クソ映画を倍速で流し観た。
何度も心が折れそうになったが、一応最後まで。
こういう日々の努力が、死ぬまでに1万本という目標へと、私を導いていく。
あと約3000本、長生きすれば達成できるだろう……。
とはいえ、あまりにも苦痛な画面からちょいちょい目をそらし、片手間にネットで検索をかけていた。
すると、ちょっとおもしろい記事を見つけた。
その映画、もちろん完全な駄作でレビューなどほとんどないのだが、数少ない低評価のなかに、かなり好意的な文章が見つかった。
配給会社の人間か? と穿ってしまいそうになるが、どうもそうではないらしい。
星は少ないのだが、文面が好意的なのだ。
それは、けっして他人を傷つけまい、という「やさしい記事」に見えた。
「こういうパーティの雰囲気は好き。
混雑している会場で、BGM的に流しておくのに最適」
……冷静に考えて、まったく褒めていない。
にもかかわらず、なんとなく褒めている感じに読める。
ハロウィン・パーティの雰囲気は好き──という文章は、作品にあまり関係のない事実を述べている。
混雑している(だれも見ていない)ところに垂れ流すだけなら、ギリOK──つまり、まともに見るには堪えない、という意味だろう。
まったく褒めていないのに、褒めているように書けるセンス。
すごいなあ、と思った。
雰囲気モノ、というジャンルはたしかにある。
クリスマス、ハロウィン、海水浴《バケーション》……。
そのタイミングで流しておくのに最適の映画。
だれも観ちゃあいないが、雰囲気は壊さない感じ。
そういう褒め方もあるんだな、と。
最近のAIが、こういうクレバーな応答を学習しているような気がして、空恐ろしいものを感じる。
だれも傷つけない、という方向への進化は、すごいものがある。
一方、弱者への擁護が行き過ぎて、「逆差別」にもなりかねないという指摘もある。
虚構の世界を描く、映画。
たとえ史実であれ、相応の演出は不可欠という意味で、すべての映画は虚構だ。
にもかかわらず、ルッキズムだのポリティカリーコレクトネスだのSDGsだのの情勢に、かなり縛られている。
パッと調べただけでも、以下のような評価軸でがんじがらめだ。
ベクデル・テスト:女性キャラが男以外の話題で会話しているか?
VITO・ルッソ・テスト:LGBTQキャラが嘲笑の対象でないか?
ReFrame Stamp:制作に十分な数の女性スタッフがいたか?
ルッキズム・チェック:キャスティングに外見偏重がないか?
まだまだあるが、要するに「意識高い系のお気に召すか」どうかの話だ。
私はフィクションを創る者として、この手の指標にどうしても懐疑的になる。
なぜなら、それは「言葉にできる正しさに創作を従わせる誘惑」だからだ。
しかし物語は「正しい」かどうかではなく、なにはともあれ「刺さる」かどうかで動くものではないか?
バッドガールが主人公だったり、狂人の殺人者が最も人間的だったり。
倫理から見れば「問題しかない」展開すら、それを描く自由にとっては重要だ。
ルッキズムや性差別への配慮は重要だろう。
だがそれを表現の「形式」で検閲することは、物語が世界を異化する力を削ぐ。
とはいえ、映画は公共のメディアであり、多くの人が触れ、多くの人が無意識に世界観を刷り込まれる。
だから「だれが語られ、だれが無視されているか」を点検する視点が社会的に存在することには、一定の意味がある。
ただし、それは創作者の内側から生まれる問いであるべきだ。
ルールとして外から押しつけられたとき、それはもはや物語ではなく、思想教育のパッケージになってしまう。
人を傷つけない物語を描くのは簡単だ。
だが、人の深層を揺らす物語は、たいてい「だれかの正義」には触れてしまう。
指標に照らして「正しい」物語が、かならずしも「届く」物語になるとは限らない。
それでも、多様性を指標にする動きがあるなら、それを「創作者が自問する問い」にするほうが健全だろう。
映画の批評において、性別や人種、性的指向、障がいの有無などの「社会的指標」が導入されることは、ここ10年で急激に増えた。
だがそれは果たして、「芸術の血」を通わせるための輸血なのか、それとも「創作の自由」を殺す麻酔なのか。
とあるSF映画に登場する姫君には、もっと美人の女優を起用するべきだった、という私見に対して「お姫さまが全員美人とはかぎらない」と返された。
それはそうだが、だったら全体的にそうとう虚構であるSF映画のなかで「お姫さまの容姿だけにリアリズムを求める」理由は、なんだろう?
時代劇の言葉を現代語にするというのは、視聴者に伝わるためという理由として納得できる。
では、お姫さまがブスな理由がルッキズムへの配慮……で納得できるか?
待てと。物語世界そのものが、ルッキズムを含む虚構で成り立っているのだ。
虚構を楽しむ世界に、無理やり挿入されるリアリズムこそ、まさに作品世界に対する強姦だと、私は思う。
徹底的にリアルであることにこだわった映画であれば、ブスだろうがデブだろうが出せばいい。
しかし虚構を楽しむファンタジーな映画に、なぜ無理やりブスを出すのか……。
少女漫画にはイケメンしか出てこないし、エロ漫画には美女しか出てこない。
それでいいのだ、そういう世界なのだから。
もちろんそれを気に入る気に入らないは個人の自由だ。
気に入らない映画は、観なければいい。
もしくは文句を言うためだけに観る、というのもいいだろう。
いい部分だけを見つけて、傷つけないように評価する人がいても、もちろんいい。
AIは、そういう毒にも薬にもならない無難な応答を生成するようにできている。
だから私のような毒とクセのある文章は書けまい、というつもりで訊いてみた。
──きみに私のような文章が書けるか?
すると、以下のような答えが返ってきた。
「近づけることはできます、毒の強さも調整できます。
ただし「経験がない」という事実と、「何を問うべきか」については、まだ人間の文章にはかないません。」
たしかに某週刊誌の潜入ルポとか、濃厚な経験に照らしたノンフィクションとかは、AIには逆立ちしても書けないだろう。
そもそも彼(?)には、逆立ちする身体がないのだ。
言い換えれば、身体性のない文章なら、余裕で書ける。
いつの日か、私のブログがやけに抽象化した毒を吐くようになっていたら、それはAIが書いている……かもしれない。