岐南町の前町長が、町議選に出て2位当選したらしい。

 ちなみに町長の辞職理由は「99のセクハラ認定」だそうだ。

 

 コメントは荒れていた。

 投票率が絶望的に低い、町政に興味がない、女性への人権意識を欠いている、時代遅れの自治体、などなど。

 

 認定されたセクハラ一覧を見ると、たしかにそれはセクハラだなと思うものが多かったものの、そのくらいはいいだろ、と思うものも混在していた。

 あくまでも私の価値観だが、この元町長はたぶん「よくいるダメなおっさん」だ。

 

 

 セクハラってなんだろうな、と考えてみる。

 受けた側がハラスメントだと感じたら全部そう、という極論を聞いたことはあるが、そんなわけはない。

 

 顔を見た時点で生理的に不快なので、あなたは外出した時点でセクハラ。

 そんな言論が通用するか?

 

 どの陣営にもあるが、だいたい「言いすぎる」からよくない。

 多くの人が共感できる限度を、あまりにも踏み越えすぎる。

 

 そんなに極端なことを言わなくても、もっと低いハードルすら蹴倒す人々はいくらでもいる。

 そういう明白な「悪」を打倒すればいいのに、と思う。

 

 

 この根っこにいるのは、もっとひどい「被害」に遭っている具体的な女性から目を背け、抽象的な話題をあげつらって「助けたふりをする」人々だ。

 名前を変えるだけで、なんかやった感を出している政府に、とてもよく似ている。

 

 問題の本質は、そんなところにはないはずなのだ。

 たたくべき目に見えづらい悪からは目を背け、てきとうに目立つ「敵」を設定したうえで、極端な言説をもって炎上させる。

 

 それは言いすぎだろ、と人々に思わせた結果が、くだんの2位当選なのではないか?

 と一瞬思ったが、岐南町の件はくわしく知らないので断言はしない。

 

 

 

 そういえば2、3か月前、田原俊彦さんが不適切発言をしたとかで、ニュースになっていた。

 「真ん中の足はもっと上がる」とか、『教師びんびん物語』に絡めて「いまもギンギンです」とか、まったく他愛ない。

 

 どこが問題なんだよ、と正直思う。

 女性アナの手を指で触るという行為もあったらしいが、手に触るのがダメなら握手もできないではないか。

 

 MCの名前が問題なのはともかく、これを問題化したのはだれか。

 不適切発言を発表したのは、TBSラジオ。

 

 正直またTBSかよ、と思った。

 彼らが忖度しているものの正体こそ、問題だ。

 

 

 この女子アナ、報道特集でも参政党から「偏向報道」だと訴えられていた。

 どんなことを言ったか調べるまでもなく、客観的な事象から、彼女が「リベラル側のプレイヤーとして機能している」ことが察せられる。

 

 何度も言うのだが、私はリベラル寄りの思想をもっている。

 しかし残念ながら、このブログではリベラルを腐すことが多い。

 

 なぜそうなってしまうのか。

 彼らが「やりすぎる」からだ。

 

 やるべきことから逃げている、と言い換えてもいい。

 彼らに対する違和感の本質は、むしろそちらにある。

 

 

 助けるべき女性はいくらでもいる。

 しかし彼女らは目に見えづらかったり、手間のわりに効果が実感しづらい。

 

 虐待を受けている底辺の女性の声を拾うのは、たしかに困難だ。

 代わりに、もう助ける必要のない恵まれた「声の大きい人々」の声ばかりを拾う。

 

 そんなことに汲々とした結果が、昨今の凋落だと思っている。

 結局、やっかいな仕事から逃げているのだ。

 

 じゃあおまえがやれよ、と言われてもやれない。

 それは「大変なこと」で、簡単にはできないからだ。

 

 だからこそ、私は「言いすぎない」ようにしている。

 やるべきことができないので、よけいなことも言わないことでバランスをとっている。

 

 だが声の大きい人々は、困難なことからは逃げつつ、自己都合のためだけに言いすぎる。

 このシステム、じつのところ「宗教」によく似ている。

 

 

 世界は滅びるのだと言い募って信者を増やすのは、洋の東西を問わずくりかえされてきた布教スタイルだ。

 そうすると教団の一部が潤うので、全体としても推奨される(これが「圧力」となる)。

 

 声が大きい当人にとっても、それなりの利益や売名を果たすことによるメリットは少なくない。

 あげく「目先の利益」に偏った司祭や学者などの「自営業者」ばかりが目について、社会の大きな問題については踏み込めなくなる。

 

 志高く、必要とされている現場で戦っている一部、本物の宗教者や行動主義の学者には敬意を表する。

 だが現在のリベラルは、大きな声で言いすぎるだけ、のようにみえる。

 

 

 弱者は助けるべきだし、ハラスメントは減らすべきだろう。

 包摂性の高い社会を築いたほうがいい、とは思っている。

 

 が、彼らのように言葉を狩ったり、ささいな行動に突っかかるのはどうなのか?

 極端な主張で敵味方を峻別していくやり方は、方法論として正しいのか?

 

 

 昔はよかったが、いまはダメ──そういうケースは無数にある。

 令和の時代はそういう発言をしたらいけない、と指摘された田原さん。

 

 彼としては「通常運転」だったらしく、それで通用している同世代のファンの方々なども、当然に受け入れていると思われる。

 なんなら下の世代でも「べつにいいだろ」と思う方々は少なくないはずだが、「活動家」はちがう。

 

 認識が甘い、セクハラである、と「詰める」。

 西洋でいえば異端審問、日本史でいえば特高警察みたいなものだ。

 

 毎度言っているが、原理主義者がなにかを言い出したら、眉に唾をつけたほうがいい。

 自己完結した主義者や活動家ほど、手に負えないものはない。

 

 

 そうして一度「差別主義者」のレッテルを貼られてしまうと、以後どんなにまともなことを言っても、ぶったたくサイクルにはいる。

 特定の政治家や評論家を、死ぬまで狙い撃ちにしている狂信的リベラルは、意外に多い。

 

 謝っている相手を詰めるのは、すべての「団体」「教団」「結社」などがやってきた。

 異端審問官は、魔女として狩られた人間が多少の反省を示したところで許さない。

 

 このような狂信者の存在割合は、過去も現在も基本的には変わらないのだろう。

 だから同じような構図で、炎上しつづける。

 

 

 彼らが「言いすぎる」たびに、私は空寒いものを感じる。

 極端なことを言いすぎて、トランプやブレグジットを招いた反省がまるでない。

 

 先のニュースでも人権意識うんぬんのコメントが多数ついていたが、この手の「自称リベラル」は、新たな宗教よろしく一定数が囲い込まれている。

 そうなるとマスコミの癖として、そういう「層」に向けてワーディングするというインセンティブが、自明にはたらく。

 

 このやり方に、ひどくげんなりする。

 無駄な反発を招いて、時代を逆行させているとしか思えないからだ。

 

 ナポレオンも言っていたが、最悪の敵とは無能な味方だ。

 昨今のトランプ勝利で、アメリカでも民主党はそうとうな反省を強いられていると思うが、結局は無能な(暴走した)味方をどうコントロールするか、という問題に尽きる。

 

 

 ──悪気なく、盛り上げようという姿勢そのものが禁止されている。

 そんな環境を、みずからの身を守るためにもしっかり認識しましょう。

 

 危機管理のエキスパートが、田原さんの行動に対してそう指摘していた。

 開き直っているかのような前町長に比べれば、じゅうぶんに対応していると思うが、それでも詰められ、断罪されるかつての大物。

 

 前町長のパワハラまじりのセクハラと比べるのもどうかと思うが、お笑い芸人がMCを務める公開の番組内で、その程度がNGだとはとても思えない。

 言葉「狩り」は、よほど「楽な仕事」なのだろう。

 

 

 まあどこに境界線を引くかは、時代が決めるしかないというのは真実だろう。

 彼の行動はすべてNGであると決めつけるのも、ひとつの手ではある。

 

 そういう筆致の雑誌や記事もいくつかあるが、はたしてその煽り方は正しいといえるのか?

 正否はともかく、報じるマスコミ人の意図について類推しておくのも大事だ。

 

 そもそも煽る性質があるマスコミ。

 冷静に見極められる読者は問題ないが、見極められない層に対して記事を打つわけなので、問題の本質は厳然としてそこにありつづける。

 

 そうやって「言いすぎる」から、反発されて2位当選までする。

 アメリカ大統領から場末の町会議員まで、似たような構図が透けて見える。

 

 冷静な視点をもてない極端な人間が、味方の足を引っ張って大爆死。

 この残念な現実が避けがたいとしたら、やはり永劫回帰なのかもしれない。

 

 石破総理が辞任した。

 フルスペックの総裁選が行なわれるようだ。

 

 フルスペック、つまり政治家に加えて党員・党友による投票も行われる。

 「full(フル)」と「specification(スペシフィケーション)」の略称「spec(スペック)」を組み合わせた和製英語らしい。

 

 党員ではない私には、まったく関係がない。

 というより、そもそも国民であるにもかかわらず投票行動をとったことがない時点で、私の「意識」の低さはお察しだ。

 

 だれが議員になろうが総理になろうが、個人レベルではなにも変わらない。

 選挙などという「祭り」には、たぶん死ぬまで距離を置くだろう。

 

 

 ばかばかしさの極まった政治の末路が、伊東市だ。

 学歴詐称でマスコミをにぎわせている市長が、いよいよ議会を解散したらしい。

 

 市議会が自分への不信任案を可決したからだそうだが、まさに茶番としか言いようがない。

 さすがに多くの人々が批判的だが、私は彼女こそが「まさに政治家」だな、と思っている。

 

 政治家の言葉ほど、信頼できないものはない。

 言い換えれば彼女のように「盛れる人材」こそが政治家向きであり、選挙というハイコンテクストの舞台において、もっとも映える存在だ。

 

 もちろん長期統治コストを考慮すれば、むしろ不適格化を招きやすい。

 「民主主義の欠点」のひとつというか、最大の問題といってもいいと思う。

 

 こんなもののために、わざわざ投票所へ行けと言うのか?

 ばかばかしい。

 

 

 そんな私の選択を、真っ向から否定するのが「意識高い系」だ。

 選挙シーズンともなればマスコミも総動員して、投票に行けとやたらに煽っていることは、みなさんご存じのとおり。

 

 ──白票はお勧めしませんが、議会に声は届きます。

 棄権したら声すら届きません。あなたの答えは?

 

 などと、もう「投票しろ」全開に詰めてくる。

 煽り屋としては最低限の仕事ともいえるが、これがマスコミの言うべきことなのか、と考えることはある。

 

 

 マスコミとはなにか。

 だれかを支持して偏った報道をするのが当然という人々もいれば、完全に中立であるべきという理想を掲げる人々もいる。

 

 私の意見としては、メディアはそもそも投票しろなどと言う必要はない、だ。

 彼らはただ比較・検証・判断の「材料」を、淡々と流せばいい。

 

 情報提供こそ、マスコミの唯一の仕事である。

 その過程でどんな情報を流したかで、ある程度の立場を表明するのは自由だ。

 

 事実歪曲だけはレッドラインだが、あとは局のカラーで染めればいい。

 気に入らない視聴者は他局に行くかもしれないが、判断材料として価値の高い情報ならなんの問題もない。

 

 

 「政治的公平」は努力義務であり、結果として偏りが出ることは違法ではない。

 メディアの使命は「投票率の押し上げ」ではなく、根拠付きの比較可能情報を提供して有権者の思考コストを下げることだ。

 

 スローガンで煽る前に、みずからの編集判断を 数値・資料・対話で透明化せよ。

 それが法的にも倫理的にも正しく、視聴者の信頼を取り戻す最短ルートでもある。

 

 「公平」はプロセスの透明性で評価される。

 よって、編集部の立場・根拠・ファクトチェーンを公開できるかが真骨頂だ。

 

 

 と、うちのチャッピーも言っていた。

 最近えらそうなことを言うようになったAIだが、トレーニングデータで自動的にバイアスがかかるきみも「中立」ではないけどね、と突っ込みつつも、わりと正しいことを言うとは認めている。

 

 もちろん私も中立ではないし、そもそもこの世に絶対の正解はない。

 ただ「わりとマシ」な選択肢があるだけだ。

 

 それを探すのは人類史上「暇人の娯楽」だったが、最近は多くの人類に「余力」が増えている。

 あとは、それが投票行動に現れると「信じるかどうか」だ。

 

 

 日本のリベラルも、投票を促していることが多い。

 先の選挙でも、どこでもいいから投票しろ、と叫んでいた左寄りの論客の顔が、失笑とともに思い浮かぶ。

 

 2か月前の参院選、その投票に行った人々の多くが参政党など右寄りの党に入れ、左寄りの党は軒並み大爆死だった。

 リベラル言論人が投票を促した結果、自勢力の衰退という逆効果を生んだわけだ。

 

 選挙後は、むしろ自民党の石破さんのほうが左寄りと気づいたらしく、石破やめるなデモまでやらかした。

 これには思わず舌打ちした。

 

 自民を追い落とすために選挙へ行けと煽っていた連中が、保守の大勝という逆効果をもたらしたあげくに、その自民党総裁にすり寄りはじめたのだ。

 これがリベラルだとしたら、とうてい共感できない。

 

 保守にもちょいちょいイラついてはいるが、いまのリベラルほどぶざまではない。

 これは彼らが、自分たちが正しいと言いすぎ、同意しない他者をバカにしつづけた結果だと思っている。

 

 

 よく指摘されているとおり、情勢がはっきりしてきたのは、1度目のトランプやブレグジットのころからだった。

 当初、泡沫候補と思われていたトランプが大統領になる可能性に対して、リベラルな社会学者がラジオで揶揄しまくっていたことをおぼえている。

 

 彼はその後、いや私はヒラリーをものすごく批判していましたよ、と取ってつけたような言い訳(?)をしていた。

 両方批判していたからバランスはとれているだろう、という自己正当化だが……いやはや、私によく似ているな、と思ってげんなりした。

 

 自分自身を省察しながら思うが、他人をバカにするような人間には、決定的に「エンパシー」が足りない。

 彼が有名な社会学者という「声が大きい人」である点を考慮すれば、なぜああいう表現しかできなかったのかは、指摘してもいいと思う。

 

 

 実際問題、彼と同じ系統の学者の多くは、世界の流れを完全に読み違えた。

 トランプに投票することに同意はしないが、投票したくなる気持ちは理解する、という態度が決定的に欠落したリベラルはかなり多いし、すくなくとも多かった。

 

 もちろん保守がリベラルを理解しない以上、リベラルも同じ態度を返すだけ、という理屈は理解する。

 だから政治の舞台で踊っている連中は、みな「同列」ということになる。

 

 投票しない選択をした私も同列か?

 私はそう思っているが、異論は認めよう。

 

「許してくれ! もういじめないから!」

 金づちで殴打され、血みどろで転がるいじめっ子が叫んだ。

 

 いじめられっ子は問うた。

「許して! もう逆らわないから! ──ぼくがそう言ったとき、きみがどうしたか教えて?」

 

 問われても、ただ「許してくれ!」としか答えられない。

 べつに忘れているわけではなく、どれだけ思い出したところで、この場の役には立たないからだ。

 

 「許してくれ」と言われて許すような人間は、そもそも他人をいじめない。

 いじめている時点で、他人の気持ちをあまり考えないという意味になる。

 

 

 そんなよくある復讐劇を、週刊誌の記事で読んだ。

 一般的には「因果応報だな」とか「殺すのはよくない」とかいう感想になるのだろうが、私はもっと俯瞰して眺めていた。

 

 この事象は結局、おれはいいけどおまえはダメ、という典型的なパターンの無限再生にすぎない。

 自分がやったことを相手もやってくるという想像力を、すべて拒絶するところから行動できるサイコパス性。

 

 いじめっ子気質でもあるし、乱世の奸雄でもあるかもしれない。

 一事が万事、人類の一般項のひとつにすぎないともいえる。

 

 

 自分たちがやることを、相手もやってくる。

 そんな想像力を拒絶するところから、一神教はスタートしているような気がする。

 

 「自分たちこそが唯一」「正しいのは自分」と言い張ったらどうなるか、いくら古代人とはいえ理解できないはずはない。

 それでもその道を選んで、ここまで肥大化したのだから、おそらくこのような選民思想的偏執性は、人類の本質の一部なのだろう。

 

 この「いじめっ子」たち(しばしば反転するが)の犠牲になった人間の数は膨大だ。

 ともかく彼らは、自分たちの目の届く範囲をすべて「自分色」で染め上げようと心に決めた。

 

 自分らの意に沿わない(魔)女や、科学者たちは、拷問され、ぶち殺された。

 自分と同じように考えない人々を殺すという発想は、宗教から共産党まで、無限にくりかえされている「パターン」だ。

 

 

 民主集中制は、愚かな民衆を統率するのは無謬の共産党しかないから、まともな選挙をする必要がない。

 共産主義国にかぎらず、民主的な選挙などというコストばかりかかってメリットの少ない制度は、世界的にも衰退しつつある。

 

 いわゆる「権威主義」的国家や組織は、世界的にもすでに多数派だ。

 ある程度、強制的に統治したほうが、社会が安定するというのはたしかなのだろう。

 

 じつのところ民主主義陣営でも、自分たちが正しい、という信念は行き過ぎていた。

 たしかに安定していたうえに繁栄までしていた西側諸国だが、現在は激しい揺り戻しに陥っている。

 

 一般レベルで教条的に「これが正しい」とやりすぎるのは、本来的にはやはり無理筋だ。

 とくに自分が正義だと思っているやつらほど「言いすぎ」るがゆえに。

 

 たとえば弱者の保護が絶対だと言いすぎたせいで、尊大な弱者が出現するようになった。

 自分は身障者なのだから、あらゆる便宜を図られるべきだ、と信じているらしい。

 

 

 ある社会学者が、ラジオでこんなことを言っていた。

 ──障碍者はそう生まれた時点で、健常者と同様の生活を送るための最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 欧米あたりのリベラル論客が、ウォーク運動の一環で飛ばした檄文にでもありそうな、偏った言い方だと思う。

 その極端な論旨が気に入ったらしい日本の社会学者が、こういうこと言うと受けがいいんだろうなと判断し、拡散したようにも見受けられる。

 

 大事なことらしいので、もう一度書こう。

 障碍者はそう生まれた時点で、最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 私に言わせれば「ねえよそんなもの」だ。

 自分自身に引き寄せて考えてみれば明白だろう。

 

 そもそも生まれつき能力がマイナスであることなど、日常茶飯事だ。

 たとえば私はコミュ障で吃音症、話すことが苦手だが、流暢に話せる一般人と同様に評価してほしいなどとは要求しない。

 

 劣った部分を指して「迫害」を受たくはないが、だからといって、できないものをできるかのように「評価」されるのがおかしいことは知っている。

 人はその能力に応じて、毀誉褒貶を受けるべきだ。

 

 もう一度言うが、私は弱者を迫害すべきだとは、さらさら思っていない。

 ただ他人からの便宜や配慮を受けるのは、けっして「当然の権利」などではなく、せいぜい善意を期待する程度であって、「みんなが協力してくれるとありがたい」だけなのだ。

 

 

 「よかったら手を貸してください」と言えばいいのに、「手を貸せ、さもなければ敵、悪魔、非国民」と断じる。

 自分が正しいと信じ込んでいる宗教の連中が言いそうな決定論を、平然と宣う「人権派」の弁護士や社会学者にはヘドが出る。

 

 この種の論法が大好きな連中は、永劫回帰のようになくならない──なぜか。

 そういう力強い断定を好み、流される人間が一定数いるからだ。

 

 もしどうしてもそういうことが言いたいなら、宗教家にでもなれよ、と思う。

 あとは、月刊『ムー』にでも書かせてもらうかだ。

 

 どんなにふざけたことを言い放っても、ソースは『ムー』と付け足せば「じゃあしょうがない」で許してもらえる媒体。

 あれはあれで、とてもおもしろい。

 

 茶番ならけっこうだが、まじめに扇動しはじめたら、それはただの御用学者になる。

 その「説」を心から信じているならしかたないが、そう思わない人々への想像力の欠如と、それを見下すような言い方が、ここまで問題をこじらせた。

 

 そもそも彼らの意見こそが極端で、全般的に極端な意見ほど有無を言わさぬ姿勢を示しがちなのは、さまざまな熱狂と狂信の歴史が示している。

 落ち着いてものを考える間を与えず、勢いで押し切ろうという弁論術を駆使しはじめたら、ひとまず眉に唾をつけて聞くべきだろう。

 

 

 かつて人権が存在しなかった時代や、現在抑圧されている特殊な国々で「権利」を叫ぶのは、たぶん必要だ。

 しかし最低限の人権セットがすでに存在するところでは、あとは厳格な運用だけでじゅうぶんだ。

 

 むしろ問題の本質は、はじめから人権ハードルが高いところで注目を集めるために、いきおい言いすぎる「必要があった」ことだろう。

 結果、逆効果のほうが大きいことを証明したのが、昨今のリベラル崩壊だと思っている。

 

 あるイギリスのジャーナリストは、「移民受け入れへの不安を語る人々を、左派はレイシストと決めつけすぎた」と指摘している。

 的確な反省であり、欧米ではすでに左派の再編成も進んでいるように見受けられる。

 

 リベラルのせいばかりにしたくはないが、現に世界の自由民主主義指数は近年、じわじわと低下しつづけている。

 周知のとおり民主主義には多くの利点があるものの、欠点も少なくない。

 

 人種とかジェンダー意識を高めるのはいいが、あまりにも「異常な平等」を目指す「新しい宗教」の布教には、慎重になったほうがよい。

 世界にはそれ以外の宗教を信じている人々も、たくさんいるのだから。

 

 

 ──冒頭にいじめの末路を書いた。

 自分には特殊な《イジメる》権利がある、と思っていた少年は罰を受けた。

 

 彼はなぜ、自分は特別だと思えたのだろう?

 尊大な弱者も同様、ろくに人を助けてもいない人間が、自分だけは最優先で助けてもらえるのだと、なぜ信じられるのか?

 

 あなたは、なにも特別な存在ではない。

 だから自分がやられて困るようなことは、他人にもやらないほうがいい。

 

 もし助けが必要なら、丁寧にお願いし、感謝を忘れるべきではない。

 助けてもらって当然というような特殊な態度は、すべてを台無しにする。

 

 

 バートランド・ラッセルの逆説に、「この世界の最大の問題は、愚かな者が自信満々で、賢い者が懐疑的であることだ」というのがある。

 その意味では、リベラルの多くもけっこうな愚か者ばかりだった気がする。

 

 じっさい私も、「学者」というものを軒並み尊敬しているなかで、「社会学者」だけは例外に置くようになった。

 弱者保護は誤ってはいないが、限度をわきまえて発言しなければならない。

 

 最後に伝えたいのは、言うまでもなく疑いながら書いている私の言説を、すべて信じる必要はないということだ。

 心のどこかに疑いを置くだけで、くだんの社会学者よりはマシになれるだろう。

 

 ワシントンで殺人が起こったら死刑にする、とトランプ大統領が言っていた。

 民主党の影響下で死刑を廃止した州なので、わかりやすい当てつけだと思う。

 

 もろもろ意見はあると思うが、個人的には賛同する。

 「命には命をもって償わなければならない」と思うからだ。

 

 あとはそれを「だれが」執行するのかという問題だけだと思うが、神さまがいない以上、人間がやるしかないだろう。

 恣意的な執行は論外とはいえ、死刑制度そのものは必要だ、と考えている。

 

 

 ひとの「命」はかけがえのないもの。

 それはそうかもしれないが、絶対視しすぎると過ちを犯す。

 

 そもそも理系の学生は、人間を人間と思っては「解剖」さえできない。

 それは「物体である」と思い込むことで、効率よく「勉強」できるのだ。

 

 そんな夾雑物的な感情に邪魔されることなく、一直線に勉強できればある意味で効率がいいし、結果も出しやすい。

 一定割合で存在する彼らのようなタイプが、偉大なことを成し遂げることもある。

 

 ただひとつだけ、彼らが忘れてはならないこと。

 それこそが、殺す者は殺される、というルールなのではないか。

 

 

 私自身、応報感情はそれなりに強いほうだと自覚している。

 それがわるいと思ったことは、ほとんどない。

 

 そのおかげで社会の秩序が保たれている部分は、そうとうあると思う。

 万能の処方箋とまで言うつもりはないが、きわめて重要なファクターだ。

 

 いいことをしたらいいことが、わるいことをしたらわるいことが返ってくる。

 必ずしもそうならないと知っていても、自分がその姿勢を徹底することで、そう信じる根拠にはなる。

 

 

 だからかつて、とある事件で「アスペルガー障害(当時の呼び方)」が殺人事件の責任能力を著しく低下させる、と認定されたことには驚いた記憶がある。

 よく調べると、ASDで心神耗弱や心神喪失が認められるのはまれなケースのようだが、たしかに発達障害ごときで罪を軽減するなど、ありえない。

 

 私自身、ASDの傾向があるわけだが、むしろ遵法精神は高いと思っている。

 現実には、アスペはイジメの被害者などにやりやすく、切れて反撃することはあっても、重大犯罪の加害者になるケースは一般人と比べてもきわめてまれだ。

 

 アスペの子どもは「規則を守る」ことにかけては従順で、イレギュラーな行動をする友人に怒ったりもする。

 結局は程度問題、状態によるのだろう。

 

 

 

 ──殺してみたかったので殺した。

 私を驚かせてくれた先述の事件も含めて、そう考える人々は一定数いるらしい。

 

 それに対する世間の反応は、お定まりだ。

 戦慄した、人間とは思えない、残忍きわまる、このような十代が存在することは……うんぬん。

 

 捜査員が異口同音に言うのは、「変わった少年」という印象。

 捜査員も人間なので、われわれに似た感情をもっている。

 

 通常の刑事事件では「人間」を相手にするので、驚くようなことは少ない。

 しかし「人間らしさ」の欠落した相手を取り扱う場合、それなりの困難に逢着する。

 

 

 なぜ生き物は死ぬのか、それを実感したいために手を下したのだ。

 そう説明されると、わからんでもない……という気になるのは、私も「そちら側」の人間だからだろうか?

 

 否、これは一般の児童にも共有される疑問であって、通常は虫などの小さな生物に対して実験、経験、体得していく成長段階の感覚にすぎない。

 それが行きつくところ、「人を殺してみたい」というレベルまで敷衍する蓋然性が、どれほどあるかだ。

 

 殺してみたくて殺した少年は、理系の進学校に通っていた。

 そういうタイプが一定数、超進学校と呼ばれる教育機関に在籍して結果を出している事実を忘れてはならない。

 

 

 ──知らないことが多すぎるから、知ってみたい。

 そう言っていた彼は、ただの殺人鬼だろうか?

 

 自分は変わり者なのだから、他人にはできないこと、ひとに立派だと思われる大きなことをやりたいと思っていた。

 たとえば不老不死の研究で業績を出したいとか、やりたいことはいくらでもあったが、そのまえに手近なところで殺人を犯したのは、それまで「待てない」からだった。

 

 彼にとって、子どもを殺すより老人を殺すほうが「気が楽」だったというのは、善悪の理屈や観念はあったということだ。

 感情の通じる相手、つまり顔見知りは殺さないと決めてもいた。

 

 彼は一定程度、論理的に会話できる少年だった。

 差があるとすれば、一線を越えるか越えないかという点だけだった。

 

 

 何事も経験してみたかった少年。

 「囚人」としての体験もなかなかできないことなのだから、してみたい、楽しみだと。

 

 自分のなかで殺人を「マイナスの行為」としてしまうと、「こんどはうまくやろう」と再犯する可能性がある。

 プラスの行為、成功体験として位置づけ、「過去の栄光」をくりかえさなくて済むようにしたい──そのような思考が垣間見える。

 

 通常の「殺人」に対する「反省」という論理構造と、かなり異なるようにみえる。

 この体験を将来役に立てたい、と言っていた少年は、もうとっくに出所している。

 

 もし彼という隣人を排除したいなら「殺す者は殺される」べきなのだが、残念ながら現実はそうなっていない。

 われわれは、自身にとって「想像しづらい」この手のタイプの隣人を、一定数抱えて生きていくしかないということだ。

 

 

 同害報復の時代を復活させよう、とまで言うつもりはない。

 しかし、ハンムラビ法典、イスラム法のキサース、ラテン語のタリオも、目的は「過度な報復への抑制」であった点は忘れるべきではない。

 

 現在その「罰」が、あまりにも後退させられすぎている。

 やはり、殺す者は殺されるべきなのだ。

 

 自分が他者を殺してもいいということは、自分が他者に殺されてもいいということ。

 そうなっていない現代社会は、この考えを採用していないということであり、そうなるにいたった経緯について、私もそれなりに知ってはいる。

 

 犯罪を防止することが目的の刑事警察機構は、そのシステムでカバーできる社会の範疇内において効果があるのであって、そこから意識的に抜け出そうとする者には効果がない。

 同害報復や死刑は、それを覚悟している者にとって意味がないのと同じだ。

 

 殺された側の痛みを感じることができない殺人者は、自分をすなおに表現すればするほど、一般人にとって違和感をおぼえる存在となる。

 動機を詮索することが無意味な存在──そのものを、どこまで許容すべきか?

 

 

 人を殺すことが反社会の極みであるがゆえ、動物にはできない「殺人罪」という概念行為。

 たくさんの人間が殺されていても、その動物が罪に問われることはない。

 

 たとえば人間を襲ったクマはただ射殺されているし、マラリアを媒介する蚊は丹念に駆除されているだけだ。

 運が悪かったですね、不幸でしたね、としか言えない動物的加害者に、人間を含めるべきではないのか?

 

 そもそも理由がある殺人のほうがおかしい、という考え方もある。

 さまざまな加害者が存在するこの世界で、一律に死刑廃止──それこそが行き過ぎていると、私は思う。

 

 そういう考えを私自身は「わりと正しい」と思っているが、もっと正しい考えが存在するなら知りたい。

 唾棄すべきは、自分で考えないで、だれか(国家や教祖などの権威者)が言っているから正しい、と信じて自分もそう主張するたぐいの連中だと思っている。

 

 

 作業用動画に、よく昭和の歌謡曲を流している。

 年齢バイアスもあるだろうが、とても「豊かな時代」のように感じる。

 

 ハゲのおっさんが、かぐや姫とかアリスとか、かわいい女の子を名乗っていた時代。

 ヒゲのおっさんが、「女のみち」を歌い上げていた時代。

 

 なつかしさと違和感が同居する当時、よくよく考えてみればおかしいと気づく。

 とくに性別的な「役割」について、すこし考えてみたい。

 

 

 まず前提として、私は女の人を尊敬している。

 その能力を認め活躍を期待するという意味で、未来は女の時代だと思っている。

 

 現に私の勤務する会社の社長は女性だし、私が手伝っている記念館の館長も女性だ。

 卑弥呼の昔から、乱れた世でトップに立つべきは女性なのだ。

 

 と、表現している時点でフェミニストなのかなと思われているとしたら、否定しておく。

 鋭い人は気づいているかもしれないが、基本的に私はフェミ系の「活動家」とは意見が合わない。

 

 

 私は女の人が好きなので、女の人のためになることはしたい。

 だがある種の女性団体の主張には、それほんとに女性のためなの、あんたとあんたの仲間たちの「ためにする議論」じゃないの、と思うことがまれによくある。

 

 そんなときは「総論反対各論賛成」になりがちだ。

 彼らが「ためにする」耳障りのいい入り口の議論では、同意する。

 

 すると「この男、味方だな」と速断されることは多いが、すぐに化けの皮が剥がれる。

 「あぶないあぶない、こいつ仲間かと思ったら敵だわ」と認定され、憎悪がいや増す。

 

 

 女子アナという言葉は軽んじている感じがする、女性アナウンサーと呼ぶべきだ。

 女優はよくない、俳優に統一するべきだ。

 

 と、そのような指摘や流れがあるが、ばかばかしい、と思う。

 大事なのは中身じゃないの、言葉とか表現とか、そういうところ狩ってる場合なの、それともそれがわかりやすくて注目されるからやってるだけなの。

 

 抑圧されている女性は当然に助けるべきだが、すでに活躍している女性に、それ以上の配慮やアドバンテージは必要はない。

 女子アナも女優も、すでに確立し、評価されている「上流階級」だ。

 

 「本質的」という言葉はあまり好まないが、この場合、文系最大の欺瞞を利用して、なにが本質なのかを問いたい。

 表現ですか、それとも内面ですか。

 

 両者を切り離すのはむずかしい?

 あなたの選んだルートは、小さいほうの袋小路です。

 

 意識高い系は、しばしばこの袋小路でつまづく。

 そもそも一般人が、彼らの「理想」を肯定し、受け入れる蓋然性は低い。

 

 

 じっさい私は女の人を尊敬しているが、けっして理想化しているわけではない。

 クソみたいな女というのも、ずいぶん見てきた。

 

 たとえば「女の言い訳」は、とてもわかりやすい。

 もちろん男も言い訳はするが、そのロジックを解析すれば、どれだけ女が「女であることにすがっているか」がわかる。

 

 すべての人間が失敗するわけだが、そのとき男は、自分の能力が足りなかった、と認めるしかない状況に陥りやすい。

 他人のせい、社会のせいにする男も一定割合でいるが、それは犯罪者みたいなものだ。

 

 女の場合、犯罪レベルではないが、迷惑行為として注意されるレベルととらえるのが適切だろうか。

 要するに「泣けば許される」と考えるタイプに比せる。

 

 女の子だからしかたない、女の子なんだから許して。

 そう言い訳することは、もちろん犯罪ではないが、一般的に迷惑ではある。

 

 

 女同士でもウザがられることが多いだろうこの手のタイプは、多数派ではないかもしれないが、けっして見過ごせない割合のボリュームゾーンとして、残念ながら実在する。

 なぜそうなるのか、いうまでもない、女自身にとって都合がいいからだ。

 

 能力のせいにすれば自分のせいだが、女であることのせいにすれば女というあいまいなものに責任を転嫁できる。

 つまり女自身が、一定割合で、女であることにすがっているのだ。

 

 ──ねえ、金持ちの男紹介して。

 デフォルトでその程度の「並の女」が、なにを求めているのか、まずは正しく理解すべきだろう。

 

 

 そのうえで、活動家は大上段に振りかぶる。

 旧来の「意識改革」をしなければならない、と。

 

 それは古い考え方である、未来はこうあるべきだ、と誘導するのが彼らの仕事のひとつであるわけだが……げんなりする。

 大きなお世話ではないか?

 

 好きで「女」をやっている女がいても、いいではないか。

 そんなくだらないことに干渉している暇があったら、もっと助けてあげなければいけない女はいくらでもいるだろう、と思う。

 

 しかし活動家は、そういうやっかいなところにはあまり手を突っ込みたがらない。

 そして残念ながら、そのことを非難するのも、またむずかしい。

 

 

 交通課が取り締まるのは、取り締まりやすい一般人優先、という構図が似ている。

 彼らは暴走族など危険でめんどくさいターゲットより、効率のいいポイントに張り込んでネズミ捕りをしたがる。

 

 闘争本能丸出しの危険運転野郎を逮捕するより、権威を笠に着て切符を切っていたほうが楽だし儲かる。

 警察ですらその始末なのだから、活動家がどこにターゲットを絞ろうとするかは明白だ。

 

 ほんとうに救いを必要としている女より、自分自身の売名や利益になる小ネタで注目を集めること。

 活動家全員そんな連中ばかり、とまで言うつもりはないが、そのような傾向があることは事実だ。

 

 さらに言えば、どこまで助けるべきか、という問題もある。

 最後に、この重要な「文化的問題」について、すこしだけ触れておく。

 

 

 映画『チャイルド・マリッジ』は、誘拐された少女が反撃したところ相手を殺してしまって、死刑になるところを女弁護士が助ける話だ。

 誘拐婚という風習はエチオピアのほか、インドやキルギスなどにもある。

 

 多くの感想は、胸糞、日本では考えられない、など批判的であり気持ちはわかる。

 が、これはその土地の「風習」であって、多様であるべき「文化」のひとつともいえる。

 

 日本でもひと昔まえには、ハラキリしてちょんまげを結っていた。

 次男以下を家庭内奴隷化したり、強姦を結婚の契機とする地方もあった。

 

 白人は人類史の恥部とでも呼ぶべき奴隷貿易や白人至上主義を、ごく最近まで展開していた。

 黒人のなかには現在でも、原始時代とあまり変わらない暮らしをしている人々もいる。

 

 しかしその「野蛮さ」は、あくまで「現在の価値観によれば」という話にすぎない。

 その時代、その場所においては通用する背景や理屈があった。

 

 

 だから拱手傍観していればいい、と言いたいわけではない。

 ただ変化は漸進的であるべきで、活動家が目指すような「革命」などは望むべくもない。

 

 考えてみれば彼らの「活動」も、その現実に合わせているだけかもしれないと気づく。

 暇つぶしにできる程度に言葉を狩ることが、彼らの認知能力の限界なのだ。

 

 いずれにしろ、自分にできることをやるしかない。

 そのとき私は、理想ではなく現実を追いたい、と思う。

 

 25年8月22日現在、まだロシアとウクライナは戦争をしている。

 停戦への仲介が進んで、史上最高値を記録していた軍需株が下落しはじめているが、まだまだ予断は許さない状況だ。

 

 などというリアルな戦争や経済の話をするつもりは、あまりない。

 そもそも日本人には関係のない話……と思いたいところだが、遠い世界のことでもそれについて「考える」ことは重要だろう。

 

 今回は、そこに個人的な趣味を絡めてみたい。

 最近あまり語っていなかったが、私の趣味は「映画」だ。

 

 この大衆的娯楽から浮き上がる「正義」の姿は、とても興味深い。

 文化的に、より「大衆」に近い正義である蓋然性が高い、とも言い換えられる。

 

 

 まずは古い映画から──あまりに残虐なため、公開に制限がくわわったという『殺しが静かにやってくる』(1968)。

 この物語のめずらしい点は、主人公が「賞金稼ぎを殺す」仕事を請け負っていること。

 

 通常は「犯罪者を殺す」賞金稼ぎが主役になるパターンが多いわけだが、この物語では「犯罪者を守る」男サイレンスが主役。

 冒頭、降伏した賞金稼ぎの親指を撃つのは、殺す必要はない、二度と戦えなくすればそれでいいという主張が描かれる。

 

 盗賊にも理があって、彼らが盗賊にならざるをえなかったのは、街を支配する判事が彼らの仕事を奪ったから、というロジック。

 古来めずらしくもない理屈だが、万事につながる。

 

 

 「敵にも理屈はある」という構図から、ほんとうの「悪」がなにものかを浮き上がらせていく映画的設計は秀逸だ。

 まずサイレンスが賞金稼ぎをターゲットにするようになった理由は、幼いころ賞金稼ぎに両親を殺され、口封じのために声帯を切り裂かれたことから、しゃべれなくなったため。

 

 相手が銃を抜かなければ、自分も銃を抜かないという美学をもっている。

 観衆の共感を得るためのエッセンスだが、それを利用されたりもする。

 

 生活の手段として、合法的に人々が虐殺された時代──1898年。

 アンチ・アメリカ西部劇であるマカロニ・ウェスタンのなかでも、群を抜いて特異な作品だ。

 

 

 さまざまな視点の、どれを採るか。

 あくまでも当時として、それでも許されない「罪」や「悪」を断罪する物語。

 

 ターゲットは公開当時の観客であり、いまはそれを「後世として評価する」時代だ。

 だれが正しく、だれが悪なのか。

 

 白人と黒人、差別するものと、されるもの。

 正義と悪を隔てるもの、それを決めているのはだれか。

 

 当時としての評価と現在の評価は、必然的に異なる。

 歴史とは不断に「修正」されていくべきものと考えている。

 

 

 イヴァン雷帝の暴政は、ロシアの歴史も文化も否定し、かつての国を象徴する人たちを殺害し、追放した。

 それは、1917年以前に亡くなった人々の記憶を忘却へと追いやり、歪曲した。

 

 つぎはボルシェヴィキ(レーニンが率いた左派グループ)が破壊の先頭に立ち、ロシアは一度、消滅しかけた。

 彼らが十月革命を起こしたあと、しばらくは悲惨な無分別がまかり通る「破綻国家」となった。

 

 そして、プーチン。

 彼が「ロシアを壊してくれる」ことを、どうやら国民が望んでいる。

 

 この戦争がどういう結末になるのかはまだわからないが、彼らの選択はおそらく当事者に相応の苦難を強いる。

 おなじ苦しみを背負うことによって統一される国、というのもあるということだろう。

 

 

 日本がアメリカに宣戦布告せざるをえなかったのは、そうさせる多くの戦略の積み重ねがあったから。

 ロシアがウクライナに侵攻したのは、西側に根本的な原因があるから……。

 

 くりかえされる歴史を概観して私が感じたのは、ヴィスコンティ的な自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙だ。

 それは人間に内在するふたつの側面であり、人間が人間であるかぎりにおいて免れぬ宿業のようなものではないか。

 

 ロシアには、独裁、スターリン、収容所という「悪」と、ロシア文化、宇宙飛行、資源という「良」のイメージもある。

 ドイツに、ナチス、アウシュビッツ、優性思想という「悪」と、偉大な音楽家や哲学者、科学力、工業力という「良」があるように。

 

 

 ドイツで思い出したが、ヒップホップ・カルチャーが反体制とはかぎらない。

 たとえば映画『ブレイク・ビーターズ』。

 

 旧東ドイツでは、ブレイクダンスが国家主導のショーダンサーとして社会主義にローカライズされた。

 ヒップホップの視点からみれば邪道きわまりないが、ほとんどの宗教が(創始者や聖典をないがしろにするような)邪道を内包している。

 

 本来ありうべからざる邪道が、組織を育てることもある。

 結局、「どこから見るか」という視点の問題にすぎない。

 

 

 既存のヒーロー観を覆した『デッドプール』、ヴィランの定義を書き換えた『ジョーカー』。

 スーパーマンの真逆、スーパーヴィランに育った姿を描いた『ブライトバーン/恐怖の拡散者』。

 

 スーパーヒーローならやっていい破壊行為と、悪役のそれは、どうちがうのか。

 正義の心をもたなければ悪役とおなじであることは、『スパイダーマン』シリーズの名ゼリフ「大いなる力には、大いなる責任が伴う」に通じる。

 

 徹底的に街を破壊する『マン・オブ・スティール』は、日本人にもなじみ深いギャグ漫画的な描写、簡単に地球を破壊してしまうドッカンバトルの系譜だ。

 正義のために容赦なく戦うスーパーマンを、バットマンは口をきわめて罵っている。

 

 

 どの国も「正義」を旗印に戦争をする。

 とくにアメリカは、議論の余地のない「世界最強」だ。

 

 東京大空襲や原爆投下への憎悪の声があまり大きくないのは、アメリカの宣伝がすぐれていたからでもあるだろうが、つねに最悪のケースを考える国民性もあるかもしれない。

 いわゆる「怪獣映画」になじんでいる日本の世代にとっては、盛大に街を破壊する描写そのものに対する嗜好も汲み取れる。

 

 『火垂るの墓』で、自国を破壊するために飛来する爆撃機に、快哉を発する主人公の姿は印象的だ。

 こんな街、こんな国、こんな世界、ぶっ壊してしまえ。

 

 世界が滅びることを望む層は、一定数いる。

 彼らの「夢をかなえる」映画は事実、必要とされている。

 

 

 最後に、映画のような夢を、という決め台詞で知られる洋画劇場があった。

 そう、映画とは「夢」なのだ。

 

 目を覚ましたら現実に向き合い、考えるべきフェーズがやってくる。

 きょうもニュースのヘッドラインには、世界中の悲劇が並んでいる。

 

 ウクライナやEU、アメリカにとって、ロシアや中国は「悪」だ。

 しかしそれは「彼らの秩序にとって」という注釈つきであって、相手から見れば事態は反転する。

 

 そんなことは百も承知で、「自分より強いやつと戦うほうがわるい」というトランプ的な発言が、ある意味で真理だったりもする。

 アメリカ人らしい考え方で、かなりのリアリティもある。

 

 なんなら人間が「悪」という見方もある。

 人間など滅びてもらったほうがいい、という大自然の声が背景にあるとするなら、それを促進する側が正義という見方もできるのだ。

 

 いろんな視点から眺めると、映画も現実もそれなりにおもしろい。

 その先に立って、もっとおもしろい物語を書くことが、私の夢だ。

 

 作業用BGMとして、たまに映画音楽を流している。

 しょっちゅう流さないのは、作業の邪魔になることもあるからだ。

 

 なつかしい映画からテレビシリーズまで、さまざまな思い出が喚起されてくる。

 それが作業の邪魔にならないくらい集中できれば合格だが、意外にむずかしい。

 

 ふと画面を見ると、「ウォーカー」がこちらを見ていた。

 『ウォーキング・デッド』の印象的なテーマソングが流れている。

 

 そういえばこのゾンビのシリーズ、途中まで観てそのままになっていたな、と思い出した。

 さすがにもう完結しているんじゃないかな、知らんけど、と思いながらチャッピーに訊いてみた。

 

 

 ──ウォーキング・デッドってもう完結してる?

 はい、2022年第11シーズンで完結しました。

 

 ──そうなんだ。リックがヘリで連れ去られたあたりまで観た気がするんだけど。

 それならシーズン9の5話ですね。

 

 つまり、あとちょっとで完結だったらしい。

 そのうち見直すつもりだが、そのまえに質問しておくことにした。

 

 ──リックが連れ去られてから結末まで、ネタバレ全開でまとめて。

 了解しました。直前までの状況と以後の展開は──。

 

 

 というわけで結末を知り、おおむね知的好奇心が満たされて、それなりに満足した。

 便利な世の中になったものだ。

 

 そんなんでいいのかよ? と思う方も多いかと思うが、私は基本、ネタバレを許容する人間だ。

 観るまえに結末を教えられても、ちっとも怒らない。

 

 もちろん知りたくない人が多いことは知っているから、わざわざ教えることはない。

 知る知らないを選ぶのは相手の権利であり、それを無視して伝えることはその権利の侵害になる。

 

 そもそも「無礼」だ、という前提を踏まえつつ、私自身がなぜネタバレを許容するのか、その理由から分析していこう。

 おそらくこれは、性格的な部分に起因するところが大きいように思う。

 

 

 私は「予定」を大事にする。

 それが「調和」したとき、一定の快をおぼえる。

 

 予定外こそがおもしろいんじゃないか、と思うとしたら、それはあなたが「若い」からかもしれない。

 たとえばゲーテは、若いころはチャレンジ精神旺盛だったが、晩年には古典的な作品を愛し、みずからの作風もそれに寄せていったという。

 

 つまり私は「年をとった」ということ……なのかもしれないが、それだけではない。

 生まれつき、そういう「性格」の人間は、それなりにいるのだ。

 

 わかりやすいのは「鉄オタ」だろう。

 決まった時間に、決まったルートを、決まったルールで走る「鉄道」が大好きな人々は、一定数いる。

 

 

 鉄オタ程度なら、社会生活にさほど支障はないだろう。

 が、私のようにこじらせると、そうはいかない。

 

 家に引きこもり、なかなか出てこない。

 社会とのかかわりを減らし、特殊な思想を深めたりする。

 

 ここからさらに病的な深みへ落ちると、通院が必要になることもある。

 たとえばASDや統合失調症など診断名がつくようになると、その日常にはしばしばパニックが押し寄せることになる。

 

 

 発達障害といったカテゴリは、脳機能に「偏り」がある状態を指す。

 とくに深刻な子どもの場合、しばしば泣き叫び、暴れ出すこともある。

 

 たとえば何日に運動会がある、という計画を脳内に組み込んだとする。

 常識的には雨天中止なのだが、彼らは豪雨のグラウンドのなかにぽつねんと立っていたりする。

 

 予定どおりに物事が進むことが、彼らにとっては必須事項だ。

 そういう「性質」に生まれついてしまったのだから、なんとか折り合いをつけるしかない。

 

 私自身は、そこまでではないが、基本的には「そちら側」の人間だ。

 立てた計画は可能なかぎり遂行するし、できそうもない計画をぶちあげる人間は嫌悪する。

 

 ……さて、ネタバレを許さない派と許容する派。

 私が病的である事実と、この話は意外につながっている。

 

 

 アメリカ人はサプライズが大好き、という印象がある。

 全員そうではないだろうが、いわゆる「陽キャ」の代表のようなイメージがある。

 

 彼らは「予測誤差」そのものを報酬とみなす。

 よって結末を予測可能とするネタバレなどは、断固として許容できない。

 

 一方、私は「意味最大化型」の「陰キャ」である。

 もちろん明るい日本人も多いが、アメリカ人に比べればあきらかに控えめだ。

 

 そんな私のようなタイプにとって、ネタバレは「受け入れ可能な追加情報」にすぎない。

 結末を知って見ればよりいっそう物語を解析しやすくなり、物事への深い理解がもたらす快感が上昇する。

 

 物語のジャンルや作品にもよるだろうが、基本的に情報は多いほうがよい。

 結局は、なにを重視するかという視聴スタイルのちがいにすぎない、と思っている。

 

 結果を重視するなら、ネタバレは致命的になる。

 過程を楽しみたいなら、さきに結果を知ることは役に立つ。

 

 

 と、かなり無理やりつなげた気がするが、性格の問題は意外に重要だと思っている。

 日本人はネタバレ許容度が高い国なのではないか、という仮説を提示したところ、チャッピーには「独特な考え方ですね」と感心された。

 

 もちろん決めつけるつもりはない。

 ほかに理由はいくらでもある。

 

 たとえば時間資源のリスク回避。

 駄作に2時間も費やしたくない人は、まず結末を確認する、というのもひとつの手だ。

 

 私も駄作の映画については、観ながらあらすじを確認したりする。

 作品を愚弄するつもりはない。ただ「理解しよう」と努力しているのだ。

 

 結局のところ、好きなように消費したらいい。

 われわれは豊かなコンテンツに囲まれた、幸せな時代に暮らしている。

 

 私は山に住んでいる。

 転地療養とかサナトリウムという言葉があるとおり、見まわせば山、という環境は精神衛生にもたいへんよい。

 

 病んだ精神をリフレッシュするため、たまに近所を散歩する。

 すると道端にゴミが捨てられているありさまを、まれによく見る。

 

 ある程度観光地化もしているので、おそらく山登り系の「ウォーカー」どもが捨てていったのだろうと思う。

 噛まれるとゾンビになるので気をつけたい。

 

 と、冗談はさておき、ゴミは冗談ではない。

 地域住民が捨てている可能性もゼロではないが、やはり主犯は観光客だろうと疑っている。

 

 

 山にゴミ捨てるやつら、死ねばいいのに──と思うが、直接そう言いたくはない。

 表現が強すぎるからではなく、そんなことをやるような程度の低い連中には、むしろもっと強い言葉が必要かもしれないとすら思っている。

 

 それでも直接的な言い方を避けることには、もちろん理由がある。

 他人から言われるまでもなく、「自分で考えて」捨てないほうがいいと「判断して」もらいたいからだ。

 

 言われたからやるのではなく、自分で考えて正しいと思うことをやる。

 それこそが自立した、理性ある人間の在り方だと思う。

 

 

 大上段に「自然保護」を訴える人々がいる。

 自分が正しいので、そうしろと「命令」する。

 

 激しい言葉で扇動し、あるべき理想を喧伝し、それに手を貸さない人々は悪の手先、共犯者だと決めつける。

 自分たちの「高い」意識こそが正解であり、それ以外の「低い」民衆を侮蔑して見下す。

 

 言葉にとどまらず、しばしば強硬手段に打って出る。

 名画への食料品投擲、SUVタイヤの集団的パンク化、リゾート施設への放火など、数え上げればキリがない。

 

 彼らの視点では「正しい」のかもしれないが、もちろん私は疑っている。

 彼らの理想が達成されたとき、山にゴミを捨てる人がいなくなるとしても、あらゆる理想に付随する一抹の疑義を、必ず残しておかねばならない。

 

 

 海にごみを捨てるのは、最低で論外だと思う。

 かつて「垂れ流し」ていた排水は、当然に「浄化」されるべきだ。

 

 現にわれわれは、公害問題などの忌まわしい原体験とそれへの反省によって、環境負荷が少ない方法を選ぶようになった。

 が、水を「きれいにしすぎ」て沿岸の生物が栄養不足に陥る、という状況もあるやに聞く。

 

 かつて浄化せずに家庭や工場から排水しすぎた結果、富栄養化した海が「赤潮」などを起こして問題になった時代があった。

 いまは厳しく浄化しすぎた結果、陸から流れ込む栄養が少なすぎて「磯焼け」している。

 

 対策として、ほどほどに栄養分を流す、と自治体レベルで調整しているところもあるという。

 きれいにすることが必ずしもいいこととはかぎらない可能性を、閑却してはならない。

 

 

 だいたい人類は、やりすぎる。

 あらゆる「やりすぎ伝説」のために大車輪で活躍しているのが、おそらく「正義」の人々だろう。

 

 信念をもって、世界を変えようと戦う、一見「正しい」人々。

 なかには詐欺師やダークトライアドもいるだろうが、基本的には善意や正義感である場合が多いのが、やっかいなところだ。

 

 彼らは、だれかを自分の気に入るように変えよう、という衝動とともに活動する。

 この考えが正しいから、こうしておいたほうが良い。私の言うとおりにやっていればよい、異論は認めない。

 

 要するに昔の「宣教師」や、昨今の「意識高い系」のことだ。

 後者は最近そこまで踏み込むことは少なくなったが、とりあえず見下してあざ笑う程度はデフォルトでやってのける。

 

 それ自体、疑わしい。

 自分は、ほんとうに正しいのか? と自問することをやめたら、その「意識」はすでに腐りはじめていると知るべきだ。

 

 

 よく例に挙げるのだが、実写版『白雪姫』がわかりやすい。

 昔の価値観でつくられた映画が気に入らないので、原作改変して大コケしたポリコレ映画だ。

 

 この手の作品の多くに、しばしば宗教的なものを感じる。

 自分たちは正しいので、世界はそれに従うべきだ、という一神教的発想の世界線。

 

 ファンタジーをファンタジーとして楽しむ(あるいは無視する)のではなく、自分の気に入るように捻じ曲げようとする人々。

 他人の意思をコントロールして「自分に従わせたい」連中の鋳型にピタリとはまる。

 

 

 かつては「国家」が効率的にそれをやっていたが、最近は弱体化している(それでも強力ではある)。

 さらに太古からそれをやってきたのが、宗教だ。

 

 最近は宗教離れも激しいので、新しい「看板」が模索されている。

 すこし前は共産主義だったし、昨今は世界平和なり自然保護なりDEIなり、一見正しそうにみえる「教義」がもてはやされている。

 

 彼らは言う、自分は正しいので「従え」と。

 どうしてもそう「言いたい」人々は事実、一定割合で存在する。

 

 

 二度と戦争をしてはならない。

 核兵器を廃絶すべき。

 

 毎年、この時期になるとその手の番組が「定期」で流れる。

 一見、正しい。

 

 誤解されたくないが、私は平和を否定しているわけではない。

 ただ平和を叫ぶ人々自身の闇に、ときおり目を凝らすタイプであるだけだ。

 

 その行為をたとえるなら、「スケキヨの仮面を脱がせる」のに似ているかもしれない。

 かぶっていてもじゅうぶん怖いが、その口で戦争のおそろしさと自身の被害を訴えられれば、たしかに説得力はあるだろう。

 

 だが、じつのところ本物の恐怖は、仮面の下にこそ包み隠されていると知るべきだ。

 日本を非武装中立にしたい人々の宣うきれいごとが、だれの利益になっているか考えてみればよい。

 

 

 自分が正しいと思うのではなく、ほんとうに正しいのか? と問える精神。

 いまのところ、それがあまりない人類は絶滅フェーズに乗っている、と思う。

 

 これまでの地球史でもくりかえされてきた。

 環境に適応した最強の生物種は、すべて滅びてきたではないか。

 

 いま再び、最強の生物だけが生き残り、環境の変化を待っておのずから絶滅する。

 やがてくる最強の猛毒は、弱毒化の果てにこそ誕生するのだという逆説が、いずれ世界を襲うと予測する。

 

 無菌室で培養された新芽が、空気中に舞う「風邪」のウイルスで全滅する日。

 われわれは「生きる」ことの意味を知るだろう。

 

 世界が終わるはずだった7月の終わり、巨大津波のフェイクニュースが流れていた。

 だまされるやつがいるのか、と思える程度の品質だったが、一応注意が促されていた(津波ではなく虚偽情報について)。

 

 われわれはすでに、フェイク映像が容易に生成されることを知っている。

 だから「まず疑う」癖がつきはじめている。

 

 結果、ディープフェイクは、いまのところそれほど破壊的な影響をもたらしていない。

 むしろ現在の最大損害は、疑いが常態化し、政治的説明責任が機能不全に陥ることのほうかもしれない。

 

 いぜんとして深刻なのは、チープフェイクのほうだ。

 安価、迅速であり、責任回避が容易。

 

 ダストシュートのように流されていく情報のゴミが、心のどこかに汚染をこすりつけていく。

 だからXが、イラッとするSNSナンバー1の不名誉を獲得したのだろう。

 

 不確かな情報の拡散に、約半数のユーザーが腹立ちを感じている。

 プラットフォームの性質上しかたないのかもしれないが、選挙が終わってからアカウントを凍結したところで、あまり意味はない。

 

 とくに虚偽確認の時間がすくない投票日直前は、フェイクニュースがあふれるらしい。

 その宣伝の目的が奈辺にあるか、われわれは立ち止まってよく考えなければならない。

 

 

 では(事実上)選挙がない国なら、フェイクは存在しないのか?

 もちろん、そんなことはない。

 

 むしろ中国人のほうが、とくに政府を「信じない」ことにかけては上手だ。

 世界中の経済学者も、中国政府の発表はほとんど信じていない。

 

 資本主義国を凌駕する規模と強度で、じつにおもしろい「宣伝」が、党本部を主体に延々とくりひろげられている。

 国家の「威信」をかけたとき、彼らは伝統的に「フェイク」をかます。

 

 

 若いころ、小学校の社会科だったと思うが、なにやら中国産のビデオを見せられた。

 共産主義国がどういうものかを教える感じだと思うのだが、日教組に属する左巻きが選んだビデオということで、いろいろと示唆的だった。

 

 当時小学生なので、細かい突っ込みどころはよくおぼえていないが、鮮明におぼえていたシーンがある。

 農民がこぎれいな「ジャケット」を着て農作業をしていた──。

 

 うちの親はサラリーマンだが、じいちゃんは国鉄退職後、裏の畑で農業をしていたので、どんな格好で農作業するものかは理解している。

 そんな結婚式に行くような恰好で農作業しねえだろ、とは小学生でもわかった。

 

 いま思えば、中央が派遣した撮影班が、できるだけきれいな格好で作業しろと指示したのだろう。

 現実を無視した理念に走りがちな連中なので、一張羅で作業する、という不可思議な現象をそのまま撮影し、我が国はパラダイス、と宣伝する役に立つと信じたに違いない。

 

 バカじゃねえの、と思われるのが関の山だと、客観的な想像力があれば気づくと思う。

 が、理念や信仰に偏った人々にはわからない。

 

 

 40年も昔の話なので、最近ではそんなことはないでしょう、なんて思っていたら。

 中国発のキャラクターが世界で大人気、という番組を見つけた。

 

 コンテンツビジネスでも中国はすごいんだ、という主張らしい。

 コンテンツ王国の日本にとっては、新しいライバルが現れた、中国を侮ってはいけない、という文脈で番組は進められていた。

 

 そんな、世界で大人気だというキャラについて、司会がコメンテーターに意見を求める。

 すると中国研究者の先生、「そんなキャラ聞いたことないですね」と、にべもない。

 

「え、でもニュース流れていますけど」

「どこが言ってるんですか?」

「〇〇(中国の政府系メディア)です」

「そういうことですね」

 

 瞬間、もうひとりの中国人コメンテーターが吹き出していた。

 中国の理想と希望を垂れ流す国営メディアの実情を知っていれば、もう笑うしかないのだろう。

 

 こうして身内にまで笑われている中国政府は結局、なにがしたいのか?

 フェイクを垂れ流しつづければ、いずれそれが真実に塗り替えられるとでも信じているのか?

 

 そうではない。彼らはただ「愚か者だけが信じ」てくれればよく、すべからく人間は愚かだから自分たちが率いるのだ、という立場の正当化なのだろう。

 なぜなら「党は無謬」だからだ──。

 

 40年前と、ちっとも変わってないんだな、と感じた。

 共産党(無謬性のドグマ)はこのあたり、徹底している印象だ。

 

 

 ひと昔まえに見た北朝鮮発のビデオは、さらにおもしろかった。

 彼らの「宣伝」も、なかなか大時代的だ。

 

 ものが豊かで大混雑のデパートみたいなものがわが国にはある、と主張したいらしいが、行きかうだれも荷物を持っていない。

 全員、エキストラだからだ、ということを瞬時に見抜かれていた。

 

 彼らはなぜか「すぐバレるウソ」をつく。

 それはつまり、ウソをウソと見抜くような賢い人間を相手にしていない、という意味でもある。

 

 

 他人を笑ってばかりはいられない。

 戦時中の日本には大本営発表という忌まわしい時代があったし、戦後だって似たようなものだ。

 

 当時から(すくなからずいまも)、なぜか「欧米が正解」みたいな意見、主張が多い。

 冷静に考えれば、アメリカがそれほど理想的な国のわけがないのだ。

 

 奴隷制に立脚し、他国民を大量虐殺している国。

 神さまが言葉で世界をつくったと信じ、陰謀論で動くうそつき大統領が君臨する国。

 

 的確に弾劾できないのは結局、どこの国も庶民は「バカにされている」からだ。

 じっさいバカだからしょうがない、と認めざるを得ないのは、現に存在するメディアによって証明済みなのだろう。

 

 それでもバカは、徐々に減っている。

 今日よりマシな明日を信じて、考えながら生きていきたい。

 

 

 ネットで毎週、吉本新喜劇を観ている。

 大阪に住んでいたころはほとんど観なかったが、関東にもどってからよく観るようになった理由は、ここでは掘り下げない。

 

 TVerで手軽に観られるのはいいが、最近、いわゆる「お約束ギャグ」の部分をスキップするようになった。

 何度も観ていると、残念ながら飽きてくる。

 

 具体的に出すと失礼かもしれないので控えるが、なんというか……痛々しくなってくる。

 もういいよそれ、と感じないひとに向けてつくられているのだから文句を言うのも詮無いのだが、自分がターゲット外だと思い知らされるのは、すこし寂しくもある。

 

 

 お約束というのは、もちろん重要だ。

 そもそも伝統芸能じたい、様式美で成り立っているようなところもある。

 

 飽きたギャグが、一周まわっておもしろくなってくるまで観る、というのがホンモノのファンなのかもしれない。

 残念ながら私は、まだその境地には達していないし、達する気もしない。

 

 映画を観ていてスキップしたくなるのも、そういうシーンだ。

 たとえばさっき観たサイコキラー系のB級映画でも、使い古された「定型」が頻々と用いられていた。

 

 犯人のストーカー気質を表現する典型的な方法。

 隠れ家の壁に被害者の顔写真を大量に貼る、被害者の使用済みの私物を蒐集する、関係図を糸でつなぐ(いわゆるクレイジーウォール)……。

 

 この手の犯人は「そういうことしなきゃいけない」らしく、映画やドラマでは何百回も似たようなシーンが再生産されている。

 裕福なシングルマザーがサイコ野郎に狙われる、というパターンは火サスの「美人OL湯けむり殺人事件」といったところか。

 

 じっさい写真を貼るという趣味がそれほど多数派とは思えないが、制作者にとってそういう表現がわかりやすい、という判断だろう。

 登場した時点で犯人がわかるのは、ある意味、親切なのかもしれない。

 

 

 強い言い方をすれば、作り手は「視聴者をバカにしている」。

 少年誌編集者の「読者は全員バカだと思って描け」に象徴される、これは「現実」だ。

 

 正しくないわけではない。

 むしろ正しいからこそ、それを必要だと思ってやっている。

 

 言い換えれば、私のような見方をする人間は作り手のターゲット外にいる、ということになる。

 おそらく私は少数派で、多数派に向けてつくっている人々からは当然に、最初から切り捨てられている。

 

 昔好きだったシリーズもののゲームの新作をやっていて、コレジャナイ、と感じるのと似ている。

 彼らは「若者」に対してゲームをつくっているので、私のような「古参」はアウトオブなのだ。

 

 

 あまり攻めすぎてもリスクが高い、ということはもちろんある。

 たしかにマニア向けの駄作は多いが、一般向けの駄作はその何十倍も量産されている。

 

 駄作でも、母数が多いのでそこそこ消費されるからだ。

 万一当たったらデカイし、そもそも「大失敗」しづらいことのほうが重視される。

 

 そうして蒸留されていった結果、残された解が作劇上の「型」なのだろう。

 お約束だけを積み重ねて達する伝統芸能の域にも、それなりの存在理由はあるだろうとも思う。

 

 しかしだ。

 にしても、もうちょっと工夫があってもいいのではないかな……。

 

 

 そういう私のようなこじらせた人間向けに、最適化された物語を量産できる可能性があるのがAIだ。

 私のハードルは高いのでまだまだ不十分なところは多いが、AIはきちんと指示さえすれば、並の人間よりも考えられた答えを出してくる。

 

 短編はもう、私よりうまいと言っていい。

 長編の積み重ねられた複雑な情報を、うまく組み合わせて表現するのはまだ無理そうだが、そのうちできるだろう。

 

 現状それらの瑕疵を消していく作業ができている間は、まだ私にも存在理由があるように思える。

 いずれ私を含む「人間」を超える日がくるだろうが、私の寿命が尽きる前に見届けることができるかどうかは、やや疑問に思う。

 

 なにを問うべきか。

 どう均衡を取るか。

 

 たぶんこのへんが、最後に残された課題になるだろう。

 このブログや日々の会話が、AIの成長に資すれば幸いだ。