最近よく日本映画を観ている。
いい映画はもちろんあるのだが、今回はよくない映画について書くので、タイトルは出さない。
邦画=クソ。
そんな「印象」の話をする。
まず言っておくと、クソみたいな映画を否定しているわけではない。
なんなら、そういう「底辺」があってこそ、業界は成立すると思っている。
アメリカにもクソ映画はいくらでもあって、その「クソを楽しむ」風潮すらある。
最初からキワモノとして配給されるので、残念な仕上がりでもダメージは少ない。
いっぽう日本では、自己満のクソ映画ほどネタっぽくみえない。
芸術ぶっているので、それなりの宣伝がなされるからだ。
まともな映画、という先入観で視聴した結果、クソが、と思う。
最初からキワモノの触れ込みならともかく、まともな映画のフリをしてクソなのは始末がわるい。
結果的に「邦画はクソ」という印象に書き換わっていく。
具体例を出そう。
「長回し」という手法がある。
カメラをほぼ固定し、俳優の演技にすべてをゆだねる。
秒どころか分単位で映しつづける同一シーン。
倍速ストリーミングで観ている私は、10秒スキップを連打しながら、これを劇場で見せられたら寝るだろうな、と確信する。
監督の気持ちを忖度すれば、おそらく自分の感じたなんらかの印象を共有するための「間」、なのだろう。
そこからわれわれは何事かを受け取らなければならない、それが映画という総合芸術を堪能する、意識高い観客のあるべき姿勢であると。
昔の映画ならまだいいが、最近の映画ですらその残滓を感じる。
わかりやすいのが「声が小さい」問題で、ささやきや小声の傍白に、微妙な感情のゆらぎを表現しているつもり、なのかもしれない。
セリフが聞こえないので音量を上げると、効果音だけはでかいのでイラッとする。
邦画なのに「字幕をつけろ」とまで言われるこの問題は、20世紀から受け継がれている。
字幕なら倍速どころか、3倍速でも消費できる。
芸術家になりたいのはいいし、徒弟制度を維持するのも勝手だが、観客から目を背けてはいけない。
価値がわからないのは等速で観ないからだ、という批判も当然に想定できるが、それはあなたの場合だ。
あらゆるニュースを倍速で見る癖がついている私にとって、等速のほうがむしろ違和感がある。
重要なのは、そういう「タイパ」を重視する人間が、私だけではないことだ。
さまざまなタイプがいる観客が全体として、監督の思うような反応を示してくれるかどうかは「賭け」になる。
エンターテインメントというギャンブルの世界で、芸術を追求した日本映画監督たちの選択肢が積み重なった結果、邦画はどうなったか。
多くの「負け」映画を見せられた人々は、げんなりして二度と近寄らなくなった。
成功した芸術家は、もちろんいる。
多くの後継者が、偉大な先達の二番を煎じて夢を見る。
彼ら自身、その先達の作品に感動したことは事実なのだろうが、その目標とする才能、および時代が要求する芸術性との間に、大いなる齟齬が生じている可能性はかなりある。
それが「衰退」の意味だ。
観客がわるい。おまえは天才だ。これを評価しない世の中のせいだ。
ワナビの世界にも共通する、発酵した異形のルサンチマン。
よくある「末期症状」だが、さいわい回復率はそれなりに高い。
過剰な自意識を、時間をかけて消化するだけでいい。
考えてみれば人類は、同じようなパターンをくりかえしてきた。
松尾芭蕉や世阿弥といった有名人と、それに感化された地方の旦那衆。
私は個人的に多くの古文書を解読している立場だが、その史料的価値については疑いがなく、理解できるとうれしくなる。
理解しづらいのが「文芸」だ。
「俳句」や「神楽」などの旦那芸が、上州あたりでも局地的に流行していた。
それに耽溺しているのは一部の金持ちであって、ほかにやることがないので参加しているだけの旦那衆も、それなりにいただろう。
それでも史料として残されているのだから、解読しないわけにはいかない。
17文字に1500円も払って解読する価値があればいいが、はたして「芸術家ぶった当時の旦那」の声に、いくら払うのが適正か?
現在、伝統芸能とか無形文化財とか認められる向きもあるが、言い換えれば、そうでもしなければ消え去るという意味だ。
正直わかりづらいし、俳句や演劇そのものにどの程度の価値があるのか、わりと疑問に思っている。
私自身、小説などを書いている。
昔の旦那衆が集まって残した短冊の俳句や和歌に似て、さして「価値のないもの」を書いている自覚もある。
いや、言いすぎた、価値がないわけではない。
まったく読めなかった俳句も、掘り下げれば、それなりの価値があるのかもしれない。
しかし、いろいろな意味でハードルの高い古典が、現代に通用しづらいことは事実だ。
現在理解されない私の作品は未来に理解されうる、と敷衍して慰めにするつもりもあまりない。
その旦那は、なぜ俳句を残したのか。
それはすばらしい作品なのか、理解する人はいるのかもしれないが、正直わからないことが多い。
たとえ当時、残す価値があったとしても、残念ながら現代では通用しない。
過去の武器、槍や弓矢が、現代の拳銃やミサイルに通用しないのと似ている。
敵の心臓を止めるという目的に資するなら、竹やりだろうが核兵器だろうが同じ結果をもたらすことはありうる。
古典的武器がもつエッセンスは永遠に重要ではある──が、時代に合わなければどうしようもない。
逆に言えば、自分が満足するだけなら、竹やりどころか素手でいい。
裸の妄想だけを抱えて生きていく、それもありだ。
私はこのタイプで、他人に迷惑をかけず、自分さえ満足できればいい。
昭和30年代、漫画家を目指す青年たちが集まったトキワ荘の話に、「やりたいことを見つけただけですばらしいんだよ」的なセリフがあったが、まさにそれだ。
自己顕示欲や承認欲求が過剰にある場合、世界は生きづらい。
長く生きているとそれが減っていき、ただ書きたい、完成させたい、納得できるものにしたいだけになっていく。
そのような「趣味」を見つけられたことは、ほんとうにすばらしい。
それに価値があるかどうかは、私以外が判断する。
低能な監督が無理やり映画にするまでもない。
ネットの海からいずれ判断される材料を、淡々と書き残して余生を過ごそうと思う。