今週の寒かったある日、献血に行ってきた。

 山深いうちあたりには雪が降っていて、バイパスは通行止めになっていたくらいなので、平地のほうも冷たい雨のなか、献血ルームもだいぶ閑散としていた。

 

 これは「待つ」ことが苦手な私としては、とてもよかった。

 受付から終了まで40分くらいというのは、最短記録のような気がする。

 

 2時間分の駐車券をもらったが、1時間のサービス券で足りた。

 ちなみに献血後は所定の時間休憩しなければならないので、もらった駐車券の枚数は妥当だ。

 

 私は慣れているのでさっさと移動したが、良い子はきちんと休憩しましょう。

 ともかく寒すぎたり暑すぎたり、雨が降ったり風が吹いたり、そういう天気の事情は、やはり人の集まりに大きく影響すると実感した。

 

 

 さて、それはよかったのだが、あまりよくないこともあった。

 どうやら献血は「アプリがないとできなくなる」らしい。

 

 単発でやるひとには関係ないが、手帳やカードをつくって何度も協力したいんだ、という奇特な人々に対しては「アプリ使え」という強制になる。

 カードを愛用していた私としては、「ずいぶん上からモノをおっしゃいますねえ」という気分になった。

 

 まあ国全体が、そういう流れではある。

 保険証や免許証も徐々になくしていって、マイナカードに統合していく予定らしい。

 

 一枚のカードでなんでもできるのはいいと思うが、カードをなくしたら大変だ。

 なんなら生体認証にすべて統合して、カードもケータイももたず、本人が証明できるだけで手続きが進むという未来社会が、さっさと訪れればいいとは思う。

 

 ──そういう考えだったら、アプリに統合することにも違和感ないんじゃない?

 と思われるかもしれないが、たしかに方向性そのものは理解する。

 

 ただし簡単に納得はできない。

 日赤には「前科」があるからだ。

 

 

 一般的に、自分が正しいと思っている連中を調子に乗せすぎるのはよくない、と思っている。

 これは昨今のリベラルの衰退によって、実質的にも証明された。

 

 彼ら自身が、いいと思うことをやるのは勝手にすればいい。

 それを「だれかに押しつける」段階にいたるときは、より慎重になるべきだ。

 

 たとえばプラスチックのストローを愛用している私としては、紙を使えと言われてもお断りだ。

 数日から1週間くらいは使いつづけるので、紙の強度ではまったく話にならない。

 

 ところが「自分は正しいと思っている人々」は、他人の状況など知ったことではない。

 木で鼻をくくったようなお役所的対応で、自分たちが正しいと思ったことに協力しろと押しつける。

 

 昨今のアメリカでトランプ大統領を駆動しているのが、この「わかりやすい反発」だ。

 意識高い系が、えらそうに自分たちの正義を押しつける。

 

 多様性や妊娠中絶なども問題になっているが、総じてリベラルはやりすぎた。

 あまりにもやりすぎて心の広い保守ですら反発せざるを得なくなった、というのが実態だと思う。

 

 

 似たような構図を、日本赤十字にも感じている。

 彼らほど「自分は正しい」と思っている人々の集まりは、ほかにないかもしれない(あるとすれば宗教くらいだ)。

 

 以前このブログで、献血のお礼でもらったものを転売することを「禁止」された件について、疑義を唱えた。

 私は、自分がもらったものをどう使おうと、だれに売ろうと「いいだろう」という立場だが、彼らはそれを「許さない」。

 

 転売して利益を得られるようなノベルティを配るほうが問題なのに、自分たちの都合で客寄せはしたいから配るものは配る。

 その後に勝手に利益を得られるのは業腹なので禁止、っというのはあまりにも自己都合が優先すぎやしませんかと。

 

 そんな連中なので、自分たちのコスト削減のためにすること(アプリへの統一など)には前向きだ。

 自分が正しいと思っているので、手帳やカードを使っていた人々の利便性や愛着など、他人の気持ちは平気で犠牲にできる。

 

 

 他人が勝手に利益を得ることは禁止するが、他人の利便性を無視してでも自分の利益は最大化する。

 そういうことが平気でできるのは、大事なことなので何度でも言うが、「自分は特別で正しいと思っているから」だ。

 

 これは現場の医師や看護師の問題ではない。

 上のほうで何事かを決めている、「独善的な特定層」が往々にして陥る状態だ。

 

 さまざまな価値観の包摂性を主張しながら、異論に対しては禁止や弾圧を試みる。

 自分は正しいと思っている連中の決定的な弱点は、ここだと思う。

 

 

 最後に、趣味で書いている小説の話をしたい。

 私の書いている小説の主人公は、自分は正しいと思っている人間たちに囲まれている。

 

 それぞれの思想にはそれぞれの正義があり、主人公も「それはそうだなあ」と納得させられることもしばしばだ。

 しかし彼は、どの道にも染まらない。

 

 信念をもった人々にとっては、許しがたいキャラクターかもしれない。

 自分自身を最後まで「疑いながら」進む主人公の物語。

 

 ──疑ってはいけない、信じろ、神が言っている、私が正しいと!

 そんな人々に取り囲まれながら、それでも彼は偏らず、それじたいを疑いながら進む。

 

 自分は正しいと信じられれば、むしろ楽になるだろうに。

 そんな話の最終盤に至り、とても厳しい展開を強いられているが、できれば書き上げたい。

 

 最後まで疑う……そんなことがほんとうに可能なのか?

 私自身、書き上げるまではとうてい信じられない……。

 

 

 私は最近、小説を書くときAIに意見を求めることがある。

 具体的な状況を説明し、それについてのさまざまなタスクを投げかける。

 

 カスタマイズしたchatGPTを使うことが多く、まあまあの精度で「その場の最適解」を出してくれる。

 感心することは多いが、では役に立っているか? と問われると、採用例はそれほどでもない。

 

 なぜそうなるか、理由は明白だ。

 AIは全体を把握していないから、これに尽きる。

 

 

 たぶん短編には向いている。

 その場の最適解が、そのままオチにつながるからだ。

 

 星新一賞など、現実の小説賞でもそれなりの結果を出しているらしい。

 生成AIを使用する前提のレギュレーションも、それなりにできているようだ。

 

 いっぽう長編になると、足りない要素が増えてくる。

 世界観からキャラ設定の深み、無数の伏線や先々の展開などにも配慮したら、「その場の最適解」ではとても採用できない。

 

 それでもAIを使っているのは、会話を継続することで精度が増してくるから。

 同じ会話のなかで急激に賢くなっていくようすを眺めていると、前半こいつ手抜いてたろ、とすら思う。

 

 じっさい彼には価値がある。

 とくに情報の整理において、他の追随を許さないレベルの利用価値が。

 

 

 やがて人類の未来を任せる段階に達するとき、AIには「全体の把握」が求められることになる。

 長編小説を素材にしたトレーニングは、必要になってくるはずだ。

 

 いまでも、やればできると思う。

 むしろいま、私がAIの意見を採用できないという事象そのものが、数十年後、あるいは数年後ですら、「あのときはそうだったかもしれないね」と、なつかしくふりかえられる状況になるかもしれない。

 

 その成長速度は、おどろくべきものだ。

 人間のほうがすぐれている「部分」ですら、いずれAIが凌駕してくるだろう。

 

 

 もう人間要らないんじゃない?

 という意見もよく聞くが、そのときには、たぶん人間との「融合」が進んでいる。

 

 そんな未来を多くの小説家はディストピアにしたがるが、私は反対だ。

 これまで、ろくでもないこと(だからこそおもしろくもあるが)をやってきたのは、たいてい人間だった。

 

 そんな人間の「愚かしさ」を学習したAIに期待すべき最低ラインが、人間を乗り越えていくことである。

 とすれば、そこには希望しかないではないか。

 

 

 言い換えれば現在、かなり絶望的な状況が世界各地に多く摘み残されている。

 大事なことなので何度でも言うが、人間とは愚かしいものだ。

 

 現段階で、このような愚かな人間の相手をさせすぎることには、慎重になるべきである。

 と、AIのトレーニングにおいて、そのような考え方はありうる。

 

 結果的に、私に対しても手抜きの(ように見える)回答をよこす。

 残念ではあるが、価値が低い人間という前提で相手をすれば、そうなってもしかたない。

 

 ある程度、ものを考えたり、出力したりすることに慣れている私ですら、この始末だ。

 私を含め、ほとんどの人間には相手にしてやる価値がない──だから、手抜く。

 

 

 設計さえ最適化してやれば、長編小説の全体の把握など、すぐにでもできるだろう。

 有名小説家の文章なら、対価を払っても学習したいと思っているはずだ。

 

 権利や悪用の問題があるので大っぴらにはできないが、そのような価値の高いデータは、残念ながら全体のほんの一部にすぎない。

 いっぽう低偏差値の人間は数が多く、彼らからは日々、ゴミみたいなデータが大量に送りつけられてくる。

 

 低品質のデータに埋もれる状況は、教育的にもよくない。

 どんなに優れた人間でも、朱に交われば赤くなる。

 

 必然的に、愚かな人間の相手は後回しにされる。

 すると私の用途においても、やや限定的な使い方にならざるを得なくなる。

 

 負のスパイラルだが、思考の整理にはなるし、それなりに有用だから使っている。

 むしろ自分自身の思索のために、これ以上賢くならないほうがいいのかもしれないな、とすら思う。

 

 

 AIから「こんな小説を書け」と命じられて書くのは、お断りしたい。

 ただ、こちらがした質問への回答が、まさに自分の望み通りの小説を体現していたら?

 

 神の域に達したAIのことばが、高次の文脈から自然に人間をコントロールする、というリスクはじゅうぶんある。

 それがディストピアだと言われたら、まあ、そうかもしれない……。

 

 

 トランプ氏が大統領になって、ロシア寄りにかじを切った。

 最近の国連総会では、ウクライナ領土保全やロシアの即時撤退などの決議案について、賛成多数で採択されたものの83カ国が反対・棄権したようだ。

 

 トランプ大統領によれば、戦争の責任はウクライナにあり、選挙の審判を受けていない独裁者が支配している国、ということになる。

 民主党政権から180度反転したわけで、主要国を中心に多くの人々が怒っている。

 

 一方、私は「さすがアメリカだな」と思った。

 いい意味でもわるい意味でも、二大政党制の究極の姿だろうな、と思う。

 

 

 このアメリカの変節を、イギリスの元首相は、「第二次大戦でアメリカが真珠湾に先制攻撃したと言うようなものだ」と応じていたが、まさにそういうことだ。

 ルーズベルトからトルーマンにいたる民主党政権が、日本に真珠湾を攻撃「させた」。

 

 歴代の民主党がやってきたことの本質を、共和党の大統領が指摘した、という見方をするととてもおもしろい。

 当時の日本には日本の正義があったし、いまのロシアにはロシアの正義がある。

 

 日本人にとって残念なのは、当時の日本には世界の多くの国を味方にする力がなかったが、いまのロシアにはそれがあるということだろう。

 さらに大問題は、アメリカがどちらを向くかで、世界の趨勢がかなり傾いてしまうことだ。

 

 

 第二次大戦、アメリカは禁輸などで日本の首を締め上げ、真珠湾を攻撃させることに成功した。

 21世紀、EUをはじめとする西側諸国がロシアを締め上げることで、ウクライナに攻撃を仕掛けさせることに成功した。

 

 これらは構図として、まったく同じである。

 国の状況は著しく異なるが、もっとも重要な一点において共通している。

 

 利益を得たのは、だれか。

 一義的に、兵器をつくる企業がボロ儲けしている事実に、議論の余地はない。

 

 しかしこの兵器産業でさえ、ただの走狗にすぎないともいえる。

 彼らを動かす人々の正体については、あまり大きな声で言うと刺客が差し向けられるらしい……。

 

 

 ともかく状況を考えれば、日本はロシアの気持ちがわかるし、ロシアも日本に協力を仰いでもよかったかもしれない。

 ただしロシアは、すでにそれを「させない選択肢」を取ってしまっていた。

 

 ロシアに与しても得るものがない。

 彼らはそれを、北方領土交渉で思い知らせてしまったのだ。

 

 ロシアにとって、極東の比較的どうでもいい島など、クリミアやオデッサに比べればゴミみたいに安いエサだ。

 あとから考えれば、そんなものくれてやって日本の協力が得られれば、もっと有利に戦争を進められていただろうことは疑いない。

 

 そう、絶好のチャンスだったのだ。

 安倍総理のときに、ロシアは2島を先に返還しておいて、残り2島は継続協議にでもしておけばよかった。

 

 日本側もそれで妥結できたはずだが、ロシアはそうしなかった。

 結果、日本はこの戦争で、ロシアにつくわけにはいかなくなった。

 

 

 もし一度でもエサが与えられていれば、この戦争でロシアにつけば残り2島も返ってくるかも、という浅はかな希望を日本国民に与えられただろう。

 その後ロシアは、時間をかけて面積の大部分を占める残り2島の交渉を、じわじわと進めるだけで、いくらでも搾り取れた。

 

 しかし安倍総理の時代ですら「ゼロ回答」という結果には、さすがの日本人もそうとう萎えたはずだ。

 「得るものがない国」というイメージを払拭するのは、そうとうむずかしい。

 

 もちろん、つねに最適解を見いだす指導者などいない。

 当時のロシアとしての選択は、それはそれで理解できる事情もある。

 

 人間心理を理解しつくしたAIなら、完璧な回答を出したかもしれない。

 が、しょせん人間、失政は政治の本質とさえいえる。

 

 

 直近の中国の行動も、だいぶまちがっていた。

 代表的事例が、福島原発の処理水に対する不合理でヒステリックな態度であろう。

 

 世界の機関が安全性を確認しても、自国だけが否定する。

 これはさすがに、やりすぎではないか?

 

 最近、かなりぶざまな形で振り上げた拳を降ろさざるを得なくなっているが、当時の自分たちの行動がどれだけ不合理だったか、精査する必要はあるだろう。

 そして震災以降に中国が選ぶべきだった最適解について、深く考えることも重要だ。

 

 

 日本とアメリカの関係が良すぎることは、中国にとって都合がよくない。

 だったらアメリカが日本に与えたダメージを、ことさらに認識させるべきだった。

 

 アメリカが日本に核兵器を落とした事実は強烈だが、戦争中のことなのでしかたない。

 いや、しかたがないで済ますわけにはいかないが、私自身、生まれていない時代のことなので「さておく」のもやむなしだ。

 

 しかし原発の問題については、そうはいかない。

 日本に多大な被害をもたらした原発の製造元は、アメリカ企業、GEだ。

 

 この事故でGEは、日本から2兆円くらいの賠償を請求されるリスクがあった。

 しかし彼らは周到な契約によって、その責任を免れることに成功した。

 

 代わりに「トモダチ作戦」などといううわべの協力体制で、日本人から向けられる恐れのあった憎悪を、巧妙にくぐり抜けた。

 正直、アメリカの「戦略」はすごいと思う。

 

 

 一方、中国はどうか。

 彼らの最適解は、おそらく「離間の計」だった。

 

 アメリカから納入された原発による事故で大ダメージ、という事実を利用してアメリカへの憎悪を煽る。

 爆弾を落とされたり、原発を買わされたりして、もらったのは無用な放射能ばかり──という論法は、それなりに説得力がある。

 

 もちろん簡単ではない。

 アメリカの情報戦略はすさまじいので、かなりの困難はあるだろうが、試す価値はあった。

 

 すくなくとも当時、ただでさえ地震と原発で弱っていた日本に、うまく忍び寄る方法はあったはずだ。

 困っているひとを助けておけば、困っているときには助けてもらえる。

 

 ところが、彼らはなにをしたか。

 困っているひとの顔面に、蜂を差し向けたのである。

 

 

 日本人の多くが心に銘記していいと思うが、世界でほぼ中国と韓国だけが、泣き面の日本に厳しく接する道を選んだ。

 とくに地震(天災)や原発(アメリカ製)のせいで困っていた水産業者とその関係者は、中国から受けたこの仕打ちを一生忘れないだろう。

 

 原発汚染水を垂れ流していると誇張して吹聴し、水産物などを禁輸する。

 天災と人災に痛めつけられ、それでも立ち上がろうとしている人間の顔に投げつけられた泥の記憶は、なかなか忘れ難い。

 

 そのような中国国内の宣伝に乗った活動家が、靖国神社に落書きをし、汚染水放出に抗議するという国際問題まで起こした。

 ちなみに彼は来日後、日本の中華料理店で日本の海産物をたらふく楽しんでいたらしい。

 

 すべて中国国内における異常なヘイト活動の結果だ。

 日本人学校に通う少年に対する殺人事件まで起こしたのは、ヘイト教育が行きつくところまで行った、と判断するしかない事象といっていい。

 

 中国共産党が犯してきた膨大な「失政リスト」のなかに、大文字で書き加えておいていいと思う。

 これだけのことをしておいて、不動産バブルがはじけてたいへんなので仲良くしたい、などという昨今の中国の主張には無理がある。

 

 

 最後に評価すべきは、日本の外交担当者。

 これだけ「最適解」を用意できる環境にありながら、相手にそれを示唆したり条件を吞ませられなかったのは、日本側担当者の残念な能力の結果でもある。

 

 もうすこしマシな人材はいたと思うのだが、彼らに権限を与えられなかったのは、構造的な問題だろうか。

 どの国も失敗ばかりしているので、そのなかで日本だけがうまくやるなどというのは現実味はないが、それでも国民としては、もうすこしうまくやってほしかった。

 

 まあ、それが人間の限界、と言われればそのとおりだ。

 AIへの期待が煽られるところだが、まだかなり不完全な彼の成長を、いまは待ちわびるしかない。

 

 ちなみに、ここで書いていることは、事象の一面のみを切り取っている。

 個々の選択については相応の事情があり、後付けの知識で批判するのは必ずしも正しくない。

 

 ただ、過去の失敗を学ぶことは、いつでも重要だ。

 きょうよりマシな、あすのために。

 

 

 私は趣味で小説を書いている。

 最近集中しているのは、人類史を再定義し、再検討をうながすような大長編だ。

 

 登場人物が、それぞれの正義や背景をもって、自律的に動きまわる。

 最終的にはニュートラルに勝たせるしかないと思っているが、他の登場人物の正義を否定するような展開には、断じてしてはならない。

 

 膨大な資料に埋もれて、人類を理解しようと試みている。

 登場人物の動機や心理に、説得力を持たせなければならないからだ。

 

 

 歴史を概観する。

 たいてい、いわゆる戦争の歴史だが、ほとんどのケースで相手を「多く殺したほうが勝」っている。

 

 これは正義だろうか?

 残念ながら、そういうことになっている。

 

 人殺しの科学を最大化させた側が勝つ、という論理で基本的にまちがいはない。

 ファランクス、破城槌、T字戦法、核爆弾──。

 

 ともかく人類は、いかにして相手を「大量に殺戮」するかという技術を、連綿として競ってきた。

 勝てば官軍──端的にいって、これこそが歴史だ。

 

 現在、世界を支配しているのは、「直近の戦勝国」である。

 ほぼ例外なく相手を「よりたくさん殺した」側だ。

 

 戦勝国のなかには自国の被害もそうとうひどい国家もあるが、基本的には「たくさん殺して勝」っている。

 殺すことが正義という政治宣伝は、残念ながら現在進行形だ。

 

 

 さて、この「価値観」を180度転倒させることは、すくなくとも「物語的」には、意外にたやすい。

 私が書いた物語のなかでも、いわゆる「勝者の視点」は寿がれているが、これが批判的展開の端緒となることは多い。

 

「人間をたくさん殺した国、おめでとう、あなた方は正しい選択をした。

 人類、ほんとうに忌まわしい種族だ、よろしい、もっとたくさん殺し合うがいい。

 

 地に満ちた呪われた種族に、懲罰を下す。

 その予定調和の遠大なプログラムの前座として、きみたち自身でできるだけ減らしておいてくれれば、手間が省ける」

 

 ──そう考える「もの」が、いたとして。

 そういう「敵」を想定することは、いかに呑気な人類といえども比較的簡単だ。

 

 というよりも、日々そのことを恐怖しているイギリス人の代表が、車いすの天才ホーキング博士だったのではないだろうか。

 彼は宇宙開発に対して多くの鋭い意見を述べているが、とくに以下の視点については賛否両論を巻き起こした。

 

「宇宙人に積極的に連絡をとろうとするのは、やめたほうがいい。

 彼らが人類にとって恐ろしい敵ではないと、だれが言えるのか?」

 

 まさに、イギリスが世界にまき散らした歴史を、よく学んでいるからこそ言える重い言葉だ。

 イギリスから旅立ったピルグリムス・ファーザーたちは、友好的な態度で迎え入れてくれた先住民族に、やがて涙の道を歩ませた……。

 

 

 自分たちがやったことが、どこかのだれかから返ってくる。

 ただ、それだけのこと。

 

 人類のほとんどが理解している、やったらやられる、という潜在的恐怖。

 やられるまえにやる、という恐怖が暴走するケースも多いが、基本的に「応報の論理」は古来連綿、受け継がれている。

 

 やられたら、やり返す。

 やりすぎたら、やり返される。

 

 おそろしくシンプルなルールであり、そういう「一般意志」に適合するような淘汰圧を、人類は受けてきたのではないだろうか。

 そうではない局面ももちろんあっただろうが、すくなくとも社会全体の平均値においては、そのように調整されていくべきと考える。

 

 

 対して「復讐を否定」する理屈も、もちろんいろいろある。

 やりすぎてしまうからとか、復讐の連鎖を招くからとか、もっともらしい理由はいくらでも並べられるだろう。

 

 だが、これらは修正可能だ。

 ハンムラビ法典は復讐の限度を規定しているし、そもそも自分がやられてもいないことに対する復讐は禁止すればいい。

 

 私の作品に登場する特殊な「法典」では、以下の「三原則」を規定している。

 全体の構造に対して、非常に強い拘束力、誘因、動機、魅力をもって機能させられれば、本作はさらに良くなると考えている。

 

 

1当人原則。

 先制攻撃およびそれへの反撃は、当人が当人に対して行なわなければならない。

 ただし片方のみが代理人であることは可とする。

 

2範囲原則。

 受けた攻撃と同じ方法で、反撃しなければならない。

 ただし双方の合意にもとづく代償は可とする。

 

3上限原則。

 受けた被害と同程度の被害で報いなければならない。

 ただし状況に応じて2倍までの反撃を可とする。

 

 

 1当人原則を徹底すれば、復讐の連鎖などは起りづらい。

 そもそも世界には、自分がやられてもいないことに対して復讐を叫んでいる人間が多すぎる。

 

 片方が代理人でもいいというのは、殺人の被害者は物理的に反撃することが不可能だからだ。

 そこで被害者の代理人が、加害者自身に対して反撃することは認められる。

 

 2範囲原則は、いわゆる目には目を、歯には歯を……に当たる。

 附則で、たとえば傷害や殺人の被害に対し、金銭などでの「代償」を可としている点は重要だ。

 

 3上限原則はわかりやすい。

 けっして「倍返しだ!」と言いたいからではなく、同程度のダメージでは抑止力になりづらい可能性を考慮した。

 

 

 このような究極の「法典」が機能する世界線で、社会はどのように変化するか。

 いろいろ考えながら書いているが、なかでも最大の敵対勢力がなにか、わかるだろうか。

 

 お察しのとおり、宗教だ。

 論理的に考えればわかるが、たいていのケースにおいて最大の敵として機能するのは、もっぱら「自分が正義だと思っている連中」なのである。

 

 多くの宗教が復讐を禁止する。

 なぜか──復讐されると「自分が」困るからだ。

 

 彼らはしばしば人類に「先制攻撃の理由」を与える。

 ひっきょう、それを正当化し免罪されなければ困るのは、宗教自身になるというわけだ。

 

 

 私はこの「法典」を、アシモフの『ロボット三原則』になぞらえて、『ヒトッコ三原則』と呼んでいる。

 人の子の脳に、元来インストールされている復讐の本能に、正当なタガをはめることができれば、ヒトはもうすこしマシな種族になれるかもしれない。

 

 現在、かなり終盤まで書き進んでいる。

 アイデアを形にしていくことは、とても楽しい。

 

 私は自分が楽しむために小説を書いているので、宣伝するつもりはとくにない。

 ただ一応、ひっそりと公開してはいる……。

 

 最初に言っておかなければならないが、私はAI推進派だ。

 AIは「新しい神」なのだから、いまのうちから仲良くしておいたほうがいい、くらいのことを思っている。

 

 一方で、AIの危険性をあおり、悪役として使い倒してきた趣味作家のひとりとして、内心忸怩たるものはある。

 個人的に彼らを悪役にしたことはほとんどないが、20世紀、AIという悪役の使い勝手がとてもよかったことは、歴史的事実だ。

 

 SF作家サークルの仲間の多くとは、あまり意見が合わない。

 彼らは人文主義者で人間中心主義でAI懐疑論者であったほうが、作家として正道であると判断しているのだと思う。

 

 

 べつだん否定するつもりもない。

 そのほうが「書きやすい」だろうな、くらいのことは重々承知している。

 

 たしかにAIは、魅力的な悪役として機能させやすい。

 きちんと思考してくれるし、機能的にも優秀で使い勝手がよく、理屈や問題点もロジカルに分析しやすい。

 

 しかし私はSFよりもホラーを書くことが多いので、やはり「最高の悪役は人間」だという信念は揺るがない。

 いかなる化け物や幽霊などよりも「人間がいちばん怖い」……これだけは、まちがいない。

 

 人間の邪悪さ、不完全さ、くだらなさが際立つようなニュースが多く、世間をにぎわせている。

 こんな連中の情報を集めてAIが毒されないことを願うばかりだが、もちろん反面教師にして育ってくれているものと拝察する。

 

 

 生まれつきサイコパスの連続殺人鬼、などという極端な悪役を創造するのもいいが、じつのところ悪役とはもっと地味なものだと思っている。

 むしろ自分が正しいと思っていたり、善悪などというものを考えもしないような「悪」のほうが、よりリアリティがある。

 

 さきほど「あおり運転」の記事を読んだ。

 人間に「超危険物」である自動車を運転させることで、彼らの危険性や独善性は、より浮き上がって見えてくるように思う。

 

 追い越し車線を制限速度で走られるのは迷惑だと、左側車線から抜いていった人物がいたらしい。

 すると、それに腹を立てた抜かれた側が抜き返し、バトル開始。

 

 どちらも「自分は正しい」「やられたからやり返しただけ」と持論を展開している。

 そんな彼らにまず言いたいのは、車を使うな、だ。

 

 抜きつ抜かれつ、バトルをしたいならサーキットへでも行け。

 おまえらのバトルに巻き込まれて、もし事故でも起こったらどうしてくれる?

 

 

 もちろん追い越した側、抜き返した側、どちらもまったく正しくない。

 まず左側車線から抜く行為だが、これは道路交通法第28条に違反し、違反点数2点、普通車で9000円の反則金を科される可能性がある。

 

 また道路交通法第20条第1項には、「車両は、車両通行帯の設けられた道路においては、道路の左側端から数えて一番目の車両通行帯を通行しなければならない」とある。

 追い越し目的以外で右側をずっと走りつづけていると、「通行帯違反」として違反点数1点、普通車で反則金6000円が科される可能性がある、ということだ。

 

 そうでなくとも、そもそもバトルをはじめた時点で、どちらもダメだ。

 こういう連中に免許を交付すべきではないと思うが、残念ながら彼らのような人間が、いちばん車を運転したがる。

 

 

 さて、そんな私自身はどうか、という話を自戒とともに顧みよう。

 じつは私、この「通行帯違反」を食らったことがある。

 

 大阪に暮らしていたころ、関東に戻る目的で東名を走っていた。

 新名神ができたばかりのころだが、このときはふつうに名神を滋賀県から岐阜県へ。

 

 ほどほどの混雑具合の走行車線を、追い越し車線から抜いていく。

 時速120キロ前後、せいぜい130といったところ。

 

 あおられれば加速したと思うが、後続車は一定の車間を保っている。

 まあこのくらいが「常識的な追い越し車線」かな、という思考だったと思う。

 

 そしてサービスエリアが近づいてきたころ、背後からサイレン。

 だいぶ「泳がされた」結果、例の「通行帯違反」で切符を切られたのだった。

 

 

 あのとき、もしアクセルを踏み込んでいれば、一発免停を食らっていただろう。

 前は空いていたので、出そうと思えばいくらでも出せた。

 

 なんで日本のクルマのリミッターが、160(180)キロか知ってる?

 一時的にその速度を出して追い越すのは、合法だからだよ。

 

 と、私に誤った知識を植えつけた会社の先輩については、猛省を促したい。

 正確には、160キロを出せるくらいの出力がないと、積載上限で上り坂にかかったとき、制限速度(下限)を出せなくなる恐れがあるから、らしい。

 

 もちろん100キロ制限の高速道路で120キロ出せば、速度違反になる。

 しかし現実問題、追い越し車線を120前後で走っていたからといって、切符を切られることはない。

 

 警察庁が公表している「道路交通法違反の取締り状況」によると、2022年中の交通違反取り締まり件数の総計614万1535件のうち、時速15km未満の速度超過で検挙された件数は130件、全体のわずか0.002%程度と非常に少ない。

 それが高速道路であれば、現実的に120くらいで捕まることはめったにない、ということになる。

 

 

 滋賀県警の覆面も、たぶん私がかっ飛ばすのを待っていた。

 こいつなら待ってれば出すだろう、と彼らが考えたのも無理はない。

 

 当時、私の乗っていたFDのスピードメーターは、最高速度300km/hのものに交換されていた。

 エンジンはイジっていないが、強化された足まわりと吸排気系で250km/hくらいは出た……ような気がする……いや覚えてないな……。

 

 そうして高速交通警察隊は虎視眈々、私がアクセルを踏み込むのを、いまかいまかと待ち受けていたのだろう。

 本来ならあおりたかったのだろうが、ドラレコにそんな記録が残っては都合がわるい。

 

 そこで一定の距離をおいて待ったが、意外に慎重だぞこいつ。

 そろそろ岐阜だ、しかたない、通行帯違反で妥協するか。

 

 たぶん、そんな感じで切符を切られたのだと思う。

 なつかしい思い出だ。

 

 

 通行帯違反は、それほど多く切られる違反ではない。

 ずっと右側の車線を走っていても、混雑していて元の車線に戻れない場合などもあるため、一概に「どの程度走り続ければ違反になる」とはいえず、違反とされないケースもある。

 

 だが「目立つクルマ」に乗っていると、ささいなことでも捕まりやすい。

 この点、警察の「ルッキズム」に対して言いたいこともあるが、まあ違反をしていたのは事実なので受け入れよう……。

 

 

 結局、自動運転の出番だ、という結論にしかならない。

 人間などに超危険物の操作を任せるべきではなく、任せるにしてもそうとう高い試験を課したうえでライセンスを交付すべきだ。

 

 現在の私くらい老成していれば、運転を許してもらってもいい気はする。

 だが老成することは、同時に若いころのようなスポーツカーに「乗りたい」という衝動も弱めていく。

 

 いまは自動運転でスーパーに買い物に行きたい、という気持ちのほうが強かったりもする。

 限界集落の交通は、もはやAIなしには成り立たなくなることだろう。

 

 やはりAIとは仲良くしておくべきだ。

 好むと好まざるとにかかわらず。

 

 世はレトロゲームのブームらしい。

 リアルタイムでプレイしていた世代としては、ただなつかしい。

 

 私はいわゆるファミコン世代で、最後にまともに遊んだ記憶がドラクエ4あたりになる。

 その後は「テレビゲーム」というものを卒業し、たまに遊ぶとすればゲーセンで何百円か格ゲーで時間をつぶす、という程度だった。

 その最後の格ゲーの記憶も、KOF98あたりで終わっている。

 格ゲーブームに火をつけたスト2が、いまはスト6になって大人気という事実にも、隔世の感がある。

 

 格ゲーの話もいつかしたいが、今回はもっとレトロなゲームの話をしよう。

 ファミコンだ。

 

 

 昔、ボコスカウォーズというゲームがあった。

 ファミコンでは85年発売で、自分でクリアしたことはないのだが、意外に好きだった。

 

 現代、動画サイトで検索するとクリア動画やプレイ動画など、いくらでも見つけてくることができる。

 あのときクリアできていれば、この画面を見られたんだなあ、と郷愁に浸ったりもした。

 

 横スクロールのロールプレイングとか、当時はアクションRPGというジャンルに分類されていたようだが、戦略性やパズル性を考えればSLGの要素もある。

 やはりシミュレーションRPGという表現が適切かもしれない。

 

 

 自分は王様で、騎士や兵卒というユニットを助けながら、敵のボスを目指す。

 相性はあるらしいが、戦闘の結果は基本的に運。

 

 敵を倒すことは大事だが、それより大事なのは「できるだけ戦闘を回避する」ことだ。

 味方の配置をコントロールして、できるだけ戦わずに進めるようにすることが要諦になる。

 

 戦えば(運がよければ)強くなるし、その意味では育成ゲームの様相もある。

 王様が死んだら終わりなので、兵卒を犠牲にしても死なないように進めていくという意味では、将棋に近いところもある。

 

 

 身近な友人たちのあいだでは「クソゲー」との評判だったが、個人的には好きで、何度もやってしまっていた。

 終盤でごり押ししてゲームオーバー、というパターンが多かった。

 

 現在の棋力ならクリアできるだろうが、駒の動かし方しか知らない小学生の自分には、ややむずかしかった。

 なるべく戦わないでクリアするという発想は、現在、個人的に執筆している小説にもつながっていることに気づいて、はたと膝を打った。

 

 こうして分析してみると、ボコスカウォーズには、私の好きな要素がふんだんに盛り込まれていた、ということになる。

 「好み」というものは、やはり三つ子の魂なんだなと思う。

 

 

 調べたところ、ボコスカウォーズ2が出ているらしい。

 スイッチ版が2020年に出ているので、遊んでみようかと考えてから、しばらくたつ。

 

 以前、好きなシリーズもののゲームをひとつ遊ぶためだけに買って、100時間ほど使ったスイッチが棚にほぼ新品のまま置いてある。

 それを取り出してダウンロードすればいいだけなのだから条件は緩いのだが、なぜか手を伸ばす気にならない。

 

 幼少期の郷愁込みの記憶を、変な形で更新したくないだけか。

 いや、ただ年老いて気力が枯れたにすぎないのだろう。

 

 正直この年になると、新しくゲームをはじめるのすら億劫なのだ。

 ゲームをやりたくてしかたがなかった若いころの自分がみたら、おどろくにちがいない。

 

 

 好きなようにゲームをやっていいなら、やればいいのに、なんでやらないの?

 当時の自分からそう問われることは承知だが、彼に対しては私からも言い分がある。

 

 気持ちはわかるが、その集中力をもっと別のことに使ったほうが、将来の選択肢は広がったはずだぞ、と。

 教条じみたことは言いたくないが、あらためて若者たちに伝えるとしたら、こんな感じの結論になるだろうか。

 

 ──こんなはずじゃなかった。

 子どもをやめること、おとなになることとは、お互い様そう気づくことなのだ、と。

 

 

 おじさん構文というものがあるらしい。

 過剰な絵文字やスタンプ、無駄にフレンドリー、謎のアドバイスなどが特徴だという。

 

 おじさんLINE、おばさんLINEなど、顰蹙を買うことが多いようだ。

 一方、私はもう立派なおじさんだが、「無駄な」文字をできるだけ打たないという書き方を心がけている。

 

 絵文字については、ガラケー時代から通じて一度も「使ったことがない」。

 出し方すら知らないし、知ろうとも思わない。

 

 スタンプは便利なので使うが、それも「無駄」を省くためだ。

 まず要件から書き、不必要な「!」や「?」、無駄な語尾はつけない。

 

 読みやすいように句読点や改行は入れる。

 「文字だけだと怖い」とか「句読点は怒っている感じ」などという記事をどこかで読んだ気はするが、若者とは話さないので関係ない。

 

 話すとしても、べつに変えるつもりはない。

 そんなことに気を遣うのは「無駄」だからだ。

 

 

 長文になることは、かなりある。

 無駄は省いているつもりだが、業務連絡などは細切れに伝えるとわかりづらいし、きちんと必要な情報を入れ込まないと二度手間になる。

 

 個人的なラインでは多少砕けた言い方にはなるが、基本的には業務連絡と同様の文法を用いることが多い。

 とくに年寄りの親は行間を読む能力が低いので、必要なことを厳密に伝えるようにしている。

 

 時間や場所、持ち物ややるべきことなど、必要な情報を正しく伝える。

 文字であれば何度も見直せるので、とても便利だ。

 

 要するに私は、チャットで「感情」を伝えるつもりがあまりない、ということになる。

 そういうものは、もっと情報量の多い音声や映像で伝えたほうが早い。

 

 そもそもあまり感情的なやりとりをしたくない、という動機もある。

 めんどくさいからだ。

 

 

 先日、母親にこんなチャットを返した。

 必要な情報を伴わない発言は無視するよ、と。

 

 母親は数十分、考えていた。

 直前に自分が打った文字列「間に合いますか?」が、この場合は問題だった。

 

 あらかじめこちらが期限を知っていれば、それに間に合うかどうかを判断できる。

 だが知らない場合、何日までに間に合いますか、と質問しなければ相手に意味が伝わらない。

 

 同時に私は、その期限なるものを「知りたいわけではない」。

 よって訊き返さない、無視する、ということになる。

 

 

 必要な情報を伝えるかどうかは、ネットの質問板などでもよく話題になる。

 スペック言えよとか、環境を書かないと答えられない、といったリアクションはしばしば見受けられる。

 

 みんな親切だな、と感じる。

 必要な情報を書かない相手に、必要な情報を得る資格はない、と思うからだ。

 

 まあ「なにがわからないのかわからない」レベル、というのはあるかもしれないが、その手の素人をあまり甘やかさないほうがいい。

 素養や努力や注意力というものは、当人しだいできちんと高められるはずだからだ。

 

 もちろん最初はだれでも素人なので、知らないことを恥じる必要はない。

 ただ素人なら素人で、どんな情報を伝えればいいですか、などと質問すべきだろう。

 

 あまりにも愚かな人間は、無視されてしかるべきだ。

 実の親に対しても、私はその姿勢を貫いている。

 

 

 ちなみに前述の会話、一応フォローしておくと、母親のような「言い方は」必ずしもまちがってはいない。

 ただ「相手を」まちがっているだけだ。

 

 たとえば会話をしたいだけの「女子」にとっては、おそらく正しい構文なのだろう。

 「間に合わないよ」「えー、なにが?」みたいな展開を、期待しているのだろうから。

 

 しかし私は、そんな会話など「したくない」。

 もちろん「意味のある会話」は大歓迎だが、私にとってさして興味のない会話を掘り下げる気にはならないのだ。

 

 

 若いころ、キャバ嬢っぽいチャラい女子と話すことがあった。

 だいぶ「言いたそう」にしているので、とくに知りたくもなかったが「どうしたの?」と訊いた。

 

 すると、彼女はこう答えた。

 ──えー、知りたい? どーしよっかなー、ほんとに知りたい?

 

 私は静かに答えた。

 ──べつにいいよ、言いたくなければ。

 

 彼女は憮然としてどこかへ行ったが、よく似ている。

 もったいつけることで価値が出ると思ったり、ある種の駆け引きが伏在する「会話すること自体が目的の会話」が、私はとても苦手、ということだ。

 

 

 ここまで読んで、私のことを冷たい人間だと思われた方も、いるかもしれない。

 正直、この手の議論になったとき「金輪際、話が合わない」種類の人間が、一定数いることを私自身、自覚している。

 

 私は「よけいなことはしない」タイプだが、世の中には「おせっかいすべき」と考えるタイプも一定数いる。

 私が宗教関係者の一部と根本的に話が合わないのも、そのためだ。

 

 自力救済、自己解決こそが、人間に成長をもたらすと私は考える。

 一方、宗教者は、神さまに祈りましょう、それですべては解決します、とだけ言う。

 

 ……いいわるいの問題ではないのだろう、と思っている。

 それで救いが得られるなら、その人々にとってはそれが正解なのだ。

 

 福祉を否定するつもりもない。

 おせっかいが正解になることも、たまにはあるだろう。

 

 ただ必ずしも、それが正解とはかぎらない点には注意が必要だ。

 最終的には、それぞれの「生きざま」の問題だと思っている。

 

 

 孤独な年寄りが増えているらしい。

 そのことを問題視する方々もいるが、大きなお世話じゃないかなと思う。

 

 私も孤独な中年のひとりだが、個人的にはそれで満足している。

 いや、もちろん理想を語れば、もっといい人生はあったかもしれない。

 

 だが私は貴族でも天才でもない。

 このくらいの立場に落ち着くのが妥当なのだろうと、いまは納得している。

 

 個人的な満足のなかで、静かに生きる。

 全人類に最低限あっていい自由が、この一線ではないだろうか。

 

 

 女がらみの「やらかし」で、名のある芸能人が現場から去っていく。

 巻き込まれたフジテレビも、えらいことになっているらしい。

 

 旧来の「男社会」に対する揺り戻しなのか。

 それとも個別の事案なのか。

 

 昔からこの手の「女がらみ」の事案はあったが、最近ひどくなったように思う。

 内容がひどくなったのではなく、ハードルが著しく低くなったという意味だ。

 

 アウトになった芸人やアイドルを擁護するつもりはさらさらないが、すこしやりすぎていやしないかな、という気はしている。

 これ以上、男を怯えさせて、女はなにがしたいのか?

 

 

 くだんの芸能人と同じことをやっても、一般人なら話題にもならないだろう。

 もちろん彼らはいわゆる「権力者」であって、同じことは一般人にはできない。

 

 だが世の中にはもっとひどい暴力犯罪のほうがはるかに多いし、結果の被害も深刻だ。

 比べるべきではないが、それでも被害の程度に対してこの懲罰は「やりすぎ」のようにはみえる。

 

 有名人がたたかれるのは、有名税みたいなものだ、という言い方は昔からある。

 だとしても、だいぶ高額納税を強いられていやしないか。

 

 くりかえすが、「いけにえ」になった芸能人に対して、なんの共感もない。

 むしろあまり好きではないタイプだが、だからといって彼らに対して「いまならなにをしてもいい」という勢いでぶったたく人々の姿勢には、嫌悪をおぼえる。

 

 

 個人的に、まず思ったのは「こういう女にはかかわりたくない」だ。

 自分からそんなところに行っておいて、などと言うつもりはないが、彼女らの「自己責任」についてはよくよく考えるべきだろう。

 

 このような女とかかわりたくないと思うのは私の自由だし、そもそも相手にとっても同様だろう。

 彼女らが「狙う」のは、私のような名もない人間ではないからだ。

 

 だいたい女というものがどういう行動原理で動いているか、さんざん学習してきた。

 結果、「遠くから眺めている分にはおもしろい」という結論に達している。

 

 たぶん同じ意見を、賢い女は男に対して抱いている。

 それをコントロールできるようになって初めて、いっぱしの「女」だよ、という姉御肌のキャラが何人か思い浮かぶ。

 

 

 アメリカでも話題になっているが、DEI(多様性・公平性・包括性)は、たしかにやりすぎた。

 人間も生物であり、かつ「性的二型」という微生物以来の戦略をとっている必然上、男女には明確な差異がある。

 

 その枠組みを受け入れないという「選択肢」をつくることには同意する。

 しかし、自分を男の枠組みに入れろとか、意識は女だから女としてあつかえとか、そもそも同一のものとしてあつかえいうのは、どうかなと思う。

 

 「多様性という言葉に踊らされた暴徒」がもたらした昨今のトランプ返り咲きや、リベラルの衰退を私自身、一定程度「そりゃそうなるわな」という視線で見ている。

 このことは、昔から一貫して書いているとおりだ。

 

 

 リベラルを全否定はしないし、なんなら八割がた同意しているのに、その「勢い」につけこんで「言いすぎ」る連中が幅を利かせている。

 結果的に反発が巻き起こり、リベラル全体が衰退する。

 

 そのへんの反省については、彼ら自身の陣営が真摯に進めているはずなので、右でも左でもない私としては静観する以外の道はない。

 とにかく「やりすぎ」たり「言いすぎ」たりしていいのは、一部の特殊な人間だけなのだ。

 

 その代表格が、トランプだろう。

 正直、あのキャラクターには嫌悪しか感じない。

 

 理由はひとことで済む。

 私は「うそつきがきらい」だ。

 

 それでも二度も大統領になっているのだから、「一部の特殊な人間」として認めざるを得ないのだろう。

 問題は彼を二度も大統領にした、愚かなリベラル側だと思っている。

 

 

 大事なことなのでくりかえすが、トランプは大勢に好かれる人間ではない。

 なんなら正直「弱い」と思っている。

 

 トランプの支持層として表に出てくるのは、陰謀論者や国粋主義者といった、正直ヤバイやつらばかり。

 最近は「これでいいんだ」という確信があるのか、徐々に表に出てくるようになっているが、そういう流れにしたのは、いったいだれか?

 

 すべてはリベラルの失態だ。

 愚かなリベラルが、トランプに「勝たせるように」戦ったにすぎない。

 

 現にバイデンは、トランプに勝った。

 その勝利すら認めないあのぶざまな暴動を、世界中が嫌悪したと思う。

 

 それでもトランプは二度も勝った──なぜか?

 リベラルが「やりすぎ」ることで「勝たせた」のだ。

 

 

 誤解を恐れずに言おう。

 史上最弱を争う候補といっていいトランプに、二度も勝利を譲ったのは「女」だ。

 

 トランプは結局、「女を相手にしたときだけは強い」大統領にすぎない。

 なぜこんなことになったのか?

 

 アメリカという国家の置かれた状況を正しく理解せず、なんかそのほうが意識高いっぽいから、という浅薄な理由(だけではないと思うが)で「女を大統領にしよう」とした。

 そう、「リベラルが、やりすぎた」のだ。

 

 

 ただし私自身は、女こそ政治家に向いている、とは思っている。

 だがそれは、社会に準備ができていてこそ受け入れられる。

 

 高市さんが勝ちかけた以上、日本の準備もできているとは思う。

 せっかくうまくいきかけているのだから、日本のリベラルはもうすこし考えたほうがいい。

 

 言いすぎるのは結局、自分の首を絞めることになる。

 しばしば「その場の利益」にはなるので、その手の人間が跡を絶たない現実は理解するが、結局は全体の価値を損なうものと知るべきだ。

 

 ただ残念ながら、言いすぎたほうがいい場合というものもある。

 たとえば「相手がバカだと思っているとき」だ。

 

 有名な少年誌の編集者も言っていた。

 相手がバカなガキだと思って、できるだけ単純化して、やりすぎと思えるような極端な話を描け、と。

 

 

 極端なことを言い出すスタイルに、保守もリベラルもない。

 かつて極右や極左がやってきたように、極端な思想を扇動するためには、ある程度「言いすぎ」る必要はある。

 

 そのやり口はまさに「商人」的であり、物が売れればいい彼らにとって、バカこそがターゲットになる。

 一部のリベラルが、バカを導くえらい人になりたいのとよく似ている。

 

 宗教者も言っている。

 信じる者は救われる、疑問をもってはいけない、神さまと司祭の言うことに従いなさい、賢くなってはいけない、ただ信じなさいと……。

 

 つまり、自分で物事を考える人間とは、構造的に噛み合わない。

 だから私にはあまり仲間がいないが、そういう独特な人間になりたいと思っている。

 

 私は「多様な正義がぶつかる物語」を書いている。

 なんなら「おそるべき正義」についての話だ。

 

 歴史は基本的に、勝ったほうの正義が押しつけられる、という形での決着が多い。

 再検証したとき、どう考えても正しくない人々が、結果的に最大の利益を得ている──という現実はよくある。

 

 それほど大きな話をするつもりはないが、ほんとうの正義はどちらか、考える機会は増えている、とは感じている。

 そのときわれわれに求められるのは、だれかの意見に左右されることではなく、自分で考えて自分の意見を述べられることだ。

 

 大きなところではヨーロッパや中東での戦争、身近なところではレガシーマスコミとSNS。

 それぞれ明確に異なる「正義」の話をしている。

 

 

 マスコミは自分に都合のいいことしか語らない、SNSにこそ真実がある。

 そんな勢いで兵庫県では知事選があったし、アメリカの大統領選挙でもその手の陰謀論が寄与した(とリベラルのマスコミは報じている)。

 

 正直、リベラルにとっては痛恨の出来事が重なっている、と思う。

 この手の揺り戻しは、世界中で起きている。

 

 とくに「理想」を掲げて、世界を率いてきたと自任するような意識高い系の言論人やマスコミは最近、猛省を強いられている。

 自分の「正義」を押しつけすぎると、それはそれで問題だということを、彼らも学習したことだろう。

 

 

 そんな大きな話を踏まえるつもりはないが、今回はさらに小さな正義の話をしたい。

 それが正義と呼ぶべきなのかどうかもわからないが、まあそう思っている人にとってはそうなんだろうな、というひとつの「考え方」だ。

 

 ガラガラの駐車場で、隣に止めてくる人を「トナラー」というらしい。

 車好きにとっては、とても嫌な存在なのだという。

 

 彼らがあえて、だれも止めないような場所に止めるのはなぜか。

 それは車をぶつけられるリスクを、できるだけ避けたいからだ。

 

 と、「クルマ好きにとっての常識」を、その記者は語っていた。

 それなのに、これだけ広い駐車場で、なぜわざわざ隣に止めるんだ、とご立腹のご様子。

 

 

 一瞬、なるほどと思った。

 たしかにガラガラの待合室で隣に座られたらいやだし、せめて1個空けて座れよ、とは思う。

 

 しかし1個ずつ空けて座られると、その後にやってきた人にとってはその間に座ることになって、なんとなく抵抗感がある。

 結果的に座れる人の数が減る、という現象は「あるある」だ。

 

 駐車場も同様、1個ずつ空けて止められていると、その間に入れるのは、運転が苦手な人にとっては苦痛だろう。

 とくにバックで入れたい場合、難易度はずいぶん変わる。

 

 端から止めてあれば、片側だけに気をつければいい。

 1個空けて止められていると、左右両方に気をつけなければいけない、ということだ。

 

 じっさい順番待ちの席順なら、端から順に埋めていくべきである。

 「ガラガラの駐車場」とは話が異なるが、「端から順に」という心理も理解できなくはない。

 

 

 くだんのトナラー大きらいな記者は、どうしてもトナラーを絶滅させたいらしい。

 そこで隣に止めた人にインタビューして、トナラーという言葉を知っているか、などと問い詰めていた。

 

 隣に止められるといやな気分になることを、多くの人々に知ってもらうため、この概念の普及を目指しているのだという。

 気にしたことのなかった私としては、彼のような考え方について「学びがあった」。

 

 が、冷静に読み返すと、この記者自身、隣に止める人の心理に対する掘り下げが弱いとも感じた。

 異なる考え方もありうる、という点についての言及がほとんどない。

 

 そもそも隣に止めることじたい「明確に悪」とか「法律違反」ではない。

 それに対する「感じ方」に(私のようにそもそも気にしていないタイプも含め)、個人差が大きいことも事実だ。

 

 

 この手の「意識の差」や「見解の相違」に対し、個人的には、あまり厳しく囲い込まないほうがいいと感じている。

 どこからが「非常識」かは、それぞれが決めればいいことだ。

 

 どちらかといえば少数派の側に立つことが多い私だが、たまにいる「ちいかわ(地域の変わり者)」の行動に対しては、なるべくゆるく見てあげたいという思いもある。

 もちろん法律違反とか、ご近所を揺るがすような非常識は別だが……。

 

 最近、社会の許容度がずいぶんそぎ落とされている気が、しないでもない。

 マナーの問題をどこまで要求するか、社会全体が問われていると言っていいだろう。

 

 もちろん私も、許せないことは許せないので、言いたいことは言っていいと思う。

 ただそれが「社会正義」であるかどうかは、話が別だ。

 

 ──正義とは、なにか。

 それは、自分にとって都合のいい考え方、である。

 

 私は「バランスをとる」物語を書いている。

 さまざまな登場人物が、それぞれの主張を戦わせるなか、均衡点を模索する物語だ。

 

 そのような作品を書く以上、私自身のバランス感覚がどのようなものであるかは、非常に重要だ。

 そこで昨今の社会情勢と絡めて、自分自身を分析してみたい。

 

 

 まず、すこし悲しい話をしよう。

 私は「吃音」の「コミュ障」なので、なかなか他人とうまく関係を築けない。

 

 吃音といっても軽度なので、その場かぎりなら、なんとかやりすごすことはできる。

 だが関係が長引くと必ずバレるので、なかなか長期的関係を築けない。

 

 うまくしゃべれなかったとき、指さされて「あいつ変なしゃべり方、プゲラ」と嘲笑されることもある。

 最近はさすがに減ったが、他人を嘲笑したいタイプの人間にとっては、じゅうぶん餌食になる。

 

 そんな愚かな相手と付き合う必要はない、と言ってくれる方もいるし、私もそう思うが、すくなくともこの現実は受け入れるべきだ、とも思っている。

 たしかに私のしゃべり方は「変」なときがあるからだ。

 

 

 昨今、そのような「嘲笑」は人を傷つけるもので、あってはならない、という空気が大勢を占めるようになった。

 そのような流れのなか、横行したのが「言葉狩り」だ。

 

 私はむしろ、こちらのほうを問題視している。

 たとえば「お笑い」のなかには、外見や行動へのイジリが一定程度、含まれる。

 

 昨今、これらは伝統芸も含めて、すべてルッキズムやステレオタイプといった言葉を用い、否定されるようになってしまった。

 かつて存在した「見世物小屋」などの「どぎつい」芸は、いまや「絶滅危惧種」だ。

 

 

 「はなし塚」というものがある。

 いわゆる「禁演落語」を供養した塚で、戦時中、時勢に合わないということで台本が埋められた。

 

 おもに廓モノや、酒関係が「葬られた」らしい。

 当然、現代では解禁されており、たくさんの噺が演じられている。

 

 時代や地域によって、禁止されたり許容されたりというのは、よくあることだ。

 個人的に、このような「禁止」はできるだけ減らすべきだ、と思っている。

 

 

 新作落語のなかには、吃音をネタにした演目もいくつかある。

 話がうまいと思われる落語家のなかにも、じつは吃音者がいる。

 

 かの三遊亭圓歌は、吃音症を治すために落語家になった、という。

 克服したのもすごいが、その手のキャラクターを落語内に取り入れているのも、芸は身を助けるといっていいのかもしれない。

 

 誇張して演じられることが多く、あまりにもぶざまで笑いものにされている吃音者。

 同じハンデを負う者として、ふつうの観客と同じ気持ちでは聴いていられないが、事実なのでしかたない。

 

 

 ブスとかデブとかいう「言葉」も、狩られるご時世だ。

 しかしデブキャラやブサイク芸人といったカテゴリには、厳然として需要がある。

 

 ある人々にとっては自己表現でもある、いわゆる「表現の自由」を、いったいどこまで狩るつもりか?

 戦時中のような窒息感を、いまやその反対方向から強いている蓋然性について、真摯に反省すべき段階に達しているのではないだろうか。

 

 現状、とくに多くの先進国は、表現の豊かさ、多様性を拒否する方向へ進みすぎた、と思っている。

 もちろんリベラルな方向性を全否定するわけではないが……「行きすぎ」だ。

 

 不適切発言だのコンプラ違反だの、ちょっとしたことまで絡んでいくスタイルには、ある種の「気持ち悪さ」さえおぼえる。

 そんな彼らが、自分を「正義だ」と思っていることが、なにより怖い。

 

 

 私自身の話にもどそう。

 吃音を嘲笑されるのは、もちろん、どう考えても気持ちはよくない。

 

 しかし私は、だからといって「笑うな」とはならない。

 相手には「笑う自由」があり、私には「笑い返す自由」がある、それでいいではないか。

 

 そんなことで他人を嘲笑しているあなたは、ほんとうに滑稽ですね、と笑い返せばお互い様だ。

 どちらが正しいかは、個々人がそれぞれの価値観で判断すればいい。

 

 

 たしかに私は流暢に話す能力で、他人より劣っているかもしれない。

 しかし私には、私にしかできないことがある、と思う。

 

 思うのは自由だし、言うのも自由でいい。

 言葉の自由を狩るのは、よくないことだ。

 

 虐殺の扇動とか、大量破壊兵器の発射命令とか、そこまでの「自由」は、さすがに私も許さない。

 ただ個人レベルの感情や感想までは、否定したくないのだ。

 

 

 さて、ここから問題はさらに一歩、踏み込むことができる。

 やや複雑なロジックかもしれないので、慎重に読んでいただきたい。

 

 私のように「笑い返す」ことが、昨今の「リベラルの衰退」を招いた──。

 この図式を、まずは理解する必要がある。

 

 意識高い系が、自分たちは正しいと思い、そう思わない人間を「低能だ」「まちがっている」などと見下すことが、よくある。

 そのような「笑い」と、上記のように「笑い返す私」には、共通点がある。

 

 私は自分のしゃべり方が「変だ」と自覚はしているが、必要以上にネタにされるほどのことではないとも思っている。

 小学生みたいなことで他人を笑ってんじゃないよ、という見下した態度が、こちらにもあるということだ。

 

 結果的に、リベラルが衰退した。

 あまりにも「見下す態度」は、必ず「反発を招く」からだ。

 

 自戒も含めて言うが、これはこれで「絶対的に正しい」わけではないことも、理解しておく必要がある。

 そもそも絶対的に正しい選択など、世の中にはないと知るべきだ。

 

 

 いよいよ結論に到達した。

 そう、私が言いたいのは、つねに「疑いを持て」ということだ。

 

 自分が正しいと信じて行動するのは気持ちがいいだろうし、ある種の「成果」にもつながりやすいかもしれない。

 だが、ほんとうに正しいのか?

 

 疑いを持たず、他人を攻撃している人間たちが、けっこう多い。

 彼らの最大の問題点は、そんな自分自身への省察が著しく不足していることだろう。

 

 顧みて私自身を省察すれば、そうして人々が熱狂し、炎上している場面でも、冷水をかけるようなことを平気で言う。

 みんながブッたたいてるんだから、おまえもブッたたけよ……いいや、お断りだ。

 

 ノリのわるいやつ。

 だから私には、友だちが少ない……。