最近、「正義」とか「中立」についてよく考えている。

 言葉の定義からしてやっかいな概念を、具体的に表現するのはさらにむずかしい。

 

 私の書いている小説の主人公は「ニュートラル」だ。

 しかし彼の判断は、ほんとうに中立的と言えるのか?

 

 という相対的な正義とか許容範囲の話を表徴している事例として、昨今のフジテレビ問題がわかりやすい。

 第三者委員会の報告書も出て、おおむね決着したようだ。

 

 フジテレビと中居氏の件については、以前もちょっとだけ書いた。

 当時はまだ途中経過の状況だったので、結果を踏まえて思考を整理しよう。

 

 

 結論からいえば、第三者委員会の報告書は中居氏をクロと認定。

 フジテレビ社員B氏も共犯者といって差し支えない、という内容だった。

 

 中居氏およびフジテレビを擁護していた側にとっては、かなり痛い報告書だったと思われる。

 文春側にも問題はあったと思うのだが、そこはかなりスルーされている感じには違和感をおぼえた。

 

 私個人として、中居氏を擁護したことは一度もない。

 とはいえ、ぶったたかれている側に、いわゆる「判官びいき」的な感情をおぼえたことは否めない。

 

 日枝氏の体制によって築かれた文化への郷愁もあった可能性はある。

 まあテレビっ子ではないので微妙だが、そういう昭和的な雰囲気への無意識的な擁護はあったかもしれない。

 

 昭和の価値観の多くが否定されているし、私もほとんどのケースで同意するのだが、さすがに「行き過ぎている」と感じることが、まれによくある。

 尊敬する芸人の江頭さんが、ひさしぶりに地上波に出て女性タレントに絡み批判されていたが、あれもある種の観測気球だったかもしれない。

 

 

 この手の炎上事案でいちばん感じるのは、「自分はできるだけ攻撃側にいたい」という心理だ。

 攻撃できるときにしておくのは、なんか得した気分にもなる。

 

 主義者や活動家は、相手を叩きのめすのに最適の論法を選ぶ。

 自分に都合のいいルールを採用するのは、あらゆる個人や団体もやっている。

 

 個人であれば、いずれ「ブーメラン案件」として突っ込むこともできるが、不特定多数の炎上の波に紛れたら、もうわからない。

 群衆とは、首尾一貫して正しいことを言う「必要がない」のだ。

 

 

 この問題で注目すべき点として、道徳的ビジネスや道徳的ナルシシズム、正義の劇場化の氾濫がある、と思う。

 異常に長時間の記者会見はわかりやすかったし、ネットにおける苛烈な批判はフジテレビにかぎらず、もはやお約束となっている。

 

 くりかえすが、これは「われわれ個々人の問題」だ。

 と議論を進める前に一応、軽く説明しておこう。

 

 「道徳的ナルシシズム」とは、自分が正義を行使していると感じることで自己満足に浸ること。

 個々人ではそこまで強く批判するつもりがなくても、「みんなが批判しているから」と追随し、結果として集団全体が過剰な攻撃性を帯びる。

 

 アンチフジテレビ、アンチ文春、アンチ中居……。

 いずれにも一定の仲間がいて、それにもとづく「正義の行使」は運動会のような高揚感を伴うため、一部の人々にとっては「快楽」になりうる。

 

 

 「道徳的ビジネス」は、「正義の名のもとに他者を攻撃することで、自分たちの立場を強化する」という利害関係のこと。

 批判をする側が、ほんとうに善意や社会正義のために行動しているのか、それとも自己の承認欲求や優越感を満たすために行動しているのかが不透明、という特徴がある。

 

 「正義の劇場化」は、問題解決よりも見栄えの良いドラマを優先すること。

 情報の切り取りや恣意的な編集によって、「あたかも完全な悪が存在し、それを討つ自分たちは完全な正義である」という物語がつくられる。

 

 さらにいえば、「自己免罪型の正義」というのもある。

 「だれかを叩くことで、自分の正しさを証明しようとする心理」だ。

 

 現実の社会においては、善悪は単純に分けられないグレーな領域がほとんどであり、「わずかな瑕疵」を誇張して「全体を否定する」論法は、フェアではない。

 このような「歪んだ正義」が蔓延している、と全体的に感じた。

 

 「攻撃のための正義」「快楽としての正義」のような、本来の正義とは異なる正義を掲げる側が、その正義を守るために手段を選ばなくなることがある。

 それじたいが「新たな暴力」になりうる。

 

 

 中居氏の問題にもどると、文春とフジテレビ、どちらかの主張を重視すること。

 その時点ですべて、上述の問題に抵触していないか自己省察する必要がある。

 

 自分の感覚に符合するから、その主張を支持する。

 まさに「快楽としての正義」に近い。

 

 べつに偉そうなことを言うつもりはない。

 私自身、わりとフジテレビを擁護していたことを、意外とすら思っている。

 

 コテコテの文系《インドア》が、じつのところ体育会系に「あこがれ」ていたのかなあ、と自分の深層心理を分析したりもした。

 陰キャがパリピを支持するなど、ありえないようにも思うが、まあ是々非々だ。

 

 

 全体として、大山鳴動して鼠一匹だと思っている。

 株価がわかりやすい。

 

 ふつうは暴落していいところだが、現状は上げている。

 もともと安かったという意見もあるようだが、大企業が女ひとりに騒がれてどうこうなるわけがない、という冷静な判断が底流している。

 

 むしろ守旧派である、やっかいなタレントやキャスターを一度に始末できて、より安全性の高い運営になる「プラス効果」のほうが評価されている気さえする。

 フジテレビ株価は、一時的に高騰したライブドア騒動のころを抜いた。

 

 なぜか? フジテレビが変わることへの「期待」だ。

 言い換えれば「復讐」でもある。

 

 あのときフジテレビを買えなかった一味の後継者が、リベンジに動いている。

 復讐者のおかげで株価が下がらないというのは、フジテレビにとっては皮肉な話だ。

 

 

 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

 今回も批判された古いフジテレビは、お台場ではないどこかへと消えていくだけのことだろう。

 

 それが必要とされていないなら、わざわざ壊さなくても消えていくと思う。

 さらに言えば、壊したり殺したりせず、話し合いで解決する正義の味方というのも、いていいんじゃないだろうか。

 

 私の作品の「ニュートラル」には、RPG的な展開にもかかわらず「できるだけ敵と戦わないでクリアする」という、サブルーティンが仕込まれている。

 たぶん彼は正義ではなくて、すくなくとも自分のことを正義だと思っておらず、まれに思ったにしてもそれを疑いながら進んでいる。

 

 そういう物語を、読みたいと思った。

 見つからなかったので、自分で書いている。