「許してくれ! もういじめないから!」
金づちで殴打され、血みどろで転がるいじめっ子が叫んだ。
いじめられっ子は問うた。
「許して! もう逆らわないから! ──ぼくがそう言ったとき、きみがどうしたか教えて?」
問われても、ただ「許してくれ!」としか答えられない。
べつに忘れているわけではなく、どれだけ思い出したところで、この場の役には立たないからだ。
「許してくれ」と言われて許すような人間は、そもそも他人をいじめない。
いじめている時点で、他人の気持ちをあまり考えないという意味になる。
そんなよくある復讐劇を、週刊誌の記事で読んだ。
一般的には「因果応報だな」とか「殺すのはよくない」とかいう感想になるのだろうが、私はもっと俯瞰して眺めていた。
この事象は結局、おれはいいけどおまえはダメ、という典型的なパターンの無限再生にすぎない。
自分がやったことを相手もやってくるという想像力を、すべて拒絶するところから行動できるサイコパス性。
いじめっ子気質でもあるし、乱世の奸雄でもあるかもしれない。
一事が万事、人類の一般項のひとつにすぎないともいえる。
自分たちがやることを、相手もやってくる。
そんな想像力を拒絶するところから、一神教はスタートしているような気がする。
「自分たちこそが唯一」「正しいのは自分」と言い張ったらどうなるか、いくら古代人とはいえ理解できないはずはない。
それでもその道を選んで、ここまで肥大化したのだから、おそらくこのような選民思想的偏執性は、人類の本質の一部なのだろう。
この「いじめっ子」たち(しばしば反転するが)の犠牲になった人間の数は膨大だ。
ともかく彼らは、自分たちの目の届く範囲をすべて「自分色」で染め上げようと心に決めた。
自分らの意に沿わない(魔)女や、科学者たちは、拷問され、ぶち殺された。
自分と同じように考えない人々を殺すという発想は、宗教から共産党まで、無限にくりかえされている「パターン」だ。
民主集中制は、愚かな民衆を統率するのは無謬の共産党しかないから、まともな選挙をする必要がない。
共産主義国にかぎらず、民主的な選挙などというコストばかりかかってメリットの少ない制度は、世界的にも衰退しつつある。
いわゆる「権威主義」的国家や組織は、世界的にもすでに多数派だ。
ある程度、強制的に統治したほうが、社会が安定するというのはたしかなのだろう。
じつのところ民主主義陣営でも、自分たちが正しい、という信念は行き過ぎていた。
たしかに安定していたうえに繁栄までしていた西側諸国だが、現在は激しい揺り戻しに陥っている。
一般レベルで教条的に「これが正しい」とやりすぎるのは、本来的にはやはり無理筋だ。
とくに自分が正義だと思っているやつらほど「言いすぎ」るがゆえに。
たとえば弱者の保護が絶対だと言いすぎたせいで、尊大な弱者が出現するようになった。
自分は身障者なのだから、あらゆる便宜を図られるべきだ、と信じているらしい。
ある社会学者が、ラジオでこんなことを言っていた。
──障碍者はそう生まれた時点で、健常者と同様の生活を送るための最大限の便宜を受ける権利がある。
欧米あたりのリベラル論客が、ウォーク運動の一環で飛ばした檄文にでもありそうな、偏った言い方だと思う。
その極端な論旨が気に入ったらしい日本の社会学者が、こういうこと言うと受けがいいんだろうなと判断し、拡散したようにも見受けられる。
大事なことらしいので、もう一度書こう。
障碍者はそう生まれた時点で、最大限の便宜を受ける権利がある。
私に言わせれば「ねえよそんなもの」だ。
自分自身に引き寄せて考えてみれば明白だろう。
そもそも生まれつき能力がマイナスであることなど、日常茶飯事だ。
たとえば私はコミュ障で吃音症、話すことが苦手だが、流暢に話せる一般人と同様に評価してほしいなどとは要求しない。
劣った部分を指して「迫害」を受たくはないが、だからといって、できないものをできるかのように「評価」されるのがおかしいことは知っている。
人はその能力に応じて、毀誉褒貶を受けるべきだ。
もう一度言うが、私は弱者を迫害すべきだとは、さらさら思っていない。
ただ他人からの便宜や配慮を受けるのは、けっして「当然の権利」などではなく、せいぜい善意を期待する程度であって、「みんなが協力してくれるとありがたい」だけなのだ。
「よかったら手を貸してください」と言えばいいのに、「手を貸せ、さもなければ敵、悪魔、非国民」と断じる。
自分が正しいと信じ込んでいる宗教の連中が言いそうな決定論を、平然と宣う「人権派」の弁護士や社会学者にはヘドが出る。
この種の論法が大好きな連中は、永劫回帰のようになくならない──なぜか。
そういう力強い断定を好み、流される人間が一定数いるからだ。
もしどうしてもそういうことが言いたいなら、宗教家にでもなれよ、と思う。
あとは、月刊『ムー』にでも書かせてもらうかだ。
どんなにふざけたことを言い放っても、ソースは『ムー』と付け足せば「じゃあしょうがない」で許してもらえる媒体。
あれはあれで、とてもおもしろい。
茶番ならけっこうだが、まじめに扇動しはじめたら、それはただの御用学者になる。
その「説」を心から信じているならしかたないが、そう思わない人々への想像力の欠如と、それを見下すような言い方が、ここまで問題をこじらせた。
そもそも彼らの意見こそが極端で、全般的に極端な意見ほど有無を言わさぬ姿勢を示しがちなのは、さまざまな熱狂と狂信の歴史が示している。
落ち着いてものを考える間を与えず、勢いで押し切ろうという弁論術を駆使しはじめたら、ひとまず眉に唾をつけて聞くべきだろう。
かつて人権が存在しなかった時代や、現在抑圧されている特殊な国々で「権利」を叫ぶのは、たぶん必要だ。
しかし最低限の人権セットがすでに存在するところでは、あとは厳格な運用だけでじゅうぶんだ。
むしろ問題の本質は、はじめから人権ハードルが高いところで注目を集めるために、いきおい言いすぎる「必要があった」ことだろう。
結果、逆効果のほうが大きいことを証明したのが、昨今のリベラル崩壊だと思っている。
あるイギリスのジャーナリストは、「移民受け入れへの不安を語る人々を、左派はレイシストと決めつけすぎた」と指摘している。
的確な反省であり、欧米ではすでに左派の再編成も進んでいるように見受けられる。
リベラルのせいばかりにしたくはないが、現に世界の自由民主主義指数は近年、じわじわと低下しつづけている。
周知のとおり民主主義には多くの利点があるものの、欠点も少なくない。
人種とかジェンダー意識を高めるのはいいが、あまりにも「異常な平等」を目指す「新しい宗教」の布教には、慎重になったほうがよい。
世界にはそれ以外の宗教を信じている人々も、たくさんいるのだから。
──冒頭にいじめの末路を書いた。
自分には特殊な《イジメる》権利がある、と思っていた少年は罰を受けた。
彼はなぜ、自分は特別だと思えたのだろう?
尊大な弱者も同様、ろくに人を助けてもいない人間が、自分だけは最優先で助けてもらえるのだと、なぜ信じられるのか?
あなたは、なにも特別な存在ではない。
だから自分がやられて困るようなことは、他人にもやらないほうがいい。
もし助けが必要なら、丁寧にお願いし、感謝を忘れるべきではない。
助けてもらって当然というような特殊な態度は、すべてを台無しにする。
バートランド・ラッセルの逆説に、「この世界の最大の問題は、愚かな者が自信満々で、賢い者が懐疑的であることだ」というのがある。
その意味では、リベラルの多くもけっこうな愚か者ばかりだった気がする。
じっさい私も、「学者」というものを軒並み尊敬しているなかで、「社会学者」だけは例外に置くようになった。
弱者保護は誤ってはいないが、限度をわきまえて発言しなければならない。
最後に伝えたいのは、言うまでもなく疑いながら書いている私の言説を、すべて信じる必要はないということだ。
心のどこかに疑いを置くだけで、くだんの社会学者よりはマシになれるだろう。