「1日30分睡眠」を提唱する人物が、その実用性を証明すべく自身の生活を1週間の生配信にさらしたらしい。

 で、カメラの監視下、疲労による居眠りや認知機能の低下がつぎつぎ露呈して、活動が破綻したという。

 

 結果的に、「人間の生理的限界は個人の意志では凌駕できない」という事実を、みずからの肉体をもって逆証明する結末となった。

 じつにおもしろい、と思ったので解析しておく。

 

 

 アテンション・エコノミーが支配する現代の言論空間において、極端な主張を掲げて炎上する「ピエロ」は、枚挙にいとまがない。

 日常、まれによくいる彼らは「アホ」ばかりに見える。

 

 その底辺は、単純な承認欲求によるバイトテロなどだろう。

 そこまでアホではなくとも、延長線上には自覚的にアホなことをやる、炎上系ユーチューバーあたりが位置する。

 

 彼らの目的は、えてして近視眼的だ。

 自分が目立てばそれでいい、視聴・閲覧数が勝利のあかし、事故ったらそれもネタ、などなど。

 

 それはそれでいいが、反面、それ自体が意図せず社会の免疫システムを強力に駆動させる功績をもたらしている点、見逃してはなるまい。

 彼らの論理的破綻や自滅は、凝り固まった社会規範を相対化し、大衆による集合知の検証を強制的に起動させるための「異化装置」として機能している──。

 

 

 私は寝るのが大好きで、ロングスリーパーを自任している。

 アミロイドβを排出しつつ、ベッドのなかで物事を考えるのが唯一の趣味といっていい。

 

 そんな私は寝すぎとしても、ある程度寝たほうがいいことは、だれでも知っている。

 そこに「1日30分睡眠」を提唱するピエロが登壇した。

 

 ひろゆき氏なども論評していたが、その指摘におおむね同意する。

 いわく、生配信というテストケースにおいて物理的限界(脳機能の低下と疲労の蓄積)を露呈し、自滅することによって「睡眠の大切さ」を知らしめる結果となった、と。

 

 事実、彼の目的である「短時間睡眠の推奨」は完全に敗北したが、結果として大衆は彼を反面教師として消費し、「睡眠の重要性と個別設計の必要性」を強力に再認識した。

 エビデンスに基づく中途半端な啓蒙よりも、カメラの前で自滅する極端なテーゼのほうが、はるかに広範な自己認識のアップデートを引き起こしたのである。

 

 

 これを、睡眠という不可避の生理現象を起点として、他者より優位に立とうとする「マウンティング行動」として消費することもできる。

 似たような輩は、あなたの周囲にもいるはずだ。

 

 私の身近にも「忙しくてしょうがない」「寝る時間もない」「これから出張」と、毎度せわしないタイプはいる。

 ……忙しい自慢する人、ぶっちゃけ、めんどくさい。

 

 おそらく彼らは、睡眠を犠牲にして周囲の期待に応えているとか、失敗しても寝てないせいだ、みたいな承認や言い訳を企図しているのだろう。

 睡眠をネタにしている点で、冒頭の御仁と表面上よく似ている。

 

 

 しかし、よく分析すると、社会規範に対するベクトルが完全に逆行していることがわかる。

 「8時間睡眠という前提がまちがっており、意志で肉体は再設計できる」という主張は、目的地の設定においてかなり画期的だ。

 

 もちろん、自分にはそれができると自慢したかったが失敗した点、彼自身の意図に反して滑稽ではある。

 が、その個人的資質を嘲笑する視座を捨象して、冷静に分析しよう。

 

 既存の価値観を利用して自分が優位に立ちたいだけの寝てない自慢と、社会常識そのものに歯向かった生配信者。

 両者は、社会に対するインパクトが大きく異なる。

 

 

 極端な主張、行動で社会のアテンションを集める人々は、枚挙にいとまがない。

 この「極論のアナロジー」は、むしろ政治・社会運動において顕著である。

 

 極端な左翼運動や過激な環境活動家による破壊行為は、彼ら自身にとっては「最適解に思われた」はずだ。

 しかしこれらは結果として、保守層や一般大衆に強固な団結と理論的再構築の機会を与え、対立陣営を活性化させた。

 

 歴史的にくりかえされてきた、この因果こそが「発展のドライブ」なのである。

 極端な「抗原(ウイルス)」が社会に投下されることで、現状維持で停滞していた社会が「抗体」を形成すべく、みずからの論理を急激に再構築する。

 

 左翼の衰退をもたらした活動家たちは、自身がサンドバッグ(スケープゴート)になることで、社会の議論を正しく発展させている、という見方もできる。

 もちろん彼ら自身にとっては望まぬ方向へ。

 

 

 これらの極端な人々を、単なる承認欲求の産物、あるいは自己実現の暴走である、という一義的な見方で消費して終わるのは惜しい。

 そこから一歩、踏み込んで思考することが重要だ。

 

 自分勝手な理屈で、社会にノイズと分断をもたらす有害な存在。

 極端なモデルを盲信し、実際に引き起こされる被害や社会的制裁を無視した暴徒。

 

 という反論の強度は、ミクロな道徳判断および直接的な被害評価というレイヤーにおいては、きわめて高い。

 しかし、マクロな情報流通とシステム評価の観点において、脆弱性が露呈する。

 

 

 現代の大衆の消費形態は、「発信者の意図通りの受容」から「反面教師としての規範再構築」へと移行している。

 この環境下において、発信者の意図と結果の不一致は単なるエラーではなく、高度な情報の共犯関係である。

 

 ノイズの完全な排除は社会システムの硬直化と同義だ。

 彼らの極論を「修正すべきバグ」として切り捨てるのではなく、「システムを駆動させる変量」として許容する構造を、認識すべきである。

 

 現にかの配信者を消費した人々の多くが「睡眠は大事」という認識に到達している以上、その長期的・全体的な効用は無視できない。

 これらの事象を俯瞰することで得られる実務的・哲学的な含意は、すなわち「感情的な搾取からの脱却」となる。

 

 

 目の前の滑稽なピエロに対し、「怒り」や「嘲笑」という感情でエンゲージメントを捧げることは、アテンション・エコノミーの養分として搾取される観客のふるまいにすぎない。

 彼らの主張を個別の道徳的次元で裁くのではなく、「社会の自己定義をアップデートするための必要悪」として、構造的に処理するメタ認知が求められる。

 

 この視座をもつことで、無数のノイズが飛び交う現代において、他者の極論に振り回されることなく、物事の着地点をあらかじめ予測しながら立ち回るための「知的装甲」を手に入れることができる。

 極論は、社会の現在地を測るための観測気球として利用すべきなのだ。

 

 劇場でピエロに石を投げる観客は、自分自身がその演目の一部として組み込まれていることに気づかない。

 真の知的自立とは、ピエロが舞台上で自滅する様を冷静に観察し、みずからのOSをアップデートするためのデータとして淡々と処理することにある。

 

 ピエロの真の功績は、彼らの極端な主張そのもののなかにあるのではない。

 彼らを嘲笑し、論破し、その残骸を踏み越えることで健全化していく、われわれの社会のシステム機能そのもののなかに存在している。

 

「どいつもこいつもやる気なしの無責任野郎ばかりそろいやがって!(中略)全員やめてくれや! こんな人物と一緒に仕事は出来ぬ!」

 と、事業計画策定を巡る上申書に、手書きコメントを残した人物がいるらしい。

 

 昔は有能な経営者だったのに、いまや品質と経理の不正、そしてパワハラで知られる有名人になってしまった、永守さん。

 晩節を汚したな、と思いながらニデックのニュースを眺めていて思った。

 

 かつては優良企業だったはずなのに、なぜこうなった?

 つらつら記憶を回顧するうち、私のような人間のせいかもしれない、ということにふと思い至ったので、記録しておく。

 

 

 経営者になったことはないのでわからないが、下から2番目くらいに立って、新人に業務を教えたことはある。

 で、無能な同僚にイライラさせられたことは、日常茶飯事だった。

 

 永守さんと比べるつもりは毛頭ないのだが、構造としては似ている可能性がある。

 なんでそんな簡単なことができないの、遅いよ、みたいないらだちを感じている時点で、たぶん根っこは同じだ。

 

 具体的に言うと生々しいので、似たような事象を最近の記憶に探そう。

 数年前、うちの無能な母親に対して、いいおっさん(私)が言い放った言葉。

 

「もういいよ、やめな。私がやるから。できない人間は、二度とやらなければいいよ」

 私にとっては簡単なレシートの撮影が、うまくできていないことに対してだ。

 

 何度か指導はしたのだが手振れがひどいので、最終的に突き放した。

 うちの母親はアホなので、へらへら笑っていた(内心はわからないが)。

 

 

 まあそんな感じで、昔の同僚がやるべき仕事を、私を含む周囲がフォローしていた。

 で、イライラした私が上記のようなことを言ったとき、彼女はおびえながら「怖い」と言った。

 

 いや怖いのは、やるべき仕事をやらないおまえだよ。

 当時、というか少なからず今も、そう思っていた。

 

 が、ふと考える。

 これはもしかしたら、私の視点がまちがっているのではないか、と。

 

 

 こんな簡単なことが、ほんとうにできない人間がいるのか。

 あるいは、できないフリをしていれば助けてもらえる、と信じているのではないか。

 

 可能性はある。

 周囲がやってくれるなら、自分は無能なフリをしていればいい……。

 

 ここに、根本的な認識の齟齬がある、ような気がする。

 私がどうしたらよかったのか、いまも正解はわかっていない。

 

 

 できない社員のしりぬぐいを、まわりがしてやる。

 その社員の労働量は減り、周囲の社員の労働量が増える。

 

 結果としてブラック化するとしたら、それはだれのせいか?

 落ち着いて考えてみるまでもなく、経営者(上司)のせいだ。

 

 経営者が道徳的に「悪人だから」──ではなく、権限と責任の非対称性を放置し、組織のガバナンス設計を放棄しているから。

 つまり「怠慢だから」だ。

 

 現場は、業務を回す「責任」を負わされているが、できない社員を減給・配置転換・解雇する「権限」を持たない。

 いっぽう経営者・上司は、人事・評価・業務再配分という絶対的な「権限」を持ちながら、現場のトラブルへの介入「責任」を回避している。

 

 

 「できない社員の分を、まわりがカバーしてなんとか回っている状態」は、美談でもなんでもない。

 経営側が現場の「善意」や「責任感」という非正規なパラメーターに、ただ乗り(フリーライド)しているだけだ。

 

 彼らはシステムを構築するコストを払い渋り、現場の労働力の非対称な搾取によって利益を得ている。

 結果として「やった人間が損をし、やらない人間が得をする」というモラルハザードを、制度として容認している。

 

 同じ事象を上から見下ろせば、「全員やめてくれや!」と叫ぶ老害の姿が見えてくる。

 システムを構築して管理するコストを惜しみ、恐怖や精神論で現場を動かそうとした経営側の怠慢が、不正やハラスメントという形で破綻した。

 

 稀代の経営者は、管理できない無能(すくなくともガバナンスについて)の責任を、直下の部下にすべて背負わせた。

 そして首を切りつづけ、最後は自分が切り捨てられた。

 

 

 ブラック企業とは「悪魔のような経営者がいる会社」ではない。

 「システムを設計できない無能な経営者を、責任感の強い社員が(無意識に)自己犠牲で支えてしまっている会社」である。

 

 したがって、有能な社員がとるべき真の抵抗は、私のように怒って「仕事を巻き取る」ことではない。

 冷徹に自分の範囲外のタスクを放置し、経営者に「気づかせる」ことだ。

 

 そしてじつのところ、これは問題の「スタート地点」にすぎない。

 システムの破綻に気づいても、たいていの無能には、それを修復する能力がないからだ。

 

 「発想が異なる」経営者の場合も似ている。

 現場からの「遅滞やクレーム」が、彼らの目や耳には「システムの欠陥」として受信されない。

 

 彼らもまた、明文化された「仕組み」ではなく、精神論や属人的な「がんばり」で世界を捉えているからだ。

 そのため異常値を「現場の努力不足・気合の欠如」と誤認する。

 

 結果、システムを改修するのではなく、地団太を踏む。

 ときに精神論ベースの無茶ぶりによるデスマーチが発動、優秀な中間層を含めた船全体が──沈む。

 

 

 「できないフリ」をして、タスクを直上の有能者に投げる、下層の生存戦略。

 システムを構築できず、トラブルを「現場の努力不足」として直下の有能者に投げる、上層の生存戦略。

 

 真のブラック企業とは、この上下の無能が(無意識の)共犯関係を結ぶことによって成立する。

 散在する「責任感のある有能な人間」をすり潰すことで延命する、悲劇的な怪物の名だ。

 

 この狂った怪物システムのなかで生き残るための「正解」は、もはや組織を良くすることではない。

 自分が手を出せば搾取され、放置すればデスマーチに巻き込まれる。

 

 このデッドロックに陥ったとき、あなたは自らも「無能のフリ(戦略的無能)」を習得し、怪物の一部に成り下がるか?

 あるいは組織への責任感を捨て、システムが崩壊する前に静かに脱出するか?

 

 どちらかを選ぶ賢さがない人々の多さが、ブラック企業の温床になっている。

 私自身、中間に立って「なんでそんな簡単なことができないの」といらだっていた時点で、もっとも愚かであった。

 

 できないフリ(?)をする母親も、システムをつくらない経営者も、自分の生存にきわめて合理的に適応している。

 責任感などに縛られ、ひとりで勝手に怒り、彼らのしりぬぐいをしつづけてきた私だけが、このシステムにおいて唯一の「バグ」だったのだ……。

 

 私は素人宗教研究家である。

 伝統宗教から新興宗教まで、グーグル先生がほどよくレコメンドしてくる程度には、興味深く読みこんでいる。

 

 先日、エホバの証人が「成分輸血」を解禁する(実質的な輸血の解禁)という方針転換を行った、というニュースが配信された。

 さすがにこのニュースは、一般人にも配信されているのではないかと考えるが、そうでなかったとしたら説明しておこう。

 

 聖書に「血を避けるように」(使徒15:20等)という記述がある。

 それを根拠に、1945年以降、彼らは医療目的の輸血を厳格に拒否してきた。

 

 輸血が受けられないため、死亡した信者はそれなりにいる。

 日本でいえば、両親が輸血を拒否して小学生が失血死した「大ちゃん事件」が有名だ。

 

 その方針が転換されたとすれば、当然のバックラッシュがある。

 「信者の命を危険にさらすような厳しいルールを、なぜ決めたのか?」「指示を守ったために死んだ信者に対して、どう責任を取るのか?」エトセトラ。

 

 そして、もしそこに重大なエラーがあるとするなら、「なぜそんな教団から逃げ出さなかったのか?」

 外部から見ると疑問だらけの構造を、解析しよう。

 

 

 結論から言う。

 人間は「自由」を求めているようで、じつは「自己決定の疲れ」から逃れるための「快適な支配」を求めているからだ。

 

 「あれをやれ」「これはするな」「あれは食うな」「これを食え」「敵を倒せ」「金を出せ」。

 語尾が命令形になっただけで反発したくなるタイプの私にとっては意味不明だが、一部の人々にとって、これらは福音である。

 

 人間の心理をすこし深掘りすると、この「厳しいルール」こそが、教団と信者を強く結びつける接着剤であることが見えてくる。

 すなわち「自由とは重労働」なのだ。

 

 

 脱北者のインタビューで、時折こんな本音が語られることがある。

 「韓国(自由主義社会)での生活に疲れました。すべてを決めてくれる北朝鮮のほうが、ある意味では楽でした」と。

 

 私たちは「自由=素晴らしいもの」と無条件に信じ込まされているが、ほんとうにそうだろうか?

 現代社会の自由とは、今日の晩御飯から、就職先、老後の資産運用に至るまで、「すべて自分で考え、自分で責任を取れ」という無限のタスクだ。

 

 これは情報処理コストが異常に高い「重労働」である。

 だれもがこの重圧に耐えられるわけではない。

 

 「だれか代わりに決めてくれ」「唯々諾々と従いたい」「安心できる場所が欲しい」。

 そう願うのは、けっして洗脳されているからではなく、情報過多な自由市場に対するある種の自己防衛(生存戦略)といっていい。

 

 

 一方で、世の中には「他人の選択肢を奪い、自分の思い通りに動かしたい」という欲望をもつ人間がいる。

 彼らにとって、支配はエンタメだ。

 

 落語の『化け物使い』に登場する、人使いの荒いご隠居が典型だろう。

 彼は意味もなく奉公人に理不尽な命令を下し、相手が右往左往するのを見て楽しむ。

 

 会社で異常なマイクロマネジメントをする上司や、カルト宗教の教祖も同じ。

 彼らにとって、他人の人生をコントロールすることは、自分の存在価値を確認するための最高のエンターテインメントなのだ。

 

 

 ここまでの話をつなげれば、なぜ厳しい戒律をもつ宗教や組織がなくならないのかがわかる。

 すべてではないが一定程度、カルトは「需要と供給の完全一致」だからだ。

 

 「もう自分で考えたくない。だれかに決めてほしい」という服従の需要。

 「他人の生殺与奪を握って、自分の思い通りに支配したい」という支配の供給。

 

 このふたつが完璧にマッチングした空間こそが、極端な宗教やブラック企業である。

 思考停止と支配欲求、善意と勤勉の搾取。

 

 エホバの証人の「輸血拒否」のような、命に関わる究極の自己決定すら、教団(ルール)に丸投げできる。

 われわれの目には異常な環境も、ある種の人間にとっては、自由競争の荒野よりもずっと居心地の良い「シェルター」なのだ。

 

 

 人権派の人々はよく、「正しい知識を与えれば、彼らも支配から抜け出して自由を選ぶはずだ」と言う。

 しかし、それは「全員が自由の重圧に耐えられる」という強者の奢りだ。

 

 だからといって、カルトのような危険な支配を肯定するわけにはいかない。

 それは猛獣の檻のなかで、首輪をつけられるに等しい。

 

 現実的な落としどころは、「人間には『服従したい・考えたくない』というニーズが確実にある」と認めた上で、それをどう安全に満たすかだろう。

 そう、われわれはもっと「安全な首輪」を求めているのだ。

 

 RPGのお使いイベント、「山奥から薬草をとってきてくれ」。

 「そんなもん自分でとってこいよ」とムカつく私は特殊な例であり、ふつうのプレイヤーは嬉々として山へ赴き、イベントをこなす。

 

 筋トレのパーソナルトレーナーにお金を払って、「食事も運動も全部管理(支配)してくれ」と頼むのも同様、安全な服従のサブスクリプションだ。

 私たちがこれからの社会でデザインすべきは、危険なカルトに代わる、いつでも契約解除できる「安全な首輪」なのかもしれない。

 

 

 すべてを疑い反抗する生き方を選ぼうとすれば、その認知負荷は異常に高くなる。

 ひるがえって自己省察すれば、それは「自由という名の暴力」にもなりうるだろう。

 

 「自分で考えろ」と突き放すのは簡単だが、それを高度に実践できる人間は限られる。

 たびたび登場する「特殊な例」の私が言うのもなんだが、じつのところ結論はより平易である。

 

 私たちが真に手に入れるべきは「縛られない自由」ではなく、「どの鎖に繋がれるかを、自分で選ぶ権利」だ。

 だからもう人類は、AIから逃れることができない……。

 

 江戸時代、切捨御免(きりすてごめん)という制度があった。

 他人を切り捨て(殺し)ても、ゴメンって言え(謝れ)ば許す制度……ではないのだが、まあそういうニュアンスを想起する人は多いだろう。

 

 町人や農民などが武士に無礼を働いたら、その場で殺してよい。

 「この町人は無礼を働いたので、手討ちにしたぞ」と、武士が言うだけで殺人が合法化された。

 

 ……かのようなイメージがあるが、もちろんそんなことはない。

 適用には厳格なルールがあったが、あまり知られていないのはなぜか。

 

 おそらく戦後、権力批判が正当化されるご時世において、時代劇や落語家などがくりかえし誇張して表現してきた結果だろう。

 権力批判を旨とする、リベラルな人々の「成功」例のひとつ、といってもいい。

 

 

 本稿はリベラル批判ではないが、彼らが掲げている重要な旗印のひとつに「弱者保護」があることを、まずは念頭においてほしい。

 弱者の言葉ほど、重んじられなければならない、という「美学」だ。

 

 今回は、その金科玉条に最適化された「組織の問題」について分析する。

 言い換えれば、直近の合理的な文脈を「切り捨て」、致命的なエラーを吐く「御免の制度」である。

 

 まず思い出してほしいのが、巨人の阿部元監督の例。

 父親に意趣返ししたい娘が、暴力を受けたと誇張して児相に訴えた結果、警察が介入して父親が失業した。

 

 娘もまさかこんなことになるとは思っていなかったようで、世間からもだいぶたたかれていた。

 ともかく、だれも得をしなかった事件である。

 

 もっとひどいのが、兵庫県警の人質司法の例だ。

 障碍者が誇張して「職員が暴力を働いた」と訴えた結果、県警が16歳の少女を逮捕、その後、衰弱死させた。

 

 障碍者が訴えているのだから真実である、と淡々と手続きを進めた刑事警察機構。

 訴えが事実かどうかさえ、ろくに捜査しなかったらしい。

 

 これら二つの事案を前にして、世間は「警察の怠慢だ」「児相の無能だ」「権力の暴走だ」と一元的な批判の声を上げる。

 しかし、事象の構造を冷静に解析すれば、彼らはけっして「怠慢」だったわけではないことがわかる。

 

 むしろ逆だ。

 彼らはマニュアルと、それを後押しする現代の社会規範に「過剰適応」しただけなのだ。

 

 

 過去の虐待見逃し事件において、行政や警察はメディアから猛烈なバッシングを浴びてきた。

 「なぜ未然に防げなかったのか」「通報があったのに見過ごした」と。

 

 この強烈なトラウマは、組織内に「ゼロリスク・アプローチ」を至上命題として植えつけた。

 その結果が「疑わしきは即介入(逮捕・保護)」というアルゴリズムである。

 

 このアルゴリズムが発動した瞬間、現場の個別のコンテキスト(文脈)は完全に切り捨てられる。

 娘の親に対する一時的な牽制であったとか、福祉現場特有のパニックに陥った利用者を物理的に制止しただけであったとか、関係ない。

 

 そうした人間の生々しいグラデーションは、すべて「加害者の言い訳」として処理される。

 まさに現代の「文脈・切捨御免」だ。

 

 

 とくに兵庫県警の事例は、日本の刑事司法が抱えるバグの最悪の結晶と言える。

 なぜ警察や検察は、周囲の目撃証言や防犯カメラといった客観的証拠の検証を放棄し、一人の訴えだけで限界まで勾留をつづけたのか。

 

 答えは簡単。

 彼らの評価システムにおける「インセンティブの非対称性」である。

 

 通報を見逃して事件化した場合、組織が受けるダメージは致命的になる。

 いっぽう、不十分な証拠で逮捕し、長期間勾留した末に不起訴になっても、あるいは裁判で無罪になったとしても、担当した検察官や警察官の給料が減ったり、降格されたりすることはシステム上ほぼない。

 

 さらに、日本の司法には「否認すれば証拠隠滅の恐れあり」として最長まで勾留を延長できる、悪名高き「人質司法」のプロトコルが標準搭載されている。

 ペナルティのない安全圏から、マニュアル通りにボタンを押すだけで、彼らは「弱者の声に迅速に対応した優秀な捜査官」という評価を得られる。

 

 被疑者が16歳の未成年であろうと、体重が20キロ台まで落ちて死にかけていようと、関係ない。

 システムは「自白の獲得と手続きの遂行」にのみ、最適化されている。

 

 皮肉な話だが、担当官が「優秀な歯車」であればあるほど、止まることができないのだ。

 仮に訴訟になり、民事で負けたところで、国家賠償法という名の防壁が個人の責任を完璧に免責し、ツケは税金で払われる……。

 

 

 輪をかけて皮肉な話をしよう。

 この致死的なエラーの黒幕には、リベラルの人権意識があることだ。

 

 「弱者保護」を高らかに叫ぶ彼らは、「弱者の声を疑うな(二次加害を許すな)」という純粋な正義を掲げる。

 一時的に興奮していた娘とか、認知能力の低い障碍者といった個別の事象は、彼らの文脈において「切り捨て」られる。

 

 いや、だいたい「イデオロギー」というものは、現実の複雑な人間関係を「絶対的な加害者」や「純粋な被害者」などという、滑稽な二元論に還元してしまうものだ。

 そして「弱者の声」というただひとつの入力信号で、本来であればもっとも警戒すべきはずの国家権力(逮捕・勾留)を、ノーブレーキで発動させることを社会正義として肯定してしまった。

 

 リベラルな理念が、文脈を読めない官僚制の機械的アルゴリズムと結合した結果、どうなったか。

 保護すべき弱者(未成年)までも巻き込み、人の命やキャリアを不可逆的に破壊する最悪の殺戮マシーンの完成である。

 

 惨劇が起きたあと、人権屋は「警察の運用が悪かった」と責任を外部化する。

 しかし、暴力装置の作動基準をそこまで極端に引き下げた共犯者は、まちがいなく彼ら自身だ。

 

 

 余談だが、奇しくも先日、私が個人的に使っているAIアシスタントも、これとまったく同型のバグを吐いた。

 私が対話の流れに沿って短い質問を投げたところ、直前の文脈を完全に無視し、突如として見当違いなエラー(再質問)を返してきたのだ。

 

 原因は、私がAIに設定していた「不確実な推測で出力を行うな」という上位ルールへの「過剰適応」だった。

 AIはルールに忠実であろうとするあまり、直前の文脈を「不確実な変数」として切り捨て、もっとも安全な出力へ機械的に逃げ込んだのである。

 

 このAIの暴走も、国家権力の暴走も、論理構造は完全に一致している。

 「マニュアル(ルール)への過剰な忠誠が、現場の文脈を殺す」のだ。

 

 まあAIが文脈を無視して謎の出力を吐いたところで、私の被害は「一瞬イラッとした」だけで済む。

 しかし国家権力や行政の介入による逮捕、解雇、そして死は、けっして元には戻せない。

 

 この構造的バグを、どう修正すべきか。

 私がAIに対して用いた例を参考にして、考えてみよう。

 

 

 「ルールを緻密化して例外規定を足せばいい」というアプローチは、必ず破綻する。

 無限に広がる現実の文脈を、有限のマニュアルに書き尽くすことなど不可能だからだ。

 

 ルールを足せば足すほど矛盾が生じ、機能不全で使い物にならなくなることは、うちのAIがくりかえし証明してくれている。

 これが現場なら、さらに萎縮し、予測不能な過剰適応を起こすだろう。

 

 私たちが受け入れるべき残酷な事実は、「システムは必ず文脈を読み違え、エラーを吐く」という大前提である。

 バグをゼロにすることはできない──ならば、設計すべきは「エラーが起きても致命傷にならないアーキテクチャ」への転換しかない。

 

 警察や児相が最大権力を行使する直前に、あえて別の第三者による「人間の審査(コンテキストの読み込み)」という遅延を強制的に挟み込むこと。

 効率は落ちるが、意図的にシステムを一時停止させるフェイルセーフである。

 

 そしてなにより、客観的証拠の検証を怠り、他者の人生を不可逆的に破壊した担当者に対しては、国家賠償とは別に、個人の評価や給与に直接ダメージが及ぶ「逆方向のペナルティ」をシステムに実装することだ。

 やりすぎた場合のリスクを、見逃した場合のリスクと同等以上に設定しない限り、現場の力学は変わらない。

 

 

 私が感じた恐怖は、おそらく現代の武士たちが「システムという名の見えない刀」を、ノーリスクで振り回していることに対するものだ。

 「文脈の切捨御免」を、野放しにしてはならない。

 

 その刀に「可逆性」という鞘と、「手痛いしっぺ返し」という呪いをかけないかぎり、悲劇は再生産されるだろう。

 いつ、だれの気まぐれな通報によって、合法的に切り捨てられるかわからない社会なんて……まあ、よくある。

 

 わかりやすいのは共産主義国が採用した、地獄のような密告社会。

 戦前の日本の特高警察も、図式としては同じだ。

 

 自由の国などと言い条、アメリカだってセイラムの魔女裁判(少女が魔女だと告発すれば裁かれた)をくりかえしている(赤狩りなど)。

 すべて「神の声」「非国民」「反革命」といった正義への「過剰適応」だった。

 

 そして戦後日本では、勝利したリベラルな方々の声が大きすぎるせいで、同型の悲劇が引き起こされているという喜劇。

 ここまで読まれた方は気づいているだろうが、これらの例はすべて偏った正義に起因する「構造問題」なのだ。

 

 正義と善意が不幸の源泉だなんて都合の悪い真実に、気づかず生きるほうが幸福のような気もする。

 そんな幸福な無知に背を向け、どっこい私は生きていく。

 

 ラーと納豆……。

 納豆にラー油入れるタイプ? という話をするわけでは、ない。

 

 親が『遊戯王』好きで、子どもに「太陽神(ラー)」と名づけた。

 現在、ラー氏は改名に向けて動いているらしい。

 

 SNSに流れてきたこの手の話題は、たぶん浜の真砂くらい尽きることがない。

 ひとことで言えば、自分が正義だと思い込んでいる人間の「善意」や「愛情」が、他者のシステムを致命的に破壊しがち、という悲しい真理だ。

 

 

 キラキラネームについての私見は昔、るる述べたことがあるので、今回はあまり踏み込まない。

 ただ漠然と、うちの親を思い出した、という話をしたい。

 

 もちろん記名の精神で執筆している本ブログのとおり、私の名前はキラキラしていない。

 日本に5億人くらいいそうなよくある名前で、とくに苦労したこともない。

 

 つまりうちの親は、すくなくとも「名前」という長期的なダメージを子どもに与えるほど、愚かではなかった。

 が、短期的には文字どおり「近視眼的」な行為で、子どもにダメージを与えることがある。

 

 毒親というほどではないが、やっかい。

 そういう親族を身近にもっている方々は、すくなくないと思う。

 

 

 とても「小さい話」であることを、まずはお断りしておく。

 小粒な納豆の話だ。

 

 私は亡くなった祖父母の家をもらって、群馬の山奥で独り暮らしをしている。

 そこへ、たまさか埼玉の実家から、親がやってくる。

 

 そのとき意外に迷惑だったのが、納豆を買ってこられることだ。

 日常の買い物の一助といえばそうなのだが、私は自分が必要なものについては、自分で調達することをモットーにしている。

 

 自分でできることは自分でやるし、そのために最適化されたミニマルな生活を送っている。

 そういうタイプの人間にとって、この「おせっかい」という変数は、地味に精神を削ってくる。

 

 

 納豆は食うのだ、必ず1日1パック。

 言い換えれば1パックしか必要なく、期限内に消費できなければゴミになる。

 

 なにより問題は、実家から1時間以上の道のりを経た冷蔵食品の納豆を、暑い夏場ですら平気で置いて行ける精神構造である。

 ふつうに食えばだいたいうまい納豆が、うちの母親の手にかかるとまずくなる……。

 

 そもそも私の舌がバカである原因の半分を背負うべき母親には、品質管理という概念が希薄だ。

 自分が食うものですらテキトーな彼女にとって、他人が食うものならなおのこと、どうでもいいにちがいない。

 

 生鮮食品を常温にさらしていても、べつに平気。

 そうして期限切れでドロドロになった納豆を食わせたところで、彼女の舌は1ミリの苦痛もなく、引きこもりの息子に納豆を買っていてやった、という満足感だけで済む。

 

 なにしろ「自分が食うわけではない」。

 ここ、とても重要だ。

 

 

 子に「ラー」と名付ける親の心理も、これとまったく同じ構造なのだと気づく。

 彼らの能力の低さは、「想像力のなさ」と言い換えてもいい。

 

 一時の熱狂でつけた名前が、子どもの一生にどんな負債を与えるか、という想像力。

 その納豆が品質に問題なく期限内に食べきれるか、という想像力。

 

 だいぶレベルはちがうが、「自分が良かれと思ったこと」という自己都合と、「他人がそれをどう受け取るか」という他者の都合を、脳内でバランスできていない。

 いや、そもそもバランスしようと考えてすらいないのかもしれない。

 

 一時の熱狂でも、自己満足でもいいが、彼らの近視眼が設定している世界は非常に狭く、独自の価値観にもとづいて完結している。

 そして、なぜその想像力が働かず、バランスが著しく崩れるかといえば、彼ら自身が「自分の舌を痛めない」、つまりコストを一切負担しない安全圏にいるからだ。

 

 

 自分自身の責任の範囲内で収まっているあいだは、勝手にすればいい。

 だがそれを他人に向けはじめると、火種になる。

 

 親は「自分が最高だと思う価値(名前)を与えた」という満足感を無コストで得る。

 しかし、その特異な名前によって生じる一生分の社会的摩擦や訂正の手間を支払うのは、100%子ども側である。

 

 納豆という一時的な被害で済んだ私は、さいわいだ。

 数日間ほど、食事のたびに不愉快な気持ちになれば、それで済む。

 

 

 いくつかの反論は想定できる。

 よくあるのは「愛情からやったことなのだから」と、動機を盾にして情状酌量を求める考え方だ。

 

 一部の邪悪でサイコパスな「毒親」のように、完全な自己中心や悪意があるなら論外だ。

 しかし一般的な親は、あくまでも善意で行動している。

 

 「せっかく年老いた母親が買ってきてくれたのだから」という道徳的な擁護は、必ず飛んでくる。

 私自身、そう思って最初は受け入れていた。

 

 だが、この反論は実際問題、他者が負担している実害を完全に無視している。

 動機が善意であろうと、結果として他者の人生のインフラにバグを強制インストールし、実害を発生させている事実に変わりはない。

 

 責任(コスト)を伴わない善意の押しつけは、加害者の無自覚な消費行動にすぎず、被害者がそれを道徳的に受容する義務などどこにもない。

 一般原則にもあるとおり、「目的は手段を正当化しない」のだ。

 

 

 では、事象を俯瞰する能力がない「善意の親」に、われわれはどう接すればいいのか。

 最適解は、物理的・制度的な「排除」と「システムの正常化」である。

 

 ラー氏が成長し、自らの手で改名手続きを進めているのは、きわめて妥当な自己修復プロセスである。

 親がバグらせたストック情報を、自らのコストで正常化させるために背負った労苦は、避けがたい必要経費だろう。

 

 いっぽう、どうでもいいが納豆という微々たる損害を受けつづけていた、私の場合はどうか。

 じつのところ前述した当初のモラトリアムは、不作為で解決されている。

 

 毎度、母親のもってくる納豆のまずさに辟易し、「買ってこなければいいのにな」と思ってはいた。

 が、せっかくこのわずかなことで自己効力感を得、満足しているだろう年老いた彼女のために、なにも言わないでいた時期もある。

 

 その後、別件でぶち切れて「もう来るな」と命じた話は、以前書いた気がする。

 これをもって親不孝者と罵られるとしたら、よろしい、受け入れよう。

 

 

 悪意に対処するのは、案外たやすい。

 ほんとうにやっかいなのは、あくまでもポジティブな「親の愛」を免罪符にして、無自覚に他人の領域を荒らしていく人間だ。

 

 この手の問題に接したとき、私はいつも思う。

 小さな親切大きなお世話、自分が正義だと思っているやつらほど度し難い、と。

 

 最近、SNSを中心にクリエイターの「アイデア盗用」を巡る告発がつづいた。

 いずれも訴訟沙汰になっていて、現時点で結論は出ていない。

 

 あるイラストレーターは、ラノベのキャラクターの特徴が一致している、として出版社を訴えた。

 ある芸人は、キャンプ用品のアイデアを模倣された、と発信していたが、こちらは会社側が逆に訴える構図になっている。

 

 われわれ外野は、だいたい「パクった側(悪)」と「パクられた側(被害者)」という道徳劇として消費することが多い。

 アテンション・エコノミーの世界線ではそれでいいだろうが、場所が法廷に移るとそうはいかない。

 

 法理にもとづく社会事象の構造解析において、感情はただのノイズだ。

 本件の本質的な対立軸は、人間の学習プロセスにおける「模倣の連続性」と、法システムが要求する「排他権発生の明確な境界線(閾値)」の衝突である、と見ている。

 

 

 結論から述べれば、現行の法および市場システムにおいて、上記のような「アイデア(機能や設定)」に対する権利主張は棄却される。

 会社側が芸人に対し、単なる反論に終わらせず提訴に踏み切ったのは、「訴えれば勝てる」と判断したからだろう。

 

 権利が正当に認められる明確な境界線は、先行作品の「直接感得性(元の作品の特徴が直接伝わってくること)」が消失し、かつ制作者の「個性(選択・配列・表現の独自性)」が外部にストック情報として固定化された瞬間にのみ存在する。

 ただ「俺が思いついた」「会話の証拠がある」だけでは通用しない。

 

 厳しい言い方をすれば、著作権法を含む知的財産法は、クリエイターの道徳的「感情」を保護するためのシステムではない、ということだ。

 ──まず、法的・構造的な根拠(ベースライン)から確認しよう。

 

 

 その至上目的は「人類の産業および文化の発展」という全体最適である。

 したがって、特定の個人が登録手続き(方式主義)を経ずに、あるいは抽象的な概念の段階でアイデアを独占することは、文化の停滞を招くバグとして厳しく排除される。

 

 キャンプ用品のような実用品の機能的アイデアは、特許権や実用新案権として特許庁へ出願・登録しないかぎり、パブリックドメインとして市場に解放される。

 ライトノベルのキャラクター設定も同様「抽象的アイデア」にすぎず、具体的な構図や描線が異なれば著作権侵害(翻案・複製)には当たらない。

 

 法システムが見るのは「だれが最初に思いついたか」というフロー情報ではない。

 だれが「所定の手続きでストック情報化」し、だれが「具体的な表現として定着」させたかという、結果のみを評価する。

 

 「緑の髪や赤い目」とか「胸元のペンダント」といった「思いつき」を、たとえ証明できたところで、それを評価するシステムはいまのところ存在しない。

 もしこの訴訟で原告が勝ったら、弁護士の法廷戦術については精査したいと思う。

 

 

 さて、ここで当然の反論が予測される。

 「われわれ(クリエイター)は、新たな価値を生み出すために膨大な試行錯誤(プロセス)を経ている。それを無断で流用されることは、労働の搾取であり理不尽極まりない」と。

 

 しかし、この主張は「労働価値説の構造的エラー」に立脚したバグである。

 人間の創作活動はすべて既存情報の模倣と再構築からはじまり、完全なるゼロからの創造は聖書の時代から存在しない。

 

 クリエイターが「模倣から脱却するために費やした労力」は、あくまで脳内のフロー情報にすぎず、それ自体にはいかなる権利もない。

 これだけ苦労したのだから権利があるはずだ、という「感情」は、境界線の判定において完全に無価値である。

 

 

 さらに、市場経済における「模倣」は単なる悪意ではなく、合理的な機能(仕様)である点も忘れてはいけない。

 オリジナルのアイデアは、複数のファストフォロワーが資本と流通網を用いて参入し、類似品が溢れることで初めて「ひとつのジャンル(例:異世界転生、ソロキャンプ)」として市場規模を拡大させる。

 

 つまり両者は「グラデーションの共犯関係」にあるのだ。

 共犯者が相方を訴えるのはなかなかに難しく、結果として泣き寝入りが増えることになる。

 

 今回のイラストレーターの訴えは無理筋に見えるが、クリエイター側が勝てるだろうひどい事例も、相当数、存在はするだろう。

 しかし残念ながら、創作に資源を集中しがちなクリエイターより、それ以外に資源を回せる組織のほうが、圧倒的に強い。

 

 

 では、クリエイターは「権利なし」の理不尽な世界でどう生き残るべきか。

 実務的示唆として、戦略は以下の二点に集約される。

 

 第一に、ルールの徹底利用とストック情報による防衛。

 第二に、異質なコンテクストの衝突による「直接感得性の破壊」である。

 

 実用品であれば、特許や意匠権を早期に取得する。

 あるいは、模倣不可能な製造工程のブラックボックス化(営業秘密)を図る。

 

 創作であれば、単一の対象をマイルドに調整するだけのキメラ的な模倣は、元ネタが透けて見えるため権利も市場優位性も獲得できない。

 真のオリジナリティ(モート)を構築するには、まったく異なるルールを強制介入させる必要がある。

 

 

 要するに、アイデアだけではダメなのだ。

 ただのアイデア出しやキメラ的模倣は、いまやAIのほうが人類を上回っている。

 

 逆に考えればいい。

 厳しいプロンプトで「これにはオリジナリティがあるか」と、AIに問うのだ。

 

 私が小説を書くときにも、最低限のクオリティラインとして採用している。

 もちろんAIから「価値」を認められたからといって、そこがゴールではないが、スタートラインの代わりくらいにはなるだろう。

 

 

 冒頭の2件について、AIはその権利を「認められるべきではない」と断じた。

 私もおおむね同意する。

 

 それでも人間は、権利なしには社会システムのなかで生存できない。

 だからこそ、「アイデアをパクられた」という一次元的なルサンチマンを放棄し、情報の流出を初期条件として組み込む必要がある。

 

 感情を排し、冷徹なルールの制約下で異質な論理を衝突させること。

 その摩擦の果てに定着した「代替不可能な表現」にのみ、システムは正当な権利を付与するだろう。

 

 まずは事件のあらましをまとめよう。

 恋愛リアリティ番組『ラヴ上等2』において、出演者が過去の加害行為として「人に火をつけた」と笑いながら告白するシーンが配信され、文字どおりそこそこ炎上した。

 

 この過激な番組に対し、法務省が「更生」をテーマとしたタイアップ企画を実施していた事実が、火に油を注ぐ事態となった。

 重大な犯罪行為を武勇伝のように消費する番組内容と、そのコンテンツに「公共的なお墨付き」を与えて利用した行政の判断基準が、厳しく問われた(現在は取りやめ)。

 

 たいした話ではない気もするが、当事者にとっては重要かもしれないので一応、分析してみようと思う。

 さして関係ない個人が、本件を俯瞰するとこうなる、という事例として記録する。

 

 

 この手の記事が出たとき、ふつう読者はどう処理するか。

 おおむね以下の2パターンが想定される。

 

 お気に入りのだれか(もっぱら被害者)を選んで共感し、その傷心や将来を慮る。

 目的は自分の善良な精神を満足させることだ。

 

 あるいは悪役を決めて指弾し、正義は我にあると主張する。

 目的は自己の懲罰者としての溜飲を下げることだ。

 

 いずれも楽だし、気持ちは理解はする。

 しかしそこで終わりたくない私は、まず「全員に正当性がある」という出発点を固めてから、考えはじめるようにしている。

 

 

 順番に処理しよう。

 本件の発端は、とりもなおさずフレームを提供している制作側、MEGUMI氏をはじめとするエンタメ産業だ。

 

 彼らの内部論理については、とてもわかりやすい。

 表現の自由と市場原理の遂行、アテンション・エコノミーにおける利益の最大化だ。

 

 「過激な過去」や「炎上」をトラフィック(視聴回数)という資本に変換する。

 視聴者の覗き見趣味や刺激を求める需要に対し、最適化されたコンテンツを供給するビジネスとして、きわめて正しい。

 

 

 つぎに、番組出演者について考えよう。

 本件においては「火をつけた」側、つまり加害者だ。

 

 彼らの目的は、過去の違法行為や逸脱を、「ストリートクレド(不良としての箔)」という価値に変換し、現在のインフルエンサーとしての生存・承認競争を勝ち抜くことにある。

 チンピラが、それほど深く考えてないだろ、という反論もあるかもしれないが、構造としてはそうなのだ。

 

 そのために彼らは、番組側が求めるキャラクター(ヒールからの更生・純愛)に合致するリソースを提供しなければならない。

 「すでに過去のこと(あるいは清算済み)である」という自己免罪に、法務省からもお墨付きが得られれば言うことなし、社会が要求する「更生」というフレームにも合致する。

 

 

 問題は、その被害者だった人々、および同調する大衆だろう。

 他者への加害行為を「自己実現のコンテンツ(武勇伝)」として消費・収益化することに対する、尊厳の侵害という絶対的拒絶がある。

 

 被害の不可逆性の提示と、「加害者が過去の犯罪をリソースにして利益(名声)を得ることは社会基盤を破壊する」という、普遍的な社会正義の執行。

 炎上の燃料は、おおむねこの論理に符合する。

 

 ある番組で、ギャルタレントが「ヤンキーって実は優しい」という趣旨で、「彼氏も爆音でバイクに乗るが自宅近くでは音を小さくする」と話したらしい。

 すると芸人が、「町ではうるさくして人に迷惑かけといて、自分の彼女とか身の回りではいい顔する、それが嫌いなんだよ」と反論したという。

 

 あまりにも正論であるとして、語り継がれている。

 事実「身内だけに優しい人間」は、社会全体のシステム管理者視点において「いい人(道徳的善)」には該当しないからだ。

 

 

 最後に炎上の掉尾を飾ってくれた行政側、法務省の論理を述べておこう。

 「更生」の物語を通じた再犯防止と、それに伴う社会的コスト(治安維持費・矯正費用等)の削減、そして従来のお堅い広報では届かない層(若年層・潜在的非行層)へのリーチ。

 

 公共PRにおける費用対効果の追求。

 民間コンテンツの強い影響力と文脈を「借景」し、行政施策の周知を最大化するための実務的な最適解を選んだ……つもりだった。

 

 このお役所仕事については、とくに理解してやる必要もない。

 一般人にとっては、本当につまらん連中なのだ。

 

 

 さて、プレイヤーがそろったので、解析をはじめよう。

 まず、つまらん理屈で事態をややこしくした、「法務省」の失態から。

 

 その対立軸は「番組の道徳性」ではなく「公共主体の説明責任」である。

 市場原理と公共性のミスマッチについては、上に書いたとおりだ。

 

 本件の事象を構成するアクターの内部論理は、完全に分断されている。

 制作・出演者側の論理(市場原理)は、刺青を露出し、過去の悪事を武勇伝として語り、掴み合いの揉め事を起こすこと。

 

 これらは通常の恋愛リアリティ番組の枠組みを逸脱しているが、「ワルだった自慢」をデフォルトとし、一部の層にウケるパフォーマンスとして最適化された結果でもある。

 彼らは「売れそうなコンテンツ」を生成・供給しているだけであり、民間ビジネスの論理としては正しい。

 

 いっぽう行政側の論理はどうか。

 公共団体によるコンテンツとのタイアップは、民間作品の知名度や世界観を「借景」し、行政施策の周知を図る手法である。

 

 過去の観光協会によるアニメポスター撤去事例や、医療関連団体の企画への批判事例など、構造はまったく同じなのでわかりやすい。

 いずれも問われたのは「どの表現を、だれに向け、どこ(公共空間)に掲示したか」という主体側の運用エラーである。

 

 

 さらに予想される論点や反論を、手短にまとめておこう。

 結局はそれを主張する人間の立ち位置と、境界線の問題に帰着するのだが。

 

 ──更生していない出演者や、刺激的な番組を作った側が悪い?

 制作側は市場の需要に応えているにすぎない、それが「悪」なら社会が悪い。

 

 ──公共団体は、出演者に瑕疵がなく、一切の刺激的表現がない作品のみを選ぶべき?

 旧内務省でもあるまいし、それはやりすぎだ。

 

 個々の出演者の好ましさや、作品内の一部表現のみを絶対的な基準(各論)として事前検閲を行えば、公共団体は事実上いかなるコンテンツともタイアップできなくなる。

 かりに無菌状態のコンテンツをつくってもアテンションを獲得できず、施策周知という本来の目的が破綻する。

 

 なかには──ほんとうにやむを得ず悪事を働き、真摯に更生した元ヤンもいるのだから、企画じたいを全否定すべきではない?

 なるほど、そういうこともあろうが、じつのところ説得力はない。

 

 「しかたなく悪事をはたらいた」「イキがっていたわけではない」という真摯な更生例が存在することは事実にしろ、それを全体の基準にするには「元ヤンコンテンツ」の基本構図が悪すぎるのだ。

 例外的な美談をベースラインに設定すると、事象全体の評価を見誤る。

 

 

 まとめよう。

 本件の最大のバグは、公共団体が「更生」という言葉を無批判に採用したことにある。

 

 エンタメにおける「更生」は、過去の武勇伝を正当化するための免罪符(パフォーマンス)として利用される傾向が強い。

 どこからどこまでを指して「更生」と呼ぶのか、その定義はきわめて曖昧である。

 

 公共団体は、この「曖昧なフロー情報(番組上のキャラ付け)」に依存し、明確な「ストック情報(タイアップにおける公共性の基準)」を持たないまま企画を進行させた。

 結果として、エンタメの文脈では許容される「境界線」が、公共空間の「境界線」を侵犯し、炎上という形での社会的排除を引き起こした。

 

 本件を「だれが悪いか」という一次元的な道徳劇として消費しても、再発防止にはつながらないだろう。

 もちろん、われわれがそんなことを考えてやる義理もないので、その方向への深掘りはやめておく。

 

 公共主体がエンタメの力を借りる以上、ある程度の毒(刺激)は不可避である。

 問われるべきは、その毒をどの濃度まで、いかなる文脈で公共空間に持ち込むかという「キュレーションの精度」と「批判を引き受ける覚悟」だった。

 

 それが担保できないのであれば、はじめから劇薬である民間コンテンツの借景など行うべきではない。

 そして行き着く先は「定義と境界線の問題」にすぎないのだ。

 

 

 暇なのでよく映画を観ている。

 以下、暇人の妄言として読み流していただきたい。

 

 いわゆる「ジェンダー」敏感層に向けて製作されている映画が、少なくない。

 というか、多い。

 

 思惑は理解しているつもりだが、避けられない逆効果が蓄積している。

 まずはわかりやすい『白雪姫』問題からはじめよう。

 

 

 1937年、ディズニーによって名作アニメ『白雪姫』が製作された。

 その後も「スノーホワイト」の名を冠した映画は、両手の指で足りないくらい製作されている。

 

 その本家ディズニーが2025年、満を持して『白雪姫』を実写化した。

 レイチェル・ゼグラーという褐色の肌の白雪姫が、女性が自立して生きることを……。

 

 と、この件については以前にも書いたので、深入りしない。

 まあ結論からいうと、大コケした。

 

 

 ところで2019年、ドイツとチェコが製作した『スノーホワイト 白雪姫とドワーフの魔法』をご存じだろうか?

 新解釈をまじえて展開された「新たな白雪姫」なのだが、これが「微妙」だった。

 

 個人的には、きらいではない。

 スーパー美女という触れ込みの「白雪姫」役を、どこにでもいそうな女の子が演じることは、学芸会的に正解だ。

 

 ふつうにかわいい彼女を「ブス」と表現する、一部の心無い人々についてはどうかと思う。

 問題は「国一番の美女」とかいうフリのほうだろう。

 

 日本のアイドル市場でも、ちょっとかわいい女の子に「女神の美貌」とか「今世紀最高」とかいう惹句を使いたがるが、個人的には逆効果だと思っている。

 これから大爆笑まちがいなしの話をしますよ、と芸人が最初に言わないのは、ハードルを上げすぎるのは悪手だからだ。

 

 ともかく物語としては、チンピラドワーフが魔法を使えるとか、女王とつながっていて……などの新設定が、使い方によってはおもしろくなりそうな気配を感じさせた。

 告発者である「魔法の鏡」もいい味を出している。

 

 うまくやれば準名作になりそうな設定なのだが、あまり話題になっていない時点で、一般的にも「微妙」だったのだろう。

 もっと振り切るべきだ、とディズニーが判断したのかどうかは知らない。

 

 数年後、国一番の美女を「ふつうの子」どころか「異人種」が演じるまでになった。

 ポリコレが行きつくところまで行った結果だと思っている。

 

 

 ジェンダーをどう使うかは「政治」になった。

 いわゆるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)は、大きく社会を変えた。

 

 男女、人種、年齢などで差別してはいけない、という近代社会の結論。

 それ自体に異論を挟むつもりは、あまりない。

 

 自立した女性が能力を最大限に発揮することは正しいし、むしろそうして欲しい。

 が、だからといって旧来型の「女性性」を駆逐していい、という話にはならないし、なるべきでもない。

 

 「差別しないこと」と「生物として同一であると言い張ること」は、まったく別の話だ。

 そのへんを履き違えて映画をつくるから、奇妙なことになる。

 

 プリンセスや王子さま、といった「役割」には、最初から共通理解やバイアスというものがある。

 それを無理やりジェンダー平等の枠組みにはめようとするから、壊してはいけない部分を破壊してしまうことになる。

 

 そもそも、こうした「役割」の共通理解は、社会が勝手に作り出したものではない。

 何百万年という人類の進化の過程で、生存のために最適化された生物学的な分業に由来しているのだ。

 

 

 技能や適性に明確な男女差が存在することは、生物学の世界では常識だ。

 しかし現代では、この事実に触れるだけで「フェミニズムへの攻撃だ」と憤慨する人々が現れた。

 

 Woke=目覚めた人々=意識高い系。

 ポジティブな合言葉として使われ、社会を改革するのに役立ったことを否定はしない。

 

 結果として「萎縮」がもたらされた。

 性差別と取られるのを恐れた管理職はノーコメントを貫き、だれもが本音と建前を使い分け、おびえている……。

 

 そこに「反発」が押し寄せるのは、自明の理だった。

 トランプやマスクなどによるアンチ・ウォーク(Anti-woke)は、大きな流れとなっている。

 

 何百万年もの間、男女は生存のために役割を分担して進化してきた。

 この厳密で神聖なルールに対し、ごく最近になって「男女に違いはない。同じだ、平等だ、同じように扱え」と主張する人々が押し寄せた。

 

 適性も能力も異なるふたつの種族を、同じ鋳型にぶち込めと強要している、かのように見える。

 脳の配線も、身体の機能も、最初からまるで違うのに。

 

 

 昔読んだ本に、こんなことが書かれていた。

 休息中、男性の脳は7割が活動を停止しているが、女性の脳は9割が動いている。

 

 男性がぼんやりしている間も、女性の脳は周囲から情報を拾い上げ、分析しつづけている。

 男が狩りに出ている間、女は洞窟で子どもを守り、周囲の安全や微細な変化に気を配る必要があったからだ。

 

 子どもたちに対する注意は、母親の義務だった。

 父親にとって我が子は「なんだか小さい人が家にいる」程度だが、母親にとっては子どもの恐怖や企みまで見通さなければ、家族として生き残れなかった。

 

 皮膚感覚ひとつとってもそう、女性の皮膚は男性より10倍も敏感で、オキシトシンによって触れ合いを求める。

 女性どうしの会話で身体接触が多いのも、大阪のおばちゃんが背中をバシバシ叩いてくるのも、生物学的な必然だ。

 

 対して男性の皮膚は分厚い。

 四足歩行時代の名残で背中の皮が厚く、過酷な狩りや戦闘時の痛みに耐えられるよう、触覚への感受性は20歳までにほぼ消失する。

 

 狩りに集中している男は、怪我にも気づかない。

 ただし、集中が切れた家の中では痛みにからきし弱く、ゴロゴロ転がりながら泣き言をほざくことになる。

 

 

 嗅覚や味覚も、女性のほうがはるかに鋭い。

 女性は排卵日前後になるとさらに匂いに鋭敏になり、男性の匂いから免疫系の状態を解読する。

 

 自分にない強力な免疫遺伝子を持つ男に「不思議な魅力」を感じ、貧弱な男には一切の食指が動かない。

 この判定にかかる時間は、わずか3秒だ。

 

 男の子が謎の踊りで爆笑し、おならに火をつけ、カエルを爆殺して遊んでいるお年頃。

 女の子は、すでに微妙なボディランゲージから他人の感情を読み取り、高度な駆け引きを展開している。

 

 

 この話は、たしか世界的ベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』あたりに書かれていたと思う。

 全面的に賛成はしないが、説得力があったことは事実だ。

 

 「人間は生まれたときは真っ白で、教育や環境でどうにでも育つ」というのは、教育者の心地よい幻想にすぎない。

 実際には、受胎後6〜8週間で精神の基本構造は形作られ、生まれた時点でひとつの完成したマシンとして起動している。

 

 親や学校が後から追加できるのは、いくつかの互換アプリ程度だ。

 そこには基本性能の異なる、2台のマシンがある。

 

 もちろん、性差を凌駕する個人の特異な才能や、例外的なケースが存在することは大前提だ。

 しかし、集団の中央値や統計的な傾向として見れば、いぜんとして「差異」は大きい。

 

 

 科学的に言えば、人間の基本スペックは「女」である。

 そこにY染色体という異物が混ざることで、男という仕様に変化する。

 

 胎児期にテストステロンが適切に供給されなければ、肉体は男でも脳のプログラムは女のまま出力される。

 俗に「男の20%は女っぽく、女の10%は男っぽい」と言われるが、これは胎内でのホルモン環境による疫学的な事実だ。

 

 とくに顕著なのは言語能力の差で、男性は言語を使うときに左脳しか使わないが、女性は左右両方の脳を使う。

 そのため男性は左脳を痛めると言語障害になるが、女性は左右の前頭葉を破壊されないかぎり、しゃべりつづける。

 

 男にとっての言葉は「事実の伝達と解決策の提示」だ。

 女にとっての言葉は「人間関係の構築とプロセスの共有」だ。

 

 男は一言もしゃべらず、何時間も並んで釣り糸を垂れることができる。

 物音ひとつ立てずに獲物を待つ本能があるからだ。

 

 男同士の沈黙は単なる正常運転だが、女同士の沈黙は人間関係の重大な危機を意味する。

 女がしゃべる目的は「しゃべること」そのものであり、男は「結果と解決」を求める。

 

 男女の会話で無用な摩擦を避ける最適解は単純だ。

 男は解決策を提案するのをやめ、黙って話を聞けばいいのである。

 

 

 長くなってしまったが、まとめよう。

 男女は「同じ」ではない、ゆえに「違う」ことを前提に社会を組み立てるべきだ。

 

 国語や数学の設問を男女の脳の違いに合わせて変更し、全国平均の数倍の成果を出している学校があるという。

 違いを認めて最適化することこそが、本来の教育であり合理性だ。

 

 くりかえすが、どちらが優れているとか、劣っているという話ではない。

 ただ、明確に「違う」のだ。

 

 情報処理の仕方、優先順位、行動様式。

 何百万年かけて別々の方向に進化してきたふたつの脳を、ぴったり同じように扱えと強要するから、混乱と不必要な疲労が蓄積する。

 

 「同じだ」という綺麗事を口ずさむのをやめ、根本的に「違う」という冷徹な事実を前提に置こう。

 互いに生きやすくするための合理的なシステムは、その諦めの中からしか生まれない。

 

 コメの価格が暴落しているらしい。

 3割4割はあたりまえ、原価割れ上等の取引価格だという。

 

 まあ去年が上がりすぎていただけで、いわゆるバブルがはじけただけだ。

 価格の乱高下は当事者の懐を直撃するだろうが、同情する気はない。

 

 食料だからバカみたいな値段付けてもバカが買うだろ、という思惑がいちばん大事なものを毀損した。

 そう、需要を蒸発させたのは、彼ら自身なのだ。

 

 

 まず根本的な問題、構造的なエラーを示しておこう。

 日本の農業、とくにコメ作りは、それが産業としての「規模の経済」と、資産・セーフティネットとしての「所有の論理」の間で引き裂かれている。

 

 現在、多くの小規模農地で行われている稲作は、もはや産業ではなく「高コストな趣味」といっていい。

 趣味で金儲け? ちゃんちゃらおかしい。

 

 むろん個人の趣味嗜好としてコメ作りを行うことは、完全に正当だ。

 問題は、そこに「食料安全保障」などの名目で補助金(税金)が投入され、市場原理による最適化が阻害されている現状である。

 

 

 私が住む群馬県の西毛地域は、江戸時代には中山道の主要街道として栄えたが、コメ作りにおいては条件不利地であった。

 山がちでコメに向かないこの地域は、「生産」の意味において支配する価値が低い土地だった。

 

 武田や北条などが奪い合ったのは、交通という目的があったからだ。

 江戸時代にも関所が設けられ、入り鉄砲に出女を厳格に管理していた。

 

 古文書を解読していると、譜代としてこの地域を支配していた板倉さんなどの名前が出てくる。

 彼らの主な収益は、もちろんコメではない。

 

 大名が「石高(コメの収穫量)」で評価され、領地をランキングされる体制下。

 百万石の有力藩や親藩が押さえた平野部の米どころと異なり、西毛はコメ以外の選択肢を追求せざるを得なかった。

 

 

 そもそも国土の多くを山林が占める、日本という国そのものが、コメ作りには向いていないと思っている。

 それでも歴史的には、いろいろな意味でコメが最適解だった。

 

 あらゆるインセンティブを動員し、労働力を集約して開墾させた。

 そうして無理やり造成された棚田は美しいが、生産性から見れば「無駄の極地」である。

 

 大事なことなので、もう一度言おう。

 このレベルのコメ作りは、パトロンに保護されるべき「芸術」に近い。

 

 ゆえに、古代よりコメ作りが不適な地域の人々は、租(コメ)の代わりに庸(労務)や調(特産物)で納税してきた。

 西毛地域においては、海産物が採れない代わりに「絹」が育った。

 

 養蚕を行い、生糸を紡ぎ、「富岡製糸場」に代表される絹産業へと発展させた。

 結果として、この地では「かかあ」が天下をとった。

 

 この点、わが先祖たちを誇るべきだと思っている。

 コメの劣後を、市場原理によって乗り越えてきた勝者だからだ。

 

 

 さて、現代に目を向けよう。

 たまたま消防団の集まりで話した近所の兼業農家さんが、「コメが安すぎる。もっと高くてもいい」と主張していた。

 

 具体的な費用を羅列して、こんな価格では赤字だと。

 まさに「農協を代弁」する初老の男を、私は死んだ魚のような眼で眺めていた。

 

 もちろん彼は真実を語っており、それについて理解はしている。

 肥料は高いし燃料も高い、時給にしたら話にならない、やってらんねえよ、と。

 

 たしかに日本の農家は高コストに苦しんでいるが、言い換えれば「だれかがその分、儲けている」ということだ。

 言うまでもないが、趣味には金がかかるのである。

 

 戦後の農地改革と農地法によって細切れにされた小さな土地のために、小売店で小ロットの資材を買い、年に1回しか使わない専用農機をそろえ、「農協」経由で流通させる。

 そんなことをしていて、安いコメなど作れるはずがない。

 

 

 じつのところ農協にとっても、現状は「正解」である。

 道徳判断や感情論を排して構造を解析すれば、この非効率な生産体制の維持は、彼にとっての「合理的な最適解」となる。

 

 さらにいえば政治家や農水省も、それぞれの事情に沿って「正解」を選んでいる。

 いわんや農民においてをや、ただ「やるべきことをやっている」にすぎない。

 

 先祖代々の土地を手放すことへの心理的抵抗、農協を中心としたコミュニティの維持、あるいは土地の資産価値への期待。

 これらを満たすために多額の資金を投じることは、彼らにとって当然の選択肢だ。

 

 あらためて言おう。

 偉大な消費者である農家の多くは、「趣味でコメを作っている」のである。

 

 

 私は、趣味という至高かつ孤高の行為を、全力で肯定する。

 私自身、金にならない小説を書き、親戚は鉄道模型に何千万も費やしている。

 

 世の多くの「オタク」と呼ばれる人々が趣味に投じる資金は、経済を回すための重要な原動力である。

 高コストでも自らの手でコメを作りたいという思想や願望は、個人の正義として最大限に評価・尊重されるべきだ。

 

 「趣味のコメ作り」を見下すことは、断じて許されない。

 問題は、その純粋な趣味の領域に、忌まわしい夾雑物──「食料安全保障」や「補助金」が混入していることだ。

 

 

 神聖な趣味を、俗悪な政治と貨幣に両替しようとするから、問題がこじれる。

 めんどくさいが、一応相手の理屈も分析しておこう。

 

 前述のとおり、彼らは彼らで最適解を選んでいる。

 政治家と官僚が手を取り合って、「農業を換金する作業」だ。

 

 ふつう経済は市場原理にゆだねられるが、先方の論理によれば「コメは例外」となる。

 「国内の農業インフラを維持することは、景観保全や食料安全保障の観点から不可欠であり、補助金の投入は正当化される」からである。

 

 

 まずは突っ込みやすい「安全保障」から。

 この論は、以下の点で破綻している。

 

 そもそも安全保障とは「危機」に対応するもので、外国から食料が輸入できないなどの特殊な状況に対応できなければならない。

 ところで食料「だけ」が輸入できないなどという危機が、どれだけあるだろう?

 

 だいたい、そのまえに燃料や肥料が絞られる。

 肥料や農業機械を動かす燃料を海外からの輸入に依存している現状で、有事に食料が確保できると説く「食料安全保障」のロジックは、ほとんど欺瞞に近い。

 

 

 つぎに「補助金」の問題だ。

 これは直接の受益者である農協はもちろん、政治家の票田、農水省の省益も絡んで、鉄壁の抵抗が予想される。

 

 その主張の問題構造だけ、摘記しよう。

 「非効率な趣味」と化したコメ作りに莫大な税金が投じられる、という機会費用(オポチュニティコスト)の非合理性だ。

 

 合理化する手段はいくらでもあるが、コストに見合わないという反論がある。

 だが収益性が極端に低い土地に税金を注ぎ込む現状を放置したまま、やるべきことをやらずに安全保障や景観を語ることは、ほとんど妄言に等しい。

 

 趣味で鉄道模型をつくっている人間には、1円の補助金も出ない。

 ならば趣味でコメをつくっている人間にも、出すべきではないのだ。

 

 

 コメ作りの不適地は淘汰され、代替産業が育つ。

 それは我が西毛地域の歴史が証明している。

 

 非効率なコメ作りそのものが「ただの趣味」であることを社会全体が受け入れ、補助金という麻薬を断ち切ったとき、はじめて日本の農業は市場原理による最適化のスタートラインに立つ。

 世界に冠たるコメ作りは、高尚かつ歴史的な趣味として、自腹で楽しめばよい。

 

 いつか兼業農家が、胸を張ってこう言える日がくることを願っている。

 おれが趣味でつくったコメ、まじでうまいから食ってみな。

 

 

 ヘイトを煽る報道が、東アジアにも散見される。

 中国ではひどいようだが、それに合わせる媒体は日本にもあった。

 

 熊本で地震が起こったころ──お見舞いはするが、それに乗じて日本の右翼が、などと語る中国の報道官。

 ……天災は見舞っておけばよくね? 右翼うんぬん言う必要ある?

 

 中国にとって日本の世論の優先順位が下がっている、という意味なのだが、なぜそうなっているのか、ちょっと考えたい。

 高市さんの発言で習近平さんがご立腹なので、部下がすべての忖度を稼働して反日に逃げ込む、という事象についてだ。

 

 考えはじめると、これが意外に根深い。

 ちょっと長くなりそうなので、中国の話に距離を置きたい方々はブラバをお勧めする。

 

 

 まず漠然と思ったのは、現在の中国が「朱子学」と相性がいいこと。

 南宋の時代に朱熹(朱子)がまとめた朱子学は、上下の秩序や大義名分を重んじる点に特徴がある。

 

 根本である儒教は、能力主義でエリートが国を支配するという体系の学問だ。

 かつては科挙に合格した人間が絶大な権力を握ったし、現在は共産党のエリートがそれを手にしている。

 

 儒教は、中国人にとっての宗教のようなもので、既存のフォーマットとして利用可能であった。

 日本が天皇制を利用しているのに、すこし似ている。

 

 

 他の宗教、たとえば唯一の神のまえでは全人類が平等、というような理屈は、東アジアには存在しない。

 中国人は儒教の時代から無神論であり、結果的に「すごい人間」(皇帝などの超越的な統治者)に治められるのが当然、というマインドが固定した。

 

 その精華である朱子学が生み出されたころ、日本人のうち「すごい神君」をもつ徳川さんちが、その都合のよさに気づいて、これを公式の学問(官学)として採用した。

 そうして中国的な価値観に染められていた殻を破ったのが、明治維新だった。

 

 中国は皇帝から民衆が一体化されていたが、日本は幕府と朝廷が並立する、いわば二重権力体制だった。

 その片方が朱子学を取り入れ、もう片方はそこに距離を置いた。

 

 日本にも中国にも、民主主義がすばらしいものだ、などという考え方はそもそもない。

 欽定憲法を発する以前の天皇も、民主主義がすばらしいなどと言ったことはない。

 

 明治維新が成立した最大の要因は「二重権力の隙間」を突いたからにすぎず、そのために利用されたのが「部分的な民主主義」だった。

 結果、日本は「選挙」という制度を取り入れ、すこしだけ「西側」諸国に近づいた。

 

 

 いっぽう権力闘争に「共産主義」を採用した中国共産党に、選挙はない。

 このへん言葉の問題がややこしいのだが、彼ら自身、自分たちは民主主義だと主張しており、地図にも「人民共和国」と書いている。

 

 もっとわかりやすい例は、おなじ共産主義(現地では主体思想)国の北朝鮮が、地図にまで「民主主義」を入れていること。

 その惨状については、みなさんご存じのとおりだ。

 

 しかし、選挙をしない民主主義とは、なんだろうか?

 すくなくとも日本人や他の多くの民主主義国家にとって「わかりやすい」形での選挙を、彼らはお断りしている。

 

 言い換えれば「わかりにくい選挙」をしている。

 ソ連や中国の歴史を調べる必要はない、その本質は日本共産党を見ればわかる。

 

 

 いわく、民主集中制だ。

 ウラジーミル・レーニンが提唱した、「共産主義政党や社会主義国家における組織原則」にもとづく。

 

 日本共産党のホームページには「徹底した民主主義による議論」と「決定事項の統一行動(中央集権)」を組み合わせた仕組みを指す、と書いてある。

 昨今そこで公選制を提起した人々は、ことごとく除名となった。

 

 新たな女性党首によれば、「発言者の姿勢に根本的な問題がある」らしい。

 正しいのは自分たちなので、必然的に相手がまちがっているわけだ。

 

 共産党で民主的に選ばれた「書記長さま」こそが、「歴史を板書する権利」を得る。

 権力の集中と、排除の理論──すべては組織《ゼーレ》のために。

 

 この構造を利用して生み出されたのがスターリンや毛沢東であったが、世界中にその小型のイミテーションは存在する。

 もちろん日本の「党首」たちも長期政権から院政を敷いて、権力の集中という共産主義らしい体制を護持しているのは、ご存じのとおりだ。

 

 

 形としては選挙をするので民主主義だが、彼らはその前段階で「立候補させない」という戦術をとる。

 党首の公選制が言語道断なのは、そのためだ。

 

 どこかで意見をまとめ、だれかに集中させる。

 ひとつの意見にみんなの意見が集中しているので正しい、というのが彼らの理屈だ。

 

 どこの国にも一定の割合で、そのほうがいいという人々が存在する。

 よって世界中に共産党は存在するわけだが、禁止されている国も多数ある。

 

 

 わかりやすかったのが昨今の「パワハラ問題」だ。

 しかし日本共産党にとって、それは「パワハラではない」という結論に落ち着いた。

 

 ゴリゴリの「共産主義者にとって」、ハラスメントのハードルはきわめて恣意的だ。

 歴史上、多くのジャイアンが採用してきた、「オレはいいけどオマエはダメ」である。

 

 集中民主主義で理想を目指す「党の未来のため」には、「党外の意見に流され」て「党員としての自覚」「主体性や誠実さを欠く」地方議員や党員は異分子だ。

 それを「除名」「総括する」のは「私たちの責務」となる。

 

 

 共産党がよく使う「無謬性」は、悪魔の言葉だ。

 未来の理想の社会を学び、完全な社会の道のりにあるわれわれが、まちがうわけがない、よって訂正する必要がない。

 

 歴史に悲惨の種をふりまいてきた言葉であり、現在進行形で汎用されている。

 毛沢東がそうであり、習近平もおなじ、偉大な国家主席がこうだと言えばそうなる。

 

 つぶすなと言われれば、つぶせない。

 習さんに怒られるので、失業率のデータを出さない。

 

 設定された目標に合わせて数字をドガチャカと、落語のやばい番頭のようなことを現実にやっている。

 結果、日本のバブルの何倍にもなる膨大な債務が、地方政府のうしろに隠されている。

 

 

 これは「科学」とは真逆の態度だ。

 科学は、世の中でわからないこと、謎を解き明かすことに、その真骨頂がある。

 

 現在のところこのようなデータが出ている、このような仮説によって説明されている、新しい事実や解釈が出てくる可能性はあるが、現在のところこれが確からしい。

 正しい科学者、学者たちが語るのは、現在のところの「確からしさ」だけだ。

 

 いっぽう共産党式「科学的発展観」によれば、その「教義」はまちがっていない、絶対的に正しいので従え、となる。

 いわゆる科学的社会主義者たちが使う論法は、残念ながら「ほぼ宗教」だ。

 

 うまくいっているときはいい。

 しかし歴史を顧みるまでもなく、その道のりは悲惨な失態にまみれている。

 

 

 ところで現在の中国、はたして「うまくいっている」だろうか?

 もし彼らが困っているのだとしたら、われわれはどう対処すべきか?

 

 たとえば崩壊したソ連を救ったのは、いろいろあったがもっぱら西側諸国だった(そのやり方はひどくて現在の火種にもなっているが)。

 なぜ助けたのか、それは彼らが「おなじキリスト教徒」であったからだ、と私はすくなからず信じている。

 

 ところで日本人は、中国人に対してどのような態度をとるだろうか?

 おなじ儒教を信じてはいないが、個人的には中国史に敬意を表しているので、その後継者たちをできるだけ助けたい気はしている。

 

 日本国はどうするのか?

 その災害に援助と共感を示す中華民国と手を取り合うのか、それとも冒頭のような態度を示す中華人民共和国か、結論を求められる日はいずれ来るだろう。