25年8月22日現在、まだロシアとウクライナは戦争をしている。
停戦への仲介が進んで、史上最高値を記録していた軍需株が下落しはじめているが、まだまだ予断は許さない状況だ。
などというリアルな戦争や経済の話をするつもりは、あまりない。
そもそも日本人には関係のない話……と思いたいところだが、遠い世界のことでもそれについて「考える」ことは重要だろう。
今回は、そこに個人的な趣味を絡めてみたい。
最近あまり語っていなかったが、私の趣味は「映画」だ。
この大衆的娯楽から浮き上がる「正義」の姿は、とても興味深い。
文化的に、より「大衆」に近い正義である蓋然性が高い、とも言い換えられる。
まずは古い映画から──あまりに残虐なため、公開に制限がくわわったという『殺しが静かにやってくる』(1968)。
この物語のめずらしい点は、主人公が「賞金稼ぎを殺す」仕事を請け負っていること。
通常は「犯罪者を殺す」賞金稼ぎが主役になるパターンが多いわけだが、この物語では「犯罪者を守る」男サイレンスが主役。
冒頭、降伏した賞金稼ぎの親指を撃つのは、殺す必要はない、二度と戦えなくすればそれでいいという主張が描かれる。
盗賊にも理があって、彼らが盗賊にならざるをえなかったのは、街を支配する判事が彼らの仕事を奪ったから、というロジック。
古来めずらしくもない理屈だが、万事につながる。
「敵にも理屈はある」という構図から、ほんとうの「悪」がなにものかを浮き上がらせていく映画的設計は秀逸だ。
まずサイレンスが賞金稼ぎをターゲットにするようになった理由は、幼いころ賞金稼ぎに両親を殺され、口封じのために声帯を切り裂かれたことから、しゃべれなくなったため。
相手が銃を抜かなければ、自分も銃を抜かないという美学をもっている。
観衆の共感を得るためのエッセンスだが、それを利用されたりもする。
生活の手段として、合法的に人々が虐殺された時代──1898年。
アンチ・アメリカ西部劇であるマカロニ・ウェスタンのなかでも、群を抜いて特異な作品だ。
さまざまな視点の、どれを採るか。
あくまでも当時として、それでも許されない「罪」や「悪」を断罪する物語。
ターゲットは公開当時の観客であり、いまはそれを「後世として評価する」時代だ。
だれが正しく、だれが悪なのか。
白人と黒人、差別するものと、されるもの。
正義と悪を隔てるもの、それを決めているのはだれか。
当時としての評価と現在の評価は、必然的に異なる。
歴史とは不断に「修正」されていくべきものと考えている。
イヴァン雷帝の暴政は、ロシアの歴史も文化も否定し、かつての国を象徴する人たちを殺害し、追放した。
それは、1917年以前に亡くなった人々の記憶を忘却へと追いやり、歪曲した。
つぎはボルシェヴィキ(レーニンが率いた左派グループ)が破壊の先頭に立ち、ロシアは一度、消滅しかけた。
彼らが十月革命を起こしたあと、しばらくは悲惨な無分別がまかり通る「破綻国家」となった。
そして、プーチン。
彼が「ロシアを壊してくれる」ことを、どうやら国民が望んでいる。
この戦争がどういう結末になるのかはまだわからないが、彼らの選択はおそらく当事者に相応の苦難を強いる。
おなじ苦しみを背負うことによって統一される国、というのもあるということだろう。
日本がアメリカに宣戦布告せざるをえなかったのは、そうさせる多くの戦略の積み重ねがあったから。
ロシアがウクライナに侵攻したのは、西側に根本的な原因があるから……。
くりかえされる歴史を概観して私が感じたのは、ヴィスコンティ的な自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙だ。
それは人間に内在するふたつの側面であり、人間が人間であるかぎりにおいて免れぬ宿業のようなものではないか。
ロシアには、独裁、スターリン、収容所という「悪」と、ロシア文化、宇宙飛行、資源という「良」のイメージもある。
ドイツに、ナチス、アウシュビッツ、優性思想という「悪」と、偉大な音楽家や哲学者、科学力、工業力という「良」があるように。
ドイツで思い出したが、ヒップホップ・カルチャーが反体制とはかぎらない。
たとえば映画『ブレイク・ビーターズ』。
旧東ドイツでは、ブレイクダンスが国家主導のショーダンサーとして社会主義にローカライズされた。
ヒップホップの視点からみれば邪道きわまりないが、ほとんどの宗教が(創始者や聖典をないがしろにするような)邪道を内包している。
本来ありうべからざる邪道が、組織を育てることもある。
結局、「どこから見るか」という視点の問題にすぎない。
既存のヒーロー観を覆した『デッドプール』、ヴィランの定義を書き換えた『ジョーカー』。
スーパーマンの真逆、スーパーヴィランに育った姿を描いた『ブライトバーン/恐怖の拡散者』。
スーパーヒーローならやっていい破壊行為と、悪役のそれは、どうちがうのか。
正義の心をもたなければ悪役とおなじであることは、『スパイダーマン』シリーズの名ゼリフ「大いなる力には、大いなる責任が伴う」に通じる。
徹底的に街を破壊する『マン・オブ・スティール』は、日本人にもなじみ深いギャグ漫画的な描写、簡単に地球を破壊してしまうドッカンバトルの系譜だ。
正義のために容赦なく戦うスーパーマンを、バットマンは口をきわめて罵っている。
どの国も「正義」を旗印に戦争をする。
とくにアメリカは、議論の余地のない「世界最強」だ。
東京大空襲や原爆投下への憎悪の声があまり大きくないのは、アメリカの宣伝がすぐれていたからでもあるだろうが、つねに最悪のケースを考える国民性もあるかもしれない。
いわゆる「怪獣映画」になじんでいる日本の世代にとっては、盛大に街を破壊する描写そのものに対する嗜好も汲み取れる。
『火垂るの墓』で、自国を破壊するために飛来する爆撃機に、快哉を発する主人公の姿は印象的だ。
こんな街、こんな国、こんな世界、ぶっ壊してしまえ。
世界が滅びることを望む層は、一定数いる。
彼らの「夢をかなえる」映画は事実、必要とされている。
最後に、映画のような夢を、という決め台詞で知られる洋画劇場があった。
そう、映画とは「夢」なのだ。
目を覚ましたら現実に向き合い、考えるべきフェーズがやってくる。
きょうもニュースのヘッドラインには、世界中の悲劇が並んでいる。
ウクライナやEU、アメリカにとって、ロシアや中国は「悪」だ。
しかしそれは「彼らの秩序にとって」という注釈つきであって、相手から見れば事態は反転する。
そんなことは百も承知で、「自分より強いやつと戦うほうがわるい」というトランプ的な発言が、ある意味で真理だったりもする。
アメリカ人らしい考え方で、かなりのリアリティもある。
なんなら人間が「悪」という見方もある。
人間など滅びてもらったほうがいい、という大自然の声が背景にあるとするなら、それを促進する側が正義という見方もできるのだ。
いろんな視点から眺めると、映画も現実もそれなりにおもしろい。
その先に立って、もっとおもしろい物語を書くことが、私の夢だ。