岐南町の前町長が、町議選に出て2位当選したらしい。
ちなみに町長の辞職理由は「99のセクハラ認定」だそうだ。
コメントは荒れていた。
投票率が絶望的に低い、町政に興味がない、女性への人権意識を欠いている、時代遅れの自治体、などなど。
認定されたセクハラ一覧を見ると、たしかにそれはセクハラだなと思うものが多かったものの、そのくらいはいいだろ、と思うものも混在していた。
あくまでも私の価値観だが、この元町長はたぶん「よくいるダメなおっさん」だ。
セクハラってなんだろうな、と考えてみる。
受けた側がハラスメントだと感じたら全部そう、という極論を聞いたことはあるが、そんなわけはない。
顔を見た時点で生理的に不快なので、あなたは外出した時点でセクハラ。
そんな言論が通用するか?
どの陣営にもあるが、だいたい「言いすぎる」からよくない。
多くの人が共感できる限度を、あまりにも踏み越えすぎる。
そんなに極端なことを言わなくても、もっと低いハードルすら蹴倒す人々はいくらでもいる。
そういう明白な「悪」を打倒すればいいのに、と思う。
この根っこにいるのは、もっとひどい「被害」に遭っている具体的な女性から目を背け、抽象的な話題をあげつらって「助けたふりをする」人々だ。
名前を変えるだけで、なんかやった感を出している政府に、とてもよく似ている。
問題の本質は、そんなところにはないはずなのだ。
たたくべき目に見えづらい悪からは目を背け、てきとうに目立つ「敵」を設定したうえで、極端な言説をもって炎上させる。
それは言いすぎだろ、と人々に思わせた結果が、くだんの2位当選なのではないか?
と一瞬思ったが、岐南町の件はくわしく知らないので断言はしない。
そういえば2、3か月前、田原俊彦さんが不適切発言をしたとかで、ニュースになっていた。
「真ん中の足はもっと上がる」とか、『教師びんびん物語』に絡めて「いまもギンギンです」とか、まったく他愛ない。
どこが問題なんだよ、と正直思う。
女性アナの手を指で触るという行為もあったらしいが、手に触るのがダメなら握手もできないではないか。
MCの名前が問題なのはともかく、これを問題化したのはだれか。
不適切発言を発表したのは、TBSラジオ。
正直またTBSかよ、と思った。
彼らが忖度しているものの正体こそ、問題だ。
この女子アナ、報道特集でも参政党から「偏向報道」だと訴えられていた。
どんなことを言ったか調べるまでもなく、客観的な事象から、彼女が「リベラル側のプレイヤーとして機能している」ことが察せられる。
何度も言うのだが、私はリベラル寄りの思想をもっている。
しかし残念ながら、このブログではリベラルを腐すことが多い。
なぜそうなってしまうのか。
彼らが「やりすぎる」からだ。
やるべきことから逃げている、と言い換えてもいい。
彼らに対する違和感の本質は、むしろそちらにある。
助けるべき女性はいくらでもいる。
しかし彼女らは目に見えづらかったり、手間のわりに効果が実感しづらい。
虐待を受けている底辺の女性の声を拾うのは、たしかに困難だ。
代わりに、もう助ける必要のない恵まれた「声の大きい人々」の声ばかりを拾う。
そんなことに汲々とした結果が、昨今の凋落だと思っている。
結局、やっかいな仕事から逃げているのだ。
じゃあおまえがやれよ、と言われてもやれない。
それは「大変なこと」で、簡単にはできないからだ。
だからこそ、私は「言いすぎない」ようにしている。
やるべきことができないので、よけいなことも言わないことでバランスをとっている。
だが声の大きい人々は、困難なことからは逃げつつ、自己都合のためだけに言いすぎる。
このシステム、じつのところ「宗教」によく似ている。
世界は滅びるのだと言い募って信者を増やすのは、洋の東西を問わずくりかえされてきた布教スタイルだ。
そうすると教団の一部が潤うので、全体としても推奨される(これが「圧力」となる)。
声が大きい当人にとっても、それなりの利益や売名を果たすことによるメリットは少なくない。
あげく「目先の利益」に偏った司祭や学者などの「自営業者」ばかりが目について、社会の大きな問題については踏み込めなくなる。
志高く、必要とされている現場で戦っている一部、本物の宗教者や行動主義の学者には敬意を表する。
だが現在のリベラルは、大きな声で言いすぎるだけ、のようにみえる。
弱者は助けるべきだし、ハラスメントは減らすべきだろう。
包摂性の高い社会を築いたほうがいい、とは思っている。
が、彼らのように言葉を狩ったり、ささいな行動に突っかかるのはどうなのか?
極端な主張で敵味方を峻別していくやり方は、方法論として正しいのか?
昔はよかったが、いまはダメ──そういうケースは無数にある。
令和の時代はそういう発言をしたらいけない、と指摘された田原さん。
彼としては「通常運転」だったらしく、それで通用している同世代のファンの方々なども、当然に受け入れていると思われる。
なんなら下の世代でも「べつにいいだろ」と思う方々は少なくないはずだが、「活動家」はちがう。
認識が甘い、セクハラである、と「詰める」。
西洋でいえば異端審問、日本史でいえば特高警察みたいなものだ。
毎度言っているが、原理主義者がなにかを言い出したら、眉に唾をつけたほうがいい。
自己完結した主義者や活動家ほど、手に負えないものはない。
そうして一度「差別主義者」のレッテルを貼られてしまうと、以後どんなにまともなことを言っても、ぶったたくサイクルにはいる。
特定の政治家や評論家を、死ぬまで狙い撃ちにしている狂信的リベラルは、意外に多い。
謝っている相手を詰めるのは、すべての「団体」「教団」「結社」などがやってきた。
異端審問官は、魔女として狩られた人間が多少の反省を示したところで許さない。
このような狂信者の存在割合は、過去も現在も基本的には変わらないのだろう。
だから同じような構図で、炎上しつづける。
彼らが「言いすぎる」たびに、私は空寒いものを感じる。
極端なことを言いすぎて、トランプやブレグジットを招いた反省がまるでない。
先のニュースでも人権意識うんぬんのコメントが多数ついていたが、この手の「自称リベラル」は、新たな宗教よろしく一定数が囲い込まれている。
そうなるとマスコミの癖として、そういう「層」に向けてワーディングするというインセンティブが、自明にはたらく。
このやり方に、ひどくげんなりする。
無駄な反発を招いて、時代を逆行させているとしか思えないからだ。
ナポレオンも言っていたが、最悪の敵とは無能な味方だ。
昨今のトランプ勝利で、アメリカでも民主党はそうとうな反省を強いられていると思うが、結局は無能な(暴走した)味方をどうコントロールするか、という問題に尽きる。
──悪気なく、盛り上げようという姿勢そのものが禁止されている。
そんな環境を、みずからの身を守るためにもしっかり認識しましょう。
危機管理のエキスパートが、田原さんの行動に対してそう指摘していた。
開き直っているかのような前町長に比べれば、じゅうぶんに対応していると思うが、それでも詰められ、断罪されるかつての大物。
前町長のパワハラまじりのセクハラと比べるのもどうかと思うが、お笑い芸人がMCを務める公開の番組内で、その程度がNGだとはとても思えない。
言葉「狩り」は、よほど「楽な仕事」なのだろう。
まあどこに境界線を引くかは、時代が決めるしかないというのは真実だろう。
彼の行動はすべてNGであると決めつけるのも、ひとつの手ではある。
そういう筆致の雑誌や記事もいくつかあるが、はたしてその煽り方は正しいといえるのか?
正否はともかく、報じるマスコミ人の意図について類推しておくのも大事だ。
そもそも煽る性質があるマスコミ。
冷静に見極められる読者は問題ないが、見極められない層に対して記事を打つわけなので、問題の本質は厳然としてそこにありつづける。
そうやって「言いすぎる」から、反発されて2位当選までする。
アメリカ大統領から場末の町会議員まで、似たような構図が透けて見える。
冷静な視点をもてない極端な人間が、味方の足を引っ張って大爆死。
この残念な現実が避けがたいとしたら、やはり永劫回帰なのかもしれない。