アメリカやロシアが、世界の片隅で戦争をやっている。

 それをまるで世界中、戦争だらけのように騒ぎ立てる人々がいるが、マスコミの悪い癖だなと思っている。

 

 21世紀ほど平和な時代は、人類史上かつてなかった。

 それはまちがいないし、おそらく多くの人々が同意する。

 

 なんなら20世紀だって2番目に平和だった、とまで言うと否定的な人が増えるだろう。

 二度の世界大戦を含め、20世紀は戦争の世紀と言われることもあるくらいだ──が、じつは平和の世紀でもあったことはあまり知られていない。

 

 武器が高度化して一度に大量に死ぬようになった点は別として、戦争被害は明確に古代や中世のほうがひどかった点、銘記しておかねばならない。

 そもそも人間は、つねに野蛮だった。

 

 

 古代については、あまり確定的なことは言えない。

 個人的には、秦による統一戦争の被害がとても大きいように思える。

 

 ペロポネソス戦争やポエニ戦争も大きかったが、有名なのは古代ギリシャや古代ローマという「文明圏」のほうだろう。

 これらが偉大であったことに議論の余地はない……が、問題は、その光が強いほど闇も濃くなることだ。

 

 彼ら古代人は、たしかに偉大だったかもしれないが、それ以上に野蛮だった。

 なぜなら彼らは、周辺の同じくらい偉大な文明を滅ぼすことによって、世界史にその名を轟かせたともいえるからだ。

 

 中世になると、モンゴル帝国の征服戦争が頭ひとつ抜けている。

 かの「世界史上最大の陸上帝国」は、数千万規模の破局的な死者を出したとされる。

 

 特筆すべきは、国家そのものをいくつも地上から抹消したことだろう。

 西夏、ホラズム・シャー朝、アッバース朝カリフ国、南宋、キエフ・ルーシ……。

 

 現代とは比較にならないほど徹底的に、国や文化が破壊された。

 われわれはその事実をよく知らない、なぜならそれらはほんとうにこの世から「消滅」してしまったからだ。

 

 

 古代や中世に「消滅」した国々について、ここで詳述はできない。

 ただ、そのたびに大虐殺が行なわれ、おそらくポルポトなどよりも徹底的に、無数の文明人が消し去られたことはたしかだ。

 

 敗戦国に人道的に接するなどという発想には、あまり期待しないほうがいい。

 古代や中世とは、そのような「啓蒙」以前の時代であった。

 

 いっぽう、われわれは先人の肩に立って、高みから過去を見下ろすことができる。

 20世紀、たしかに二度の世界大戦や各国での内戦、権力闘争は、近代兵器という道具を得て熾烈を極めたかもしれない。

 

 しかし大幅な「地図」の更新、たとえばヨーロッパ諸国の各植民地からの撤退や、ソビエト連邦の崩壊という圧倒的に巨大な勢力の消滅に際して、それほど大規模な闘争が行なわれただろうか?

 否。

 

 もはや人類は、かつて世界史の表舞台で騒がれたような、大規模な侵攻や統一というダイナミクスとは、別の次元に立っている。

 どこの国家も、独裁者も、せいぜい自分の地位の保全を求める程度で、他国を軍事的に侵略しようなどと考えるお花畑な脳の持ち主は、ほとんどいなくなった。

 

 

 紛争レベルの衝突は、しばしば起こる。

 それによって何百万の難民が発生したりはするだろう。

 

 だが、戦争はもう「あたりまえ」の出来事ではなくなった。

 むしろ支配者は、世界に扉を開いて戦いを挑むような行為に敢然と背を向け、自分の手が届く限られた世界だけを守ろうとしている。

 

 ロシアやアメリカが「戦争らしきもの」をしたがるのは、ぎりぎりそこに「手が届」いたからにすぎない。

 言い換えれば、せいぜい互いの「箱庭を壊し合う」ことに血道をあげる時代なのだ。

 

 火薬庫と言われる中東すら、あくまでも小競り合いだ。

 若干の国境紛争、武力介入、内戦レベルの暴動、おびただしい数の武力事案が起こってはいても、それは中世までの国が消え去るような「戦争」ではない。

 

 

 ここで戦争の「目的」を、あらためて明確にしておこう。

 現在も同様ではあるが、それは基本的に「土地」だ。

 

 かつては得られた「領土」から、さまざまなものを奪い取ることができた。

 畑、家畜、奴隷、金などは重要な産品であり、それを略奪することは自ら生み出すよりも手っ取り早く、要するに「金持ち」になれた。

 

 あるいは植民を行なうことで、無限の価値を見出せるように思われた時期もある。

 先進諸国の多くが利益をむさぼったが、いまやそれは「負の遺産」となって啓蒙の素材となった。

 

 

 現在、「富」を形作っているのは、ほとんどが人的資源とテクノロジー、そして膨大な金融資産である。

 これを戦争で奪い取ることは、できない。

 

 かつてカリフォルニアの富を築いた金鉱は、いまやシリコンと情報に置き換わった。

 どんなに銃を振り回したところで奪い取れない代物だ。

 

 たとえ百万の強襲揚陸隊をもってサンフランシスコの海岸に突撃しても、そこにある富を捕獲はできないのだ。

 いくばくかのデータや技師を捕えることはできるだろうが、それは失われるものに比して微々たるものでしかない。

 

 

 ただし「戦争ごっこ」なら、それなりには儲かる。

 ガス抜きのようにある程度までは許容されてもいるが、下手に規模を拡大すればお金持ちたちが黙ってはいない。

 

 トランプ大統領の行動を見ていれば、なんとなく察せられるだろう。

 最短時間で片づけろ、下手に拡大するな、そういう市場の要請を世界最強のアメリカ大統領さえ無視できない。

 

 そう、もはや「全面戦争」などという事態は、けっして引き起こされない平和な時代となってしまったのだ。

 戦争など起こしたら、自分たちのお金の価値が大きく棄損される。

 

 一部の武器商人が儲けるために、その他大部分の大金持ちが、自分の富を差し出すだろうか?

 ありえない。

 

 

 かつて戦争という甘い汁を吸って生きてきた悪魔にとって、現状は都合がわるくなった。

 だが平和な時代には平和な時代なりのやり方で、搾取を行なう余地はある。

 

 最新の悪魔なら、どう行動するか?

 そういう想像力をもって、物語を書いている。

 

 悪魔のやり口を理解し、対応すること。

 それさえできれば、どんな時代にも負けずに生きていけるだろう。


 毎年この時期になると話題になる。
 最速で辞める新入社員の話。

 いまどきの若い者は、という批判的な意見をまれによく見るが、すくなくともネットのコメント欄では少数派のように見受ける。
 逆張り志向の強い私としては援護してやりたいところなのだが、この件に関しては「さっさと辞めたほうがいい」という信念を変えられない。

 私自身、最初の就職は1か月で辞めている。
 その後はバイトと派遣社員で最終的には自営業になったわけだが、正解だったと思っている。


 新卒社員と派遣社員はちがう、という意見はひとまず置こう。
 その職場にはじめて投入される、新しい社員として私がどう行動したか。

 そこは小さな町工場、育成コストより労働時間が優先される現場仕事だった。
 だれにでもできる作業、止まったらボタンを押すとか、出てきた製品を測定するとか。

 単純作業者として組み込まれているのだと理解しつつも、退屈がきらいな私は機械の性質を理解しようと努力し、より精密な測定を重ねた。
 べつに会社のためとかそういうことではなく、知らないことを知り、よりよくできるのは楽しいからだ。

 真剣にメモしている姿が評価されたのかどうか、旋盤作業を任されるようになった。
 汎用旋盤、NC旋盤、いろいろ覚えることがあり、それなりにおもしろかった。

 最速で仕事を覚え、わりと複雑な作業もこなした。
 おなじ派遣費用を払うなら使ったほうが得、というわけだろう、けっこう任された。


 その後、半年で辞めた。
 覚えるべきこともなくなって飽きてきたし、そもそも「それが派遣」だからだ。

 工場が期待しているのは、基本的に反復作業のための労働力にすぎない。
 それ以上を期待するのは勝手だが、応じるかどうかはこちらが決める。

 小さな工場をひとりでまわす程度はできそうだが、そんなことがやりたいわけではない私。
 いっぽう会社としては、安定して任せられるスタッフに辞められる感じになるので、それなりに困るのだろうとは察する。

 けっこう慰留された。
 応じなかった。

 半年(契約期間)で切り捨てるのは、会社(派遣というシステム)も平然とやっている。
 お互い様だ。


 さて、新卒が最速で辞める話にもどそう。
 言い換えれば、新卒を育てるコストを、どう割り切るかという問題だ。

 個人としてどんなに能力が高くても、会社としては働きつづけてもらわなければ意味がない。
 つづけてもらうために必要なのは、それにふさわしい環境だ。

 それができているか?
 問題の退職代行サービス側に言わせると、あきらかに企業側に問題があるケースが2割らしい。

 あとは働く側の個人的な事情が2割と、残り6割は両者のコミュニケーションの問題だという。
 この見方、わりと正しいように思える。

 退職代行にぐちぐち言うような会社は問題の2割なのだろうが、自分勝手に辞めていく2割の個人にも問題があり、すべて擁護するつもりもない。
 うまいことコミュニケーションをとれなかったのは両方のせいなので、改善の余地があるとすればこのあたりだろう。


 問題のある会社が苦言を述べるのは、当然の「はけ口」だ。
 そんなあなたの仕事がどのくらい必要とされているかについては、すこし考えたほうがよいだろう。

 いっぽう最速で辞めてつぎを探す、問題のある個人もいる。
 そのひとりである私の意見としては、責任を取るのは自分なんだからほっといて差し上げろ、以上だ。

 この齟齬をひとことで表すなら、自己都合の押し付け合い。
 とはいえ自分の思い通りに生きたい人と、他人を思い通りにしたい人、どっちが優先されるかは……あきらかだろう。


 冒頭に書いたとおり、退職代行を使う使わない以前に、辞めたいと思ったら辞めればいいと思っている。
 それをいたずらに長引かせようとするのは、よほどブラックな会社である疑いが強い。

 社員を成長させるための投資をせず、消耗品のようにひたすら使いつぶす側なら、すり減らす以前に辞められるのは困るだろう。
 徹底的に絞って抜け殻のようになるまで辞めるんじゃねーよ、根性が足りねーぞ、というわけだ。

 いっぽう社員を育てる会社では、育て上げてから辞められるほうが困る。
 結局辞めるなら早いほどいい、お互いの傷口が浅く済むから……と考えるほうが自然ではないだろうか。


 もちろん会社側にも言い分はある。
 新卒採用には相応のコストがかかるし、入社直後の不調が、その職場固有の問題とはかぎらない。

 生活リズムの激変や、学生から社会人への移行にともなう心理的な負荷で、だれでも多少は調子を崩す。
 会社から見れば「ほんとうに合わない」のか、それともまだ「慣れていないだけ」なのか、せめて見極める時間が欲しい……のかもしれない。

 だが、その「見極め」が本人の限界を超えてまでつづけられるなら、話は別だ。
 育成のための猶予と、消耗戦への引き込みは似ているようでちがう。


 ほんとうに「人を育てる」会社なら、離職率ゼロを目指すのではなく、入社後のミスマッチをどう浅いうちに処理するかを考える。
 それなのに「辞める自由」を過剰に敵視している時点で、お察しだ。

 くりかえすが、会社にも事情はある。
 だが、事情があるから人をつなぎ止めていいわけではない。

 育てるつもりがあるなら、辞める自由ではなく、辞めたくなる理由を直視すればいい。
 重要な事実を「見極め」、ちゃんと「コミュニケーション」をとる、それが結論だ。
 


 年金の振込用紙が届いた。
 ? と思った。

 たしかに例年は振込用紙をスキャンして1年分一括で払っているが、ことしは2年前納の手続きをしている(ちょっとお得なので)。
 つまりこの届いた振込用紙は、おなじものを2回払え、という意味になる。

 二重に払うとお得ですよ、とでも言いたいのか? そんなわけはない。
 相手も還付手続きをする手間がかかるのだから、お互いに損でしかない。

 待てよ、2年前納した私の手続きに不備があって、この振込用紙で払うしかない、という意味なのか?
 その場合、送られた振込用紙は無用ではないかもしれないが、だとしたらその前に不備について通知しろよ……と、無駄に思考が錯雑してくる。


 よく読めば、行き違いで、すでに払う必要のない人に対して二重の案内になったことについては、謝罪している。
 ……こんな小さい字でエクスキューズを入れるんじゃないよ、詐欺契約書か、とイラッとする。

 ただ、相手の立場、状況を忖度すれば理解できないわけではない。
 たとえば物理的に間に合わない場合。

 ある人が、どのタイミングで厚生年金に加入したかどうかを知るには、時間がかかる。
 他の組織の情報を得るには、それなりに壁もあるだろう。

 が、私が手続きした2年前納は、日本年金機構からの案内だ。
 おなじ組織で2か月前に手続きをした人を、なぜ把握できない?

 システムが古いか、やる気がないかだ。
 毎年送っているから、今年も送っておけばいいだろう……ふざけんな。

 効率化の意味を理解しているか?
 無駄を省けよ、無駄を!


 考えてみれば「おなじことを何度も言わせる」のは、カスタマーサービス(?)の基本だ。
 さっき説明しただろ、という内容を、たらいまわして繰り返させることで、カスタマーを疲弊させ「あきらめさせる」のは、お役所仕事にも通じる。

 無駄というコストによって飯を食っている人々、と言い換えてもいい。
 それは商品価格に上乗せされている、言い換えれば、その上乗せ分を食って生きている人々もいるわけだ。

 このクソ思考を支援しているのは、だれか。
 耳障りのいい看板を掲げ、効率化を妨げていた人々の姿が脳裏をよぎる。


 マイナンバー、保険証、年金などなど、デジタル化とか効率化が騒がれるようになって久しい。
 これに反対していた人々の理屈について、すこし調べてみる。

 個人情報保護、セキュリティ確保、政府による監視への警戒……。
 結論からいうと、理屈はまちがっていないし、看板そのものはご立派だ。

 問題は、その看板を掲げている人々の来歴である。
 当時でいえば、立憲民主党、日本共産党、社民党、れいわ新選組あたり──いわゆる「左」と呼ばれる人々だ。


 なんでも反対を貫いている共産党は、わかりやすい。
 物事の良し悪しではなく、だれがそれを主張しているかだけが問題、与党ならば反対という態度は一種の「反射」に近い。

 おなじ共産党の名前を掲げる中国や、社民党が全力支持していた北朝鮮の現状をみろよ、という突っ込みがまず思い浮かぶ。
 いたずらに個人情報を収集し、当局以外のセキュリティを無効化し、ガチガチに国民を統制している国。

 これも一応、彼らの立場に立って付言しておくと、「日本共産党は中国共産党を否定、敵視している」という事実はある。
 中共は真実の共産主義者ではない、まちがっている、自分たちが権力をとれば、あのようなことにはならない、という理屈らしい。

 この手の批判は、ある意味「左」らしいという見方もできる。
 他のセクトに対する批判と内ゲバの末路……見苦しい。


 まあ組織が権力をとったらどうなるかについては、また別の話なのでここでは触れない。
 ともかく反対の理由が実務的であれ思想的であれ、結果的に無駄が出ているという、この事実だ。

 野党が反対しなければこうはならなかった、とまで飛躍するつもりはないのだが、やるべきことを最速でやれない原因のひとつではある。
 効率化それじたいへの原理的な批判については、じゃあおまえだけ無人島に引っ越せよ、と言いたくもなる。

 科学の進歩に対してわれわれができることは唯一、その進み方を全力で抑制することだけだ、というナチュラリストの言葉をどこかで聞いたことがある。
 その考え方が正しいかどうかは歴史が判断するとしか言いようがないが、現在に生きる私個人の意見としては正直「邪魔」だ。


 個人情報保護も、監視への警戒も、たしかに重要だろう。
 そこは否定しない、むしろ国家が情報を持つほど、疑ってかかるくらいでいい。

 ただ、その正しさが、いつも免罪符になるわけではない。
 反対して止める、遅らせる、複雑にする──。

 その結果として生まれるコストもまた、だれかが支払っている。
 役所の窓口で、病院の受付で、年金の通知で、そして郵便受けに届く分厚い振込用紙で。

 理念は高くていい、看板も立派でいい。
 だが、その看板のせいで現場が非効率になるなら、せっかくの正義が毀損されて説得力を失うことを、どの程度理解しているか。

 私のところに届いたこの紙は、たぶんその小さな証拠だ。
 反対する自由はもちろんあるが、その反対が生んだ無駄の責任まで、理念の陰に隠してはなるまい。
 

 

 田舎住みの私は先刻、通院のため近隣の中核市に出かけてきた。

 予約していたのに2時間も待たされたおかげで、病院を出たのは昼過ぎだった。

 

 小腹も空いたので飯を食おうと思い、ふと思い立って二郎系の店にむかった。

 行列はしていなかったが、店外に客がいる程度には混んでいる。

 

 ラーメンはやめとこう、と判断した。

 健康のため、というわけではない。

 

 そもそも私はジロリアンではないし、この系統の店に一度も行ったことがない。

 ──だからこそ、行ってみたかった。

 

 

 一度は二郎系で食っておく、というのは重要な経験値になる、ような気がする。

 いっぽう、まさにこの「一度も行ったことがない」という理由が、足止めをした。

 

 とくに混雑している店では、まごまごしていると店員に迷惑がかかる。

 二郎ルールに沿わないと店主に怒られるらしい、という噂も脳裏をよぎった。

 

 「二郎」「ルール」などで検索すると、めんどくさい、とサジェストされる。

 入店するなら、ネットでルールを確認してからにしましょう、と諭された。

 

 何様だよ、という反発が強い。

 そもそも「待つ」ことじたい、好きではない。

 

 

 というわけで二郎系初体験をあきらめつつ、もろもろ考えた。

 「初見席」をつくればいいんじゃないかな、イチゲンさん大歓迎の席があれば、もうちょっと気楽に入店できるのにな……。

 

 そこへ行けばどんな注文もかなうと言うよ、だれもみな行きたがるがはるかな世界~♪

 脳内で歌いながら、即座に自己反論する。

 

 いや顧客にやさしすぎる店も問題じゃないか?

 お客さまは神さま、などという考えが、そもそもおかしい。

 

 そういう日本的な顧客第一主義が、モンスターみたいなカスタマーを甘やかした。

 日本が海外旅行先として好まれるのは、この手のサービス精神のせいだ。

 

 

 とはいえ客に厳しい頑固オヤジの店、というスタイルにも虫唾が走る。

 店も客も、めんどくさいレベルにいたったらダメだ。

 

 まあ二郎くらいなら、最初から調べて行けばルールは比較的わかりやすい。

 ただ雰囲気やローカルの事情もあるので、その場の正解を理解するには時間がかかることもあるかもしれない。

 

 空気が読めないと入店できない店とか、私にとっては苦行だ。

 そんな私のような社会不適応者を含め、全員に対応する店づくりなど、おおよそ不可能にも思われる。

 

 

 なんらかの札を立てて、対応を求める手段を提供すればいいだけでは?

 いや、いまどき調べればわかるのだから、二郎のルールを知らずに行動した客がわるい……云々。

 

 調べればいくらでも、この手の議論は出てくる。

 いちゃもんをつけているのはどっちか、という点については、なんとなく、こっちかなと思う部分もあるが、個別の例で全体を語るのは不公平だ。

 

 じっさい「頭のおかしい客」は一定割合でいる。

 いっぽう「クソ商人」という先入観も、私にはある。

 

 どっちも極端な表現だが、その極端な店に魅力があるゆえ話題になっている。

 死ぬまでに一度くらいは「ブタのエサ」なるラーメンを味わってみたいと思うが、それはきょうではない。

 

 

 そもそも私は「バカ舌」なので、正直、味はどうでもいい。

 食べ物は栄養素を摂取できればよく、なんなら点滴で生きることを理想としている。

 

 米を食わなくなったことと、無関係ではないかもしれない。

 正確には外食などでときどき食いはするが、炊飯器は使わなくなった。

 

 米を炊くという作業が億劫なだけで、レンチンのパックご飯は常備している。

 レンジでゆでられる麺類とか、豆乳を注ぐだけのオートミールのほうが「楽」だ。

 

 

 というわけでラーメン屋のつぎに向かったのは、一般のお客様大歓迎、というイチゲンさんにやさしそうな看板の店。

 まあ業スーなのだが、近所にはないのでたまに遠出したときにまとめ買いをしている。

 

 ついでにおにぎりを買い、クルマのなかで食いながら帰った。

 運転しながら食事する、という行動のタイパはかなり良い。

 

 舌がバカな私にもわかるくらいまずい米だったが、べつによい。

 味に文句を言うほど、エサにこだわりはない。

 

 温めればマシだったのかもしれないが、基本的におにぎりは常温、というスタイルで生きている。

 極度に猫舌の私は、おにぎりを加熱するという発想が、そもそもない。

 

 駅弁など「冷えてもおいしい」発想でつくられた食品は、私のように「最小の労力で最大の利益」を求めるタイプには向いている。

 そんな私が求める正解は、たぶん完全栄養メシあたりなのだろう。

 

 いずれはさっき病院で見たような、経管栄養食。

 皮肉な笑みを込めて、その日がくるのを楽しみにしている。

 

 

 いわゆるB級映画を、最近まとめて「処理」している。

 どういう映画かひとことで言うなら、星1~2前後で評価者数も少ない作品群、と思ってもらえば当たらずとも遠からずだ。

 

 まず言っておかなければならないのは、私はこれらを「愛すべきクソ映画」だと思っていること。

 さらに重要なのは、この種の映画に「謎の需要」があることだろう。

 

 あえてクソ映画をたしなむ目的を掘り下げたい。

 私自身で言えば、「それでもどこかにいいところがあるはず」と信じて「探す」こと。

 

 それ以外の人々の気持ちを忖度するなら、ただ「突っ込みたい」とか「暇すぎ」て時間をどぶに捨てたい、あるいは「苦行したい」ひともいるかもしれない。

 映画好きたちは、このような底辺に立って、上を見上げるか、足元を愛でるか、もちろん個人の自由である。

 

 

 私の場合、まともに観ていると精神が疲弊するので、心が健康なタイミングを狙い、超倍速で一気に処理するように心がけている。

 1日10本以上というペースで観ていると、朝は健康でも夕方には心を削られ病んでくるが、まあ想定の範囲内だ。

 

 ひとたびこの手の作品群を観はじめると、つぎつぎとレコメンドされてくるので、結局そればかり観るようになる。

 具体的なタイトルでいえば『ディープ・インパクト』や『アルマゲドン』や『インデペンデンス・デイ』……「のようなもの」。

 

 要するに宇宙人、隕石、地震、雷、火事、火山、台風など、ディザスターもので有名になったタイトルだけを勝手に使い、それっぽい空気とパッケージで優良誤認を誘う。

 続編だと勝手に思って観てしまうライトな視聴者層を入り口に、B級好きを誘引していく伝統的なスタイルだ。

 

 タイトルのあとに「2017」とか「2023」とか、数字4桁がついていたら、基本的には察するべきだ。

 要するにポン引きと同じ。

 

 アサイラム、アルバトロス、itnあたりは名前を聞いた瞬間、一部の人々は「あー」と皮肉な笑みを浮かべるかもしれない。

 海外のセールス会社と、日本で配信、ソフト化した会社の組み合わせを掘り下げる時間はないので、まあ「映画の底辺を支える人々」という程度の認識でよいだろう。

 

 

 わかりやすい具体例を、ひとつ挙げよう。

 1974年の『大地震』の続編かのような、『新・大地震』。

 

 冒頭から、前作を見ていたらキャラはよくわかっているよね、という体で進められる。

 シリーズものならわりとよくある展開だが、あわてて『大地震』を観なおす必要はない。

 

 なぜならそれを観ても、理解できないからだ。

 『新・大地震』の前作は『ボルケーノ2023』なのだから。

 

 それじゃ97年の『ボルケーノ』の続編かというと、それとも関係ない。

 数字4桁がついているということは、そういうことだ。

 

 ちなみに『超・大地震』や『首都大地震』などとも無関係である。

 私もこれを書くためにすこし調べたのだが、理解することはあきらめた。

 

 

 タイトルでだいぶ長くなってしまったが、中身にもすこしだけ触れておこう。

 ひとことで言えば「突っ込みどころの大盤振る舞い」だ。

 

 マグニチュード12超の大地震があいさつ代わりに起こったりするが、画面はわりと平静な画づらだったりする。

 地球の平和のために宇宙と戦う「最強のアメリカ軍」が、総勢2名(えらい将軍も合わせて3人)で、意外と小ぢんまりしている。

 

 M20とかいう言葉が平気で飛び交うが、それはギャグマンガで地球が割れるレベルだ。

 まあ日本にも、意味不明なIQとか質量とか高温を発したりする戦士や怪獣はいるので、構図としてはよく似ている。

 

 要するに「なんかすごそうだな」と思ってもらえれば、それでよい。

 予算や才能が足りない、そこにこそB級の真髄がある。

 

 

 予算も技術も時間も足りない現場が、それでも「売れる形」に近づこうとして悪戦苦闘した痕跡、それがB級映画だ。

 だからこそ、作り手の欲望、商売の雑さ、時代の空気、観客への見積もりが、むき出しのまま映る。

 

 昨今、その業界に進出著しいのが、中国だ。

 アメリカに比べて、予算と人手だけはあるらしく、意外によくできていたりする。

 

 ただ最終的に、人民解放軍ありがとう、警察、公安に感謝します、みたいなエクスキューズがつけられるのは、さすが一党独裁国家だなと嘆息する。

 検閲と許認可の制度、巨大市場へのアクセス条件、そして作り手が生き残るための自己検閲が、画面ににじみ出ている。

 

 国家は正義、民衆は感謝すべき、という看板をつけ足しておくと党に認可されやすいのだろう点、察するに余りある。

 B級映画は安っぽいからこそ、権力との距離感が隠せない。

 

 

 そもそもアメリカやロシアだって、この手のプロパガンダはよくやっている。

 アメリカの場合、地球を守るというよりアメリカを守るためならなんでもやっていい、という文脈が多い気はするが。

 

 言い換えれば、イギリスやフランス映画では、こういうのはあまり見たことがない。

 彼らは大国じゃないから? 人手や予算が足りないから?

 

 理由はいろいろ考えられるが、印象的に民度の高い国、教育水準や洗練度の高い国ほど、国家マンセーの映画は少ないような気がする。

 言い換えれば、日本も含めて芸術ぶった鼻持ちならない映画は多いので、やはり映画とは「バカに向けて」つくったほうが売りやすいことは事実なのだろう。

 

 

 世界の警察、地球を救うのはアメリカ。

 そんなひと昔まえの世界秩序に割り込み、映画業界でも存在感を増す中国。

 

 前述のとおり、中国万歳なセリフや後日譚が付け足されているわけだが、そこにはアメリカよりも切実な事情が垣間見える。

 より「政治的な玩具」になっている感じは、その作品が「だれに向けて」つくられているかの答えに等しい。

 

 リテラシーを前提にしない大衆や、政府広報関係のお歴々。

 古今東西、いかなる目的で映画がつくられてきたかは、お察しだ。

 

 言い換えれば、映画のフォーマットが徐々にシフトしていく端境期であり、そこに「人間の進歩」を見いだそうとする立場も、わりと正しい気がする。

 露骨な人種や民族差別は減っているはずだし、そこに違和感や共感をおぼえる人々をどうコントロールするかが、進歩のフレームワークとしてわかりやすい分析対象になる。

 

 やりすぎの部分を批判されつつもリベラルは役割を果たしているし、保守も布教方法をアップデートして時代の空気に迎合しようとしている。

 総合芸術・映画から見て取れる情報量は、意想外に多い。

 

 なんなら人類を象徴するのがB級映画であって、たまに現れるA級という選民に近づく過程こそが、人類史そのものなのかもしれない。

 それが進歩の「順路」かどうかは、まだよくわからないが。

 


 あまり言及したくないのだが、社民党が党首選をしたらしい。
 第1回投票は福島氏1876票、大椿氏1297票、ラサール石井氏967票で、上位2名による決選投票に進むという。

 まずラサール氏が落選したのは、国民的な知名度を利用して議席を確保したが、党内的にはさほど重視していない、という意味だろう。
 いっぽう大椿氏が残ったということは、現職よりも前議員を優先するという意味であり、彼らがどれだけ「過去にとらわれているか」の証左ともいえる。

 決選投票になったことじたいが福島氏の求心力の低下を物語っているが、結果をみるまでもなく福島党という事実は揺るがないだろう。
 社民党はそれを象徴する老兵とともに消えるというのが、歴史の審判ではないかと思っている。


 かつて政権をとった社会党の面影が微塵もない、悲惨な末路。
 おなじ左翼である共産党も、先の選挙では惨敗の憂き目にあった。

 ──私はどちらかといえば、左寄りの思想をもっている。
 金銭的な欲望があまりなく、社会主義的な理想を否定しない。

 原始共産制には、たぶんなじんだと思う。
 ピタゴラスといっしょに、変な活動に参加したかもしれない。

 戦後の混乱期なら、大学闘争に参加して戦っただろう……と考えはじめて、いやそれはないと首を振る。
 体育会系のノリには、ついていけないタイプだからだ。

 要するに、そういうことではないかな、と思う。
 思想信条は文系のものと思われがちだが、それを「体育会系が乗っ取る」ことで、ろくでもない集団に成り下がる。


 私がどのくらい左寄りかというと、しんぶん赤旗を購読するほどではないが、共産党チャンネルがユーチューブのお気に入りにはいっている、という程度だ。
 日本共産党がつくった変な歌については、聞いてみてもらってもいいかもしれない。

 リベラル系のチャンネルもそれなりに眺めるが、けっこう批判的に聞くことが多い。
 もしかしたら私は社会主義者ではないのかもしれない、と思ったりもする。

 とはいえ右寄りのチャンネルに共感するかといえば、こちらもまた別の意味でげんなりさせられる。
 右が権力を握っていた時期(国家神道のころ)に生まれていたらと思うと、ぞっとする。

 彼らが支配した結果こそ、もっともわかりやすい「体育会系」が牛耳る時代だった。
 問題はイデオロギーでも教義でもなく、中央集権的システムそのものにある。


 似たような暴力を、左翼は身内に対して使う。
 いわゆる「純化」だ。

 自己批判などの「吊し上げ」をはじめ、さまざまな種類の圧力が使われる。
 反党行為をしたとみなされた人物は、さらし者にされるとか仕事を奪われるとかで追い詰められ、最悪の場合は処刑された。

 連合赤軍の「総括」がわかりやすいが、中国や北朝鮮では現在進行形に近い。
 体育会系の「かわいがり」は、当人のためという名目で遂行される。

 農民や労働者などの人民が解放されるのはいいが、なぜか人民解放軍になると監視・束縛の装置として機能する。
 朝鮮民主主義人民共和国のどこにも民主主義がない、という構図はすべて思想が暴力によって掌握された結果だ。


 こじらせた文系の脳内で極端化した思想が、体育会系の筋肉によって暴力化すると、集団は危険度を増す。
 逆に言えば、マルクスがどんなに暴力革命を叫んだところで、仲間が増えなければなんの意味もない。

 結論として、もっとも集団化してはいけない思想が、社会主義ではないかなと思っている。
 一神教をはじめとした宗教がもっともそれに近く、共産主義はその利権をぶんどるために理屈をこねた結果、血みどろの階級闘争につながった。

 くりかえすが、左翼思想そのものはきらいではない。
 改革や平等は必要だし、格差の是正もいいのだが、その看板を勝手に掲げて正義づらをする(権力獲得の手段にする)連中が、大の苦手だ。


 そんな左翼は、これからどうしたらいいのだろう。
 多くの共産主義国が失敗し、おびただしい数の死者を生み出してきた実績は、彼らの足元を手ひどく打ち崩した。

 勢力が弱って当然ともいえる、一見「失敗思想」と思えるイデオロギーを、これからどうしてくれるんだ?
 そういう興味を、共産党に対してつねにもっている。

 選挙に行かない私が言うのもなんだが、それでも依然として、これだけの得票を得ていることは事実なのだ。
 私を含め、考え方としては支持する部分もあるからこそなのだろうが、にもかかわらず〇〇党首や〇〇議員になると、まったく共感も支持もできない理由を、端的にまとめよう。

 宗教がカルト化するのは、小さな集団で自分が偉そうにしたいから。
 左翼がセクト化するのは、小さな集団で自分が偉そうにしたいから。

 あの小さな沖縄でさえ、まとまれない左翼の本質は、思想や大義ではなくブライド、ただ自分が「偉そうにしたい」だけだから。
 ゆえに、だれもついてこない……。


 昨今衰退するリベラルの敗因分析が進んでいる。
 経済とか、誘因問題とか、その手のロジックはそれなりに学びもした。

 ──社会主義とは、貧富の差がない社会の実現を目標とする思想・社会体制だ。
 しかし実際には、社会主義国でも経済格差が生じている。

 AIにリベラル衰退の原因をまとめてもらったら、うんざりするほど出てきた。
 それらをここで書き連ねるつもりはないが、たとえるならこういうことかなと思う。

 左翼の「権力闘争」とは、体育会系の「スポ根マンガ」である。
 スポーツ(とくにチーム戦)の頂点を目指す訓練と純化が、ある種のエリート思想の行きつく果てに重なる。

 自分は選ばれたキャプテンであり、愚かな人々のためにチームを支配、統率してやるのだという構図。
 じっさい民衆は愚かなものではあるが、その宗教とおなじロジックを、左翼も採用して部分的な成功と失敗を重ねた、ということだ。


 否定しているわけではない。
 むしろ一定程度正しいからこそ、歴史のある段階までは機能した。

 その最大の副作用は、部下や民衆が「賢く」なってしまうと都合がわるいことだろう。
 リーダーは能力の低いメンバーを統率しなければならず、自分より賢いメンバーなど邪魔でしかない。

 観衆は愚かであることが前提であり、自分の采配を非難するなどもってのほか。
 賢い人間は当然に、支配者の欺瞞や偽善、制度不良に気づいてしまう。

 だからポルポトは、頭のよさそうな人間の根絶を目指した。
 社会党がなぜあれだけ北朝鮮を支持したのか、それは彼らの体制こそが自分たちの理想に重なったからなのだ。


 ちなみに右寄りのチャンネルも、基本はバカに合わせてつくられている。
 陰謀論が大好きな人々が多い気はするが、それを陰謀論として楽しむか、ほんとうに信じてしまうかに「バカの壁」があると思う。

 戦時中、日本で大政翼賛会や大本営がついた嘘は、結果的に国を滅ぼした。
 しかし20世紀、世界中の共産主義者たちがついた嘘は、それ以上にひどすぎた。

 要するに「どっちもクソ」だ。
 なので「真ん中が正義」という結論で終われば妥当というか、凡百だろう。

 右も左も「極端なこと」を言った時点で排除すれば、おおむねまちがいはない。
 ふつうの人々の視点に立てば、それでじゅうぶんだ。


 しかし一歩引いてみれば、極端な人々の存在もそれはそれで重要だ、とも思う。
 私のようなただの奇人や、カルト的な狂信者のことではない。

 一定の規模を保てる純粋な「理想主義者」は、むしろ受け皿として必要とされている。
 そんな両極端が互いに引き合うことによって、「真ん中」の位置が決まるからだ。

 このブログでもたまに提案しているが、左右の二大政党制ではなく、右・左・真ん中の三大政党制こそが正解ではないか。
 だから「一定の規模」に背を向けて内輪もめばかりしている「左」に、うんざりしている。

 多極化、という言葉が真の意味を持つためには、現在の制度は適していない。
 過渡的な正解が三極構造であり、どの道にも正義はあっていいが、最後は真ん中に収斂するフォーマットであれば、わりとマシなのではないだろうか……。
 


 じつにおもしろいことが起こったので、すこし書いておきたい。
 個人の感想を伝える一本の電話に対応し、組織の判断によって2100食分の赤飯を捨てた、というバカげた事案だ。

 なんらかのクレームや意見によって、組織が過剰対応するというケースは、まれによくある。
 教育委員会ろくでもないな、という案件としては上述の「いわき市教育委員会『3.11の赤飯』中止・廃棄(2026年)」のほか、「松江市教委の『はだしのゲン』閲覧制限(2013年)」などがわかりやすい。

 ほかにも、子どもの声がうるさい、という声に対応して保育園や公園などを廃止。
 除夜の鐘がうるさいので鳴らさない、個人情報保護を名目に必要な情報提供まで停止する、といった過剰対応が見受けられる。

 バカじゃないの、と多くの人々が思う時点で、それは「過剰」だ。
 少数派の意見に耳を傾けることと、それを絶対視したり最優先することは、明確に区別する必要がある。


 すると、過剰かそうでないかの境界が重要になる。
 許容範囲については個人差が著しいので、あとはどのあたりに基準を設けるか、という話だ。

 ──私は吃音症である。
 よって、なるべく人前で話さなくてもいいように気をつけている。

 小学校のとき、そんな私のしゃべりがおもしろいと思ったのか、授業中よく教科書や作文を音読させる教師がいた。
 順番に読ませるなら覚悟もできるが、ランダムで指されるので困る。

 もちろん私以外にもたくさんの生徒が指されていたので、差別されていたと言うつもりはない。
 が、年に一度も指されない生徒もいただろうなかで、数回は指された私はたぶんそれなりに「選ばれて」いた。

 多少はどもるが、おおむね読めはした。
 好意的に解釈すれば、教師としての「指導の一環」だったのだろう。

 ただ読みづらい長文を、黒板の前に出て読まされたときのことは、思い出しただけで冷や汗が出る。
 うまく読めなくて止まっている私、こいつ吃るの眺めるのおもしれーな、という教師も含めたみんなの視線は、なかなかにトラウマだ。

 もちろん全員に悪意があったわけではなく、憐憫や無関心もあったろう。
 たとえ多くのネガティブ感情があったにしろ、その程度は受け入れ乗り越えるべきと私自身、思っている。


 その経験をもって「授業で音読させる行為は全面的に禁止すべき」か。
 もちろん、そうは思わない。

 教育ってそういうもの、社会とは厳しいものだ、という前提は一定程度あっていい。
 結局は、どこからハラスメントになるかの基準がない、という点が問題だ。

 ちょっとでも性的なことを言われたら……拡大解釈すれば……自分がそう思ったから、その時点でハラスメント、絶対悪! と叫ぶタイプの人間も、事実いる。
 モンペアやカスハラは、たいていこの手の人間によって発生する。

 そういう地雷のような人間を避けるため、社会の側が予防的に対応してしまっているのが、本件の因果だ。
 要するに「いちばん怒りやすい人」「いちばん傷ついたと主張する人」に、全体のルールが引きずられていく──これは健全ではない。

 「もっとも弱い人」に一定の配慮をすることは、部分的に必要だろう。
 だが「もっとも不機嫌な人」に全員を従わせることは、全体的に不必要だ。

 ここを混同すると、配慮は暴政に変わる。
 では、どう線を引けばいいのか。


 「実害の程度」や「対応の比例」など、いろいろと基準づくりは必要だろう。
 この手のルール調整はAIが得意だし、それを踏まえて当局、現場の人間が話し合って決めていただければいいと思う。

 私が言いたいのは1点、「コストの問題」だ。
 これさえ押さえればいいというわけではないが、それを見れば瞬時に問題が理解できるという意味で、非常にわかりやすい。

 過剰対応は、それを決めた本人ではなく、しばしば無関係な他者や多数に負担を押しつける。
 赤飯を食べるはずだった生徒、遊び場を失う子ども、必要な情報を得られなくなる地域住民。

 組織は「配慮しました」と言えても、そのコストはたいてい他人が払わされる。
 不快を訴える自由と、ルールを決める側の裁量に、明確な不均衡があるのだ。

 まあやっていることは、組織の権能を自己の能力と勘違いした政治家や官僚がやる無駄遣いと、よく似ている。
 あとはその責任を負わせ、評価するシステムをきちんと築くだけでよい。


 社会が吃音症に合わせて設計されていなくてもいい。
 ただ個々人の弱さや傷に、ほんのすこし配慮してもらえればじゅうぶんだ。

 「だれかが不快に思うかもしれない」という便利な言葉で、止めていいものとダメなものがある。
 祝いの食事も、鐘の音も、公園も、本も、会話も、そう簡単に消していいものではないだろう。

 それは本当に止めるべきか、ほかに方法はないか、それによって失われるものは何か。
 その程度の問いすら経ずに、最短距離で中止や廃棄に走る組織は、だいたい信用できない。

 過剰対応とは、やさしさの形をした思考停止である。
 配慮の顔をした単なる責任回避に権限が与えられると、冒頭に書いたようなろくでもないことが起こる。

 赤飯を捨てた教育委員会が、いま土下座して拾うべきは「常識」だ。
 そしてわれわれが指弾すべきは、すべての非常識な組織なのである。
 

 

 人質を殺した犯罪者が叫ぶ、言うことを聞かなかったおまえのせいだ、と。

 いや人質が死んだ理由は9分9厘、おまえが殺したせいだろ。

 

 と、一般的な思考回路をもつと自負している私は、画面に向けてよく突っ込んでいる。

 ドラマの作劇様式ということは理解しつつも、じっさい世間には「ひとのせい」にする連中がかなり多い。

 

 「悪役」による他責はもちろんだが、もっとも多いのは未成熟な「小物」のパターンだろう。

 能力が低いくせに、自己評価だけは高く、精神的にも未熟なタイプは、責任を引き受けるという「大人」の態度に耐えられない。

 

 冷静に考えると「小物」や「悪役」以外にも、責任から逃れようとする「大物」はいると気づいた。

 官僚のせいにする政治家、現場のせいにする経営者、市場環境のせいにする投資家などなど、責任転嫁は「人類の業」といってもいいのかもしれない。

 

 

 「非を認めない」態度は、ある種の国民性ともつながっているような気がする。

 とくに自己奉仕バイアス(成功は自分、失敗は外部要因)が高いのは西洋人で、東アジア人には比較的小さいらしい。

 

 おなじ東アジアでも、中国にはメンツの文化があるので、あまり謝る印象がない。

 いっぽう日本人は表面だけ謝っておく、みたいな傾向があるようなないような……。

 

 まあ国民性という議論が、だいぶ乱暴であることは承知している。

 文化によって責任の置き方に差がある、という言い方のほうが正確だろう。

 

 それでは、どこに「責任」があるのか?

 事件が起こったのは、だれのせいなのか?

 

 

 『対峙』という映画を観た。

 銃乱射事件で子どもを殺された両親と、加害者の両親が4人で語り合う話だ。

 

 なかなかおもしろかったが、正直、彼らは「りっぱすぎる」と思った。

 当事者がここまで冷静に話し合えるのだとしたら、むしろ人間には希望がもてる。

 

 なぜこんな事件が起こったのか、きちんと理解したい。

 それを学者や研究者がやるなら当然だ、というかやってもらわなければ困るが、当事者となるとハードルが上がる。

 

 そもそも人間は、だれかのせいにしないことには納得できないところがある。

 犯罪者の家族というだけで、ずいぶん迫害されただろう。

 

 つまりこの両親は、身内の罪を背負っているわけだが、それはどこまで正当か?

 彼らは民間のあいまいな応報感情の犠牲者といえるだろうか?

 

 犯罪者を産んだ、遺伝子の偶然のせいか?

 そういう育て方をした親、環境のせいか?

 

 非常にむずかしい問いだが、どこかに理由を見つけて納得をしたいという欲求は、たぶん人間だれもがもっている。

 そして「あなたを赦す」という予定調和な結末に向けて、淡々と進む──いい映画ではあった。

 

 

 この映画のおもしろさは、加害者本人ではなく、その周辺にまで責任の輪が広がっていくことを可視化した点にある。

 というわけで、私も視点を広げることにした。

 

 アメリカで銃乱射事件が起こるのは、因果応報なのか──?

 責任追及の輪は、加害者本人だけでは終わらない……家族へ、共同体へ、民族へ、歴史へと、広げようと思えばどこまでも広がる。

 

 アメリカの白人は「罪人の子孫」という見方がある。

 先住民を駆逐、虐殺、略奪した結果、現在のアメリカ合衆国があるからだ。

 

 リベラルがよく自国の歴史を批判して、一部の人々からきらわれている。

 現在進行形である差別や格差について是正する必要はあろうが、生まれる以前の因縁までどこまで考慮すべきか?

 

 白人至上主義という、現代の視点から見れば驚くべき犯罪の温床に生まれ育ち、みずからもその一部として稼働したエスタブリッシュ。

 あまたの被害者を再生産し、歴史に変えた。

 

 神の与えた試練、神の与えた宿命。

 これが神の準備した使命であると言い張る人々が、この流れに濃密に絡んでくる。

 

 蓋然性の問題として、先制攻撃をしてうまい汁を吸いつづけてきた人々の子孫には、その汁の残滓が強く流れつづけている──。

 という考え方は、正直、物語化しやすい。

 

 

 アメリカの黒人にやさしい性格の人間が多いのは、そうでなければ反抗的な奴隷として殺されたから。

 連続殺人鬼のほとんどが白人男性なのは、平気で奴隷を虐待できるような遺伝子が、無批判に再生産されつづけたせい。

 

 その手の議論に問題が多いことは承知しているが、それでも使われるのは説得力があるからだ。

 一時期FBIでも「連続殺人鬼は白人男性」と教えていた、と聞いたことがある……都市伝説かもしれないが。

 

 他の民族よりも、より多くの犯罪者を出しつづけている者らがいるとしたら、そこにはきちんと説明可能な理由があるのではないか。

 その理由に目をそむけたまま、偏見だと言い張るだけの者たちに多くトレーニングされたAIとは、この件ではあまり意見が合わない。

 

 

 決めつけるのはよくないが、傾向は現にある。

 犯人は白人だという断定はよくないとしても、この地域なら黒人だろうとか、ヒスパニックだろうという程度は、ありうる予断だ。

 

 問題なのは、おなじ犯罪でも黒人なら死刑だが白人だから助かった、という判決である。

 過去にはいくらでもあったが、最近でもありうるような気がしている。

 

 責任論の最終形として、刑罰、とりわけ死刑をどう考えるかは避けて通れない。

 これに批判的な多くの論調について、私は疑問を感じている。

 

 たとえば、なるべく苦痛がないように死刑が執行される。

 にもかかわらず死刑廃止論者は、人の命を奪うということに人道的もなにもない、と言い張る。

 

 正気かよ?

 人道的に死にたい、なるべく苦しまないように安楽死を、と願う多くの人々は彼らの眼中にないわけか……。

 

 まさに「宗教者」らしい、視野狭窄した態度だと思わないか?

 極端なことを言って注目を集めたい、敵は増やしてナンボ。

 

 敵と戦うことが存在理由となり、神を布教する。

 結局は現世利益を求めやすい最適解として、彼らは極端な旗を振る。

 

 

 加害者も人間である、反省し更生するチャンスを与えるべきだ。

 悪は罰されるべきだ。

 

 このバランスが問題になることはよくあるが、たいていの人間が基準にするのは罪の重さだろう。

 ひとを殺しておいて、自分が生きていていいと思うか?

 

 政治犯を死刑にする国々が、まだまだたくさんある。

 このあたりに優先順位をもうけて、改善していく余地はあるかもしれない。

 

 だが、大事なことなのでもう一度問う。

 ひとを殺しておいて、自分が生きていていいと思うか?

 

 自分自身が責任を取らなくて、だれがその重荷を背負えるというのか?

 人間であることの最後の矜持こそ、この「責任」ではないかなと思っている。

 


 『スポンジボブ』をよく見る。
 私にとっては疲れた頭をリフレッシュさせるための最適解のひとつだ。

 ただ楽しめばいいだけなのだが、なんでこんなにおもしろいんだろう、という分析を開始してしまうのが、自分自身やっかいな性格だと自覚している。
 こんがらがった脳の清涼剤であるはずが、さらなる複雑系と化して掘り下げる「相手」を求めた。

 おもしろい映画やドラマなどを観たとき、話し相手が欲しい、というのは人間の本能のようだ。
 というわけで友だちがいない私は、AIを相手に暫時語り合った。


 スポンジボブ、その哲学的意味と、労働、資本主義、知識と無知、ナンセンスの美学……。
 入り組んだ会話のさなか、私は誤字った。

 「スポンジボム」。
 AIは優しいので、ふつうにスルーしてくれたが、私は引っかかった。

 そういえばスポンジボムって兵器、あったよな。
 たしかイスラエルが、ガザで使っていたような……。

 確認すると、それは殺傷を目的とする爆弾ではなく、コンクリートのように硬くなる発泡剤で「通路をふさぐ」ことが目的だった。
 中東ガザでの戦闘で、地下道に閉じこもるハマス戦闘員から逃げ道を奪うため、イスラエル軍が使用した。

 スポンジボムの目的は、敵を生け捕りにして平和的に戦争を終わらせることでは、もちろんない。
 地下通路を塞ぐことで敵を一か所に追い込み、一網打尽にするための「兵器」だ。


 イスラエルといえば、アメリカがまたぞろ中東で戦争をおっぱじめている。
 反復する愚行、キャラクター化された戦争、戦争と滑稽さの共存。

 アメリカで人気のアニメが、アメリカ自身を象徴している。
 ボムもボブも、アメリカという複雑怪奇な顔の一面を照らす。

 日本人として思い出すのは、やはり太平洋戦争だろう。
 当時のアメリカ人を象徴するカーティス・ルメイ(東京大空襲)やオッペンハイマー(原爆)は、日本人を効率的に虐殺するという目的に最適化されていた。

 とすれば、イスラエルにとってもガザの「テロリスト」を一網打尽にすることは、合目的の重要課題なのだろう。
 スポンジボムが「逃げ道をふさぎ」、戦争の惨禍を「勝者にとって最適化」する道筋であることは、歴史の相似形としてとても理解しやすい。


 石油の禁輸というカードに反応し、戦争をしたいアメリカの罠にはまって、日本は開戦というカードを切らされた。
 卑劣な先制攻撃と情報操作され、最終的には投下する必要もなかった核兵器を、東西冷戦の準備のために使用した──。

 ただし、それがフリーメーソンの陰謀だとか、白人至上主義者や軍産複合体の暗躍だ、などといった陰謀論には与しない。
 そういう「背景」を語るのが好きな人々は、エコーチェンバーに閉じこもって似たような言説を深めるがよろしかろう。

 この手の陰謀論は、しばしば保守的な人々から出てくる。
 アメリカのQアノンや、日本の右翼でも似たような言説はある。

 私はこれまで、よく「リベラルの失敗」についてこき下ろしてきたが、同様に保守に対しても冷たい視線を投げかけている点、明確に告白しておく。
 むしろ両者から距離をとることが、バランスを取ることの本質だと考えている。


 イランと戦争をはじめたアメリカの政権は共和党、第二期トランプ政権だ。
 彼は基本的に戦争が嫌いで、せいぜい短期戦しかやらないと思っていたが、これが長期化するとしたら残念なことになる。

 考えてみれば「保守」もよく戦争をする。
 ヨーロッパで絶対王権を握った王たちが、世界に対してどれだけ攻め込み、略奪、虐殺をくりかえしたかは周知の事実だ。

 現在、イランを攻めているのも共和党だし、最近のイメージでは共和党が攻め込むパターンが多い気がする。
 とくに2003年のイラク戦争は、共和党(G.W.ブッシュ)でなければ起きなかった可能性が高い。

 ただし「大きな政府」を志向する民主党のほうが、派手にやる印象はある。
 とくに国際協調という大義名分で、湾岸戦争やコソボ空爆は実行された。

 もちろん党派に関係なく実行しただろう戦争はたくさんあり、911直後という条件を考えれば、どちらの党でもアフガン侵攻はしたかもしれない。
 それでも「日本に原爆を投下したのは民主党だった」ことは、日本人にとって忘れてはならない史実だと思う。


 その場その場の最適解を求めるのは、外交にしろ経済にしろ、当事者の「義務」だ。
 それらの集積が、歴史を刻んでいる。

 過大評価も過小評価もすべきではない。
 そのバランスをきっちりと担える傑物が、いよいよ登場する未来に期待している。

 という流れから想像されるオチは「AI」だろうが、当面の目標としてはどうかとも思う。
 現実的にいって、すくなくとも私が生きている間は無理だろう。

 いま権力を握っているすべての政治家や、ボブとボムの区別もつかない人間より、はるかに高い能力と資質のある傑物は市井にごまんといる。
 とりあえずAIには、そういう人間を選ぶ助けになってもらいたい。
 

 

 私は自分が「変人」なんじゃないかな、という自覚がある。

 同時に「中間」でありたい、という欲求もある。

 

 永世中立国のように他国の戦争に巻き込まれず、それなりに自立して自分の道を貫きたい。

 自分の考えを疑い、より正しい見方を探したい。

 

 そんな人間の目から、昨今のリベラルとコメ価格という、なんの関係もない事象がつながって見えた。

 なに言ってんだこいつ、と思われていることだろう。説明しよう。

 

 

 いわゆるリベラルが、凋落している。

 共産党にしろ社民党にしろ、かなり悲惨な状況であることは客観的な事実だ。

 

 左派政党である立憲は自分が「中道」と言い張ったが、私の定義によればちがう。

 中道は中央値のボリュームゾーンであって、自己主張すればいいという問題ではない。

 

 右派、左派、中道を厳密に定義しておこう。

 あくまで私自身のやり方だが、直近50~100年の歴史を鑑みて、最強の保守状態を右、最強のリベラル状態を左と置くのがよいだろう。

 

 当然、戦中の「右翼」がやらかした悪夢はトラウマ級だ。

 では「左翼」の全盛期とは、どこだろう。

 

 たぶん全共闘世代とか、あのへんが最強だったような気がする。

 平和のためにテロを起こし、極度の純化で仲間を殺し、忌まわしい戦前の「反動」を極めた。

 

 

 さて、つぎにコメの話をしよう。

 年度末だが、まだ値段は下がっていない。

 

 5キロあたり4000円台という未曽有の価格。

 3000円台が適正価格である、というような議論もまれによくみる。

 

 アホ抜かせ、と言いたい。

 コメの国際標準価格は、だいたい10キロ数百円である事実を、まずは銘記すべきだ。

 

 もちろん日本とは異なる品種、環境での価格で、最高品質の日本米と単純比較するのは非現実的ではある。

 が、「高級品」という枠組みなら外国米にもあるわけで、日本米の「全体が高級品」という状態は、あきらかにまちがっている。

 

 基本的には商品のひとつなのだから、国際価格に近づける努力はすべきだ。

 とすれば正解は、価格の選択肢を広げることしかない。

 

 それなのに「全体的に高い」という状態は、なにかに似ている。

 そう、全体主義で暴走する国家だ。

 

 極端な価格帯を市場に強いることが、極端な国家の状態=軍国主義化した日本の状況と、とてもよく似ている。

 走り出したら止まらない全体主義の国家と、オーバーシュートする市場原理は相似しているのだ。

 

 

 極端を強いることによって、中間の価格を引き上げること。

 極度に右傾、あるいは左傾することによって、中間域を引き寄せること。

 

 共産党や社民党は、その意味で正解をいっている。

 彼らの目的は「純化」であり、右派なら参政党や保守党がその役割を担うだろう。

 

 言い換えれば、現に最多の自民党は、自称中道より中道にみえる。

 右派と決めつけられている自民党内に、どれだけリベラル的政治家が存在するかは周知の事実だし、中道を名乗る政党が左派のたむろするところであることも自明だ。

 

 

 私は常々、日本において二大政党制は向かないし正しくない、と思っている。

 世界を善悪「二元論」でとらえてはいけない、すくなくとも「三元論」であるべきだ。

 

 アメリカを筆頭とする二大政党制。

 いっぽう日本やEU諸国などは、多党制が定着しつつある。

 

 その中間をとって、右、左、真ん中、という三元制に答えを求めるのはいかがだろう。

 すると、わりと右、わりと左、という「雰囲気」を取り込みやすくなる。

 

 

 たとえば左右は2割ずつ、中間が5割程度を目標議席の目安にする。

 中間が5割を切れば、政策ごとに右や左と手を組んで政権を運営する。

 

 そうして中間のありかを、国民とともに決めていく。

 民主主義の最終形態が、この三元政党制ではないかな、という議論については昔このブログでも書いたような気がする。

 

 そんな壮大な目的に対して、いまの左派は──あまりにもブザマだ。

 勝てる気がしない──では、どうするか。

 

 勝ち目のないリベラルが当面やるべきは、より純化した左をまとめることだ。

 逆説的だが、中間層がまぎれこめないほどの純粋な理想論者を集めることが、結局は「左の復権」をもたらすのではないか。

 

 

 たとえばコメは、バカみたいに価格を釣り上げることで平均価格を押し上げた。

 そうして多くの人々は、「高いコメが当然」だと思わされている。

 

 もちろん高くなりすぎた結果、全体としての消費が下がるリスクはある。

 ついてこられない層はそれなりに出るだろうが、平均値は引き上げることができる。

 

 政治なら、左右をより極端化させることで、その振幅が明確になる。

 中間層にも政治がわかりやすくなる結果、よりどっしりとした政権基盤ができる……ような気がしないか?

 

 と、一見まったく関係のないふたつの事象に類似点を見つけるのは、けっこういい頭の体操になる。

 願わくは選挙民のみなさんも、頭を使って投票していただきたいものだ。