも「そうすべきだ」と考える人々は一定数いる。

 一定の思想、利益の代表権行使を強制すること──それが戦争だ。
 そもそも戦争という狂った行為が、その後に狂った環境をもたらすのは、ある意味で当然の帰結といえる。


 人間は狂っているから、もう彼らには地球の管理を任せておけない。
 そう判断されても、致し方のない現状である──と言いたいところだが、じつのところ、そうでもない。

 べつに楽観論者ではないのだが、比較的マシにはなっていると認めている。
 まだまだ狂っている部分も少なくないが、その異常性は、20世紀の10から21世紀には7くらいまで下がっている、ような気がする。

 この前提を食わせたうえでAIに問い合わせたところ、21世紀の異常性は「現時点で 6.5」らしい。
 ただし「2001〜2019年までなら 4〜5、2022年以後を含めると 6.5〜7 まで戻った」という。

 じっさい「死者数」だけなら、21世紀はかなりマシだ。
 ただし「21世紀が1番平和」と言いにくくなっている理由もある。

 もし台湾有事、NATO・ロシア直接衝突、インド・パキスタン核危機、中東戦争の拡大のどれかが本格化すれば、21世紀は一気に8〜9まで跳ねるだろう。
 あまたの「爆弾」は、漸進的に解除していくしかない。


 それでも20世紀の教訓は、まだじゅうぶん生きていると思う。
 20世紀生まれの私が生きているあいだは、たぶん大丈夫だ(と信じたい)。

 トルストイは「悪に対して悪で報いることは、幸福を失うことである」と言った。
 暴力に暴力で報いてはいけない、というキリスト教以来の宗教的なテーゼが、彼らの世界線でも一応は機能している。

 トルストイを愛好していたガンディーも、よく引用していた。
 そのガンディーに影響を受けたのがキング牧師で、同じ流れで南アフリカの大統領になったのがネルソン・マンデラだった。

 すばらしい思想は後世に影響を与えるが、まだ「愚民」まで浸透しているとは言い難い。
 人類の一定割合を占める暴力性に合わせるのではなく、その効用を逓減するシステムを、政府レベルで導入する必要があるだろう。

 たぶん人類は、地球の管理者として合格していない。
 ただし、完全な落第でもない──という判定が、いまはちょうどいいと思う。