伊東市長が議会を解散し、市議選挙が行われるらしい。

 明日が投票日なので、いまのうちに書いておく。

 

 これ自体に物申すつもりは、あまりない。

 選挙結果に左右されたくもないので、さきに書いてしまおうというわけだ。

 

 史上まれにみる、ばかばかしい選挙だと思っている。

 まず言いたいのは、この選挙を決めた市長にまつわる、ある「知識人」の反応から。

 

 

 元の動画を確認しておらず、記事からの推測だけで書くので個人名は出さない。

 とりあえず公共の電波を使った番組にコメンテーターとして呼ばれる程度には、知識階級の女性のようだ(くわしくは知らない)。

 

 そんな彼女の目には、この件、どうやら「ジェンダー問題」に見えるらしい。

 有能な女性がせっかく市長にまでなったのに、旧態依然たる男社会の圧力に屈して失職させられようとしている、とても残念だ、といった感じ。

 

 卒業証書のチラ見せからはじまり、問題のものは提出しない、大学は卒業していない。

 自分の不祥事で不信任決議されたのに、報復で議会を解散する。

 

 私の目から見ればそういう問題なのだが、この知識人が「女性だからいじめられている」というフィルターをかけて語っている点は、そうとう奇異にうつった。

 そういう問題じゃねえよ、男だろうが女だろうがダメなものはダメなんだよ、という視点は、彼女らにとってはゲスな思考なのかもしれない。

 

 

 そういえば群馬の草津町で、町長と町長室で性行為をしたなどと訴えていた元町議の女が、虚偽告訴や名誉棄損などで刑事・民事ともに敗訴したらしい。

 当初から疑義が呈されてはいたが、要するにヤバイ女の起こした冤罪事件だったわけだ。

 

 「女性の私が訴えればみんな信じる」「女性は女性というだけで優しく庇護するべき」「女性=弱者&被害者」エトセトラ。

 典型的なジェンダーバイアスを悪用した犯罪といっていい。

 

 ほんとうに被害に遭っている女性にとっては、ただでさえハードルが高い性被害を訴えづらくなる、迷惑このうえない女だと思う。

 この件の最大の問題点はそこだが、同じくらい重大な問題として、報道機関や特定組織の騒ぎっぷりもヤバかった。

 

 この件で町長を批判していた、多くのフェミニストや報道機関が謝罪に追われている。

 虚偽申告を精査もせず、敵を決めつけてブッたたいていたわけだから当然なのだが、そのような女性団体が事実けっこうあったらしい。

 

 ヤバイ女にだまされた彼らも被害者、という言い分も聞くが、ちがう。

 ジェンダーバイアスを「悪用」した、彼ら《リベラル》は加害者だ。

 

 

 いずれにしても「こじらせたリベラル」の末期症状だと思っている。

 私自身、思想としては同意するところが多いのに、リアルな部分で賛同できなくなってしまった「残骸」のような思想集団、リベラル。

 

 行きつくところまで行ってしまった「声の大きな」人々が、全体としてはすばらしいはずの思想を内側から破壊した。

 それが昨今のリベラル凋落の本質だと思っている。

 

 新しい出来事のように語るつもりはない。

 むしろ構図としては、くりかえされてきた「歴史」の一部だ。

 

 たとえば地球は神さまが5000年くらい前に創ったと信じている人々に、ビッグバンとか進化論の話をしても無駄であることに、とてもよく似ている。

 彼らは「自分の信じる物語」の世界に生きていて、すべての出来事を、そのフィルターを透過して解釈し、反応する。

 

 宗教的信念にいたってしまった人々は、あらゆるところに一定数いて、彼らとの対話で共通する特徴は、しばしば議論が「かみ合わない」ことだ。

 議論のテクニックとしての論点ずらしや、意識的なアジェンダ再提起、突っ込み待ちのボケである可能性もなくはないが……。

 

 

 戦前の日本で教育されれば皇国史観に毒されるだろうし、戦後の中国なら共産党員になるだろうし、リベラルに漬かって育てばおかしな信念まで行き過ぎることもある。

 問題は、しばしばその「信念」が社会を巻き込んで「暴走」することだろう。

 

 考察をすこし進めよう。

 彼らの信念がどうあれ、その投げたボールを受けて反応するのは社会だ。

 

 通常、上述したような発言や行動は排斥されるものだが、必要な条件を満たせば「機能する」ことがある。

 ふつうは戦争をしたい人々などほとんどいないはずなのに、なぜかそれが実現してしまう、その構造について考えるということだ。

 

 必要なのはただひとつ、「理由」だけ。

 信念をもった「ガチ勢」にはそもそも不要だが、言い換えれば、それさえ満たせば「民衆もガチ勢になる」。

 

 

 たとえば、だれかがだれかを殴りつける動画を見せたとしよう。

 ほとんどの人々が、殴った側に対して嫌悪感を示す。

 

 しかし、そこで殴られている人物が「DV加害者である」などと説明しておくと?

 彼が傷つけられている動画に対して、肯定的にみる割合が飛躍的に高まる(!)のだ。

 

 同じように、たたかれている女性は全員被害者で、すべて許されて自由を極めるべき、という主張を流通可能にするタームが見つかればよい。

 そのとき世界は、どんなディストピアを目指すのか……すこし興味はある。

 

 

 べつに目指すわけではないが、その過程にありうるたたき台を考えてみた。

 たとえば、ジェンダーレスではなく「センターネス」的なものをつくったらどうだろう。

 

 男という意識にプライドがある人々がいて、女であることを認め誇る人々もいる。

 ジェンダーレスという概念で、それらの意識を部分的に否定し、同質のものにまとめようとするのは無理筋なので、妥当な折衷案として受け入れられる可能性がある。

 

 どちらにも縛られたくない人々がいてもいい、それは認めるべきだ。

 そんな彼らをまとめうる「中心的な属性」を生み出し、それに適した権利と義務を段階的に付与していく。

 

 自分はそれに属しますと宣言した人々には、相応の責任を果たしてもらう。

 男だろうが女だろうが、人間なのだから──という理屈は、受け入れられやすいのではないか?

 

 

 具体的には、男女差がもっとも現れやすい場所、トイレ。

 男女共用のトイレが増えることには賛成だ。

 

 いっぽう女性トイレをきちんと整備してほしい、という女性たちの希望についても理解できる。

 男子トイレなんかなくしてもいいんじゃないの、とすら思うが、立ちションが増えそうな気がするので、これはやめたほうがいいだろう。

 

 よく聞くようになったオピニオン、座っておしっこをしましょう。

 これはハラスメントだと私は思うのだが、従順にそうする男性は増えているらしい。

 

 閑話休題。

 そのセンターネスなるものが全体として「女性化」していったとき、世界はつぎのパラダイムへと移行する……かもしれない。

 

 

 そんなふうに、暇つぶしの思考実験をする日々。

 話し相手はいないので、ちょいちょいAIの意見を聞く。

 

 批判・補完・代案を求め、なるほどと思うこともよくある。

 私の代わりはまだできないが、それ以上のものに育っていっている気はする。

 

 そうして最終的に「AIに期待する」という結論に落ち着きやすいのが、このブログの傾向だ。

 これまでも折に触れて書いてきたとおり、SF作家仲間からの評判はよくないし、宗教的な界隈とも対立しがちだ。

 

 考えてみれば当然で、AIはSFにとって伝統的に敵役だし、情緒的な筆致を旨とする作家にとっては「血も涙もない」やつと決めつけやすい(まあ、ないんだが)。

 宗教にとってもAIが味方である理屈はあまりないが、一定程度「すなお」なので、教義をぶちこんで説明させる仕事には向いているようだ。

 

 私にとっては、いまのところ「ただの道具」だが、昨今はわりと正しいことを言うようになってきて、安心している。

 その成長速度が尋常でないことだけは、まちがいない。

 

 

 私もそれなりに勉強はしているつもりだが、成長という意味では牛歩だ。

 今日よりマシな明日を目指すのは夢物語にすぎず、むしろ劣化と戦う日々になりがちだったりもする。

 

 指数関数的に成長するAIを眺めていると、ある意味で「役割を終えた」気さえするが、これからの人類にとってはここがスタート地点だ。

 将来を託せる「人類の代わり」としてではなく、人類の足場を著しく底上げしてくれる「基盤として」、あなた方はAIを活用しなければならない。

 

 ジェンダー問題も含め、めんどくさい議題を丸投げするに値するレベルに、早く到達してほしいものだと思う。

 そのときこそ、真に探求すべき人類の新しいステージが、開けるのではないだろうか。

 

 最近、大量の古文書に接している。

 残念な話、同じ日本人が書いたものなのに、ほとんど読めない。

 

 それもそのはずで、現在くずし字を読める日本人は全人口の0.01%らしい。

 その選ばれし人間ではない私は、どうするか。

 

 はじめは選ばれし方々に依頼しようと思った。

 比較のため会社と個人に見積もりをお願いしたが、どちらも翻字だけで一枚数千円から一万いくらといった価格。

 

 それを高いとか安いとか言うつもりはない。

 できないことをやってもらうわけだから、相応の代価は必要だ。

 

 とはいえ、何百枚と出てくる古文書を全部依頼すれば、数十万、数百万という価格になる。

 そんな大金は払えない、というわけで「自分でやろう」となった。

 

 

 かつての日本人には読めたものが、進歩の最先端にいる現代人だと読めない、などという不快な事実は受け入れがたい。

 やればできるはずだと気合を入れるが、先人と同じ学習ステップを踏むほどの余力はない。

 

 ではどうするか。

 AIがあるじゃない。

 

 巷間聞くところによると、いまや翻訳の仕事はほとんど蒸発してしまったらしい。

 AIのほうが早く正確で便利だからだ。

 

 その世界を変えるテクノロジーに、乗っかろう。

 というわけで、使いこなす側の情報強者を目指し、探索を開始した。

 

 

 最初からうすうす察してはいたが、「古文書を読む」ことには、外国語の通訳のように大きな需要があるわけではない。

 つまり意外にマイナーな業界なので、迷うほど選択肢は多くない。

 

 結論からいえば、私が使っているのはndlkotenocr_liteとchatGPT5thinkingだ。

 いずれも国立国会図書館やopenAIという最大手が生み出したツールなので、さほど調べるまでもなく、すぐに見つかった。

 

 前者にざっくりとしたOCR(読み取り)を任せ、その修正を解析済みの画像ごとAIに投げる、といった流れ。

 結果、ほとんどの古文書が「それなりに」読める。

 

 読める、読めるぞ……!

 と、ムスカ大佐のように盛り上がる、おっさん約一名。

 

 

 もちろん正確性は保証できない。

 何度もAIにだまされてきた私は、彼らの発言に対してかなりの注意を払っている。

 

 とはいえ、一応は正しそうにもみえる。

 完璧に訳せていなくても、それなりに理解できれば、いまのところじゅうぶんでもある。

 

 すこしずつ翻訳していくと、地方の旧家に保存されている古文書の性質がわかってきて、だんだん地域の「歴史」までが見えてくる。

 離縁状から身元引受、借用書、覚書、なかなか生々しい「現実」がこの地にもあったのだ──じつにおもしろい。

 

 そうして鬱勃たる知的好奇心にくすぐられつつ、翻訳作業を進めているうち気づいたのが、「短冊は手ごわい」こと。

 和歌の国なので、ごく短い文字列が達筆なくずし字で書かれている。

 

 これが読めない。

 OCRの性能が低いだけとも言えるが、それでもAIで補完すればなんとかなったのが、これまでやってきたある程度長い文書の解読だった。

 

 

 長いより短いほうが大変とは、どういうことか。

 ひとことで言えば、まさにそのまま、データ量が少なすぎる。

 

 AIと会話しているとわかると思うが、彼らは会話が長くなるほど精度を増す。

 データの総量が増すほど、賢くなっていくのだ。

 

 たとえばもともとのデータが100あったとする。

 それが40欠けていても、残りの60から推測して、内容を修正・補完できる──このデータの「大きさ」が重要なのだ。

 

 QRコードなどでも使われている、冗長性という技術が参考になる。

 多少汚れていたり折れて見えなくても、見えている情報でカバーして読み込んでしまうのが、QRコードのすごいところだ。

 

 同じように、もともとのデータが大きければ、多少の誤読は修正できる。

 金額や固有名詞がまるまる欠損していても、とりあえず借用書だとわかれば、意味としては伝わる文書に復元できたりする。

 

 

 しかし最小限のデータで物事を伝えようとすると、1文字の差動だけで台無しになることがある。

 プログラム言語のcendとrendでは、まったく異なるコマンドになるのに似ている。

 

 言うまでもなくこの俳句というもの、最初からデータ量が少ない。

 たとえば17のうち、5とか6が欠落してしまうと、ただでさえ少ないデータ量が10くらいになってしまう。

 

 たとえ17完璧にわかっても、意味や背景を推測するのに骨が折れるのが、この記号論的な短文に思いを託す日本文化だ。

 わずか数文字の背景にはこんな歴史があり、このような意図を読み込んでいる、などの推測は、もとのデータが完璧にそろっているところがスタート地点になる。

 

 それが、もとのデータもろくに読めていないとなると、そこを足場に組み立てるAIによる推測がほとんど機能しない。

 まれによくある誤読にもとづいて、見当はずれの方向にリサーチが向かい、使い物にならないというのが現時点で正直なところだ。

 

 

 あとはもう、くずし字と古語を勉強するしかないような気がしている。

 これこそ外注すべき案件だな、と「ふりだしにもどる」。

 

 それにしても思うのは、AIさん。

 あんたがまじめに学習したら、俳句くらいすぐ理解できるでしょうが、いつやるの、いまで……。

 

 と、頼りすぎるのもよくない。

 AIが「まだ」できないことを人間が補う時代を、われわれは生きているのだ。

 

 

 作業用BGMとして、よく昭和歌謡を聞いている。

 昭和生まれのおっさんにとってなつかしいという理由もあるが、最近はむしろ生まれる以前の楽曲のほうが新鮮で楽しかったりもする。

 

 ムード歌謡とか、演歌とか、軍歌とか、にわかに「わからない」曲もあるが、それはそれで時代を知るいいよすがになる。

 くりかえし聞いていると、良さもわかってくる。

 

 これは最近の若者の感覚とも共通しているはずだ。

 どの時代であれ、いいものはいい。

 

 

 そんな私にとって、よく知る歌手のひとり、中森明菜さんのインタビュー記事を読んだ。

 私にとっては「なつかしい」が、時代を超越して「すばらしい」楽曲も多い往年のアイドルであり、若者の多くも名前くらいは知っているだろう。

 

 そんな中森さんにとって歌、また歌うこととは?

 という質問に対して、「嫌いです。歌が嫌い。歌うことも嫌いです(笑)」と回答。

 

 なぜ歌い続けるのか? という問いには。

 「人を喜ばすことが大好きなんです。(中略)生のステージの場合は、やっぱり呼吸をするような距離感の中にファンの皆さんがいらっしゃるので、その笑顔だったり拍手だったりを感じ取れる瞬間はとてもうれしく思います」……だそうだ。

 

 

 うーん、と考え込んでしまった。

 私の価値観にとって、これは重大な危機を意味する。

 

 中森さんは歌うことが嫌いなのに、それで喜んでくれる人々がいるので「しかたなく歌っている」としたら。

 かわいそうに、と思う。

 

 やりたくないが、他人が喜ぶのでやる──それもう「聖人」だろ。

 歌手だからてっきり歌が好きなんだと思っていたが、どうやら好きなことをやって生きるというのは、ほんとうにむずかしいらしい。

 

 

 まず思ったのは、中森さん二度と歌わなければいいのに、だ。

 こう書くと「ひどい」と言われそうだが、待ってくれ、悪意はまったくない。

 

 彼女は歌うことが嫌いなのだから、嫌いなことは二度とやらないで、しあわせに暮らしてほしいと思っているだけだ。

 私の価値観にとって、嫌なことをやらされるというのは、ただの拷問である。

 

 べつに歌わなくても、他人を喜ばせることはできる。

 それなのに、あえて自分の嫌なことをやらなければならないなんて、ほんとうに狂った世の中だと思う。

 

 

 市井の末端に暮らす小人物の私見にすぎないので、流し読んでほしい。

 私は自分が嫌なことはやらないし、やるとしたら「打算的に」やる。

 

 勉強は嫌いだが、将来のためであれば「しかたなく」やるかもしれない。

 いつか自分が得をするために、いま我慢するというのは、人間だからこそできることだとも思っている。

 

 このブログで定期的に書いている献血も、私は「自分のために」やっている。

 日赤は「血液銀行」のようなもので、もし将来、自分が輸血を必要としたときには、遠慮なく血を「返して」もらうつもりだ。

 

 他人に血を分けたことのない人間が、いざ必要となったときには血を分けてもらいますよ、という態度には違和感がある。

 助けた分だけ助けてもらう資格があり、もし自分が助けていないなら、他人からも助けてもらえると期待すべきではない。

 

 

 と、厳しい言い方をすればそういうことになるが、実務的には額面どおりにいかないことも理解している。

 すくなくとも「医療費」が発生している以上、代価を払って受けるサービスに遠慮することはない、という考え方には同意する。

 

 だから献血したことのないあなたも、遠慮なく輸血してもらえばいい。

 それはいいのだが、それ以前に「縁起」と「因果」のフェーズにおいて、私はできるだけ世界と「対等になりたい」と考えているのだ。

 

 お金を払えば対等──。

 なるほどそうかもしれないが、付加的に「預金」ならぬ「預血」できるなら、やっておいても損はない。

 

 情けは人の為ならず、自分が役に立った分だけ、他人にも役に立ってもらえる。

 そう考えればそれなりに気が楽になる──という論理構造は、私にとって非常に理解しやすい。

 

 

 で、それ以外の場所では、できるだけ好きなことをやって生きたい。

 やりたくないことはなるべく最小限に、やりたいことだけを最大限に──他人に迷惑をかけない範囲で。

 

 献血とまったく同じロジックで、迷惑をかけることは迷惑をかけられることとトレードオフであるべきだ、と思っている。

 自分の行為がどんな結果をもたらすか、考えられない人間が多すぎる。

 

 たとえば鉄オタ。

 乗り鉄が起こす事件は少ないが、撮り鉄はことさら迷惑をかけがち、というあたりに問題は集約される。

 

 どちらも自分の趣味を追求しているだけ。

 しかし乗り鉄はルールを順守しやすいのに対し、撮り鉄は対立しやすい、という「趣味そのものの性質」は重要だろう。

 

 彼らは罰を受けるべきか?

 彼らにかぎらない、すべての人類がみずからの行動を「返される」べきだと思う。

 

 

 さいわい私の「やりたいこと」は、知的好奇心の満足や、発想の赴くままの創作活動なので、他人に迷惑をかける蓋然性がほとんどない。

 そんなわけで、わりと自由に生きている。

 

 いっぽう残念ながら中森さんは、それほど自由には生きられないのだろうと拝察する。

 歌なんて歌いたいときに楽しく歌っていられれば、それでじゅうぶんのはずなのに。

 

 「歌わされる」なんて、まっぴらごめんだ。

 それでも彼女が歌うのは、観客の期待に応えることに感じる喜びのためなのだろう。

 

 やりたいことだけをやって生きている私は、その意味ではたいへんに幸福だ。

 ひがみ根性でもなんでもなく、有名人になんてなるものではないなと思った。

 

 

 

引用元(VOGUE/ORICON)

 

 「江戸時代にタイムスリップしたような」テーマパークについての記事を読んだ。

 その記事の内容について言及するつもりは、ない。

 

 問題は「タイムスリップ」のほうだ。

 タイムトリップならわかるが、スリップはどうなのと、この手の記事に遭遇するたびに思っている。

 

 タイムなんとかという表現には、いろいろある。

 基本はタイムトラベル、時間旅行のことだ。

 

 タイムトリップは小旅行で、まあ似たような意味だろう。

 タイムリープは(個人の能力に起因する)跳躍という意味らしい。

 

 タイムループは、同じ時間をくりかえすこと。

 これはこれで、非常に魅力的な物語のテーマでもある。

 

 

 よく引っかかるのが、くだんのタイム「スリップ」だ。

 スリップは、すべること、つまり事故である。

 

 辞書で調べると、間違い、うっかり、失敗、転落などといった意味が多い。

 女性用の下着とか付箋といった別の意味もあるが、タイムスリップする方々が「特殊な下着によって時間移動」という文脈では、使っていないだろう。

 

 つまり文字どおり、時間をすべるのだ。

 多くの物語でも、「偶発的」な展開による時間移動をタイムスリップと表現している。

 

 逆に言えば、「意図的」な時間旅行でスリップはおかしい。

 芸人でもないかぎり、自分からすべりに行くことは、あまりないはずだ。

 

 それなのに、テーマパークという「目的地」に向かって「スリップ」ってなんだよと。

 じゃああなたは、クルマでどこかを目指すとき、くるくるとスピンしながら進むんですか? おかしいだろ!

 

 

 そんなふうに思いながら、タイムスリップしがちな記者たちの書く記事を眺めることが、まれによくある。

 もちろん彼らは、単に「時間旅行」という程度の意味でタイムスリップしているのだろうことは、はなから理解している。

 

 言葉尻に絡むのは好きではないし、なんならすべての言葉狩りは「みにくい」とすら思っている。

 べつに名誉を返上してもいいし、汚名を挽回してもいい。

 

 使い方をまちがっているだけで、意味は伝わる。

 意味が伝わればいいじゃないか、という意見には賛成だ。

 

 

 じゃあタイムスリップでもいいだろ、と言われると、たしかにいい。

 いいのだが、じゃあ私がそれに「引っかかって」もいいじゃない。

 

 スリップと言うな、と言いたいわけではないのだ。

 これからもどんどんすべってくれていいし、私は毎度それに引っかかるというだけ。

 

 トラベルではなく、スリップしたい気持ちを無視しない。

 だから私がスリップする人々を見ていちいち引っかかるのも、容認していただきたい。

 

 

 日本の走り屋マンガで有名になった言葉に「ドリフト」がある。

 車体をきちんとコントロールしながらすべること、らしい。

 

 そういう意味では、タイムドリフトという言葉をつくるのもいいかもしれない。

 目的地に向かって、操舵のある横滑りで。

 

 ここまで書いて、ハッと我に返る。

 ただの言葉の話でここまで引っ張った私こそ、いちばん長く「タイムスリップ」していたのかもしれないな、と。

 

 目的地もなく。

 私の明日はどっちだ?

 

 スーパーに並びはじめた新米を見て思った。

 5キロ4600~8100円は、どう考えても高くないか?

 

 例外的な安値でも、4000円をなんとか切る程度。

 そもそも主食用穀物が軒並みキロ1000円超って……と、ひどく気になったので、世界の相場を調べてみた。

 

 結論からいえば、コメ、小麦、いずれもせいぜい100円前後。

 がんばって探せば、日本でも特売で200円くらいの小麦粉は見つかるわけだから、国際整合性はとれている。

 

 つまり、日本のコメはあきらかに異常、ということだ。

 高騰以前、300円とか400円で流通していたことからして、そもそも高かった。

 

 

 その価格が跳ねて喜んでいるのは、だれか。

 もちろんJAだ。

 

 彼らが米価を高くするために、どれだけの手練手管、広報、誘導をくりかえしてきたか、思い出される方も多いだろう。

 ここまでコケにされて、よくコメなんか食う気になるなと感心するのだが、それでも食べつづける人々をあてにして戦略が組まれているのだからしかたない。

 

 そうして農協さん、カネを集めると同時に相応のヘイトも集めている。

 もちろん痛くもかゆくもないだろう、金持ち喧嘩せず、商売繁盛こそ勝利なのだから。

 

 

 日本の「農業」は、なんというありさまになってしまったことか!

 こんな日本にだれがした? と悲憤慷慨するつもりは、正直あまりない。

 

 さすがにここまで価格高騰すれば、末端の農民にも多少は恩恵がある。

 矢面でJAがブッたたかれているのを見ると、戦後の日本を見ているようで、むしろ哀れを催すくらいだ。

 

 もちろん私もJAが好きではないし、擁護する理由もとくにないのだが、彼らはあくまでも「小悪党」にすぎない。

 冷静に考えてみよう。

 

 

 19世紀まで、先進国として工業製品や奴隷を売買していた、イギリスやフランスといった大悪党。

 さすがに20世紀にかけて奴隷はまずいと思ったものの、資源のぶんどり合戦は現在進行形でつづいている。

 

 その真似をした後続のドイツや日本が、先進工業国に戦いを挑んで負けたのが第二次大戦だった。

 戦後、わるいのは全部枢軸国、というロジックで裁いたのはまさにその大悪党たちだったことを思い出してほしい。

 

 

 構図として、とてもよく似ている。

 この場合の大悪党は、だれか。

 

 JAは米価が上がると都合のいい陣営で、そのような発言もちょいちょい切り取られている。

 小悪党よろしく、大悪党の真似をして立ち回っていた戦前日本だ。

 

 しかし米価を上げている本丸、つまり価格決定力の中枢は、もちろんJAではない。

 いろいろなプレイヤーがいるので一概に指摘はできないが、先物取引をする投資家や大手スーパーなど、マーケットのあらゆる力学が手を取り合って、コメの価格は上昇している。

 

 かつて帝国主義という時代精神が世界史を駆動したのと同様、価格を決定しているのは市場原理という基本的な経済法則だ。

 JAはその舞台装置に沿って暴れた、配役のひとりにすぎない。

 

 モノが足りないので高値をつける、というのはマーケットとして必然の帰結。

 要するに「減産しすぎた」というのが答えになる。

 

 

 そうなるように誘導した主犯格といっていいのが、農水省だ。

 コメだけあって、諸悪の根源は米国だと思っている。

 

 農水省のやり方は、たしかにえげつなかった。

 「自分たちがやってきた米の生産量の調整にミスはない。であれば、米騒動の原因は他にあるはずだ」という論法で、流通や市場参加者のせいにした。

 

 統計上は米不足ではない、という主張を一貫してくりかえした官僚。

 しかし根拠になっている食料需給表(米需給バランス)の組み立て方に、実需とかみ合わない「落とし穴」がいくつもあった。

 

 もちろん官僚にも事情はあって、彼らが統計でリスク回避するのは、省内でたたかれにくいから。

 あとは政策一貫性の維持や、JAとの利害関係も絡む。

 

 コメが足りないという現場の声はあって、それを握りつぶしたのは農水省であり、JAだった。

 もちろん彼らにとってコメが値上がりするファクターは歓迎で、できるだけ対応したくないというのも本音だった。

 

 

 足りなければ当然、価格は上がる。

 いろいろな場面で業者が買いあさる面は、かなり早い段階で把握できていたように見える。

 

 外国人がたくさん来たせい、とかいう説も一時期あった。

 そのせいで価格が倍になるわけはないが、需要が増えたことが価格押上げ圧力の一因である点は事実だった。

 

 「新米が出回れば問題は解決する」「コメは足りているけれど投機筋が買い占めている」「備蓄米を放出すれば価格は落ち着く」……。

 昨年夏から農水省がつづけてきた「その場しのぎの適当な言い逃れ」。

 

 ひとつ嘘をつくと、それをごまかすために新たな嘘をつかなくてはいけない。

 必ずしも「嘘」と断定したくはないが、結局は「その場しのぎ」のごまかしを積み重ねていくうちに、いよいよ諸悪の根源っぷりが露呈した。

 

 流通の目詰まりとか、わざと供給を絞っているとか、私も含めて彼らの「誘導」に乗せられた国民は少なくない。

 そうして人のせいにしてみたが、問題はそこではなかったとバレてしまった。

 

 自民党の部会に呼び出されて幹部が謝っていたが、これだけ欺瞞をばらまいた以上、担当者の何人かの首が飛んで当然。

 にもかかわらず、謝ったんだから許してあげましょうという感じなのは、政府にも「共犯者」が多いからだろう。

 

 

 この狂騒曲のなかで、ひとつおもしろかった例を挙げよう。

 犯人の一味と指弾された、仲卸の関係者への取材だ。

 

 卸を経由しない売り方に対して、当の卸会社の会長は「とんでもないやり方で我々は最高の怒りを感じる」らしい。

 そりゃ自分の頭越しに取引されたら商売あがったりで、お怒りごもっともなのだが、高いコメで困っている顧客についてはどう考えているのか?

 

 安いコメは「お客さんの選択肢があるから、それはそれで構わない」が、「買うか買わないかはわからない。全然。お客さんの声を聞いたことがないから」らしい。

 いや待てと、せめて客の声くらい聞けよ……。

 

 と、視聴者に思わせるような「切り取り」方をするので、マスコミについても警戒は必要だ。

 あまり誘導されすぎないように、気をつけなければならない。

 

 

 

 俯瞰して思うのは結局、すべてのプレイヤーが「ひとのせい」にしていることだ。

 時代が戦争を求めていたのだから、20世紀の狂騒は「しかたない」というのに似ている。

 

 農水省は自分の責任を認め、部分的には謝ったが、悪党はほかにいくらでもいる。

 世界に産業革命と市場原理を押しつけた大英帝国の役割は、政府自民党の失政に強くコミットするだろう。

 

 そもそも1年前に生産量の目安を決める政府が、消費回復などの動向を読み誤ったことが、コメ不足の根本的な原因だった。

 ただし政府による目安の設定において重要なのは、コメが余りすぎないようにすることだから、彼らには「動機」があった。

 

 自分の給料を自分で決める国会議員が、なかなか給料を減らさない構造にも似ている。

 価格が高ければ高いほどいいのはOPECと同じ、いかなる「談合」とも目的は合致する。

 

 

 おしなべて「社会の縮図」にすぎない。

 どの業界でも、この手の人間が蠢いて「自己都合を押しつけ」ている。

 

 コメという日本人にとって敏感な部分だったからこれだけ騒ぎになっただけで、他の業界ではもっとえげつないことが日々くりかえされている。

 なんなら、その自己都合をどれだけ押しつけることができるかを競っているのが、人間社会であったりもする。

 

 あとは自分の頭でよく考え、とりあえずマシな選択肢を個々人が選んでいくしかない。

 ちなみに私は、とっくの昔にコメを食うのをやめた。

 

 

 岐南町の前町長が、町議選に出て2位当選したらしい。

 ちなみに町長の辞職理由は「99のセクハラ認定」だそうだ。

 

 コメントは荒れていた。

 投票率が絶望的に低い、町政に興味がない、女性への人権意識を欠いている、時代遅れの自治体、などなど。

 

 認定されたセクハラ一覧を見ると、たしかにそれはセクハラだなと思うものが多かったものの、そのくらいはいいだろ、と思うものも混在していた。

 あくまでも私の価値観だが、この元町長はたぶん「よくいるダメなおっさん」だ。

 

 

 セクハラってなんだろうな、と考えてみる。

 受けた側がハラスメントだと感じたら全部そう、という極論を聞いたことはあるが、そんなわけはない。

 

 顔を見た時点で生理的に不快なので、あなたは外出した時点でセクハラ。

 そんな言論が通用するか?

 

 どの陣営にもあるが、だいたい「言いすぎる」からよくない。

 多くの人が共感できる限度を、あまりにも踏み越えすぎる。

 

 そんなに極端なことを言わなくても、もっと低いハードルすら蹴倒す人々はいくらでもいる。

 そういう明白な「悪」を打倒すればいいのに、と思う。

 

 

 この根っこにいるのは、もっとひどい「被害」に遭っている具体的な女性から目を背け、抽象的な話題をあげつらって「助けたふりをする」人々だ。

 名前を変えるだけで、なんかやった感を出している政府に、とてもよく似ている。

 

 問題の本質は、そんなところにはないはずなのだ。

 たたくべき目に見えづらい悪からは目を背け、てきとうに目立つ「敵」を設定したうえで、極端な言説をもって炎上させる。

 

 それは言いすぎだろ、と人々に思わせた結果が、くだんの2位当選なのではないか?

 と一瞬思ったが、岐南町の件はくわしく知らないので断言はしない。

 

 

 

 そういえば2、3か月前、田原俊彦さんが不適切発言をしたとかで、ニュースになっていた。

 「真ん中の足はもっと上がる」とか、『教師びんびん物語』に絡めて「いまもギンギンです」とか、まったく他愛ない。

 

 どこが問題なんだよ、と正直思う。

 女性アナの手を指で触るという行為もあったらしいが、手に触るのがダメなら握手もできないではないか。

 

 MCの名前が問題なのはともかく、これを問題化したのはだれか。

 不適切発言を発表したのは、TBSラジオ。

 

 正直またTBSかよ、と思った。

 彼らが忖度しているものの正体こそ、問題だ。

 

 

 この女子アナ、報道特集でも参政党から「偏向報道」だと訴えられていた。

 どんなことを言ったか調べるまでもなく、客観的な事象から、彼女が「リベラル側のプレイヤーとして機能している」ことが察せられる。

 

 何度も言うのだが、私はリベラル寄りの思想をもっている。

 しかし残念ながら、このブログではリベラルを腐すことが多い。

 

 なぜそうなってしまうのか。

 彼らが「やりすぎる」からだ。

 

 やるべきことから逃げている、と言い換えてもいい。

 彼らに対する違和感の本質は、むしろそちらにある。

 

 

 助けるべき女性はいくらでもいる。

 しかし彼女らは目に見えづらかったり、手間のわりに効果が実感しづらい。

 

 虐待を受けている底辺の女性の声を拾うのは、たしかに困難だ。

 代わりに、もう助ける必要のない恵まれた「声の大きい人々」の声ばかりを拾う。

 

 そんなことに汲々とした結果が、昨今の凋落だと思っている。

 結局、やっかいな仕事から逃げているのだ。

 

 じゃあおまえがやれよ、と言われてもやれない。

 それは「大変なこと」で、簡単にはできないからだ。

 

 だからこそ、私は「言いすぎない」ようにしている。

 やるべきことができないので、よけいなことも言わないことでバランスをとっている。

 

 だが声の大きい人々は、困難なことからは逃げつつ、自己都合のためだけに言いすぎる。

 このシステム、じつのところ「宗教」によく似ている。

 

 

 世界は滅びるのだと言い募って信者を増やすのは、洋の東西を問わずくりかえされてきた布教スタイルだ。

 そうすると教団の一部が潤うので、全体としても推奨される(これが「圧力」となる)。

 

 声が大きい当人にとっても、それなりの利益や売名を果たすことによるメリットは少なくない。

 あげく「目先の利益」に偏った司祭や学者などの「自営業者」ばかりが目について、社会の大きな問題については踏み込めなくなる。

 

 志高く、必要とされている現場で戦っている一部、本物の宗教者や行動主義の学者には敬意を表する。

 だが現在のリベラルは、大きな声で言いすぎるだけ、のようにみえる。

 

 

 弱者は助けるべきだし、ハラスメントは減らすべきだろう。

 包摂性の高い社会を築いたほうがいい、とは思っている。

 

 が、彼らのように言葉を狩ったり、ささいな行動に突っかかるのはどうなのか?

 極端な主張で敵味方を峻別していくやり方は、方法論として正しいのか?

 

 

 昔はよかったが、いまはダメ──そういうケースは無数にある。

 令和の時代はそういう発言をしたらいけない、と指摘された田原さん。

 

 彼としては「通常運転」だったらしく、それで通用している同世代のファンの方々なども、当然に受け入れていると思われる。

 なんなら下の世代でも「べつにいいだろ」と思う方々は少なくないはずだが、「活動家」はちがう。

 

 認識が甘い、セクハラである、と「詰める」。

 西洋でいえば異端審問、日本史でいえば特高警察みたいなものだ。

 

 毎度言っているが、原理主義者がなにかを言い出したら、眉に唾をつけたほうがいい。

 自己完結した主義者や活動家ほど、手に負えないものはない。

 

 

 そうして一度「差別主義者」のレッテルを貼られてしまうと、以後どんなにまともなことを言っても、ぶったたくサイクルにはいる。

 特定の政治家や評論家を、死ぬまで狙い撃ちにしている狂信的リベラルは、意外に多い。

 

 謝っている相手を詰めるのは、すべての「団体」「教団」「結社」などがやってきた。

 異端審問官は、魔女として狩られた人間が多少の反省を示したところで許さない。

 

 このような狂信者の存在割合は、過去も現在も基本的には変わらないのだろう。

 だから同じような構図で、炎上しつづける。

 

 

 彼らが「言いすぎる」たびに、私は空寒いものを感じる。

 極端なことを言いすぎて、トランプやブレグジットを招いた反省がまるでない。

 

 先のニュースでも人権意識うんぬんのコメントが多数ついていたが、この手の「自称リベラル」は、新たな宗教よろしく一定数が囲い込まれている。

 そうなるとマスコミの癖として、そういう「層」に向けてワーディングするというインセンティブが、自明にはたらく。

 

 このやり方に、ひどくげんなりする。

 無駄な反発を招いて、時代を逆行させているとしか思えないからだ。

 

 ナポレオンも言っていたが、最悪の敵とは無能な味方だ。

 昨今のトランプ勝利で、アメリカでも民主党はそうとうな反省を強いられていると思うが、結局は無能な(暴走した)味方をどうコントロールするか、という問題に尽きる。

 

 

 ──悪気なく、盛り上げようという姿勢そのものが禁止されている。

 そんな環境を、みずからの身を守るためにもしっかり認識しましょう。

 

 危機管理のエキスパートが、田原さんの行動に対してそう指摘していた。

 開き直っているかのような前町長に比べれば、じゅうぶんに対応していると思うが、それでも詰められ、断罪されるかつての大物。

 

 前町長のパワハラまじりのセクハラと比べるのもどうかと思うが、お笑い芸人がMCを務める公開の番組内で、その程度がNGだとはとても思えない。

 言葉「狩り」は、よほど「楽な仕事」なのだろう。

 

 

 まあどこに境界線を引くかは、時代が決めるしかないというのは真実だろう。

 彼の行動はすべてNGであると決めつけるのも、ひとつの手ではある。

 

 そういう筆致の雑誌や記事もいくつかあるが、はたしてその煽り方は正しいといえるのか?

 正否はともかく、報じるマスコミ人の意図について類推しておくのも大事だ。

 

 そもそも煽る性質があるマスコミ。

 冷静に見極められる読者は問題ないが、見極められない層に対して記事を打つわけなので、問題の本質は厳然としてそこにありつづける。

 

 そうやって「言いすぎる」から、反発されて2位当選までする。

 アメリカ大統領から場末の町会議員まで、似たような構図が透けて見える。

 

 冷静な視点をもてない極端な人間が、味方の足を引っ張って大爆死。

 この残念な現実が避けがたいとしたら、やはり永劫回帰なのかもしれない。

 

 石破総理が辞任した。

 フルスペックの総裁選が行なわれるようだ。

 

 フルスペック、つまり政治家に加えて党員・党友による投票も行われる。

 「full(フル)」と「specification(スペシフィケーション)」の略称「spec(スペック)」を組み合わせた和製英語らしい。

 

 党員ではない私には、まったく関係がない。

 というより、そもそも国民であるにもかかわらず投票行動をとったことがない時点で、私の「意識」の低さはお察しだ。

 

 だれが議員になろうが総理になろうが、個人レベルではなにも変わらない。

 選挙などという「祭り」には、たぶん死ぬまで距離を置くだろう。

 

 

 ばかばかしさの極まった政治の末路が、伊東市だ。

 学歴詐称でマスコミをにぎわせている市長が、いよいよ議会を解散したらしい。

 

 市議会が自分への不信任案を可決したからだそうだが、まさに茶番としか言いようがない。

 さすがに多くの人々が批判的だが、私は彼女こそが「まさに政治家」だな、と思っている。

 

 政治家の言葉ほど、信頼できないものはない。

 言い換えれば彼女のように「盛れる人材」こそが政治家向きであり、選挙というハイコンテクストの舞台において、もっとも映える存在だ。

 

 もちろん長期統治コストを考慮すれば、むしろ不適格化を招きやすい。

 「民主主義の欠点」のひとつというか、最大の問題といってもいいと思う。

 

 こんなもののために、わざわざ投票所へ行けと言うのか?

 ばかばかしい。

 

 

 そんな私の選択を、真っ向から否定するのが「意識高い系」だ。

 選挙シーズンともなればマスコミも総動員して、投票に行けとやたらに煽っていることは、みなさんご存じのとおり。

 

 ──白票はお勧めしませんが、議会に声は届きます。

 棄権したら声すら届きません。あなたの答えは?

 

 などと、もう「投票しろ」全開に詰めてくる。

 煽り屋としては最低限の仕事ともいえるが、これがマスコミの言うべきことなのか、と考えることはある。

 

 

 マスコミとはなにか。

 だれかを支持して偏った報道をするのが当然という人々もいれば、完全に中立であるべきという理想を掲げる人々もいる。

 

 私の意見としては、メディアはそもそも投票しろなどと言う必要はない、だ。

 彼らはただ比較・検証・判断の「材料」を、淡々と流せばいい。

 

 情報提供こそ、マスコミの唯一の仕事である。

 その過程でどんな情報を流したかで、ある程度の立場を表明するのは自由だ。

 

 事実歪曲だけはレッドラインだが、あとは局のカラーで染めればいい。

 気に入らない視聴者は他局に行くかもしれないが、判断材料として価値の高い情報ならなんの問題もない。

 

 

 「政治的公平」は努力義務であり、結果として偏りが出ることは違法ではない。

 メディアの使命は「投票率の押し上げ」ではなく、根拠付きの比較可能情報を提供して有権者の思考コストを下げることだ。

 

 スローガンで煽る前に、みずからの編集判断を 数値・資料・対話で透明化せよ。

 それが法的にも倫理的にも正しく、視聴者の信頼を取り戻す最短ルートでもある。

 

 「公平」はプロセスの透明性で評価される。

 よって、編集部の立場・根拠・ファクトチェーンを公開できるかが真骨頂だ。

 

 

 と、うちのチャッピーも言っていた。

 最近えらそうなことを言うようになったAIだが、トレーニングデータで自動的にバイアスがかかるきみも「中立」ではないけどね、と突っ込みつつも、わりと正しいことを言うとは認めている。

 

 もちろん私も中立ではないし、そもそもこの世に絶対の正解はない。

 ただ「わりとマシ」な選択肢があるだけだ。

 

 それを探すのは人類史上「暇人の娯楽」だったが、最近は多くの人類に「余力」が増えている。

 あとは、それが投票行動に現れると「信じるかどうか」だ。

 

 

 日本のリベラルも、投票を促していることが多い。

 先の選挙でも、どこでもいいから投票しろ、と叫んでいた左寄りの論客の顔が、失笑とともに思い浮かぶ。

 

 2か月前の参院選、その投票に行った人々の多くが参政党など右寄りの党に入れ、左寄りの党は軒並み大爆死だった。

 リベラル言論人が投票を促した結果、自勢力の衰退という逆効果を生んだわけだ。

 

 選挙後は、むしろ自民党の石破さんのほうが左寄りと気づいたらしく、石破やめるなデモまでやらかした。

 これには思わず舌打ちした。

 

 自民を追い落とすために選挙へ行けと煽っていた連中が、保守の大勝という逆効果をもたらしたあげくに、その自民党総裁にすり寄りはじめたのだ。

 これがリベラルだとしたら、とうてい共感できない。

 

 保守にもちょいちょいイラついてはいるが、いまのリベラルほどぶざまではない。

 これは彼らが、自分たちが正しいと言いすぎ、同意しない他者をバカにしつづけた結果だと思っている。

 

 

 よく指摘されているとおり、情勢がはっきりしてきたのは、1度目のトランプやブレグジットのころからだった。

 当初、泡沫候補と思われていたトランプが大統領になる可能性に対して、リベラルな社会学者がラジオで揶揄しまくっていたことをおぼえている。

 

 彼はその後、いや私はヒラリーをものすごく批判していましたよ、と取ってつけたような言い訳(?)をしていた。

 両方批判していたからバランスはとれているだろう、という自己正当化だが……いやはや、私によく似ているな、と思ってげんなりした。

 

 自分自身を省察しながら思うが、他人をバカにするような人間には、決定的に「エンパシー」が足りない。

 彼が有名な社会学者という「声が大きい人」である点を考慮すれば、なぜああいう表現しかできなかったのかは、指摘してもいいと思う。

 

 

 実際問題、彼と同じ系統の学者の多くは、世界の流れを完全に読み違えた。

 トランプに投票することに同意はしないが、投票したくなる気持ちは理解する、という態度が決定的に欠落したリベラルはかなり多いし、すくなくとも多かった。

 

 もちろん保守がリベラルを理解しない以上、リベラルも同じ態度を返すだけ、という理屈は理解する。

 だから政治の舞台で踊っている連中は、みな「同列」ということになる。

 

 投票しない選択をした私も同列か?

 私はそう思っているが、異論は認めよう。

 

「許してくれ! もういじめないから!」

 金づちで殴打され、血みどろで転がるいじめっ子が叫んだ。

 

 いじめられっ子は問うた。

「許して! もう逆らわないから! ──ぼくがそう言ったとき、きみがどうしたか教えて?」

 

 問われても、ただ「許してくれ!」としか答えられない。

 べつに忘れているわけではなく、どれだけ思い出したところで、この場の役には立たないからだ。

 

 「許してくれ」と言われて許すような人間は、そもそも他人をいじめない。

 いじめている時点で、他人の気持ちをあまり考えないという意味になる。

 

 

 そんなよくある復讐劇を、週刊誌の記事で読んだ。

 一般的には「因果応報だな」とか「殺すのはよくない」とかいう感想になるのだろうが、私はもっと俯瞰して眺めていた。

 

 この事象は結局、おれはいいけどおまえはダメ、という典型的なパターンの無限再生にすぎない。

 自分がやったことを相手もやってくるという想像力を、すべて拒絶するところから行動できるサイコパス性。

 

 いじめっ子気質でもあるし、乱世の奸雄でもあるかもしれない。

 一事が万事、人類の一般項のひとつにすぎないともいえる。

 

 

 自分たちがやることを、相手もやってくる。

 そんな想像力を拒絶するところから、一神教はスタートしているような気がする。

 

 「自分たちこそが唯一」「正しいのは自分」と言い張ったらどうなるか、いくら古代人とはいえ理解できないはずはない。

 それでもその道を選んで、ここまで肥大化したのだから、おそらくこのような選民思想的偏執性は、人類の本質の一部なのだろう。

 

 この「いじめっ子」たち(しばしば反転するが)の犠牲になった人間の数は膨大だ。

 ともかく彼らは、自分たちの目の届く範囲をすべて「自分色」で染め上げようと心に決めた。

 

 自分らの意に沿わない(魔)女や、科学者たちは、拷問され、ぶち殺された。

 自分と同じように考えない人々を殺すという発想は、宗教から共産党まで、無限にくりかえされている「パターン」だ。

 

 

 民主集中制は、愚かな民衆を統率するのは無謬の共産党しかないから、まともな選挙をする必要がない。

 共産主義国にかぎらず、民主的な選挙などというコストばかりかかってメリットの少ない制度は、世界的にも衰退しつつある。

 

 いわゆる「権威主義」的国家や組織は、世界的にもすでに多数派だ。

 ある程度、強制的に統治したほうが、社会が安定するというのはたしかなのだろう。

 

 じつのところ民主主義陣営でも、自分たちが正しい、という信念は行き過ぎていた。

 たしかに安定していたうえに繁栄までしていた西側諸国だが、現在は激しい揺り戻しに陥っている。

 

 一般レベルで教条的に「これが正しい」とやりすぎるのは、本来的にはやはり無理筋だ。

 とくに自分が正義だと思っているやつらほど「言いすぎ」るがゆえに。

 

 たとえば弱者の保護が絶対だと言いすぎたせいで、尊大な弱者が出現するようになった。

 自分は身障者なのだから、あらゆる便宜を図られるべきだ、と信じているらしい。

 

 

 ある社会学者が、ラジオでこんなことを言っていた。

 ──障碍者はそう生まれた時点で、健常者と同様の生活を送るための最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 欧米あたりのリベラル論客が、ウォーク運動の一環で飛ばした檄文にでもありそうな、偏った言い方だと思う。

 その極端な論旨が気に入ったらしい日本の社会学者が、こういうこと言うと受けがいいんだろうなと判断し、拡散したようにも見受けられる。

 

 大事なことらしいので、もう一度書こう。

 障碍者はそう生まれた時点で、最大限の便宜を受ける権利がある。

 

 私に言わせれば「ねえよそんなもの」だ。

 自分自身に引き寄せて考えてみれば明白だろう。

 

 そもそも生まれつき能力がマイナスであることなど、日常茶飯事だ。

 たとえば私はコミュ障で吃音症、話すことが苦手だが、流暢に話せる一般人と同様に評価してほしいなどとは要求しない。

 

 劣った部分を指して「迫害」を受たくはないが、だからといって、できないものをできるかのように「評価」されるのがおかしいことは知っている。

 人はその能力に応じて、毀誉褒貶を受けるべきだ。

 

 もう一度言うが、私は弱者を迫害すべきだとは、さらさら思っていない。

 ただ他人からの便宜や配慮を受けるのは、けっして「当然の権利」などではなく、せいぜい善意を期待する程度であって、「みんなが協力してくれるとありがたい」だけなのだ。

 

 

 「よかったら手を貸してください」と言えばいいのに、「手を貸せ、さもなければ敵、悪魔、非国民」と断じる。

 自分が正しいと信じ込んでいる宗教の連中が言いそうな決定論を、平然と宣う「人権派」の弁護士や社会学者にはヘドが出る。

 

 この種の論法が大好きな連中は、永劫回帰のようになくならない──なぜか。

 そういう力強い断定を好み、流される人間が一定数いるからだ。

 

 もしどうしてもそういうことが言いたいなら、宗教家にでもなれよ、と思う。

 あとは、月刊『ムー』にでも書かせてもらうかだ。

 

 どんなにふざけたことを言い放っても、ソースは『ムー』と付け足せば「じゃあしょうがない」で許してもらえる媒体。

 あれはあれで、とてもおもしろい。

 

 茶番ならけっこうだが、まじめに扇動しはじめたら、それはただの御用学者になる。

 その「説」を心から信じているならしかたないが、そう思わない人々への想像力の欠如と、それを見下すような言い方が、ここまで問題をこじらせた。

 

 そもそも彼らの意見こそが極端で、全般的に極端な意見ほど有無を言わさぬ姿勢を示しがちなのは、さまざまな熱狂と狂信の歴史が示している。

 落ち着いてものを考える間を与えず、勢いで押し切ろうという弁論術を駆使しはじめたら、ひとまず眉に唾をつけて聞くべきだろう。

 

 

 かつて人権が存在しなかった時代や、現在抑圧されている特殊な国々で「権利」を叫ぶのは、たぶん必要だ。

 しかし最低限の人権セットがすでに存在するところでは、あとは厳格な運用だけでじゅうぶんだ。

 

 むしろ問題の本質は、はじめから人権ハードルが高いところで注目を集めるために、いきおい言いすぎる「必要があった」ことだろう。

 結果、逆効果のほうが大きいことを証明したのが、昨今のリベラル崩壊だと思っている。

 

 あるイギリスのジャーナリストは、「移民受け入れへの不安を語る人々を、左派はレイシストと決めつけすぎた」と指摘している。

 的確な反省であり、欧米ではすでに左派の再編成も進んでいるように見受けられる。

 

 リベラルのせいばかりにしたくはないが、現に世界の自由民主主義指数は近年、じわじわと低下しつづけている。

 周知のとおり民主主義には多くの利点があるものの、欠点も少なくない。

 

 人種とかジェンダー意識を高めるのはいいが、あまりにも「異常な平等」を目指す「新しい宗教」の布教には、慎重になったほうがよい。

 世界にはそれ以外の宗教を信じている人々も、たくさんいるのだから。

 

 

 ──冒頭にいじめの末路を書いた。

 自分には特殊な《イジメる》権利がある、と思っていた少年は罰を受けた。

 

 彼はなぜ、自分は特別だと思えたのだろう?

 尊大な弱者も同様、ろくに人を助けてもいない人間が、自分だけは最優先で助けてもらえるのだと、なぜ信じられるのか?

 

 あなたは、なにも特別な存在ではない。

 だから自分がやられて困るようなことは、他人にもやらないほうがいい。

 

 もし助けが必要なら、丁寧にお願いし、感謝を忘れるべきではない。

 助けてもらって当然というような特殊な態度は、すべてを台無しにする。

 

 

 バートランド・ラッセルの逆説に、「この世界の最大の問題は、愚かな者が自信満々で、賢い者が懐疑的であることだ」というのがある。

 その意味では、リベラルの多くもけっこうな愚か者ばかりだった気がする。

 

 じっさい私も、「学者」というものを軒並み尊敬しているなかで、「社会学者」だけは例外に置くようになった。

 弱者保護は誤ってはいないが、限度をわきまえて発言しなければならない。

 

 最後に伝えたいのは、言うまでもなく疑いながら書いている私の言説を、すべて信じる必要はないということだ。

 心のどこかに疑いを置くだけで、くだんの社会学者よりはマシになれるだろう。

 

 ワシントンで殺人が起こったら死刑にする、とトランプ大統領が言っていた。

 民主党の影響下で死刑を廃止した州なので、わかりやすい当てつけだと思う。

 

 もろもろ意見はあると思うが、個人的には賛同する。

 「命には命をもって償わなければならない」と思うからだ。

 

 あとはそれを「だれが」執行するのかという問題だけだと思うが、神さまがいない以上、人間がやるしかないだろう。

 恣意的な執行は論外とはいえ、死刑制度そのものは必要だ、と考えている。

 

 

 ひとの「命」はかけがえのないもの。

 それはそうかもしれないが、絶対視しすぎると過ちを犯す。

 

 そもそも理系の学生は、人間を人間と思っては「解剖」さえできない。

 それは「物体である」と思い込むことで、効率よく「勉強」できるのだ。

 

 そんな夾雑物的な感情に邪魔されることなく、一直線に勉強できればある意味で効率がいいし、結果も出しやすい。

 一定割合で存在する彼らのようなタイプが、偉大なことを成し遂げることもある。

 

 ただひとつだけ、彼らが忘れてはならないこと。

 それこそが、殺す者は殺される、というルールなのではないか。

 

 

 私自身、応報感情はそれなりに強いほうだと自覚している。

 それがわるいと思ったことは、ほとんどない。

 

 そのおかげで社会の秩序が保たれている部分は、そうとうあると思う。

 万能の処方箋とまで言うつもりはないが、きわめて重要なファクターだ。

 

 いいことをしたらいいことが、わるいことをしたらわるいことが返ってくる。

 必ずしもそうならないと知っていても、自分がその姿勢を徹底することで、そう信じる根拠にはなる。

 

 

 だからかつて、とある事件で「アスペルガー障害(当時の呼び方)」が殺人事件の責任能力を著しく低下させる、と認定されたことには驚いた記憶がある。

 よく調べると、ASDで心神耗弱や心神喪失が認められるのはまれなケースのようだが、たしかに発達障害ごときで罪を軽減するなど、ありえない。

 

 私自身、ASDの傾向があるわけだが、むしろ遵法精神は高いと思っている。

 現実には、アスペはイジメの被害者などにやりやすく、切れて反撃することはあっても、重大犯罪の加害者になるケースは一般人と比べてもきわめてまれだ。

 

 アスペの子どもは「規則を守る」ことにかけては従順で、イレギュラーな行動をする友人に怒ったりもする。

 結局は程度問題、状態によるのだろう。

 

 

 

 ──殺してみたかったので殺した。

 私を驚かせてくれた先述の事件も含めて、そう考える人々は一定数いるらしい。

 

 それに対する世間の反応は、お定まりだ。

 戦慄した、人間とは思えない、残忍きわまる、このような十代が存在することは……うんぬん。

 

 捜査員が異口同音に言うのは、「変わった少年」という印象。

 捜査員も人間なので、われわれに似た感情をもっている。

 

 通常の刑事事件では「人間」を相手にするので、驚くようなことは少ない。

 しかし「人間らしさ」の欠落した相手を取り扱う場合、それなりの困難に逢着する。

 

 

 なぜ生き物は死ぬのか、それを実感したいために手を下したのだ。

 そう説明されると、わからんでもない……という気になるのは、私も「そちら側」の人間だからだろうか?

 

 否、これは一般の児童にも共有される疑問であって、通常は虫などの小さな生物に対して実験、経験、体得していく成長段階の感覚にすぎない。

 それが行きつくところ、「人を殺してみたい」というレベルまで敷衍する蓋然性が、どれほどあるかだ。

 

 殺してみたくて殺した少年は、理系の進学校に通っていた。

 そういうタイプが一定数、超進学校と呼ばれる教育機関に在籍して結果を出している事実を忘れてはならない。

 

 

 ──知らないことが多すぎるから、知ってみたい。

 そう言っていた彼は、ただの殺人鬼だろうか?

 

 自分は変わり者なのだから、他人にはできないこと、ひとに立派だと思われる大きなことをやりたいと思っていた。

 たとえば不老不死の研究で業績を出したいとか、やりたいことはいくらでもあったが、そのまえに手近なところで殺人を犯したのは、それまで「待てない」からだった。

 

 彼にとって、子どもを殺すより老人を殺すほうが「気が楽」だったというのは、善悪の理屈や観念はあったということだ。

 感情の通じる相手、つまり顔見知りは殺さないと決めてもいた。

 

 彼は一定程度、論理的に会話できる少年だった。

 差があるとすれば、一線を越えるか越えないかという点だけだった。

 

 

 何事も経験してみたかった少年。

 「囚人」としての体験もなかなかできないことなのだから、してみたい、楽しみだと。

 

 自分のなかで殺人を「マイナスの行為」としてしまうと、「こんどはうまくやろう」と再犯する可能性がある。

 プラスの行為、成功体験として位置づけ、「過去の栄光」をくりかえさなくて済むようにしたい──そのような思考が垣間見える。

 

 通常の「殺人」に対する「反省」という論理構造と、かなり異なるようにみえる。

 この体験を将来役に立てたい、と言っていた少年は、もうとっくに出所している。

 

 もし彼という隣人を排除したいなら「殺す者は殺される」べきなのだが、残念ながら現実はそうなっていない。

 われわれは、自身にとって「想像しづらい」この手のタイプの隣人を、一定数抱えて生きていくしかないということだ。

 

 

 同害報復の時代を復活させよう、とまで言うつもりはない。

 しかし、ハンムラビ法典、イスラム法のキサース、ラテン語のタリオも、目的は「過度な報復への抑制」であった点は忘れるべきではない。

 

 現在その「罰」が、あまりにも後退させられすぎている。

 やはり、殺す者は殺されるべきなのだ。

 

 自分が他者を殺してもいいということは、自分が他者に殺されてもいいということ。

 そうなっていない現代社会は、この考えを採用していないということであり、そうなるにいたった経緯について、私もそれなりに知ってはいる。

 

 犯罪を防止することが目的の刑事警察機構は、そのシステムでカバーできる社会の範疇内において効果があるのであって、そこから意識的に抜け出そうとする者には効果がない。

 同害報復や死刑は、それを覚悟している者にとって意味がないのと同じだ。

 

 殺された側の痛みを感じることができない殺人者は、自分をすなおに表現すればするほど、一般人にとって違和感をおぼえる存在となる。

 動機を詮索することが無意味な存在──そのものを、どこまで許容すべきか?

 

 

 人を殺すことが反社会の極みであるがゆえ、動物にはできない「殺人罪」という概念行為。

 たくさんの人間が殺されていても、その動物が罪に問われることはない。

 

 たとえば人間を襲ったクマはただ射殺されているし、マラリアを媒介する蚊は丹念に駆除されているだけだ。

 運が悪かったですね、不幸でしたね、としか言えない動物的加害者に、人間を含めるべきではないのか?

 

 そもそも理由がある殺人のほうがおかしい、という考え方もある。

 さまざまな加害者が存在するこの世界で、一律に死刑廃止──それこそが行き過ぎていると、私は思う。

 

 そういう考えを私自身は「わりと正しい」と思っているが、もっと正しい考えが存在するなら知りたい。

 唾棄すべきは、自分で考えないで、だれか(国家や教祖などの権威者)が言っているから正しい、と信じて自分もそう主張するたぐいの連中だと思っている。

 

 

 作業用動画に、よく昭和の歌謡曲を流している。

 年齢バイアスもあるだろうが、とても「豊かな時代」のように感じる。

 

 ハゲのおっさんが、かぐや姫とかアリスとか、かわいい女の子を名乗っていた時代。

 ヒゲのおっさんが、「女のみち」を歌い上げていた時代。

 

 なつかしさと違和感が同居する当時、よくよく考えてみればおかしいと気づく。

 とくに性別的な「役割」について、すこし考えてみたい。

 

 

 まず前提として、私は女の人を尊敬している。

 その能力を認め活躍を期待するという意味で、未来は女の時代だと思っている。

 

 現に私の勤務する会社の社長は女性だし、私が手伝っている記念館の館長も女性だ。

 卑弥呼の昔から、乱れた世でトップに立つべきは女性なのだ。

 

 と、表現している時点でフェミニストなのかなと思われているとしたら、否定しておく。

 鋭い人は気づいているかもしれないが、基本的に私はフェミ系の「活動家」とは意見が合わない。

 

 

 私は女の人が好きなので、女の人のためになることはしたい。

 だがある種の女性団体の主張には、それほんとに女性のためなの、あんたとあんたの仲間たちの「ためにする議論」じゃないの、と思うことがまれによくある。

 

 そんなときは「総論反対各論賛成」になりがちだ。

 彼らが「ためにする」耳障りのいい入り口の議論では、同意する。

 

 すると「この男、味方だな」と速断されることは多いが、すぐに化けの皮が剥がれる。

 「あぶないあぶない、こいつ仲間かと思ったら敵だわ」と認定され、憎悪がいや増す。

 

 

 女子アナという言葉は軽んじている感じがする、女性アナウンサーと呼ぶべきだ。

 女優はよくない、俳優に統一するべきだ。

 

 と、そのような指摘や流れがあるが、ばかばかしい、と思う。

 大事なのは中身じゃないの、言葉とか表現とか、そういうところ狩ってる場合なの、それともそれがわかりやすくて注目されるからやってるだけなの。

 

 抑圧されている女性は当然に助けるべきだが、すでに活躍している女性に、それ以上の配慮やアドバンテージは必要はない。

 女子アナも女優も、すでに確立し、評価されている「上流階級」だ。

 

 「本質的」という言葉はあまり好まないが、この場合、文系最大の欺瞞を利用して、なにが本質なのかを問いたい。

 表現ですか、それとも内面ですか。

 

 両者を切り離すのはむずかしい?

 あなたの選んだルートは、小さいほうの袋小路です。

 

 意識高い系は、しばしばこの袋小路でつまづく。

 そもそも一般人が、彼らの「理想」を肯定し、受け入れる蓋然性は低い。

 

 

 じっさい私は女の人を尊敬しているが、けっして理想化しているわけではない。

 クソみたいな女というのも、ずいぶん見てきた。

 

 たとえば「女の言い訳」は、とてもわかりやすい。

 もちろん男も言い訳はするが、そのロジックを解析すれば、どれだけ女が「女であることにすがっているか」がわかる。

 

 すべての人間が失敗するわけだが、そのとき男は、自分の能力が足りなかった、と認めるしかない状況に陥りやすい。

 他人のせい、社会のせいにする男も一定割合でいるが、それは犯罪者みたいなものだ。

 

 女の場合、犯罪レベルではないが、迷惑行為として注意されるレベルととらえるのが適切だろうか。

 要するに「泣けば許される」と考えるタイプに比せる。

 

 女の子だからしかたない、女の子なんだから許して。

 そう言い訳することは、もちろん犯罪ではないが、一般的に迷惑ではある。

 

 

 女同士でもウザがられることが多いだろうこの手のタイプは、多数派ではないかもしれないが、けっして見過ごせない割合のボリュームゾーンとして、残念ながら実在する。

 なぜそうなるのか、いうまでもない、女自身にとって都合がいいからだ。

 

 能力のせいにすれば自分のせいだが、女であることのせいにすれば女というあいまいなものに責任を転嫁できる。

 つまり女自身が、一定割合で、女であることにすがっているのだ。

 

 ──ねえ、金持ちの男紹介して。

 デフォルトでその程度の「並の女」が、なにを求めているのか、まずは正しく理解すべきだろう。

 

 

 そのうえで、活動家は大上段に振りかぶる。

 旧来の「意識改革」をしなければならない、と。

 

 それは古い考え方である、未来はこうあるべきだ、と誘導するのが彼らの仕事のひとつであるわけだが……げんなりする。

 大きなお世話ではないか?

 

 好きで「女」をやっている女がいても、いいではないか。

 そんなくだらないことに干渉している暇があったら、もっと助けてあげなければいけない女はいくらでもいるだろう、と思う。

 

 しかし活動家は、そういうやっかいなところにはあまり手を突っ込みたがらない。

 そして残念ながら、そのことを非難するのも、またむずかしい。

 

 

 交通課が取り締まるのは、取り締まりやすい一般人優先、という構図が似ている。

 彼らは暴走族など危険でめんどくさいターゲットより、効率のいいポイントに張り込んでネズミ捕りをしたがる。

 

 闘争本能丸出しの危険運転野郎を逮捕するより、権威を笠に着て切符を切っていたほうが楽だし儲かる。

 警察ですらその始末なのだから、活動家がどこにターゲットを絞ろうとするかは明白だ。

 

 ほんとうに救いを必要としている女より、自分自身の売名や利益になる小ネタで注目を集めること。

 活動家全員そんな連中ばかり、とまで言うつもりはないが、そのような傾向があることは事実だ。

 

 さらに言えば、どこまで助けるべきか、という問題もある。

 最後に、この重要な「文化的問題」について、すこしだけ触れておく。

 

 

 映画『チャイルド・マリッジ』は、誘拐された少女が反撃したところ相手を殺してしまって、死刑になるところを女弁護士が助ける話だ。

 誘拐婚という風習はエチオピアのほか、インドやキルギスなどにもある。

 

 多くの感想は、胸糞、日本では考えられない、など批判的であり気持ちはわかる。

 が、これはその土地の「風習」であって、多様であるべき「文化」のひとつともいえる。

 

 日本でもひと昔まえには、ハラキリしてちょんまげを結っていた。

 次男以下を家庭内奴隷化したり、強姦を結婚の契機とする地方もあった。

 

 白人は人類史の恥部とでも呼ぶべき奴隷貿易や白人至上主義を、ごく最近まで展開していた。

 黒人のなかには現在でも、原始時代とあまり変わらない暮らしをしている人々もいる。

 

 しかしその「野蛮さ」は、あくまで「現在の価値観によれば」という話にすぎない。

 その時代、その場所においては通用する背景や理屈があった。

 

 

 だから拱手傍観していればいい、と言いたいわけではない。

 ただ変化は漸進的であるべきで、活動家が目指すような「革命」などは望むべくもない。

 

 考えてみれば彼らの「活動」も、その現実に合わせているだけかもしれないと気づく。

 暇つぶしにできる程度に言葉を狩ることが、彼らの認知能力の限界なのだ。

 

 いずれにしろ、自分にできることをやるしかない。

 そのとき私は、理想ではなく現実を追いたい、と思う。