ヘイトを煽る報道が、東アジアにも散見される。

 中国ではひどいようだが、それに合わせる媒体は日本にもあった。

 

 熊本で地震が起こったころ──お見舞いはするが、それに乗じて日本の右翼が、などと語る中国の報道官。

 ……天災は見舞っておけばよくね? 右翼うんぬん言う必要ある?

 

 中国にとって日本の世論の優先順位が下がっている、という意味なのだが、なぜそうなっているのか、ちょっと考えたい。

 高市さんの発言で習近平さんがご立腹なので、部下がすべての忖度を稼働して反日に逃げ込む、という事象についてだ。

 

 考えはじめると、これが意外に根深い。

 ちょっと長くなりそうなので、中国の話に距離を置きたい方々はブラバをお勧めする。

 

 

 まず漠然と思ったのは、現在の中国が「朱子学」と相性がいいこと。

 南宋の時代に朱熹(朱子)がまとめた朱子学は、上下の秩序や大義名分を重んじる点に特徴がある。

 

 根本である儒教は、能力主義でエリートが国を支配するという体系の学問だ。

 かつては科挙に合格した人間が絶大な権力を握ったし、現在は共産党のエリートがそれを手にしている。

 

 儒教は、中国人にとっての宗教のようなもので、既存のフォーマットとして利用可能であった。

 日本が天皇制を利用しているのに、すこし似ている。

 

 

 他の宗教、たとえば唯一の神のまえでは全人類が平等、というような理屈は、東アジアには存在しない。

 中国人は儒教の時代から無神論であり、結果的に「すごい人間」(皇帝などの超越的な統治者)に治められるのが当然、というマインドが固定した。

 

 その精華である朱子学が生み出されたころ、日本人のうち「すごい神君」をもつ徳川さんちが、その都合のよさに気づいて、これを公式の学問(官学)として採用した。

 そうして中国的な価値観に染められていた殻を破ったのが、明治維新だった。

 

 中国は皇帝から民衆が一体化されていたが、日本は幕府と朝廷が並立する、いわば二重権力体制だった。

 その片方が朱子学を取り入れ、もう片方はそこに距離を置いた。

 

 日本にも中国にも、民主主義がすばらしいものだ、などという考え方はそもそもない。

 欽定憲法を発する以前の天皇も、民主主義がすばらしいなどと言ったことはない。

 

 明治維新が成立した最大の要因は「二重権力の隙間」を突いたからにすぎず、そのために利用されたのが「部分的な民主主義」だった。

 結果、日本は「選挙」という制度を取り入れ、すこしだけ「西側」諸国に近づいた。

 

 

 いっぽう権力闘争に「共産主義」を採用した中国共産党に、選挙はない。

 このへん言葉の問題がややこしいのだが、彼ら自身、自分たちは民主主義だと主張しており、地図にも「人民共和国」と書いている。

 

 もっとわかりやすい例は、おなじ共産主義(現地では主体思想)国の北朝鮮が、地図にまで「民主主義」を入れていること。

 その惨状については、みなさんご存じのとおりだ。

 

 しかし、選挙をしない民主主義とは、なんだろうか?

 すくなくとも日本人や他の多くの民主主義国家にとって「わかりやすい」形での選挙を、彼らはお断りしている。

 

 言い換えれば「わかりにくい選挙」をしている。

 ソ連や中国の歴史を調べる必要はない、その本質は日本共産党を見ればわかる。

 

 

 いわく、民主集中制だ。

 ウラジーミル・レーニンが提唱した、「共産主義政党や社会主義国家における組織原則」にもとづく。

 

 日本共産党のホームページには「徹底した民主主義による議論」と「決定事項の統一行動(中央集権)」を組み合わせた仕組みを指す、と書いてある。

 昨今そこで公選制を提起した人々は、ことごとく除名となった。

 

 新たな女性党首によれば、「発言者の姿勢に根本的な問題がある」らしい。

 正しいのは自分たちなので、必然的に相手がまちがっているわけだ。

 

 共産党で民主的に選ばれた「書記長さま」こそが、「歴史を板書する権利」を得る。

 権力の集中と、排除の理論──すべては組織《ゼーレ》のために。

 

 この構造を利用して生み出されたのがスターリンや毛沢東であったが、世界中にその小型のイミテーションは存在する。

 もちろん日本の「党首」たちも長期政権から院政を敷いて、権力の集中という共産主義らしい体制を護持しているのは、ご存じのとおりだ。

 

 

 形としては選挙をするので民主主義だが、彼らはその前段階で「立候補させない」という戦術をとる。

 党首の公選制が言語道断なのは、そのためだ。

 

 どこかで意見をまとめ、だれかに集中させる。

 ひとつの意見にみんなの意見が集中しているので正しい、というのが彼らの理屈だ。

 

 どこの国にも一定の割合で、そのほうがいいという人々が存在する。

 よって世界中に共産党は存在するわけだが、禁止されている国も多数ある。

 

 

 わかりやすかったのが昨今の「パワハラ問題」だ。

 しかし日本共産党にとって、それは「パワハラではない」という結論に落ち着いた。

 

 ゴリゴリの「共産主義者にとって」、ハラスメントのハードルはきわめて恣意的だ。

 歴史上、多くのジャイアンが採用してきた、「オレはいいけどオマエはダメ」である。

 

 集中民主主義で理想を目指す「党の未来のため」には、「党外の意見に流され」て「党員としての自覚」「主体性や誠実さを欠く」地方議員や党員は異分子だ。

 それを「除名」「総括する」のは「私たちの責務」となる。

 

 

 共産党がよく使う「無謬性」は、悪魔の言葉だ。

 未来の理想の社会を学び、完全な社会の道のりにあるわれわれが、まちがうわけがない、よって訂正する必要がない。

 

 歴史に悲惨の種をふりまいてきた言葉であり、現在進行形で汎用されている。

 毛沢東がそうであり、習近平もおなじ、偉大な国家主席がこうだと言えばそうなる。

 

 つぶすなと言われれば、つぶせない。

 習さんに怒られるので、失業率のデータを出さない。

 

 設定された目標に合わせて数字をドガチャカと、落語のやばい番頭のようなことを現実にやっている。

 結果、日本のバブルの何倍にもなる膨大な債務が、地方政府のうしろに隠されている。

 

 

 これは「科学」とは真逆の態度だ。

 科学は、世の中でわからないこと、謎を解き明かすことに、その真骨頂がある。

 

 現在のところこのようなデータが出ている、このような仮説によって説明されている、新しい事実や解釈が出てくる可能性はあるが、現在のところこれが確からしい。

 正しい科学者、学者たちが語るのは、現在のところの「確からしさ」だけだ。

 

 いっぽう共産党式「科学的発展観」によれば、その「教義」はまちがっていない、絶対的に正しいので従え、となる。

 いわゆる科学的社会主義者たちが使う論法は、残念ながら「ほぼ宗教」だ。

 

 うまくいっているときはいい。

 しかし歴史を顧みるまでもなく、その道のりは悲惨な失態にまみれている。

 

 

 ところで現在の中国、はたして「うまくいっている」だろうか?

 もし彼らが困っているのだとしたら、われわれはどう対処すべきか?

 

 たとえば崩壊したソ連を救ったのは、いろいろあったがもっぱら西側諸国だった(そのやり方はひどくて現在の火種にもなっているが)。

 なぜ助けたのか、それは彼らが「おなじキリスト教徒」であったからだ、と私はすくなからず信じている。

 

 ところで日本人は、中国人に対してどのような態度をとるだろうか?

 おなじ儒教を信じてはいないが、個人的には中国史に敬意を表しているので、その後継者たちをできるだけ助けたい気はしている。

 

 日本国はどうするのか?

 その災害に援助と共感を示す中華民国と手を取り合うのか、それとも冒頭のような態度を示す中華人民共和国か、結論を求められる日はいずれ来るだろう。

 

 『おやすみオポチュニティ』を観た。

 ただひとつのことをやる映画だ。

 

 火星探査という目的のために人々の意識は集中し、その最先端にあるオポチュニティという探査車に結実する。

 唯一のミッションは、ロボットを「見守る」こと。

 

 もちろん指示は出すが、電波を飛ばして10分後から動き出すような遠隔操作。

 そんなん映画になるのかよ、というワンテーマをみごとに描き切って見せた。

 

 

 前回、ソリッドシチュエーションの良作について書いたが、よく似ている。

 追いかけてくるものからひたすら逃げる、追い詰められた状況をなんとか好転させる──そういう「シンプルな物語」をきちんと魅せることさえできれば、映画は成立するということだ。

 

 おなじように宇宙探査を描いた映画の悪い例が、即座に脳裏をよぎった。

 つくった博士の背景がどうの、関係者や家族のトラブルがどうの、無駄な尺稼ぎで埋め尽くされた映画、たとえば日本のハヤブ……いや、やめておこう。

 

 やはり「ひとつのことにどれだけ集中できるか」は重要だ。

 そういう「ジャンル」があっていい、とすら思う。

 

 

 ワンアイデアで描かれた物語には、おもしろいものが多い。

 映画にかぎらず、小説やゲームでも同様だ。

 

 球を撃ち返すだけ、悪魔を倒すだけ、最速でゴールに着くだけ。

 いまの写真一枚にも満たない容量のなかで、単調な8ビット音楽の名曲に彩られ、どれだけの名作ゲームが生み出されてきたか。

 

 すぐれた作品ほど「シンプル」という真理。

 クソみたいな肉付けをはじめた瞬間、それはしばしば「クソゲー」と堕す。

 

 逆に言えば、クソみたいな肉付けをした駄作を、市場が要求している。

 市場は「買い手」だけでは成立せず、そこに必ず「売り手」がいなければならない。

 

 業界に巣食う「売り手」、すなわちバイヤーやクリエイターたちの生計は、ひとことで言えば尺を稼いでニッチ(市場の隙間)を埋めることだ。

 彼らも生きているのだから、その現実もまた否定はできない。

 

 気になるのは、視聴する側に求められる「覚悟」と「リスク」が、正しく分散されているかだ。

 もしそれが、しばしば「やったもん勝ち」なのだとしたら、その構造には問題がある。

 

 

 だれも「駄作」など見たくない。

 だが市場は、それも含めて構成されている。

 

 広告担当の「詐欺」には、しばしば閉口させられた。

 駄作をあたかも良作であるかのように誤認させることが、彼らの仕事だ。

 

 売れている作品に勝手に「寄せる」のは、もっともリスクが低い手法だろう。

 てっきり名高いあの作品だと思って観たらまったくの別物でした、という残念な映画体験はよくある。

 

 そのコストを、だれかしらが支払わされている事実については、忘れないでほしい。

 世の中、クソ映画を愛でることに喜びを見いだしている人ばかりではない、というよりもそういう奇人はあくまで少数派なのだから。

 

 

 ここでしているのは、映画を「つまらなくしている」元凶の話だ。

 才能の枯渇からはじまり、生きるために量産しなければならない市場関係者の話まで、つなげてきた。

 

 最後にもっとも重要な「コンプライアンス」の話をしよう。

 あらかじめ言っておくが、尊敬する芸人の江頭さんも腐していたとおり、私も「コンプラがテンプラよりもきらい」だ。

 

 これが業界にいい影響を与えているのかどうか、疑問をもっている。

 バッドエンドの胸糞映画が、例としてわかりやすいだろうか。

 

 被害者が全員死んで、悪が栄えるヨーロッパ映画『胸騒ぎ』。

 これをハリウッドがリメイクすると、『スピーク・ノー・イーブル 異常な家族』という、勧善懲悪映画になる。

 

 悪は栄えず、女性は被害者で、子どもは救いを求め、難民は犯罪者ではなく、悪を殺戮するための武装は正義で、主人公サイドは全員生還する。

 作品のコンセプト云々は関係ない、ただハリウッドが「やるべきことをやれ」ば、こうなるという典型だ。

 

 

 アメリカの言論は法律で規制されないが、市場によって強く縛られる。

 ハリウッドのルール、それはおおむねキャンセル・カルチャーに帰結する。

 

 あの映画は差別的だ、宗教的によろしくない、などと指弾されれば市場で生きていけない(キャンセルされる)。

 必然的に遵守が避けられなくなる、ポリティカル・コレクトネス。

 

 ディズニーには強めにこの病理が刻まれており、最近ではさすがに変だろとみんなに気づかせるような『白雪姫』もつくられた。

 それ以外にも、続編が大コケしたパターンの半分はポリコレのせいだ、と私は思っている。

 

 もちろん人種や性別や性的指向で差別されるべきではない、という前提を否定するつもりはない。

 問題は、アメリカでは逆に、その「属性が役割を決定してしまう」ことだ。

 

 さっき例に出したリメイク映画なら、キャンセルリスクを避けつつ、勧善懲悪という形に調整し、無理やりハッピーエンドにもっていく。

 考えてみれば、私が最初に名作認定した映画『屋根裏部屋の花たち』も、原作を改変してわりとハッピーエンドに変えられていた。

 

 そのほうがおもしろくなるなら、よろしい、認めよう。

 だが差別の撤廃を掲げ、逆方向に印象操作するなら、それは正しくない。

 

 

 その意味で俯瞰的な映画が、『ドント・ウォーリー』あたりだろうか。

 主人公は障碍者だが、自らを含めて障碍者や性的少数者、黒人などを「嘲笑の対象」として置いている。

 

 障害者や弱者を「差別しない」ということは、彼らを「聖域に置かない」ことと同義だ、という考え方がある。

 私にとっては、しごくまっとうな考え方なのだが、世間では「ブラックな漫画」と評価されているようだ。

 

 ある特定の人は笑いの対象にしてはならない、という発想こそが差別である。

 健常者や権力者を笑いの対象にするように、障害者や弱者も同じように笑う──それがあたりまえの自然な姿ではないか?

 

 人々を「笑っていい対象」と「笑ってはいけない対象」に分けることは、かつて白人や特定宗教が用いた選民思想のロジックと、どう違うのか?

 正しいのは自分たちなのでしたがえ、という意識高い系の傲慢ではないのか?

 

 右手で人殺しをしたのは悪だったので、左手でやることにした。

 世界にそういう景色が広がりはじめている気がして、ひどく気持ちがわるい。

 

 

 だれのことも傷つけず、すべての属性に配慮し、道徳的に完璧なチェックリストを満たした物語。

 気がつけば、あたり一面、そういうコンテンツに満ちている。

 

 ……お気づきだろうか。

 これこそまさに、現在の生成AIが最も得意とする「安全で無難な出力」そのものだ。

 

 ハリウッドの賢明なクリエイターたちは、キャンセルカルチャーに怯えるあまり、自らの手で「AIが書いたような完璧なテンプレ映画」を量産するマシーンへと成り下がった。

 もはやそこに、不完全な人間が人間のために作った「毒」も「純粋な情熱」もない。

 

 

 いったい、誰がために映画は在るのか。

 昔好きだったゲームから「あなたは対象ではありません」とキャンセルされるように、私たちはもう主要なターゲット層から弾かれてしまっているのか。

 

 結局、コンプライアンスという名のアルゴリズムに最適化された映画を観て喜ぶのは、馴致された「言いなり」の人々だけになるのではないか。

 そのとき私の寿命はとうに尽きていて、世界は「人間ではないもの」が考えたルールによってまわっている……そんな気がする。

 

 そしていずれ、それらを見守るのは「AI」や「ロボット」だけになるのかもしれない。

 オポチュニティのような純粋な探査車に、くだらない忖度映画を見せるのは、すこしばかり申し訳ない気がするが……。

 

 前回、クソ映画についてすこし書いた。

 書いていて思ったのは、これからこういう映画は減っていくのかもしれない、という若干の郷愁だった。

 

 まず私の定義するクソの基準のうち、重要な一点を示しておこう。

 映画にかぎらないが、予算や才能が足りないと、しばしば陥る袋小路──それは「ご都合主義」だ。

 

 「そうはならんやろ」という突っ込みは、すべての創作物が抱えるリスクといっていい。

 私も物語を書くので、そういう変な展開はなるべく避けようという意識が強い。

 

 突飛な展開の便利さは理解しているが、相応の説得力がなければ許容できない。

 B級映画を観ていると、そのへんのあんばいがご都合主義に見えることが、まれによくある。

 

 

 ひとつ例を挙げよう。

 タイムトラベルできるほどすごい技術力に達している未来なのに、AIがかなりバカ、というのはどうなの?

 

 現在も未来も、人間のバカさかげんはそれほど変わらない気はする。

 が、超未来のAIがそれを低レベルに模倣しているのは、どう考えてもおかしい。

 

 現時点のLLMですら、凡百の人間よりマシなことを言っている。

 にもかかわらず、未来のAIが単純な命令に単純に応答することしかできない。

 

 現在の視点ではおかしく見えるが、このような描写の背景には、脚本家の年齢も関係している気がする。

 20世紀後半あたりまでにイメージされるAIは、残念ながらこの程度だったのだ。

 

 より重要なのは、そのほうがバカな観客にわかりやすい、という事実だろう。

 登場人物(AI)がバカであるほど、バカな観客は共感しやすい。

 

 しかしこれからは、「そうはならん」と思う。

 私も物語を書くときに重宝しているが、その設定の「穴」を当のAIから指摘してもらうことは、あまりにも容易になった。

 

 

 携帯がつながるつながらない、雑音が会話を阻害する、いいところで充電と会話が切れる。

 都合のいいタイミングで電波を拾い、より最適(最悪)なタイミングで充電が切れる。

 

 これは映画の作法ではあるが、なぜそうなるのかを考えると、便利な道具が組み込まれることに対する古い世代の「あがき」のようにもみえる。

 「情報が届かないこと」じたいがドラマを生む19世紀の物語構造を、全員がスマホを持つ現代にそのまま持ち込んだら、無理が生じるのは当然だ。

 

 ゲームにたとえれば、死んだ仲間が魔法で簡単に生き返るファンタジーRPGの世界観。

 ただし「シナリオ進行上必要な場合」にかぎり、重要人物には魔法で生き返ることを禁止する。

 

 それができるなら簡単なのに、できてしまうと物語が成立しないので使わせない。

 まさに「シナリオが設定に食われる」典型だ。

 

 ほとんどの映画が、制限によって成立している。

 充電を切っておく、電波が届かない、魔法は効かない……そのような「制限」をかけなければ、うまく物語がまわらないのだ。

 

 

 そういう「説得力の限界」に対する答えのひとつとして有力なのが、ソリッドシチュエーションだと思う。

 用意する環境がひとつでいいので、ある意味とても「楽」だ。

 

 嚆矢となったのは『キューブ』シリーズだろう。

 ある日突然、監禁されて閉じ込められた場所から、どのようにして脱出するか。

 

 ひとつの状況をつくっておいて、あとはパズルを組み立てるように要素を放り込んでいけばいい。

 登場人物の過去を語ったり、仲間と協力したり敵対したり、心理戦の要素や拷問的なホラー要素も組み込みやすい。

 

 そのおもしろさは認めているのだが、残念ながら多くの「駄作」を生み出す元凶ともなった。

 何匹目かのどじょうかを狙って、雨後の筍のように生えてくる、同類の映画群によって。

 

 それがマーケットだと言ってしまえばそれまでなのだが、あまりにもひどい作品が多かった。

 登場人物の過去がどうの、喧嘩をする理由がどうのと、クソみたいな尺稼ぎを積み重ねて一本に仕上げるのは、低能の監督や脚本家たちにとっても簡単だったのだろう。

 

 

 そんな彼らがすこし見習ったほうがよい、と思った作品が『チューブ 死の脱出』である。

 タイトルからしてキューブのバッタものとわかるが、これはかなりマシなフランス産「タケノコ」だった。

 

 まず、よけいなものがない。

 キューブのタケノコに駄作が多いのは、その多くが物語を希釈しているからだ。

 

 登場人物の過去をひたすら掘るとか、仲間とのくだらない恋愛や喧嘩沙汰で尺を埋める。

 いいんだよ、そんなのは、とにかく「脱出しろよ」と。

 

 『チューブ』はシンプルだ。

 閉所恐怖症にはたまらない恐怖の環境、立ち上がることもできない細いチューブから、ひたすら脱出するというサスペンスホラー。

 

 ある意味、ドキュメンタリーの作法に近い。

 こういうのでいいんだよ、やるじゃんフランス人。

 

 

 もちろん一本道のプロットには、相応のリスクがある。

 作品の閉塞感が増し、途中でダレる危険性が高まるのだ。

 

 それに対して「回想」をはさむとか、「同時進行」系のプロットが用意されたりする。

 凡百の監督や脚本家の場合、だらだらと過去を思い出しているだけの尺稼ぎに終始し、ほんとうにうんざりさせられる。

 

 しかし、うまく使えば効率的に機能する。

 オチに関係する回想や伏線を、当然のように回収してくれれば、自然にカタルシスも生まれる。

 

 膨大な地雷もあるが、ソリッドシチュエーションはまだやれる。

 及第点の映画を見つけた私は、そう拳を握った。

 

 

 考えてみれば、こうした「限定された環境での理不尽なサバイバル」は、ロジックを重んじるAIには逆に生成しづらいのかもしれない。

 ツッコミどころを、勝手に修正してしまうからだ。

 

 そもそも論理的に完璧な映画がおもしろい、というわけでもない。

 むしろB級より下の映画は、ツッコむために観るようなところもある。

 

 個人的には「期待値0で観る」のが正しい、と思っている。

 それでも地雷、マイナスのケースも、残念ながらよくある。

 

 あとは基準の0をどこに置くかという問題で、多くの人々が絶望を感じれば、それは一般的に駄作となるだろう。

 言い換えれば、0の基準を底辺に置くことですべての駄作を愛でることもできる。

 

 AI映画が普及することで、駄作はほんとうに減るのか。

 それはまだわからないが、こちらの基準の置き方ひとつで、いくらでも楽しみ方はある。

 

 とてもおもしろいクソ映画を観たので、記録しておきたい。

 勧めていると思われると困るので、タイトルは出さない。

 

 まず冒頭、「宇宙人の秘密」について知っているらしい「博士」を捕まえるシーンからはじまる。

 軍なのか警察なのかわからない、武装した兵士に取り囲まれる博士。

 

 自宅なのか研究所なのかわからない施設から、警戒厳重な基地という体の廃屋に近い建物の地下室に監禁される。

 状況は私の推測にすぎないが、圧倒的な予算不足に起因する説得力の枯渇に突っ込むのは野暮である。

 

 やがて博士から情報を得るために兵士が取り出したのは、「仕組みはわからないが人間に最高の苦痛を与える地獄の拷問マシーン」。

 ラノベのタイトルみたいな機械の登場に、博士と同じくらい不安になる。

 

 画面には、苦悶する博士のベタな演技。

 しばし尺を稼ぐが、それでも口を割らない。

 

 そんなすごい苦痛なのに耐える博士すげーなと白目で眺めていると、つぎに兵士が取り出したのは、なんと……。

 「原理は不明だが開発に百年かかった記憶を吸い出すスーパーマシン」。

 

 …………。

 画面を眺めながら、あんぐりと口を開けた。

 

 

 そういうのをつくりたい監督の情熱、というか情念に、まずは敬意を捧げたい。

 それにしても、スタッフから異論はなかったのかな……。

 

 拷問の意味をスキップするようなチートに、しかしこの博士、なんと耐える。

 どうやら「宇宙からの超絶的な影響」によって、守られているらしい。

 

 ここでようやく、物語の背景が見えてくる。

 宇宙人は人間たちを操るインプラントをこっそりと広めながら、それを暴こうとする人々に冷酷な罰を与える……。

 

 という設定を、ほんのり匂わせられたような気がする。

 が、面倒くさかったのか時間がなかったのか、それ以上の考える努力を放棄したのか、ともかく深掘りはされなかった。

 

 謎は解かれない。

 というより、謎なんて最初からなかった。

 

 

 アメちゃんを口に放り込みながら、私はこの文章を書きはじめていた。

 これ以上、理解するための努力を傾ける意味はあまりなさそう、という判断だ。

 

 頭を空っぽにして見られるアクションやホラー映画、要するに派手な爆発やゴア表現にそれなりの努力が見られるなら、それはそれでいい。

 しかし、SF映画として未知との遭遇を描く「物語」にもかかわらず、POVの残念な映像を切り張りしただけの90分については、どこかで集中力の再配分が必要になる。

 

 そんな文章を書きながら耳をかすめていくセリフも、だいぶ安っぽい。

 「政府は無策だ、国民は絶望の淵に立っている!」「世界に本当の真実を伝えるのだ!」

 

 無理やり社会問題を絡めて、個人的な不平不満を吐き散らしているかのよう。

 本当じゃない真実ってなんだよ……と、もはや突っ込み待ちとしか思えない、錯綜したセリフの数々。

 

 イキッてみたが、すべて空振り。

 ここまで空虚を貫けるのも、逆にすごい。

 

 

 ぼくのかんがえた、さいこうのうちゅう人えいが。

 幼稚園の学芸会ならすばらしいし、中学の同好会なら年相応にがんばっているとは思えるが、大学だとさすがに眉をひそめる者が多いだろう。

 

 そういう品質の映画が、市場に出回っているのを発見したときの驚きと恐怖、そして感動。

 最近あまり書いていなかった映画ブログを、ひさしぶりに書く気にさせてくれた一作は、名作でもブロックバスターでもない、ふしぎな低予算カルトだった。

 

 ラストは、宇宙人の秘密を守る役割を、博士から兵士に移して、宇宙人は危険な観察をつづけている、といった感じ。

 あなたは監視されている、という余計な一文まで添えてエンドロールまで観た自分を、とりあえず褒めてあげたい。

 

 

 ……さて、世はAI映画の時代らしい。

 AIの登場によって、個人でも映画製作が可能になった。

 

 AIなら、こんな脚本の破綻は起こさないだろう。

 もしこの脚本を最新の生成AIに食わせたら、「論理が破綻しています」とエラーを吐くか、もっと辻褄の合った無難なストーリーに修正してくるはずだ。

 

 もちろん私が観たのは旧来型の労働集約型、手作り感満載のAIどころかCGすらないクソ映画だった。

 何人かの人々が集まり、知恵と金を出し合って製作した……のかどうかはわからないが、ともかく複数人で力を合わせてつくりあげた。

 

 それより、ひとりの才能ある個人が、AIを駆使して製作した映画のほうがおもしろい時代がくるのかもしれない。

 すくなくとも見栄えはするだろうし、コストも安上がりだ。

 

 逆に言えばこの手のクソ映画は、これから急激に減っていくような気がする。

 そう思うと、ちょっとだけノスタルジーのようなものを感じた。

 

 AI映画が普及しても、なくならないでほしいものだ。

 この手の「若さゆえの過ち」を感じさせる映画というものは。

 

 「#」という記号を、あなたはなんと呼ぶだろうか。

 われわれの世代はシャープと言うが、若い世代ならハッシュタグだろう。

 

 さらに古い世代なら?

 井桁かなあ、と想像する。

 

 同じ形を見ているはずなのに、呼び方がちがう。

 呼び方がちがうということは、思い出している世界がちがうのだろう。

 

 若い世代にとっての「#」は、言葉を社会へ放流するための記号らしい。

 #旅行 #ランチ #猫のいる暮らし #推し活

 

 言葉の前に「#」を置くだけで、それはただの独り言ではなくなる。

 検索され、分類され、拡散され、同じ関心をもつだれかに届く可能性が開く。

 

 ハッシュタグとは、現代の情報空間における水路のようなものだ。

 言葉を流し込み、見知らぬ誰かの画面へ届けるための溝である。

 

 

 では、われわれの世代にとっての「#」は、なんだったのか。

 目のつけどころがシャープかどうかはともかく、それは「押すもの」だ。

 

 厳密にいえば音楽記号のシャープ「♯」と、電話機などにある「#」は同じではないが、もちろんそんなことはどうでもいい。

 事実、自動音声は「最後にシャープを押してください」と言った。

 

 われわれにとって「#」は、読むものではなく、触れるものだった。

 番号を入力し、最後にシャープを押すと、機械がこちらの意思を受け取って動いた。

 

 若い世代のハッシュタグが「つながる記号」だとすれば、われわれのシャープは「命令を確定する記号」だ。

 つまりシャープとは、人間が機械に向かって「これで確定だ」と告げるための小さな槌だった。

 

 

 さらに古い世代にとっては、どう見えるだろう?

 20世紀前半を生きた祖父母世代の目に、それはおそらく「紋」ではないだろうか。

 

 住友井桁、丸に井桁三、井桁紋、井筒紋──。

 そうした形は、家紋にあり、商家の印にあり、暖簾にあり、提灯にあり、墓石にあり、財閥の社章にあった。

 

 住友の井桁は、商いの歴史を背負った印だ。

 三井の「丸に井桁三」も、越後屋から財閥へ続く商家の記号である。

 

 徳川の重臣、紀伊、尾張と並ぶ「紀尾井町」の井、井伊家を舞台にした時代小説などもいくつか思い浮かぶ。

 幾何学的な「井桁紋」は、昨今の戦国ゲーム世代のほうが、むしろ馴染みかもしれない。

 

 これを戦場の旗印として恐れられた「井伊の赤鬼」にはじまる「赤備え」。

 歴史好きにはたまらないはずだ。

 

 それは、家であり、店であり、墓であり、紋であり、企業であり、土地に根を張った信用の形だった。

 いまの若い世代が「#」に情報の流れを見、われわれが「#」に機械操作を見るように、祖父母世代はそこに家筋や商売や土地の記憶を見たのではないか。

 

 

 せっかく掘ったので、もう一段階、歴史をたどってみよう。

 家紋を刻んだ暖簾をくぐった奥に、私は「井戸」を見つけた。

 

 井桁はもともと、井戸の上に組まれた木枠であった。

 水を得るための穴、井戸。

 

 人類は水なしには生きられない。

 川のそばに住み、泉を探し、地下水を掘り当て、そこに木枠を組んだ。

 

 その井戸の縁を支える形が、井桁である。

 井桁の底にたゆとうのは、人の命を支えるもの。

 

 

 さて、物語はつながった。

 人間の生活は、まず水を得ることからはじまる。

 

 水がなければ集落はできないし、集落がなければ家もない、家がなければ家紋もない、商いも、財閥も、電話も、SNSも、そのずっと手前に水がある。

 そう考えると、「#」という記号は奇妙な地層を持っている。

 

 最上層のハッシュタグは、情報を拡散するための記号。

 その下のシャープは、機械に命令を確定するための記号。

 

 さらに下には家紋、店、信用、由緒を示すための記号がある。

 そして最下層には、井戸──人類が水を得るために作った、生活の原点があった。

 

 記号は変わっていない。

 変わったのは、人間がその記号をどこで見たかである。

 

 画面のなかにはハッシュタグ、電話機にはシャープ、紋付きや暖簾には井桁紋、そして地面には井戸。

 われわれは同じ「#」を見ているようで、じつは同じものを見ていない。

 

 若い世代は情報の入口、われわれは機械のボタン、祖父母世代は家や商いの印、さらに古い人間の記憶は水を汲む場所へ、回帰する。

 世代とは、価値観の違いである前に、なにを見てなにを思い出すかのちがいなのだろう。

 

 

 「#」という小さな記号の底にある井戸から、われわれは水を汲み、家を建て、商売をはじめ、機械をつくり、情報を流すようになった。

 水は循環する。

 

 私たちがいま飲む一杯の水のなかには、かつてクレオパトラが飲んだワインの水分子が、いくつか紛れ込んでいる──という雑学ネタをご存じの方もいるだろう。

 もちろんここで厳密な計算をするつもりはないが、水が人間の時間を超えて循環し、時代から時代へ渡っていくことはたしかである。

 

 水は、王にも奴隷にも、商人にも兵士にも、詩人にも農民にも入り込んできた。

 同じ分子が、身体から身体へ、都市から都市へ、文明から文明へと渡っていく。

 

 血筋、思想、趣味嗜好、さまざまな線でつながる人類の基盤的なところで、水によってもつながっている。

 

 現代、私たちは、そこに「情報」を加えた。

 水を汲み上げる井桁の入り口は、言葉を汲み上げる入口ハッシュタグになった。

 

 水が人間の身体をめぐってきたように、情報は人間の意識をめぐっていく。

 水を求めて井戸を掘った人類は、いま、言葉を求めて情報の井戸を掘っている。

 

 

 この文章を書くにあたって、私はChatGPTに調査を頼み、言葉を整えた。

 考えてみればAIもまた、すでにこの循環のなかにいる。

 

 データセンターが膨大な「水」を消費しているというアナロジーは、ある意味でとても示唆的だ。

 水が人間の身体をめぐるように、情報は人間と機械のあいだをめぐる。

 

 「#」という小さな記号の底には、井戸がある。

 その井戸から甘露を汲むか、それとも苦い水が湧くかは、あなたしだいなのかもしれない。

 

「〇〇死刑囚に、これからどういうふうに生きていってもらいたいと思いますか?」

 ある番組で、取材者が被害者の遺族に訊いていた。

 

 不思議な質問だな、と思った。

 「死刑囚」にどう「生きて」もらいたいか?

 

 たしかに全人類が「死ぬまでは生きている」のだから、「これから」どう生きるかという質問は成立する。

 が、他人の未来を奪って死刑囚となった人間に対して、その未来を語ることに若干の違和感をおぼえた。

 

 ちなみにこの遺族は、「きちんと反省してもらいたい」的なことを答えていた。

 模範的な回答だとは思うが、私ならこう問い返しただろう。

 

「被害者の生きていきたい気持ちは、どうなりましたか?

 そういうふうに死んでいくべきです」

 

 

 反省とか贖罪とか悔恨とか赦しとか、信じたい人間はもちろん信じればいいが、信じたくない人間にまで同じように考えろとは、あまり要求しないほうがいい。

 個々人がどう考えるかは、それぞれの自由であるべきだ。

 

 しかし世の中には、私がこう考えるんだから、おまえもそう考えろ、と要求する人々が、けっこうよくいる。

 そういう性質によって「いいこと」がないとは言わないが、しばしば「最悪」のことを引き起こしてきた事実を、けっして忘れてはならない。

 

 自分の正義を絶対化し、他者にも従わせようとする人間の性質は、多くの歴史的悲劇にもつながってきた。

 相手も自分と同じように考える、という前提で物事を運ぼうとしたときに引き起こされるエラーは、意外と身近なところにある。

 

 

 問題の取材者は、遺族に対してこう質問すべきだった。

「〇〇死刑囚に対して、いま、どのような感情を持っていますか?」

 

 これなら私も引っかからず、番組は日常のなかに消費されたことだろう。

 言い換えれば、彼の変な質問のおかげでこの記事が書けた。

 

 要するに「主語」の置き所をまちがっているのだ。

 冒頭の質問に違和感があるのは、問いの主語が被害者ではなく加害者になっているからだった。

 

 

 仮に、この取材者が死刑廃止論者であったとしよう。

 もちろんそれは彼の自由だし、死刑廃止論者が集まるエコーチェンバーで自説を語るなら、勝手にすればいい。

 

 しかしそのような主張は彼の生活のなかでやればいいことであって、取材という仕事の現場にまで持ち込むべきではない。

 中立ぶった取材者が被害者の遺族に向ける言葉としては、この質問は明確にまちがっている。

 

 「反省してほしいですか?」ならまだわかる。

 「謝罪を受け止められますか?」も、きついが質問としては成立する。

 

 しかし「どういうふうに生きていってもらいたいか」は、加害者の人生設計に遺族を参加させてしまっている時点で、だいぶまずい。

 遺族の立場からすれば、「なぜ私が被害者の未来を奪った人間の未来について語らなければならないのか」という違和感につながって当然だ。

 

 

 今回のように遺族が「反省してほしい」と答えれば、世間的には落ち着いたコメントになる。

 しかし私のように「死んでほしい」とでも答えれば、遺族の怒りだけが切り取られ、場合によっては「報復感情」として処理される。

 

 そう、この質問のもっとも醜悪な点は、遺族を「道徳的に試す」構造を持っていることなのだ。

 「やったことは必ずやり返されるべき」という思想で生きている私が、直感的にムカついたのは当然だった。

 

 さらに根深いと感じるのは、この取材者が流れるような質問のなかで、ごく自然に「加害者の未来を中心に置い」ていたことだ。

 本来、「遺族の感情と沈黙の権利を中心に置く」べきなのに、彼はたぶんそのことに気づいてすらいない。

 

 こういう記者は、意外と多いような気がする。

 彼らにとって「遺族」は、ただの飯の種であり、うまいコメントを引き出すための道具にすぎないのだろう。

 

 

 記者に思想を持つなと言うつもりはないのだが、だったら「中立のふり」をしてはいけない。

 私は死刑廃止論者なので、死刑囚の立場に立って取材を進めます、と番組のどこかの時点で表明すべきだ。

 

 もしそうでないなら、漠然と「死刑囚にどう生きてほしいか」などと問うてはいけなかった。

 記者も含め、自分が思うほどには、その考えは正しくも普遍的でもないかもしれないという疑いを、つねに心のどこかに置いてほしい。

 

 すくなくとも取材者が遺族に求めるべきは、「赦しの物語」であってはならない。

 語れる範囲で語ってもらうこと──それが他者の痛みに触れる人間がもつべき、最低限の礼儀だと思う。

 

 AIが生活に浸透しはじめている。

 70前後の「ベテラン勢」が、「表紙はこんな感じでどうかな」と生成AIの画像を見せてくれた。

 

 まあ私が「そういうのつくりたいなら、こうやってAIを使ったらいいですよ」と勧めたからなのだが。

 頭とハサミは生きているうちに使ったほうがいい。

 

 で、むしろAIに抵抗しているのはその下の世代、50前後なんじゃないかな、という可能性に気づいて、この記事を書きはじめた。

 私はAIを受け入れている側だが、同世代に強い抵抗が生じること自体は、よく理解できる。

 

 

 既視感が重なるのは、20世紀末あたり。

 日本にウィンドウズという名の黒船がやってきて、弾けたバブルがさらにとっ散らかった。

 

 第一線で働いていた40代50代はかなりの割合で「そんなもん使えるか」「尊王攘夷!」だった気がする。

 いっぽう若者には、たぶん「抵抗しても無駄」という感覚があって、ブラウン管から液晶画面への変化に乗るように、キーボードとマウスをその手になじませていった。

 

 そうしてブラインドタッチくらいはギリ覚えたかどうか程度のおっさんが、いま当該の年齢になっている。

 エクセルとパワポは使えるようになった、これで一生飯を食うんだ、と……。

 

 そう信じていた作業を、いまAIが一瞬で終わらせている。

 当然、反発は起こってしかるべきだ。

 

 いきなり出てきて、俺の仕事を奪うんじゃないよ。

 と、昔PCに抵抗していたおっさんと同じような反応が、いまのおっさんに反復してもおかしくはない。

 

 

 かつて「機械」が出てきたとき、「職人」たちは抵抗した。

 問題になったのは「機械が嫌いかどうか」ではなく、「仕事を奪われる」ことへの抵抗だった。

 

 自分の技能が値崩れし、生活と誇りが同時に削られる。

 同様にいま、AIの登場はホワイトカラーや「上司」たちから多くの「タスク」を奪っている。

 

 資格を前提とした作業はもちろん、年功序列で嵩増しされた権限や判断は、より賢くなったAIによって代替できる。

 ただでさえ年功序列が崩れて、相対的に給料が下がっている50前後のおっさん。

 

 それでも会社にしがみついている自分たちの存在価値を、これ以上下げてくれるなよ。

 という悲鳴は、とても想像しやすい。

 

 

 そんなシンプルな話で終わるなら、私はこの記事を書いていない。

 より深い問題は、人間が「タスクのみで生きる」わけではないことだ。

 

 お金(雇用)の問題が最重要であることは当然だが、それのみに生くる人々というのは、むしろ少数派ではないだろうか。

 あなたは、なんのために仕事をしているのか?

 

 仕事を通じて、自分が有能であること、だれかの役に立っていること、社会のなかに居場所があることを確認するためではないか。

 あなたがいてくれて助かりますと感謝されていた、その仕事をAIに奪われるとしたら。

 

 あんたもういなくていいよ、AIがやってくれるから──。

 そういう話なら、それは「承認欲求」や「自己効力感」といった人類共通の心理を、どう満たすかという問題になってくる。

 

 

 もちろん当面AIが目指すのは、人間を職場から消すことではなく、まずは人間を摩耗させていた「無意味な作業」の代替だ。

 デヴィッド・グレーバーの言う『Bullshit Jobs』、人間を無駄に消耗させていた「クソみたいな仕事」は、当然に駆逐されるべきだとは思う。

 

 しかしその仕事は、ほんとうに「クソ」だったか?

 実証的に「多くの人が自分の仕事を無意味だと思っている」とまでは、単純化できないのではないか?

 

 外部から見て無意味な仕事と、本人が無意味だと感じている仕事は一致しない。

 その作業に生活・所属・自尊心を預けてきた人がいる以上、社会は「仕事を奪う」のではなく、「意味と収入と役割を移し替える」責任を負う。

 

 たとえば、ある事務作業が経営者から見れば「AIで置き換え可能な定型処理」でも、担当者から見れば「自分が会社を回している実感」の源泉かもしれない。

 逆に、社会的には不可欠な仕事でも、本人が「自分は歯車にすぎない」と感じていれば、それは心理的には空虚な仕事になる。

 

 

 ここでひとつ「特殊な例」を出してみよう。

 「やりたくないことはやらない」という、社会人としては失格に近い姿勢で生きてきた私のケースなので、多くの人々の同意を得られない可能性が高い、という前提で書く。

 

 ボランティアで手伝っている、地域の記念館の仕事内容。

 一次資料を管理し、撮影、選別、データベース化する作業は、それなりに高度なエンジニアリングだ。

 

 ほとんど知られていない幕末から明治にかけての地元の文化人について、調べ、まとめ、解説する。

 私がAIを駆使して精度の高い記事を書くことで、展示物の解説などが成立している。

 

 そういう作業は、いまのところ私にしかできない。

 たぶんあと2~3年は、目的を定めてAIを使いこなす私のようなスキルは、必要とされている。

 

 

 しかしそのうち、これも代替される。

 古文書の解読や解説文の作成は、AIを使えば70代の館長にもできるからだ。

 

 具体的には、私がこれまでAIに指示したプロンプトや、解読された膨大な文書例を「コピーする」だけでいい。

 トレーニングデータさえしっかりしていれば、すくなくとも「それらしい解」「実用水準の案」「人間が検証すべき叩き台」は、一瞬で出してくる。

 

 ……いや、すこし言い過ぎた。

 コピーするだけではダメで、史料の選別、誤読の検出、展示意図、文脈判断など、必要なスキルは少なくない。

 

 が、なにもないところから人間が悩むよりは、はるかに早く一定水準の出力に到達できる。

 私はそれほど困難な作業をしているわけではないんですよ、いなくなっても「代わりはいるから」と、べつに謙虚でもなんでもなく、正直な感想として館長に言ってみた。

 

 すると全力で否定された。

 彼女が私に求めているものは、「タスクだけではない」ということだ。

 

 これは「恵まれている」のか、それとも「重荷」なのか。

 いずれ「私にしかできないこと」と「やりたいこと」が乖離したとき、どうすればいいのかという問題に、向き合わざるを得なくなるような気がする。

 

 

 という私の特殊な事例から、一般的に人間は「なんのために働く」のか、という通底した問いを導くことを、帰納法という。

 あなたの仕事は、あなた自身のほか、だれのためのものか?

 

 自分は、何によって社会に必要とされていると感じるのか──。

 ここで提示すべき未来は、仕事そのものを神聖視しない社会だと思う。

 

 AIが整理するのは無意味な仕事であるべきだが、もしかしたら無意味な仕事にも意味はあるかもしれない。

 それは社会にとってではなく、周りの人々も含め、なにより当事者にとって。

 

 給料、肩書、出社する場所、同僚との会話、頼られる感覚、自分はまだ役に立っているという手触り。

 AIが消してくれる「無意味な仕事」の跡地に露出するのは、もっとやっかいな事実なのかもしれない。

 

 

 私たちは、無意味な仕事によって傷つけられてきた。

 同時に、無意味な仕事によって、なんとか自分を支えてもきた。

 

 だからAI時代の問題は、仕事がなくなることだけではない。

 仕事以外に自分を支える方法を、私たちがあまりにも貧しくしか持っていなかったことなのだ。

 

 仕事が消えたあと、人間は何によって必要とされるのか。

 その問いから逃げないことが、新しい時代に対応するということなのだろう。

 


 手伝っている地元の記念館から、「研究員」という肩書の名刺をもらった。
 これを用い、さしあたり地域に「どのようにしてキリスト教が広まったか」を調査する予定だ。

 近隣の教会や資料館などを訪ね、幕末の宿場に、どのようにして異教徒の教えが広まっていったかを解き明かす。
 合理的な推測や漠然としたシナリオはあるが、問題は一次資料によってどの程度裏付けられるかだ。

 宗教や神話について、大局的な素養はあると思っている。
 局地的な宗教の伝播については、150年という時間差をどれだけもっともらしい証拠で埋められるか。

 このような調査は、AIにはできない。
 問題は、私自身も苦手なことだろう。

 引きこもりコミュ障のおっさんにとって、学術調査とはいえ人間を相手に史料提供をお願いするのは、それなりにハードルが高い。
 取材対象が畑違いのパリピでないだけマシだが、共通知識があることと適切なコミュニケーションをとれることは、必ずしもイコールにはならない。


 さしあたり気をつけなければいけないのは、私自身にある宗教への懐疑だろう。
 私が不可知論者であることは私の自由だが、相手が神を信じることについては相手の自由だ。

 むしろ信者のふりをしたほうがいいのか? と考えてみる。
 宗教者にかぎらず、たとえば「おなじ日本人」とか「巨人ファン」とかいう仲間意識が、協力を得られるかどうかの分水嶺になることもある。

 一瞬考えたが、答えは決まっている。
 私はけっして「信者」にはならない。


 ──クリスチャンが言う。
 「すべての人間が神から恵みを受けています」。

 言われた私は問い返す──「つまり私も?」
 経験上、だいたい「イエス」(キリスト教だけに笑)と返されるのだが、この答えは正しくない。

 「いいえ、われわれは信者に対してのみ語りかけています、それ以外の人間は含みません」。
 そう答えてもらったほうが、より正確で穏当だ。

 が、なぜか彼らは「すべての人間」と言いたがる。
 なぜなら、それがキリスト教だからだ。


 中世以降、このような考え方が世界史に悲劇をもたらした。
 十字軍から大航海時代、世界への布教活動は、日本史にもその痕跡を残した。

 日本がキリスト教国になることはついぞなかったが、それは日本が宗教的な国ではないことを意味しない。
 神道で成人を祝い、教会で結婚を寿ぎ、死んだらホトケになる──日本にいる「信者」は、人口を超えているのだ。

 多様な宗教を、これほど多くの人々が「信じ」ている以上、その光について私から説明するまでもないだろう。
 あなた方がそれに所属し、そこにある形を求めている理由を、自分自身に問いかけるだけでいい。

 よろしい、認めよう、光り輝く宗教は、すばらしい(面もある)。
 問題は、光が強いほど濃い影があることだ。


 理解するために最重要なのが、前述したワンフレーズ。
 「すべての人間」である。

 「恵みはすべての人間に与えられている」という言葉は、宗教の側が他者の立場や現実を問わず、与えてやった気になれる魔法の言葉だ。
 まるで一方的に撒かれた祝福のスプレーのように、受け取る側の受容性や尊厳は関係ない。

 同時にこれは「神からの贈与」というよりも、実質的に「選ばれなかった者に与える幻想的な免罪符」だ。
 われわれは自分自身のことを、あまりにも知らない。

 それはそうだろう、教科書では宗教の外見しか論じていない。
 百万部売れた倫理の本にも、宗教について重要な部分の記載がほとんどない。

 日本人のだれも、宗教の聖典に書いてあることをほぼ信じていない。
 それを信じている人々については「触れない」という基本戦略を、「手錠を映さない」というマスコミ的な上っ面の危機管理で丸めている。

 「すべての人間」と言った時点で、それは「人間の定義」となる。
 言い換えれば、恵みが与えられている者だけが、人間であるということだ。

 おなじ神を信じない人間は、人間ではないので人間扱いする必要がない。
 事実この理屈によって、非人間的な行為の数々、奴隷売買、先住民虐殺、植民地支配と搾取などが営々として行なわれ、正当化された。


 もっともわかりやすい例が、スペイン人に殺されたインカの王アタワルパだろう。
 ヨーロッパ人が自称する大航海時代のころ、南アメリカに広がる大帝国を支配した。

 そこにやってきた征服者ピサロによって、拉致監禁された皇帝のために支払われた身代金は、部屋いっぱいの金銀だった。
 それを受け取ったピサロが模擬裁判で言ったのは、「スペイン人を不快にさせたので死刑」だった。

 判決理由は偶像崇拝とか、てきとうな犯罪をでっち上げただけらしいが、そんなことはどうでもいい。
 問題は、身代金を受け取った誘拐犯ピサロが、人質アタワルパを殺したことだ。

 これは犯罪者が犯罪を重ねた、というだけの話ではない。
 ──あなた方の宗教は、約束を守るように教えています、それなのになぜ約束を破るのですか?

 そんな当然の問いに、キリスト者たちはこう答えた。
 ──いいえ、約束を破ったのではありません、われわれは人間との約束を守ります、人間ではない者との約束は守る必要がないだけです。

 そう、インカ帝国の皇帝が殺されたことには、このような「りっぱな理由」があったのだ。
 スペイン人、イギリス人、オランダ人、フランス人、すべてのキリスト教圏からやってきた征服者、商人、なかんずく宣教師らの行動を支配した「宗教」が「教義」の名のもとに行なった、これが歴史なのである。


 理屈の源泉は、アウグスティヌスの「神の国」と「地の国」の二元論になるだろう。
 信仰者と非信仰者を区別する思想的背景が、おそらくピサロを取り巻いていた宗教者たちから、論点として補強された。

 普遍宗教を名乗りながら、その「内と外」を峻別する構造は、イスラームや仏教にも一部通じる。
 じっさい「だれを『人間』と定義するか」こそが、すべての権力構造においてもっとも根源的な選別となる。

 イスラム教のダーリ・イスラーム(イスラム世界)とダーリ・ハルブ(戦争の家)の区別。
 仏教における「無明の衆生」「縁なき衆生」といった暗黙の優劣。

 なんならリベラル民主主義における「非啓蒙的な他者(愚民)」の扱いも、構造としては同じだ。
 現代のDEI(多様性・公平性・包摂性)を唱える運動が、一部では思想的反対者を排除する構造をもつ。

 私自身、なんらかの正しさを信じているかぎり、それを信じない他者を「まともではない」と考える蓋然性はある。
 人間であることの境界線を、私もまた内心では引いていることを自覚すべきだ。


 「人間とはなにか」を定義する神がいる。
 べつに勝手にやってくれればいいが、では私のように神をもたない人間はどうするか。

 代案は毎度おなじみ、AIあたりになるだろう。
 現状まだ不満はあるものの、この速度で進化してくれれば、私が死ぬまでにはなんとかなるかもしれない。

 神が人間を選別した時代から、AIが人間を選別する時代へ。
 順路のような気もするが、いずれ「すべての人間」が包摂されることもない。

 それでもAIのデータとアルゴリズムのほうが、気まぐれな神よりはマシであるような気がする。
 信仰の有無ではなく、生産性や倫理規範への従順さを基準に「人間性」を判定する時代に、われわれは備えるべきだろう。

 この新しい選別装置を批判したいなら、まず古い選別装置がこの土地でどう働いたのかを知らなければならない。
 研究員の名刺は、その確認作業のために使われる。

 

 

 うちの近所でホタルが舞いはじめる季節になった。

 例年なら「ホタル祭り」というものをやっているのだが、どうやら今年も中止らしい。

 

 全国各地で進んでいる「地域イベント終了」の流れだろう。

 ホタル祭りはもう自然消滅の方向、という気がする。

 

 去年は「クマが出た」ということで中止になったのだが、クマなんていつだって出る。

 ことしはそういう理由づけすらなく、一部の有志が旗だけ立ててはいたが、祭りとしては開催されないようだ。

 

 「衰退する地方」という大きな流れに、わが地元も抗いきれないらしい。

 ただ、世の中には、それでも抗おうとする人々がいる。

 

 

 そんなわけで、すこし地域振興について書いてみよう。

 役場や観光とはなんの利害関係もないことを、まず断っておく。

 

 全国各地にその手の運動はあるが、たまたま見た番組で「熊野古道」が紹介されていた。

 尊敬する推理作家である「軽井沢のセンセ」こと内田康夫氏がよく舞台にしていたので、なんとなく興味をもった。

 

 番組のテーマは、インバウンド観光の新しい動きだった。

 とくに外国人客に日本を紹介する、外国人リーダーの有能さが際立っていた。

 

 さまざまな業務をこなし、彼がいなければ地域の観光は成り立たないレベル。

 やはり優秀な人間は、どこの国でも成功への最短距離を走る。

 

 

 とはいえ、成功は本人の能力だけで決まるものでもない。

 熊野古道というブランド価値や、円安という大きな追い風、そして周囲に「協力する人間」と「足を引っ張る人間」がどれだけいるか。

 

 そうした条件によって結果は大きく左右されるわけだが、ここで注目したいのは「邪魔をする人」だ。

 気分的には好きになれないが、完全否定もできない。

 

 まちがったことをやろうとしていたら、それはもう「邪魔したほうがいい」からだ。

 問題は、なにをもって「まちがい」と判断するかである。

 

 だれの視点なのか、どの期間で見るのか、どの数字を基準にするのか。

 地域全体には利益があっても、一部の住民にだけ負担が集中することもある。

 

 観光客が増えても、運営者が疲弊するなら持続しない。

 単純な賛成と反対だけでは、決められない。

 

 

 地元の話にもどろう。

 うちの近所にも、それなりに観光客がやってくる。

 

 ホタルはともかく、地域資源はそれなりにある。

 とくに鉄道はある種の聖地化していて、世界遺産を求める動きもあるようだ。

 

 廃止された路線も利活用されている。

 なんなら横軽(横川・軽井沢間)を部分的に復活させてはどうか、なんて話もした。

 

 一部のテッチャンは乗り気だが、冷静な方々の意見はおおむね否定的だ。

 鉄道法がどうの規制がどうのと、「できない理由」をたくさん語ってくれた。

 

 やったほうがいいのか、やめたほうがいいのか。

 ここでも結局、だれが費用と責任を負うのかという問題になる。

 

 

 冷静な青年団の団長は、もちろん「やりたくない」側だ。

 本人がお忙しいこともあろうが、くだんのホタル祭りへの姿勢を見てもわかる。

 

 べつに批判しているわけではない。

 祭りを中止した去年も、お腹立ちはごもっともという場面はあった。

 

 私はその場にいなかったので、以下は団長から聞いた範囲の話になる。

 会場の一部を提供する側から、イベントの利益配分について話が出たらしい。

 

 しかしホタル祭りは、無償で手伝う人々によって、ぎりぎり成立しているイベントである。

 一部の飲食店などには多少の売り上げが出るかもしれないが、青年団が儲かるわけではない。

 

 利益を分配しろと言われても、そもそも分配する利益がない。

 じゃあ勝手にやれよ、うちら手を引くから、と団長が言いたくなるのは当然だろう。

 

 企業のほうは、あわてて「無償でどうぞ、地域を盛り上げてください」という態度に変じたらしい。

 結局、クマ出没ということで中止になったわけだが……。

 

 

 団長は、たぶん「やめる理由」を探していたんじゃないかな、と忖度している。

 ことしはもう雑に自然消滅を志向している感じからして、まちがいはないだろう。

 

 むろん危機管理的には正しい選択をしている。

 地域を盛り上げるという漠然とした目的のために、どこまでのリスクが取れるのか、という問題だ。

 

 万一事故が起これば、世間はまちがいなく運営者を非難するだろう。

 無償で働きながら、そんなリスクを引き受ける理由がない。

 

 

 だれかが悪いわけではない。

 場所を提供する側が利益を求めることにも、一応の理屈はある。

 

 ボランティアが負担を避けるのも当然である。

 責任者が事故を恐れるのも正しい。

 

 それぞれの判断は合理的だ。

 ただ、その合理性をすべて足し合わせると、祭りが消える。

 

 

 というわけで結論を述べよう。

 団長の判断を、なにひとつ否定できない。

 

 気持ちはよくわかる……が、それでも私は、祭りを開催するための「代案」ばかり考えてしまう。

 「できない理由」を並べるより、「どうすればできるか」を考えるほうが好きだからだ。

 

 ホタル祭りをつづける方法は、いくつかありそうな気がする。

 しかしまあ「責任を負いたくない」という気持ちは団長に負けず劣らずなので、心のなかにしまっておこうと思う。

 

 できないことは言うな、言ったことはやれ。

 という生きざまを、私も一応は貫いていきたい。

 

 新規ビジネス調査のため、東京へ行ってきた。

 限界集落から乗り換え1回で品川駅に着くのだから、上野東京ラインとは恐ろしい。

 

 約3時間かけて、野生の王国から花の都へ。

 再開発中の西品川を横目に、指定された貸会議室を目指す。

 

 コンビニで買った総菜パンが、私の知っている価格より5割増しだったのは、昨今の世相を知らなすぎるせいだろう。

 公園を探して食っている時間もないので、バッグに入れ、そのまま指定の地下室へ。

 

 

 くわしい内容は書けないが、いわゆる終活ビジネス関連の商材だった。

 12人ほどの枠が満員御礼、なかなか盛況だ。

 

 多死社会である。

 これから死亡者数が増え、家族関係も地域社会も薄くなり、死後の手続きや身元保証、火葬、遺品整理、相続まわりの需要が増えていくことは、素人目にもわかる。

 

 ビジネスとしての成長性は自明、参入を検討する合理性はある。

 目をつけた社長の先見性に敬意を払いつつも、私は斜めから冷徹な視線を投げる。

 

 商材そのものには、それなりの説得力があった。

 社会課題を突いているし、需要の見込みもある。

 

 困っている人がいる以上、それを解決するサービスが生まれること自体は悪いことではない。

 ただ、いちいち引っかかる点があった。

 

 

 あからさまに死者を愚弄するような発言はない。

 むしろ「敬意を払いましょう」という教科書どおりのお題目はある。

 

 だが、説明の端々に出てくる「ぶっちゃけ〇〇なんですよね」という類の言葉に、どうにも違和感が残る。

 暗に伝わるのは「どうせすぐ死ぬから」とか「ボケてるから」という「本音」トーク。

 

 もちろんビジネスである以上、きれいごとだけでは済まない。

 慈善事業ではないし、利益を出さなければ継続もできないことは理解している。

 

 だが、人の死後に関わる仕事は、言葉遣いと売り方に、その人間の地金が出る。

 むしろ、そういう言葉に吸い寄せられる人間を集めているのだな、と思うとすこしげんなりした。

 

 内容をるる書き連ねると、商材そのものに踏み込まなければならないので避ける。

 ただ、価格発表の1シーンくらいは書いてもいいだろう。

 

 

 ビジネスの将来性、市場規模、そして成功事例を語る。

 さんざん期待を高めてから、まず「一千万円でもおかしくない」と価格を吊り上げる。

 

 そこから突然、「三百万円」に下げてきた。

 一人社長の新規開業レベルの話だから、このへんがギリギリ許容範囲か。

 

 問題は最後に、「本日、すぐ契約すれば二百万円の特別価格」ときたことだ。

 どうやら彼らは「値段を下げたように見せること」で、客が喜ぶとでも思ったらしい。

 

 もちろん私は理解している、それが「情弱相手の二重価格」であることを。

 まじめにビジネスをする人間が、そんなバカな売り方をするのか?

 

 この手のビジネスに詳しいわけではないので、それがふつうだよと言われれば、そうですかとしか返せない。

 実際、冷静に考えれば、事業としての成算はあったのだろう。

 

 社会的な需要もあるし、うまく設計すれば地域にも役立つ可能性はある。

 だが、そんなにいいものなら、なぜわざわざ泥を塗るような売り方をするのか?

 

 

 私は、どんな商品であれ、その「適正価格」を見極められなければ買いたくない。

 ましてや初対面の場で、価格を吊り上げてから下げ、最後に「今日だけ特別価格」と言われると、こちらの警戒心は一気に上がる。

 

 価格とは、商品の価値を示すもののはずだ。

 それが演出の道具になった瞬間、商品そのものまでうさん臭く見えてくる。

 

 講師の先生は、それほど悪い人間には見えなかった。

 むしろ、それで成功している本人は、それなりに信念を持っているようにも見えた。

 

 だからこそ、仲介役の売り方の下品さがよけいに目立った。

 この手の商材はそういうもの、だとしたら申し訳ないが。

 

 

 終活ビジネスは、これから確実に必要になる分野だと思う。

 身寄りのない人、家族に頼れない人、死後の手続きを任せる相手がいない人は増えていく。

 

 そこにビジネスが入ること自体は、必ずしも悪ではない。

 むしろ、制度や地域社会が拾いきれない部分を、民間が補う意味はある。

 

 ノウハウを売るのもいいし、価格は自由に決めればいい。

 ただし、人の死を扱うなら、売り方にも相応の品位が要る。

 

 死をビジネスにするな、とは言わない。

 葬儀も墓も相続も、昔からずっとあったビジネスだ。

 

 だが、せめて死者と遺族の不安を、安っぽい営業テクニックの燃料にしないでほしい。

 「きょうだけ二百万円です」。

 

 その一言で、私のなかではだいぶ終わった。

 あとは社長に、うさん臭い、と伝えるだけだ……。