死ぬまでに1万本の映画を観たい私。
 いつものルーティンワークで、不条理な殺人鬼に襲われる系のホラー映画を眺めていた。

 だんだんと背景が浮き上がってきて、お金持ちが残虐なゲームを楽しんでいる系のオチにまとめる気らしい。
 なるほど、と分類する。

 世界中で何百本もつくられているパターンで、古来からある「殺人ショー」の需要につながる系譜だ。
 現代ではデスゲームを配信して儲けているとか、その手の「資本家」の醜い「マネーゲーム」に回収されることも多い。

 設定そのものに説得力があるので汎用されているわけだし、機能しているパターンもないわけではない。
 が、その適用があまりに安直で雑だと、最後まで謎の不条理を貫いてくれたほうがマシに思えることも、まれによくある。

 お金持ちディス、ブルジョワは変態ばかり、みたいな批判的文脈が露骨になるほど、「おまえじゃん」という思いがぬぐえない。
 殺人を配信して儲けているのは、この映画製作者も同様なのだ。

 もちろんフィクションならOKという理屈はわかるが、しょせん映画のくせに思想家ぶってんじゃねえよ、とイラつく演出までいったら星マイナスだ。
 その構図を思い描くとき、考えてみれば「思想」はたしかに飯の種だったな、と気づく。


 お金持ちが悪、という設定は伝統的な階級闘争の図式、そのままだ。
 お金をもっているというだけで殺されたり、土地をもっていたら革命の敵としてさらし者、広場に立たされて自己批判を強要された歴史が、20世紀という直近に頻見される。

 そうして党幹部の地位に立った人々が、どんな生活をしているかは語るまでもない。
 そういえば社会主義を標榜する政党に属する日本の政治家も、高級住宅街のお宅がどうのこうのと記事になっていた。

 思想を飯の種にしている「活動家」と、デスゲームを飯の種にしている「映画人」は大差ないのではないか。
 もちろんフィクションを標榜している分、映画人のほうがまだマシではあるが。


 考えてみれば一部の「政治家」は、フィクションを「理想」に設定し、闘争の道具に使ってきた。
 その場合の呼び方は「イデオロギー」だ。

 宗教家が同じことをやると「教義」となり、詐欺師がそれをやると「逮捕」される。
 あまりにも構造が似ていて、いっしょくたにすると怒られることは理解しているのだが、残念ながら通用性の高いフレームとしてワークしている。


 宗教批判をする稿ではないし、個人的には当人がよければそれでいいとは思っている。
 その救世主が十字架にかかろうが、イワシの頭だろうが、現に助かっているのなら外野がごちゃごちゃ言うべき話でもない。

 オレオレ詐欺師ですら、やさしく話を聞いてくれた、という理由で赦してくれる高齢者もいるらしい。
 エコーチェンバーが問題視される程度には、その人間が「必要としている情報を供給する」という正当性はある。

 信念体系は、本人にとっては世界の見え方そのものだ。
 だから外から論理だけを差し込んでも、簡単には崩れない。

 この見方を始めると、戦争映画まで同じに見える。
 つづけて観たベトナム戦争モノでは、戦場ではなく銃後の社会が描かれていた。


 脱走兵を描いた作品だが、当時、アメリカ社会でもベトナム反戦運動は盛り上がっていた。
 脱走兵を「どう見るか」で、この映画の質は大きく変わる。

 たしか日本にも「べへーれん」とかいう、炭素原子60個が結合した分子みたいな名前の組織があった。
 若い人は知らないかもしれないが、「ベトナムに平和を!市民連合」の略で、日本の有名なリベラル思想家たちが中心になって結成された。

 当時、反戦運動は世界中で盛り上がっていた。
 アメリカ国内にもそれなりに葛藤があって、さまざまな力学が作用し、複雑な状況にあったことがわかる。


 ──国の命令で戦っていたのに、兵士だとわかれば唾を吐かれ、ののしられた。
 帰還兵ではなく脱走兵だとわかれば、正しい目的のために銃をとるのをやめたと褒められた。

 脱走兵だとバレれば逮捕されるので当人としては冷や汗ものだが、多くの仲間が兵士として戦っている状況で、仲間をののしる民衆には同意できない。
 日本のような敗戦国の兵士が戦後たたかれたのに比べればマシだとは思うが、それでも「国のために戦って国民からたたかれる」というのは、当人としては意味不明だろう。

 兵士なのだから戦場では人を殺す、しかしそれは殺せと命令されたからだ。
 指揮命令系統に文句をつけるならともかく、末端の兵士に文句を言うのは筋が違う。

 その同じ映画を観ても、リベラルの目からは「活動家よくやった」に見える可能性が高い。
 当時、アポロの月面着陸に大熱狂していたのは、サイゴンでの殺人から国民の目をそらすためだった──と、作中で活動家が言っていた。

 さすがに私は、最終的な陰謀論者にまでは与しない。
 が、戦争中の国家にとって、英雄的な物語がどれほど便利かは考えておいてよい。


 平和とか戦争反対というだけで正義だと、信じ切ってしまう人々は一定数いる。
 それじたいが戦争の一部であることに、どれだけ自覚的でいられるかだ。

 ベ平連にもKGB経由でソ連から資金・支援がはいり、脱走兵支援事業などを行なっていた。
 すべてが、だれかにとって飯の種になっている。

 問題は、金持ちでも政治家でも映画製作者でもない。
 強く猜疑すべきは、他人の恐怖や怒りを商品化しながら、自分は正義の側にいるふりをして「飯を食っている」連中だ。

 そんな彼らに「だまされない」ことに慣れすぎて、「信じる」ことの機能を軽視していることが、対峙する私の弱点といえば弱点だろう。
 映画の見方としても疲れるので、むしろ振り切ったバカ映画のほうが、個人的には好きだったりする。

 いっぽう、みなさんが「信じる」のはご自由に。
 ただし、できればその「加害性」まで見ることをお忘れなく。
 


 前回、20世紀は2番目に平和な世紀だった、と書いた(1番は21世紀)。
 二度の世界大戦があり、大量破壊兵器が歴然と使用されたにもかかわらず? という疑問にも答えているつもりだ。

 その考えは変わらないが、起こった戦争の悲惨さを否定するつもりもない。
 たしかにあれは激烈だったし、人間の狂気をよく表していると思う。

 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ 元米国防長官の告白』(2003)を観た。
 悲惨な戦争の多くにかかわっていた国の国防長官の考え方は、非常に興味深い。

 マクナマラはフォードの社長になったとき、大統領JFKに請われて国防長官に就任した。
 ジョンソン大統領になってからも引きつづき国防長官を勤め、キューバ危機、ベトナム戦争など冷戦構造のなか、大きな決断を迫られることが多かったという。

 いろいろおもしろいエピソードが語られていたが、私が気になったのは、カストロが言っていたというセリフだった。
 いま「カストロ」で検索すると上位にはプロ野球選手が出てくるが、私の世代ではキューバで権力を握っていた革命の最高指導者である。

マクナマラ「米国がキューバを攻撃した場合、(負けるとわかっていても)フルシチョフに核使用を勧めたか?」
カストロ「勧めた」

 結果、キューバが滅びるだろうと理解していてもだ。
 「きみも私と同じ立場ならそうしたはずだ」と言われ、即座に否定するマクナマラ。

 負け戦だけはしてはならない、というのが日本人としてはマストの選択肢だと思うのだが、そうではない考えの人々もいる。
 もちろんマクナマラは大統領ではないし、トルーマンやジョンソンをどう評価するかもここでは述べないが、そういう指導者が立つとしたらシステムそのものがおかしい。

 じっさい小児病で有名な国家群の指導者は、カストロにかぎらず同じことを言うような気がする。
 弱い犬ほどよく吠えるので、どこぞの将軍様が「無慈悲な攻撃でおまえの国を焦土と化す」みたいなことをほざいても、聞き流せばいいだけなのかもしれないが。

 いや、のんきに他国を評している場合ではない。
 われわれも竹やり片手に「一億玉砕」を叫んでいた政府を知っている。

 国民の命を勝手に売り払うんじゃねえよ、とは思うがまあ、あらゆる国が戦時中は多かれ少なかれその傾向にさいなまれはする。
 もちろんアメリカも例外ではない。


 キューバ危機のとき、攻撃しろと叫びつづけていた、カーティス・ルメイ。
 東京大空襲からキューバ攻撃の進言、ベトナム戦争まで、ルメイはとにかく好戦的だった。

 南北戦争のシャーマン将軍も同じ、街を焼くなと懇願する市長を無視して火を放った。
 「戦争とは冷酷なもの」だそうだ。

 ある意味、目的に最適化されてはいる。
 軍人とはそうでなければならない、のかもしれない。

 が、私はたとえ戦争に勝つためでも、人としてそれはできない、と言える人間でありたい。
 そもそも「人間性を捨て」ている彼らのような人間が一定数いて、それが指揮権を握ることの恐怖は銘記すべきだ。


 現在の世界は、その恐怖に立脚している。
 戦争に勝った国が、秩序を構築しているからだ。

 第二次大戦を遂行した「聯合国」という体制は、だいぶ狂っている。
 古式ゆかしい「勝ったやつの言うことを聞け」は、要するに「ジャイアン理論」なので、いろいろおかしい。

 国際連合、安全保障理事会、常任理事国、拒否権。
 いずれも、かなり露骨に「勝った側の制度」になっている。

 端的なのが核拡散防止条約で、安保理の5か国にのみ核の保有を認め、他の国には民生利用のみ、さらに査察も受け入れろという。
 もちろんこれは核拡散を防ぐための現実的な妥協であり、全員に核を持たせるよりはマシという理屈も理解はできる。

 特定国にだけ核の「威嚇」を認める、という理解に苦しむ体制をつくらなければならなかった理由は、現に核を「使用」した国がそこに含まれる事実からも帰納されよう。
 彼らは、正しい目的のために核を使用したのであり、それによって引き起こされた虐殺は正しかった、と言い張らなければならない。

 逆に言えば、もしナチスドイツが戦争に勝っていたら、ユダヤ人虐殺は正しかった、ということになっていた。
 現に、いまからでも「そうすべきだ」と考える人々は一定数いる。

 一定の思想、利益の代表権行使を強制すること──それが戦争だ。
 そもそも戦争という狂った行為が、その後に狂った環境をもたらすのは、ある意味で当然の帰結といえる。


 人間は狂っているから、もう彼らには地球の管理を任せておけない。
 そう判断されても、致し方のない現状である──と言いたいところだが、じつのところ、そうでもない。

 べつに楽観論者ではないのだが、比較的マシにはなっていると認めている。
 まだまだ狂っている部分も少なくないが、その異常性は、20世紀の10から21世紀には7くらいまで下がっている、ような気がする。

 この前提を食わせたうえでAIに問い合わせたところ、21世紀の異常性は「現時点で 6.5」らしい。
 ただし「2001〜2019年までなら 4〜5、2022年以後を含めると 6.5〜7 まで戻った」という。

 じっさい「死者数」だけなら、21世紀はかなりマシだ。
 ただし「21世紀が1番平和」と言いにくくなっている理由もある。

 もし台湾有事、NATO・ロシア直接衝突、インド・パキスタン核危機、中東戦争の拡大のどれかが本格化すれば、21世紀は一気に8〜9まで跳ねるだろう。
 あまたの「爆弾」は、漸進的に解除していくしかない。


 それでも20世紀の教訓は、まだじゅうぶん生きていると思う。
 20世紀生まれの私が生きているあいだは、たぶん大丈夫だ(と信じたい)。

 トルストイは「悪に対して悪で報いることは、幸福を失うことである」と言った。
 暴力に暴力で報いてはいけない、というキリスト教以来の宗教的なテーゼが、彼らの世界線でも一応は機能している。

 トルストイを愛好していたガンディーも、よく引用していた。
 そのガンディーに影響を受けたのがキング牧師で、同じ流れで南アフリカの大統領になったのがネルソン・マンデラだった。

 すばらしい思想は後世に影響を与えるが、まだ「愚民」まで浸透しているとは言い難い。
 人類の一定割合を占める暴力性に合わせるのではなく、その効用を逓減するシステムを、政府レベルで導入する必要があるだろう。

 たぶん人類は、地球の管理者として合格していない。
 ただし、完全な落第でもない──という判定が、いまはちょうどいいと思う。

 

 

 アメリカやロシアが、世界の片隅で戦争をやっている。

 それをまるで世界中、戦争だらけのように騒ぎ立てる人々がいるが、マスコミの悪い癖だなと思っている。

 

 21世紀ほど平和な時代は、人類史上かつてなかった。

 それはまちがいないし、おそらく多くの人々が同意する。

 

 なんなら20世紀だって2番目に平和だった、とまで言うと否定的な人が増えるだろう。

 二度の世界大戦を含め、20世紀は戦争の世紀と言われることもあるくらいだ──が、じつは平和の世紀でもあったことはあまり知られていない。

 

 武器が高度化して一度に大量に死ぬようになった点は別として、戦争被害は明確に古代や中世のほうがひどかった点、銘記しておかねばならない。

 そもそも人間は、つねに野蛮だった。

 

 

 古代については、あまり確定的なことは言えない。

 個人的には、秦による統一戦争の被害がとても大きいように思える。

 

 ペロポネソス戦争やポエニ戦争も大きかったが、有名なのは古代ギリシャや古代ローマという「文明圏」のほうだろう。

 これらが偉大であったことに議論の余地はない……が、問題は、その光が強いほど闇も濃くなることだ。

 

 彼ら古代人は、たしかに偉大だったかもしれないが、それ以上に野蛮だった。

 なぜなら彼らは、周辺の同じくらい偉大な文明を滅ぼすことによって、世界史にその名を轟かせたともいえるからだ。

 

 中世になると、モンゴル帝国の征服戦争が頭ひとつ抜けている。

 かの「世界史上最大の陸上帝国」は、数千万規模の破局的な死者を出したとされる。

 

 特筆すべきは、国家そのものをいくつも地上から抹消したことだろう。

 西夏、ホラズム・シャー朝、アッバース朝カリフ国、南宋、キエフ・ルーシ……。

 

 現代とは比較にならないほど徹底的に、国や文化が破壊された。

 われわれはその事実をよく知らない、なぜならそれらはほんとうにこの世から「消滅」してしまったからだ。

 

 

 古代や中世に「消滅」した国々について、ここで詳述はできない。

 ただ、そのたびに大虐殺が行なわれ、おそらくポルポトなどよりも徹底的に、無数の文明人が消し去られたことはたしかだ。

 

 敗戦国に人道的に接するなどという発想には、あまり期待しないほうがいい。

 古代や中世とは、そのような「啓蒙」以前の時代であった。

 

 いっぽう、われわれは先人の肩に立って、高みから過去を見下ろすことができる。

 20世紀、たしかに二度の世界大戦や各国での内戦、権力闘争は、近代兵器という道具を得て熾烈を極めたかもしれない。

 

 しかし大幅な「地図」の更新、たとえばヨーロッパ諸国の各植民地からの撤退や、ソビエト連邦の崩壊という圧倒的に巨大な勢力の消滅に際して、それほど大規模な闘争が行なわれただろうか?

 否。

 

 もはや人類は、かつて世界史の表舞台で騒がれたような、大規模な侵攻や統一というダイナミクスとは、別の次元に立っている。

 どこの国家も、独裁者も、せいぜい自分の地位の保全を求める程度で、他国を軍事的に侵略しようなどと考えるお花畑な脳の持ち主は、ほとんどいなくなった。

 

 

 紛争レベルの衝突は、しばしば起こる。

 それによって何百万の難民が発生したりはするだろう。

 

 だが、戦争はもう「あたりまえ」の出来事ではなくなった。

 むしろ支配者は、世界に扉を開いて戦いを挑むような行為に敢然と背を向け、自分の手が届く限られた世界だけを守ろうとしている。

 

 ロシアやアメリカが「戦争らしきもの」をしたがるのは、ぎりぎりそこに「手が届」いたからにすぎない。

 言い換えれば、せいぜい互いの「箱庭を壊し合う」ことに血道をあげる時代なのだ。

 

 火薬庫と言われる中東すら、あくまでも小競り合いだ。

 若干の国境紛争、武力介入、内戦レベルの暴動、おびただしい数の武力事案が起こってはいても、それは中世までの国が消え去るような「戦争」ではない。

 

 

 ここで戦争の「目的」を、あらためて明確にしておこう。

 現在も同様ではあるが、それは基本的に「土地」だ。

 

 かつては得られた「領土」から、さまざまなものを奪い取ることができた。

 畑、家畜、奴隷、金などは重要な産品であり、それを略奪することは自ら生み出すよりも手っ取り早く、要するに「金持ち」になれた。

 

 あるいは植民を行なうことで、無限の価値を見出せるように思われた時期もある。

 先進諸国の多くが利益をむさぼったが、いまやそれは「負の遺産」となって啓蒙の素材となった。

 

 

 現在、「富」を形作っているのは、ほとんどが人的資源とテクノロジー、そして膨大な金融資産である。

 これを戦争で奪い取ることは、できない。

 

 かつてカリフォルニアの富を築いた金鉱は、いまやシリコンと情報に置き換わった。

 どんなに銃を振り回したところで奪い取れない代物だ。

 

 たとえ百万の強襲揚陸隊をもってサンフランシスコの海岸に突撃しても、そこにある富を捕獲はできないのだ。

 いくばくかのデータや技師を捕えることはできるだろうが、それは失われるものに比して微々たるものでしかない。

 

 

 ただし「戦争ごっこ」なら、それなりには儲かる。

 ガス抜きのようにある程度までは許容されてもいるが、下手に規模を拡大すればお金持ちたちが黙ってはいない。

 

 トランプ大統領の行動を見ていれば、なんとなく察せられるだろう。

 最短時間で片づけろ、下手に拡大するな、そういう市場の要請を世界最強のアメリカ大統領さえ無視できない。

 

 そう、もはや「全面戦争」などという事態は、けっして引き起こされない平和な時代となってしまったのだ。

 戦争など起こしたら、自分たちのお金の価値が大きく棄損される。

 

 一部の武器商人が儲けるために、その他大部分の大金持ちが、自分の富を差し出すだろうか?

 ありえない。

 

 

 かつて戦争という甘い汁を吸って生きてきた悪魔にとって、現状は都合がわるくなった。

 だが平和な時代には平和な時代なりのやり方で、搾取を行なう余地はある。

 

 最新の悪魔なら、どう行動するか?

 そういう想像力をもって、物語を書いている。

 

 悪魔のやり口を理解し、対応すること。

 それさえできれば、どんな時代にも負けずに生きていけるだろう。


 毎年この時期になると話題になる。
 最速で辞める新入社員の話。

 いまどきの若い者は、という批判的な意見をまれによく見るが、すくなくともネットのコメント欄では少数派のように見受ける。
 逆張り志向の強い私としては援護してやりたいところなのだが、この件に関しては「さっさと辞めたほうがいい」という信念を変えられない。

 私自身、最初の就職は1か月で辞めている。
 その後はバイトと派遣社員で最終的には自営業になったわけだが、正解だったと思っている。


 新卒社員と派遣社員はちがう、という意見はひとまず置こう。
 その職場にはじめて投入される、新しい社員として私がどう行動したか。

 そこは小さな町工場、育成コストより労働時間が優先される現場仕事だった。
 だれにでもできる作業、止まったらボタンを押すとか、出てきた製品を測定するとか。

 単純作業者として組み込まれているのだと理解しつつも、退屈がきらいな私は機械の性質を理解しようと努力し、より精密な測定を重ねた。
 べつに会社のためとかそういうことではなく、知らないことを知り、よりよくできるのは楽しいからだ。

 真剣にメモしている姿が評価されたのかどうか、旋盤作業を任されるようになった。
 汎用旋盤、NC旋盤、いろいろ覚えることがあり、それなりにおもしろかった。

 最速で仕事を覚え、わりと複雑な作業もこなした。
 おなじ派遣費用を払うなら使ったほうが得、というわけだろう、けっこう任された。


 その後、半年で辞めた。
 覚えるべきこともなくなって飽きてきたし、そもそも「それが派遣」だからだ。

 工場が期待しているのは、基本的に反復作業のための労働力にすぎない。
 それ以上を期待するのは勝手だが、応じるかどうかはこちらが決める。

 小さな工場をひとりでまわす程度はできそうだが、そんなことがやりたいわけではない私。
 いっぽう会社としては、安定して任せられるスタッフに辞められる感じになるので、それなりに困るのだろうとは察する。

 けっこう慰留された。
 応じなかった。

 半年(契約期間)で切り捨てるのは、会社(派遣というシステム)も平然とやっている。
 お互い様だ。


 さて、新卒が最速で辞める話にもどそう。
 言い換えれば、新卒を育てるコストを、どう割り切るかという問題だ。

 個人としてどんなに能力が高くても、会社としては働きつづけてもらわなければ意味がない。
 つづけてもらうために必要なのは、それにふさわしい環境だ。

 それができているか?
 問題の退職代行サービス側に言わせると、あきらかに企業側に問題があるケースが2割らしい。

 あとは働く側の個人的な事情が2割と、残り6割は両者のコミュニケーションの問題だという。
 この見方、わりと正しいように思える。

 退職代行にぐちぐち言うような会社は問題の2割なのだろうが、自分勝手に辞めていく2割の個人にも問題があり、すべて擁護するつもりもない。
 うまいことコミュニケーションをとれなかったのは両方のせいなので、改善の余地があるとすればこのあたりだろう。


 問題のある会社が苦言を述べるのは、当然の「はけ口」だ。
 そんなあなたの仕事がどのくらい必要とされているかについては、すこし考えたほうがよいだろう。

 いっぽう最速で辞めてつぎを探す、問題のある個人もいる。
 そのひとりである私の意見としては、責任を取るのは自分なんだからほっといて差し上げろ、以上だ。

 この齟齬をひとことで表すなら、自己都合の押し付け合い。
 とはいえ自分の思い通りに生きたい人と、他人を思い通りにしたい人、どっちが優先されるかは……あきらかだろう。


 冒頭に書いたとおり、退職代行を使う使わない以前に、辞めたいと思ったら辞めればいいと思っている。
 それをいたずらに長引かせようとするのは、よほどブラックな会社である疑いが強い。

 社員を成長させるための投資をせず、消耗品のようにひたすら使いつぶす側なら、すり減らす以前に辞められるのは困るだろう。
 徹底的に絞って抜け殻のようになるまで辞めるんじゃねーよ、根性が足りねーぞ、というわけだ。

 いっぽう社員を育てる会社では、育て上げてから辞められるほうが困る。
 結局辞めるなら早いほどいい、お互いの傷口が浅く済むから……と考えるほうが自然ではないだろうか。


 もちろん会社側にも言い分はある。
 新卒採用には相応のコストがかかるし、入社直後の不調が、その職場固有の問題とはかぎらない。

 生活リズムの激変や、学生から社会人への移行にともなう心理的な負荷で、だれでも多少は調子を崩す。
 会社から見れば「ほんとうに合わない」のか、それともまだ「慣れていないだけ」なのか、せめて見極める時間が欲しい……のかもしれない。

 だが、その「見極め」が本人の限界を超えてまでつづけられるなら、話は別だ。
 育成のための猶予と、消耗戦への引き込みは似ているようでちがう。


 ほんとうに「人を育てる」会社なら、離職率ゼロを目指すのではなく、入社後のミスマッチをどう浅いうちに処理するかを考える。
 それなのに「辞める自由」を過剰に敵視している時点で、お察しだ。

 くりかえすが、会社にも事情はある。
 だが、事情があるから人をつなぎ止めていいわけではない。

 育てるつもりがあるなら、辞める自由ではなく、辞めたくなる理由を直視すればいい。
 重要な事実を「見極め」、ちゃんと「コミュニケーション」をとる、それが結論だ。
 


 年金の振込用紙が届いた。
 ? と思った。

 たしかに例年は振込用紙をスキャンして1年分一括で払っているが、ことしは2年前納の手続きをしている(ちょっとお得なので)。
 つまりこの届いた振込用紙は、おなじものを2回払え、という意味になる。

 二重に払うとお得ですよ、とでも言いたいのか? そんなわけはない。
 相手も還付手続きをする手間がかかるのだから、お互いに損でしかない。

 待てよ、2年前納した私の手続きに不備があって、この振込用紙で払うしかない、という意味なのか?
 その場合、送られた振込用紙は無用ではないかもしれないが、だとしたらその前に不備について通知しろよ……と、無駄に思考が錯雑してくる。


 よく読めば、行き違いで、すでに払う必要のない人に対して二重の案内になったことについては、謝罪している。
 ……こんな小さい字でエクスキューズを入れるんじゃないよ、詐欺契約書か、とイラッとする。

 ただ、相手の立場、状況を忖度すれば理解できないわけではない。
 たとえば物理的に間に合わない場合。

 ある人が、どのタイミングで厚生年金に加入したかどうかを知るには、時間がかかる。
 他の組織の情報を得るには、それなりに壁もあるだろう。

 が、私が手続きした2年前納は、日本年金機構からの案内だ。
 おなじ組織で2か月前に手続きをした人を、なぜ把握できない?

 システムが古いか、やる気がないかだ。
 毎年送っているから、今年も送っておけばいいだろう……ふざけんな。

 効率化の意味を理解しているか?
 無駄を省けよ、無駄を!


 考えてみれば「おなじことを何度も言わせる」のは、カスタマーサービス(?)の基本だ。
 さっき説明しただろ、という内容を、たらいまわして繰り返させることで、カスタマーを疲弊させ「あきらめさせる」のは、お役所仕事にも通じる。

 無駄というコストによって飯を食っている人々、と言い換えてもいい。
 それは商品価格に上乗せされている、言い換えれば、その上乗せ分を食って生きている人々もいるわけだ。

 このクソ思考を支援しているのは、だれか。
 耳障りのいい看板を掲げ、効率化を妨げていた人々の姿が脳裏をよぎる。


 マイナンバー、保険証、年金などなど、デジタル化とか効率化が騒がれるようになって久しい。
 これに反対していた人々の理屈について、すこし調べてみる。

 個人情報保護、セキュリティ確保、政府による監視への警戒……。
 結論からいうと、理屈はまちがっていないし、看板そのものはご立派だ。

 問題は、その看板を掲げている人々の来歴である。
 当時でいえば、立憲民主党、日本共産党、社民党、れいわ新選組あたり──いわゆる「左」と呼ばれる人々だ。


 なんでも反対を貫いている共産党は、わかりやすい。
 物事の良し悪しではなく、だれがそれを主張しているかだけが問題、与党ならば反対という態度は一種の「反射」に近い。

 おなじ共産党の名前を掲げる中国や、社民党が全力支持していた北朝鮮の現状をみろよ、という突っ込みがまず思い浮かぶ。
 いたずらに個人情報を収集し、当局以外のセキュリティを無効化し、ガチガチに国民を統制している国。

 これも一応、彼らの立場に立って付言しておくと、「日本共産党は中国共産党を否定、敵視している」という事実はある。
 中共は真実の共産主義者ではない、まちがっている、自分たちが権力をとれば、あのようなことにはならない、という理屈らしい。

 この手の批判は、ある意味「左」らしいという見方もできる。
 他のセクトに対する批判と内ゲバの末路……見苦しい。


 まあ組織が権力をとったらどうなるかについては、また別の話なのでここでは触れない。
 ともかく反対の理由が実務的であれ思想的であれ、結果的に無駄が出ているという、この事実だ。

 野党が反対しなければこうはならなかった、とまで飛躍するつもりはないのだが、やるべきことを最速でやれない原因のひとつではある。
 効率化それじたいへの原理的な批判については、じゃあおまえだけ無人島に引っ越せよ、と言いたくもなる。

 科学の進歩に対してわれわれができることは唯一、その進み方を全力で抑制することだけだ、というナチュラリストの言葉をどこかで聞いたことがある。
 その考え方が正しいかどうかは歴史が判断するとしか言いようがないが、現在に生きる私個人の意見としては正直「邪魔」だ。


 個人情報保護も、監視への警戒も、たしかに重要だろう。
 そこは否定しない、むしろ国家が情報を持つほど、疑ってかかるくらいでいい。

 ただ、その正しさが、いつも免罪符になるわけではない。
 反対して止める、遅らせる、複雑にする──。

 その結果として生まれるコストもまた、だれかが支払っている。
 役所の窓口で、病院の受付で、年金の通知で、そして郵便受けに届く分厚い振込用紙で。

 理念は高くていい、看板も立派でいい。
 だが、その看板のせいで現場が非効率になるなら、せっかくの正義が毀損されて説得力を失うことを、どの程度理解しているか。

 私のところに届いたこの紙は、たぶんその小さな証拠だ。
 反対する自由はもちろんあるが、その反対が生んだ無駄の責任まで、理念の陰に隠してはなるまい。
 

 

 田舎住みの私は先刻、通院のため近隣の中核市に出かけてきた。

 予約していたのに2時間も待たされたおかげで、病院を出たのは昼過ぎだった。

 

 小腹も空いたので飯を食おうと思い、ふと思い立って二郎系の店にむかった。

 行列はしていなかったが、店外に客がいる程度には混んでいる。

 

 ラーメンはやめとこう、と判断した。

 健康のため、というわけではない。

 

 そもそも私はジロリアンではないし、この系統の店に一度も行ったことがない。

 ──だからこそ、行ってみたかった。

 

 

 一度は二郎系で食っておく、というのは重要な経験値になる、ような気がする。

 いっぽう、まさにこの「一度も行ったことがない」という理由が、足止めをした。

 

 とくに混雑している店では、まごまごしていると店員に迷惑がかかる。

 二郎ルールに沿わないと店主に怒られるらしい、という噂も脳裏をよぎった。

 

 「二郎」「ルール」などで検索すると、めんどくさい、とサジェストされる。

 入店するなら、ネットでルールを確認してからにしましょう、と諭された。

 

 何様だよ、という反発が強い。

 そもそも「待つ」ことじたい、好きではない。

 

 

 というわけで二郎系初体験をあきらめつつ、もろもろ考えた。

 「初見席」をつくればいいんじゃないかな、イチゲンさん大歓迎の席があれば、もうちょっと気楽に入店できるのにな……。

 

 そこへ行けばどんな注文もかなうと言うよ、だれもみな行きたがるがはるかな世界~♪

 脳内で歌いながら、即座に自己反論する。

 

 いや顧客にやさしすぎる店も問題じゃないか?

 お客さまは神さま、などという考えが、そもそもおかしい。

 

 そういう日本的な顧客第一主義が、モンスターみたいなカスタマーを甘やかした。

 日本が海外旅行先として好まれるのは、この手のサービス精神のせいだ。

 

 

 とはいえ客に厳しい頑固オヤジの店、というスタイルにも虫唾が走る。

 店も客も、めんどくさいレベルにいたったらダメだ。

 

 まあ二郎くらいなら、最初から調べて行けばルールは比較的わかりやすい。

 ただ雰囲気やローカルの事情もあるので、その場の正解を理解するには時間がかかることもあるかもしれない。

 

 空気が読めないと入店できない店とか、私にとっては苦行だ。

 そんな私のような社会不適応者を含め、全員に対応する店づくりなど、おおよそ不可能にも思われる。

 

 

 なんらかの札を立てて、対応を求める手段を提供すればいいだけでは?

 いや、いまどき調べればわかるのだから、二郎のルールを知らずに行動した客がわるい……云々。

 

 調べればいくらでも、この手の議論は出てくる。

 いちゃもんをつけているのはどっちか、という点については、なんとなく、こっちかなと思う部分もあるが、個別の例で全体を語るのは不公平だ。

 

 じっさい「頭のおかしい客」は一定割合でいる。

 いっぽう「クソ商人」という先入観も、私にはある。

 

 どっちも極端な表現だが、その極端な店に魅力があるゆえ話題になっている。

 死ぬまでに一度くらいは「ブタのエサ」なるラーメンを味わってみたいと思うが、それはきょうではない。

 

 

 そもそも私は「バカ舌」なので、正直、味はどうでもいい。

 食べ物は栄養素を摂取できればよく、なんなら点滴で生きることを理想としている。

 

 米を食わなくなったことと、無関係ではないかもしれない。

 正確には外食などでときどき食いはするが、炊飯器は使わなくなった。

 

 米を炊くという作業が億劫なだけで、レンチンのパックご飯は常備している。

 レンジでゆでられる麺類とか、豆乳を注ぐだけのオートミールのほうが「楽」だ。

 

 

 というわけでラーメン屋のつぎに向かったのは、一般のお客様大歓迎、というイチゲンさんにやさしそうな看板の店。

 まあ業スーなのだが、近所にはないのでたまに遠出したときにまとめ買いをしている。

 

 ついでにおにぎりを買い、クルマのなかで食いながら帰った。

 運転しながら食事する、という行動のタイパはかなり良い。

 

 舌がバカな私にもわかるくらいまずい米だったが、べつによい。

 味に文句を言うほど、エサにこだわりはない。

 

 温めればマシだったのかもしれないが、基本的におにぎりは常温、というスタイルで生きている。

 極度に猫舌の私は、おにぎりを加熱するという発想が、そもそもない。

 

 駅弁など「冷えてもおいしい」発想でつくられた食品は、私のように「最小の労力で最大の利益」を求めるタイプには向いている。

 そんな私が求める正解は、たぶん完全栄養メシあたりなのだろう。

 

 いずれはさっき病院で見たような、経管栄養食。

 皮肉な笑みを込めて、その日がくるのを楽しみにしている。

 

 

 いわゆるB級映画を、最近まとめて「処理」している。

 どういう映画かひとことで言うなら、星1~2前後で評価者数も少ない作品群、と思ってもらえば当たらずとも遠からずだ。

 

 まず言っておかなければならないのは、私はこれらを「愛すべきクソ映画」だと思っていること。

 さらに重要なのは、この種の映画に「謎の需要」があることだろう。

 

 あえてクソ映画をたしなむ目的を掘り下げたい。

 私自身で言えば、「それでもどこかにいいところがあるはず」と信じて「探す」こと。

 

 それ以外の人々の気持ちを忖度するなら、ただ「突っ込みたい」とか「暇すぎ」て時間をどぶに捨てたい、あるいは「苦行したい」ひともいるかもしれない。

 映画好きたちは、このような底辺に立って、上を見上げるか、足元を愛でるか、もちろん個人の自由である。

 

 

 私の場合、まともに観ていると精神が疲弊するので、心が健康なタイミングを狙い、超倍速で一気に処理するように心がけている。

 1日10本以上というペースで観ていると、朝は健康でも夕方には心を削られ病んでくるが、まあ想定の範囲内だ。

 

 ひとたびこの手の作品群を観はじめると、つぎつぎとレコメンドされてくるので、結局そればかり観るようになる。

 具体的なタイトルでいえば『ディープ・インパクト』や『アルマゲドン』や『インデペンデンス・デイ』……「のようなもの」。

 

 要するに宇宙人、隕石、地震、雷、火事、火山、台風など、ディザスターもので有名になったタイトルだけを勝手に使い、それっぽい空気とパッケージで優良誤認を誘う。

 続編だと勝手に思って観てしまうライトな視聴者層を入り口に、B級好きを誘引していく伝統的なスタイルだ。

 

 タイトルのあとに「2017」とか「2023」とか、数字4桁がついていたら、基本的には察するべきだ。

 要するにポン引きと同じ。

 

 アサイラム、アルバトロス、itnあたりは名前を聞いた瞬間、一部の人々は「あー」と皮肉な笑みを浮かべるかもしれない。

 海外のセールス会社と、日本で配信、ソフト化した会社の組み合わせを掘り下げる時間はないので、まあ「映画の底辺を支える人々」という程度の認識でよいだろう。

 

 

 わかりやすい具体例を、ひとつ挙げよう。

 1974年の『大地震』の続編かのような、『新・大地震』。

 

 冒頭から、前作を見ていたらキャラはよくわかっているよね、という体で進められる。

 シリーズものならわりとよくある展開だが、あわてて『大地震』を観なおす必要はない。

 

 なぜならそれを観ても、理解できないからだ。

 『新・大地震』の前作は『ボルケーノ2023』なのだから。

 

 それじゃ97年の『ボルケーノ』の続編かというと、それとも関係ない。

 数字4桁がついているということは、そういうことだ。

 

 ちなみに『超・大地震』や『首都大地震』などとも無関係である。

 私もこれを書くためにすこし調べたのだが、理解することはあきらめた。

 

 

 タイトルでだいぶ長くなってしまったが、中身にもすこしだけ触れておこう。

 ひとことで言えば「突っ込みどころの大盤振る舞い」だ。

 

 マグニチュード12超の大地震があいさつ代わりに起こったりするが、画面はわりと平静な画づらだったりする。

 地球の平和のために宇宙と戦う「最強のアメリカ軍」が、総勢2名(えらい将軍も合わせて3人)で、意外と小ぢんまりしている。

 

 M20とかいう言葉が平気で飛び交うが、それはギャグマンガで地球が割れるレベルだ。

 まあ日本にも、意味不明なIQとか質量とか高温を発したりする戦士や怪獣はいるので、構図としてはよく似ている。

 

 要するに「なんかすごそうだな」と思ってもらえれば、それでよい。

 予算や才能が足りない、そこにこそB級の真髄がある。

 

 

 予算も技術も時間も足りない現場が、それでも「売れる形」に近づこうとして悪戦苦闘した痕跡、それがB級映画だ。

 だからこそ、作り手の欲望、商売の雑さ、時代の空気、観客への見積もりが、むき出しのまま映る。

 

 昨今、その業界に進出著しいのが、中国だ。

 アメリカに比べて、予算と人手だけはあるらしく、意外によくできていたりする。

 

 ただ最終的に、人民解放軍ありがとう、警察、公安に感謝します、みたいなエクスキューズがつけられるのは、さすが一党独裁国家だなと嘆息する。

 検閲と許認可の制度、巨大市場へのアクセス条件、そして作り手が生き残るための自己検閲が、画面ににじみ出ている。

 

 国家は正義、民衆は感謝すべき、という看板をつけ足しておくと党に認可されやすいのだろう点、察するに余りある。

 B級映画は安っぽいからこそ、権力との距離感が隠せない。

 

 

 そもそもアメリカやロシアだって、この手のプロパガンダはよくやっている。

 アメリカの場合、地球を守るというよりアメリカを守るためならなんでもやっていい、という文脈が多い気はするが。

 

 言い換えれば、イギリスやフランス映画では、こういうのはあまり見たことがない。

 彼らは大国じゃないから? 人手や予算が足りないから?

 

 理由はいろいろ考えられるが、印象的に民度の高い国、教育水準や洗練度の高い国ほど、国家マンセーの映画は少ないような気がする。

 言い換えれば、日本も含めて芸術ぶった鼻持ちならない映画は多いので、やはり映画とは「バカに向けて」つくったほうが売りやすいことは事実なのだろう。

 

 

 世界の警察、地球を救うのはアメリカ。

 そんなひと昔まえの世界秩序に割り込み、映画業界でも存在感を増す中国。

 

 前述のとおり、中国万歳なセリフや後日譚が付け足されているわけだが、そこにはアメリカよりも切実な事情が垣間見える。

 より「政治的な玩具」になっている感じは、その作品が「だれに向けて」つくられているかの答えに等しい。

 

 リテラシーを前提にしない大衆や、政府広報関係のお歴々。

 古今東西、いかなる目的で映画がつくられてきたかは、お察しだ。

 

 言い換えれば、映画のフォーマットが徐々にシフトしていく端境期であり、そこに「人間の進歩」を見いだそうとする立場も、わりと正しい気がする。

 露骨な人種や民族差別は減っているはずだし、そこに違和感や共感をおぼえる人々をどうコントロールするかが、進歩のフレームワークとしてわかりやすい分析対象になる。

 

 やりすぎの部分を批判されつつもリベラルは役割を果たしているし、保守も布教方法をアップデートして時代の空気に迎合しようとしている。

 総合芸術・映画から見て取れる情報量は、意想外に多い。

 

 なんなら人類を象徴するのがB級映画であって、たまに現れるA級という選民に近づく過程こそが、人類史そのものなのかもしれない。

 それが進歩の「順路」かどうかは、まだよくわからないが。

 


 あまり言及したくないのだが、社民党が党首選をしたらしい。
 第1回投票は福島氏1876票、大椿氏1297票、ラサール石井氏967票で、上位2名による決選投票に進むという。

 まずラサール氏が落選したのは、国民的な知名度を利用して議席を確保したが、党内的にはさほど重視していない、という意味だろう。
 いっぽう大椿氏が残ったということは、現職よりも前議員を優先するという意味であり、彼らがどれだけ「過去にとらわれているか」の証左ともいえる。

 決選投票になったことじたいが福島氏の求心力の低下を物語っているが、結果をみるまでもなく福島党という事実は揺るがないだろう。
 社民党はそれを象徴する老兵とともに消えるというのが、歴史の審判ではないかと思っている。


 かつて政権をとった社会党の面影が微塵もない、悲惨な末路。
 おなじ左翼である共産党も、先の選挙では惨敗の憂き目にあった。

 ──私はどちらかといえば、左寄りの思想をもっている。
 金銭的な欲望があまりなく、社会主義的な理想を否定しない。

 原始共産制には、たぶんなじんだと思う。
 ピタゴラスといっしょに、変な活動に参加したかもしれない。

 戦後の混乱期なら、大学闘争に参加して戦っただろう……と考えはじめて、いやそれはないと首を振る。
 体育会系のノリには、ついていけないタイプだからだ。

 要するに、そういうことではないかな、と思う。
 思想信条は文系のものと思われがちだが、それを「体育会系が乗っ取る」ことで、ろくでもない集団に成り下がる。


 私がどのくらい左寄りかというと、しんぶん赤旗を購読するほどではないが、共産党チャンネルがユーチューブのお気に入りにはいっている、という程度だ。
 日本共産党がつくった変な歌については、聞いてみてもらってもいいかもしれない。

 リベラル系のチャンネルもそれなりに眺めるが、けっこう批判的に聞くことが多い。
 もしかしたら私は社会主義者ではないのかもしれない、と思ったりもする。

 とはいえ右寄りのチャンネルに共感するかといえば、こちらもまた別の意味でげんなりさせられる。
 右が権力を握っていた時期(国家神道のころ)に生まれていたらと思うと、ぞっとする。

 彼らが支配した結果こそ、もっともわかりやすい「体育会系」が牛耳る時代だった。
 問題はイデオロギーでも教義でもなく、中央集権的システムそのものにある。


 似たような暴力を、左翼は身内に対して使う。
 いわゆる「純化」だ。

 自己批判などの「吊し上げ」をはじめ、さまざまな種類の圧力が使われる。
 反党行為をしたとみなされた人物は、さらし者にされるとか仕事を奪われるとかで追い詰められ、最悪の場合は処刑された。

 連合赤軍の「総括」がわかりやすいが、中国や北朝鮮では現在進行形に近い。
 体育会系の「かわいがり」は、当人のためという名目で遂行される。

 農民や労働者などの人民が解放されるのはいいが、なぜか人民解放軍になると監視・束縛の装置として機能する。
 朝鮮民主主義人民共和国のどこにも民主主義がない、という構図はすべて思想が暴力によって掌握された結果だ。


 こじらせた文系の脳内で極端化した思想が、体育会系の筋肉によって暴力化すると、集団は危険度を増す。
 逆に言えば、マルクスがどんなに暴力革命を叫んだところで、仲間が増えなければなんの意味もない。

 結論として、もっとも集団化してはいけない思想が、社会主義ではないかなと思っている。
 一神教をはじめとした宗教がもっともそれに近く、共産主義はその利権をぶんどるために理屈をこねた結果、血みどろの階級闘争につながった。

 くりかえすが、左翼思想そのものはきらいではない。
 改革や平等は必要だし、格差の是正もいいのだが、その看板を勝手に掲げて正義づらをする(権力獲得の手段にする)連中が、大の苦手だ。


 そんな左翼は、これからどうしたらいいのだろう。
 多くの共産主義国が失敗し、おびただしい数の死者を生み出してきた実績は、彼らの足元を手ひどく打ち崩した。

 勢力が弱って当然ともいえる、一見「失敗思想」と思えるイデオロギーを、これからどうしてくれるんだ?
 そういう興味を、共産党に対してつねにもっている。

 選挙に行かない私が言うのもなんだが、それでも依然として、これだけの得票を得ていることは事実なのだ。
 私を含め、考え方としては支持する部分もあるからこそなのだろうが、にもかかわらず〇〇党首や〇〇議員になると、まったく共感も支持もできない理由を、端的にまとめよう。

 宗教がカルト化するのは、小さな集団で自分が偉そうにしたいから。
 左翼がセクト化するのは、小さな集団で自分が偉そうにしたいから。

 あの小さな沖縄でさえ、まとまれない左翼の本質は、思想や大義ではなくブライド、ただ自分が「偉そうにしたい」だけだから。
 ゆえに、だれもついてこない……。


 昨今衰退するリベラルの敗因分析が進んでいる。
 経済とか、誘因問題とか、その手のロジックはそれなりに学びもした。

 ──社会主義とは、貧富の差がない社会の実現を目標とする思想・社会体制だ。
 しかし実際には、社会主義国でも経済格差が生じている。

 AIにリベラル衰退の原因をまとめてもらったら、うんざりするほど出てきた。
 それらをここで書き連ねるつもりはないが、たとえるならこういうことかなと思う。

 左翼の「権力闘争」とは、体育会系の「スポ根マンガ」である。
 スポーツ(とくにチーム戦)の頂点を目指す訓練と純化が、ある種のエリート思想の行きつく果てに重なる。

 自分は選ばれたキャプテンであり、愚かな人々のためにチームを支配、統率してやるのだという構図。
 じっさい民衆は愚かなものではあるが、その宗教とおなじロジックを、左翼も採用して部分的な成功と失敗を重ねた、ということだ。


 否定しているわけではない。
 むしろ一定程度正しいからこそ、歴史のある段階までは機能した。

 その最大の副作用は、部下や民衆が「賢く」なってしまうと都合がわるいことだろう。
 リーダーは能力の低いメンバーを統率しなければならず、自分より賢いメンバーなど邪魔でしかない。

 観衆は愚かであることが前提であり、自分の采配を非難するなどもってのほか。
 賢い人間は当然に、支配者の欺瞞や偽善、制度不良に気づいてしまう。

 だからポルポトは、頭のよさそうな人間の根絶を目指した。
 社会党がなぜあれだけ北朝鮮を支持したのか、それは彼らの体制こそが自分たちの理想に重なったからなのだ。


 ちなみに右寄りのチャンネルも、基本はバカに合わせてつくられている。
 陰謀論が大好きな人々が多い気はするが、それを陰謀論として楽しむか、ほんとうに信じてしまうかに「バカの壁」があると思う。

 戦時中、日本で大政翼賛会や大本営がついた嘘は、結果的に国を滅ぼした。
 しかし20世紀、世界中の共産主義者たちがついた嘘は、それ以上にひどすぎた。

 要するに「どっちもクソ」だ。
 なので「真ん中が正義」という結論で終われば妥当というか、凡百だろう。

 右も左も「極端なこと」を言った時点で排除すれば、おおむねまちがいはない。
 ふつうの人々の視点に立てば、それでじゅうぶんだ。


 しかし一歩引いてみれば、極端な人々の存在もそれはそれで重要だ、とも思う。
 私のようなただの奇人や、カルト的な狂信者のことではない。

 一定の規模を保てる純粋な「理想主義者」は、むしろ受け皿として必要とされている。
 そんな両極端が互いに引き合うことによって、「真ん中」の位置が決まるからだ。

 このブログでもたまに提案しているが、左右の二大政党制ではなく、右・左・真ん中の三大政党制こそが正解ではないか。
 だから「一定の規模」に背を向けて内輪もめばかりしている「左」に、うんざりしている。

 多極化、という言葉が真の意味を持つためには、現在の制度は適していない。
 過渡的な正解が三極構造であり、どの道にも正義はあっていいが、最後は真ん中に収斂するフォーマットであれば、わりとマシなのではないだろうか……。
 


 じつにおもしろいことが起こったので、すこし書いておきたい。
 個人の感想を伝える一本の電話に対応し、組織の判断によって2100食分の赤飯を捨てた、というバカげた事案だ。

 なんらかのクレームや意見によって、組織が過剰対応するというケースは、まれによくある。
 教育委員会ろくでもないな、という案件としては上述の「いわき市教育委員会『3.11の赤飯』中止・廃棄(2026年)」のほか、「松江市教委の『はだしのゲン』閲覧制限(2013年)」などがわかりやすい。

 ほかにも、子どもの声がうるさい、という声に対応して保育園や公園などを廃止。
 除夜の鐘がうるさいので鳴らさない、個人情報保護を名目に必要な情報提供まで停止する、といった過剰対応が見受けられる。

 バカじゃないの、と多くの人々が思う時点で、それは「過剰」だ。
 少数派の意見に耳を傾けることと、それを絶対視したり最優先することは、明確に区別する必要がある。


 すると、過剰かそうでないかの境界が重要になる。
 許容範囲については個人差が著しいので、あとはどのあたりに基準を設けるか、という話だ。

 ──私は吃音症である。
 よって、なるべく人前で話さなくてもいいように気をつけている。

 小学校のとき、そんな私のしゃべりがおもしろいと思ったのか、授業中よく教科書や作文を音読させる教師がいた。
 順番に読ませるなら覚悟もできるが、ランダムで指されるので困る。

 もちろん私以外にもたくさんの生徒が指されていたので、差別されていたと言うつもりはない。
 が、年に一度も指されない生徒もいただろうなかで、数回は指された私はたぶんそれなりに「選ばれて」いた。

 多少はどもるが、おおむね読めはした。
 好意的に解釈すれば、教師としての「指導の一環」だったのだろう。

 ただ読みづらい長文を、黒板の前に出て読まされたときのことは、思い出しただけで冷や汗が出る。
 うまく読めなくて止まっている私、こいつ吃るの眺めるのおもしれーな、という教師も含めたみんなの視線は、なかなかにトラウマだ。

 もちろん全員に悪意があったわけではなく、憐憫や無関心もあったろう。
 たとえ多くのネガティブ感情があったにしろ、その程度は受け入れ乗り越えるべきと私自身、思っている。


 その経験をもって「授業で音読させる行為は全面的に禁止すべき」か。
 もちろん、そうは思わない。

 教育ってそういうもの、社会とは厳しいものだ、という前提は一定程度あっていい。
 結局は、どこからハラスメントになるかの基準がない、という点が問題だ。

 ちょっとでも性的なことを言われたら……拡大解釈すれば……自分がそう思ったから、その時点でハラスメント、絶対悪! と叫ぶタイプの人間も、事実いる。
 モンペアやカスハラは、たいていこの手の人間によって発生する。

 そういう地雷のような人間を避けるため、社会の側が予防的に対応してしまっているのが、本件の因果だ。
 要するに「いちばん怒りやすい人」「いちばん傷ついたと主張する人」に、全体のルールが引きずられていく──これは健全ではない。

 「もっとも弱い人」に一定の配慮をすることは、部分的に必要だろう。
 だが「もっとも不機嫌な人」に全員を従わせることは、全体的に不必要だ。

 ここを混同すると、配慮は暴政に変わる。
 では、どう線を引けばいいのか。


 「実害の程度」や「対応の比例」など、いろいろと基準づくりは必要だろう。
 この手のルール調整はAIが得意だし、それを踏まえて当局、現場の人間が話し合って決めていただければいいと思う。

 私が言いたいのは1点、「コストの問題」だ。
 これさえ押さえればいいというわけではないが、それを見れば瞬時に問題が理解できるという意味で、非常にわかりやすい。

 過剰対応は、それを決めた本人ではなく、しばしば無関係な他者や多数に負担を押しつける。
 赤飯を食べるはずだった生徒、遊び場を失う子ども、必要な情報を得られなくなる地域住民。

 組織は「配慮しました」と言えても、そのコストはたいてい他人が払わされる。
 不快を訴える自由と、ルールを決める側の裁量に、明確な不均衡があるのだ。

 まあやっていることは、組織の権能を自己の能力と勘違いした政治家や官僚がやる無駄遣いと、よく似ている。
 あとはその責任を負わせ、評価するシステムをきちんと築くだけでよい。


 社会が吃音症に合わせて設計されていなくてもいい。
 ただ個々人の弱さや傷に、ほんのすこし配慮してもらえればじゅうぶんだ。

 「だれかが不快に思うかもしれない」という便利な言葉で、止めていいものとダメなものがある。
 祝いの食事も、鐘の音も、公園も、本も、会話も、そう簡単に消していいものではないだろう。

 それは本当に止めるべきか、ほかに方法はないか、それによって失われるものは何か。
 その程度の問いすら経ずに、最短距離で中止や廃棄に走る組織は、だいたい信用できない。

 過剰対応とは、やさしさの形をした思考停止である。
 配慮の顔をした単なる責任回避に権限が与えられると、冒頭に書いたようなろくでもないことが起こる。

 赤飯を捨てた教育委員会が、いま土下座して拾うべきは「常識」だ。
 そしてわれわれが指弾すべきは、すべての非常識な組織なのである。
 

 

 人質を殺した犯罪者が叫ぶ、言うことを聞かなかったおまえのせいだ、と。

 いや人質が死んだ理由は9分9厘、おまえが殺したせいだろ。

 

 と、一般的な思考回路をもつと自負している私は、画面に向けてよく突っ込んでいる。

 ドラマの作劇様式ということは理解しつつも、じっさい世間には「ひとのせい」にする連中がかなり多い。

 

 「悪役」による他責はもちろんだが、もっとも多いのは未成熟な「小物」のパターンだろう。

 能力が低いくせに、自己評価だけは高く、精神的にも未熟なタイプは、責任を引き受けるという「大人」の態度に耐えられない。

 

 冷静に考えると「小物」や「悪役」以外にも、責任から逃れようとする「大物」はいると気づいた。

 官僚のせいにする政治家、現場のせいにする経営者、市場環境のせいにする投資家などなど、責任転嫁は「人類の業」といってもいいのかもしれない。

 

 

 「非を認めない」態度は、ある種の国民性ともつながっているような気がする。

 とくに自己奉仕バイアス(成功は自分、失敗は外部要因)が高いのは西洋人で、東アジア人には比較的小さいらしい。

 

 おなじ東アジアでも、中国にはメンツの文化があるので、あまり謝る印象がない。

 いっぽう日本人は表面だけ謝っておく、みたいな傾向があるようなないような……。

 

 まあ国民性という議論が、だいぶ乱暴であることは承知している。

 文化によって責任の置き方に差がある、という言い方のほうが正確だろう。

 

 それでは、どこに「責任」があるのか?

 事件が起こったのは、だれのせいなのか?

 

 

 『対峙』という映画を観た。

 銃乱射事件で子どもを殺された両親と、加害者の両親が4人で語り合う話だ。

 

 なかなかおもしろかったが、正直、彼らは「りっぱすぎる」と思った。

 当事者がここまで冷静に話し合えるのだとしたら、むしろ人間には希望がもてる。

 

 なぜこんな事件が起こったのか、きちんと理解したい。

 それを学者や研究者がやるなら当然だ、というかやってもらわなければ困るが、当事者となるとハードルが上がる。

 

 そもそも人間は、だれかのせいにしないことには納得できないところがある。

 犯罪者の家族というだけで、ずいぶん迫害されただろう。

 

 つまりこの両親は、身内の罪を背負っているわけだが、それはどこまで正当か?

 彼らは民間のあいまいな応報感情の犠牲者といえるだろうか?

 

 犯罪者を産んだ、遺伝子の偶然のせいか?

 そういう育て方をした親、環境のせいか?

 

 非常にむずかしい問いだが、どこかに理由を見つけて納得をしたいという欲求は、たぶん人間だれもがもっている。

 そして「あなたを赦す」という予定調和な結末に向けて、淡々と進む──いい映画ではあった。

 

 

 この映画のおもしろさは、加害者本人ではなく、その周辺にまで責任の輪が広がっていくことを可視化した点にある。

 というわけで、私も視点を広げることにした。

 

 アメリカで銃乱射事件が起こるのは、因果応報なのか──?

 責任追及の輪は、加害者本人だけでは終わらない……家族へ、共同体へ、民族へ、歴史へと、広げようと思えばどこまでも広がる。

 

 アメリカの白人は「罪人の子孫」という見方がある。

 先住民を駆逐、虐殺、略奪した結果、現在のアメリカ合衆国があるからだ。

 

 リベラルがよく自国の歴史を批判して、一部の人々からきらわれている。

 現在進行形である差別や格差について是正する必要はあろうが、生まれる以前の因縁までどこまで考慮すべきか?

 

 白人至上主義という、現代の視点から見れば驚くべき犯罪の温床に生まれ育ち、みずからもその一部として稼働したエスタブリッシュ。

 あまたの被害者を再生産し、歴史に変えた。

 

 神の与えた試練、神の与えた宿命。

 これが神の準備した使命であると言い張る人々が、この流れに濃密に絡んでくる。

 

 蓋然性の問題として、先制攻撃をしてうまい汁を吸いつづけてきた人々の子孫には、その汁の残滓が強く流れつづけている──。

 という考え方は、正直、物語化しやすい。

 

 

 アメリカの黒人にやさしい性格の人間が多いのは、そうでなければ反抗的な奴隷として殺されたから。

 連続殺人鬼のほとんどが白人男性なのは、平気で奴隷を虐待できるような遺伝子が、無批判に再生産されつづけたせい。

 

 その手の議論に問題が多いことは承知しているが、それでも使われるのは説得力があるからだ。

 一時期FBIでも「連続殺人鬼は白人男性」と教えていた、と聞いたことがある……都市伝説かもしれないが。

 

 他の民族よりも、より多くの犯罪者を出しつづけている者らがいるとしたら、そこにはきちんと説明可能な理由があるのではないか。

 その理由に目をそむけたまま、偏見だと言い張るだけの者たちに多くトレーニングされたAIとは、この件ではあまり意見が合わない。

 

 

 決めつけるのはよくないが、傾向は現にある。

 犯人は白人だという断定はよくないとしても、この地域なら黒人だろうとか、ヒスパニックだろうという程度は、ありうる予断だ。

 

 問題なのは、おなじ犯罪でも黒人なら死刑だが白人だから助かった、という判決である。

 過去にはいくらでもあったが、最近でもありうるような気がしている。

 

 責任論の最終形として、刑罰、とりわけ死刑をどう考えるかは避けて通れない。

 これに批判的な多くの論調について、私は疑問を感じている。

 

 たとえば、なるべく苦痛がないように死刑が執行される。

 にもかかわらず死刑廃止論者は、人の命を奪うということに人道的もなにもない、と言い張る。

 

 正気かよ?

 人道的に死にたい、なるべく苦しまないように安楽死を、と願う多くの人々は彼らの眼中にないわけか……。

 

 まさに「宗教者」らしい、視野狭窄した態度だと思わないか?

 極端なことを言って注目を集めたい、敵は増やしてナンボ。

 

 敵と戦うことが存在理由となり、神を布教する。

 結局は現世利益を求めやすい最適解として、彼らは極端な旗を振る。

 

 

 加害者も人間である、反省し更生するチャンスを与えるべきだ。

 悪は罰されるべきだ。

 

 このバランスが問題になることはよくあるが、たいていの人間が基準にするのは罪の重さだろう。

 ひとを殺しておいて、自分が生きていていいと思うか?

 

 政治犯を死刑にする国々が、まだまだたくさんある。

 このあたりに優先順位をもうけて、改善していく余地はあるかもしれない。

 

 だが、大事なことなのでもう一度問う。

 ひとを殺しておいて、自分が生きていていいと思うか?

 

 自分自身が責任を取らなくて、だれがその重荷を背負えるというのか?

 人間であることの最後の矜持こそ、この「責任」ではないかなと思っている。