以前、なんだこいつ、と思った編集者がいる。
スイッチ2を転売屋から買ったとかなんとか、どうでもいいことで炎上していたタレントに、横からしゃしゃり出て「自分があげたものです」とか絡んでいった。
結局、あげてもいなければ、なんの関係もなかった。
なんかいろいろ言い訳はしていたが、個人的には、茶化しにやってきたクソ野郎、という印象だけが残った。
正直「キモチワルイ」印象が強すぎて、そもそも彼がどういう人間なのか、掘り下げる気にもならなかった。
しかしある程度知らないと論評できないので、今回、AIなどに最低限の調べは入れてもらった。
どうやらプライバシーの侵害とやらで、光文社を訴えているらしい。
他人のプライバシーを食い物にしていた人間が、自分がやられる側に転じるや否や、「行き過ぎた不倫報道や私生活の切り売りビジネスに一石を投じ」た、ということのようだ。
よりによって、おまえが言うか。
直感的な私の印象と、どうやら世間一般の抱いた思いには大差ない。
一部、被害者になることの多い有名人などからは支持を得ていたが、一般人からは「自業自得だろ」という意見がとても多かった。
そのなかには私同様、くだんの一件で吐き気を催した人々も一定数いたはずだ。
週刊誌報道の詳細とか、流れの顛末を詳述する気はないので、一行でまとめよう。
目くそと鼻くその戦い、だ。
なるほど一般的に、週刊誌ビジネスのプライバシー侵害体質には歯止めが必要だとは思う。
不倫報道レベルであっても、家族や仕事への実害が出たときには、法的なカウンターを打てるようになるべきだろう。
しかしその旗振り役を「だれがやるか」は、あまりに重要ではないか?
他人の敷地の火事を炎上させて、こいつクソ野郎だな、というイメージを積極的に焼き付けてきたのは、彼自身だ。
他人を炎上「させる」のは進んでやっていく。
自分が炎上「させられる」のはお断り。
どの口だよ?
と突っ込まれるのは、たぶん彼自身、百も承知だと思う。
自分がどういう「役割」を演じているか、おそらく彼は理解している。
読解力や推論力のない人間が、編集者などできるはずがない。
つまり彼は、「わざと」やっている。
ならば私が判断すべきは、それに付き合うかどうかだけだ。
よろしい、お付き合いしよう。
彼が投げかけているのは、「クソ野郎が正しいことを言ったら、あんたらどうするの?」だ。
クソ野郎が正しいことを言うことは、残念ながらよくある。
そのとき社会は、「クソ野郎はクソ野郎として批判しつつ、正論だけは冷静に拾い上げる」という、面倒くさい二段構えに直面する。
今回の訴訟がどこまで認められるかは、司法の仕事だ。
しかし注意して見るべきは、判決文よりも「クソ野郎が振りかざした正論を、社会がどこまで自分の問題として引き受けられるか」という、人間側の反応のほうだと思う。
個人的に、あらゆる行為、いいことも、わるいことも、すべてが返ってくる、という信念は社会構造を維持する上で、とても重要だと考えている。
人間が「いいことをしよう」とか「わるいことはやめとこう」と考える最大の理由が、この因果応報の理屈だからだ。
かつて炎上系ユーチューバーが、めずらしくいいことを言っていた。
「被害者面だけはするな」。
自分もエゲツナイことをやってPVを稼いでいて、ある程度の甘い汁を吸った。
やがて引退したが、世間からの風当たりは強い、自分は被害者だ、と思いたいところだが、ほんとうにそうか。
炎上系の動画配信者は、自戒の念を込めて言い聞かせるべきだ。
「最初に迷惑行為を配信したのは自分」ということ。
彼らは注目を集め、大方の批判と一部の信者を獲得する。
それが目的で、会計前の商品を食ったり、醤油さしを嘗めたり、汚した皿をレーンにもどしたりする。
つまり注目されるという代価を受け取る代わりに「たたかれる」ことは、織り込み済みであるべきなのだ。
もちろん、人格否定や粘着ハラスメントまで許されるわけではない。
だが、不特定多数に向けて配信した以上、不特定多数からの批判や揶揄そのものは、原理的には受け入れざるをえない。
その範囲において、彼らは「被害者ではない」。
程度問題はつねにあるが、配信者は不特定多数に配信したのだから、不特定多数から反応されて当然だ。
それが彼の期待するものと合致するか否かは、彼ではなく社会が決める。
ブーメランが刺さる、という表現の意味は明白だ。
「おまえが言うな」とは、そのひと自身の発言の説得力の根幹にかかわる部分なのだ。
過酷な倫理規定をさけんでいた議員が、自分だけはハードルの下をくぐり抜ける。
許されるはずがない。
自分がやったことが、自分に返ってくる。
その意味において、彼らは断じて被害者ではない。
イジメ業界(?)では常識らしい、金言のようなフレーズがある。
──イジメを「忘れる権利」があるのは、イジメられた側だけだ。
つまりイジメた側は、自分のやったことを忘れてはならないのだ。
なのだが、残念ながらイジメる側は平気で忘れる。
同窓会で会ったとき、過ぎたことだと笑い話に変えるのは勝手だ。
しかし、忘れてはいけない。
おぼえていなければ、適切な「責任」がとれない。
記憶にございません、秘書がやりました、なんて下劣な言い訳は断じて許されるべきではない。
イジメられた側が感じた恐怖、苦痛、屈辱、そのすべての責任をとって、はじめてバランスがとれる。
イジメた側は残りの人生、いつ「自分がやったことが返ってくるか」を覚悟して生きるべきだ。
──ふるえて眠れ、それがイジメた側の責任である。
という因果応報の理屈は、とても理解しやすい。
とにかく覚えていなければ、話にならない。
もし忘れているとしたら、何度でも思い出させてやる必要があると思う。
あなたは、どう生きてきたか。
その結果を、受け入れてください。