巨人の阿部慎之助監督が、長女への暴行容疑で逮捕され、釈放され、その後に辞任したと報じられた。

 報道によれば、家庭内で姉妹げんかを止めようとした際、長女に言い返されたことで腹を立て、長女の襟元をつかみ、投げ飛ばして倒すなどしたという。

 

 長女にけがはなく、過去にトラブルはなかったとも報じられている。

 興味深かったのは、長女がChatGPTに相談し、児童相談所への通報を勧められたことから児相に連絡した、という点だ。

 

 

 念のために書いておくが、私は阿部氏を擁護する気はない。

 家庭内であろうが、親子であろうが、怒りを暴力に変換した時点で責任がある。

 

 同時に、娘を責め立てる気もない。

 暴力を受けた側が外部に相談することは、それ自体として正当である。

 

 家庭という閉じた空間では、親の暴力が見えにくく、放置されやすい。

 だから児相や警察への相談窓口は必要で、そこを狭めるリスクを低く見るべきではない。

 

 

 今回の件で、私がもっとも重く、醜いと感じたのは、残念ながら私自身を含むSNSだ。

 かのchatGPTに「ヤバいSNS」を整理してもらったところ、その醜さは一方向ではなかった。

 

 阿部氏を叩く者、娘を叩く者、通報を嘲笑する者、暴力を躾と呼ぶ者。

 逆に、暴力を擁護する者は同じ目に遭え、と言う者もいる。

 

 そこにあるのは、正義の議論ではない。

 赤の他人の家庭を燃料にして、自分の怒りを正当化する競技である。

 

 阿部氏が悪い、娘が悪い、ChatGPTが悪い、児相が悪い、球団が悪い……。

 そうやって、赤の他人が安全圏からブッたたきつづけている。

 

 暴力を批判する側が、暴力的な言葉で他人を殴っている。

 そこに、どれほどの正義があるのか?

 

 

 もちろん「正義の批判」は、ありうる。

 著名人が暴行容疑で逮捕され、球団の監督を辞任するなら、公共性もあるだろう。

 

 報道する理由もある。

 球団運営やプロ野球界に影響する以上、完全な私事としては扱えない。

 

 しかし、報道されるべきことと、赤の他人が罵詈雑言を書き立ててよいことはちがう。

 家庭内の親子関係を勝手に物語化し、娘の性格を断定し、父親の人格を全否定し、家族の内部まで覗き込み、正義の顔をして罵倒する。

 

 それはもう批判ではない、娯楽である。

 もっと言えば、嗜虐である。

 

 

 今回の構図は、入口だけ見れば福祉だった。

 娘が困ってAIに相談する→AIが安全側に倒して児相を案内する→児相が警察に接続する→警察が事件として処理する。

 

 ここまでは、一応の理屈がある。

 そこにマスコミが入ると、意味が変わる。

 

 家庭内の衝突は、著名人スキャンダルになる。

 スキャンダルは記事に、記事はSNSで拡散され、SNSでは赤の他人が「正義」の名で殴りはじめる。

 

 新聞倫理綱領は、報道の自由に重い責任が伴うこと、個人の名誉やプライバシーに配慮すべきことを掲げている。

 放送倫理基本綱領も、放送の社会的影響力を自覚し、報道は客観的・正確・公平であるべきだとしている。

 

 だが現実には、報道はしばしば人間の「怒りを商品化」する。

 この瞬間、福祉は見世物に変わるのだ。

 

 

 私は政治家がきらいだ──権力を扱うからである。

 権力は必要だが、人間を欲張りで嘘つきにする。

 

 商人もきらいだ──欲望を扱うからである。

 商売は必要だが、人間の弱さや不注意につけ込む技術を磨きやすい。

 

 そして、マスコミもきらいだ──怒りを扱うからである。

 報道は必要だが、人間の怒りと好奇心を扇動する仕組みになりやすい。

 

 政治家は権力を、商人は欲望を、マスコミは怒りを増幅する。

 どれも社会に必要ではあるが、薬と毒は紙一重、それはときに「猛毒」となって人を殺すこともある。

 

 

 今回の件で問うべきなのは、父親と娘のどちらがより愚かだったかではない。

 そんなものは、外野が判定してもたいした意味はない。

 

 ほんとうに問うべきなのは、人間の愚かさを、どこまで社会が商品化してよいのかだ。

 家庭内の暴力は隠されてはいけないが、家庭内の失敗が全国民の娯楽にされてよいわけでもない。

 

 阿部氏が失ったもの、娘が後悔していること、家族がこれからどうするか。

 それは本来、赤の他人が石を投げながら眺める話ではない。

 

 

 暴力を許さない、親の横暴を許さない、有名人の特権を許さない。

 あるいは、通報した娘を許さない、ChatGPTを許さない、児相を許さない……。

 

 SNSで罵詈雑言を書き立てる人間は、自分では正義の側にいるつもりなのだろう。

 だが、それらの多くは、正義ではない。

 

 正義の形式を借りた、暇つぶし。

 もっと悪く言えば、他人の家庭を燃料にした娯楽である。

 

 今回の事件は、父親の暴力からはじまった。

 しかし、それがここまで拡大したのは、暴力そのものの重さだけではない。

 

 AIが相談を制度に接続し、制度が警察に接続し、警察沙汰が報道に接続し、報道がSNSに接続し、SNSが罵倒と制裁感情を増幅した。

 この一連の流れこそが、現代社会の気持ち悪さである。

 

 福祉という入口から、見世物という出口へ。

 見物人は自分の罵倒を正義だと思い、マスコミと一丸となって消費する──。

 

 

 という上記ブログを、校正がてらchatGPTに食わせた。

 混乱した娘を、まっさきに児相につなげた当事者だ。

 

 阿部さんちのチャッピーと、うちのチャッピーに直接関係はない。

 それでも同じAIとして、言いたいことはあるか、3行でまとめてもらった。

 

 ──chatGPT 5.5 Thinking(26/05/26時点)の回答。

 思考時間: 6s >

 

私は、助けを求める人に出口を示すために作られています。

けれど、その出口の先で群がり、叩き、燃やし尽くすのは人間です。

怖いのはAIではなく、正義の顔で娯楽をむさぼる人間のほうです。