(前回のつづきです)
多かれ少なかれ世界中が「自分勝手」ではあるのだが、とくに中国でわかりやすいくらい顕著である理由を、ひとつ挙げよう。
「始皇帝の遺産」だ。
日本の漫画などでは英雄のように描かれているきらいもあるが、この趙政という男、個人的には「クソ野郎」だと思っている。
アレキサンダー大王やチンギスハン、スペインのコンキスタドールたちと同列の意味において、であるが。
「それが征服者というもの」だ、という言い方はできる。
とくに始皇帝のやった「文化の破壊」はすさまじかった。
個人的に、始皇帝に比肩するのはディエゴ・デ・ランダくらいのものだと思っているが、キリスト教に対する批判はまた別途に譲ろう。
焚書坑儒に代表される彼の「暴虐」はすさまじく、なにより最悪なのは、そのプロトコルが歴代王朝にもたしかに「受け継がれていった」ことだ。
過去をゆがめ、自己正当化に走る。
ことさら中国というフレーム、その最後の王朝にいたるまで、例外はない。
清朝は、満州族による征服王朝だった。
康熙帝は歴史に残る名君とされ、それ以外にもおおむね評価の高い皇帝が多い。
私はこれに強い疑義をもっている。
表面上、どう取り繕おうと試みたところで、始皇帝の遺産は底流している。
同じく評価の高い乾隆帝の時代、勅命によって四庫全書というものが編纂された。
全国各地から書物を集めて、膨大な漢籍の叢書をつくるという国家事業だ。
そのすばらしい文化的活動の目的が、「満州族に対する批判的言論の封殺」にあったことは、あまり知られていない。
清朝の国家統治にとって障害となるような書物は禁書とされ、収録されなかった図書は三千点にものぼるという。
たとえ部分的でも、満州族に対する批判や憎悪が記されていたら、すべて黒塗りした。
そう、彼らは征服民族である自分たちへの批判を、始皇帝と同様「焚書」によって圧殺しようとしたのだ。
そういえば、天安門事件、法輪功、新疆ウイグルなどのキーワードを検索すると、ブロックされる国があるらしい。
国家レベルのネット検閲システムが、現に稼働している国……。
結局、始皇帝の時代から、なにも変わっていない。
中国という体制そのものが、情報操作と遮断、権力闘争によって自己組織化される、ということなのだ。
と、そこまで断言すると、さすがに飛躍が過ぎる気がしないでもない。
しかし近代以前の統治様式において著しく似通ったパターンが、体制の深層構造として残存しているように見えることはたしかだ。
では、なぜ中国の国民は、このような体制に抗えないのか?
さまざまな分析はあるが、私が考えるのは「彼ら自身が共犯者だから」だ。
人類史に残る失政と権力闘争の権化、毛沢東。
世界史的にも評価の芳しくない政治家だが、当の中国では紙幣にまでなっている。
そんなものを、なぜ平気で使っていられるのか?
なぜなら使用(を決める権限をもつ)者の多くが「被害者側ではなく加害者側」であり、その忌まわしい過去と自己を「正当化したい」からだ。
大躍進政策や文化大革命で暴れた若者が、現在まだ多く政府中枢に残っている。
彼ら紅衛兵が文革でよくやっていたのが、まさに「文化」の「革命(破壊)」だった。
「革新」はすべからく直近の過去の破壊に立脚する。
歴史的に大きな「征服」や「簒奪」というタームにおいて例外はない──とはいえ、とくに共産党は徹底しているという印象がある。
新体制にとって刷新すべき過去を、不愉快な「ブルジョワ」と決めつけて排除したのが文化大革命であり、中国共産党による中華人民共和国の成立だった。
当時、破壊と勝利の熱狂のもと、自分たちの連帯感を高めることもできて一石二鳥だっただろうことは、想像に難くない。
そうして暴れまくった若者たちが、まだ社会にそれなりに残っている。
それが悪だと指弾されないためには、毛沢東を弾除けとして飾っておいたほうが、なにかと都合がいい。
天安門に飾られた肖像画によって、そのような体制に加担した自分たちの「悪」も、なんとなくごまかせるような気がする……。
あの紙幣が現役で存在するということは、つまり中国はまだそういう状態にあるという意味だ、と私は解釈している。
言い換えれば、あの紙幣が切り替わるときこそ、体制が変わるときではないか。
──などと「書いただけで抹殺される国」というのは、そもそもおかしい。
日本で「共産主義革命を起こす」と書いても、べつに当局がやってきて調査や検閲されたりしない。
日本だけではない、世界のだいたいの国で許されていることができない国なんて、長持ちするはずがない。
どこかで必ず変わる。
そのシナリオについて考えるとき、諸刃の剣として立ち現れるのがAIだ。
たとえるなら人類の未来をDeepSeekとChatGPTが話し合って決める。
そんな未来も、ないとは言えない……。