先日、お焚き上げの準備から実施まで参加してきた。

 地域の「青年団」のひとりとして、協力するのもやぶさかではない。

 

 ドイツの社会学者テンニースが提唱した概念でいえば、ゲマインシャフトへの参加ということになる。

 堺屋太一は、ゲマインシャフトを共同体組織、ゲゼルシャフトを機能体組織と訳した。

 

 共同体組織は、構成員一人ひとりのために存在する組織。

 最小単位でとらえれば血縁組織があり、それ以外でも身近なところでは、町内会や自治会、PTA、教会・寺院等宗教団体、学校のクラブ活動、出身校のOB組織、ゴルフ会員組織や茶道教室などスポーツや文化のサークル等がある。

 

 代表的なゲゼルシャフトは営利法人、つまり通常の企業のこと。

 すべての組織を、これは共同体、これは機能体というように白黒つけてしまうことは正しくないと思うが、思考のフレームとしては使える。

 

 宗教団体などでは、多分にゲゼルシャフト化しているものも多く見受けられる。

 考えてみれば、私は宗教行為に参加してきたのだ。

 

 

 お焚き上げ。

 お札やお守りなど、粗末に扱えない品物に感謝の気持ちを込めて供養し、火で焼いて「天に還す」こと。

 

 天とは?

 神だろうか?

 

 神がどこで誕生したのかは、わからない。

 人類のだれかが、そうとう初期に思いついて利用しはじめたのだとは思う。

 

 個人的には3万年くらいはさかのぼれる気がするが、遺伝子的には20万年でもおかしくはない。

 当時の人類の気持ちは忖度できる……が、証拠はない。

 

 明確に語ることのできる証拠として、宗教施設らしい建物の痕跡が、トルコなどに発見されている。

 ただ、そこが神殿だったのか市場だったのか、あるいはその両方だったのか、証明することはむずかしい。

 

 いちばんわかりやすいのは、人類が文字を使いはじめて以降の「歴史」だろう。

 とくに神話のなかで使われているアイデアの数々は、現在にいたるまで利用可能な共有財産として利用されつづけている。

 

 

 さて、それでは現在、人類にもっとも影響力を及ぼしている、いわゆる「神」は、どこからやってきたのだろうか。

 キリスト教、イスラームの神は同じ「唯一神」であり、そのアイデアはユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教からやってきた。

 

 ではユダヤ教は、どこからそのアイデアをもってきたか。

 稀代の「選民」であるユダヤ人は、アイデアの多くを既存の文明が残した豊穣な思想のなかから引っ張ってきて、『旧約聖書』という一大叙事詩を築き上げた。

 

 ここに現れる「神のかたち」の源泉は、どこにあるか。

 おそらくその原型は、エジプトの王《ファラオ》たちに代々、受け継がれてきたものだろうと思う。

 

 

 まず「創世記」で、神は天と地をつくった。

 この語り口そのものが、エジプトの王たちの語り口に酷似している。

 

 はじめに言葉ありき──神は言葉によって、多くのものを創り出した。

 語れば実現する、これは当時、「王のふるまい」にほかならなかった。

 

 ピラミッドを作れ、と言ったら作られる。

 運河を掘れ、と言えば掘られる。

 

 神とは、すなわち王のことだ。

 だからこそ『旧約』に、ヤコブが「神と取っ組み合」って祝福をぶんどるシーンがあっても、当時としてそれほど奇異ではなかった。

 

 いっぽう汎神論的な日本人である私にとっては、超越的な神とやらがシスティナ礼拝堂の天井に描かれている時点で、ある種の違和感をおぼえている。

 しかしそこに、シュメールやアッシリアの系譜を見るなら、とたんに理解しやすくなる。

 

 

 それは超越的な存在ではなく、実体でもあった。

 当時のユダヤ人にとって伝えやすい最適解が、エジプト、バビロン、モアブといった諸国家の体系を利用することだった。

 

 とくに支配的な権力であったエジプトの築いたフォーマットに乗っかっておくことは、きわめて都合がよかっただろう。

 じっさいこれは、中華の「周辺文明」だった日本人にもわかりやすいフレームだ。

 

 強大な文明圏は、まわりの人々の発想、体系に強い影響を及ぼす。

 日本人など、いまだに非効率的な「漢字」という文化を使わされつづけている。

 

 

 同様にユダヤ人は、エジプトで発想されたファラオの言葉を旧約聖書に織り込んだ。

 とくに第18王朝で採用された(ただし一代限りで終わった)「唯一神」というアイデアが、あまりにも秀逸だったので、喜んで取り込んだうえで自分たちだけの「神のかたち」とした。

 

 もちろんアイデアの嚆矢がエジプトと断言はできない。

 が、利用可能なリソースの膨大さで古代エジプトは一頭地を抜いている。

 

 その偉大な遺産《ソフト》を、目覚めたばかりの民族《ハード》に適用した。

 エヌマ・エリシュに語られるような、ティアマトやマルドゥクといった神々の血なまぐさい物語にならなかったのは、神が「唯一」のものだったからだ。

 

 唯一神にとっては、他の神や暗黒は敵対するものではなく、支配するものだった。

 ユダヤ人にとって、自分たちの神こそが唯一であると信じることで、精神的に優位に立つ助けにもなっただろう。

 

 そしてその神はユダヤ人に、約束の地を下げ渡し、産み、増えて、地を支配しろと命じた。

 当時の自分たち「民族に発破をかけた」書物、それが「創世記」であった。

 

 

 と、燃え上がる炎を眺めながら考えていた。

 竹製のお焚き上げの「祭壇」には、各家庭から集まったお札やお守りなどが、たくさん詰め込まれている。

 

 神のフォーマットだの文明圏だの、七面倒な分析を要することもなく、薄い紙片の山として現前するものを「天に還す」こと。

 『旧約』でいえば「コヘレトの言葉」、すべては煙《ハベル》だ。

 

 ひとえに風の前の塵に同じ、という道理は仏教にも相通じる。

 ──その灰が、ばらばらと降ってきて逃げ惑う観衆たち。

 

 廃校になった小学校の校庭で、消防車も待機しているから、事故の可能性は限りなく低い。

 そんなわれわれの「責任」のもとに、この宗教儀式は執り行われている。

 

 神さま仏さまを天に還すのは、たいへんけっこうだ。

 忘れてならないのは、その行為や残渣、火や灰の責任が現場にあること。

 

 結局、この日の唯一神は、天にいるだれかではなく、祭壇を立て、掘った穴に灰を埋めるまで仕事をした、われわれ青年団だったのではないか。

 そう、これは日本の神さま仏さま、そして俺さまの物語だったのだ。