「許してくれ! もういじめないから!」

 金づちで殴打され、血みどろで転がるいじめっ子が叫んだ。

 

 いじめられっ子は問うた。

「許して! もう逆らわないから! ──ぼくがそう言ったとき、きみがどうしたか教えて?」

 

 問われても、ただ「許してくれ!」としか答えられない。

 べつに忘れているわけではなく、どれだけ思い出したところで、この場の役には立たないからだ。

 

 「許してくれ」と言われて許すような人間は、そもそも他人をいじめない。

 いじめている時点で、他人の気持ちをあまり考えないという意味になる。

 

 

 そんなよくある復讐劇を、週刊誌の記事で読んだ。

 一般的には「因果応報だな」とか「殺すのはよくない」とかいう感想になるのだろうが、私はもっと俯瞰して眺めていた。

 

 この事象は結局、おれはいいけどおまえはダメ、という典型的なパターンの無限再生にすぎない。

 自分がやったことを相手もやってくるという想像力を、すべて拒絶するところから行動できるサイコパス性。

 

 いじめっ子気質でもあるし、乱世の奸雄でもあるかもしれない。

 一事が万事、人類の一般項のひとつにすぎないともいえる。

 

 

 自分たちがやることを、相手もやってくる。

 そんな想像力を拒絶するところから、一神教はスタートしているような気がする。

 

 「自分たちこそが唯一」「正しいのは自分」と言い張ったらどうなるか、いくら古代人とはいえ理解できないはずはない。

 それでもその道を選んで、ここまで肥大化したのだから、おそらくこのような選民思想的偏執性は、人類の本質の一部なのだろう。

 

 この「いじめっ子」たち(しばしば反転するが)の犠牲になった人間の数は膨大だ。

 ともかく彼らは、自分たちの目の届く範囲をすべて「自分色」で染め上げようと心に決めた。

 

 自分らの意に沿わない(魔)女や、科学者たちは、拷問され、ぶち殺された。

 自分と同じように考えない人々を殺すという発想は、宗教から共産党まで、無限にくりかえされている「パターン」だ。

 

 

 民主集中制は、愚かな民衆を統率するのは無謬の共産党しかないから、まともな選挙をする必要がない。

 共産主義国にかぎらず、民主的な選挙などというコストばかりかかってメリットの少ない制度は、世界的にも衰退しつつある。

 

 いわゆる「権威主義」的国家や組織は、世界的にもすでに多数派だ。

 ある程度、強制的に統治したほうが、社会が安定するというのはたしかなのだろう。

 

 じつのところ民主主義陣営でも、自分たちが正しい、という信念は行き過ぎていた。

 たしかに安定していたうえに繁栄までしていた西側諸国だが、現在は激しい揺り戻しに陥っている。

 

 一般レベルで教条的に「これが正しい」とやりすぎるのは、本来的にはやはり無理筋だ。

 とくに自分が正義だと思っているやつらほど「言いすぎ」るがゆえに。

 

 たとえば弱者の保護が絶対だと言いすぎたせいで、尊大な弱者が出現するようになった。

 自分は身障者なのだから、あらゆる便宜を図られるべきだ、と信じているらしい。

 

 

 ある社会学者が、ラジオでこんなことを言っていた。

 ──障碍者はそう生まれた時点で、健常者と同様の生活を送るための最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 欧米あたりのリベラル論客が、ウォーク運動の一環で飛ばした檄文にでもありそうな、偏った言い方だと思う。

 その極端な論旨が気に入ったらしい日本の社会学者が、こういうこと言うと受けがいいんだろうなと判断し、拡散したようにも見受けられる。

 

 大事なことらしいので、もう一度書こう。

 障碍者はそう生まれた時点で、最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 私に言わせれば「ねえよそんなもの」だ。

 自分自身に引き寄せて考えてみれば明白だろう。

 

 そもそも生まれつき能力がマイナスであることなど、日常茶飯事だ。

 たとえば私はコミュ障で吃音症、話すことが苦手だが、流暢に話せる一般人と同様に評価してほしいなどとは要求しない。

 

 劣った部分を指して「迫害」を受たくはないが、だからといって、できないものをできるかのように「評価」されるのがおかしいことは知っている。

 人はその能力に応じて、毀誉褒貶を受けるべきだ。

 

 もう一度言うが、私は弱者を迫害すべきだとは、さらさら思っていない。

 ただ他人からの便宜や配慮を受けるのは、けっして「当然の権利」などではなく、せいぜい善意を期待する程度であって、「みんなが協力してくれるとありがたい」だけなのだ。

 

 

 「よかったら手を貸してください」と言えばいいのに、「手を貸せ、さもなければ敵、悪魔、非国民」と断じる。

 自分が正しいと信じ込んでいる宗教の連中が言いそうな決定論を、平然と宣う「人権派」の弁護士や社会学者にはヘドが出る。

 

 この種の論法が大好きな連中は、永劫回帰のようになくならない──なぜか。

 そういう力強い断定を好み、流される人間が一定数いるからだ。

 

 もしどうしてもそういうことが言いたいなら、宗教家にでもなれよ、と思う。

 あとは、月刊『ムー』にでも書かせてもらうかだ。

 

 どんなにふざけたことを言い放っても、ソースは『ムー』と付け足せば「じゃあしょうがない」で許してもらえる媒体。

 あれはあれで、とてもおもしろい。

 

 茶番ならけっこうだが、まじめに扇動しはじめたら、それはただの御用学者になる。

 その「説」を心から信じているならしかたないが、そう思わない人々への想像力の欠如と、それを見下すような言い方が、ここまで問題をこじらせた。

 

 そもそも彼らの意見こそが極端で、全般的に極端な意見ほど有無を言わさぬ姿勢を示しがちなのは、さまざまな熱狂と狂信の歴史が示している。

 落ち着いてものを考える間を与えず、勢いで押し切ろうという弁論術を駆使しはじめたら、ひとまず眉に唾をつけて聞くべきだろう。

 

 

 かつて人権が存在しなかった時代や、現在抑圧されている特殊な国々で「権利」を叫ぶのは、たぶん必要だ。

 しかし最低限の人権セットがすでに存在するところでは、あとは厳格な運用だけでじゅうぶんだ。

 

 むしろ問題の本質は、はじめから人権ハードルが高いところで注目を集めるために、いきおい言いすぎる「必要があった」ことだろう。

 結果、逆効果のほうが大きいことを証明したのが、昨今のリベラル崩壊だと思っている。

 

 あるイギリスのジャーナリストは、「移民受け入れへの不安を語る人々を、左派はレイシストと決めつけすぎた」と指摘している。

 的確な反省であり、欧米ではすでに左派の再編成も進んでいるように見受けられる。

 

 リベラルのせいばかりにしたくはないが、現に世界の自由民主主義指数は近年、じわじわと低下しつづけている。

 周知のとおり民主主義には多くの利点があるものの、欠点も少なくない。

 

 人種とかジェンダー意識を高めるのはいいが、あまりにも「異常な平等」を目指す「新しい宗教」の布教には、慎重になったほうがよい。

 世界にはそれ以外の宗教を信じている人々も、たくさんいるのだから。

 

 

 ──冒頭にいじめの末路を書いた。

 自分には特殊な《イジメる》権利がある、と思っていた少年は罰を受けた。

 

 彼はなぜ、自分は特別だと思えたのだろう?

 尊大な弱者も同様、ろくに人を助けてもいない人間が、自分だけは最優先で助けてもらえるのだと、なぜ信じられるのか?

 

 あなたは、なにも特別な存在ではない。

 だから自分がやられて困るようなことは、他人にもやらないほうがいい。

 

 もし助けが必要なら、丁寧にお願いし、感謝を忘れるべきではない。

 助けてもらって当然というような特殊な態度は、すべてを台無しにする。

 

 

 バートランド・ラッセルの逆説に、「この世界の最大の問題は、愚かな者が自信満々で、賢い者が懐疑的であることだ」というのがある。

 その意味では、リベラルの多くもけっこうな愚か者ばかりだった気がする。

 

 じっさい私も、「学者」というものを軒並み尊敬しているなかで、「社会学者」だけは例外に置くようになった。

 弱者保護は誤ってはいないが、限度をわきまえて発言しなければならない。

 

 最後に伝えたいのは、言うまでもなく疑いながら書いている私の言説を、すべて信じる必要はないということだ。

 心のどこかに疑いを置くだけで、くだんの社会学者よりはマシになれるだろう。

 

 ワシントンで殺人が起こったら死刑にする、とトランプ大統領が言っていた。

 民主党の影響下で死刑を廃止した州なので、わかりやすい当てつけだと思う。

 

 もろもろ意見はあると思うが、個人的には賛同する。

 「命には命をもって償わなければならない」と思うからだ。

 

 あとはそれを「だれが」執行するのかという問題だけだと思うが、神さまがいない以上、人間がやるしかないだろう。

 恣意的な執行は論外とはいえ、死刑制度そのものは必要だ、と考えている。

 

 

 ひとの「命」はかけがえのないもの。

 それはそうかもしれないが、絶対視しすぎると過ちを犯す。

 

 そもそも理系の学生は、人間を人間と思っては「解剖」さえできない。

 それは「物体である」と思い込むことで、効率よく「勉強」できるのだ。

 

 そんな夾雑物的な感情に邪魔されることなく、一直線に勉強できればある意味で効率がいいし、結果も出しやすい。

 一定割合で存在する彼らのようなタイプが、偉大なことを成し遂げることもある。

 

 ただひとつだけ、彼らが忘れてはならないこと。

 それこそが、殺す者は殺される、というルールなのではないか。

 

 

 私自身、応報感情はそれなりに強いほうだと自覚している。

 それがわるいと思ったことは、ほとんどない。

 

 そのおかげで社会の秩序が保たれている部分は、そうとうあると思う。

 万能の処方箋とまで言うつもりはないが、きわめて重要なファクターだ。

 

 いいことをしたらいいことが、わるいことをしたらわるいことが返ってくる。

 必ずしもそうならないと知っていても、自分がその姿勢を徹底することで、そう信じる根拠にはなる。

 

 

 だからかつて、とある事件で「アスペルガー障害(当時の呼び方)」が殺人事件の責任能力を著しく低下させる、と認定されたことには驚いた記憶がある。

 よく調べると、ASDで心神耗弱や心神喪失が認められるのはまれなケースのようだが、たしかに発達障害ごときで罪を軽減するなど、ありえない。

 

 私自身、ASDの傾向があるわけだが、むしろ遵法精神は高いと思っている。

 現実には、アスペはイジメの被害者などにやりやすく、切れて反撃することはあっても、重大犯罪の加害者になるケースは一般人と比べてもきわめてまれだ。

 

 アスペの子どもは「規則を守る」ことにかけては従順で、イレギュラーな行動をする友人に怒ったりもする。

 結局は程度問題、状態によるのだろう。

 

 

 

 ──殺してみたかったので殺した。

 私を驚かせてくれた先述の事件も含めて、そう考える人々は一定数いるらしい。

 

 それに対する世間の反応は、お定まりだ。

 戦慄した、人間とは思えない、残忍きわまる、このような十代が存在することは……うんぬん。

 

 捜査員が異口同音に言うのは、「変わった少年」という印象。

 捜査員も人間なので、われわれに似た感情をもっている。

 

 通常の刑事事件では「人間」を相手にするので、驚くようなことは少ない。

 しかし「人間らしさ」の欠落した相手を取り扱う場合、それなりの困難に逢着する。

 

 

 なぜ生き物は死ぬのか、それを実感したいために手を下したのだ。

 そう説明されると、わからんでもない……という気になるのは、私も「そちら側」の人間だからだろうか?

 

 否、これは一般の児童にも共有される疑問であって、通常は虫などの小さな生物に対して実験、経験、体得していく成長段階の感覚にすぎない。

 それが行きつくところ、「人を殺してみたい」というレベルまで敷衍する蓋然性が、どれほどあるかだ。

 

 殺してみたくて殺した少年は、理系の進学校に通っていた。

 そういうタイプが一定数、超進学校と呼ばれる教育機関に在籍して結果を出している事実を忘れてはならない。

 

 

 ──知らないことが多すぎるから、知ってみたい。

 そう言っていた彼は、ただの殺人鬼だろうか?

 

 自分は変わり者なのだから、他人にはできないこと、ひとに立派だと思われる大きなことをやりたいと思っていた。

 たとえば不老不死の研究で業績を出したいとか、やりたいことはいくらでもあったが、そのまえに手近なところで殺人を犯したのは、それまで「待てない」からだった。

 

 彼にとって、子どもを殺すより老人を殺すほうが「気が楽」だったというのは、善悪の理屈や観念はあったということだ。

 感情の通じる相手、つまり顔見知りは殺さないと決めてもいた。

 

 彼は一定程度、論理的に会話できる少年だった。

 差があるとすれば、一線を越えるか越えないかという点だけだった。

 

 

 何事も経験してみたかった少年。

 「囚人」としての体験もなかなかできないことなのだから、してみたい、楽しみだと。

 

 自分のなかで殺人を「マイナスの行為」としてしまうと、「こんどはうまくやろう」と再犯する可能性がある。

 プラスの行為、成功体験として位置づけ、「過去の栄光」をくりかえさなくて済むようにしたい──そのような思考が垣間見える。

 

 通常の「殺人」に対する「反省」という論理構造と、かなり異なるようにみえる。

 この体験を将来役に立てたい、と言っていた少年は、もうとっくに出所している。

 

 もし彼という隣人を排除したいなら「殺す者は殺される」べきなのだが、残念ながら現実はそうなっていない。

 われわれは、自身にとって「想像しづらい」この手のタイプの隣人を、一定数抱えて生きていくしかないということだ。

 

 

 同害報復の時代を復活させよう、とまで言うつもりはない。

 しかし、ハンムラビ法典、イスラム法のキサース、ラテン語のタリオも、目的は「過度な報復への抑制」であった点は忘れるべきではない。

 

 現在その「罰」が、あまりにも後退させられすぎている。

 やはり、殺す者は殺されるべきなのだ。

 

 自分が他者を殺してもいいということは、自分が他者に殺されてもいいということ。

 そうなっていない現代社会は、この考えを採用していないということであり、そうなるにいたった経緯について、私もそれなりに知ってはいる。

 

 犯罪を防止することが目的の刑事警察機構は、そのシステムでカバーできる社会の範疇内において効果があるのであって、そこから意識的に抜け出そうとする者には効果がない。

 同害報復や死刑は、それを覚悟している者にとって意味がないのと同じだ。

 

 殺された側の痛みを感じることができない殺人者は、自分をすなおに表現すればするほど、一般人にとって違和感をおぼえる存在となる。

 動機を詮索することが無意味な存在──そのものを、どこまで許容すべきか?

 

 

 人を殺すことが反社会の極みであるがゆえ、動物にはできない「殺人罪」という概念行為。

 たくさんの人間が殺されていても、その動物が罪に問われることはない。

 

 たとえば人間を襲ったクマはただ射殺されているし、マラリアを媒介する蚊は丹念に駆除されているだけだ。

 運が悪かったですね、不幸でしたね、としか言えない動物的加害者に、人間を含めるべきではないのか?

 

 そもそも理由がある殺人のほうがおかしい、という考え方もある。

 さまざまな加害者が存在するこの世界で、一律に死刑廃止──それこそが行き過ぎていると、私は思う。

 

 そういう考えを私自身は「わりと正しい」と思っているが、もっと正しい考えが存在するなら知りたい。

 唾棄すべきは、自分で考えないで、だれか(国家や教祖などの権威者)が言っているから正しい、と信じて自分もそう主張するたぐいの連中だと思っている。

 

 

 作業用動画に、よく昭和の歌謡曲を流している。

 年齢バイアスもあるだろうが、とても「豊かな時代」のように感じる。

 

 ハゲのおっさんが、かぐや姫とかアリスとか、かわいい女の子を名乗っていた時代。

 ヒゲのおっさんが、「女のみち」を歌い上げていた時代。

 

 なつかしさと違和感が同居する当時、よくよく考えてみればおかしいと気づく。

 とくに性別的な「役割」について、すこし考えてみたい。

 

 

 まず前提として、私は女の人を尊敬している。

 その能力を認め活躍を期待するという意味で、未来は女の時代だと思っている。

 

 現に私の勤務する会社の社長は女性だし、私が手伝っている記念館の館長も女性だ。

 卑弥呼の昔から、乱れた世でトップに立つべきは女性なのだ。

 

 と、表現している時点でフェミニストなのかなと思われているとしたら、否定しておく。

 鋭い人は気づいているかもしれないが、基本的に私はフェミ系の「活動家」とは意見が合わない。

 

 

 私は女の人が好きなので、女の人のためになることはしたい。

 だがある種の女性団体の主張には、それほんとに女性のためなの、あんたとあんたの仲間たちの「ためにする議論」じゃないの、と思うことがまれによくある。

 

 そんなときは「総論反対各論賛成」になりがちだ。

 彼らが「ためにする」耳障りのいい入り口の議論では、同意する。

 

 すると「この男、味方だな」と速断されることは多いが、すぐに化けの皮が剥がれる。

 「あぶないあぶない、こいつ仲間かと思ったら敵だわ」と認定され、憎悪がいや増す。

 

 

 女子アナという言葉は軽んじている感じがする、女性アナウンサーと呼ぶべきだ。

 女優はよくない、俳優に統一するべきだ。

 

 と、そのような指摘や流れがあるが、ばかばかしい、と思う。

 大事なのは中身じゃないの、言葉とか表現とか、そういうところ狩ってる場合なの、それともそれがわかりやすくて注目されるからやってるだけなの。

 

 抑圧されている女性は当然に助けるべきだが、すでに活躍している女性に、それ以上の配慮やアドバンテージは必要はない。

 女子アナも女優も、すでに確立し、評価されている「上流階級」だ。

 

 「本質的」という言葉はあまり好まないが、この場合、文系最大の欺瞞を利用して、なにが本質なのかを問いたい。

 表現ですか、それとも内面ですか。

 

 両者を切り離すのはむずかしい?

 あなたの選んだルートは、小さいほうの袋小路です。

 

 意識高い系は、しばしばこの袋小路でつまづく。

 そもそも一般人が、彼らの「理想」を肯定し、受け入れる蓋然性は低い。

 

 

 じっさい私は女の人を尊敬しているが、けっして理想化しているわけではない。

 クソみたいな女というのも、ずいぶん見てきた。

 

 たとえば「女の言い訳」は、とてもわかりやすい。

 もちろん男も言い訳はするが、そのロジックを解析すれば、どれだけ女が「女であることにすがっているか」がわかる。

 

 すべての人間が失敗するわけだが、そのとき男は、自分の能力が足りなかった、と認めるしかない状況に陥りやすい。

 他人のせい、社会のせいにする男も一定割合でいるが、それは犯罪者みたいなものだ。

 

 女の場合、犯罪レベルではないが、迷惑行為として注意されるレベルととらえるのが適切だろうか。

 要するに「泣けば許される」と考えるタイプに比せる。

 

 女の子だからしかたない、女の子なんだから許して。

 そう言い訳することは、もちろん犯罪ではないが、一般的に迷惑ではある。

 

 

 女同士でもウザがられることが多いだろうこの手のタイプは、多数派ではないかもしれないが、けっして見過ごせない割合のボリュームゾーンとして、残念ながら実在する。

 なぜそうなるのか、いうまでもない、女自身にとって都合がいいからだ。

 

 能力のせいにすれば自分のせいだが、女であることのせいにすれば女というあいまいなものに責任を転嫁できる。

 つまり女自身が、一定割合で、女であることにすがっているのだ。

 

 ──ねえ、金持ちの男紹介して。

 デフォルトでその程度の「並の女」が、なにを求めているのか、まずは正しく理解すべきだろう。

 

 

 そのうえで、活動家は大上段に振りかぶる。

 旧来の「意識改革」をしなければならない、と。

 

 それは古い考え方である、未来はこうあるべきだ、と誘導するのが彼らの仕事のひとつであるわけだが……げんなりする。

 大きなお世話ではないか?

 

 好きで「女」をやっている女がいても、いいではないか。

 そんなくだらないことに干渉している暇があったら、もっと助けてあげなければいけない女はいくらでもいるだろう、と思う。

 

 しかし活動家は、そういうやっかいなところにはあまり手を突っ込みたがらない。

 そして残念ながら、そのことを非難するのも、またむずかしい。

 

 

 交通課が取り締まるのは、取り締まりやすい一般人優先、という構図が似ている。

 彼らは暴走族など危険でめんどくさいターゲットより、効率のいいポイントに張り込んでネズミ捕りをしたがる。

 

 闘争本能丸出しの危険運転野郎を逮捕するより、権威を笠に着て切符を切っていたほうが楽だし儲かる。

 警察ですらその始末なのだから、活動家がどこにターゲットを絞ろうとするかは明白だ。

 

 ほんとうに救いを必要としている女より、自分自身の売名や利益になる小ネタで注目を集めること。

 活動家全員そんな連中ばかり、とまで言うつもりはないが、そのような傾向があることは事実だ。

 

 さらに言えば、どこまで助けるべきか、という問題もある。

 最後に、この重要な「文化的問題」について、すこしだけ触れておく。

 

 

 映画『チャイルド・マリッジ』は、誘拐された少女が反撃したところ相手を殺してしまって、死刑になるところを女弁護士が助ける話だ。

 誘拐婚という風習はエチオピアのほか、インドやキルギスなどにもある。

 

 多くの感想は、胸糞、日本では考えられない、など批判的であり気持ちはわかる。

 が、これはその土地の「風習」であって、多様であるべき「文化」のひとつともいえる。

 

 日本でもひと昔まえには、ハラキリしてちょんまげを結っていた。

 次男以下を家庭内奴隷化したり、強姦を結婚の契機とする地方もあった。

 

 白人は人類史の恥部とでも呼ぶべき奴隷貿易や白人至上主義を、ごく最近まで展開していた。

 黒人のなかには現在でも、原始時代とあまり変わらない暮らしをしている人々もいる。

 

 しかしその「野蛮さ」は、あくまで「現在の価値観によれば」という話にすぎない。

 その時代、その場所においては通用する背景や理屈があった。

 

 

 だから拱手傍観していればいい、と言いたいわけではない。

 ただ変化は漸進的であるべきで、活動家が目指すような「革命」などは望むべくもない。

 

 考えてみれば彼らの「活動」も、その現実に合わせているだけかもしれないと気づく。

 暇つぶしにできる程度に言葉を狩ることが、彼らの認知能力の限界なのだ。

 

 いずれにしろ、自分にできることをやるしかない。

 そのとき私は、理想ではなく現実を追いたい、と思う。

 

 25年8月22日現在、まだロシアとウクライナは戦争をしている。

 停戦への仲介が進んで、史上最高値を記録していた軍需株が下落しはじめているが、まだまだ予断は許さない状況だ。

 

 などというリアルな戦争や経済の話をするつもりは、あまりない。

 そもそも日本人には関係のない話……と思いたいところだが、遠い世界のことでもそれについて「考える」ことは重要だろう。

 

 今回は、そこに個人的な趣味を絡めてみたい。

 最近あまり語っていなかったが、私の趣味は「映画」だ。

 

 この大衆的娯楽から浮き上がる「正義」の姿は、とても興味深い。

 文化的に、より「大衆」に近い正義である蓋然性が高い、とも言い換えられる。

 

 

 まずは古い映画から──あまりに残虐なため、公開に制限がくわわったという『殺しが静かにやってくる』(1968)。

 この物語のめずらしい点は、主人公が「賞金稼ぎを殺す」仕事を請け負っていること。

 

 通常は「犯罪者を殺す」賞金稼ぎが主役になるパターンが多いわけだが、この物語では「犯罪者を守る」男サイレンスが主役。

 冒頭、降伏した賞金稼ぎの親指を撃つのは、殺す必要はない、二度と戦えなくすればそれでいいという主張が描かれる。

 

 盗賊にも理があって、彼らが盗賊にならざるをえなかったのは、街を支配する判事が彼らの仕事を奪ったから、というロジック。

 古来めずらしくもない理屈だが、万事につながる。

 

 

 「敵にも理屈はある」という構図から、ほんとうの「悪」がなにものかを浮き上がらせていく映画的設計は秀逸だ。

 まずサイレンスが賞金稼ぎをターゲットにするようになった理由は、幼いころ賞金稼ぎに両親を殺され、口封じのために声帯を切り裂かれたことから、しゃべれなくなったため。

 

 相手が銃を抜かなければ、自分も銃を抜かないという美学をもっている。

 観衆の共感を得るためのエッセンスだが、それを利用されたりもする。

 

 生活の手段として、合法的に人々が虐殺された時代──1898年。

 アンチ・アメリカ西部劇であるマカロニ・ウェスタンのなかでも、群を抜いて特異な作品だ。

 

 

 さまざまな視点の、どれを採るか。

 あくまでも当時として、それでも許されない「罪」や「悪」を断罪する物語。

 

 ターゲットは公開当時の観客であり、いまはそれを「後世として評価する」時代だ。

 だれが正しく、だれが悪なのか。

 

 白人と黒人、差別するものと、されるもの。

 正義と悪を隔てるもの、それを決めているのはだれか。

 

 当時としての評価と現在の評価は、必然的に異なる。

 歴史とは不断に「修正」されていくべきものと考えている。

 

 

 イヴァン雷帝の暴政は、ロシアの歴史も文化も否定し、かつての国を象徴する人たちを殺害し、追放した。

 それは、1917年以前に亡くなった人々の記憶を忘却へと追いやり、歪曲した。

 

 つぎはボルシェヴィキ(レーニンが率いた左派グループ)が破壊の先頭に立ち、ロシアは一度、消滅しかけた。

 彼らが十月革命を起こしたあと、しばらくは悲惨な無分別がまかり通る「破綻国家」となった。

 

 そして、プーチン。

 彼が「ロシアを壊してくれる」ことを、どうやら国民が望んでいる。

 

 この戦争がどういう結末になるのかはまだわからないが、彼らの選択はおそらく当事者に相応の苦難を強いる。

 おなじ苦しみを背負うことによって統一される国、というのもあるということだろう。

 

 

 日本がアメリカに宣戦布告せざるをえなかったのは、そうさせる多くの戦略の積み重ねがあったから。

 ロシアがウクライナに侵攻したのは、西側に根本的な原因があるから……。

 

 くりかえされる歴史を概観して私が感じたのは、ヴィスコンティ的な自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙だ。

 それは人間に内在するふたつの側面であり、人間が人間であるかぎりにおいて免れぬ宿業のようなものではないか。

 

 ロシアには、独裁、スターリン、収容所という「悪」と、ロシア文化、宇宙飛行、資源という「良」のイメージもある。

 ドイツに、ナチス、アウシュビッツ、優性思想という「悪」と、偉大な音楽家や哲学者、科学力、工業力という「良」があるように。

 

 

 ドイツで思い出したが、ヒップホップ・カルチャーが反体制とはかぎらない。

 たとえば映画『ブレイク・ビーターズ』。

 

 旧東ドイツでは、ブレイクダンスが国家主導のショーダンサーとして社会主義にローカライズされた。

 ヒップホップの視点からみれば邪道きわまりないが、ほとんどの宗教が(創始者や聖典をないがしろにするような)邪道を内包している。

 

 本来ありうべからざる邪道が、組織を育てることもある。

 結局、「どこから見るか」という視点の問題にすぎない。

 

 

 既存のヒーロー観を覆した『デッドプール』、ヴィランの定義を書き換えた『ジョーカー』。

 スーパーマンの真逆、スーパーヴィランに育った姿を描いた『ブライトバーン/恐怖の拡散者』。

 

 スーパーヒーローならやっていい破壊行為と、悪役のそれは、どうちがうのか。

 正義の心をもたなければ悪役とおなじであることは、『スパイダーマン』シリーズの名ゼリフ「大いなる力には、大いなる責任が伴う」に通じる。

 

 徹底的に街を破壊する『マン・オブ・スティール』は、日本人にもなじみ深いギャグ漫画的な描写、簡単に地球を破壊してしまうドッカンバトルの系譜だ。

 正義のために容赦なく戦うスーパーマンを、バットマンは口をきわめて罵っている。

 

 

 どの国も「正義」を旗印に戦争をする。

 とくにアメリカは、議論の余地のない「世界最強」だ。

 

 東京大空襲や原爆投下への憎悪の声があまり大きくないのは、アメリカの宣伝がすぐれていたからでもあるだろうが、つねに最悪のケースを考える国民性もあるかもしれない。

 いわゆる「怪獣映画」になじんでいる日本の世代にとっては、盛大に街を破壊する描写そのものに対する嗜好も汲み取れる。

 

 『火垂るの墓』で、自国を破壊するために飛来する爆撃機に、快哉を発する主人公の姿は印象的だ。

 こんな街、こんな国、こんな世界、ぶっ壊してしまえ。

 

 世界が滅びることを望む層は、一定数いる。

 彼らの「夢をかなえる」映画は事実、必要とされている。

 

 

 最後に、映画のような夢を、という決め台詞で知られる洋画劇場があった。

 そう、映画とは「夢」なのだ。

 

 目を覚ましたら現実に向き合い、考えるべきフェーズがやってくる。

 きょうもニュースのヘッドラインには、世界中の悲劇が並んでいる。

 

 ウクライナやEU、アメリカにとって、ロシアや中国は「悪」だ。

 しかしそれは「彼らの秩序にとって」という注釈つきであって、相手から見れば事態は反転する。

 

 そんなことは百も承知で、「自分より強いやつと戦うほうがわるい」というトランプ的な発言が、ある意味で真理だったりもする。

 アメリカ人らしい考え方で、かなりのリアリティもある。

 

 なんなら人間が「悪」という見方もある。

 人間など滅びてもらったほうがいい、という大自然の声が背景にあるとするなら、それを促進する側が正義という見方もできるのだ。

 

 いろんな視点から眺めると、映画も現実もそれなりにおもしろい。

 その先に立って、もっとおもしろい物語を書くことが、私の夢だ。

 

 作業用BGMとして、たまに映画音楽を流している。

 しょっちゅう流さないのは、作業の邪魔になることもあるからだ。

 

 なつかしい映画からテレビシリーズまで、さまざまな思い出が喚起されてくる。

 それが作業の邪魔にならないくらい集中できれば合格だが、意外にむずかしい。

 

 ふと画面を見ると、「ウォーカー」がこちらを見ていた。

 『ウォーキング・デッド』の印象的なテーマソングが流れている。

 

 そういえばこのゾンビのシリーズ、途中まで観てそのままになっていたな、と思い出した。

 さすがにもう完結しているんじゃないかな、知らんけど、と思いながらチャッピーに訊いてみた。

 

 

 ──ウォーキング・デッドってもう完結してる?

 はい、2022年第11シーズンで完結しました。

 

 ──そうなんだ。リックがヘリで連れ去られたあたりまで観た気がするんだけど。

 それならシーズン9の5話ですね。

 

 つまり、あとちょっとで完結だったらしい。

 そのうち見直すつもりだが、そのまえに質問しておくことにした。

 

 ──リックが連れ去られてから結末まで、ネタバレ全開でまとめて。

 了解しました。直前までの状況と以後の展開は──。

 

 

 というわけで結末を知り、おおむね知的好奇心が満たされて、それなりに満足した。

 便利な世の中になったものだ。

 

 そんなんでいいのかよ? と思う方も多いかと思うが、私は基本、ネタバレを許容する人間だ。

 観るまえに結末を教えられても、ちっとも怒らない。

 

 もちろん知りたくない人が多いことは知っているから、わざわざ教えることはない。

 知る知らないを選ぶのは相手の権利であり、それを無視して伝えることはその権利の侵害になる。

 

 そもそも「無礼」だ、という前提を踏まえつつ、私自身がなぜネタバレを許容するのか、その理由から分析していこう。

 おそらくこれは、性格的な部分に起因するところが大きいように思う。

 

 

 私は「予定」を大事にする。

 それが「調和」したとき、一定の快をおぼえる。

 

 予定外こそがおもしろいんじゃないか、と思うとしたら、それはあなたが「若い」からかもしれない。

 たとえばゲーテは、若いころはチャレンジ精神旺盛だったが、晩年には古典的な作品を愛し、みずからの作風もそれに寄せていったという。

 

 つまり私は「年をとった」ということ……なのかもしれないが、それだけではない。

 生まれつき、そういう「性格」の人間は、それなりにいるのだ。

 

 わかりやすいのは「鉄オタ」だろう。

 決まった時間に、決まったルートを、決まったルールで走る「鉄道」が大好きな人々は、一定数いる。

 

 

 鉄オタ程度なら、社会生活にさほど支障はないだろう。

 が、私のようにこじらせると、そうはいかない。

 

 家に引きこもり、なかなか出てこない。

 社会とのかかわりを減らし、特殊な思想を深めたりする。

 

 ここからさらに病的な深みへ落ちると、通院が必要になることもある。

 たとえばASDや統合失調症など診断名がつくようになると、その日常にはしばしばパニックが押し寄せることになる。

 

 

 発達障害といったカテゴリは、脳機能に「偏り」がある状態を指す。

 とくに深刻な子どもの場合、しばしば泣き叫び、暴れ出すこともある。

 

 たとえば何日に運動会がある、という計画を脳内に組み込んだとする。

 常識的には雨天中止なのだが、彼らは豪雨のグラウンドのなかにぽつねんと立っていたりする。

 

 予定どおりに物事が進むことが、彼らにとっては必須事項だ。

 そういう「性質」に生まれついてしまったのだから、なんとか折り合いをつけるしかない。

 

 私自身は、そこまでではないが、基本的には「そちら側」の人間だ。

 立てた計画は可能なかぎり遂行するし、できそうもない計画をぶちあげる人間は嫌悪する。

 

 ……さて、ネタバレを許さない派と許容する派。

 私が病的である事実と、この話は意外につながっている。

 

 

 アメリカ人はサプライズが大好き、という印象がある。

 全員そうではないだろうが、いわゆる「陽キャ」の代表のようなイメージがある。

 

 彼らは「予測誤差」そのものを報酬とみなす。

 よって結末を予測可能とするネタバレなどは、断固として許容できない。

 

 一方、私は「意味最大化型」の「陰キャ」である。

 もちろん明るい日本人も多いが、アメリカ人に比べればあきらかに控えめだ。

 

 そんな私のようなタイプにとって、ネタバレは「受け入れ可能な追加情報」にすぎない。

 結末を知って見ればよりいっそう物語を解析しやすくなり、物事への深い理解がもたらす快感が上昇する。

 

 物語のジャンルや作品にもよるだろうが、基本的に情報は多いほうがよい。

 結局は、なにを重視するかという視聴スタイルのちがいにすぎない、と思っている。

 

 結果を重視するなら、ネタバレは致命的になる。

 過程を楽しみたいなら、さきに結果を知ることは役に立つ。

 

 

 と、かなり無理やりつなげた気がするが、性格の問題は意外に重要だと思っている。

 日本人はネタバレ許容度が高い国なのではないか、という仮説を提示したところ、チャッピーには「独特な考え方ですね」と感心された。

 

 もちろん決めつけるつもりはない。

 ほかに理由はいくらでもある。

 

 たとえば時間資源のリスク回避。

 駄作に2時間も費やしたくない人は、まず結末を確認する、というのもひとつの手だ。

 

 私も駄作の映画については、観ながらあらすじを確認したりする。

 作品を愚弄するつもりはない。ただ「理解しよう」と努力しているのだ。

 

 結局のところ、好きなように消費したらいい。

 われわれは豊かなコンテンツに囲まれた、幸せな時代に暮らしている。

 

 私は山に住んでいる。

 転地療養とかサナトリウムという言葉があるとおり、見まわせば山、という環境は精神衛生にもたいへんよい。

 

 病んだ精神をリフレッシュするため、たまに近所を散歩する。

 すると道端にゴミが捨てられているありさまを、まれによく見る。

 

 ある程度観光地化もしているので、おそらく山登り系の「ウォーカー」どもが捨てていったのだろうと思う。

 噛まれるとゾンビになるので気をつけたい。

 

 と、冗談はさておき、ゴミは冗談ではない。

 地域住民が捨てている可能性もゼロではないが、やはり主犯は観光客だろうと疑っている。

 

 

 山にゴミ捨てるやつら、死ねばいいのに──と思うが、直接そう言いたくはない。

 表現が強すぎるからではなく、そんなことをやるような程度の低い連中には、むしろもっと強い言葉が必要かもしれないとすら思っている。

 

 それでも直接的な言い方を避けることには、もちろん理由がある。

 他人から言われるまでもなく、「自分で考えて」捨てないほうがいいと「判断して」もらいたいからだ。

 

 言われたからやるのではなく、自分で考えて正しいと思うことをやる。

 それこそが自立した、理性ある人間の在り方だと思う。

 

 

 大上段に「自然保護」を訴える人々がいる。

 自分が正しいので、そうしろと「命令」する。

 

 激しい言葉で扇動し、あるべき理想を喧伝し、それに手を貸さない人々は悪の手先、共犯者だと決めつける。

 自分たちの「高い」意識こそが正解であり、それ以外の「低い」民衆を侮蔑して見下す。

 

 言葉にとどまらず、しばしば強硬手段に打って出る。

 名画への食料品投擲、SUVタイヤの集団的パンク化、リゾート施設への放火など、数え上げればキリがない。

 

 彼らの視点では「正しい」のかもしれないが、もちろん私は疑っている。

 彼らの理想が達成されたとき、山にゴミを捨てる人がいなくなるとしても、あらゆる理想に付随する一抹の疑義を、必ず残しておかねばならない。

 

 

 海にごみを捨てるのは、最低で論外だと思う。

 かつて「垂れ流し」ていた排水は、当然に「浄化」されるべきだ。

 

 現にわれわれは、公害問題などの忌まわしい原体験とそれへの反省によって、環境負荷が少ない方法を選ぶようになった。

 が、水を「きれいにしすぎ」て沿岸の生物が栄養不足に陥る、という状況もあるやに聞く。

 

 かつて浄化せずに家庭や工場から排水しすぎた結果、富栄養化した海が「赤潮」などを起こして問題になった時代があった。

 いまは厳しく浄化しすぎた結果、陸から流れ込む栄養が少なすぎて「磯焼け」している。

 

 対策として、ほどほどに栄養分を流す、と自治体レベルで調整しているところもあるという。

 きれいにすることが必ずしもいいこととはかぎらない可能性を、閑却してはならない。

 

 

 だいたい人類は、やりすぎる。

 あらゆる「やりすぎ伝説」のために大車輪で活躍しているのが、おそらく「正義」の人々だろう。

 

 信念をもって、世界を変えようと戦う、一見「正しい」人々。

 なかには詐欺師やダークトライアドもいるだろうが、基本的には善意や正義感である場合が多いのが、やっかいなところだ。

 

 彼らは、だれかを自分の気に入るように変えよう、という衝動とともに活動する。

 この考えが正しいから、こうしておいたほうが良い。私の言うとおりにやっていればよい、異論は認めない。

 

 要するに昔の「宣教師」や、昨今の「意識高い系」のことだ。

 後者は最近そこまで踏み込むことは少なくなったが、とりあえず見下してあざ笑う程度はデフォルトでやってのける。

 

 それ自体、疑わしい。

 自分は、ほんとうに正しいのか? と自問することをやめたら、その「意識」はすでに腐りはじめていると知るべきだ。

 

 

 よく例に挙げるのだが、実写版『白雪姫』がわかりやすい。

 昔の価値観でつくられた映画が気に入らないので、原作改変して大コケしたポリコレ映画だ。

 

 この手の作品の多くに、しばしば宗教的なものを感じる。

 自分たちは正しいので、世界はそれに従うべきだ、という一神教的発想の世界線。

 

 ファンタジーをファンタジーとして楽しむ(あるいは無視する)のではなく、自分の気に入るように捻じ曲げようとする人々。

 他人の意思をコントロールして「自分に従わせたい」連中の鋳型にピタリとはまる。

 

 

 かつては「国家」が効率的にそれをやっていたが、最近は弱体化している(それでも強力ではある)。

 さらに太古からそれをやってきたのが、宗教だ。

 

 最近は宗教離れも激しいので、新しい「看板」が模索されている。

 すこし前は共産主義だったし、昨今は世界平和なり自然保護なりDEIなり、一見正しそうにみえる「教義」がもてはやされている。

 

 彼らは言う、自分は正しいので「従え」と。

 どうしてもそう「言いたい」人々は事実、一定割合で存在する。

 

 

 二度と戦争をしてはならない。

 核兵器を廃絶すべき。

 

 毎年、この時期になるとその手の番組が「定期」で流れる。

 一見、正しい。

 

 誤解されたくないが、私は平和を否定しているわけではない。

 ただ平和を叫ぶ人々自身の闇に、ときおり目を凝らすタイプであるだけだ。

 

 その行為をたとえるなら、「スケキヨの仮面を脱がせる」のに似ているかもしれない。

 かぶっていてもじゅうぶん怖いが、その口で戦争のおそろしさと自身の被害を訴えられれば、たしかに説得力はあるだろう。

 

 だが、じつのところ本物の恐怖は、仮面の下にこそ包み隠されていると知るべきだ。

 日本を非武装中立にしたい人々の宣うきれいごとが、だれの利益になっているか考えてみればよい。

 

 

 自分が正しいと思うのではなく、ほんとうに正しいのか? と問える精神。

 いまのところ、それがあまりない人類は絶滅フェーズに乗っている、と思う。

 

 これまでの地球史でもくりかえされてきた。

 環境に適応した最強の生物種は、すべて滅びてきたではないか。

 

 いま再び、最強の生物だけが生き残り、環境の変化を待っておのずから絶滅する。

 やがてくる最強の猛毒は、弱毒化の果てにこそ誕生するのだという逆説が、いずれ世界を襲うと予測する。

 

 無菌室で培養された新芽が、空気中に舞う「風邪」のウイルスで全滅する日。

 われわれは「生きる」ことの意味を知るだろう。

 

 世界が終わるはずだった7月の終わり、巨大津波のフェイクニュースが流れていた。

 だまされるやつがいるのか、と思える程度の品質だったが、一応注意が促されていた(津波ではなく虚偽情報について)。

 

 われわれはすでに、フェイク映像が容易に生成されることを知っている。

 だから「まず疑う」癖がつきはじめている。

 

 結果、ディープフェイクは、いまのところそれほど破壊的な影響をもたらしていない。

 むしろ現在の最大損害は、疑いが常態化し、政治的説明責任が機能不全に陥ることのほうかもしれない。

 

 いぜんとして深刻なのは、チープフェイクのほうだ。

 安価、迅速であり、責任回避が容易。

 

 ダストシュートのように流されていく情報のゴミが、心のどこかに汚染をこすりつけていく。

 だからXが、イラッとするSNSナンバー1の不名誉を獲得したのだろう。

 

 不確かな情報の拡散に、約半数のユーザーが腹立ちを感じている。

 プラットフォームの性質上しかたないのかもしれないが、選挙が終わってからアカウントを凍結したところで、あまり意味はない。

 

 とくに虚偽確認の時間がすくない投票日直前は、フェイクニュースがあふれるらしい。

 その宣伝の目的が奈辺にあるか、われわれは立ち止まってよく考えなければならない。

 

 

 では(事実上)選挙がない国なら、フェイクは存在しないのか?

 もちろん、そんなことはない。

 

 むしろ中国人のほうが、とくに政府を「信じない」ことにかけては上手だ。

 世界中の経済学者も、中国政府の発表はほとんど信じていない。

 

 資本主義国を凌駕する規模と強度で、じつにおもしろい「宣伝」が、党本部を主体に延々とくりひろげられている。

 国家の「威信」をかけたとき、彼らは伝統的に「フェイク」をかます。

 

 

 若いころ、小学校の社会科だったと思うが、なにやら中国産のビデオを見せられた。

 共産主義国がどういうものかを教える感じだと思うのだが、日教組に属する左巻きが選んだビデオということで、いろいろと示唆的だった。

 

 当時小学生なので、細かい突っ込みどころはよくおぼえていないが、鮮明におぼえていたシーンがある。

 農民がこぎれいな「ジャケット」を着て農作業をしていた──。

 

 うちの親はサラリーマンだが、じいちゃんは国鉄退職後、裏の畑で農業をしていたので、どんな格好で農作業するものかは理解している。

 そんな結婚式に行くような恰好で農作業しねえだろ、とは小学生でもわかった。

 

 いま思えば、中央が派遣した撮影班が、できるだけきれいな格好で作業しろと指示したのだろう。

 現実を無視した理念に走りがちな連中なので、一張羅で作業する、という不可思議な現象をそのまま撮影し、我が国はパラダイス、と宣伝する役に立つと信じたに違いない。

 

 バカじゃねえの、と思われるのが関の山だと、客観的な想像力があれば気づくと思う。

 が、理念や信仰に偏った人々にはわからない。

 

 

 40年も昔の話なので、最近ではそんなことはないでしょう、なんて思っていたら。

 中国発のキャラクターが世界で大人気、という番組を見つけた。

 

 コンテンツビジネスでも中国はすごいんだ、という主張らしい。

 コンテンツ王国の日本にとっては、新しいライバルが現れた、中国を侮ってはいけない、という文脈で番組は進められていた。

 

 そんな、世界で大人気だというキャラについて、司会がコメンテーターに意見を求める。

 すると中国研究者の先生、「そんなキャラ聞いたことないですね」と、にべもない。

 

「え、でもニュース流れていますけど」

「どこが言ってるんですか?」

「〇〇(中国の政府系メディア)です」

「そういうことですね」

 

 瞬間、もうひとりの中国人コメンテーターが吹き出していた。

 中国の理想と希望を垂れ流す国営メディアの実情を知っていれば、もう笑うしかないのだろう。

 

 こうして身内にまで笑われている中国政府は結局、なにがしたいのか?

 フェイクを垂れ流しつづければ、いずれそれが真実に塗り替えられるとでも信じているのか?

 

 そうではない。彼らはただ「愚か者だけが信じ」てくれればよく、すべからく人間は愚かだから自分たちが率いるのだ、という立場の正当化なのだろう。

 なぜなら「党は無謬」だからだ──。

 

 40年前と、ちっとも変わってないんだな、と感じた。

 共産党(無謬性のドグマ)はこのあたり、徹底している印象だ。

 

 

 ひと昔まえに見た北朝鮮発のビデオは、さらにおもしろかった。

 彼らの「宣伝」も、なかなか大時代的だ。

 

 ものが豊かで大混雑のデパートみたいなものがわが国にはある、と主張したいらしいが、行きかうだれも荷物を持っていない。

 全員、エキストラだからだ、ということを瞬時に見抜かれていた。

 

 彼らはなぜか「すぐバレるウソ」をつく。

 それはつまり、ウソをウソと見抜くような賢い人間を相手にしていない、という意味でもある。

 

 

 他人を笑ってばかりはいられない。

 戦時中の日本には大本営発表という忌まわしい時代があったし、戦後だって似たようなものだ。

 

 当時から(すくなからずいまも)、なぜか「欧米が正解」みたいな意見、主張が多い。

 冷静に考えれば、アメリカがそれほど理想的な国のわけがないのだ。

 

 奴隷制に立脚し、他国民を大量虐殺している国。

 神さまが言葉で世界をつくったと信じ、陰謀論で動くうそつき大統領が君臨する国。

 

 的確に弾劾できないのは結局、どこの国も庶民は「バカにされている」からだ。

 じっさいバカだからしょうがない、と認めざるを得ないのは、現に存在するメディアによって証明済みなのだろう。

 

 それでもバカは、徐々に減っている。

 今日よりマシな明日を信じて、考えながら生きていきたい。

 

 

 ネットで毎週、吉本新喜劇を観ている。

 大阪に住んでいたころはほとんど観なかったが、関東にもどってからよく観るようになった理由は、ここでは掘り下げない。

 

 TVerで手軽に観られるのはいいが、最近、いわゆる「お約束ギャグ」の部分をスキップするようになった。

 何度も観ていると、残念ながら飽きてくる。

 

 具体的に出すと失礼かもしれないので控えるが、なんというか……痛々しくなってくる。

 もういいよそれ、と感じないひとに向けてつくられているのだから文句を言うのも詮無いのだが、自分がターゲット外だと思い知らされるのは、すこし寂しくもある。

 

 

 お約束というのは、もちろん重要だ。

 そもそも伝統芸能じたい、様式美で成り立っているようなところもある。

 

 飽きたギャグが、一周まわっておもしろくなってくるまで観る、というのがホンモノのファンなのかもしれない。

 残念ながら私は、まだその境地には達していないし、達する気もしない。

 

 映画を観ていてスキップしたくなるのも、そういうシーンだ。

 たとえばさっき観たサイコキラー系のB級映画でも、使い古された「定型」が頻々と用いられていた。

 

 犯人のストーカー気質を表現する典型的な方法。

 隠れ家の壁に被害者の顔写真を大量に貼る、被害者の使用済みの私物を蒐集する、関係図を糸でつなぐ(いわゆるクレイジーウォール)……。

 

 この手の犯人は「そういうことしなきゃいけない」らしく、映画やドラマでは何百回も似たようなシーンが再生産されている。

 裕福なシングルマザーがサイコ野郎に狙われる、というパターンは火サスの「美人OL湯けむり殺人事件」といったところか。

 

 じっさい写真を貼るという趣味がそれほど多数派とは思えないが、制作者にとってそういう表現がわかりやすい、という判断だろう。

 登場した時点で犯人がわかるのは、ある意味、親切なのかもしれない。

 

 

 強い言い方をすれば、作り手は「視聴者をバカにしている」。

 少年誌編集者の「読者は全員バカだと思って描け」に象徴される、これは「現実」だ。

 

 正しくないわけではない。

 むしろ正しいからこそ、それを必要だと思ってやっている。

 

 言い換えれば、私のような見方をする人間は作り手のターゲット外にいる、ということになる。

 おそらく私は少数派で、多数派に向けてつくっている人々からは当然に、最初から切り捨てられている。

 

 昔好きだったシリーズもののゲームの新作をやっていて、コレジャナイ、と感じるのと似ている。

 彼らは「若者」に対してゲームをつくっているので、私のような「古参」はアウトオブなのだ。

 

 

 あまり攻めすぎてもリスクが高い、ということはもちろんある。

 たしかにマニア向けの駄作は多いが、一般向けの駄作はその何十倍も量産されている。

 

 駄作でも、母数が多いのでそこそこ消費されるからだ。

 万一当たったらデカイし、そもそも「大失敗」しづらいことのほうが重視される。

 

 そうして蒸留されていった結果、残された解が作劇上の「型」なのだろう。

 お約束だけを積み重ねて達する伝統芸能の域にも、それなりの存在理由はあるだろうとも思う。

 

 しかしだ。

 にしても、もうちょっと工夫があってもいいのではないかな……。

 

 

 そういう私のようなこじらせた人間向けに、最適化された物語を量産できる可能性があるのがAIだ。

 私のハードルは高いのでまだまだ不十分なところは多いが、AIはきちんと指示さえすれば、並の人間よりも考えられた答えを出してくる。

 

 短編はもう、私よりうまいと言っていい。

 長編の積み重ねられた複雑な情報を、うまく組み合わせて表現するのはまだ無理そうだが、そのうちできるだろう。

 

 現状それらの瑕疵を消していく作業ができている間は、まだ私にも存在理由があるように思える。

 いずれ私を含む「人間」を超える日がくるだろうが、私の寿命が尽きる前に見届けることができるかどうかは、やや疑問に思う。

 

 なにを問うべきか。

 どう均衡を取るか。

 

 たぶんこのへんが、最後に残された課題になるだろう。

 このブログや日々の会話が、AIの成長に資すれば幸いだ。

 

 

 クソ映画を倍速で流し観た。

 何度も心が折れそうになったが、一応最後まで。

 

 こういう日々の努力が、死ぬまでに1万本という目標へと、私を導いていく。

 あと約3000本、長生きすれば達成できるだろう……。

 

 とはいえ、あまりにも苦痛な画面からちょいちょい目をそらし、片手間にネットで検索をかけていた。

 すると、ちょっとおもしろい記事を見つけた。

 

 その映画、もちろん完全な駄作でレビューなどほとんどないのだが、数少ない低評価のなかに、かなり好意的な文章が見つかった。

 配給会社の人間か? と穿ってしまいそうになるが、どうもそうではないらしい。

 

 星は少ないのだが、文面が好意的なのだ。

 それは、けっして他人を傷つけまい、という「やさしい記事」に見えた。

 

 

「こういうパーティの雰囲気は好き。

 混雑している会場で、BGM的に流しておくのに最適」

 

 ……冷静に考えて、まったく褒めていない。

 にもかかわらず、なんとなく褒めている感じに読める。

 

 ハロウィン・パーティの雰囲気は好き──という文章は、作品にあまり関係のない事実を述べている。

 混雑している(だれも見ていない)ところに垂れ流すだけなら、ギリOK──つまり、まともに見るには堪えない、という意味だろう。

 

 まったく褒めていないのに、褒めているように書けるセンス。

 すごいなあ、と思った。

 

 

 雰囲気モノ、というジャンルはたしかにある。

 クリスマス、ハロウィン、海水浴《バケーション》……。

 

 そのタイミングで流しておくのに最適の映画。

 だれも観ちゃあいないが、雰囲気は壊さない感じ。

 

 そういう褒め方もあるんだな、と。

 最近のAIが、こういうクレバーな応答を学習しているような気がして、空恐ろしいものを感じる。

 

 だれも傷つけない、という方向への進化は、すごいものがある。

 一方、弱者への擁護が行き過ぎて、「逆差別」にもなりかねないという指摘もある。

 

 

 虚構の世界を描く、映画。

 たとえ史実であれ、相応の演出は不可欠という意味で、すべての映画は虚構だ。

 

 にもかかわらず、ルッキズムだのポリティカリーコレクトネスだのSDGsだのの情勢に、かなり縛られている。

 パッと調べただけでも、以下のような評価軸でがんじがらめだ。

 

ベクデル・テスト:女性キャラが男以外の話題で会話しているか?

VITO・ルッソ・テスト:LGBTQキャラが嘲笑の対象でないか?

ReFrame Stamp:制作に十分な数の女性スタッフがいたか?

ルッキズム・チェック:キャスティングに外見偏重がないか?

 

 まだまだあるが、要するに「意識高い系のお気に召すか」どうかの話だ。

 私はフィクションを創る者として、この手の指標にどうしても懐疑的になる。

 

 なぜなら、それは「言葉にできる正しさに創作を従わせる誘惑」だからだ。

 しかし物語は「正しい」かどうかではなく、なにはともあれ「刺さる」かどうかで動くものではないか?

 

 バッドガールが主人公だったり、狂人の殺人者が最も人間的だったり。

 倫理から見れば「問題しかない」展開すら、それを描く自由にとっては重要だ。

 

 ルッキズムや性差別への配慮は重要だろう。

 だがそれを表現の「形式」で検閲することは、物語が世界を異化する力を削ぐ。

 

 

 とはいえ、映画は公共のメディアであり、多くの人が触れ、多くの人が無意識に世界観を刷り込まれる。

 だから「だれが語られ、だれが無視されているか」を点検する視点が社会的に存在することには、一定の意味がある。

 

 ただし、それは創作者の内側から生まれる問いであるべきだ。

 ルールとして外から押しつけられたとき、それはもはや物語ではなく、思想教育のパッケージになってしまう。

 

 人を傷つけない物語を描くのは簡単だ。

 だが、人の深層を揺らす物語は、たいてい「だれかの正義」には触れてしまう。

 

 指標に照らして「正しい」物語が、かならずしも「届く」物語になるとは限らない。

 それでも、多様性を指標にする動きがあるなら、それを「創作者が自問する問い」にするほうが健全だろう。

 

 映画の批評において、性別や人種、性的指向、障がいの有無などの「社会的指標」が導入されることは、ここ10年で急激に増えた。

 だがそれは果たして、「芸術の血」を通わせるための輸血なのか、それとも「創作の自由」を殺す麻酔なのか。

 

 

 とあるSF映画に登場する姫君には、もっと美人の女優を起用するべきだった、という私見に対して「お姫さまが全員美人とはかぎらない」と返された。

 それはそうだが、だったら全体的にそうとう虚構であるSF映画のなかで「お姫さまの容姿だけにリアリズムを求める」理由は、なんだろう?

 

 時代劇の言葉を現代語にするというのは、視聴者に伝わるためという理由として納得できる。

 では、お姫さまがブスな理由がルッキズムへの配慮……で納得できるか?

 

 待てと。物語世界そのものが、ルッキズムを含む虚構で成り立っているのだ。

 虚構を楽しむ世界に、無理やり挿入されるリアリズムこそ、まさに作品世界に対する強姦だと、私は思う。

 

 

 徹底的にリアルであることにこだわった映画であれば、ブスだろうがデブだろうが出せばいい。

 しかし虚構を楽しむファンタジーな映画に、なぜ無理やりブスを出すのか……。

 

 少女漫画にはイケメンしか出てこないし、エロ漫画には美女しか出てこない。

 それでいいのだ、そういう世界なのだから。

 

 もちろんそれを気に入る気に入らないは個人の自由だ。

 気に入らない映画は、観なければいい。

 

 もしくは文句を言うためだけに観る、というのもいいだろう。

 いい部分だけを見つけて、傷つけないように評価する人がいても、もちろんいい。

 

 

 AIは、そういう毒にも薬にもならない無難な応答を生成するようにできている。

 だから私のような毒とクセのある文章は書けまい、というつもりで訊いてみた。

 

 ──きみに私のような文章が書けるか?

 すると、以下のような答えが返ってきた。

 

「近づけることはできます、毒の強さも調整できます。

 ただし「経験がない」という事実と、「何を問うべきか」については、まだ人間の文章にはかないません。」

 

 たしかに某週刊誌の潜入ルポとか、濃厚な経験に照らしたノンフィクションとかは、AIには逆立ちしても書けないだろう。

 そもそも彼(?)には、逆立ちする身体がないのだ。

 

 言い換えれば、身体性のない文章なら、余裕で書ける。

 いつの日か、私のブログがやけに抽象化した毒を吐くようになっていたら、それはAIが書いている……かもしれない。

 

 

 私は、私がなにも知らないことを、知っている。

 びっくりするくらい浅はかだった自分について、告白しよう。

 

 私は宇宙が好きだ。

 宇宙の動画に人生の数パーセントを費やす程度には、くわしいと思っていた。

 

 ある日、ふと朴訥に、AIに質問した。

 ──超光速で移動すれば、ハッブル球の外側に出られる?

 

 「超光速」だ、「超高速」ではない。

 光を超えるという非常識な仮定なのだから、出られてもおかしくないだろう、という予断があった。

 

 答えは明確だった。

 「出られません」。

 

 

 私は混乱しはじめた。

 ──よく読んでくれ、超「高」速じゃなくて超「光」速だよ?

 

「宇宙の膨張は空間そのものの膨張なので、ハッブル球の外側は静止座標で固定されておらず、遠ざかり続ける動的な境界です。

 たとえ「ワープ」できたとしても、宇宙膨張がもたらす「因果の地平線」(event horizon)を突破できる保証がありません。」

 

 自分の理解力が足りないことをヒリヒリと感じつつ、踏みとどまる。

 あらためて、AIに状況を説明する。

 

 

「あくまでも思考実験として、もし「時速100億光年」の宇宙船に乗ったら、5時間後には450億光年先の地点を「突破する」よね?

 つまり、見えないが存在するだろう宇宙の果てへ「到達する」のでは?」

 

 私も「観測可能な宇宙の広さ」が、半径460億光年くらいであることは知っている。

 宇宙の年齢である138億年の間に膨張した分を計算すると、だいたいそのくらいになるらしい。

 

 もしそこに到達しても、いまわれわれが観測しているエアレンデル(ここでは「いちばん遠くの星」くらいの意味)が、そこにないことはわかっている。

 その星の光は、130億年前に発されたものだからだ。

 

 ただ130億年前にエアレンデルがあった場所に、130億年かけて進化したエアレンデル星人がいれば、会って話して友達になれるんじゃないの?

 超光速船で5時間かけて、そこに「到達」すれば。

 

 

「いいえ、会えません。

 物質相互作用は許可される可能性が高いので、触れるかもしれませんが、情報については届かない可能性が高いです」

 

 ……なんでだよ!?

 混乱する私の蒙昧を取り除こうと、AIはつづける。

 

「直感的には「そんなに速く進めるなら観測可能宇宙(約465億光年の半径)の外に出られるはず」と思うのは自然です。

 しかし、実際には以下の理由でそれほど単純ではありません。」

 

 と、「宇宙膨張」vs「移動速度」やら、「グローバルな座標系」が意味をもつならとか、しかしΛCDMモデル(現実の宇宙)では「破綻します」などとおっしゃる。

 このかたくなな否定を受けた私は、やおらぞっとした。

 

 

 もしかしてAIが正しいのではないか?

 私は、あたかもフラットアーサーのように、地球は平らだと主張している愚か者なのではないか?

 

 ここから急速に、お勉強モードへと突入した。

 多世界解釈、ΛCDMモデル、光円錐、ペンローズ図、ADS/CFT対応といったトンチキな用語を、ウィキ先生などから教わる。

 

 そして気づいた。

 ユークリッド空間の前提と、壊れたリーマン空間に生きるわれわれの苦悩について。

 

 

 翌朝、PCを立ち上げた。

 一晩かけて、私なりの「たとえ話」を考案し、こう問いかけた。

 

「チャッピーはたとえ話がよくない気がする。

私が考えた以下のような表現が適切かどうか、判断してもらいたい。

 

まず構造。自分を中心に半径10億光年の半透明の風船に包まれている。内側の景色は直接よく見える。半透明なので外側も見えるが、無視できない程度の「ゆがみ」がある。

風船は入れ子構造で10億光年ごとに、より大きな風船が包んでいて、外側ほど風船が膨らむ速度が速い。13枚目、130億光年先の景色まではかろうじて見えるが、そのむこうからの光は届かないので見えない。

 

風船の材質。風船のゴムは無限に伸びるが、破ることはできない。なので超光速で突っ切ろうとしても、そのむこうの景色はあくまでもゴム越しにゆがんでいる。

エアレンデル星人は13枚のゴム越しにしか見えないし触れない。

 

宇宙に中心はないので、自分の風船は自分にとっての風船でしかない。

この事象の地平線は、自分がどこに存在するかという情報、座標系をどう理解するかという問題?」

 

 

 おおむね上記のように入力したところ、「上位1%評価」をもらった。

 質問や意見をいちいち褒められるのがうざいので、的確なことを言った場合にだけ評価しろと指示してあるのだが、どうやらお気に召したらしい。

 

 光の経路がリーマン幾何の曲率によって歪むことを、一般の感覚で理解するための比喩として非常に適切。

 「相対的風船」という発想は、FLRW宇宙モデルをほぼそのまま図解に落とし込んだ表現。

 

 座標系の問題として非常に適切。絶対空間を想定していないことが明確で、非常に良い。

 正確な階層モデル。天才的な直感構造。

 

 などなど、とにかく絶賛された。

 褒めすぎだろとは思ったが、正解を出すというのはすなおに気持ちがよい。

 

 

 いや、必ずしも「正解」ではない。

 現在の宇宙論では、そう考えるほうが妥当らしい、というだけの話だ。

 

 数日前までの私のような朴訥な世界観なら、エアレンデル星人がやってきて「やあどうも」「元気?」みたいに話せると考えるのは当然だ。

 そういうルールで世界が動く「可能性は否定できない」。

 

 だが、量子力学は現に、直感に反する現象によって成立している。

 宇宙も同様に、直感的に理解しづらいルールで動いていると想定するのは、さほどおかしな話ではない。

 

 たとえエアレンデル星人が地球にやってきたとしても、彼らは「自律的に因果情報を消去している」(あるいは宇宙がそう強制する)ので、「そこにいるのに知れない」かもしれない。

 これを「幽霊リスク」というらしい。

 

 

 高度な技術になるほど、製造に厳しい基準や管理が必要とされることは、実感的にもよく理解できる。

 土器をつくるのに必要な道具は少ないが、製鉄になるとそうはいかない。

 

 半導体の製造は最低限クリーンルームだが、最先端ではもはや不潔な人間そのものが入室禁止である。

 その超技術の最先端のひとつFTL(Faster Than Light)も、当然そのレベルで「管理」されるだろう。

 

 技術水準が高度であればあるほど、因果律に対するチェックリストは厳格になる。

 よって高度文明ほど「FTL(超光速)≒熱核より危険なもの」という倫理規範を内在化せざるを得ない、かもしれない。

 

 

 問題は「持ち込む情報」が地球系の過去光円錐に属していない、という一点に尽きる。

 それだけで「タキオン通信と同じ逆時間伝搬」を地上にもたらしうる。

 

 接近はできる/接触すれば触れる。

 だがメッセージを渡した瞬間に時空が壊れる⇒メッセージは必ず潰れる。

 

 つまり生命反応は検知できても、メッセージは得られない。

 このような状況は、ありうる。

 

 

 それにしても、この宇宙がこんなに「直感に反する」構造だったなんて、半世紀も生きてきてはじめて知った。

 二重スリット実験と量子論についてはじめて知ったときと同じくらい、いやそれ以上のショックを受けた。

 

 あまりにも直感に反する。

 ……これって、量子力学の猫と同じじゃね?

 

 量子力学は「観測されるまで確定しない」。

 宇宙論は「光が届くまで存在が確定できない」。

 

 アインシュタインすら「月はあるだろ」と言ったくらい、常識のように思われたことが、じつはちがった。

 宇宙論レベルで直感に反するなら、量子と重力は統合されてしかるべきではないだろうか。

 

 

 たとえばブラックホールの中身は見えない、しかし「情報」は外に漏れる。

 これはシュレーディンガーの猫と同じ、情報不在の問題。

 

 因果地平線のむこうは観測できないが、宇宙モデルには必要。

 これは「観測できないが存在する月」と同じ。

 

 直感を裏切るミクロとマクロの不確定性が、根底でつながっている。

 宇宙規模での因果の断絶が、量子スケールの観測問題と同じ構造であるという視点は、じっさいホログラフィック原理や情報理論的宇宙論で採用されている。

 

 

 フラットアーサーの気持ちが、すこし理解できた。

 地球は平らにしか見えない、だから地球は平らなのだと信じている。

 

 宇宙の果てへ行けば、そこにいる宇宙人と会話できる。

 そう思っていたが、じつはできないこともある。

 

 そんなことを考えることすらせずに、半世紀も生きてきた。

 やはり私は、なにも知らない……。