ポーク・バレルという言葉がある。
政治家が自分の選挙区や支持基盤のために、公共事業や補助金などを割り当てる「利益誘導型のバラマキ政策・予算」を指す言葉らしい。
どこぞの農水大臣のやっていることは、かなりそれに近いように見える。
猫の目農政とか、おこめ券とか、よくそんな発想が出てくるなと感心する。
身内のために便宜をはかる、という動機は全人類に共通であることは理解している。
すべての王家から、ご近所の老舗まで、だいたい説明可能なロジックではある。
いっぽう近親憎悪とか同族嫌悪という言葉がある。
かわいさ余って憎さ百倍と表現されることもあるが、ただの迷惑な肉親という程度の意味合いのほうが実態に即しているような気はする。
忌まわしい親族というのは事実いて、毒親とか犯罪者の親戚にまつわるエピソードはあまたある。
親族からマイナスの影響を受ける蓋然性は、それなりに高い。
最近の事件でいえば、宗教に献金しまくって家庭を崩壊させた母親が、元総理を射殺した息子の事件で証言していた。
どうやら自分の愚かさを反省しているらしいが、それでも宗教からは離れられないという。
それと比べれば、うちの母親はマシだ。
というか比較するレベルではないのだが、私のように不出来な息子の場合、相乗効果でダメージが増すことがある。
具体的な話をしよう。
だいぶどうでもいい話なので、読み飛ばしたほうがいい可能性すらあるが、一応記録のために書き残しておく。
私はミニマリストなので、必要なもの以外を買わない。
祖父母の家をもらって一人暮らしをしているが、冷蔵庫内もすっきりしていて、祖母から受け継いだ6ドアの大型冷蔵庫を完全にもてあましている。
すかすかの庫内に必ずあるのが、納豆と卵だ。
1日1個、それらを消費する食生活をしている。
だいぶアスペ傾向の息子だと、母親も理解はしているはずだ。
そういう息子への態度には、気をつける必要がある。
ある正月の日、母親を含めた家族が何人かやってきた。
祖父母の墓参りがてら、という話だったような気がする。
私は基本的にかまわない性質なので、訪問者が好きに行動して、勝手に帰るのをただ待つだけだ。
さて、静かになった後、冷蔵庫内を確認すると、納豆が12個あった。
あまり大事なことではないが、もう一度書く。
3個組の納豆が4パック、計12個が冷蔵庫内に追加されていた。
すでに1週間分の納豆と卵が冷蔵庫内にあるところに、納豆だけを12個追加していったので、都合20個になる。
大型冷蔵庫に納豆ばかり……業者か! と思わず突っ込みそうになった。
みなさんご理解いただけると思うが、納豆や卵というのは「生鮮食品」に分類される。
一定の期間内に消費すべきものであり、一般消費者で、そんなものをまとめ買いするバカはいない。
一週間前後で消費できる分だけを買い、なくなったら買ってくる。
そういうものを「まとめて」買ってきた!
彼女はこの家が大家族ではないことを知っているし、私が1日1パック消費することも知っている。
冷蔵庫内には1週間分すでにあり、そして納豆には賞味期限がある。
こんなにいらないだろうから、何個か持って帰ろう──。
そういう選択肢はあったはずなのに、もって帰るのが面倒くさかったのか、思考そのものを放棄していたのか、ともかくそのまま置いて帰った。
事実は、ただこれのみだ。
つまらない話だ──が、その後、私がどうしたかは、たぶんおもしろい。
その後の1週間、まずは自分が買ってきておいた納豆と卵を消費して過ごした。
日常を淡々と過ごすことをよしとするASD(自閉スペクトラム症)傾向の私は、可能なかぎり変わらない日常を維持したい。
そして1週間後、当然、母親の置いていった納豆だけが12個、残ることになる。
ただでさえ入荷の少ない年末年始のスーパー、買ってきた時点で賞味期限の近かった納豆は、すでに「おいしく食べられない」状態だ。
もちろん廃棄すべき、それは理解はしている。
では、いつものように買い出しに出た私は、どうしたか。
いつもの食品をかごに入れ、納豆だけは「家にあるので」買わずに帰った。
愚かな行為、親が親なら、子も子だよ……。
その後2週間弱。
私は「腐った納豆」を毎日食って過ごした。
賞味期限切れの納豆がどうなるか、多少の興味があったことは認めよう。
食べ物を捨てたくない、というエコな自分もいる。
べつにケチというわけではないが、まあそう思ってもらってもいい。
与えられた環境に合わせ、1日1個というルールを守って食べつづけた。
賞味期限切れから2~3日は、まあ問題ない。
1週間たつと、さすがに、ん? となる。
2週間後、もはや納豆と思いたくない物体に変わっている。
どろどろになった豆らしきゼリーを、吐き気を催しつつ食ったのは……なぜか?
忘れないためだ。
気持ち悪いと思いながら、毎日、古い納豆を食う日々のなかで、こんな生活をもたらした構造について、この時期、非常に深く考えることができた。
もちろん吐き気を催した責任の半分は、廃棄するなど適切な対応をとらなかった私にある。
しかし残りの半分は、無考えなおせっかいを押しつけてくる側にある。
適切に行動しない親に、適切に対応しない息子、という組み合わせの実践。
結果、ただ嫌悪感だけが残った。
さて、ここまで日常のあまりにどうでもいい話を読まされて辟易したかもしれないが、一例としてわかりやすいので、るる書き留めた。
もちろん私も、この一事が「くだらない」ことくらいは理解している。
これだけなら、もちろんたいしたことではない。
問題はこの母親が、この手のいやがらせをコンスタントに継続してくることだ。
継続は力というか、たとえ小さなダメージでも、蓄積すると大きな怒りに変わる。
彼女にとっては平常運転で、他者にダメージを与えているつもりはないのだろうが、残念ながらこれがいけない。
上述のような「くだらない」いやがらせを、考えてみれば生まれてからずっと、小刻みに受けつづけている。
相手が「蓄積するタイプ」の場合、これはかなり危険な行為だ。
納豆の件からおよそ半年後だろうか、私の小さな堪忍袋は臨界点に達した。
やるべきことをやらず、やらなくてもいいことをやるタイプの母親に、「お願いだからもう来ないで」とメッセージを送った。
接点がなければ、いやがらせをされることもない。
以後、彼女の顔を見ずに済んでいる。
べつに死ぬまで許さないなどと子どもじみたことを言うつもりはないが、とりあえず2~3年は、イライラせずに暮らしたい。
以前にも何度か実家に帰らない期間はあったので、いつものことといえばいつものことだ。
考えてみれば若いころから、コンスタントに気が合わない人物を遠ざけている。
相手のためになにかをやろうとするのは勝手だが、相手がどう思うかは相手が決める。
そんなささいなこだわりを積み重ねた果てに、私という人間がいる。
こんな人間もいるのだと、参考までに。