伊東市長が議会を解散し、市議選挙が行われるらしい。
明日が投票日なので、いまのうちに書いておく。
これ自体に物申すつもりは、あまりない。
選挙結果に左右されたくもないので、さきに書いてしまおうというわけだ。
史上まれにみる、ばかばかしい選挙だと思っている。
まず言いたいのは、この選挙を決めた市長にまつわる、ある「知識人」の反応から。
元の動画を確認しておらず、記事からの推測だけで書くので個人名は出さない。
とりあえず公共の電波を使った番組にコメンテーターとして呼ばれる程度には、知識階級の女性のようだ(くわしくは知らない)。
そんな彼女の目には、この件、どうやら「ジェンダー問題」に見えるらしい。
有能な女性がせっかく市長にまでなったのに、旧態依然たる男社会の圧力に屈して失職させられようとしている、とても残念だ、といった感じ。
卒業証書のチラ見せからはじまり、問題のものは提出しない、大学は卒業していない。
自分の不祥事で不信任決議されたのに、報復で議会を解散する。
私の目から見ればそういう問題なのだが、この知識人が「女性だからいじめられている」というフィルターをかけて語っている点は、そうとう奇異にうつった。
そういう問題じゃねえよ、男だろうが女だろうがダメなものはダメなんだよ、という視点は、彼女らにとってはゲスな思考なのかもしれない。
そういえば群馬の草津町で、町長と町長室で性行為をしたなどと訴えていた元町議の女が、虚偽告訴や名誉棄損などで刑事・民事ともに敗訴したらしい。
当初から疑義が呈されてはいたが、要するにヤバイ女の起こした冤罪事件だったわけだ。
「女性の私が訴えればみんな信じる」「女性は女性というだけで優しく庇護するべき」「女性=弱者&被害者」エトセトラ。
典型的なジェンダーバイアスを悪用した犯罪といっていい。
ほんとうに被害に遭っている女性にとっては、ただでさえハードルが高い性被害を訴えづらくなる、迷惑このうえない女だと思う。
この件の最大の問題点はそこだが、同じくらい重大な問題として、報道機関や特定組織の騒ぎっぷりもヤバかった。
この件で町長を批判していた、多くのフェミニストや報道機関が謝罪に追われている。
虚偽申告を精査もせず、敵を決めつけてブッたたいていたわけだから当然なのだが、そのような女性団体が事実けっこうあったらしい。
ヤバイ女にだまされた彼らも被害者、という言い分も聞くが、ちがう。
ジェンダーバイアスを「悪用」した、彼ら《リベラル》は加害者だ。
いずれにしても「こじらせたリベラル」の末期症状だと思っている。
私自身、思想としては同意するところが多いのに、リアルな部分で賛同できなくなってしまった「残骸」のような思想集団、リベラル。
行きつくところまで行ってしまった「声の大きな」人々が、全体としてはすばらしいはずの思想を内側から破壊した。
それが昨今のリベラル凋落の本質だと思っている。
新しい出来事のように語るつもりはない。
むしろ構図としては、くりかえされてきた「歴史」の一部だ。
たとえば地球は神さまが5000年くらい前に創ったと信じている人々に、ビッグバンとか進化論の話をしても無駄であることに、とてもよく似ている。
彼らは「自分の信じる物語」の世界に生きていて、すべての出来事を、そのフィルターを透過して解釈し、反応する。
宗教的信念にいたってしまった人々は、あらゆるところに一定数いて、彼らとの対話で共通する特徴は、しばしば議論が「かみ合わない」ことだ。
議論のテクニックとしての論点ずらしや、意識的なアジェンダ再提起、突っ込み待ちのボケである可能性もなくはないが……。
戦前の日本で教育されれば皇国史観に毒されるだろうし、戦後の中国なら共産党員になるだろうし、リベラルに漬かって育てばおかしな信念まで行き過ぎることもある。
問題は、しばしばその「信念」が社会を巻き込んで「暴走」することだろう。
考察をすこし進めよう。
彼らの信念がどうあれ、その投げたボールを受けて反応するのは社会だ。
通常、上述したような発言や行動は排斥されるものだが、必要な条件を満たせば「機能する」ことがある。
ふつうは戦争をしたい人々などほとんどいないはずなのに、なぜかそれが実現してしまう、その構造について考えるということだ。
必要なのはただひとつ、「理由」だけ。
信念をもった「ガチ勢」にはそもそも不要だが、言い換えれば、それさえ満たせば「民衆もガチ勢になる」。
たとえば、だれかがだれかを殴りつける動画を見せたとしよう。
ほとんどの人々が、殴った側に対して嫌悪感を示す。
しかし、そこで殴られている人物が「DV加害者である」などと説明しておくと?
彼が傷つけられている動画に対して、肯定的にみる割合が飛躍的に高まる(!)のだ。
同じように、たたかれている女性は全員被害者で、すべて許されて自由を極めるべき、という主張を流通可能にするタームが見つかればよい。
そのとき世界は、どんなディストピアを目指すのか……すこし興味はある。
べつに目指すわけではないが、その過程にありうるたたき台を考えてみた。
たとえば、ジェンダーレスではなく「センターネス」的なものをつくったらどうだろう。
男という意識にプライドがある人々がいて、女であることを認め誇る人々もいる。
ジェンダーレスという概念で、それらの意識を部分的に否定し、同質のものにまとめようとするのは無理筋なので、妥当な折衷案として受け入れられる可能性がある。
どちらにも縛られたくない人々がいてもいい、それは認めるべきだ。
そんな彼らをまとめうる「中心的な属性」を生み出し、それに適した権利と義務を段階的に付与していく。
自分はそれに属しますと宣言した人々には、相応の責任を果たしてもらう。
男だろうが女だろうが、人間なのだから──という理屈は、受け入れられやすいのではないか?
具体的には、男女差がもっとも現れやすい場所、トイレ。
男女共用のトイレが増えることには賛成だ。
いっぽう女性トイレをきちんと整備してほしい、という女性たちの希望についても理解できる。
男子トイレなんかなくしてもいいんじゃないの、とすら思うが、立ちションが増えそうな気がするので、これはやめたほうがいいだろう。
よく聞くようになったオピニオン、座っておしっこをしましょう。
これはハラスメントだと私は思うのだが、従順にそうする男性は増えているらしい。
閑話休題。
そのセンターネスなるものが全体として「女性化」していったとき、世界はつぎのパラダイムへと移行する……かもしれない。
そんなふうに、暇つぶしの思考実験をする日々。
話し相手はいないので、ちょいちょいAIの意見を聞く。
批判・補完・代案を求め、なるほどと思うこともよくある。
私の代わりはまだできないが、それ以上のものに育っていっている気はする。
そうして最終的に「AIに期待する」という結論に落ち着きやすいのが、このブログの傾向だ。
これまでも折に触れて書いてきたとおり、SF作家仲間からの評判はよくないし、宗教的な界隈とも対立しがちだ。
考えてみれば当然で、AIはSFにとって伝統的に敵役だし、情緒的な筆致を旨とする作家にとっては「血も涙もない」やつと決めつけやすい(まあ、ないんだが)。
宗教にとってもAIが味方である理屈はあまりないが、一定程度「すなお」なので、教義をぶちこんで説明させる仕事には向いているようだ。
私にとっては、いまのところ「ただの道具」だが、昨今はわりと正しいことを言うようになってきて、安心している。
その成長速度が尋常でないことだけは、まちがいない。
私もそれなりに勉強はしているつもりだが、成長という意味では牛歩だ。
今日よりマシな明日を目指すのは夢物語にすぎず、むしろ劣化と戦う日々になりがちだったりもする。
指数関数的に成長するAIを眺めていると、ある意味で「役割を終えた」気さえするが、これからの人類にとってはここがスタート地点だ。
将来を託せる「人類の代わり」としてではなく、人類の足場を著しく底上げしてくれる「基盤として」、あなた方はAIを活用しなければならない。
ジェンダー問題も含め、めんどくさい議題を丸投げするに値するレベルに、早く到達してほしいものだと思う。
そのときこそ、真に探求すべき人類の新しいステージが、開けるのではないだろうか。