(前回のつづきです)

 

 多かれ少なかれ世界中が「自分勝手」ではあるのだが、とくに中国でわかりやすいくらい顕著である理由を、ひとつ挙げよう。

 「始皇帝の遺産」だ。

 

 日本の漫画などでは英雄のように描かれているきらいもあるが、この趙政という男、個人的には「クソ野郎」だと思っている。

 アレキサンダー大王やチンギスハン、スペインのコンキスタドールたちと同列の意味において、であるが。

 

 「それが征服者というもの」だ、という言い方はできる。

 とくに始皇帝のやった「文化の破壊」はすさまじかった。

 

 個人的に、始皇帝に比肩するのはディエゴ・デ・ランダくらいのものだと思っているが、キリスト教に対する批判はまた別途に譲ろう。

 焚書坑儒に代表される彼の「暴虐」はすさまじく、なにより最悪なのは、そのプロトコルが歴代王朝にもたしかに「受け継がれていった」ことだ。

 

 

 過去をゆがめ、自己正当化に走る。

 ことさら中国というフレーム、その最後の王朝にいたるまで、例外はない。

 

 清朝は、満州族による征服王朝だった。

 康熙帝は歴史に残る名君とされ、それ以外にもおおむね評価の高い皇帝が多い。

 

 私はこれに強い疑義をもっている。

 表面上、どう取り繕おうと試みたところで、始皇帝の遺産は底流している。

 

 同じく評価の高い乾隆帝の時代、勅命によって四庫全書というものが編纂された。

 全国各地から書物を集めて、膨大な漢籍の叢書をつくるという国家事業だ。

 

 そのすばらしい文化的活動の目的が、「満州族に対する批判的言論の封殺」にあったことは、あまり知られていない。

 清朝の国家統治にとって障害となるような書物は禁書とされ、収録されなかった図書は三千点にものぼるという。

 

 たとえ部分的でも、満州族に対する批判や憎悪が記されていたら、すべて黒塗りした。

 そう、彼らは征服民族である自分たちへの批判を、始皇帝と同様「焚書」によって圧殺しようとしたのだ。

 

 

 そういえば、天安門事件、法輪功、新疆ウイグルなどのキーワードを検索すると、ブロックされる国があるらしい。

 国家レベルのネット検閲システムが、現に稼働している国……。

 

 結局、始皇帝の時代から、なにも変わっていない。

 中国という体制そのものが、情報操作と遮断、権力闘争によって自己組織化される、ということなのだ。

 

 と、そこまで断言すると、さすがに飛躍が過ぎる気がしないでもない。

 しかし近代以前の統治様式において著しく似通ったパターンが、体制の深層構造として残存しているように見えることはたしかだ。

 

 

 では、なぜ中国の国民は、このような体制に抗えないのか?

 さまざまな分析はあるが、私が考えるのは「彼ら自身が共犯者だから」だ。

 

 人類史に残る失政と権力闘争の権化、毛沢東。

 世界史的にも評価の芳しくない政治家だが、当の中国では紙幣にまでなっている。

 

 そんなものを、なぜ平気で使っていられるのか?

 なぜなら使用(を決める権限をもつ)者の多くが「被害者側ではなく加害者側」であり、その忌まわしい過去と自己を「正当化したい」からだ。

 

 

 大躍進政策や文化大革命で暴れた若者が、現在まだ多く政府中枢に残っている。

 彼ら紅衛兵が文革でよくやっていたのが、まさに「文化」の「革命(破壊)」だった。

 

 「革新」はすべからく直近の過去の破壊に立脚する。

 歴史的に大きな「征服」や「簒奪」というタームにおいて例外はない──とはいえ、とくに共産党は徹底しているという印象がある。

 

 新体制にとって刷新すべき過去を、不愉快な「ブルジョワ」と決めつけて排除したのが文化大革命であり、中国共産党による中華人民共和国の成立だった。

 当時、破壊と勝利の熱狂のもと、自分たちの連帯感を高めることもできて一石二鳥だっただろうことは、想像に難くない。

 

 そうして暴れまくった若者たちが、まだ社会にそれなりに残っている。

 それが悪だと指弾されないためには、毛沢東を弾除けとして飾っておいたほうが、なにかと都合がいい。

 

 天安門に飾られた肖像画によって、そのような体制に加担した自分たちの「悪」も、なんとなくごまかせるような気がする……。

 あの紙幣が現役で存在するということは、つまり中国はまだそういう状態にあるという意味だ、と私は解釈している。

 

 言い換えれば、あの紙幣が切り替わるときこそ、体制が変わるときではないか。

 ──などと「書いただけで抹殺される国」というのは、そもそもおかしい。

 

 

 日本で「共産主義革命を起こす」と書いても、べつに当局がやってきて調査や検閲されたりしない。

 日本だけではない、世界のだいたいの国で許されていることができない国なんて、長持ちするはずがない。

 

 どこかで必ず変わる。

 そのシナリオについて考えるとき、諸刃の剣として立ち現れるのがAIだ。

 

 たとえるなら人類の未来をDeepSeekとChatGPTが話し合って決める。

 そんな未来も、ないとは言えない……。

 

 ことしもロシアが、対独戦勝記念日をやっていた。

 そういうことをやる感覚が、個人的には不思議に思える。

 

 関係者や遺族への配慮とか、いろいろとエクスキューズは思いつく。

 あなた方の国への貢献は報われました、と表明することは重要なのかもしれない。

 

 しかし、落ち着いてよく考えてみないか?

 戦争の「勝利条件」はたいてい、相手よりたくさんの人間を殺すこと、だ。

 

 そんなことを記念している国は、大上段で「戦争が好きな国」というイメージを打ち出しているようにみえる。

 戦争が終わったことを記念するならまだわかるが、会場に兵器を並べて「ウラー」と叫ぶ人々は、そうとう戦争がしたいようにすら映る。

 

 たしかに現在進行形で戦争をしている国でもあり、イメージどおりではある。

 この文脈において重要なのは、なぜ彼らに「その必要があるか」だろう。

 

 

 中国なら抗日勝利記念日ということになるが、不思議なのはそれが「歴史カード」として外交に使えると思っていることだ。

 日本の政治家も踊らされているが、なぜそんなものを信じられるのか?

 

 自分たちは戦勝国なので、世界秩序を構築する権利をもっている。

 そういう前提らしいが、そんなふうに「信じられる」時点で、宗教によく似ていると思う。

 

 私は彼らと同じものは信じない。

 なので彼らの振りかざすカードの効果は及ばない。

 

 

 宗教にとっての信者は、為政者にとっては国民である。

 為政者がそうする「必要」とは、もっぱら国民に対してだ。

 

 国民や信者に対して効果を発揮する、限定カード。

 その効果範囲外にいる人々がポカーンとするのは、当然といえば当然かもしれない。

 

 もちろん、いかなる宗教も信じるのは個人の自由である。

 彼らの信じていることは「正しく」もあるのだろう、「彼らにとって」は。

 

 中国人は習近平を信じるし、ロシア人はプーチンを信じる。

 権威主義であればあるほど「信じさせる」ことが要諦となるが、そのあたりも宗教に近い。

 

 

 中国人のメンタリティには、「正しいことを実現するために法律は必要ない」という発想が底流している、と神田外語大の興梠先生が言っていた。

 それを聞いた私の脳内でいろいろと事象がつながり、なるほど、と得心した。

 

 重要なのは、その「正しさ」を決定するのはだれか、という一点だろう。

 中国の場合、この問いに対する答えは単純かつ明快だ。

 

 共産党である。

 現代中国の政策や社会現象を理解するうえで、これさえ押さえておけばたいへん理解がしやすい。

 

 

 共産党は国家の最高権力として、法律を超越した指導的立場を確立している。

 国家目標の実現においては、法的手続きや個人の権利がしばしば二次的なものとされる。

 

 具体例を挙げると、一人っ子政策時代には、二人目以降の出産を抑制するために強制的な措置がとられた。

 近年、少子化が深刻化すると、今度は出産を促す方向に転じ、企業が「結婚しなければ解雇」といった圧力をかける事例まで出てきている。

 

 これらの措置は、法律の有無にかかわらず「国家が正しいとする方針」が優先される実態を示している。

 重要なのは、この正しさの決定権が民衆や外部機関には委ねられない、という点だ。

 

 権威主義体制においては、制度設計上も運用上も、統治主体が「正義」の最終判断者となる。

 中国にかぎらず多くの権威主義国家では類似の構造が見られるが、中国の場合、その力の行使が国外よりも国内に向けられる傾向がある点は特徴的といってよい。

 

 つまり共産党という統治機構は、国家内における秩序と目標達成を最優先とし、そのためには法律や国際的な人権基準を柔軟に解釈・適用する傾向をもつ、ということだ。

 この構造は一種の「リヴァイアサン」、すなわち強大な権力を持つ統治体の典型例と捉えることができる。

 

 

 顧みれば国共内戦、共産党軍はあらゆる「狡猾」にして「卑劣」とも思える手段を駆使し、政権をとった。

 掘り下げると長くなるので、ここではしない。

 

 あらかじめ断っておくが、彼らがやったことを否定するつもりは、まったくない。

 謀略は国家/戦争の本質だからだ。

 

 そしていま、あらゆる卑劣な手段どころか、合法的なデモンストレーションさえも拒絶する体制になっている。

 中国で権力闘争に勝ったら、やるべきことを徹底してやらないといけない。

 

 すなわち「自分はいいけど他人はダメ」を貫くことだ。

 「我人に背くとも、人我に背かせじ」と言ったのは乱世の奸雄・曹操だが、この論理に基づけば彼らの行動に「矛盾」は発生しない。

 

 ──台湾問題など「内政不干渉」を要求するが、他国の内政には関与する。

 たとえば一帯一路、これは単なる経済圏拡張のように見えるが、「債務の罠」により他国の港湾をぶんどるなど、その権利を著しく侵害している。

 

 ──トランプ政権の関税に対して、自由貿易のルールを守れと叫ぶ。

 おまえが言うな、と世界中の学者や経済界が突っ込んでいる。

 

 短期的には矛盾が放置され、長期的に「一貫性」の正当化を必要としない。

 西側諸国ではありえないことが、中国のような権威主義国家では可能となる。

 

 

 なぜこんなことになっているのか、中国という「龍」のしっぽのほうまで眺めて、彼らの吐く「炎」の性質を分析してみた。

 暫定的な結論から述べると、その炎は「論理ではなく信念によって」燃やされている、ということになる。

 

 われわれがおぼえる違和感の正体は、互いにとっての正しさの源泉が、まったく異なる場所にあるがゆえ、だ。

 その場所を探るとき、ひっきょう歴史について語らねばならないが、長くなりそうなので……また次回。

 

 某フリマサイトのトラブルが、最近いろいろニュースになっていた。

 高額な商品を買ったのにゼリーが届いたとか、正しい商品を送ったのに返品で別物が返されたとか。

 

 運営の対応もだいぶひどい、と指摘されていた。

 性善説で運営されすぎている気はするし、泣き寝入りのユーザーも多いようだ。

 

 個人的な感想としても、そこまでひどい目に遭ったことはないが、だいぶめんどくさい取引相手が多いな、という印象はあった。

 以前はよく出品していたのだが、最近あまり使わなくなったのはそのせいだ。

 

 とはいえ、不要なものを売る、というのはすぐれたエコシステムだと思う。

 スマホを乗り換えたので、ひさしぶりに不要になった端末を売ってみたのだが、あいかわらずめんどくさかった……。

 

 

 私は出品スタイルとして、必要な情報を最低限きっちりと書き、安めの価格で出品する。

 基本的には24時間以内に売れるし、今回も売れた。

 

 見る人の少ない早朝に出品して、しばらくたったころだ。

 つぎつぎと質問が飛んできた。

 

 本日中に発送できますか?

 ──はい、可能です。

 

 運用中は充電につないだままでしたか?

 ──いいえ、3日ごとくらいです。

 

 めんどくさいとはいえ、まあべつに異常な質問でもないので答えていたが、最後がひどい。

 ただでさえ安値の出品に対して、1割以上の値引き交渉を仕掛けてきたのだ。

 

 

 値引きしてくれるなら買ってあげますよ、という態度。

 私はそういうのが嫌なので安く出品しているんだが、と内心思いつつ価格交渉は黙ってクリアする。

 

 交渉とか駆け引きというものが、私はほんとうに苦手だ。

 そんなことにかける時間は人生を無駄にしている、とすら思っている。

 

 しかし「商人」にとっては、重要な存在理由の一端になる。

 セールスマンの極意は、「いらない」と言う相手に「買わせる」ことだ。

 

 いっぽう私は「いらない」と言ったらいらないのであって、食い下がられるとイライラしてくる。

 そこをなんとかじゃねえんだよ、と。

 

 

 とはいえ、彼らのやり方や能力を、全否定するわけではない。

 むしろ私のような性格のほうが、一部の女子にとっては指弾すべきものとなりうる。

 

 私は小学校の女の先生から「相手の嫌がることをしてはいけません」と教わって以来、相手が「いやだ」と言っている以上すべてアウトなのだと考えていた。

 いや、いまでもある程度そう考えている。

 

 しかしそれは、すくなくとも一部の女子にとっては都合がわるい。

 生物の世界を見ても、相手の能力や必死さを選別するために、とりあえず「拒否しておく」という選択肢はよくあるのだ。

 

 

 語弊があるのであまり言いたくはないが、いわゆるセクハラ問題はこの微妙な分水嶺を問うものが多い気がする。

 つるし上げられる人間がだれか、という問題は大きいのだが、それにしても「多少の強引さ」ですらセクハラとして指弾されている印象が、まれによくある。

 

 彼らを擁護するつもりがまったくないことを、まずは申し述べておかねばならない。

 相手が嫌だと言ったら、やめればいいだけだ。

 

 しかるに、ある種の「強引さ」を、すべてハラスメントとしてシャットダウンしないほうがいい、という現実問題もある。

 尊敬する落語家の志ん生師匠が、こんな噺をしていた。

 

 いや、やめて、と言いながら女は、好きな男の胸に自分から飛び込んでいく。

 いや、やめて、と言いながら女は、嫌いな男がのたうちまわるダメージを与えて逃げていく。

 

 要するに「形だけの拒否」を、どこまで理解できるかだ。

 そういう人々に「売りつける」ことが、セールスマンにとっては重要なスキルとなる。

 

 

 どこからが必要な強引さで、どこからがハラスメントか。

 その空気が読めればなんの問題もないのだろうが、残念ながら世の中には空気の読めない人間が、けっこういる。

 

 私は「読めない」わけではないのだが、その方面にできるだけコストをかけたくない、と思うタイプだ。

 いやだと言ったらいやだし、1万円と言ったらその商品は1万円、それでいいではないか。

 

 「そこをなんとか」する「駆け引き」を好んでするのが「商人」だ。

 彼らが絶滅すればいいと思うこともあるが、絶滅しないので、そういう社会に適応しなければならない。

 

 

 そんな人間が、フリマをするとどうなるか。

 残念ながら、いらんストレスを感じるハメになる。

 

 相手も安いことは理解しているだろうし、購入の意思も感じる。

 応じてくれたらラッキー的な気持ちなのかもしれないが……。

 

 値引きは難しいですかね?

 などとすり寄ってくる感じは、もしかしたら「値引き交渉しないと死ぬ病」なのかもしれないな、とすら感じた。

 

 

 今回にかぎって、なぜか連続で飛び込んでくる値引き交渉の波。

 なにかね、この世界線には値引きしなければいけないというルールでもあるのかね?

 

 イライラしはじめたタイミングですぐに、たぶんサイトを見る人が増えてきたのだろう、別の人が即決で買ってくれた。

 私は静かにお礼を伝えて、速やかに発送した。

 

 とある休日の朝、数時間に起こった出来事だが、なんだか必要以上に疲れた。

 やっぱりフリマは控えよう、と思った。

 

 

 最近、「正義」とか「中立」についてよく考えている。

 言葉の定義からしてやっかいな概念を、具体的に表現するのはさらにむずかしい。

 

 私の書いている小説の主人公は「ニュートラル」だ。

 しかし彼の判断は、ほんとうに中立的と言えるのか?

 

 という相対的な正義とか許容範囲の話を表徴している事例として、昨今のフジテレビ問題がわかりやすい。

 第三者委員会の報告書も出て、おおむね決着したようだ。

 

 フジテレビと中居氏の件については、以前もちょっとだけ書いた。

 当時はまだ途中経過の状況だったので、結果を踏まえて思考を整理しよう。

 

 

 結論からいえば、第三者委員会の報告書は中居氏をクロと認定。

 フジテレビ社員B氏も共犯者といって差し支えない、という内容だった。

 

 中居氏およびフジテレビを擁護していた側にとっては、かなり痛い報告書だったと思われる。

 文春側にも問題はあったと思うのだが、そこはかなりスルーされている感じには違和感をおぼえた。

 

 私個人として、中居氏を擁護したことは一度もない。

 とはいえ、ぶったたかれている側に、いわゆる「判官びいき」的な感情をおぼえたことは否めない。

 

 日枝氏の体制によって築かれた文化への郷愁もあった可能性はある。

 まあテレビっ子ではないので微妙だが、そういう昭和的な雰囲気への無意識的な擁護はあったかもしれない。

 

 昭和の価値観の多くが否定されているし、私もほとんどのケースで同意するのだが、さすがに「行き過ぎている」と感じることが、まれによくある。

 尊敬する芸人の江頭さんが、ひさしぶりに地上波に出て女性タレントに絡み批判されていたが、あれもある種の観測気球だったかもしれない。

 

 

 この手の炎上事案でいちばん感じるのは、「自分はできるだけ攻撃側にいたい」という心理だ。

 攻撃できるときにしておくのは、なんか得した気分にもなる。

 

 主義者や活動家は、相手を叩きのめすのに最適の論法を選ぶ。

 自分に都合のいいルールを採用するのは、あらゆる個人や団体もやっている。

 

 個人であれば、いずれ「ブーメラン案件」として突っ込むこともできるが、不特定多数の炎上の波に紛れたら、もうわからない。

 群衆とは、首尾一貫して正しいことを言う「必要がない」のだ。

 

 

 この問題で注目すべき点として、道徳的ビジネスや道徳的ナルシシズム、正義の劇場化の氾濫がある、と思う。

 異常に長時間の記者会見はわかりやすかったし、ネットにおける苛烈な批判はフジテレビにかぎらず、もはやお約束となっている。

 

 くりかえすが、これは「われわれ個々人の問題」だ。

 と議論を進める前に一応、軽く説明しておこう。

 

 「道徳的ナルシシズム」とは、自分が正義を行使していると感じることで自己満足に浸ること。

 個々人ではそこまで強く批判するつもりがなくても、「みんなが批判しているから」と追随し、結果として集団全体が過剰な攻撃性を帯びる。

 

 アンチフジテレビ、アンチ文春、アンチ中居……。

 いずれにも一定の仲間がいて、それにもとづく「正義の行使」は運動会のような高揚感を伴うため、一部の人々にとっては「快楽」になりうる。

 

 

 「道徳的ビジネス」は、「正義の名のもとに他者を攻撃することで、自分たちの立場を強化する」という利害関係のこと。

 批判をする側が、ほんとうに善意や社会正義のために行動しているのか、それとも自己の承認欲求や優越感を満たすために行動しているのかが不透明、という特徴がある。

 

 「正義の劇場化」は、問題解決よりも見栄えの良いドラマを優先すること。

 情報の切り取りや恣意的な編集によって、「あたかも完全な悪が存在し、それを討つ自分たちは完全な正義である」という物語がつくられる。

 

 さらにいえば、「自己免罪型の正義」というのもある。

 「だれかを叩くことで、自分の正しさを証明しようとする心理」だ。

 

 現実の社会においては、善悪は単純に分けられないグレーな領域がほとんどであり、「わずかな瑕疵」を誇張して「全体を否定する」論法は、フェアではない。

 このような「歪んだ正義」が蔓延している、と全体的に感じた。

 

 「攻撃のための正義」「快楽としての正義」のような、本来の正義とは異なる正義を掲げる側が、その正義を守るために手段を選ばなくなることがある。

 それじたいが「新たな暴力」になりうる。

 

 

 中居氏の問題にもどると、文春とフジテレビ、どちらかの主張を重視すること。

 その時点ですべて、上述の問題に抵触していないか自己省察する必要がある。

 

 自分の感覚に符合するから、その主張を支持する。

 まさに「快楽としての正義」に近い。

 

 べつに偉そうなことを言うつもりはない。

 私自身、わりとフジテレビを擁護していたことを、意外とすら思っている。

 

 コテコテの文系《インドア》が、じつのところ体育会系に「あこがれ」ていたのかなあ、と自分の深層心理を分析したりもした。

 陰キャがパリピを支持するなど、ありえないようにも思うが、まあ是々非々だ。

 

 

 全体として、大山鳴動して鼠一匹だと思っている。

 株価がわかりやすい。

 

 ふつうは暴落していいところだが、現状は上げている。

 もともと安かったという意見もあるようだが、大企業が女ひとりに騒がれてどうこうなるわけがない、という冷静な判断が底流している。

 

 むしろ守旧派である、やっかいなタレントやキャスターを一度に始末できて、より安全性の高い運営になる「プラス効果」のほうが評価されている気さえする。

 フジテレビ株価は、一時的に高騰したライブドア騒動のころを抜いた。

 

 なぜか? フジテレビが変わることへの「期待」だ。

 言い換えれば「復讐」でもある。

 

 あのときフジテレビを買えなかった一味の後継者が、リベンジに動いている。

 復讐者のおかげで株価が下がらないというのは、フジテレビにとっては皮肉な話だ。

 

 

 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

 今回も批判された古いフジテレビは、お台場ではないどこかへと消えていくだけのことだろう。

 

 それが必要とされていないなら、わざわざ壊さなくても消えていくと思う。

 さらに言えば、壊したり殺したりせず、話し合いで解決する正義の味方というのも、いていいんじゃないだろうか。

 

 私の作品の「ニュートラル」には、RPG的な展開にもかかわらず「できるだけ敵と戦わないでクリアする」という、サブルーティンが仕込まれている。

 たぶん彼は正義ではなくて、すくなくとも自分のことを正義だと思っておらず、まれに思ったにしてもそれを疑いながら進んでいる。

 

 そういう物語を、読みたいと思った。

 見つからなかったので、自分で書いている。

 

 先日、日本国債の価格についてちょっと書いた。

 またぞろ日銀VSヘッジファンドの戦争がはじまる、とても楽しみだ、というようなオチをつけた気がする。

 

 それにまつわる話で、アメリカの債券市場でも、ちょっとおもしろいことがあった。

 備忘録的に、すこしだけ書いておきたい。

 

 今月上旬の話で、ぼちぼち情報も出そろいつつあるが、結論からいえば真相はよくわからない。

 というより、どこの投資家が、どんな理由で買ったのか、売ったのか、あきらかになることのほうが、むしろまれだ。

 

 インサイダーやよほどの事情通でもないかぎり、私のような「ただのウォッチャー」には永遠の謎である前提。

 そのうえで、いくつかの予想はできているので、自分の気に入るシナリオで納得してみようと思う。

 

 

 ちょうどトランプ政権が「相互関税」を発動するタイミングだった。

 その約1時間前、債券市場である出来事があった。

 

 時間外取引で米国債が突如、売られはじめたのである。

 ニューヨーク・タイムからトーキョー・タイムにかけて、およそ1日足らずの間に、利回りが急騰(価格は下落)した。

 

 同時に日本国債も超長期債を主体に大きく売られていたが、タイミングの面でやはり米国債が核心だ。

 どうして、どこが、なぜこの時間に、日米の国債を売却したのか──ストップロスなのか、期初の売りなのか、この時点ではまったくわからなかった。

 

 リアルタイムで米国債の利回り変化を追っていた人の記事を読んだが、かなり頻繁にレートが変わっていて、売買はそうとう活発であったらしい。

 通常、この時間に米国債が頻繁に売買されることはないので、かなり目立っていたようだ。

 

 

 ざわざわ……という感じがトーキョー・タイムにも伝わってきて、東京の昼の米債売りでは、一部の邦銀が売却したのでは、との観測も出ていた。

 具体的には「農林中金」という名前が出たようだが、農林中央金庫の理事長はすぐに、米相互関税導入時の米国債大量売却について「事実はない」と否定した。

 

 翌週以降に財務省が発表した「対外及び対内証券売買契約等の状況」では、4月6~12日の1週間に、国内投資家が売り越した海外の国債など中長期債は5120億円。

 規模はわかるが、売買主体まではわからない。

 

 日経新聞によると、大規模売却に動いたのは国内勢ではないようだ。

 そうなると、やはり当初から騒がれていた「中国勢による報復」の売りが、本命視されざるをえない。

 

 

 これに対して、当事者の片割れであるアメリカのベッセント米財務長官は、その憶測を否定してこう言った。

 「非常に大きなレバレッジをかけた取引をしていたプレイヤーがおり、彼らが損失を被ってデレバレッジを余儀なくされている」。

 

 ヘッジファンド出身らしい物言いだが、要するに米国債の投げ売りは一時的なもので、大きな流れにはなりえない、と言いたいらしい。

 たしかにその後、ある程度、価格は落ち着いているように見える。

 

 問題はタイミングだ。

 あの日、トランプ大統領はどうしたか?

 

 そう、「相互関税の上乗せ部分について、一部の国・地域に90日間の一時停止を許可する」と発表したのである。

 どうやら債券の価格変動を受けて、ベッセント財務長官とラトニック商務長官が、関税を一時停止するよう大統領に呼びかけたらしい。

 

 発動したばかりの大統領令をその日のうちに撤回するという、あまり見たことのないレベルの朝令暮改。

 おかげさまで、一時的に株価などは持ち直したりもしたが、ある意味ではひどいボラティリティ(変動率)にさらされることにもなった。

 

 

 世界経済にとっては最悪の事態を回避させた、という見方をする人々もいる。

 たしかに90日間の延命は、多くの企業にとっては「助かる」ことではあったろう。

 

 それだけに深読みする人々は少なくない。

 個人的にも、ある種の陰謀論さえ組み立てたくなってくる。

 

 演じるキャストにも、それなりの説得力がある。

 ベッセント財務長官は、かつて「日銀を打ち負かした男」とまで言われた、ウォール街の「静かな殺し屋」だ。

 

 彼がアベノミクスの円安で大儲けしたのは事実──とはいえ、べつに負かしてはいないだろう、とは思っている。

 だがすくなくとも、かつて「イングランド銀行を負かした」ジョージ・ソロスの薫陶あらたかである点、疑う余地はない。

 

 

 この金融市場に精通している人物は、今回の事象について以下のように説明した。

 「このたびの米国債の大量の売却は、海外のヘッジファンドがアセットスワップの大きなポジションを、一気にアンワインドしたため、との観測が出ている」。

 

 その意味を完全に理解はできないが、だいたい雰囲気は伝わってくる。

 債券市場はやっかいですよ大統領、というハッタリは、ただのハッタリでは済まないくらいの説得力があった、ということだ。

 

 その後、アメリカの株価はじりじりと下げている。

 トランプ大統領が方針を変えそうもないことが理解されてきて、徐々に折り込みが進んでいるようだ。

 

 大山鳴動して鼠一匹なのか、それともこれから世界が変わるのか。

 株価や債券はもちろん、いろいろな見方から推測、理解することで、同じニュースでも興味深く、おもしろくなる。

 

 最初に書いたとおり個人的な備忘録にすぎないが、この記事が世界を理解できる一助となれば幸いだ。

 マーケットには、魔物が棲んでいる──。


 詐欺の電話が、定期的にかかってくる。
 もちろんスルーするだけなのだが、個人的に困るのは、たまに「引っかかりたくなる」ことだ。

 一時、中国語らしい意味不明の電話や、機械音声の電話などが流行った。
 料金に未払いがあります、2時間後に電話が使えなくなります、1を押してください、というような電話はほぼヒャクパー詐欺だ。

 もちろんわかっている。
 詐欺なのだが、なぜか猛烈に1を押したくなる……。

 たまたまそんな電話を受けたとき、画面には古代宇宙飛行士説の動画が流れていた。
 一件無関係の事象だが、あまりにも近しいものを感じたので、その理由を文章にしてみたい。


 この手の動画に、毎度出てくる陰謀論者がいる。
 陰謀論界隈では名のある、教授だか博士らしい。

 その吹き替えがもう、完全に「軽口をたたく詐欺師」という印象で固まっている。
 翻訳サイドの先入観が、はっきりと伝わってくる声優と語調。

 配給側だけでなく供給側にも、おそらく確信犯的なところがある。
 彼が出てくるともう「突っ込み待ち」としか思えない言葉が、つぎからつぎへとあふれ出してくるのだ。


 たとえば、エジプトのピラミッドがすごいことは、だれもが知っている。
 あんなすごいものを、4500年も昔の人間がつくれたと思いますか?

 現代人にすら困難な建築物、圧倒的な正確性、現在の重機をもってしてもたいへんな時間がかかる。
 それをですよ、古代人がです、あんなやつらはもうサルに近いんだから、できるはずがない、まちがいなく宇宙人に手伝ってもらったんだ!

 過去の人類を圧倒的にディスることで、宇宙人というトンチキな説をごり押しするスタイル。
 その論法が、どうにも気に食わない。


 エジプト考古学者のザヒ・ハワス博士も、だいぶご立腹だった。
 過去の人々が、当時の技術や力で最大限に努力して築き上げた偉大な建造物なのです、と。

 たしかに彼らは、現代人のような科学も重機もなく、それであのような建造物を築くのは奇跡のように思える。
 しかし彼らは、なにもないところからすこしずつ努力して、ついにその域に達したのだ。

 試行錯誤の痕跡もある。
 最初から高いものをつくったわけではなく、階段状だったり、屈折したものをつくって強度や工法を確かめながら、最終的にギザの3大ピラミッドまで到達したのです、と。

 まったくそのとおりだ、と私も思う。
 まともな科学者なら、だれでもそう思っている。


 しかし陰謀論者は、古代人の努力を否定したがる。
 彼らにはできない、と決めつける。

 なぜか、ということを考えはじめて、すぐに気づく。
 詐欺師からの電話と同じだ、と。

 彼らは「だまされてくれる」「自分以下のバカ」に狙いを定めているのだ。
 陰謀論者が全員そうだと言うつもりはないが、だいたいそうだと思う。


 宇宙人が地球にいるはずがない、という否定派の人間もいる。
 彼らに対して、くだんの陰謀論者が、別のビデオではこんなことを言っていた。

 なぜ宇宙人が地球にやってきていないと言えるのか? 根拠は?
 相対性理論の壁が厚いから、光速を超えて移動することはできないから?

 ここまで発展した人類の叡智を尽くしても、どうやらできそうにないことは、宇宙人にとっても困難に決まっている。
 それが宇宙原理というものだ、だから宇宙人は地球にやってきていないんだ。

 冗談じゃない!
 星間航行を人類ができないからといって、宇宙人にできないなどと考えるのは傲慢だ!

 そういうことを言ってるから、あんたたちはダメなんだ。
 人類にできなくたって、宇宙人にはできるに決まってるじゃないか! 人類はほんとうに傲慢だよ!


 私は嘆息した。
 たしかに、それはそうだ。

 人類にできないからといって、宇宙人にできないとはかぎらない。
 それはそうなんだが、なぜ「あんたが言う」んだ?

 あんただって、自分にできないことは古代人にもできるはずがないって、決めつけてたじゃないか。
 あんたは自分と同じ論法を相手が使うことに、そんなに我慢ができないのかい?

 いちばん傲慢なのは、恐るべきダブスタを貫く、まさにあんただよ!
 と、まあそう思ってしまったわけだが、これは「釣られた」ということなのだろう。


 彼は自分がアジテーターであることを理解していて、突っ込ませるためにイカレたことを吐き散らかしている。
 そんな彼に突っ込んでいる自分自身を省察し、それでも言わずにはいられない。

 人類にできなくても、宇宙人にはできる。
 だったら低能な現代人にできなくても、優秀な古代人にはできたっていいじゃないか。

 黙ってその事実を認めるだけでいいのに、あえて突っ込みどころ満載の説に仕立てる。
 なぜなら「詐欺電話は違法だが、陰謀論は合法」だからだ。


 チャーチワードとかデニケンとか、もうその時点で「詐欺師」の前評判がつきまとう。
 空軍に所属して世界を渡り歩いたのに所属していた記録がないとか、貴族ぶって名乗っているがパスポートにフォンはないとか。

 彼らの吹き散らかしたデマを、まるでリピート再生装置のようにくりかえすことで、日々の生活の糧にしている人々は事実、一定数いる。
 考えてみれば彼らが出ている番組を観ている私自身にも、その責任の一端があることを認めざるを得ない。

 べつに信じたくて見ているのではない、多様な意見を仕入れるために観ているのだが、彼らにとっては同じことだ。
 アジテーターや詐欺師は、いまも昔も「商売になる」のだ。

 じっさい、ムー大陸や世界政府といった「物語」は、じつにおもしろい。
 そういう詐欺師にはある種の才能があるし、だから「1」を押したくなったりもする。

 そこでわれわれが、立ち止まって考えることができるかどうかだ。
 そうして詐欺を「楽しむ」かぎり、さほどの害もないだろうと思っている。

 

 

 スイッチ2が予約販売を開始した。

 日本人向けに安く売ってくれるというので、買っておこうかなという気になった。

 

 私は特定のタイトルだけをやりたくて、それが販売されたタイミングで本体を買い、クリアしたら売るという生活を20年以上、くりかえしてきた。

 そういうミニマリスト的な生き方を好んでいるが、結果的にニンテンドースイッチを3回も買う(無印、バッテリー強化版、有機EL)ハメになった。

 

 思い出(セーブデータ)くらいは残しておいてもバチは当たるまい、と当該タイトルのソフト本体だけは手元に置いている。

 ただ、この話は以前も書いたが、最近のゲームはセーブデータがソフト側ではなくハード側に残る、ということに気づくのが遅かった。

 

 昔のゲームは「カセット」にデータが保存された。

 最近のゲームもメモリカードにセーブされるものとばかり思っていたが、どうやらスイッチの場合は本体に記憶されるらしい……。

 

 

 そんなわけで、スイッチ2は買い直さず長く手元に置くことになるんだろうな、と思っていた。

 さしあたり、やりたいゲームもないので買う必要もそれほどないのだが、インフレの時代だし値上がりするまえに入手しておこうかな、という思いもあった。

 

 重めの予約サイトに飛ぶ。

 登録されているメールアドレスでログイン。

 

 一回しか応募できない、応募規約を確認してください、ふんふん、なるほどね。

 おひとり様1点かぎり、そりゃそうだ何個もいらん。

 

 申し込みサイトをそれなりに流し読んで、カートに入れる。

 ──結論から言うと、「応募条件」を満たしておらず弾かれた。

 

 

 ゲームプレイ時間が50時間以上。

 これはクリアしている。

 

 Nintendo Switch Onlineの加入期間が累計で12か月以上。

 残念ながら未達。

 

 ……いや、そりゃそうだろ、サードパーティのゲームがやりたくて「しかたなく」ハードを買ってるのに、なんで使いもしないニンテンドーのサイトに12か月もお布施を支払う必要があるんだよ?

 要するにニンテンドーのゲームをやらないやつには売らん、という姿勢だった。

 

 

 私は昔から「売らん」と言われたら「いらん」というタイプの男だった。

 売りたくない相手に、無理に売ってもらう必要がどこにある?

 

 他人の嫌がることをしてはいけません、という小学校の先生の教えを私ほど忠実に守ってる男も、なかなかいないと思う。

 女子が「やだー」と言ったら、それは「いやなこと」なので、彼女の身の上に二度と当該事案が引き起こされないように、衷心から祈るタイプだ。

 

 ダイレクト型自動車保険の会社から福祉車両は「入れん」と言われて以来、「だれが入るか」という姿勢を貫いている。

 売り渋る商人に対しては、できるだけ買わなくて済む方法を模索するべきだ。

 

 言ったことはやれ、できんことは言うな。

 この基本を、どこまでも貫くつもりで生きている。

 

 

 殴ったら殴り返されるし、売り渋ったら買い渋られるべきだと思っている。

 そんなわけでスイッチも、できるだけ買わない方向で生きていきたい。

 

 最近はゲームのマルチプラットフォーム化も進んでいる。

 PCでプレイできれば、それに越したことはない。

 

 ちなみに、この件についてニンテンドーを批判するつもりもない。

 彼らもよくよく考えて、この販売方法を選択したのだろうからだ。

 

 転売対策として、たしかに有効のようには思われる。

 ほんとうに使いたい人の手に、適切な価格で届くこと、これは重要だ。

 

 もちろん私も使うつもりで買おうとしたのだが、いま現在それほど欲しいわけでもない。

 ただ予防的に買っておこう、という私のようなユーザーはおそらく特殊なのだろう。

 

 

 任天堂がこの売り方を選んだということは、これが彼らにとって正しいからだ。

 そもそも量販店などで予約や行列すれば買えるわけだし、必要な人間はどんな手を使っても入手するのだろう。

 

 個人的には、あえて大企業のスキミング・プライシング(最初に高値をつける戦略)に乗っかる必要もない、と思っている。

 コアなユーザーで最初に最大の利益を出してもらってから、われわれライトユーザーは必要に応じて買えばいい。

 

 願わくはいずれ落ち着いてから、チャットやマウスなど私には不要な機能を削ったラインナップで、値下げされることを期待している。

 機能を削って安売りするというのは、いつもの任天堂のやり口だ。

 

 

 私はミニマリストなので、ゲーム機を所有しようという欲求があまりない。

 ゲームはクリアするまで使えればよく、使い終わったら売るか捨てる、という姿勢をスマホなどその他の日用品でも貫いている。

 

 ……ということは、スイッチもべつに買う必要はなくて、だれかに借りて使えばいいんじゃね?

 いや、セーブできないしな……。

 

 ともかくやりたいゲームが出てくるまで待つのが、最適解だと思う。

 欲しがりません、要るまでは。

 

 日銀のもっている国債がヤバイことになっている。

 以前も国債のリスクについては書いたが、いよいよ顕在化してきたようだ。

 

 日本の国債は過去12カ月で5.2%下落。

 世界44の国債市場のなかで最悪のパフォーマンスとなった。

 

 下落は6年連続で、1990年以来最大の落ち込み。

 これは、日銀の金利見通しが他の中央銀行と異なるために起こったことだ。

 

 

 超低金利の時代が何十年もつづいたあとに国債利回りが上昇に転じたことは、とくに海外投資家にとってチャンスになる。

 物価連動国債を除く日本の国債市場は、英国、フランス、イタリアを合わせた規模より大きい。

 

 償還期間の長い日本国債の利回り上昇は米国債よりも魅力的であり、為替リスクのヘッジにちょうどいい。

 というわけで、2月には残存期間が10年超の日本国債に、海外から過去最多の資金が流入したらしい。

 

 

 いっぽう国債・財投債の53%を保有する日銀は、すでに量的・質的緩和からの出口戦略に転じている。

 その膨大な残高の縮小に動けば、需給関係に大きなインパクトをもたらす可能性が高い。

 

 長短スプレッドにより利鞘を確保する観点から、銀行に長期国債を保有する一定の動機があることはまちがいないが、将来の政策金利の変動で逆ザヤになるリスクはある。

 そうした国債の受け皿として海外ファンドが流入しているわけだが、これは近い将来の売り崩しのリスクと表裏一体だ。

 

 日銀も「長期金利が急激に上昇する例外的な状況では、市場における安定的な金利形成を促す観点から、機動的に国債買い入れの増額等を実施する」ようだが、できれば動きたくないというのが本音のはずだ。

 なにしろ「発行済み国債・財投債の50%以上を日銀が保有」している。

 

 しかし金利水準が物価との関係で魅力あるレベルにならないかぎり、最終投資家が国債を買うのはむずかしい。

 この売り圧力を、日銀は「長期金利=実質短期金利+期待インフレ率+タームプレミアム」と説明した。

 

 

 インフレ圧力の高まり、金利の急上昇は、またぞろハゲタカファンドの出番を想起させる。

 この状況は、言い換えれば国債市況の急落局面と同義だからだ。

 

 もちろん日銀は、長年のヘッジファンドとの戦いに慣れている。

 植田総裁は、国債売り崩しを牽制するため、国会において機動的な国債買い入れの可能性に言及した。

 

 ただし、この状態で日銀が国債を買えば、インフレ下における量的緩和になるため、円が売り込まれることになりかねない。

 結局、国債は買い手不在となり、長期金利が急上昇をつづけ、利払い費の急増がさらに財政を圧迫する。

 

 

 結局、だれが国債を買うんだろう。

 健全な「投資家」なら、おそらく手は出さない。

 

 言い換えれば、不健全な「投機家」にとってはいいカモだ。

 もし彼ら「将来の敵」に売るしかないとしたら、またぞろ「日銀VSヘッジファンド」の第何十ラウンドかがはじまることになる。

 

 これまでのところ、日銀はイングランド銀行やスイス中銀のような大きな敗北は喫していない。

 しかし、こんどこそ日銀が負けないと、だれが断言できるだろう。

 

 

 顧みれば、日銀は海外ファンドと何度も激しい攻防をくりかえしてきた。

 半世紀ほど生きている私にとって、日銀は「無敵」のような気さえする。

 

 たとえば2003年の「VaR(バリュー・アンド・リスク)ショック」では、銀行がリスク管理手法を変更したことがきっかけで日本国債が急落し、ヘッジファンドがそれに便乗した。

 しかし日銀は、すばやい介入と市場への流動性供給でこれを抑え込んだ。

 

 記憶に新しいところでは2022年、YCC(イールドカーブ・コントロール)の防衛ラインを巡る攻防がくりひろげられた。

 海外勢による国債売り浴びせに対し、日銀は無制限の買いオペで対抗した。

 

 

 ヘッジファンドとの戦いに終わりはない。

 いずれ仕掛けられるだろう「日本売り」に、日銀がどのように立ち向かっていくか、想像するとちょっと楽しい。

 

 そのとき彼らは「市場と対話する柔軟な対応」なのか、それとも「防衛ラインを死守する強硬策」なのか。

 個人的には「強硬策」で吹っ飛ばされるヘッジファンドの群れを見たい気もするが、強い薬はそれだけ副作用も大きい。

 

 ヘッジファンドVS日銀──。

 この歴史的な戦いの行方を、楽しみに見守りたい。

 

 

 私は引きこもりだが、必要があるときは出かける(あたりまえだが)。

 その場合、できるだけ1回の外出で済むように、用事をまとめておくという癖がある。

 

 買い物に行く場合も、無駄な時間を過ごすことはあまりない。

 最初からこれを買うと決めて最短距離でその売り場に向かい、レジに取って返して店を出るまで、できるだけ最短時間を更新したいと思っている。

 

 観光さえ、ゆっくりするという考え方はあまりない。

 いくつか訪れる場所をピックアップして、巡回セールスマン問題のように、どれだけ効率的にこなせるかという点を重視する。

 

 

 そういう性格の私は、作業用BGMのひとつとして、よく「お散歩動画」を流している。

 新宿とか、秋葉原とか、パリとか、サントリーニ島とか。

 

 そこでふと気になることがあったので、書き残しておきたい。

 ──「止まっている」ひとというのは、なんだろう?

 

 動画の撮影者を含め、ほとんどのひとが動いている。

 街は移動する場所で、それぞれの目的をもって、それぞれの目的地にむかっている。

 

 

 もちろん全員歩いているわけではなく、ベンチなどで「休憩している」ひともいる。

 都会は意外に徒歩での移動時間が長くなりがちなので、休みたいというのはよくわかる。

 

 観光地であれば、絶景を「眺めている」ひともいるだろう。

 最近は海外のインバウンド客も増えて、日本人にとってはどうでもいい日常の景気を、熱心に撮影していたりする。

 

 多いのはやはり、駅前など特定の場所で「待っている」ひとだろう。

 信号が赤とか、まだ開店時間ではないとか、だれかと待ち合わせとか。

 

 どこで待ち合わせしようと、それはそのひとの自由だ。

 タクシーを呼んだとか、予約の時間まで間があるとか、なんらかの「待ち」時間をマチのどこかで過ごしている人々は、たくさんいる。

 

 「仕事で立っている」のは、忖度するまでもない。

 チラシを配ったり、呼び込みをしたり、とにかく彼らは必要があってそこにいる。

 

 立ちんぼ、という業態もある──彼女らは客を待っているのだ。

 すべて「仕事」であれば、なんの違和感もない。

 

 

 その場に「止まっている」理由として、これらは非常に理解しやすい。

 言い換えれば、それ以外の理由があるとしたら、なんだろう?

 

 「道に迷っている」場合はあるかもしれない。

 ふと立ち止まって「考え事をする」「悩みに囚われる」というのも、ないわけではないだろう。

 

 気になるのは「目的もなくそこにいる」人々だ。

 そのへんの街角で、ただ立っている、座っている、スマホをいじっている。

 

 そういう人々の背景を忖度してみるが、自分が「正解」を引いている実感があまりない。

 彼らはなぜ、そこに「止まる」という選択をしたのか?

 

 能動的に選択したわけではなく、行く場所がないからただそこにいるだけなのか?

 ただ動く理由を見失う、動くことでなにかが変わる気がしない、どこに行くべきかもあいまいだから……。

 

 

 ある記事によると、なんの目的もなくマチに出て、ふらふらしたり、ただじっとしている、という人間が実在するのだという。

 そのことについて深く掘り下げていくとき、私の思考は停止しがちだ。

 

 街角は静止する場所ではない、と私は思っている。

 が、そこにただ「たむろ」している人々は事実、一定数存在する。

 

 なんとなく、だらだらしたい、時間をつぶしたい、外で、自分の部屋や職場以外ならどこでもいい……。

 そういう人々を理解することが、私にはむずかしい。

 

 

 目的もなく、理由もなく、ただマチの風景に溶けるようにして、止まっている。

 無職や引きこもりの経験が長いと、なにかをするために動くのではなく、ただ存在しているだけの時間が増えるという。

 

 私自身、無職で引きこもりの時間を長く過ごしたが、やることはたくさんあった。

 本を読むために無職になったし、考えて書き残したいことのために時間を無駄にしたくないから引きこもった。

 

 しかし、もし私がこれらの目的をすべて失ったらどうなるのかと考えはじめたとき、さすがに問題の深刻さに気づいて慄然とした。

 ときどき陥る「消え去りたい」衝動は、私がやっていることのすべてが「無意味だ」という感覚とともにやってくる。

 

 そういう無意味さに耐えて生きることに価値を見いだせなくなることは、ぶっちゃけまれによくある。

 そんな私に、街でただ止まっている人々が似ていると仮定してだが、社会が彼らを理解して対応できるとは、とても思えない。

 

 

 「止まっている」ひとは、単に「動かない」ひとではなく、なにかの「境界に立っている」のかもしれない。

 そこにとどまるか、あるいはどちらに進むのか、決めるのは自分自身。

 

 私には理解できないタイプだと思っていた人々は、じつは私の陥る「病態」の一側面だったとしたら。

 表現形態が異なるだけで、彼らも同じ「苦痛」をたしなんでいるのかもしれない。

 

 そう考えると、街で「止まっている」人々を見る目が、すこし変わった。

 自分自身の体験も踏まえて言うが、彼らは薄氷を踏んでいる。

 

 趣味でもなんでもいいから、なにかやるべきことを見つけたほうがいい。

 いつまでも「そこにいると危ない」と思う……。

 

 『白雪姫』が実写化されたらしい。

 主演はラテン系俳優のレイチェル・ゼグラー。

 

 クラシックな作品を新たな解釈でリブートすることは、昨今よくある。

 しかし観客動員数だけ見ると、どうやらこの『白雪姫』はコケているらしい。

 

 コロンビアとポーランドの血を引く彼女の肌は、もちろん褐色だ。

 白雪姫のイメージとは、あまりにもちがう。

 

 

 白雪姫は「雪のように白い」から、その名がつけられた。

 今回は「雪の降る夜に生まれた」からと改変されている。

 

 それはそれでいい。

 具体的な例は出さないが、「親がつける名前」も似たようなものだ。

 

 理想を仮託して、わが子に名前をつける。

 結果、世間には「名前負け」している人間がたくさんいる。

 

 しかし、童話の主人公に「名前負け」を感じさせてはいけない。

 「物語」とは可逆的な世界観であり、名前から発想してキャラクターを造形している可能性さえあるからだ。

 

 

 有名なシーンで、魔法の鏡が「いちばん美しいのは白雪姫」と言う。

 当然、彼女がいちばん美しいことを、観客に納得させる必要がある。

 

 褐色の肌の白雪姫を美しいと思う人々は、もちろん相当数いるだろう。

 なんなら、いかなる地下アイドルでもアイドル活動しているくらいの女の子は、身近にいればだいたいカワイイものだ。

 

 問題は彼女が「世界一美しい」「地上に舞い降りた女神」かどうかだ。

 異常な宣伝や扇動が先にあると、「これからめちゃくちゃおもしろい話をするよ!」と宣言してから話しはじめるのと同様、ろくなことにはならない。

 

 しかも白雪姫の場合、まずは先行する「イメージを破壊する」ところからはじまる。

 そのうえで創造した新たな価値を納得させる必要があるのだ。

 

 

 この女優に関してはよく知らないのでなんとも言えないが、キャスティングされるだけあって実力はあるのだろう。

 ただ彼女自身の発言で「ちがうプリンセスになる」などといった、原作リスペクトに欠ける発言については、いかがなものかと思っている。

 

 すくなくとも「肌は雪のように白く」という原作が、物語の象徴的な要素であることはまちがいない。

 これは単なる外見描写ではなく、白雪姫の純潔性や魔女との対比を示す重要なモチーフだからだ。

 

 原作の重要な部分を変えることは、作品の本来の意図を損なう可能性がある。

 これは個人的な意見だが、包摂性や多様性といったものは、すでにある登場人物の人種を変更することによって達成すべきものではない。

 

 古いものを「破壊する」のはいいとしても、そこに不必要な思想や価値観を組み込んで自己主張の「道具に変える」やり方は、いかがなものか。

 もちろん、なんの目新しさもないつまらないリメイクも、どうかとは思うが……。

 

 

 『人魚姫(リトル・マーメイド)』のアリエルについても、同様の議論があった。

 アニメのイメージとあまりにも異なる黒人、ハリー・ベイリーの起用。

 

 ディズニーのポリコレ配慮は、浸透しきっているとみてよいだろう。

 とくに人種問題については、アメリカには騒ぐ団体などもいてたいへんだとは思うが、自分の首を絞めるリスクについてはよく考えたほうがよい。

 

 キャスティングの権限を握っている人々の意図や思想が、市場の需要やイメージと一致するかどうか。

 観客が「この改変に納得できない」と判断すれば、興行的に失敗し、その結果として「行き過ぎたDEI」が修正されることもあるだろう。

 

 長期的には市場原理が機能するので、制作側が独りよがりな改変をつづけることはできなくなると、個人的には思っている。

 じっさい「反DEI」の動きは、アメリカを中心にかなりの盛り上がりをみせている。

 

 

 ポリコレやDEIにまつわる失敗例は、いくらでもある。

 まず思いつくのは2016年の『ゴーストバスターズ』。

 

 オリジナルのキャラをほぼ無視して、全員を女性キャストに変えた。

 そもそも新キャラじたいに魅力が乏しいうえ、ジェンダー入れ替えという改変そのものが自己目的化し、オリジナルのファン層から顰蹙を買った。

 

 『スターウォーズ/最後のジェダイ』(2017)。

 ルーク・スカイウォーカーを無力な隠者として描き、「伝統を否定する」メッセージを打ち出した。

 

 こちらはDEIとは関係ないかもしれないが、過去作への「リスペクトに欠ける」という点が、なによりも最悪だった。

 原作のネームバリューを利用しておいて「原作軽視」するなど、もってのほかだ。

 

 

 新しいことがやりたいなら、新作をつくれよ。

 なんで『スターウォーズ』とか『白雪姫』という看板を使おうとするんだよ?

 

 と、私自身は、どちらかといえば批判的な立場に近い。

 自分自身が新しいものを書きたいタイプの人間だからかもしれないが、「創造」よりも「破壊」が強く出ている作品に対しては、あまり共感できない。

 

 そのような感想が出ることも、もちろんディズニーは承知の上だ。

 興行的に微妙な結果となる可能性については「織り込み済み」なのだろう。

 

 理想を目指す思想集団にとって、この程度は一里塚にすぎない。

 彼らの目標はおそらく、過去作品のすべてを破壊して、理想の未来にふさわしい新世界を構築してやることだ。

 

 そんな姿勢に、強烈な既視感をおぼえる。

 新興宗教や共産主義者も、だいたい同じようなことをやってきた……。

 

 

 結局、上記のような作品の作り手にとって、名作タイトルとは「のれん代」なのだ。

 その作品の価値を上げるのではなく、食いつぶすという方向での「買収」とも言い換えられる。

 

 あるブランドや会社を買って、広告コストを下げるというやり方は、マーケットにおいては標準的な手法である。

 認知度の高いブランドを買って商売するのは、まさに「名作タイトルにかこつける」こと、そのものである。

 

 じっさい、これを極限までやり遂げているのが、日本のアニメ「ガンダム」シリーズだと思っている。

 ガンダムというのは作品名ではなく、ある種の「概念」なのだ。

 

 

 私にとってのガンダムはファーストのイメージが強く、シリーズについては『逆襲のシャア』あたりで、早々に離脱した。

 そういう年寄りにとって、最近のガンダムは「もはやガンダムではない」。

 

 というよりも、「どこがガンダムなんだよ」という突っ込みを20年くらい引き受けつづけて、3周くらいまわって別のステージに転生したのが最近のガンダムだと思う。

 『機動戦士ガンダム』と「ガンダム・シリーズ」は、まったくの別作品というとらえ方をすればいい、ということだ。

 

 看板が「マクドナルド」なのに牛丼が出てきたらおかしいが、そのくらい振り切ってしまうことで、新しいものが生まれてくる可能性はある。

 牛丼バーガー……あってもいいような気が、しないでもない。

 

 ともかく新しいものをつくる。

 そういう書き手に、私はなりたい。