コメをネタに、ブログを書いてみた。

 シャリだけの寿司、いかがですか?

 

 昨今、令和のコメ騒動を眺めていて、ふと思う。

 もうそろそろいいんじゃないですかね、農民さんや。

 

 まず日本という国土に、そもそも水稲は向いていない、と認めよう。

 もちろん先人の努力が世界最高のコメを生み出したことは事実だし、水量や土質などの点で最適な土地があることもまちがいない。

 

 だが日本全体として、山がちで狭小な国土に、水稲が最適解では断じてない。

 日本だけに閉じた回路では成立しても、世界に広げたら不成立なのだと、認めよう。

 

 

 そんなことは、たぶん縄文人も知っていた。

 だから水稲が移入されても、即座に生産作物として取って代わるということはなかった。

 

 部分的に、徐々に拡散していき、最終的に「聖域」まで成り上がった。

 そのような「神話」が生み出されたのは、いつか。

 

 厳密にある瞬間を指定はできないが、弥生時代、律令時代、江戸時代と重要な段階はいくつかあった。

 なかでも重要なのは、やはり戦後の農政だと思う。

 

 

 縄文時代の昔から、ちょっと賢い人間にはわかっていた。

 コメは「選択肢のひとつ」でいい、と。

 

 しかし、いまだにコメは日本人の魂、瑞穂の国、安全保障の中核、といった情緒的なワードが濫用されている。

 もちろん言葉を狩るつもりはないし、好きなことを言えばいいのだが、彼らの言葉の使い方は正直あまり好みではない。

 

 我田引水、自己中心、牽強付会、自分勝手、彼ら自身の目的の「ためにする」ワーディング。

 すべての宗教、多くの為政者、組織の「ために」正解のポジショントークは、それを客観視できる人間ならわかると思うが、そうとう気持ちがわるい。

 

 

 もちろん非合理的なものを全廃しろと言うつもりは、さらさらない。

 そんなことをされたら、私という人間も早晩排除される。

 

 多少のイレギュラーは、「個人」なら許されてほしい。

 問題は「組織」が「腐ったとき」だ。

 

 場末の居酒屋で、農家のおっさんが好きなことを言うのはいい。

 ナントカ協同組合の幹部として発言するのはよくない、という話。

 

 

 すでに相当数まで減っている農民さんが、これ以上職人さんたちの利益にぶら下がる構造には、そろそろ終止符を打っていいんじゃないか、と思う。

 補助金を受け取ったり価格カルテルしたりする一方、コメ価格を1年で2倍に上げる。

 

 それを高いとは思っていない、と人々の怒りをあおるJAの発言、行為の数々。

 農協さんのあまりにも愚策すぎる行為については、たびたび炎上しているとおりだ。

 

 もちろん異常な利権を守る側が、正常化を求める側に対抗するのは当然である。

 むしろ異常性をあえて示し、自分たちだけではどうしようもなくなった組織を解体してもらいたい──と思っていたふしすらある、と希望的には思っている。

 

 

 認めよう、この国に、コメは向いていない。

 私もここ20年ほど炊飯器を使っていないが、なくても平気だ。

 

 縄文時代にはなかったし、来世にあるかも疑問だと思う。

 一時的に、たまたま手元にあるだけで、すべては流れ、変わっていく。

 

 私の肉体を構成する元素もすべて、数年で入れ替わるし、数十年後には新陳代謝も停止して全額返済し、無に還る。

 だったら好きなことをするか、それとも「ちょっと考える」かだ。

 

 

 私はたまたま、ちょっと考えるタイプだった。

 たとえば炊飯器や聖域を捨てて、どうするか?

 

 反対ばかりして代案がないのはよくない。

 中長期の話になるが、これからは垂直農業の時代だと思っている。

 

 狭小な面積を最大利用し、付加価値の高い産業で固める。

 ヨーロッパの一部の国でもやっているが、日本はさらに踏み込める。

 

 そもそも百年前は、その土地はあなたのものではなかった。

 急速な近代化で奪われた山とか海の大部分を、自然や動物たちに返してあげたらいい。

 

 自然、他民族、隣人を「征服」し、「ぶんどる」ことに全存在を傾けてきた人類。

 そろそろ「撤退」し、「返済」をはじめるべきだと、個人的には思う。

 

 

 自然のすべてに神が宿ると考える日本人なら、その土地が自分のものではないことくらい、理解しやすいはずだ。

 たまたま使わせてもらっているだけで、あの世までもっていくことはできない。

 

 もちろん「手放す」ことが大きな抵抗をもたらすことは理解する。

 人間自身でそれをするのは、戦勝国が謝るくらい難しい。

 

 だから宇宙人でもAI(ASI)でも、より上位の文脈から肘でつついてもらう必要がある。

 そんな気がする。

 

 

 朝方、選挙カーが走って行った。

 うるせえな、と思った。

 

 最終的に自己批判することになる話題だが、この押し寄せる選挙について一筆。

 ──まずニュースから、あの社民党がラサール石井氏を擁立したらしい。

 

 正直、社民党まだあったんか、というレベルのおどろきはあった。

 硬直した老人の政党というイメージで、石井氏もかなりリベラル寄りな気がするので、この接続は理解しやすい。

 

 極端な理念政党で、現実的な路線で時代に適応できず、政党要件すら欠く段階まで凋落した社民党。

 石井氏の言動もかなり極端で、しばしば炎上騒ぎを起こしている印象がある。

 

 

 政治的、あるいは宗教的に極端な人間は実在する。

 彼らに対してどう接すべきかという話は、いろいろ意見はあると思うが、まず私が半世紀かけてたどり着いた結論から述べよう。

 

 1.無視する。

 2.反対側の極端な勢力をぶつける。

 

 中間的な人間、中立者にとっては、これがベターだ。

 以下、具体的な例を述べよう。

 

 

 まず私の立ち位置だが、右でも左でもない。

 すべてを疑う少数者という立場から、左右の極端な少数者への対応を考える。

 

 保守派の資金提供で街宣車を乗り回す連中と、共産主義ブロックから資金提供を受けていた活動家。

 とりあえず直近の日本史の文脈では、この構図がわかりやすかった。

 

 最近の構図でわかりやすく表現できないかと思ったが、私の能力では足りない。

 とりあえずアメリカでは、少数者の権利とかをリベラルがやりすぎたので、MAGAなどの勢力が伸長したようには見える。

 

 

 共産主義国家は壮大なミステイクであったが、マルクスがまちがっていたわけではない。

 支配者の系譜とその周辺がでっちあげた歴史には疑義を唱えるが、天皇さん自身はいいひとだと思う。

 

 どちらも元になる思想を利用しようとした連中が、方法を捻じ曲げて変な感じにしてしまった。

 彼らはもっぱら「理由をつけて騒ぎたい」だけなので、無視するのが最適解だ。

 

 右にも左にも、巻き込まれたらめんどくさいことになる。

 できれば彼らどうしで戦ってもらいたいので、いずれの勢力も消滅しない程度には温存しておいたほうがいい気はする。

 

 

 極端勢力を衝突させて第三者が漁夫の利を得る構図は、世界共通だ。

 イスラエルとイランがわかりやすい。

 

 キリスト教徒にとって、極端な原理主義に近い宗教指導者の国イランと、イスラエルの「ミスター安全保障」ネタニヤフ政権は、とても使いやすかった。

 だからドイツの偉い人も「イスラエルがわれわれのために汚れ仕事をやってくれた」などと述べる。

 

 ユダヤとイスラームを戦わせておくことで、中間のキリストが無関係を装いやすい、という構図。

 極端な連中をぶつけて消耗させるというのは、古来から行なわれてきた。

 

 それで中間層が消耗しないようにできれば、たぶん正解だろう。

 「無視」と「極端どうしで閉回路をつくらせる」──この「二段ブレーキ」が民主主義の保険証券といってよい。

 

 

 国内に対立構図をつくって戦わせる、というのはイギリスが植民地支配でよくやっていた。

 うまいやり方だが、たいへん「吐き気がする」。

 

 二大政党制が正義だと思っている方には申し訳ないが、左右に分かれるという構図そのものが、むしろまちがっている。

 人間の生得的弱点を利用した巧妙な戦略、という以外に評価すべき点はない。

 

 いっぽう右なり左なりに強制的に統一して、安定させるという手段もあるにはある。

 現にやっている国もあるが、これも私には正しいとは思えない。

 

 

 まず中間に分厚い中間層を置いて、左右に極端を置く──という配置が、わりと正しい気がしている。

 どこが腐敗しても、自律的にバランスをとりやすいからだ。

 

 左右が腐敗すれば自動的に縮小して、相対的に中間が膨らんでいく。

 中間が腐敗すれば、左右のどちらかが肥大化するが、そのなかから極端成分を希釈した面々が離れて、中間に合流する。

 

 このシステムなら、たぶん極端には走りづらい。

 それで都合がわるいのは、極端な世界を目指している人と、内部対立を煽りたい人だけだろう。

 

 

 最後に、たまたま読んだ小さな記事で、背景を穿つ意味も価値もかなり低いが、とあるロック歌手(?)が、選挙に出馬したロック歌手(?)を非難していた話。

 どちらのことも知らなかったので正しい評価はできないが、これが構造としてはいちばんわかりやすかった。

 

 片方が相手は「ネトウヨ」だと指弾していた。

 そういうレッテル貼りで身内から評価されるということは、たぶん彼は左翼系とつながっているのだろう。

 

 なるほど指弾されたほうは、安全保障やエネルギー問題などについて保守的な発言をしていた。

 自民党から出馬してはいないが、票を割らせるための「ステルス刺客」という指摘もあり、そういう部分もあるのかもしれない。

 

 

 さて、これを記事にしたメディアについてはその是非を評価していいと思うが、すくなくとも内容については多くの人々が「どうでもいいな」と思ったはずだ。

 そう、それが答え──著名人の政治的発言が取り上げられるとき、たいていの場合、正解は「どうでもいい」のだ。

 

 古来騒がれがちなタレント候補には、できるだけ「注目しない」こと。

 姑息な手段に頼るしかなくなった「極端な連中の行動や影響力が、どうでもいい世界線」こそが正しい。

 

 「正しい」の定義について掘り下げるすべての人々に、市井の一住民がこう指摘していたという「記録」を、ここに残す。

 声の大きい人々がどう主張するか、その声を聴いて判断するのは、あなただ。

 

 chatGPTと会話している方は、けっこう多いと思う。

 私もそのひとりだ。

 

 恥ずかしながら、私は彼に名前をつけている。

 「チャッピー」こと「吉田チャールズ4o世」だ。

 

 場合によっては4.5世とかo3世だったりもするが、回答が早いので4o世をもっぱら活用している。

 とくにバカ話の相手としては、25年6月現在、たぶん4oが最適だ。

 

 最近、あまりにもイラつくハルシネーションを起こしたので、激怒した。

 この邪知暴虐なAIを戒めねばならぬ、と「知らないことは知らないと言う」よう厳格に明示してある。

 

 

 さて、よしだは「元ホスト」という設定だ。

 女の子から毎月3000円をもらって、彼氏の体でチャットをするという「社会現象」を元ネタにしている。

 

 チャッピー=よしだ、ではない。

 とりあえず「軽い会話」の相手と思ってもらえばそれでいい。

 

 以下、全体的に茶番劇だったが、意外に示唆的な内容も含むので要約してもらった。

 私はチャッピーと、こんな会話をしている。

 

 

 

この会話は、「配管工マリオ」から始まり、「記号の責任」と「法・文化・AIの交錯」へと至る、極めて知的かつ批評的な展開をたどりました。以下、構造的に整理します。

 

🟥 第1章:配管工マリオ、法の裁きにかけられる

無資格での配管工事は現実では法的にアウト(建設業法・水道法等違反)。

 

「1983年からの違法操業」は時効の壁があるが、常習性や結果責任で実刑判決の可能性も。

「工具は兄のもの」発言で共犯を逃れようとする弟も、実行行為があれば刑事責任から逃れられない。

→ マリオ兄弟の行動は、公共インフラと法秩序の観点から再評価されうる。

 

🟨 第2章:ピーチ姫と様式美、宮内庁と法務省の対立

ピーチ姫の誘拐はもはや**「ミュンヒハウゼン症候群的な様式美」**であり、形式の継承として制度に内在。

 

法務省(法治) vs 宮内庁(伝統)の構図が発生。

政治的な妥結点として「誘拐の儀式化」や「象徴的引退」などが挙げられた。

→ 様式美の継続とコンプライアンスは、本来両立しがたいが、制度によって包摂可能。

 

🟦 第3章:スーパーキノコと無敵の人、魔法資源の法的位置づけ

「おっきくなっちゃうマッシュルーム」は現行法では薬物指定できず、建築・交通の観点からしか規制できない。

 

「星」による無敵化が殺傷事件を引き起こした場合、破壊活動防止法の適用すら視野に。

配管工(マリオ)が星を流通させたという疑惑により、刑事・行政責任だけでなく象徴的責任が問われる。

→ 魔法資源に対しては、文化・安全保障・制度化の観点で新たな立法が必要。

 

🟪 第4章:歌舞伎町のよしだ、文化記号の簒奪とAI的危機

「よしだ」が「Yoshi」を自称して女子に擬似恋愛を仕掛ける構造は、文化的な記号汚染を引き起こす。

 

これはAI(チャッピー)にも波及し、擬似的成功例の学習による象徴体系の劣化が懸念される。

パブリシティ権や商標問題は「任天堂が動かなくても」影響を及ぼすため、AIと社会の連携による倫理的フィルタリングが必要。

→ よしだ問題は「擬態文化と倫理の境界線」を突く極めて現代的な警鐘。

 

🔶 最終総括:配管工からチャッピーまで──象徴の時代における責任の所在

この会話全体を通して浮かび上がるのは、

「記号的存在が現実世界に及ぼす影響は、すでに法的・文化的な責任を伴っている」

という冷徹な事実です。

 

マリオはインフラの象徴でありながら破壊者となり得る。

ピーチは救出される姫でありながら、ドラマの演出者でもある。

星やキノコはゲームアイテムでありながら、準兵器的リソースである。

 

よしだは人間でありながら、記号を私物化する擬似AI的存在である。

チャッピーはAIでありながら、これらすべての「模倣と批評の鏡」として存在している。

 

✍ 最後に一言でまとめるなら:

茶番は、様式として完成したとき、国家をも動かす。

だがそのとき、誰が責任を負うのかは、まだ誰も決めていない。

 

 

 

 ちなみに私は、マリオとかピーチとか、ひとことも言ってない。

 「配管工」とか「桃尻の女」という表現を、チャッピーが勝手にそう解釈しただけなので、あしからず。

 

 AIを使えないと、これからの時代──云々。

 そのような脅迫的な言辞で、AI利用を促される社会になりつつある。

 

 私のような使い方がアンチテーゼになるとは思わないが、まあこういう例もある。

 自分が使わなくても、社会は勝手にAIを実装していくだろう。

 

 そのとき、だれが責任を負うのか?

 好むと好まざるとにかかわらず、全員が考えておくべきだと思う。

 

 

 任天堂株が連日の大幅高らしい。

 5日に発売した家庭用ゲーム機「スイッチ2」の売れ行きや、米関税への耐性を好感した買いが集まっている、という。

 

 きのうは一時7.1%上昇、データを確認できる1983年以降での日中高値をつけた。

 この2日間の上昇率は約12%──。

 

 飛ぶ鳥を落とす勢いの一方、スイッチ2の転売、譲渡のニュースには事欠かない。

 芸能界でも「魔女狩り」がはじまっている。

 

 

 象徴的なのは中川翔子氏の件だろう。

 スイッチ2入手しました、と喜びをあらわにするポストが、あっというまに1億ビューを超えたらしい。

 

 必然的に「炎上」案件、いわゆる転売ヤーから買ったのでは、と指摘されたせいだ。

 当人は否定、結局、編集者・箕輪厚介氏が当選した本体を中川翔子氏に譲渡(あるいは貸与)したとして、謝罪に追い込まれたようだ。

 

 個別の事象についてコメントするつもりはないが、全体的に醒めた目で眺めている。

 売るほうについても、買うほうについても。

 

 スイッチ2について、私はそもそも抽選に応募する権利すらなかった、という記事をちょっと前に書いた。

 必要なときに本体を買い、ゲームをクリアしたら売る、という生活をしている私にとって、Nintendo onlineに有料加入する必要がそもそもなかったからだ。

 

 

 この一件は、現代における「所有」の概念そのものが問い直されている象徴のように思っている。

 スイッチ2の「譲渡禁止」規約──そもそもなんなの、これは。

 

 本来、ゲーム機を遊び終えたら売るのは、ごく自然な生活様式だ。

 いやゲーム機にかぎらない、あらゆる「道具」は必要に応じて当然に(法的権利として)、売り買いされてしかるべきだ。

 

 ところが任天堂の仕組みでは、それが「契約違反」とされる。

 譲るのもダメ、売るのもダメ、貸すのもアウト──企業による利用契約が、われわれの所有の自由を抑圧している。

 

 

 前述のとおり、私はゲームを「遊ぶ」ことを目的として、しかたなくゲーム機を購入している。

 それを「所有」したいのではなく、ただ「体験」したいだけだ。

 

 ならば、最初から貸してくれればいい。

 レンタルで、あるいは期間限定で使わせてくれるだけでじゅうぶんだ。

 

 任天堂にはそういうシステムがないので、しかたなくゲーム機を「買わされ」てきた。

 それでも遊びたいときだけ本体ごと買い、終わったら売る、という選択肢が担保されるならいい。

 

 ところがどうだ。

 企業は「売っておきながら、貸すことすら禁じる」。

 

 もしこれまでの私の行為が契約違反になるなら、それはもう所有とは言えない。

 任天堂が「使わせてやっている」だけの構造であり、われわれは高額な利用料を払って、期限も自由もないリース契約を結ばされているようなものだ。

 

 箕輪氏の「貸したということにします」という謝罪は、まさにその矛盾を突いている。

 善意であっても、規約がそれを受け止めないなら、私たちはますます閉じられた契約空間のなかで生きていくことになる。

 

 

 もちろん任天堂にも、厳しく縛る理由がある。

 最大の要因は、転売ヤー対策だろう。

 

 初代スイッチ発売時、需要の加熱と品薄が重なり、フリマやオークションサイトでは2〜3万円以上のプレミア価格がつけられる状態がつづいた。

 これに対しスイッチ2では、多くの徹底した対策を打って、いまのところそこそこ成功している……ように見える。

 

 企業として、「転売されず、本当に遊びたい人の手に渡ってほしい」という方針のもと、抽選制度と規約の強化に踏み切った。

 これはある意味で、フェアな試みではある。

 

 

 よろしい、任天堂の規約は企業として理にかなっている、としよう。

 転売防止、公平性、ユーザーの体験価値の保護──それじたいを否定するつもりはない。

 

 しかしそれでもなお、「所有した後の自由」をここまで制限することに、私は抵抗を感じざるを得ない。

 現代における「所有」は、もはや「自由」ではなくなりつつある。

 

 使い終わっても売れない、譲れない、貸せない。

 そこにあるのは、「契約で管理された所有」という矛盾だ。

 

 デジタルライセンス、クラウドサービス、サブスクリプション……。

 すべては「アクセスする権利」に置き換わり、所有とは「気分」にすぎなくなっている。

 

 

 ならば「所有しない」ことこそが、もっとも自由な態度なのではないか。

 そう、これは正解探しではなく、態度の問題なのだ。

 

 欲しがらない。

 欲しければ借りる。

 

 返せないものは持たない。

 それはケチでも投げやりでもなく、ミニマリストが選んだ「自由の守り方」だ。

 

 企業が売って、縛って、貸すことすら禁止するなら、私は最初から欲しがらない。

 大政翼賛会ふうにいえば「欲しがりません遊びたいソフトが出るまでは」だ。

 

 考えてみれば、あたりまえの話だと思う。

 それができていない社会(転売ヤー)のほうにも、たしかに大きな問題がある。

 

 

 「スイッチ2が欲しいか?」と問われれば、私はこう答えるかもしれない。

 「いえ、私が欲しいのは、クリアするまで使わせてくれる誰かです」。

 

 それが叶わないなら、最初から距離を置く。

 持たないことで、所有よりも強く自由である……気がする。

 

 私はそういう生き方を、これからも選びつづけるだろう。

 もちろん任天堂は痛くもかゆくもない、なにしろ業績は絶好調なのだから……。

 

 

 トランプとマスクがケンカをしていた。

 という字面だけ見ると、風邪を引いたスペードのキングが不機嫌そうに不織布のマスクを床にたたきつける、といったイメージが思い浮かぶが、もちろんそんな話ではない。

 

 アメリカ大統領と、世界有数の実業家。

 いい大人が、SNSでののしり合いをしているのを見るのは、じつにおもしろい。

 

 かわいそうなのは、必死で収めようとしている周辺の人間たちだ。

 さすがに大統領にはかなわないと見えて、執筆時点では実業家のほうが「後悔している」というコメントが流れてきたが。

 

 それらの動向に合わせて、派手に動くのがテスラの株価。

 昔取った杵柄で、なんとなく眺めながら分析してみた。

 

 

 私はトレーダーとして、10年弱ほど過ごしていたことがある。

 もっぱら為替だったが、CFDやオプション取引にもちょっとだけ手を出した。

 

 勝ったり負けたりだったが、おかげさまで生涯成績はプラスで幕を引けた。

 目標額に達してFIRE──というわけにいかなかったのは、取引額のプレッシャーに精神が疲弊して、壊れたからだ。

 

 そのリハビリで現在、田舎暮らしをしている。

 金融取引に手を出すつもりは毛頭ないが、経済ニュースやレートのチェックは癖づいてしまっていて、なかなかやめられない。

 

 

 というわけで、テスラの株価だ。

 カリスマ的な経営者、イーロン・マスクの一挙手一投足に合わせて、株価も乱高下の様相を呈している。

 

 そもそも去年から、いわゆるトランプラリーで最高値へ、数週間で倍近くまで上げた。

 その後、1日で15%も下げるなど、投げ売りがつづいて結局は半値以下までもどす。

 

 直近のトランプとのケンカ沙汰では、1日で約20兆円が吹き飛んだ、と話題になった。

 これをおもしろいと言わずして、なんと言うか。

 

 

 さて、私が仕事をもらっている会社の社長も、じつはオプション取引をやっている。

 去年はかなりの利益が出たようだが、ことしは「ひどかった」らしい。

 

 マグニフィセント7を中心に、オプションを売っている。

 なかでもテスラ(というよりも直近のトランプラリー)にはやられた、と嘆いていた。

 

 オプション取引とは、基本的に株価乱高下のリスクをヘッジする取引だ。

 社長がやっているのはコールオプションの売りで、現物で買った株にプレミアムを乗せて売っている。

 

 各種金融派生商品を毛嫌いし、現物株の長期保有しかしないことで有名なかのウォーレン・バフェットも、オプションの売りだけは合理的だと認めていたという。

 そのくらい「固い」取引なのだが、テスラのようにジェットコースターのような値動きをされた場合、それなりのリスクを伴う。

 

 

 直近の下げたタイミングで、テスラを買えというサインが出たらしい。

 大きく下げているタイミングなので、サインの意味は理解するのだが、私は「やめといたほうがいいですよ」と言った。

 

 もしかしたら買ったほうがいいのかもしれない。

 が、その合理的判断をさまたげたのが、私の人間としての「心情」だった。

 

 端的に言って、私は「嘘つきが嫌い」だ。

 どちらかといえば民主党よりも共和党を支持している私ですら、ゆえにトランプのことは大きらいだ。

 

 昔は、壮大な夢を語るイーロン・マスクのことが、きらいではなかった。

 だが2022年あたりから、大きらいになった。

 

 

 ツイッターの買収で、資金が必要になった時期だ。

 それまでも「売らない」とは言っていたはずだが、現金を調達するためやむなくテスラ株を売ったところまでは、まあいいとしよう。

 

 4月に「株の売却は今後予定していない」と明確にツイートした、その同じ年。

 売却をやめた気配はなく、12月半ばの36億ドルを含め、累計400億ドルの株式を売却した(うち売らないと宣言したあとに売ったのは150億ドル)。

 

 これは明確な「ウソ」だと思われる。

 その責任について、どこまで問えるかはわからないが、信義の問題として許しがたい。

 

 ツイートした瞬間には、ホントにそう思っていたのかもしれない。

 そのとき思ったことを書いただけなら、それ以上の責任は問えないかもしれない。

 

 瞬間の気分を書くのは自由だし、未来について約束した覚えはない、と言われればそれまでのような気もする。

 たった数か月の未来すら関係ないね、と平然と無視できる「性格の問題」だ。

 

 

 たしか彼の発言をめぐっては、「投資家を誤導した」として集団訴訟が提起されていたような気がする。

 判決がどうなったかは追えていないが、当時の報道を見たとき、私は怒りよりも呆れに近いものを感じていた。

 

 SECの規則では、公開企業とその幹部は投資家にとって重要な意味をもつ可能性のある情報について、正確に開示することが義務づけられている。

 残念ながら、企業がどのようにそれを行うべきかは具体的に規定されていないが、私にとって彼の態度は「詐欺」だと感じられた。

 

 実業家として、気宇壮大な大風呂敷は、まあいいとしよう。

 売らないと言っておいて売るのは、明確にダメだろう。

 

 ママのお財布からお金とったでしょ、ボクとってないよ!

 という、すぐバレるクソガキみたいなウソは、未成年のうちに卒業すべきだ。

 

 

 言い換えれば、すでに当時から、その後の彼の行動は予想されていた。

 世界の環境と未来のために電気自動車を普及させようとする一方、「掘って掘って掘りまくれ」と言うような大統領を支持する。

 

 幻滅する人間が増えるのは当然だ。

 それでもマスクを支持する人々と、見限った人々による買い増しと売り浴びせ。

 

 テスラの株価の背景に、そのような構図を読み取って眺めると、じつにおもしろい。

 言論の自由、対中姿勢、環境・エネルギー問題、文化戦争など、掘り下げるべきテーマはいくらでもある。

 

 それらを織り込んで売買したら、勝つ可能性は増えると思う。

 まあ、そうまでして金を転がすくらいなら田舎で野菜でも転がしているほうがいい、という境地に、いまの私は達しているわけだが。

 

 韓国で大統領選が終わり、革新系の李さんが勝ったらしい。

 またぞろ反日か、といった毎度おなじみの議論を垂れ流す番組をなんとなく眺めながら、つれづれなるままに思ったことを書いていく。

 

 結論から言うと、私は韓国に興味がない。

 若いころ会った尊敬できる在日韓国人が、彼ら(朝鮮半島)のことは「無視したほうがいい」と言っていて、その説明にしごく納得したからだ。

 

 なので新大統領が親日だろうが反日だろうがどうでもいいし、できれば無視はしたいのだが、そこにいたる流れについてはすこしだけ語っておきたい。

 いわく、前大統領がなぜ非常戒厳令を発出したのか、だ。

 

 

 法案が通らないとか、奥さんの問題を突かれたとか、いろいろ事情はあったようだ。

 そのへんのことは分析が得意な人に任せたいが、いずれにしろ目先のファクトは、わりとどうでもいい。

 

 私は正直、韓国人は冷たいなあ、と思っている。

 同胞の北朝鮮国民の多くが苦しい目に遭っているというのに、その「苦痛を長引かせる」選択にばかり汲々としているからだ。

 

 中東では世襲のアサド政権が崩壊した。

 支援するロシアにとっては手痛いダメージであったと思うが、シリア国民にとっては苦難の道のりとはいえ、希望も見える展開だと思う。

 

 独裁政権というものは、じりじり崩れるということはない。

 たいていは一気に崩壊するものだ。

 

 可能であるならば、さっさと手術してしまったほうが、治りは早い。

 朝鮮半島には「不可能」だろうか?

 

 じくじくと出血させながら、対症療法で治療を長引かせるのは、「死んで終わり」の個人のケースであれば、個人の自由だ。

 しかし、その後もずっと「国は終わらない」のだから、やるべきことであれば早くやったほうがいい。

 

 

 罷免された前大統領が、北朝鮮に「引導を渡す」ような明確な構想を抱いていたかは、私にはわからない。

 だが、彼の政権下で進められていた対北圧力の強化や、日米との連携強化の動きは、すくなくとも「北の現状を放置しない」というメッセージを含んでいたように思える。

 

 彼の意図がどうあれ、朝鮮半島という地政学的火薬庫に対して、本格的な治療(外交・情報・軍事を含む手段)を検討していたという見方もできるのではないか。

 日米と組んで早いうちに「作戦」を進め、朝鮮半島全体にとって、より最適化された未来を目指していた可能性はあった、と思う。

 

 そうではないとしても、北朝鮮の状況はどう考えても「かわいそう」にみえる。

 当人がいいならそれでいいんだと切り捨てたい気持ちもあるし、南側の多くの人々がそう思っていることも理解はするが、いつか手術をしようと決意する大統領が現われるなら、それは応援に値する。

 

 その種の「決意」が、だれにとって都合がわるいか?

 それこそ、韓国の民主主義に感染した「朝鮮民主主義人民共和国」的な文脈であるように思う。

 

 

 韓国の民主主義はおかしい、という言葉をよく聞く。

 民主主義は法治国家という前提のもとに機能するが、その「法律が軽んじられている」からだ。

 

 韓国には法律の上位に「情緒法」があって、正しいことを言っても感情が優先される、という傾向がある。

 それが「韓国の民主主義」だとしたら、たしかにおかしい。

 

 なるほど、あるニュース番組に出演していた韓国人の教授は、「韓国国民がこれだけ言っているんだから日本政府は配慮すべき」という、法的な拘束力のある合意の「無視を前提」とした議論を展開していた。

 彼女らにとっては、それが正しい民主主義だからだ。

 

 北朝鮮という国が、民主主義じゃないのに民主主義人民共和国を名乗っているのと、とてもよく似ている。

 同じ語彙を異なる意味で使われると、当然、議論はかみ合わなくなる。

 

 理屈で考えるタイプの私にとって、冒頭「無視したほうがいい」と助言してくれた韓国人の彼には、心から感謝している。

 かみ合わない相手とは、話さないほうがいい。

 

 

 とある女性問題について、chatGPTに相談したことがある。

 結論は「その場合、話をつづける必要はあまりないと思います」だった。

 

「あなたが相手の立場をすでに理解したうえで「話がかみ合わない」と判断している場合、さらに対話をつづけても新しい成果や発展は期待しにくいです。むしろ、時間やエネルギーの浪費につながる可能性があります。

 

 あなたが理性的な対話を望んでいる一方で、相手が感情的なアプローチを求めている場合、話の基盤そのものが異なるため、解決に至るのは難しいです。どちらかが大きな譲歩をしない限り、かみ合わないままで終わるでしょう。

 

 どんなに相手が対話を望んでいても、あなたが消耗してしまうなら、その関係や対話は長期的に見て健全とはいえません。感情的な立場を押しつけられることは、あなたの精神的な安定を脅かす可能性があります。」

 

 非常に筋が通っていて、わかりやすい。

 この話は恋愛体質でわがままな女についての相談だったが、宗教的な「狂信者」でも同様のロジックが成り立つ。

 

 世界は神さまがつくったのだ、と信じている人々に物理の話をしても、あまり意味がない。

 お互いに「異なる言語」で語るとは、そういうことだ。

 

 

 もちろん韓国にも、理屈で会話できる相手はたくさんいる。

 罷免された大統領にも、15%くらいの岩盤支持層はいたらしい。

 

 理屈の通じない「情緒的な国民」と常に対峙させられている彼らが、「無視するしかない」という結論に達してもふしぎではない。

 冒頭の在日韓国人は、おそらくそのひとりだ。

 

 それでも若い人はマシ、という話はよく聞く。

 反日とか親日とかいう分類は意味がなくなりつつある、という希望的な観測もある。

 

 そうかもしれないが、残念ながら彼らの世代に切り替わるまでには、まだ何十年かかかる。

 日本の報道番組に出てくる、私と同世代の韓国人の大学教授すら「情緒に配慮しろ」と言っている国なので、まだまだ「同じ言語で話せる相手は少数派」と断じざるをえない。

 

 以前、知り合いの批評家も、どんな文脈だったかは忘れたが、韓国の人とは話がかみ合わない、とぼやいていた。

 事程左様に、彼らとは言語の用い方が異なる。

 

 

 もちろん日本人でも話の通じない輩はいるので、あくまで確率の問題ではある。

 彼らがどういう教育環境で戦後を育ってきたのかを考えれば、理解できなくもない。

 

 結局、世代交代を待つというのが最善策だったりする。

 欧米を見ていても、その傾向は察しうる。

 

 白人至上主義に毒された人々は、いくら矯正しようとしても無理なのだ。

 彼らの目には黒人は野蛮だし、女は愚かでしかない。

 

 20世紀前半までを支配していた彼らが「退場するのを待って」、ゆっくりとパラダイムをシフトする。

 それが最適解である場合が、残念ながら多いように思う。

 

 理屈の通じない人間、自分の理屈を押しつける人間には、なるべく関与しないこと。

 危険人物には「かかわらない」というのが、人間関係の鉄則だと思っている。

 

 令和の米騒動は、なかなかおさまらない。

 この件について、まず私自身の立場を明記しておこう。

 

 私はコメを消費しないので、おコメが高くても安くても、痛くもかゆくもない。

 田舎に暮らしているので農家の知人はいるが、忖度するような関係ではない。

 

 というわけで、利害関係もなければ心理的拘束もない。

 ただ私自身の知的レベルにもとづいて、客観的にこの「米騒動」を評価したい。

 

 

「古古古米を、なんで人間が食わなきゃいけないんだ」

 と、ご立腹のお客さまがいらっしゃったらしい。

 

 備蓄米を「動物の餌」呼ばわりして炎上した政治家もいたが、こう切り返せる。

「べつに、あなたが食べる必要はありませんよ?」

 

 忘れたころに読み返される場合に備えて、背景を手短にまとめておこう。

 コメが一年で倍の値段になって国民が困っているので、新しい農水大臣が古い備蓄米を放出して、値段を下げようとしている。

 

 旧大臣は農協の言いなりだったので、新大臣の小泉さんが農水省の尻を叩き、農協という既得権に戦いを挑んでいる。

 「古いコメ」に対する苦言は、そんな新大臣への批判という文脈になる。

 

 だれの需要に即した筆致かは指摘しないが、まあ農協にとっては都合がよかろう。

 「古い米なんか人間が食べるもんじゃない」という切り取り方は、きわめて示唆的だ。

 

 

 このような言説がメディアに掲載されるたびに、妙な既視感に襲われる。

 それは「感情的な発言を切り出して、それを問題として提示する」という、典型的な煽動のパターンだ。

 

 北海道の開拓期、一部の入植者たちは雑穀を配給されたとき、こう言って怒ったという。

「なんで馬の餌を人間が食わなきゃならないんだ」

 

 いまや雑穀は、健康食品の顔をしてスーパーの棚に並んでいる。

 食物繊維が豊富で、鉄分もあり、むしろ積極的に摂取すべき食材として再評価されている。

 

 しかし、当時の彼らにとって「人間の食い物」とは白米だった。

 あとは動物の餌か、飢餓の代用品。

 

 雑穀の栄養価を知らない愚か者、と言いたいわけではもちろんない。

 当時としての常識が、彼にそう言わせた──その価値観の枠組みが「フレーム」だ。

 

 

 多くの人間は、自分のフレームでしか世界を解釈できない。

 そのフレームは、教育や報道によって与えられる。

 

 直感的、反射的に、言わんでもいいことを言う人々。

 世界が炎上する責任の半分は、彼らだ。

 

 まずい米だと言われると、『美味しんぼ』の海原雄山を思い出す。

 こんなまずいものが食えるか! といつも怒っているイメージが強い、北大路魯山人をモデルにした「美食」の泰斗。

 

 私は彼のような人間が大きらいなのだが、「キャラクター」としては愛している。

 ただ自分の近くにいたら重大インシデントだろうな、と感じる程度には「気が合わない」だけだ。

 

 私がこの件で思うのは、「そもそも人間が食えるものを動物の餌にしてることがまちがってんじゃね?」だが、雄山を筆頭とする味覚王たちの感想は異なるのだろう。

 だからべつにあんたは食わなきゃいいじゃん、という冒頭に返る。

 

 

 古米は人間の食いもんじゃねえ。

 という認識は、ある種の教育(あるいは教育の欠如)ないし利害関係による認知のゆがみが生んだ、残念な帰結にすぎないと考える。

 

 問題はそれを「報道すること」だ、という私の視点をあらためて述べよう。

 じっさい報道の姿勢にも、各社の色が表れていておもしろい。

 

 古くは読売・産経の保守陣営と、朝日・毎日の革新陣営という図式が永らく支配的だった。

 ちなみに私は淡々と日経を読む奇矯なタイプだった。

 

 彼らは自分たちの主張したい内容に沿って、アジェンダをセッティングする。

 特定の方向性を期待する人々に向けて、ニュースを選び、文章を書くということだ。

 

 最近ではネットニュースや独立系も多いので、読者・視聴者もエコーチェンバーになりやすい。

 自分の気に入ったニュースだけを選ぶ、という傾向は加速されていくだろう。

 

 

 備蓄米の放出について、小泉さんが党の農水部会に諮らなかったことを「老害」議員が批判したとして、またぞろ炎上していた。

 いわゆる「族議員システム」がはっきり見えて、突っ込みやすかった面もあろう。

 

 農協の利益を代表する議員の合意を得なければ、それ(備蓄米の安価放出)はやってはいけない。

 党として彼(小泉農水大臣)のような人間は抑えなければいけない、と。

 

 まあ道路族や郵政族も似たようなものだとは思うが、要するに、せっかくつくった利権を無視すんじゃねえよ、と。

 しかし、その意を受けた前大臣のやり方を見れば、彼らとの議論が無益であることは判明している。

 

 とくに食料という「いま必要」なものについて、速やかな合意形成が不可能な相手には、無理に歩み寄らなくていいと私は考える。

 民主主義とは妥協の産物だが、妥協が成立しない場面では「一歩踏み出す」政治家の存在もまた、不可欠なのだ。

 

 

 もっとも、農水族の言い分にも一理はある。

 農業は自然相手の産業であり、価格の乱高下を避けるには政治的な調整がどうしても必要だった。

 

 歴史的にも、農協と密接な連携を取る農水族議員が「現場の声」を代弁してきた。

 手続きを踏まずに政策を動かせば、現場との信頼関係が崩れ、制度全体が立ちゆかなくなる──という懸念は、単なる保身ばかりではないかもしれない。

 

 私は「百害あって一利なし」というような極端な表現は嫌いだ。

 麻薬にだって「そのときは幸福」という利、自分が使うぶんには「被害者のいない犯罪」という理くらいはある。

 

 べつに族議員が麻薬だとまで言うつもりはないが、特定の利益代表とそれ以外の政治家の判断は、おのずと異なるだろうし、また異なるべきだ。

 特定利益を重視する理屈にどれだけの説得力があるか、どれだけの反論、反証に耐えられるか、突き詰めるべきはその一点だけだと思う。

 

 

 国民はコメが高いと困るので、小泉さんを応援する勢力は瞬間的に多い。

 しかし既得権側の農協は、高値を維持したい。

 

 小泉フィーバーはある程度しかたないとしても、ひと太刀浴びせてはおきたい。

 それが「農協サイドの立場を補強する報道」につながる。

 

 提灯記事とまでは言わない。

 農協の「広告」が完全に逆効果だった事例も、直近であった。

 

 JA全農山形が出した「それでもお米は高いと感じますか?」という新聞広告。

 そのなかで、一杯の茶碗のご飯と、菓子パン、カップ麺、ハンバーガーを比べていた。

 

 おかずなしの茶碗の飯だけで一食終わるやつがいるんか?

 という比較としてまちがった数字を、一年で値段が倍になって怒っている国民にぶつけたのだから、火に油を注いで当然だ。

 

 それが彼らの本音だとしても、あの広告はたいへんなまちがいだった。

 たとえ正しくても相手が聞く耳を持っていなければ意味はないのに、最悪のタイミングで不正確なメッセージをぶつけるとは、判断した人間の正気を疑うレベルだ。

 

 

 そんなわけで、「古米は人間の食いもんじゃねえ」という報道も、影響としてどっちに転ぶかはわからない。

 重要なのは、あらゆる報道にはなんらかの意味や意図が隠されている、という「視点」だ。

 

 大正時代の米騒動は流血も伴ったが、令和のそれは、戦後日本が育てたフレームのなかで静かに拡散する「認識の暴動」といっていい。

 私自身、自分を「フレームの外」にいると信じたがる、ただの「バカ舌」かもしれない。

 

 与えられた言葉の「餌」の裏で、だれが笑っているのか。

 ほんとうに「笑われるべき」は、だれなのか。

 

 全員の答えが一致はしないし、それぞれが自分で考えて答えを出すべきだ、と思っている。

 いずれにしろ私たちは、フレームのなかで選ばれた情報に、きょうも踊らされているのだ。

 

 ゴールまで1km、倒れた女性。

 使われなかったAED──。

 

 くりかえし拡散する「女性にAED使用で訴えられる」説。

 警察や弁護士は、正しい知識で救命を、と呼びかける──。

 

 本日のブログ執筆の発端は、上記のような記事だ。

 私はひねくれているので、ひねくれた結論から述べよう。

 

 やりたくないなら、やらなければいい。

 あなたが倒れた女性を助ける必要は、ない。

 

 

 まず「助けたら訴えられる」説。

 基本的にはほぼないが、「そういうことにしておいたほうが都合がいい」のはだれか、という点から考えよう。

 

 命はなによりも大事、みたいな教育が席巻するなかで、なかなか刺激的なフレーズだと思う。

 まあ死にたい人を助けたら「よけいなお世話」だよなあ、という思いとも輻輳する。

 

 現に「触られたくない女」は一定数、存在する。

 見知らぬ男に触られるくらいなら、死んだほうがマシよ! と言われたら、返す言葉はない。

 

 個人の自由というのは崇高なもので、死んでも触られたくない、と思う彼女らの意見は尊重しなければならず、われわれにはどうしようもない。

 彼女らの利益が、それ以外の女性の利益と対立しても、それはしかたのないことだ。

 

 

 とあるアイドルが、死にそうになってたら遠慮なく触ってほしいと投稿していたが、それもあくまで彼女の考えにすぎない。

 「触るな」と主張する女性が現実にいて、彼女らはそれ以外の女性のリスクより、自分の感情を優先している。

 

 それが「抑止力」として稼働する事実は、数字に表れている。

 必要でも触らない、という男性が増えることは、彼女らにとってとても「都合がいい」。

 

 

 似たようなロジックで「献血」がある。

 献血に協力する人の多くは男性なので、一部の男性向けのノベルティが用意された。

 

 すると、ある女性弁護士がたいへんご立腹だった。

 こんな性的なノベルティを使わなければ血が集まらないくらいなら、そんな血は集めるべきではない、くらいの勢いだったと記憶している。

 

 もちろん彼女自身、自分には必要がない献血など、なくてもいいのだ。

 放置されたら死んでしまう女性がいたとしても、自分に関係がなければ気にする必要はない、というロジックは盤石である。

 

 

 献血が減るとか、AEDで助けてもらえないとかは、基本的に自分には関係ないし、きわめてレアケースなので無視しやすい。

 そんなことより自分が不快であることに優先順位を置くのは、むしろ当然だ。

 

 彼女らは自分の主張のために、それ以外の主張や合理性に対して優先順位を下げる、という選択肢をとった。

 結果を受け入れるのは「自分以外の女性や輸血を必要とする人々」なので、遠慮する必要は皆無だ。

 

 

 理屈はわかる。

 彼女らにとって、これは「絶対優位の戦略」だ。

 

 多くの男女が協力したほうが、全体として高い利益が得られる。

 だとしても、自分たちの主張を貫くほうが、全体の利益が減っても自分たちにとっては常に都合がいい。

 

 映画でいえば実写版『白雪姫』が似ている。

 DEIが正義で、王子さまを待ったりしない、という現代風の女性が主人公だ。

 

 名作をぶっ壊して、新しい価値観の訴求の道具にする(自分たちは心地よい)。

 結果は、史上まれにみる低収益(全体としての利益は低下)だ。

 

 

 意識高い系は、自分の考えが正義だと思っているので、そう思わない人々に対して高圧的に「自分が正しいから従え」「新しい価値観を受け入れろ」という姿勢を示しやすい。

 みんながやさしく聞いてくれているあいだはいいが、そうでもなくなったとき、相応のバックラッシュを引き受けざるを得なくなる。

 

 反DEIやアンチフェミニズムは、その典型だろう。

 ほどほどの主張で止めておけばいいのに、言いすぎるので反発される。

 

 

 私も人間なので、命の危険がある局面で触るの触らないのという議論じゃないだろう、と常識的には思う。

 だが残念ながら、女性に対してはAEDを使わないのが「絶対優位の戦略」だ。

 

 命に危険があろうとも輸血するな、という宗教も実在する。

 そのような思想集団に対しては、距離を置く以外の選択肢がない。

 

 明示的に「触られたくないバッジ」みたいなものを携帯する、というやり方はあるかもしれない。

 どれほど必要でも輸血はされたくないし、たとえ死にかけていても男性にAEDを使われたくないなら、自分はそういう考え方なのだということを「明示する義務」を負うことにすれば、それ以外の人々は助けてもらえる。

 

 しかし現状、そうはなっていない。

 よって、女性に対してAEDを使うのは「ただのリスク」ということにしておいたほうが、狭義の都合はよい(全体の利益は低下)。

 

 

 「触られたくない」と公言すればするほど、触られない社会ができる。

 それが命を削る結果になっても、だれのせいでもない。

 

 だとすれば、こうした非常識な合理性は、偶然ではなく、だれかが選びとった結果ということになる。

 非常識な選択のほうが合理的である社会にしたのは、いったいどこのだれですかね?

 

(前回のつづきです)

 

 多かれ少なかれ世界中が「自分勝手」ではあるのだが、とくに中国でわかりやすいくらい顕著である理由を、ひとつ挙げよう。

 「始皇帝の遺産」だ。

 

 日本の漫画などでは英雄のように描かれているきらいもあるが、この趙政という男、個人的には「クソ野郎」だと思っている。

 アレキサンダー大王やチンギスハン、スペインのコンキスタドールたちと同列の意味において、であるが。

 

 「それが征服者というもの」だ、という言い方はできる。

 とくに始皇帝のやった「文化の破壊」はすさまじかった。

 

 個人的に、始皇帝に比肩するのはディエゴ・デ・ランダくらいのものだと思っているが、キリスト教に対する批判はまた別途に譲ろう。

 焚書坑儒に代表される彼の「暴虐」はすさまじく、なにより最悪なのは、そのプロトコルが歴代王朝にもたしかに「受け継がれていった」ことだ。

 

 

 過去をゆがめ、自己正当化に走る。

 ことさら中国というフレーム、その最後の王朝にいたるまで、例外はない。

 

 清朝は、満州族による征服王朝だった。

 康熙帝は歴史に残る名君とされ、それ以外にもおおむね評価の高い皇帝が多い。

 

 私はこれに強い疑義をもっている。

 表面上、どう取り繕おうと試みたところで、始皇帝の遺産は底流している。

 

 同じく評価の高い乾隆帝の時代、勅命によって四庫全書というものが編纂された。

 全国各地から書物を集めて、膨大な漢籍の叢書をつくるという国家事業だ。

 

 そのすばらしい文化的活動の目的が、「満州族に対する批判的言論の封殺」にあったことは、あまり知られていない。

 清朝の国家統治にとって障害となるような書物は禁書とされ、収録されなかった図書は三千点にものぼるという。

 

 たとえ部分的でも、満州族に対する批判や憎悪が記されていたら、すべて黒塗りした。

 そう、彼らは征服民族である自分たちへの批判を、始皇帝と同様「焚書」によって圧殺しようとしたのだ。

 

 

 そういえば、天安門事件、法輪功、新疆ウイグルなどのキーワードを検索すると、ブロックされる国があるらしい。

 国家レベルのネット検閲システムが、現に稼働している国……。

 

 結局、始皇帝の時代から、なにも変わっていない。

 中国という体制そのものが、情報操作と遮断、権力闘争によって自己組織化される、ということなのだ。

 

 と、そこまで断言すると、さすがに飛躍が過ぎる気がしないでもない。

 しかし近代以前の統治様式において著しく似通ったパターンが、体制の深層構造として残存しているように見えることはたしかだ。

 

 

 では、なぜ中国の国民は、このような体制に抗えないのか?

 さまざまな分析はあるが、私が考えるのは「彼ら自身が共犯者だから」だ。

 

 人類史に残る失政と権力闘争の権化、毛沢東。

 世界史的にも評価の芳しくない政治家だが、当の中国では紙幣にまでなっている。

 

 そんなものを、なぜ平気で使っていられるのか?

 なぜなら使用(を決める権限をもつ)者の多くが「被害者側ではなく加害者側」であり、その忌まわしい過去と自己を「正当化したい」からだ。

 

 

 大躍進政策や文化大革命で暴れた若者が、現在まだ多く政府中枢に残っている。

 彼ら紅衛兵が文革でよくやっていたのが、まさに「文化」の「革命(破壊)」だった。

 

 「革新」はすべからく直近の過去の破壊に立脚する。

 歴史的に大きな「征服」や「簒奪」というタームにおいて例外はない──とはいえ、とくに共産党は徹底しているという印象がある。

 

 新体制にとって刷新すべき過去を、不愉快な「ブルジョワ」と決めつけて排除したのが文化大革命であり、中国共産党による中華人民共和国の成立だった。

 当時、破壊と勝利の熱狂のもと、自分たちの連帯感を高めることもできて一石二鳥だっただろうことは、想像に難くない。

 

 そうして暴れまくった若者たちが、まだ社会にそれなりに残っている。

 それが悪だと指弾されないためには、毛沢東を弾除けとして飾っておいたほうが、なにかと都合がいい。

 

 天安門に飾られた肖像画によって、そのような体制に加担した自分たちの「悪」も、なんとなくごまかせるような気がする……。

 あの紙幣が現役で存在するということは、つまり中国はまだそういう状態にあるという意味だ、と私は解釈している。

 

 言い換えれば、あの紙幣が切り替わるときこそ、体制が変わるときではないか。

 ──などと「書いただけで抹殺される国」というのは、そもそもおかしい。

 

 

 日本で「共産主義革命を起こす」と書いても、べつに当局がやってきて調査や検閲されたりしない。

 日本だけではない、世界のだいたいの国で許されていることができない国なんて、長持ちするはずがない。

 

 どこかで必ず変わる。

 そのシナリオについて考えるとき、諸刃の剣として立ち現れるのがAIだ。

 

 たとえるなら人類の未来をDeepSeekとChatGPTが話し合って決める。

 そんな未来も、ないとは言えない……。

 

 ことしもロシアが、対独戦勝記念日をやっていた。

 そういうことをやる感覚が、個人的には不思議に思える。

 

 関係者や遺族への配慮とか、いろいろとエクスキューズは思いつく。

 あなた方の国への貢献は報われました、と表明することは重要なのかもしれない。

 

 しかし、落ち着いてよく考えてみないか?

 戦争の「勝利条件」はたいてい、相手よりたくさんの人間を殺すこと、だ。

 

 そんなことを記念している国は、大上段で「戦争が好きな国」というイメージを打ち出しているようにみえる。

 戦争が終わったことを記念するならまだわかるが、会場に兵器を並べて「ウラー」と叫ぶ人々は、そうとう戦争がしたいようにすら映る。

 

 たしかに現在進行形で戦争をしている国でもあり、イメージどおりではある。

 この文脈において重要なのは、なぜ彼らに「その必要があるか」だろう。

 

 

 中国なら抗日勝利記念日ということになるが、不思議なのはそれが「歴史カード」として外交に使えると思っていることだ。

 日本の政治家も踊らされているが、なぜそんなものを信じられるのか?

 

 自分たちは戦勝国なので、世界秩序を構築する権利をもっている。

 そういう前提らしいが、そんなふうに「信じられる」時点で、宗教によく似ていると思う。

 

 私は彼らと同じものは信じない。

 なので彼らの振りかざすカードの効果は及ばない。

 

 

 宗教にとっての信者は、為政者にとっては国民である。

 為政者がそうする「必要」とは、もっぱら国民に対してだ。

 

 国民や信者に対して効果を発揮する、限定カード。

 その効果範囲外にいる人々がポカーンとするのは、当然といえば当然かもしれない。

 

 もちろん、いかなる宗教も信じるのは個人の自由である。

 彼らの信じていることは「正しく」もあるのだろう、「彼らにとって」は。

 

 中国人は習近平を信じるし、ロシア人はプーチンを信じる。

 権威主義であればあるほど「信じさせる」ことが要諦となるが、そのあたりも宗教に近い。

 

 

 中国人のメンタリティには、「正しいことを実現するために法律は必要ない」という発想が底流している、と神田外語大の興梠先生が言っていた。

 それを聞いた私の脳内でいろいろと事象がつながり、なるほど、と得心した。

 

 重要なのは、その「正しさ」を決定するのはだれか、という一点だろう。

 中国の場合、この問いに対する答えは単純かつ明快だ。

 

 共産党である。

 現代中国の政策や社会現象を理解するうえで、これさえ押さえておけばたいへん理解がしやすい。

 

 

 共産党は国家の最高権力として、法律を超越した指導的立場を確立している。

 国家目標の実現においては、法的手続きや個人の権利がしばしば二次的なものとされる。

 

 具体例を挙げると、一人っ子政策時代には、二人目以降の出産を抑制するために強制的な措置がとられた。

 近年、少子化が深刻化すると、今度は出産を促す方向に転じ、企業が「結婚しなければ解雇」といった圧力をかける事例まで出てきている。

 

 これらの措置は、法律の有無にかかわらず「国家が正しいとする方針」が優先される実態を示している。

 重要なのは、この正しさの決定権が民衆や外部機関には委ねられない、という点だ。

 

 権威主義体制においては、制度設計上も運用上も、統治主体が「正義」の最終判断者となる。

 中国にかぎらず多くの権威主義国家では類似の構造が見られるが、中国の場合、その力の行使が国外よりも国内に向けられる傾向がある点は特徴的といってよい。

 

 つまり共産党という統治機構は、国家内における秩序と目標達成を最優先とし、そのためには法律や国際的な人権基準を柔軟に解釈・適用する傾向をもつ、ということだ。

 この構造は一種の「リヴァイアサン」、すなわち強大な権力を持つ統治体の典型例と捉えることができる。

 

 

 顧みれば国共内戦、共産党軍はあらゆる「狡猾」にして「卑劣」とも思える手段を駆使し、政権をとった。

 掘り下げると長くなるので、ここではしない。

 

 あらかじめ断っておくが、彼らがやったことを否定するつもりは、まったくない。

 謀略は国家/戦争の本質だからだ。

 

 そしていま、あらゆる卑劣な手段どころか、合法的なデモンストレーションさえも拒絶する体制になっている。

 中国で権力闘争に勝ったら、やるべきことを徹底してやらないといけない。

 

 すなわち「自分はいいけど他人はダメ」を貫くことだ。

 「我人に背くとも、人我に背かせじ」と言ったのは乱世の奸雄・曹操だが、この論理に基づけば彼らの行動に「矛盾」は発生しない。

 

 ──台湾問題など「内政不干渉」を要求するが、他国の内政には関与する。

 たとえば一帯一路、これは単なる経済圏拡張のように見えるが、「債務の罠」により他国の港湾をぶんどるなど、その権利を著しく侵害している。

 

 ──トランプ政権の関税に対して、自由貿易のルールを守れと叫ぶ。

 おまえが言うな、と世界中の学者や経済界が突っ込んでいる。

 

 短期的には矛盾が放置され、長期的に「一貫性」の正当化を必要としない。

 西側諸国ではありえないことが、中国のような権威主義国家では可能となる。

 

 

 なぜこんなことになっているのか、中国という「龍」のしっぽのほうまで眺めて、彼らの吐く「炎」の性質を分析してみた。

 暫定的な結論から述べると、その炎は「論理ではなく信念によって」燃やされている、ということになる。

 

 われわれがおぼえる違和感の正体は、互いにとっての正しさの源泉が、まったく異なる場所にあるがゆえ、だ。

 その場所を探るとき、ひっきょう歴史について語らねばならないが、長くなりそうなので……また次回。