今週の寒かったある日、献血に行ってきた。
山深いうちあたりには雪が降っていて、バイパスは通行止めになっていたくらいなので、平地のほうも冷たい雨のなか、献血ルームもだいぶ閑散としていた。
これは「待つ」ことが苦手な私としては、とてもよかった。
受付から終了まで40分くらいというのは、最短記録のような気がする。
2時間分の駐車券をもらったが、1時間のサービス券で足りた。
ちなみに献血後は所定の時間休憩しなければならないので、もらった駐車券の枚数は妥当だ。
私は慣れているのでさっさと移動したが、良い子はきちんと休憩しましょう。
ともかく寒すぎたり暑すぎたり、雨が降ったり風が吹いたり、そういう天気の事情は、やはり人の集まりに大きく影響すると実感した。
さて、それはよかったのだが、あまりよくないこともあった。
どうやら献血は「アプリがないとできなくなる」らしい。
単発でやるひとには関係ないが、手帳やカードをつくって何度も協力したいんだ、という奇特な人々に対しては「アプリ使え」という強制になる。
カードを愛用していた私としては、「ずいぶん上からモノをおっしゃいますねえ」という気分になった。
まあ国全体が、そういう流れではある。
保険証や免許証も徐々になくしていって、マイナカードに統合していく予定らしい。
一枚のカードでなんでもできるのはいいと思うが、カードをなくしたら大変だ。
なんなら生体認証にすべて統合して、カードもケータイももたず、本人が証明できるだけで手続きが進むという未来社会が、さっさと訪れればいいとは思う。
──そういう考えだったら、アプリに統合することにも違和感ないんじゃない?
と思われるかもしれないが、たしかに方向性そのものは理解する。
ただし簡単に納得はできない。
日赤には「前科」があるからだ。
一般的に、自分が正しいと思っている連中を調子に乗せすぎるのはよくない、と思っている。
これは昨今のリベラルの衰退によって、実質的にも証明された。
彼ら自身が、いいと思うことをやるのは勝手にすればいい。
それを「だれかに押しつける」段階にいたるときは、より慎重になるべきだ。
たとえばプラスチックのストローを愛用している私としては、紙を使えと言われてもお断りだ。
数日から1週間くらいは使いつづけるので、紙の強度ではまったく話にならない。
ところが「自分は正しいと思っている人々」は、他人の状況など知ったことではない。
木で鼻をくくったようなお役所的対応で、自分たちが正しいと思ったことに協力しろと押しつける。
昨今のアメリカでトランプ大統領を駆動しているのが、この「わかりやすい反発」だ。
意識高い系が、えらそうに自分たちの正義を押しつける。
多様性や妊娠中絶なども問題になっているが、総じてリベラルはやりすぎた。
あまりにもやりすぎて心の広い保守ですら反発せざるを得なくなった、というのが実態だと思う。
似たような構図を、日本赤十字にも感じている。
彼らほど「自分は正しい」と思っている人々の集まりは、ほかにないかもしれない(あるとすれば宗教くらいだ)。
以前このブログで、献血のお礼でもらったものを転売することを「禁止」された件について、疑義を唱えた。
私は、自分がもらったものをどう使おうと、だれに売ろうと「いいだろう」という立場だが、彼らはそれを「許さない」。
転売して利益を得られるようなノベルティを配るほうが問題なのに、自分たちの都合で客寄せはしたいから配るものは配る。
その後に勝手に利益を得られるのは業腹なので禁止、っというのはあまりにも自己都合が優先すぎやしませんかと。
そんな連中なので、自分たちのコスト削減のためにすること(アプリへの統一など)には前向きだ。
自分が正しいと思っているので、手帳やカードを使っていた人々の利便性や愛着など、他人の気持ちは平気で犠牲にできる。
他人が勝手に利益を得ることは禁止するが、他人の利便性を無視してでも自分の利益は最大化する。
そういうことが平気でできるのは、大事なことなので何度でも言うが、「自分は特別で正しいと思っているから」だ。
これは現場の医師や看護師の問題ではない。
上のほうで何事かを決めている、「独善的な特定層」が往々にして陥る状態だ。
さまざまな価値観の包摂性を主張しながら、異論に対しては禁止や弾圧を試みる。
自分は正しいと思っている連中の決定的な弱点は、ここだと思う。
最後に、趣味で書いている小説の話をしたい。
私の書いている小説の主人公は、自分は正しいと思っている人間たちに囲まれている。
それぞれの思想にはそれぞれの正義があり、主人公も「それはそうだなあ」と納得させられることもしばしばだ。
しかし彼は、どの道にも染まらない。
信念をもった人々にとっては、許しがたいキャラクターかもしれない。
自分自身を最後まで「疑いながら」進む主人公の物語。
──疑ってはいけない、信じろ、神が言っている、私が正しいと!
そんな人々に取り囲まれながら、それでも彼は偏らず、それじたいを疑いながら進む。
自分は正しいと信じられれば、むしろ楽になるだろうに。
そんな話の最終盤に至り、とても厳しい展開を強いられているが、できれば書き上げたい。
最後まで疑う……そんなことがほんとうに可能なのか?
私自身、書き上げるまではとうてい信じられない……。