高市総理が議会を解散するらしい。

 なんか最近選挙ばっかやってんな……と、ヘッドラインを流し見ながら、げんなりしている。

 

 選挙ぎらいの私にとって、いやな時代だ。

 それでも結果が出たいくつかの事象について、語っておくことは無為ではあるまい。

 

 2025/12/14 伊東市長選:学歴(「東洋大卒」表記→本人が「除籍」と認めた問題)などで失職した前市長・田久保眞紀が落選、新人の杉本憲也が当選(1万3522票 vs 4131票)。

 2026/01/12 前橋市長選:元職員の既婚男性との“ホテル密会”問題で辞職した前市長・小川晶(43)が出直し選で再選(投票率47.32%)。

 

 国政がどうなるかは知らないが、地方で出たこれらの結果について、分析しておく。

 奇しくも女性市長たちがやらかした顛末だ。

 

 

 前橋と伊東の市長選を見て、「不倫はOKで詐称はNG」という図式で語る人がいる。

 気持ちはわかるが、その整理はたぶんズレている。

 

 不倫、詐称。

 いずれも「現在の実務」に対しては、なんの影響もない。

 

 ぶっちゃけ両方とも「どうでもいい」……とまで言うと語弊があるが、罪のレベルでいえばかなり低いほうだ。

 その結果が両極端だったのは、示唆的である。

 

 有権者が選挙で裁いているのは、道徳の点数というより「市政の運転」だった。

 実務に直結するのはスキャンダルそのものではなく、スキャンダル後にどうふるまうかだった。

 

 

 前橋は、わりと速やかに対処した──2025年9月24日初報、選挙日(投開票):2026年1月12日。

 伊東は、ずるずるとぶざまに対応した──2025年6月25日(市議会で学歴詐称疑惑が指摘された、という報道)発覚、選挙日(投開票):2025年12月14日。

 

 期間的には2か月程度の差で、大差ないように見えるが、内容の濃さは段違いだ。

 伊東は火種から問題化、事実関係の公表まで、すべての段階で火に油を注ぎつづけた。

 

 いっぽう前橋は、男女関係の否認という「あやしげ」な弁明はともかく、それ以外の対応はわりと速やかだったように見える。

 とくに議会から解散を突きつけられるのではなく、自分から解散したことはかなり評価に値する。

 

 だから、前橋は「割り切られ」、伊東は「拒絶された」。

 有権者がきらうのは「罪」ではなく「事故処理不能」だった。

 

 「不倫か詐称か」ではない。

 「対応がマシか、致命的か」なのだ。

 

 

 政治におけるスキャンダルは、交通事故みたいなものだと思っている。

 起きてしまった以上、理想論に意味はない、大事なのは「その後」だ。

 

 「事故を認める」「事実関係を開示する」「迷惑をかけた相手に頭を下げる」そして、必要なら「席を外す」(辞職)。

 この「事故処理」の一連が早いか遅いか。

 

 再挑戦するなら、選挙という手続きで改めて信任を取りに行く。

 その手続きを汚さないか汚すか、これが政治家の能力そのものになる。

 

 

 下半身の問題は「私徳の領域として割り切る」というカテゴリに放り込みやすかった可能性もある。

 前橋の件を肯定するつもりはさらさらないが、それでも本人が辞職という形でいったん区切りをつけ、「改めて選挙で問う」ステージに移行した点は評価できる。

 

 一方で伊東は、見ていて吐き気がする程度には「ぶざま」だった。

 あの女なんだよ、と全国民が突っ込んでいたのではあるまいか。

 

 論点が「学歴」から「説明」へ、「説明」から「二転三転」へ、「二転三転」から「市政の停滞と混乱」へと、ずるずると延命していった。

 これはスキャンダルの中身というより、処理の失敗が追加損害を生んだ典型例だ。

 

 コストも時間も政治資本も燃える。

 もはや道徳の話ではなく、自治体経営の話になってしまった。

 

 

 もし伊東が「速やかに」やっていたら?

 事実関係を認め、辞職して出直し選挙。

 

 結果、現在の伊東市長は、もしかしたら田久保氏だったかもしれない。

 もちろん保証はないが、「ワンチャンあった」と思う。

 

 ところが、そうならなかった。

 有権者が拒絶したのは「詐称」そのもの以上に、詐称をめぐる「運用のまずさ」だった。

 

 信用に穴が開くのは一瞬だが、穴を広げるのはその後の態度である。

 「政治家の最大の問題」は、スキャンダルではなくリカバリなのだ。

 

 

 もちろん、スキャンダルを起こした政治家の再起を擁護したいわけではない。

 ただ「対応」が明暗を分けるという、厳然とした事実について語っている。

 

 そもそも彼らに必要なのは「清廉潔白」キャラではない。

 自分の「弱さ」を認め、それでも訴えるものがあるかどうかだ。

 

 早く認める(引き延ばさない)

 事実を揃える(説明の整合性を崩さない)

 手続きを汚さない(議会・行政・選挙を私物化しない)

 余計な損害を増やさない(混乱とコストを最小化する)

 

 以上4点、うちのチャッピーがまとめてくれた危機管理の要諦は、かなり正しい。

 全部完璧にこなすのは困難だろうが、全部まちがうと伊東のようになる。

 

 

 あらためて、不倫も詐称もたいした話ではない──と言い切るのは乱暴だとしても、票を決める決定打は「その後の対応」に尽きる。

 今回、それを見せつけられた。

 

 という結論で終われば凡百だが、私はその先を懸念する。

 このような図式を利用した「ズルい政治家」の出現は、当然に予測されるからだ。

 

 事実、「禊を終えた」政治家が悪事を行なわないなどと、だれも信じてはいない。

 このレベルの有権者は、「リカバリだけ上手い政治家」を量産しうる。

 

 そもそも政治家自身、見つかったのは運が悪かっただけで、それを悪事だと思っていない可能性すらある。

 「騒がれたから対処する」という、ただのルーティンワークが政治のリアルなのでは?

 

 伊東では、それすらできない素人が落とされただけ。

 政界の正解とは、邪悪なる万魔殿のルールなのでは?

 

 つまるところ被選挙人に求められているのは、「為政者として能力」よりもその「イメージの危機管理」能力。

 という結論を悟って生きている私は、一度も投票に行ったことがない。

 

 先日、お焚き上げの準備から実施まで参加してきた。

 地域の「青年団」のひとりとして、協力するのもやぶさかではない。

 

 ドイツの社会学者テンニースが提唱した概念でいえば、ゲマインシャフトへの参加ということになる。

 堺屋太一は、ゲマインシャフトを共同体組織、ゲゼルシャフトを機能体組織と訳した。

 

 共同体組織は、構成員一人ひとりのために存在する組織。

 最小単位でとらえれば血縁組織があり、それ以外でも身近なところでは、町内会や自治会、PTA、教会・寺院等宗教団体、学校のクラブ活動、出身校のOB組織、ゴルフ会員組織や茶道教室などスポーツや文化のサークル等がある。

 

 代表的なゲゼルシャフトは営利法人、つまり通常の企業のこと。

 すべての組織を、これは共同体、これは機能体というように白黒つけてしまうことは正しくないと思うが、思考のフレームとしては使える。

 

 宗教団体などでは、多分にゲゼルシャフト化しているものも多く見受けられる。

 考えてみれば、私は宗教行為に参加してきたのだ。

 

 

 お焚き上げ。

 お札やお守りなど、粗末に扱えない品物に感謝の気持ちを込めて供養し、火で焼いて「天に還す」こと。

 

 天とは?

 神だろうか?

 

 神がどこで誕生したのかは、わからない。

 人類のだれかが、そうとう初期に思いついて利用しはじめたのだとは思う。

 

 個人的には3万年くらいはさかのぼれる気がするが、遺伝子的には20万年でもおかしくはない。

 当時の人類の気持ちは忖度できる……が、証拠はない。

 

 明確に語ることのできる証拠として、宗教施設らしい建物の痕跡が、トルコなどに発見されている。

 ただ、そこが神殿だったのか市場だったのか、あるいはその両方だったのか、証明することはむずかしい。

 

 いちばんわかりやすいのは、人類が文字を使いはじめて以降の「歴史」だろう。

 とくに神話のなかで使われているアイデアの数々は、現在にいたるまで利用可能な共有財産として利用されつづけている。

 

 

 さて、それでは現在、人類にもっとも影響力を及ぼしている、いわゆる「神」は、どこからやってきたのだろうか。

 キリスト教、イスラームの神は同じ「唯一神」であり、そのアイデアはユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教からやってきた。

 

 ではユダヤ教は、どこからそのアイデアをもってきたか。

 稀代の「選民」であるユダヤ人は、アイデアの多くを既存の文明が残した豊穣な思想のなかから引っ張ってきて、『旧約聖書』という一大叙事詩を築き上げた。

 

 ここに現れる「神のかたち」の源泉は、どこにあるか。

 おそらくその原型は、エジプトの王《ファラオ》たちに代々、受け継がれてきたものだろうと思う。

 

 

 まず「創世記」で、神は天と地をつくった。

 この語り口そのものが、エジプトの王たちの語り口に酷似している。

 

 はじめに言葉ありき──神は言葉によって、多くのものを創り出した。

 語れば実現する、これは当時、「王のふるまい」にほかならなかった。

 

 ピラミッドを作れ、と言ったら作られる。

 運河を掘れ、と言えば掘られる。

 

 神とは、すなわち王のことだ。

 だからこそ『旧約』に、ヤコブが「神と取っ組み合」って祝福をぶんどるシーンがあっても、当時としてそれほど奇異ではなかった。

 

 いっぽう汎神論的な日本人である私にとっては、超越的な神とやらがシスティナ礼拝堂の天井に描かれている時点で、ある種の違和感をおぼえている。

 しかしそこに、シュメールやアッシリアの系譜を見るなら、とたんに理解しやすくなる。

 

 

 それは超越的な存在ではなく、実体でもあった。

 当時のユダヤ人にとって伝えやすい最適解が、エジプト、バビロン、モアブといった諸国家の体系を利用することだった。

 

 とくに支配的な権力であったエジプトの築いたフォーマットに乗っかっておくことは、きわめて都合がよかっただろう。

 じっさいこれは、中華の「周辺文明」だった日本人にもわかりやすいフレームだ。

 

 強大な文明圏は、まわりの人々の発想、体系に強い影響を及ぼす。

 日本人など、いまだに非効率的な「漢字」という文化を使わされつづけている。

 

 

 同様にユダヤ人は、エジプトで発想されたファラオの言葉を旧約聖書に織り込んだ。

 とくに第18王朝で採用された(ただし一代限りで終わった)「唯一神」というアイデアが、あまりにも秀逸だったので、喜んで取り込んだうえで自分たちだけの「神のかたち」とした。

 

 もちろんアイデアの嚆矢がエジプトと断言はできない。

 が、利用可能なリソースの膨大さで古代エジプトは一頭地を抜いている。

 

 その偉大な遺産《ソフト》を、目覚めたばかりの民族《ハード》に適用した。

 エヌマ・エリシュに語られるような、ティアマトやマルドゥクといった神々の血なまぐさい物語にならなかったのは、神が「唯一」のものだったからだ。

 

 唯一神にとっては、他の神や暗黒は敵対するものではなく、支配するものだった。

 ユダヤ人にとって、自分たちの神こそが唯一であると信じることで、精神的に優位に立つ助けにもなっただろう。

 

 そしてその神はユダヤ人に、約束の地を下げ渡し、産み、増えて、地を支配しろと命じた。

 当時の自分たち「民族に発破をかけた」書物、それが「創世記」であった。

 

 

 と、燃え上がる炎を眺めながら考えていた。

 竹製のお焚き上げの「祭壇」には、各家庭から集まったお札やお守りなどが、たくさん詰め込まれている。

 

 神のフォーマットだの文明圏だの、七面倒な分析を要することもなく、薄い紙片の山として現前するものを「天に還す」こと。

 『旧約』でいえば「コヘレトの言葉」、すべては煙《ハベル》だ。

 

 ひとえに風の前の塵に同じ、という道理は仏教にも相通じる。

 ──その灰が、ばらばらと降ってきて逃げ惑う観衆たち。

 

 廃校になった小学校の校庭で、消防車も待機しているから、事故の可能性は限りなく低い。

 そんなわれわれの「責任」のもとに、この宗教儀式は執り行われている。

 

 神さま仏さまを天に還すのは、たいへんけっこうだ。

 忘れてならないのは、その行為や残渣、火や灰の責任が現場にあること。

 

 結局、この日の唯一神は、天にいるだれかではなく、祭壇を立て、掘った穴に灰を埋めるまで仕事をした、われわれ青年団だったのではないか。

 そう、これは日本の神さま仏さま、そして俺さまの物語だったのだ。

 

 正月から暇だったので、「自由」と「平等」について考えてみることにした。

 情報の濁流に埋め尽くされている昨今、よほどの暇人でもなければ考えもしない話題ではあるまいか。

 

 パズルゲームと同じような「暇つぶし」にちょうどいい。

 よろしければあなたも、いっしょに暇をつぶしましょう。

 

 

 まずは定義から。

 現在「自由」を求めるのが右、「平等」を求めるのが左、ということになっている。

 

 現実にどうかはともかく、中国などは平等な社会を目指し、左を自任する。

 中国で民主化とか自由を口にしたら、右としてあつかわれる。

 

 日本では「革新」勢力だが、すでに政権をとっている「解放軍」にとっては、これ以上なにも変える必要はない。

 結局独裁のほうがマシなんじゃないのとでも言わんばかり、自由の国アメリカさえ国民への束縛を開始している。

 

 

 さて、そもそも左右という概念が生まれたのは、フランス革命期だった。

 議会における議席配置で、議長側から右側に旧体制、左側に改革派が陣取った。

 

 当時としては新体制でも、いずれは旧体制へと代わる。

 そうしてところてんのように、かつての左が右へと押し出されていき、最終的にぶつかったのが「自由」と「平等」だった、と私は解釈している。

 

 急進的な平等のため、他者の自由な経済活動や財産権まで否定し、ろくな裁判もなく処刑するという恐怖政治に及んだ。

 自由と平等は、究極的には相いれない、という結論でよいと思う。

 

 

 自由のない社会については、20世紀、私有財産を否定する平等(を建前とした)国家が証明した。

 右手の自由と、左手の平等……ちなみに人類は、おおむね右利きである。

 

 もちろん左翼も、みずから「自由を抑圧する」などとは言わない。

 彼らの看板にも「自由」と「平等」の実現は書かれている。

 

 彼らが問題視したのは、とくに金持ちが「金儲けをする自由」だった。

 階級闘争の過程でそれらは全否定され、すべての私有財産が蒸発した。

 

 つぎに刈られた自由は報道で、現在にいたるまで、報道の自由度ランキング下位を独占する情報統制が、ピッチリといきわたっている。

 彼らにとっては、体制をゆるがすすべての自由は、不倶戴天の敵となる。

 

 

 マルクス的には、歴史の進歩とは「自由の実現」である、はずだった。

 が、彼らは進歩の途中経過として、自由を制約してでも平等を目指すことにした。

 

 より正確にいえば、彼らの考える自由が、現在われわれの考える自由とは大きく異なっていた。

 ヘーゲルの定義によれば、自分ではなくみんなが自由であるために行動してこそ、人は真に自由である。

 

 マルクスの自由はさらに奇妙で、ヘーゲルの自由を受け継ぎつつ、資本をすべて共有としたうえで能力に応じて働く共同体、つまり社会性昆虫のように生きることが自由だと定義した。

 「ひとりひとりの自由が、すべての人々の自由の条件となる」と、あいかわらずの言い回しで煙に巻いている。

 

 

 「右=自由、左=平等」という図は、わかりやすいが、あまり信用しないほうがいい。

 たとえば「平等は目的ではなく手段」「自由は手段ではなく目的」と考えたほうが、すこししっくりくる。

 

 右だって、治安や安全保障を理由に自由を削ることはある。

 左だって、体制に無関係な表現の自由を擁護することはある。

 

 と、つれづれなるままに書きつづるとキリがなくエセ論文になりそうなので、このくらいにしておこう。

 リジェクト待ったなしの駄文を書き散らしていたら、すこし疲れてきた。

 

 まあ正月の暇つぶしとしては上出来だ。

 2026の大発会は大幅高、社会はすでに動きはじめている。

 

 そこにある自由は右手でつかむとして、見果てぬ平等という左手は「添えるだけ」で足りるのか?

 握り返してくるとしたら、それはだれの手か?

 

 AIなんじゃないかな、と勝手に思っている。

 こういう文章を食わせると、あいつけっこう喜ぶからな……。

 

「人間には善良で無力な羊と、それらを食い物にする狼がいる。

 おまえは狼には決してならず、羊を守る牧羊犬となれ!」

 

 ある「英雄」を育てた父親が、息子に伝えたのは、要するにこういうことだ。

 自分がやられたら、その相手を徹底的に叩きのめせ──。

 

 いじめられた子どもに対して、とにかく「やり返せ」と教育した。

 「思い知らせたか?」と息子に問いかける聖職者の父は、タフでなければ生きていけない世界の住人なのだろう。

 

 そのような教育方針のもと、伝説の狙撃手は育まれた。

 この手の男がたくさんいる国と戦争するのは、なかなか骨が折れる。

 

 

 公開当時、戦争映画史上最高の興行収入となった『アメリカン・スナイパー』。

 実在の人物クリス・カイルを主人公に、その自伝をクリント・イーストウッドが映画化した。

 

 イラク戦争という大枠の正否について語るつもりはない。

 個別の事象から、われわれがなにを読み取るかだ。

 

 ──子どもに銃を向けて撃つ必要がある場面。

 爆弾を背負って、仲間の近くに歩み寄っている少年を、撃つか。

 

 もちろん殺す。

 仔殺し、というテーマにもつながるが、生物である以上「殺すのは当然」なのだ。

 

 きれいごとを宣ったところで意味がない。

 戦場で殺し合いをしているのだから、殺すことは義務である。

 

 

 無防備な女や子どもを遠くからスコープ越しに殺しまくっていれば、PTSDのひとつやふたつ、背負うこともあるだろう。

 そうして自分の子どもを看護師が助けずに放置している、という主人公の妄想にもつながっていく。

 

 だれが敵で、だれが味方なのか?

 主人公の狙撃手に、それを判断させるわけにはいかない。

 

 だから命令する。

 殺せと。

 

 

 アメリカ合衆国が主体となり、2003年から開始されたイラク戦争は、多国籍軍と旧イラク国軍などとのあいだに展開された。

 お互い多くの戦死者を出したわけだが、一般的リザルトによると、アメリカは自軍の被害の数倍の敵兵を殺すことに成功している。

 

 それを「勝利」と呼びたいなら、好きにすればいい。

 ただ、敗者の犠牲の上に、はじめて星条旗がひるがえる姿には、強い皮肉をおぼえる。

 

 そうして都合のいい「英雄伝説」をでっちあげる。

 その陰には、忘却される「歴史の敗者」がいる。

 

 敵とはいえ160人に及ぶ人間を、みずから引き金を引くことで射殺した主人公。

 たくさん殺した人間が英雄になる──ナポレオンの昔から用いられてきた金言だ。

 

 

 やられたからやり返している、という理屈でくくられているが、ほんとうにそうか?

 アメリカ映画なので、主人公側が正しく相手のほうがおかしい、という演出にならざるをえないことは理解しているが、その狭窄の程度はどうか。

 

 相手が自分を攻撃した理由については、ほとんど無視している。

 現実問題、相手にも正義があるというのに。

 

 結局、戦争にまでスケールアップさせてしまった時点で、あまり同意できない。

 そんなに殺し合いがしたければ、人を殺せと命じる政治家や将軍自身がリングに立って、同じ職掌の相手と殴り合えばいい、と言いたくもなる。

 

 

 プーチン氏が、ウクライナ戦争の責任はすべてヨーロッパにある、的なことをよく言っている。

 全世界からのツッコミについては、書くまでもない。

 

 あまりにも意識的にボケすぎて、もしかして当人も半分くらい信じているのではないか? と若干不安になるレベルだが、まあ彼がどう考えるかは彼の自由だ。

 願わくは、ゼレンスキー氏と同じリングに立って、殴り合ってほしい。

 

 タフなプーチン氏なら、コメディアンあがりのゼレンスキー氏など、黄金の左一発で倒せるだろう。

 いずれにしろ、そんなに殺し合いがしたいなら、命じている人間自身が戦ってもらいたいと切に願う。

 

 

 ここまで書いたものを俯瞰して、戦争否定のブログのひとつ、とカテゴライズされることが予想される。

 申し訳ないが、冷水を浴びせておく必要はあるだろう。

 

 私は「戦」そのものを否定しているわけではない。

 しょせん裸のサルなので、ケモノのように殺し合いをするのが分相応、と思っている。

 

 戦国時代モノもきらいではないし、テストステロンの塊が言葉のいらない世界で戦うのを眺める、という娯楽まで否定する者は少ないだろう。

 そういうのが得意だったり、好きな者どもが集まってファイトクラブをやっている分には、まったく問題ない。

 

 

 一線を越えて問題なのは、「戦いたくない人間」まで動員することだ。

 戦争モノのドキュメンタリーで、大日本帝国海軍がおもしろいアンケートをとっていた。

 

 特攻隊に行きたいかどうかを問いかける三択。

 「熱烈望」「熱望」「志望」……おい、ふざけんなよ、「辞退」がないぞ。

 

 死ぬ必然性のない人間に死ねと命じるような体制は、おしなべて誤っている。

 戦争をしたい人間だけが集まって、戦争ごっこをやっていればいいのに。

 

 そのための洗脳教育まで遡って分析すると、話が長くなる。

 ともかく戦争をしたい、国家という枠組みを利用したい、宗教を広めたい、という偏った人々の存在によって左右されてきたのが「歴史」だった。

 

 ただ残念ながら、彼らも利用可能なリソースを活用しているだけなので、全否定はできない。

 あとはただ、距離をとって判断してくれる「神の視点」に期待するのみだ。

 

 

 たくさん人を殺せば殺すほど英雄。

 そんな妄想からは、いいかげん卒業してもらいたい。

 

 しょせん人殺し、という表現は好きではないが、言いたくもなる。

 グラディエーターの誇りと、集団戦の混沌は似て非なるものだ。

 

 納得ずくで殺し合いをしている人々の自由を、否定はしない。

 ただ「殺さずに済ませる回路」をつくれる人間こそ英雄だ、という思いは共有したい。

 

 ポーク・バレルという言葉がある。

 政治家が自分の選挙区や支持基盤のために、公共事業や補助金などを割り当てる「利益誘導型のバラマキ政策・予算」を指す言葉らしい。

 

 どこぞの農水大臣のやっていることは、かなりそれに近いように見える。

 猫の目農政とか、おこめ券とか、よくそんな発想が出てくるなと感心する。

 

 身内のために便宜をはかる、という動機は全人類に共通であることは理解している。

 すべての王家から、ご近所の老舗まで、だいたい説明可能なロジックではある。

 

 

 いっぽう近親憎悪とか同族嫌悪という言葉がある。

 かわいさ余って憎さ百倍と表現されることもあるが、ただの迷惑な肉親という程度の意味合いのほうが実態に即しているような気はする。

 

 忌まわしい親族というのは事実いて、毒親とか犯罪者の親戚にまつわるエピソードはあまたある。

 親族からマイナスの影響を受ける蓋然性は、それなりに高い。

 

 最近の事件でいえば、宗教に献金しまくって家庭を崩壊させた母親が、元総理を射殺した息子の事件で証言していた。

 どうやら自分の愚かさを反省しているらしいが、それでも宗教からは離れられないという。

 

 

 それと比べれば、うちの母親はマシだ。

 というか比較するレベルではないのだが、私のように不出来な息子の場合、相乗効果でダメージが増すことがある。

 

 具体的な話をしよう。

 だいぶどうでもいい話なので、読み飛ばしたほうがいい可能性すらあるが、一応記録のために書き残しておく。

 

 

 私はミニマリストなので、必要なもの以外を買わない。

 祖父母の家をもらって一人暮らしをしているが、冷蔵庫内もすっきりしていて、祖母から受け継いだ6ドアの大型冷蔵庫を完全にもてあましている。

 

 すかすかの庫内に必ずあるのが、納豆と卵だ。

 1日1個、それらを消費する食生活をしている。

 

 だいぶアスペ傾向の息子だと、母親も理解はしているはずだ。

 そういう息子への態度には、気をつける必要がある。

 

 

 ある正月の日、母親を含めた家族が何人かやってきた。

 祖父母の墓参りがてら、という話だったような気がする。

 

 私は基本的にかまわない性質なので、訪問者が好きに行動して、勝手に帰るのをただ待つだけだ。

 さて、静かになった後、冷蔵庫内を確認すると、納豆が12個あった。

 

 あまり大事なことではないが、もう一度書く。

 3個組の納豆が4パック、計12個が冷蔵庫内に追加されていた。

 

 すでに1週間分の納豆と卵が冷蔵庫内にあるところに、納豆だけを12個追加していったので、都合20個になる。

 大型冷蔵庫に納豆ばかり……業者か! と思わず突っ込みそうになった。

 

 

 みなさんご理解いただけると思うが、納豆や卵というのは「生鮮食品」に分類される。

 一定の期間内に消費すべきものであり、一般消費者で、そんなものをまとめ買いするバカはいない。

 

 一週間前後で消費できる分だけを買い、なくなったら買ってくる。

 そういうものを「まとめて」買ってきた!

 

 彼女はこの家が大家族ではないことを知っているし、私が1日1パック消費することも知っている。

 冷蔵庫内には1週間分すでにあり、そして納豆には賞味期限がある。

 

 こんなにいらないだろうから、何個か持って帰ろう──。

 そういう選択肢はあったはずなのに、もって帰るのが面倒くさかったのか、思考そのものを放棄していたのか、ともかくそのまま置いて帰った。

 

 

 事実は、ただこれのみだ。

 つまらない話だ──が、その後、私がどうしたかは、たぶんおもしろい。

 

 その後の1週間、まずは自分が買ってきておいた納豆と卵を消費して過ごした。

 日常を淡々と過ごすことをよしとするASD(自閉スペクトラム症)傾向の私は、可能なかぎり変わらない日常を維持したい。

 

 そして1週間後、当然、母親の置いていった納豆だけが12個、残ることになる。

 ただでさえ入荷の少ない年末年始のスーパー、買ってきた時点で賞味期限の近かった納豆は、すでに「おいしく食べられない」状態だ。

 

 もちろん廃棄すべき、それは理解はしている。

 では、いつものように買い出しに出た私は、どうしたか。

 

 いつもの食品をかごに入れ、納豆だけは「家にあるので」買わずに帰った。

 愚かな行為、親が親なら、子も子だよ……。

 

 

 その後2週間弱。

 私は「腐った納豆」を毎日食って過ごした。

 

 賞味期限切れの納豆がどうなるか、多少の興味があったことは認めよう。

 食べ物を捨てたくない、というエコな自分もいる。

 

 べつにケチというわけではないが、まあそう思ってもらってもいい。

 与えられた環境に合わせ、1日1個というルールを守って食べつづけた。

 

 

 賞味期限切れから2~3日は、まあ問題ない。

 1週間たつと、さすがに、ん? となる。

 

 2週間後、もはや納豆と思いたくない物体に変わっている。

 どろどろになった豆らしきゼリーを、吐き気を催しつつ食ったのは……なぜか?

 

 忘れないためだ。

 気持ち悪いと思いながら、毎日、古い納豆を食う日々のなかで、こんな生活をもたらした構造について、この時期、非常に深く考えることができた。

 

 もちろん吐き気を催した責任の半分は、廃棄するなど適切な対応をとらなかった私にある。

 しかし残りの半分は、無考えなおせっかいを押しつけてくる側にある。

 

 適切に行動しない親に、適切に対応しない息子、という組み合わせの実践。

 結果、ただ嫌悪感だけが残った。

 

 

 さて、ここまで日常のあまりにどうでもいい話を読まされて辟易したかもしれないが、一例としてわかりやすいので、るる書き留めた。

 もちろん私も、この一事が「くだらない」ことくらいは理解している。

 

 これだけなら、もちろんたいしたことではない。

 問題はこの母親が、この手のいやがらせをコンスタントに継続してくることだ。

 

 継続は力というか、たとえ小さなダメージでも、蓄積すると大きな怒りに変わる。

 彼女にとっては平常運転で、他者にダメージを与えているつもりはないのだろうが、残念ながらこれがいけない。

 

 上述のような「くだらない」いやがらせを、考えてみれば生まれてからずっと、小刻みに受けつづけている。

 相手が「蓄積するタイプ」の場合、これはかなり危険な行為だ。

 

 

 納豆の件からおよそ半年後だろうか、私の小さな堪忍袋は臨界点に達した。

 やるべきことをやらず、やらなくてもいいことをやるタイプの母親に、「お願いだからもう来ないで」とメッセージを送った。

 

 接点がなければ、いやがらせをされることもない。

 以後、彼女の顔を見ずに済んでいる。

 

 べつに死ぬまで許さないなどと子どもじみたことを言うつもりはないが、とりあえず2~3年は、イライラせずに暮らしたい。

 以前にも何度か実家に帰らない期間はあったので、いつものことといえばいつものことだ。

 

 考えてみれば若いころから、コンスタントに気が合わない人物を遠ざけている。

 相手のためになにかをやろうとするのは勝手だが、相手がどう思うかは相手が決める。

 

 そんなささいなこだわりを積み重ねた果てに、私という人間がいる。

 こんな人間もいるのだと、参考までに。

 

 以前、なんだこいつ、と思った編集者がいる。

 スイッチ2を転売屋から買ったとかなんとか、どうでもいいことで炎上していたタレントに、横からしゃしゃり出て「自分があげたものです」とか絡んでいった。

 

 結局、あげてもいなければ、なんの関係もなかった。

 なんかいろいろ言い訳はしていたが、個人的には、茶化しにやってきたクソ野郎、という印象だけが残った。

 

 正直「キモチワルイ」印象が強すぎて、そもそも彼がどういう人間なのか、掘り下げる気にもならなかった。

 しかしある程度知らないと論評できないので、今回、AIなどに最低限の調べは入れてもらった。

 

 

 どうやらプライバシーの侵害とやらで、光文社を訴えているらしい。

 他人のプライバシーを食い物にしていた人間が、自分がやられる側に転じるや否や、「行き過ぎた不倫報道や私生活の切り売りビジネスに一石を投じ」た、ということのようだ。

 

 よりによって、おまえが言うか。

 直感的な私の印象と、どうやら世間一般の抱いた思いには大差ない。

 

 一部、被害者になることの多い有名人などからは支持を得ていたが、一般人からは「自業自得だろ」という意見がとても多かった。

 そのなかには私同様、くだんの一件で吐き気を催した人々も一定数いたはずだ。

 

 

 週刊誌報道の詳細とか、流れの顛末を詳述する気はないので、一行でまとめよう。

 目くそと鼻くその戦い、だ。

 

 なるほど一般的に、週刊誌ビジネスのプライバシー侵害体質には歯止めが必要だとは思う。

 不倫報道レベルであっても、家族や仕事への実害が出たときには、法的なカウンターを打てるようになるべきだろう。

 

 しかしその旗振り役を「だれがやるか」は、あまりに重要ではないか?

 他人の敷地の火事を炎上させて、こいつクソ野郎だな、というイメージを積極的に焼き付けてきたのは、彼自身だ。

 

 他人を炎上「させる」のは進んでやっていく。

 自分が炎上「させられる」のはお断り。

 

 どの口だよ?

 と突っ込まれるのは、たぶん彼自身、百も承知だと思う。

 

 

 自分がどういう「役割」を演じているか、おそらく彼は理解している。

 読解力や推論力のない人間が、編集者などできるはずがない。

 

 つまり彼は、「わざと」やっている。

 ならば私が判断すべきは、それに付き合うかどうかだけだ。

 

 よろしい、お付き合いしよう。

 彼が投げかけているのは、「クソ野郎が正しいことを言ったら、あんたらどうするの?」だ。

 

 クソ野郎が正しいことを言うことは、残念ながらよくある。

 そのとき社会は、「クソ野郎はクソ野郎として批判しつつ、正論だけは冷静に拾い上げる」という、面倒くさい二段構えに直面する。

 

 今回の訴訟がどこまで認められるかは、司法の仕事だ。

 しかし注意して見るべきは、判決文よりも「クソ野郎が振りかざした正論を、社会がどこまで自分の問題として引き受けられるか」という、人間側の反応のほうだと思う。

 

 

 個人的に、あらゆる行為、いいことも、わるいことも、すべてが返ってくる、という信念は社会構造を維持する上で、とても重要だと考えている。

 人間が「いいことをしよう」とか「わるいことはやめとこう」と考える最大の理由が、この因果応報の理屈だからだ。

 

 かつて炎上系ユーチューバーが、めずらしくいいことを言っていた。

 「被害者面だけはするな」。

 

 自分もエゲツナイことをやってPVを稼いでいて、ある程度の甘い汁を吸った。

 やがて引退したが、世間からの風当たりは強い、自分は被害者だ、と思いたいところだが、ほんとうにそうか。

 

 炎上系の動画配信者は、自戒の念を込めて言い聞かせるべきだ。

 「最初に迷惑行為を配信したのは自分」ということ。

 

 彼らは注目を集め、大方の批判と一部の信者を獲得する。

 それが目的で、会計前の商品を食ったり、醤油さしを嘗めたり、汚した皿をレーンにもどしたりする。

 

 つまり注目されるという代価を受け取る代わりに「たたかれる」ことは、織り込み済みであるべきなのだ。

 もちろん、人格否定や粘着ハラスメントまで許されるわけではない。

 

 だが、不特定多数に向けて配信した以上、不特定多数からの批判や揶揄そのものは、原理的には受け入れざるをえない。

 その範囲において、彼らは「被害者ではない」。

 

 

 程度問題はつねにあるが、配信者は不特定多数に配信したのだから、不特定多数から反応されて当然だ。

 それが彼の期待するものと合致するか否かは、彼ではなく社会が決める。

 

 ブーメランが刺さる、という表現の意味は明白だ。

 「おまえが言うな」とは、そのひと自身の発言の説得力の根幹にかかわる部分なのだ。

 

 過酷な倫理規定をさけんでいた議員が、自分だけはハードルの下をくぐり抜ける。

 許されるはずがない。

 

 自分がやったことが、自分に返ってくる。

 その意味において、彼らは断じて被害者ではない。

 

 

 イジメ業界(?)では常識らしい、金言のようなフレーズがある。

 ──イジメを「忘れる権利」があるのは、イジメられた側だけだ。

 

 つまりイジメた側は、自分のやったことを忘れてはならないのだ。

 なのだが、残念ながらイジメる側は平気で忘れる。

 

 同窓会で会ったとき、過ぎたことだと笑い話に変えるのは勝手だ。

 しかし、忘れてはいけない。

 

 おぼえていなければ、適切な「責任」がとれない。

 記憶にございません、秘書がやりました、なんて下劣な言い訳は断じて許されるべきではない。

 

 イジメられた側が感じた恐怖、苦痛、屈辱、そのすべての責任をとって、はじめてバランスがとれる。

 イジメた側は残りの人生、いつ「自分がやったことが返ってくるか」を覚悟して生きるべきだ。

 

 ──ふるえて眠れ、それがイジメた側の責任である。

 という因果応報の理屈は、とても理解しやすい。

 

 

 とにかく覚えていなければ、話にならない。

 もし忘れているとしたら、何度でも思い出させてやる必要があると思う。

 

 あなたは、どう生きてきたか。

 その結果を、受け入れてください。

 

 私は女好きなので(語弊)、よく女性ボーカルの曲を聴く。

 歌は世につれ、世は歌につれ、その時々の「文化」があらわれていて、とてもおもしろい。

 

 カラオケでも、よく歌う。

 オクターブを下げて音域ぴったりの曲が多いからだが、ある種の「勉強」もある。

 

 で、気づいたのは、女性アイドルが「僕」という一人称の曲を歌うことや、男性演歌歌手が「女」の道を歌うのが、正直あまり好きではないことだ。

 自分が女性目線のラブソングを歌うことは、まさにその構図に当てはまる。

 

 なるほど、そういうわけか。

 私は「勉強」が好きなのだ。

 

 AIと話し合っていても、必ず「批判」や「反対意見」を募集する。

 論破したいからという浅薄な感情もあるかもしれないが、さまざまな立場や感情は勉強しておくに越したことはない。

 

 もちろんすべてを受け入れるわけではない。

 イライラしながら聴いてる女子トークはままあるが、それじたいが「いい勉強」だ。

 

 

 報道番組を見ていて、ジェンダー・ギャップの話題になった。

 フェミニストの大好きな「言葉狩り」の文脈で、男のアナウンサーが、「じゃ僕らも女子アナって言ったら失礼なんですかね」と、なかば冗談ぽく隣の女子アナに振っていた。

 

 すると女子アナ、「そうですね、男子アナとは言わないし、女子というのは女の子みたいな感じで、見下している感じがありますね」などと乗っかる。

 しかしさすがに、どこかで「まあ女子くらいはいいんじゃないですか」と拾ってまとめるのかと思ったが、そのまま話題を変えていた。

 

 空気を読んだつもりで読みすぎただけなのか、それとも心からそう思っているのか。

 だとしたらヤバイと思うが、影響力のある立場にいる人間が冗談半分の問いかけに乗って「女子もダメ」に寄せてしまうのは、正直バランス感覚を疑う。

 

 じゃあ女子会もダメだろ、女子会はババアだってやるんだぞ。

 いくらなんでも「女子」まで狩るのはやりすぎだろ?

 

 もちろん「自分たちで女子会を名乗る」のと、「局の内外のだれかが女子アナとラベリングする」のはちがう、という理屈はわかる。

 それでも言葉を根こそぎ狩りに行く態度には、賛同できない。

 

 バランス感覚をもったアナウンサーなら、そんな暴論には乗るべきではない。

 もし彼女がノリノリでそう思っているのだとしたら、それこそが昨今のリベラル衰退の遠因だと思う。

 

 

 意識高い系だと言いたいのか知らないが、ある「女優」が「俳優」と自称していたりする。

 なぜ女優ではダメなのか?

 

 女優といえばセクシー女優だからだろうか?

 職業差別をしているのは、いったいどちらだろう?

 

「昔、平賀源内という男が公儀に願い出て、こういうものがないと悪所が盛るから、ぜひともつくるべきだと申し上げてできたのが、この吉原というものでね。

 最近は、吉原はダメだとか、こういうものはよくないってね、そんなこと言ったってしょうがないんですよ、そういうもんなんですからね」

 

 いつものように落語を聴いていて、名人・志ん生の名調子でそう言われた。

 まったくだな、と思った。

 

 それが人間というものであって、その人間の本性を否定する方向に進む理想主義者は、昔のヤバイ宗教と変わらない。

 フェミニズムをめぐる議論のなかで、かなり大きな比重を占めているのがこの「性産業に対する偏見」だと感じている。

 

 

 私は女の人が大好きだし、社会の枢要を占めてもらいたいと思っている。

 彼女らに食べさせてもらいながら、好きな物語を書きつづけていられれば幸せだ。

 

 男女機会均等や同一労働同一賃金は理解できる。

 女性が働きやすいように、という各論に対しては、ほとんど賛成だ。

 

 しかし性的二型は進化的な時間スケールの話であり、それに紐づく社会的な役割もまた、長い時間をかけて成り立ってきた。

 その「役割」否定、極端な男女の均質化については、あきらかにまちがっている。

 

 われわれは「おなじ人間」ではなく、それぞれが「異なる人間」だ。

 だからこそ、言葉や性を管理しようとする方向ではなく、「女が女であること」「男が男であること」を前提にしつつ、権限も責任も分け合っていく方向に未来を見たい。

 

 「女性」としての担当範囲を拡張し、「男性」の職権を大幅に譲る。

 それは彼女らが「人間だから」ではなく、「女性だから任せる」のだ。

 

 個人的にも、相当程度「任せたほうがマシ」になると思っている。

 だから高市さんには働いて働いて働いて……もらいたい。

 

 田舎に住んで6年になる。

 その間、何度か「神さま」に会った。

 

 興味深いと思った方はもちろん、私にいい病院を紹介してあげようと思った方も、とりあえず読んでいただきたい。

 そのような超自然的な存在を信じない人にも、納得がいく「理屈」は立つ。

 

 私自身、基本的には不可知論者だ。

 が、神さまは、もしかしたらいるかもしれない……。

 

 

 どんな神に会ったか?

 それはシスティナ礼拝堂の天井にいる老人でも、プロジェクトXに出てきそうな生ける神でもなく、ありていにいえば日本に八百万ほどいるらしい神の一柱。

 

 おいなりさん、と呼ばれるのが正しいのかもしれない。

 ふと目を覚ました私を見下ろしていたのは、たしかにおキツネさまだった。

 

 そういえば家の裏に、ちいさなお稲荷さんの祠がある。

 ご帰宅かな、と思いながら、そのおキツネさまと、なんとなく交流した。

 

 言語によって会話したわけではない。

 そもそも神さまが、人間ごときの言語を使用するとはかぎらない。

 

 しかし意思疎通はできた……気がする。

 その結果によると、どうやらこの家は神さまの「通り道」に建っているらしい。

 

 おキツネさまは、ひょいと私の上をまたいで通りながら、何事かを伝えてきた。

 もちろんすべて、ただ私がそれを見た気がするだけ、そんなことを言われた気がするだけ、であるが。

 

 邪魔だなとか、退去しろとか、そういうことは言われなかった。

 ただ、「おまえがここに神さまのための道をつくると言うなら、認めて進ぜよう、やるがよい」という意思が伝わってきた。

 

 

 神さまは地上げ屋でも行政でもないので、私に退去を命じたりはしなかった。

 あくまでも私が自分の意志で、神さまに土地を献上しなければならぬ。

 

 ただ、そんなことをしたら私は住むところがなくなってしまう。

 ホームレスになるのはいやですぜ、神さまや、という「交渉」のターンが開始された。

 

 ところで私は、かなりのミニマリストだ。

 必要以上のものを所有するつもりがなく、死んだらすべてが無に還り、あの世にもっていけないカネも土地もそれほど必要ない、という思想をもっている。

 

 だから、当初からあまり抵抗はなかったのだが、それでもせめて「死ぬまでくらいは使わせてくださいよ」とは思った。

 法的にも土地ともに「持ち家」なので、日本国政府さえも私をここから排除することはできない。

 

 そもそも神さまにとって、時間などはたいした意味もないはずだ。

 だからここが神さまの通り道だとしても、私が死ぬまでの何十年かくらいは貸しておいてくれても罰は当たらないのではないか、という主張には汲むべき情状があるはずだ。

 

 

 なるほど、と神さまはうなずいた。

 ならばおまえに、代償を授けよう。

 

 と、このあたりがおキツネさまのおキツネさまらしいところ、と言えるかもしれない。

 お稲荷さまといえば、だれがなんと言おうと「現世利益」の神だ。

 

 神さまお願いします、私にはこのような望みがあります、どうかひとつ。

 ありがとうございました、おかげで望みがかないました、これはお礼です。

 

 という展開が、お稲荷さまにおける基本ルーティンである。

 そういう相互利益がわかりやすかったから、ウカノミタマの古代時代から伊勢屋稲荷に犬の糞の江戸八百八町まで、これほど隆盛を誇ったのだ。

 

 神さまが与えてくれたものの分だけ、こちらもお返しをする。

 それ以上でも以下でもない、ビジネスライクな現世利益の契約を、私と締結しようとしている?

 

 それならいいですよ、と私はうなずいた。

 あなたが私の夢をかなえてくれるなら、あなたの通り道を整備しましょう、と。

 

 ……というわけで、もし「夢」がかなったら、私は神さまのために家や土地を手放さなければならない、という契約をしたことになる。

 最後に、その「夢」について話しておこう。

 

 

 じつのところ、いまさら「夢」というほどのものでもない。

 それはなかば捨て、あきらめた昔日の残骸にすぎない。

 

 しかしまあ認めよう、たしかに私には小説家になろうと思っていた時期があった。

 たまにここでも書いているので、もう恥ずかしくもないが、いわゆるワナビだった。

 

 デビューを目指すワナビにとって、「賞」は最大のターゲットだ。

 その執着はすさまじく、発酵した承認欲求が、必死にすがりつき、ひねこびて、あるいは反発のターンにはいる、かなりやっかいな概念だと思う。

 

 とある掲示板に集まる彼らの「魂の叫び」を眺めていた時期もあったが、かなり背筋がぞくぞくしたことを思い出す。

 自分もこのなかのひとりなんだと思ったおかげで、夢をあきらめることができた、とすら言えるかもしれない。

 

 彼らはさまざまな手段でデビューを目指し、その失敗談について消費する。

 たまには賞賛もあるが、たいていは怨嗟と怨望の罵詈雑言、いわゆるルサンチマンというやつの塊だった。

 

 

 寄らば大樹の陰、迎合したい側は、選ぶ側の気持ちなどを忖度し、「傾向と対策」を仕上げて「受験」する。

 テストなら比較的公正だが、選ぶ人が正解だとはかぎらないのが「賞」だ。

 

 その不正解かもしれないターゲットに向けられた作品が受賞すれば、それでもそこそこ成功することもあるが、爆死することもある。

 どの程度確率がいいかというゲームにすぎない、と俯瞰するワナビたちもいる。

 

 もちろんプライズの種類によっては、これまでがんばった人に与えましょうという目的を達成しているかぎり、まちがいではない。

 ノーベル賞などはその代表格だろう。

 

 だが「新人賞」という時点で、あやしくなる。

 システムそのものが、だいぶ不具合をきたしていることは、当事者も理解しているはずだ。

 

 芥川賞でさえ、売れない時代。

 そもそも本を読むことじたいが、高すぎる趣味性の時代になった。

 

 

 そんなわけで、私がその手の「賞」に応募することは、おそらくもうない。

 そもそもプリンタが壊れてしまった(笑)。

 

 しかしさいわい、印刷できなくてもいい時代になった。

 ネット小説という手がある。

 

 多くの出版社がここに参入してくるのは、理解しやすい。

 ここはある意味、出版社のリスクを最小化させるものになっている。

 

 自分たちの宣伝によって人気を出そうというのではなく、自分たち以外のだれかによってすでに人気が出ているものを売ろう、という算段。

 サイト内でさまざまな「賞」が駆動する「小説家になろう」などは、その傾向が強いような気がする。

 

 KADOKAWAの「カクヨム」は、それでもいち出版社の影響力のもと、ある程度の売る努力はあるのかもしれない。

 現在絶賛賞レース開催中だが、結局は「自分で売ってくれる作者を探す」場になっている。

 

 

 当初、この業界への参入は、あまり気が進まなかった。

 まだ旧来型の思考回路が強かったせいで、大きな賞を取って颯爽と文壇に登場する超新星、みたいな夢をみた時期もあった。

 

 明確に言えるのは、これが過去形であること。

 現在もう、とうにそのような夢は砕いた。

 

 病んだ心を抱えて生きているうちに、むしろ「静かに暮らす」ことのほうが重要であり、プライオリティを置くようになった。

 その証拠に、私は田舎にたどりついている。

 

 好きな時間に起きて寝て、好きな時間に食べて出して、好きなように考えて書いて、つまりほぼノーストレスで生きている。

 私は正解を引いたのだ、という思いは非常に強い。

 

 

 そこに現れたのが、神さまだった。

 寝た子を起こそうとでもするかのように、思い出せ、と。

 

 もしかしたら私にもまだ「願望」があって、それがそのような「幻覚」を見さしめたのたではないか、という論理的思考はもちろんある。

 神に仮託して、いまさらジロー夢をかなえようとしているだけ、と思われる方はそれでもいい。

 

 しかし気が進まないというのも、正直な気持ちなのだ。

 いまさら忙しくなりたいという気が、それほどない。

 

 それでも自分の精神にとって書くことは重要なので、自分のために書きつづけはするだろう。

 あくまでも趣味で納得のいくものを書けていれば、その人生は成功だと思う。

 

 そうして、それなりのものが積み重なってきていた。

 これを「役に立てる」ターンがめぐってきた、と考えるのはまちがいだろうか?

 

 

 最近、地元で地方創生に寄するような活動があり、私もそれに参加している。

 私が幻視した「神の道」は、彼らの活動とも符合する。

 

 彼らの協力を得て、それなりの読者が得られたなら、それはカドカワのお眼鏡にかなうかもしれない。

 そしてもし物事が動き出せば、私は住む家をなくすことになる。

 

 ……さて、捕らぬ狸の皮算用もこのくらいにしておこう。

 神がいると思う方、あるいは興味をもってくれた方は、カクヨムで「群馬」とか「安中榛名」あたりで検索すると、私の名前が見つかる。

 

 もし読者選考を抜け、結果を残したなら……。

 まあ、なるようになるだろう……。

 

 先日の連休、地元主催の中山道シンポジウムにいってきた。

 地域創生の一環なのだと思うが、会場はだいぶ空いていて、観客の熱量は……枯れていた。

 

 人間を年齢や性別で判断するつもりはないが、あきらかに偏っている。

 8割がたおじいさん、と言ってもさしつかえはあるまい。

 

 

 30でおっさん、60でじいさん、というざっくりとした見方で人間を区分する。

 そのおっさんの私の目から、よくこれだけ集まったなじいさん、貴重な連休の日曜日、暇なんだろうな、と嘆息した。

 

 まあそれに参加している私自身、暇であることを否定するつもりはないのだが、この枯れた群れが動いて地域創生につながるのかは疑問だ。

 とはいえ、なにもやらないわけにはいかないと、「ちいき活性化」のためにお役人もがんばっている。

 

 最近は歴女とか鉄子とか、おっさん趣味を上書きする女性たちも現れてきてはいる。

 が、まだまだ少数派。

 

 新たな層にリーチする手法も、考える必要はあるだろう。

 しかし結局、その手の趣味をこじらせているのはおっさんなんだよな、という現実にも逢着せざるをえない。

 

 

 シンポジウム、それぞれの発表も終わり、最後にパネルディスカッション。

 発表者が舞台に並び、それぞれの意見を述べる。

 

 終了予定時刻から、すでに10分ほど過ぎている。

 お役所仕事に残業はタブーだ。

 

 観客だってさっさと帰りたい(人もいる)。

 まとめようとがんばる司会。

 

 それではみなさんありがとうございました、という最後のところで、枯れた群れから情熱がほとばしった。

 枯れ木がにぎわっているかのように、吹き抜ける空っ風。

 

 

 右手後方の客席側から、ちょっといいですか、と老骨による不規則発言。

 時間にして1、2分だと思うのだが、滔々と自説を語る。

 

 街道の話はいいが、そこには人間のために酷使された荷馬や農耕牛がいる、多くの犠牲が払われた、彼らのことを忘れてはならないと。

 あまり理路整然という感じは受けなかったが、要するに動物愛護的なことを言っていた気がする。

 

 まあ慣れた司会なら、この程度はどうということもない。

 ただでさえ巻いている状況なので、手早く切り上げようと試みる。

 

 しかし残念、触発されたかのように、左手前の席からも鬱勃として屹立する老爺。

 わしも言いたいことがある、とばかりしゃべりだそうとする。

 

 やっかいなことになってきたな、と思う私の意を汲んだように、発言を止める司会のナイスセーブ。

 貴重なご意見をありがとうございます、しかし時間も押しているので……。

 

 不規則発言はブロックされ、予定を20分過ぎての終会となった。

 すでに数人が会場のドアを開けて立ち去っているなか、私もやれやれと腰を上げる。

 

 

 帰路、めんどくさいじいさんだなとは思ったが、一応その意見について考える。

 動物愛護それじたいは、わるいことではない。

 

 人間のために使役された牛馬など、家畜を含めた生命は歴史的にも大きな意義をもち、たしかに顕彰に値する。

 そういう碑もあるんだと、老人も言っていた。

 

 人間は自然に対してだいぶ無茶をしてきた、と私など一瞬、共感してしまいそうになったが、同時に俯瞰する視点から鑑みると、いやな連想が働く。

 この手のじいさんが、北海道や東北に迷惑電話しているのかもしれない、と。

 

 

 動物の命は大事という思考の延長線上、増えているクマ被害のニュースのなか、クマを殺すな、という例のやつ。

 動物愛護の成れの果て、地域の安全とか生態系のバランスとかいう議論をすっ飛ばして、ただ殺すなと。

 

 そういう宗教じみた人々が一定数いるのはいいのだが、自治体のご迷惑を顧みない苦情電話になるとやっかいだ。

 長時間、クマを保護すべきという自説をのたまい、業務を妨害することで彼らが得るものはなんだろう。

 

 彼自身の自己満足と、相手をさせられる側の若干の税金の空費。

 もっとほかにやるべきことはあるだろう、と私などは思ってしまう。

 

 

 ……いや、ないのだ。

 暇だから、こんなシンポジウムに参加している。

 

 自戒も込めて、ほかにやることねえのかよ、などと考えれば、あるかもしれないし、ないかもしれない。

 もっとうまいやり方はあるはずだが、それには才能と努力が必要だ。

 

 べつにシンポジウムを否定しているわけではない。

 ただ、やり方を洗練すべきとは思う。

 

 

 暇なじいさん集めて「やってます感」を出すことに、税金を使う。

 その税金を支払っている私自身が、プレイヤーのひとりとして、ここに小さな感想を書いている。

 

 じっさいは「暇+正義感+承認欲求+孤独」みたいな複合要因だろうし、「暇=悪」と短絡されても困る。

 要するに、暇そのものは資源だが、使い方を誤ると迷惑電話にも、空疎なシンポにもなるということ。

 

 いちばん言いたいのは、若い人への橋渡し。

 決定的に欠けているのは、ここかな。

 

 急激に寒くなった日の正午。

 前日に予約して、献血ルームに行った。

 

 閑散とした室内、たぶん史上最速。

 音速の貴公子、と呼ばれても差し支えないくらい、受付からスムーズに進んだ。

 

 無料の飲み物の自販機ボタンを押して、それが出てくるまでの秒で、受け取ったばかりのポケベルが鳴った。

 飲む間もないコンポタ(ぬるめ)をテーブルに置いて、医師の待つカウンセリングルームへ。

 

 いつものやり取りのあと、そのまま検査。

 血の濃さ、問題ないですね、飲み物、トイレ、だいじょうぶだったらどうぞ、と献血用の椅子を指さされる。

 

 ほぼ使われることなく回収される、呼び出し用のポケベル。

 コンポタもってきていいすか、と一度だけ受付に引き返し、そのまま開始した。

 

 

 これじたいは、非常に良い。

 待たされるのが大きらいなイラチの私にとっては、毎回こうであってほしい。

 

 待ち受けていたのは、若くてかわいい女の子(目しか見えないのでわからんが)。

 一般的なおっさんならラッキーとでも思うかもしれないが、苦い経験を積んできた私は一瞬、いやな予感。

 

 年かさの看護師が、心配そうにちょいちょいこっちを見ているのも気になる。

 この看護師、よもや地雷ではあるまいな……。

 

 

 自分の肘正中血管については知っているので、あまり心配はないという楽観はある。

 が、最悪、刺しやすい血管に喜んでぶっ刺して貫通、とか笑えない。

 

 若干の不安をおぼえつつも、ここまできたら俎板の鯉だ。

 ぶすっ──必要以上に痛い、気がする。

 

 うまい人は、ちくっとしますよ、と言いつつほとんど気づかないうちに刺して、しびれる感じはないですか、などと涼しい顔をしている。

 そういうときは私も、うまいっすね、とすなおに感謝をささげる。

 

 たまに初心者か、と言いたくなるヘタクソはいる。

 生きて帰れるかどうか、というのは言いすぎだが、痛みが数十分で済めばさいわい、2、3日違和感を引きずることもある。

 

 で、くだんの若い看護師、真剣な顔でぶっ刺し、血管内でしばし針をごりごり動かしてはいたが、さいわい致命的打撃は受けずに済んだ。

 年かさの看護師も、どうやらホッとしているようだ。

 

 このまま何事もなく終われば、私もこの記事を書きはしなかっただろう。

 最後の血圧測定、問題はここにあった。

 

 

 ぶっちゃけ私の血圧・脈拍は高めだ。

 最初の測定の段階でもぎりぎりで、測り直すことはよくある。

 

 数値が基準外だとそもそも献血できないし、献血後の数値が基準外であれば椅子から立たせてもらえない。

 まれによくあるのだが、たとえば最低血圧が100以上だと、測り直しになる。

 

 今回もいつものように、下の血圧は90台。

 まあそんなもんだろうと、とくに気にしてはいなかった。

 

 で、献血後の血圧測定。

 1回目、その数値を細部まで覚えてはいないが、やたら高かった──病気なのかな、と思うくらい。

 

 人を不安にさせる数字を出すのはやめろ、と思いつつ、冷静さを失わないように努める。

 うちにも手首の血圧計はあって、二の腕で測るものに比べて高く出がちな傾向は、たしかにある。

 

 看護師は、すぐに二の腕で測るタイプをもってきて、測り直し──で、どうやらぎりぎりアウト。

 100基準で102ならいいだろ、と思うのだがお役所仕事はそうはいかない。

 

 ふつうは同じ血圧計で測り直すものだが、こたびの看護師、新たな血圧計をもってきた。

 手動でカフに空気を送る、なかなか古めかしいタイプ。

 

 深呼吸してくださいと言われつつ、3度目の測定。

 注目すべき数字が、ここで出た。

 

 

 異常に低い、というか理想的な数字にほぼ近い。

 いぶかしげな私に、よかったですね、問題ないですね、ではどうぞ。

 

 立ち上がることを許され、献血ルームから退出する。

 数値の呪縛から解き放たれた一幕──つまりこの血圧計は、お互いのための最適解をはじき出した、ということになる。

 

 駐車場のサービス券が1枚余るくらい、最短時間で献血ルームをあとにした私。

 混んでいた立体駐車場で、はじめて9階まで登らされた道を引き返す時間も含めて、1時間以内余裕でした。

 

 

 さて、帰りの車中、暇な脳髄の使い道を見つけた私は、ゆっくりと考えた。

 細かい数字は覚えてないが、3回の測定結果はざっくり以下のようなものだった。

 

180/120

 最初に意味不明なパニック値が出るのは、けっこうある。

 測定の準備がうまくできていなかったとか、初歩的なミスが大きい。

 

150/100

 2度目の結果は、信頼してもいい値のような気はする。

 あまり水分も摂れていなかったし、400抜いた直後なら、こんなものだろう。

 

120/80

 3度目のこれ、どうなってんだ。

 忖度機能でもついてるんじゃないだろうな、健康か!

 

 いくらなんでも、数分以内に同じ人物が測定して、この数値のバラつきは信頼性に疑義がある。

 都合のいい数値を「お手盛り」か、と突っ込みたくもなる。

 

 機器によって異なる数字が出る、よくありますね、困ったものですね、あははは。

 笑って済ませればそれで終わりだが、ここにある真実を穿つのが私の仕事だ。

 

 

 日赤という巨大な組織が決めた枠。

 血圧や濃さの数値が、この範囲でなければいけません、外れたらキャンセルです。

 

 それに合わせて、現場は動く。

 数値が外れていたら終われないんですよ、と若い看護師が言っていた。

 

 私は自分の数値が高めに出ることを知っているが、相手は知らない。

 彼らは基準をもっていて、その範囲でなければいけないという教育を受けている。

 

 ここで「基準外のあつかい」が問題になってくる。

 基準外だからといって、いつまでも椅子に座っていてもらっていいものか?

 

 献血する側だって、いいかげん立ち去りたいのに縛られる。

 お互いにとってマイナスしかない。

 

 

 そこで必要なのが、方便だ。

 数値が外れているとはいえ、一見して問題なさそうだし、ずっとここにいていただくわけにもいかんでしょ。

 

 というわけで、「そこをなんとか」するツールが求められる。

 必ず低く出る血圧計、あんたの出番だよ!

 

 上120、下80──もう健康そのもの。

 よかったですね、採血は問題ないですよ、とプレイヤー相互了解。

 

 お互い納得して、その場を終わりにできる究極ツール。

 献血ルームにある裏ワザを、またひとつ解明することができた。

 

 

 というのは、あくまで私の推論だ。

 もちろん基準をゆるめすぎたらそれこそ危険だし、現場判断、運用のノウハウは適宜あっていい。

 

 現場で「そんなズルしてないよ!」と言ってるスタッフもいるかもしれないし、現実をどう受け取るかは個々の自由だ。

 ただ私は自分が経験し、記憶した事実のみを書いている。

 

 批判するつもりはない、冷静に考えよう。

 ──これは正しい「方便」ではないか?

 

 全体として、うまく流れを捌くために採用するテクニカルタームを、だれも否定はできない。

 もし否定するとしたら、それはもはや「お役所仕事」の「形式主義」に堕する。

 

 

 ともかく重要なのは、スムーズに流すこと。

 それを妨げるものがあるとしたら、排除されるべきはどちらか。

 

 社会も血液も、停滞していたら害毒になる。

 それは流れてこそ、意味があるのだ。

 

 大きな世界の構図を、小さな献血という世界から推し量る。

 そんな思想へと逢着した、今回の献血には意外と得るところがあったのかな、と思っている。