民放キー局で、アイヌ差別を取り扱う番組を見た。

 YouTubeなどで個別の思想団体が配信する番組ではなく、全国区の民放が制作し、公共の電波に乗ったことを、まずは銘記してもらいたい。

 

 左派系メディアが差別をネタにしている定期、という見方は雑だが一面の真実を照らしている。

 またぞろ思い浮かぶのは、「差別教」という冷たい既得権の構図だ。

 

 ……という導入から見透かされそうなのは、私が保守的なネトウヨか、みたいな構図だが、個人的には私自身、ややリベラル寄りのニュートラルだと思っている。

 そんな私と会話することの多いAIによれば、残念ながらやや保守寄り、という評価だが。

 

 いずれにしろ中央値近辺で、右派でも左派でもないことは明示しておく。

 それでも他者から微妙に保守寄りに見えるとすれば、その理由は以下を読めばおわかりいただけるだろう。

 

 

 私自身、アイヌに対する差別の存在を否定していない。

 地域社会に根差し歴史を研究している立場からみても、北海道から沖縄まで、つねに一定の差別はあった。

 

 ただしここで指摘したいのは、さほど危機的ではない問題を拡大解釈して燃料として投入すること、それ自体だ。

 マスコミがもつ負の側面、針小棒大のレトリック、といってもいい。

 

 単に不快である、事実をゆがめている、この表現はおかしい、自分たちはつらい目に遭った、という物語。

 そのような主張を、まとまった予算と権威を帯びているキー局が、漫然と垂れ流す。

 

 なぜか、それをする強い動機がどこにあるか。

 考えはじめると見えてくる世界、それが党派性とプロ市民、だ。

 

 差別や平和は強いワードであり、これは差別だ、と決めつけることで一定の力が得られる。

 もちろん差別的な人々は現存するが、そういう特殊な人々を対象に「正義」を行使する人々を、どういうスタンスで取り上げるかに各社の政治的立場がにじみ出る。

 

 

 かつて差別対策が必要だったことには、議論の余地がない。

 アメリカでは日常的に黒人が殺され、日本でも特定民族が殺戮対象になった事件はある。

 

 人の生き死にとか、人生をゆがめるレベルの社会的圧力があるなら、必要だ。

 そのような異常事態は、どうにかして改善しなければならない。

 

 しかし、いま。

 この表現はどうとか、心が傷ついたとか、不愉快だとか、そういう主観的な「展示会」に突っかかるレベルにおいては、もはや「暇なの?」と言いたい。

 

 暇な一部の「保守」に、暇な一部の「市民」がまじめに噛みついている。

 いや、暇ではない……彼らはプロ市民、つまり「仕事として」やっているのだ。

 

 活動家という表現は使い古されているが、いつの世にも「自分が正義だと思っている」人々は一定数いる。

 熱心な宗教者ともよく似て、その物語を信じることが存在理由になっている。

 

 やるなら自分たちのお金を使い、チャンネルを立ち上げて勝手にやればいいんだが、それでは利益も影響もすくない。

 そこで利用されるのが、マスコミの「党派性」だ。

 

 

 さて、ところでこの構図、よく見ると「令和の米騒動」に似ている。

 活動家が差別をあげつらうことと、農協がコメの価格を高くすること、一見なんのつながりもない。

 

 それぞれの意見や行動は、局所的に見れば正しい。

 差別を扱う番組が制作されれば取材協力の活動家に実績と報酬が発生するし、コメが値上がりすれば一時的に農家は儲かる──これは事実だ。

 

 さらに一歩、考えを進めよう。

 農民のボス、農協にとって、コメの価格を高くすることは正しい(らしい)

 

 そこで米価を倍にしたところ、消費量が激減した。

 現在、倉庫にコメが大量に余っているとすれば、それは農民全体にとって損害であるはずだ。

 

 いっぽう左派系の一部プロ市民は、差別ビジネスを利権化した。

 どんなごり押しでも思想に合致すればスルーパスなので、無理くりな物語の流通が増えていく。

 

 蟹工船なので労働者が正しい、武器は人を殺すので防衛予算の削減は正しい、平和学習なのですべての活動家は正しい……。

 すると社会には、また被害者ビジネスか、テレビの正義ごっこか、活動家の飯の種か、という冷笑が広がるようになる。

 

 最悪なのは、それでほんとうに苦しんでいる人々まで疑われ、まじめな人権論まで胡散臭く見られることだ。

 私を含む()穏健なリベラルまで、まとめて「面倒くさい正義の人々」と見なされるとしたら、それはリベラル全体の不利益となる。

 

 現に世界でリベラルが衰退したのは、彼らのような活動家を放置した責任が大きいと、私は考えている。

 農協系の一部の人々の利益のため(直接的には政府の失政だが)に、農民全体の利益が損なわれる構図と、まさに相似形ではないか?

 

 

 話をアイヌにもどそう。

 この番組ひとつをとるなら、それほどダメージはないと思う。

 

 主張そのものはまちがっていないし、くりかえすが私は否定しない。

 問題は、それを民放キー局が30分番組にして全国放送するほどか、という話だ。

 

 まったく同じ構図で、逆に「その放送はやめよう」という方向に偏ってしまったケースがある。

 辺野古の抗議船と平和学習だ。

 

 平和は大事だし、基地負担の問題も考えるべきだし、沖縄の歴史も無視してはならない。

 しかしそれを子どもに教えるとき、反基地運動の側の物語だけを「平和」として流し込むなら、それはもはや「粗悪な政治教育」になる。

 

 平和という言葉が特定の活動家の所有物になり、人権という言葉が特定の党派の武器になる。

 差別という言葉が反論封じの呪文になり、その結果、私を含む穏健なリベラルが居場所を失う。

 

 

 皮肉な話だが、残念ながら彼らの主張・態度は、だいぶ「リベラル」という概念を傷つけた。

 リベラル寄りを自任する私自身、内心静かに怒っている。

 

 冒頭に申し上げた、私が右寄りに見える理由がこれだ。

 左派活動家を強く批判することは、客観的には右派的といえる。

 

 だが穏健リベラルは正直に言うべきだ。

 意識高い系ではない私の目に、活動家は獅子身中の虫に見える、と。

 

 言っている方向はともかく、その方法はまちがっている、と「言わせない」。

 道徳で縛る、善意の同調圧力、目的は正しいのだから方法は「党()の決定」にしたがう。

 

 それは、もはやリベラルではないのではないか?

 それでも彼らとともに生きなければならないとしたら、具体的にどうすればいいかを考えて本稿を閉じよう。

 

 

 まずは、当事者と活動家を分けることだ。

 あたかも当事者を装っているように見えても、彼らはしょせんプロ市民である。

 

 つぎに、暴力、制度的不利益、社会的排除、侮辱、不快感、表現上の違和感を、全部「差別」で一括りにしないことだ。

 命に関わる差別と、不快な表現を同じ棚に置くと、深刻な差別まで軽く見られる。

 

 第三に、メディアは活動家を「正義の代弁者」としてではなく、「利害を持つ政治的主体」として扱うべきだ。

 活動家には目的があり、組織があり、収入、実績、人脈、政治的立場があることを忘れてはならない。

 

 第四に、私のような穏健リベラルは、口を閉じないことだ。

 自由や平和を愛する、その目的が似ていても、手段がちがうなら批判しなければならない。

 

 差別に反対することと、差別を飯の種にする人々を擁護することはちがう。

 平和を願うことと、平和を政治的商売にする人々を擁護することはちがう。

 

 

 差別はなくすべきだ。

 しかし、差別を食い物にする構造は、もっと厳しく批判していい。

 

 弱者のためと言いながら、弱者の存在を必要とする人々。

 平和のためと言いながら、対立の持続を必要とする人々。

 

 人権のためと言いながら、異論を封じる人々。

 多様性のためと言いながら、自分たちとちがう意見を許さない人々。

 

 保守強硬派や極右だけが、リベラルの敵なのではない。

 むしろ考え方の近い活動家こそ、全体を汚染する警戒すべき「毒」と理解すべきだ。

 

 事実、彼らがリベラルの看板を掲げて貴重な「信用を食い荒らした」結果が、昨今のリベラル崩壊につながった。

 差別に反対すると同時に、差別を資源化する人々にも反対できないなら、リベラルは社会を説得できない。

 

 

 そして、テレビはもうすこし恐れたほうがいい。

 自分たちが差別を告発しているつもりで、じつは差別問題への信頼を壊しているかもしれないと。

 

 正義を放送しているつもりで、じつは正義そのものを安売りしているかもしれないと。

 弱者を守っているつもりで、じつは弱者を政治的な商品にしているかもしれないと。

 

 差別主義者が社会を壊すことは、ある。

 しかし、差別を商売にする正義の人々もまた、社会を壊す。

 

 しかも彼らは、自分が壊していることに気づかない。

 ぶっちゃけ、自分は「善をなしていると信じている」人々こそが、この世でいちばん恐ろしいと思う。