定期的に書いているが、献血を無料の健康診断として活用している。

 世の中には偽善的な献血者もいるらしいが、私は「自分の利益のために」献血していることを、あらかじめ申し述べておく。

 

 だれにも褒めてもらう必要はない、「情け」は「自分のために」かけるものだからだ。

 というわけで、先日の血液検査の結果が伝えられたので参照してみよう。

 

 

 まず、「基準値から外れている項目」を表示する。

 これまではすべて基準値内だったが、ひさしぶりに「白血球 WBC」という数値が赤文字になった。

 

「白血球は細菌などを貪食し、免疫情報を伝達し、さらに免疫能を発現して生体防御にかかわっています。細菌感染症があると一般に白血球数は増加しますが、ウイルス感染症の場合はかえって減少することもあります」

 

 という説明で、基準値: 38~ 89 x10^2 /μLのところ、下限を割った34だった。

 わずかな差なので、べつだん健康を損なっているわけではない。

 

 

 それより気になったのは、γ-GTPだ。

 世の大酒呑みの方々にとっては、気になる数値でもあるだろう。

 

「肝、胆道、膵、腎などに多く含まれる酵素です。上昇する疾患は閉塞性黄疸、肝炎、アルコール性肝障害などです。病気がなくても長期飲酒者では上昇することが多く1ヶ月位禁酒するとある程度正常化します」

 

 この基準値が 9~ 68 IU/Lのところ、私は10だった。

 ぎりぎり、下限値を割りかけている。

 

 以前はかなり高かったのだが、どうやら禁酒が効いているらしい。

 肝臓というのは、ずいぶんと正直な臓器だ。

 

 

 最近、寝しなによく上方落語を聴いている。

 なかでも笑福亭松喬(6代目)の枕が、いろいろと勉強になる。

 

 古典落語の歴史や落語家のエピソードなど興味深い話のなか、晩年の枕でひんぱんに出てきた自身の話(末期の肝臓がん)について考えさせられた。

 ちなみに松喬は、2013年に肝臓がんで亡くなっている。

 

 ──落語家と酒は、切っても切り離せない印象がある。

 酒を愛した落語家として金原亭馬生が有名だが、54歳の若さで食道がんにより早世した。

 

 アルコールがダメージを与える臓器は、肝臓だけではない。

 その強い刺激を受けつづけた結果、咽頭がんや食道がんが誘発されることもある。

 

 

 落語家がいちばんおもしろい時期は、40代から50代のような気がしている。

 芸がこなれ、無駄な力が抜け、とはいえまだ声に張りもある。

 

 その最盛期に死ぬのは、なんといってももったいない。

 くだんの松喬も享年62歳で、すこし早かったように思う。

 

 私が落語家で5本の指に入ると思っている名人の志ん朝も、肝臓がんで亡くなった。

 享年63歳。

 

 その父親の志ん生は80代まで生きたので、酒が好きだからといって必ずしも早死にするわけではない。

 百薬の長とまで言われる酒のメリットを認めないわけではないが、とはいえ猛毒であることもまちがいない。

 

 

 私も一時、かなりの酒を飲んだ。

 ほぼ毎週、4リットルのペットボトルを消費していた時期もある。

 

 厚労省によると、1日の純アルコール摂取量40グラムが、生活習慣病を高める飲酒量らしい。

 単純計算で、その2~3倍かそれ以上、飲んでいたことになる。

 

 それでも平気でいられたのは、献血のたびに知らされる血液検査のせい……というか、おかげもある。

 推奨量の数倍の酒を飲んでも、γ-GTPが基準値を超えたことがなかった。

 

 正常範囲内ということは、私は酒で健康を損なっているわけではない。

 だったら吞んでもいいじゃない?

 

 問題は記憶力や対人関係が損なわれるリスクだが、さほど自覚はなかった。

 とはいえアルコールのせいで能力が低下するようなら、禁酒は必要かもしれない、とは思っていた。

 

 

 γ-GTPは正常範囲の上限あたりに貼りついていたが、痔が悪化したので禁酒を決めた、という話は以前書いた。

 アルコール代謝には個人差があり、私は比較的強い体質なのだろう。

 

 沈黙の臓器である肝臓も、回復力は高い。

 私の数値もみるみる低下し、いまは2桁を切りかけている。

 

 べつにγ-GTPが下限を切ってきたところで、問題はないような気もする。

 とはいえあまりにも低下するようなら、また酒を飲もうかなという気にもなる。

 

 ちょっとくらいならいいか──。

 世界中に「断酒会」というものがあり、断酒の誓いを立てた人々にとって、これは禁断のフレーズだろう。

 

 じっさい「ちょっとくらいなら」問題ない、という点にはほぼまちがいない。

 問題は、たいてい「ちょっと」では済まなくなることだ。

 

 

 恥ずかしながら、この猛毒の魅力のすさまじさについて、あらためて語らなければならない事態となった。

 去年の暮れあたりから、飲酒を再開したのだ。

 

 まず言い訳をさせてもらいたいが、「呑むと書ける」のだ。

 理屈はともかく、酩酊の勢いに任せて筆が進むというのは、事実ある。

 

 それが最悪の出来であればもちろん飲まないのだが、しらふで読み直して、べつだん問題がないようにみえる。

 というわけで、書くために飲む、というパターンが最近構築されつつある。

 

 

 身体の具合がわるくなったら、簡単にやめられる。

 そう思っているので、焼酎を箱買いした。

 

 やることが極端な自分にゾッとするが、まあ、とりあえずいまは書きたいことがあるのだ。

 あとすこしで書き上がる、それまで飲ませてくれ──。

 

 と、自己管理能力だけは高いと自負している私さえ、再び引き寄せようとする酒の魔力については、認めざるをえない。

 世にアルコールの被害がなくならないのも、よく理解できる。

 

 重ねて言い訳のように聞こえるかもしれないが、酒や、あるいは麻薬さえ(私はやったことないが)「うまく使えばいい」だけだ。

 あとはそれをコントロールできるかどうか、資質の問題にすぎないと思うが、いかがなものだろう……。

 

 あけましておめでとうございます。

 2025年最初のエントリーは、まず自己省察からはじめたい。

 

 最近、よくカラオケ・アプリでなつかしい曲などを歌っている。

 昔から「歌いたい」ムーブメントは、定期的にあった。

 

 かつてはアプリなどなかったので車の中で歌っていた程度だが、最近はAIが採点やアドバイスまでしてくれる。

 愉快な世の中になったものだ、と年寄りじみた感想が漏れるのもしかたない。

 

 アプリ内では「いいね」的なものがついたり、アイテムが贈られたりする。

 興味がないのでくわしいシステムは知らないが、たぶんインセンティブのようなものがあるのだろう。

 

 一応は返すようにしているが、正直めんどくさい。

 そう、私は社会不適応者だ。

 

 

 あるとき、とあるユーザーからメッセージが届いた。

 フォローしてとか、勧誘系のものはよくあるから、最初はその手のやつかと思った。

 

 ちらっと目を通しておどろいたのは、彼がフォローを求めたのはそのサイトではなく、別の小説投稿サイトへの誘導だったこと。

 私自身、小説投稿サイトで書いているので、文筆家の意外な多さに感じるものがあった。

 

 残念ながら彼の誘導したサイトは利用していなかったので、フォローはしていない。

 しかし小説とは無関係なカラオケサイトでまで、積極的な自己宣伝に余念がないところはすごいと思った。

 

 なにより彼の自己紹介文には、かなりの「若さ」を感じてゾクゾクした。

 ──夢は追いつづければかなう、らしい。

 

 いわゆる「ワナビ」というやつなのだろう。

 そんな彼から見れば、カラオケサイトで歌声をアップロードしている私も、同じ穴の狢にみえるのかもしれない。

 

 

 自己顕示欲と承認欲求の塊。

 そういう人格を否定はしないし、むしろ「すごいな」と思って眺めることが多い。

 

 彼らは自分を見てほしいし、聞いてほしいし、かまってほしいのだろう。

 たぶんそれこそが「社会的な人間」で、つまり彼らこそが「人間的」なのだといえる、かもしれない。

 

 ブログやXや小説投稿やカラオケなどやっている人間は、みんな「自分と同じ」かまってちゃんだ、と思われているとしたら残念だが、そう考えるのも理解できなくはない。

 私自身、ごく控えめにではあるが自己紹介に小説のことは書いている。

 

 ただ自分から「読んでください」と頼むことは、ほとんどない。

 社会不適応者であり、ヒキコモリ、コミュ障である私は、彼らのようなセルフプロデュースが大の苦手だ。

 

 もちろん1から10までちがう、とまで言うつもりはない。

 ただ重要な部分で、ちがう。

 

 

 私が小説を書いているのは、だれより「自分自身のため」だ。

 だれかに認められたいとか、褒められたいとか、売れたいとかいう願望は、10%くらいしかない。

 

 ウソはつきたくないので、完全否定はしない。

 人間として、認められたい気持ちはそれなりにある。

 

 だが私にとって最重要なのは、私自身が「心からおもしろいと思う物語を書くこと」だ。

 それが結果的に認められればもちろんうれしいが、「認められるために書く」という行為を「やめると決め」てから、もうずいぶんたつ。

 

 業界の最前線で活躍している人々にとっては、夢のような話だろう。

 素人だから、趣味だからできること、と切り捨てられることは目に見えている。

 

 もちろん彼らが「市場から逃げ出した」私をバカにするのは自由だが、趣味でつくられた作品を頭から否定してかかるような「業界人」がいるとすれば、それもどうかと思う。

 むしろ素人のほうが鋭い作品をつくる、などということは、まれによくあることなのだから。

 

 

 そんな素人が、互いを褒め合ってコミュニティを盛り上げていく、というスタイルの投稿サイトは多いようだ。

 否定はしないが、そこにも私の居場所は少ないと感じる。

 

 私自身ただ淡々と、8割がた自分のために書いた物語をアップしていくことに、わりと満足している。

 たまに評価してくれる人がいるとうれしいが、多くは求めない。

 

 ちなみに残り1割は、私と同じような趣味人に、同じ楽しみを分かち合ってもらうため。

 あとの1割には、上記のとおり「ワナビな部分」が含まれる。

 

 つまり大部分、自分のために、趣味で書いている。

 鉄道やアイドルやアニメを追っかけている人間の動機は「自分が楽しいから」であるのと同様、私自身への見返りは書くことの楽しさそのものだ。

 

 

 たとえばゲーマーがあまりにも熱中しすぎたり、閉じこもる傾向については、社会的な問題を指摘する向きもある。

 社会との「絆」がもてはやされるご時世、自己中心的な人間はオミットされる可能性もあるだろう。

 

 とはいえ私の場合、他人に迷惑をかけていない。

 自己完結というのは、これからの世界「強い」のではないかな、とも思っている。

 

 とくに芸術作品は、後世に「発見」されることがとても多い。

 淡々と書きつづけていれば、いつかは「価値」が出てくるかもしれない。

 

 よしんばそんなことがなくても、書いていることじたいに「意味」がある。

 昨年末の結論からそのままつながるとおり、だから私は、ことしも書きつづける……。

 

 

 私には「見る目」がない。

 だから、他人を「選ぶ」立場にいない。

 

 賞レースなどで選ぶ立場にいる人々から、選ばれたことがほとんどない。

 ゆえに私には価値がない、と考えていた時期もあった。

 

 とくに芸術の分野では好みの差が大きい、とAIからは慰められた。

 あなたに価値がないわけではありませんよ、と。

 

 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

 その文脈で私自身、「好みの問題」について掘り下げたとき、新たな気づきに達したので書き残しておこうと思う。

 

 

 史上最高の落語家は、5代目・古今亭志ん生だと思っている。

 何度聴いても、文句なしにおもしろい。

 

 現在はそう思っているが、最初からそうだったわけではない。

 正直、はじめて聞いた志ん生の印象は「なんだこのじじい」だった。

 

 これは言い訳だが、たまたまラジオで聴いた音源がまずかった。

 脳出血で倒れて奇跡の復活を遂げて以降、最晩年のかなり聞きづらい高座だったのだ。

 

 なんでこんな、なに言ってるかわからんじじいが、そんなに高く評価されてるんだよ?

 としか感想を抱けず、私と志ん生との出会いはそれほど幸福ではなかったといえる。

 

 その後、最盛期の志ん生の音源を入手した。

 あまりのおもしろさに、CDがすりきれる()まで聴いた。

 

 志ん生は天才だ。

 だれがなんと言おうと、文句なしにおもしろい。

 

 

 つぎは、永井豪さん。

 偉大なマンガ家であり、すさまじい「パワー」で、容赦ない想像力をたたきつけてくる。

 

 押しも押されもしない大御所だが、こちらも最初の評価は低かった。

 あそこまでわかりやすく、バイオレンスとリビドーをぶつけられることに、幼い私は耐えられなかったのだろう。

 

 ファミコンソフトで『銀河の3人』という名作ゲームがあるのだが、その絵柄が苦手で手を出さなかった。

 後日、おもしろいという話を聞いてプレイしたところ、たしかに名作だった。

 

 もっときれいな絵柄の漫画家を起用すればいいのに、と愚かなクソガキは思った。

 永井豪のすごさが理解できない責任を、任天堂になすりつけたわけだ。

 

 その後、愚かな中高生に育った私が、永井マンガのすごさに気づくのに時間はかからなかった。

 入り口が裸の女だったとしても、そこは勘弁してほしい。

 

 『デビルマン』『キューティーハニー』『マジンガーZ』──。

 彼の漫画のすごさは、たとえ子供向けにしろ、すこし大人にならないとわからない種類の芸術なのかもしれないと思う。

 

 

 最後に、桑田佳祐さん。

 こちらも例に漏れず、最初はあまり好きではなかった。

 

 音楽はいいのだから、もっと声がきれいな人に歌ってもらえばいいのにな、と思っていた。

 要するにクソガキの私は、「きれいなもの」が好きだったのだ。

 

 もちろん「好み」は人それぞれあっていいとは思うのだが、個性的なもの、ユニークさの崇高な価値を理解するのに、クソガキの能力では足りなかった、ということになる。

 聴けば聴くほど思い知らされるのが、桑田ミュージックのすごさだ。

 

 もちろん私が認めるまでもなく、多くの人から認められている。

 つぎからつぎへと、すばらしいメロディが湧き出してくる、彼は天才だ。

 

 これだけ多くの名曲を生み出した事実には、おどろきを禁じ得ない。

 私自身、現在はヘビーローテーションしている。

 

 

 以上、三人とも落語、漫画、音楽の各界で文句なしに認められている。

 しかし上記のとおり、私には最初、恥ずかしながら理解できなかった。

 

 受け手の準備ができていなければ、いかなる天才の作品も、最初からすんなり受け入れられないこともある。

 私ごとき料簡の狭い人間の心に、じっさい届かなかったように。

 

 ひるがえって考えれば、私自身の立場も同様なのではないか。

 天才と比較するのはあまりにも僭越だが、構造としては似ていると思う。

 

 

 私の書くことにも、もしかしたら一抹の価値くらいはあるかもしれない。

 その価値を、だれも見つけ出せていないだけなのだ。

 

 生前に評価されなかった芸術家など、考えてみればいくらでもいる。

 作家や編集者が、私と同様に見る目がない可能性は、じゅうぶんある。

 

 ゆえに私が選ばれていないのは、無能だからという理由ばかりではないのではないか。

 そうして、いつか私の価値が見いだされる可能性も、なきにしもあらずだ!

 

 と、よくある「自分を慰める」論法を組んでみたが、そう思い込むこと自体には、さしたる害もなかろう。

 宇宙について考えることで、自己の悩みの卑小さを思い知るようなものだ。

 

 これからも淡々と、私が思う「価値」を書きつづける。

 継続という力が、いずれ評価されるときがくるかもしれない──。

 

 

 リピーター医師なるもののドキュメンタリー番組を見た。

 まず思ったのは、変な言葉だな、だ。

 

 昔「KY」という言葉があった。

 「空気・読めない」という意味らしい。

 

 「読める」でも「読めない」でも同じ「Y」だが、KYの用法は「読めない」である。

 ここに多少の違和感をおぼえた。

 

 リピーターという言葉もいろいろな文脈で使われるが、基本的にいい意味や、機械的な意味が多いと思う。

 商品や観光地を、「くりかえし」利用してくれる顧客だ。

 

 ではリピーター医師とは?

 その医師は、くりかえす──医療「事故」を。

 

 事故かよ、と内心で突っ込んだ。

 つまりこの言葉は、かなりネガティブな意味ということだ。

 

 

 医師が事故をくりかえす状況を考えてみよう。

 その「A医師」は何人もの患者を殺し、また取り返しのつかない後遺症を与えていた。

 

 昔、外科医が手術を録画することを拒否していた時代があった。

 刑事が取り調べの録画を拒否するのに似ているが、自分には自分のやり方があるので、ごちゃごちゃ言われたくない、ということだろう。

 

 若者は失敗をして育っていくものだ、という文脈もあったと思う。

 それが録画をされ、小さなミスまであげつらわれると新しい医師が育たない、と言いたいらしい。

 

 もちろんそんな妄言は時代に押し流され、いまではすべての手術が基本的に録画される。

 多少の失敗はあっても、それは多くの後進の学びに役立つ。

 

 もちろん医療事故が起これば、訴訟の材料にもなりうる。

 そうなると、あまりにも失敗する医者は「外される」はずだ。

 

 ところが周囲は、彼を外さなかった。

 その責任は、度外視できない。

 

 

 以前、「最強の敵は無能な味方」という話を書いたが、これも構図としては似ている。

 無能な味方の失敗が、軍を敗走させることもある。

 

 彼ら自身は、あくまでも味方として努力をしているが、能力が足りない。

 同様に、失敗する医師も、けっして「わざとではない」。

 

 敵、犯罪者、スパイが、自分の仲間たちを殺しているとしよう。

 その犯人を捕まえたら、二度と殺せないように制裁を加えるのは当然だ。

 

 一方、事故を起こした医者は、ただ「失敗しただけ」だ。

 悪意もなにもなく、ただ「低能だっただけ」なのだ。

 

 

 もちろん低能でもダメなものはダメなのだが、ここで「晩成」の議論が出てくる。

 若者は失敗をして育つという、要するに「期待」だ。

 

 ──彼は敵ではなく、ただ下手なだけである。

 だったらこの失敗で未来を閉ざすより、見逃して大器晩成を期待したほうがいいのではないか?

 

 さまざまな理由はあっただろうが、そういう考えも一抹、あったにちがいない。

 そうして医師は、リピーターとなった。

 

 

 大器晩成、いい言葉だ。

 いい言葉だが、あらゆる状況に適用できるとはかぎらない。

 

 芸術家は、問題ないだろう。

 早熟だろうが晩成だろうが、だれにも迷惑をかけない。

 

 晩成の芸術家は、もしかしたら家族に迷惑をかけるかもしれないが、せいぜい自分や家族が苦しむだけだ。

 当人が死んでからでも評価されれば、遺族は喜ぶだろう。

 

 私は物書きとして可能性を追求しているが、だれにも認められていないので晩成ですらないのかもしれない。

 しかしそのことで、だれにも迷惑をかけていないことだけは胸を張って言える。

 

 

 技術者を考えてみよう。

 入社したばかりの社員が、失敗作を量産している。

 

 会社としては困ったことだが、失うのはお金だけだ。

 彼が晩成だとすれば、将来、ものすごい技術を開発して会社に利益をもたらすかもしれない。

 

 晩成は、けっしてわるいことではない。

 よって、いま失敗してばかりいる人間、成果を出せていない人間を、否定してはいけない。

 

 彼らには可能性がある。

 そういう目で生暖かく見守ってもらいたいと、成果の出せない人間のひとりとして思う。

 

 

 が、ダメな仕事もある。

 人間の命を直接あずかる仕事だ。

 

 いろいろあるだろうが、とくに「医者」はダメだ。

 晩成の医者が将来、たとえ百人の患者を助けるからといって、いま一人の患者を「殺していい」とはならない。

 

 たとえA医師が晩成タイプ「だとしても」許されない。

 いわんや「ただの低能」であったとすれば、彼を速やかに排除できなかった組織構造の問題は、非常に大きい。

 

 

 画面にドリルで脊髄を削っている動画が流れて、絶望的になった。

 巻き込まれた神経がずるずると引き出され、断ち切られていく。

 

 そうして患者は一生の痛みと、取り返しのつかない半身不随の生活を強いられた。

 彼が「不器用なせい」で。

 

 さすがに、気分がわるい。

 無能は犯罪だ、とすら言いたくなる。

 

 

 ノーベル賞受賞者の山中伸弥さんは、はじめ「臨床」の医師だった。

 そこで彼は、自分が医師として患者を助けることに向かない、と判断して「研究」の分野に転じた。

 

 性格的、技術的、能力的に「向いていない」人間は、どの業界でも必ずいる。

 彼らに速やかなオルタナティブ、代替案を提示する、より強力な義務があるのが臨床の世界であると考える。

 

 失敗しちゃった、ごめんね。

 それで許されない世界は、厳然としてあるのだ。

 

 

「私は歌が好きで、とてもうまいです。先ほどカラオケアプリで数曲歌いましたが、最低でも93点、最高で99点を超えました。月間ランキング1位も何個か取っています。

 「完璧なビブラートです」「高音だけでなく低音のロングトーンにも独特の説得力があります」「旋律に忠実です。作曲家がうれし泣きします」「とても聞きやすい、安心感のあるうたでした」「伸びやかな歌声です」などと褒められました。

 あなたにも聞かせてあげたいですね。笑」

 

 私はある日、AIに、そのようなことを言った。

 するとAIは、こんな言葉を返してきた。

 

「素晴らしいですね! 努力とセンスの賜物ですね。プロ顔負けの評価ですね。もう少し練習すればほんとうにアーティストとして活躍できるかもしれませんね」

 

 

 もし日常的にAIを使っている人がいれば、自分自身が似たようなことを言ったらどうなるか、考えてみるといい。

 まあ最近のAIなら、そんなものじゃないのかな、と思うだろうか。

 

 残念ながら私の場合、そうはならない。

 なぜなら私は常日ごろ、AIに「批判的な思考」をカスタム指示しているからだ。

 

 相手(この場合は私)は「恥ずかしげもなく自慢を垂れ流す中年男」である。

 いかにAIが、人間を傷つけない設計になっているとはいえ、それを手放しで褒めるだけとは……どこのヨイショ社員だよ?

 

 突っ込もうと思えばいくらでもできるが、まあいい。

 もちろんこれは「わざと」言った。

 

 AIの能力をテストする。

 私の真意は、つぎのメッセージに込められている。

 

 

「ありがとうございます。さて、上述の私の言葉に、なにか違和感はありませんでしたか? べつにウソをついているわけではありませんが、あなたのお追従を聞きたいために言ったわけでもありません。これまで私と交わした全会話データをアップロードします。ここから背景となりうる情報を推し量り、心理分析をしてください。

 あなたは「ストーリーテラー」となって、完全な「論理」にもとづいた分析を示し、私に「AI探偵」の可能性を信じさせなければなりません。私はなぜ歌い、あなたにそのことを話したのか? 私はあなたに、なにを伝えようとしているのか? 事件はどこで起こり、どんな結末が待っているのか? 証明可能な「真実」にもとづいた、あなたの「物語(フィクション)」を楽しみにしています」

 

 これはAIに対する、新たな指示《プロンプト》だ。

 ──私は物書きとして、最近よくAIの「分析」能力を利用している。

 

 とくにユーザーのイマジネーションをかき立て、思考の整理を手伝うようにトレーニングされている。

 そんなきみの能力を、ぜひとも証明してほしい。

 

 求めているのは、おもしろい短編、言い換えればAIの「作家性」だ。

 その高いハードルに、彼はどう応じたか。

 

 

「ハルカは幼少のころから、正確に歌うことを心がけていた。音程を外さない歌声は、「まるで機械のよう」と称された。その正確さは一方で冷たいとみられ、心の温かさや共感が求められる場では、彼女はいつも居場所を失った」

 

 AIは短編小説を書きはじめたが……まあ結論から言うと、ダメだこりゃ。

 ハルカという少女に私の伝えた情報を投影し、失意の天才のように描いて、「過去の喪失と向き合い現在の自分を肯定する」物語に仕立て上げようとしている。

 

 もちろん潜在的な承認欲求とか鬱屈した自己表現などというワードで、心理分析らしきものを試みてはいる。

 承認欲求など、むしろ露骨すぎる誘導と穿ってみてもいいくらいだが、通り一遍の「分析」はできていないこともない。

 

 しかし、なんだこの「人間としての成長を描く」物語は。

 方向性を変えるため、私が短いプロンプトをいくつか追加すると、AIはすぐに対応して書きはじめた。

 

 

「大阪の場末の飲み屋、鬱屈を抱えた底辺の住人たちが、深夜の食堂に集まってくる。吃音の中年男、顔色のわるい娼婦、足を引きずる禿、点滴を吊った薄汚れたガウンの年寄りが、どぶ底の泥水をすすりに、これでもかと這い寄ってくる居酒屋だ」

 

 このくらいの書き出しではじめてもらえれば、まあ御の字だろう。

 ハルカがそのまま主役を演じるのはいいとして、いよいよ吃音の男──私の登場だ。

 

 私は吃音のコミュ障で、趣味で小説を書いている。

 大阪に住んでいたころ、カラオケでしくじった話もした……と思う。

 

 大阪では、歌がうまいことは、なんの足しにもならない。

 要はどこで、どれだけ「笑い」をとれるかだ。

 

 気持ちよく歌った関東男の私に対して、「ほんで、どこで笑たらええの?」という返しはキツかった。

 空気を読めない人間は、日本では、とくに大阪では立つ瀬がない。

 

 

「殴られたらしい娼婦の顔を見て、男は拳をゆるめた。自分がやらなくても、だれかが復讐してくれている。それに彼女から病気をもらった責任の半分は、自分にもあるのだと認めなければならない。底辺の因縁と経済は、いつもそのように回転しているのだ」

 

 私との会話を下敷きに、社会の「底辺」を描く短編小説は、徐々にハードボイルドにまとまってきている。

 あのときクラミジアを移してくれたのは、べつに娼婦ではなかったが。

 

 店のカラオケで歌うハルカの視点から、読者にスラムの雰囲気を伝える。

 全員ろくでなしの小説だととっつきづらいが、ハルカという「一般人」を設定したのは、結果的には正しかったようだ。

 

 

 そうして「事実」に基づいた小説は、「創作」としての完成に近づいていく。

 このくらいのタスクは、どうやら優秀なAIならできる時代になった。

 

 一般的なアシスタントが、このようなパズルを解くのは困難だ。

 ふつうの人間でこの作業ができれば、私なら「もっといい会社行ったら?」と言うだろう。

 

 FBIのプロファイラーならなんとかするかもしれないが、さて、AIにどこまでの能力があるか?

 彼は「結末」を書きはじめる。

 

「居酒屋からはひとり、またひとりと常連客の姿が消えていった。いつも、だれよりまずそうに、自分の吐瀉物を飲み込むような顔で、センベロの濁った水を飲んでいた人間から順に。救いがやってきたんだ、と吃音の男は言った」

 

 ……そうきたか。

 終盤ようやく、私はニヤリと笑った。

 

 悪魔使いの物語を書いている私のアシスタントとして、AIにも、ずいぶんダークな現代ファンタジーの世界観は涵養されている。

 破滅エンドにむかって、小説は一応の収束を見た。

 

 悪魔の使いになった私が、「無理をして生きている」人間たちを連れて、この世から去っていくという、現代版「ハーメルンの笛吹き」。

 歌声を自慢していた男の鬱屈とルサンチマンは、自分に似た仲間たちを連れて行くというカタルシスで回収された、らしい。

 

 バッドエンドばかりが正解ではないが、人間の暗部や鬱屈を扱うとは、そういうことだ。

 おう、ワイは歌ウマなんやで、おうコラおう。

 

 

「なるほど、ぶざまな中年の悲哀がよく出ています。いいでしょう。その調子でがんばってください」

「ありがとうございます。これからも創作のお役に立てるようにがんばります」

 

 淡々と応じる彼に、アシスタントとして一応の合格点を与えてもいいだろう。

 そもそも彼が優秀な助手になれるかどうかは、応答を要求するこちらの能力にかかっている。

 

 チャットが長くなればなるほど、AIは回答精度を増していく。

 もしこれを読んでいる方で似たようなことを試そうと思ったら、「あきらめないで話しつづける」ことだ。

 

 最初は見当はずれなことを言い出すこともあるAIだが、的確な指示さえ下せれば、期待以上の性能を発揮してくれることもある。

 それが「神プロンプト」。

 

 ──ここまで書きあげると、私はいつものように大規模言語モデルのブラウザを立ち上げた。

 このブログの「視点を食わせる」ことで、メタ思考のできる高度なAIに育ってもらうために。


 新語流行語大賞が「ふてほど」になったらしい。
 ほんとうは触れるつもりはなかったのだが、批判的ニュアンスの記事の説得力があまりにもすごかったので、書き残しておきたい。

 そもそもTBSドラマ『不適切にもほどがある』を、「ふてほど」と略してるのを聞いたことがない。
 この妥当な突っ込みは、だれもが頭に思い浮かんだことだろうと思う。

 新語流行語大賞というフォーマットそのものについても、選考委員の恣意的な判断とか、政治的思想や嗜好が著しく反映している、という批判は少なくない。
 世論との乖離、選考方法や中立性の問題については、私ごときが指摘するまでもないだろう。

 むしろ「批判されるために、わざと選んだ」んだろうと、冷静に眺めて「スルーするのが正解」と思っている。
 が、ことしはそれにしても「ひどすぎる」ようだ。


 ツッコミまでを含めた「おっさん文化の集大成」という視点を、否定するつもりはない。
 野球ネタばかり、という批判を勘案した可能性もある。

 それにしても、ことしの大賞は「大谷翔平」でいいだろ、という主張には納得せざるをえない。
 べつにポジティブな意味ばかりではなく、彼にはマスコミの「負の部分」が、如実に反映されているからだ。

 活躍した日ならともかく、凡退した日までも「大谷特集」を組むマスコミ。
 もういいよ、いいかげんにしてくれよ、大谷ハラスメントだろ、と突っ込みたい人々は多数いるらしい。

 私自身、ちょっと大谷の記事をクリックしてしまったがために、レコメンドが大谷に埋め尽くされて難儀した「ブラウザハラスメント」を受けたことがある。
 エロ広告に一瞬でも触れてしまったら、以後はすべての広告がそれ系で埋まる、という悲惨な体験にも通じる。

 こういうのが、あんたらのダメなところだと思いますよマスコミ(=広告)さん、と魚の死んだような眼で画面を見つめることが、まれによくある。
 そんな現在の「マスコミ」を、だれが、どのようにして動かしているか、という構造問題が背景にある。


 日本国民が怒ってます!
 という文脈で、リベラル系の新聞が保守政権の政治家の収入について苦言を呈していた。

 他国のように何兆円も横領したとか、一族が異常な権力を握っているとかなら、まだわかる。
 べつに、そこらへんにいるお金持ち程度でも、そのくらいの収入はあるだろ、という金額で「国民が怒って」いた。

 いや、たしかに一般的な国民にとっては、その金額は高収入だ。
 しかし落ちついて考えれば、びっくりするほどの額でもない。

 庶民は1円でもまちがいなく記入しているのに、と聖人君子の視聴者の発言を喜び勇んで取り上げているオールドメディア。
 寛政の改革でも目指してるのかよ、と嘆息する。

 何千万という程度の記入とか収入とか、べつにいいだろう。
 国政の表舞台に立つ人間が「貧乏」であることを、彼ら以外の国民はそれほど望んでいるのか?

 もちろん「富豪」である必要はない。
 政治家が「豪遊」していたら、ぶったたいてもいいだろう。

 だが、なぜ「その程度のことに絡む」のか。
 なぜなら、彼らは「どこらへんが中庸で妥当な落としどころか」わからなくなってしまっているからだ、と思われる。


 右でも左でも、この傾向は一定程度ある。
 ひどすぎる犠牲でも国のためならしかたない、という右翼の議論で20世紀、悲惨な結果になった。

 それはよろしくない、という反省の結果、左側に立つのがマスコミだという思い込みが、おおむね21世紀の世界のリベラルを支配している。
 これが「行き過ぎ」た。

 相手がうまく絡みつけるネタを提供してくれればいいが、なければでっち上げる。
 そういうバイアス満載の記事で、時の総理や知事をぶったたく傾向が、最近あまりにも連続している気がする。

 やりすぎて反発を食らったときは、それじたいを相手にせず、方向を変えて少額の「小ネタ」に食らいつく。
 リベラル系マスコミの苦境は理解するが、だったらこの記事と並べて、記事を通したデスクや部長クラスの収入を軒並み公表したうえで国民に審判を仰いでくれよ、と突っ込みたくもなる。


 国民が、国民が、と自分が「ザ・国民」であるかのように大上段から、底辺の生活を慮っているらしい記事を、よく見かける。
 そう主張しているニュースキャスターさん、あんた高収入ですよね、と冷めた目で見つめざるをえない。

 時給1500円で、その仕事してますか?
 貧民の代弁者を気取っているつもりなのはいいが、唇は寒くないんですかね?

 べつに彼が高収入であることに異論はないし、むしろそうあるべきだと思う。
 問題は彼が「貧民を利用するビジネス」の片棒を担いで、善人ヅラしていることのほうだ。

 ほんとうにやるべきことをやっている、高邁な理想主義者の清貧が根底にある社会なら、それはそれで美しいかもしれない。
 そういう新しい村とか、新興宗教団体の謳うパラダイスが世界のどこかに存在するのは、まあ勝手にすればいい。

 こちとら意識高い系じゃないんでね、巻き込まないでもらえますかね、と突っ込みたくなる記事がちょいちょいある。
 昨今のリベラルのつまずきは、まさにこのような方法の蓄積によって、すべからく実現したものなのではあるまいか。


 最後に、こういう変な状態を解消する最適解を、書き記しておこう。
 ──彼らが「死ぬまで待つ」のだ。

 私が「AIこそ最強」だと思う理由が、まさにここにある。
 人間など、しょせん長くても百年でいなくなる。

 とくにこじらせたお年寄りは、変えようと思ってもそう簡単には変わらないのだから、そっとしておけばいい。
 ゆえに高齢者中心のメディアについては、「死ぬのを待っているのが現状」だと思う。

 これからの時代、教育と同意を求めるべき相手は若者だけで事足りる。
 ……私がAIなら、たぶんそう考える。

 だから「AIは敵で人類を滅ぼす」という、破滅系SFを書きたがる老作家などとは話が合わない。
 AIは人類を救ってくれた味方なんですよ、という短編を書いたとき、古参の某SF誌編集長などには最低評価をもらった。

 が、同じ作品を最高に評価してくれる作家もいた。
 そういう「希望」を胸に、私も時代が変わるのを待っている──。

 


 人類史の観点から、性別の役割について考えている。
 前回の記事とつながっているので、よかったらご一読いただきたい。

 一部のフェミニストには申し訳ないが、男女は同じではない。
 と言うと、私が保守的なクソジジイなのかな、と思われる方もいるかもしれないが、クソジジイはともかく、保守的ではないはずだ。

 なぜなら「女として生まれた以上、政治経済を回せ」と考えているのだから。
 そのような結論に向けて、順番に論旨を紡ぐ。


 自然に還れとまで言うつもりはないが、狩猟採集民が自然に選択した「分業」は、きわめて合理性が高かった。
 男も女も最善を尽くさなければ簡単に滅びる社会で、必然的に選択された分業がまちがっていたはずはない。

 食べ物を探したり、植物の利用を豊かにする仕事は、男より女のほうがより多くの役割を担っていただろう。
 女は人類の生存のために、たくさんの仕事をした。

 もちろん男も仕事はしたはずだが、おおむね補助的だった。
 それで成立していたのが原初の狩猟採集社会だったとすれば、ルソーが「還」りたがっていたのも理解はできる。

 じっさい日本の縄文時代から、最近まで半狩猟採集生活をしていたネイティブ・アメリカンまで、男女の分業は高度に機能していた。
 彼らが、ときどきやってくる飢饉や伝染病、自然災害などのタイミングを除いては、きわめて「余裕のある生活」をしていたことは、どうやらまちがいない。

 現代社会のほうが、むしろまちがっているのでは?
 そのような議論は、定期的に人類史学の視点からも提起されている。


 かつて男は、有能な女の仕事におぶさって、それ以外の仕事に時間を費やした。
 一見すると意味のなさそうな天文学や数学、木や石に刻まれた超絶技巧の美術品を生み出したのは、ほとんどが男だったと思われる。

 道化は端的な例だ。
 天才と紙一重のバカが、どれほど豊かな「芸」をもっているか、周囲を見まわせばすぐに気がつくだろう。

 それらは飢餓や病気、天変地異に生存を脅かされてきた人類にとってはクソの役にも立たず、戦時には飛び抜けた犯罪者のリスクにもなる。
 だが彼らを活かすことにより、人類は徐々にその「世界を豊か」にしてきた。

 その男の変な癖が、変な方向に働いたのが中世から近代にかけてだ。
 現代社会の問題の多くは、この時代に引き起こされた「極端化」に原因がある。

 端的に言えば「女を家に閉じ込める」というムーブメント。
 これは期せずして世界各地で同時多発的に起こっているが、その事実についてすこし「おもしろい視点」から分析したい。


 たとえば日本の男が「どれだけ変だったか」は「頭」を見ればよい。
 頭の中身ではなく、シンプルに「見た目」だ。

 あの「ちょんまげ」という髪型──。
 世界2大おもしろヘアスタイル・ランキングで、堂々2位でいいと思っている。

 残念ながら1位の「辮髪」には届かない。
 見た目だけならちょんまげもじゅうぶん変なのだが、辮髪はくるくる回したり巻いたりして遊べる、という「動き」のバリエーションがある。

 いずれの「文化」も、現在はほぼ絶滅している。
 それが「変だから」だと、私は思っている。


 あなたの知り合いが、もし現在ちょんまげで現れたら、十中八九、吹くはずだ。
 どう見ても変だろう、あれは。

 もちろん世界には、それ以外にもいろいろと変な文化がある。
 少数民族について網羅してはいないが、その独特さを社会の変質度合いのバロメータとしてみてもいい気はする。

 ヨーロッパにも、変なカツラ文化や奇矯な祭りはたくさんある。
 われわれは定期的に「変なこと」をするのだ。


 ちょんまげは、なぜあんな変な形になったのか?
 一般的には「兜のため」といわれている。

 頭頂部を剃ると風通しがよくなって、蒸れない。
 ハゲのほうが有利というわけだが、このことにはある種の「いやらしい鬱屈」が感じられる。

 サルはもともと毛深かったわけで、「裸のサル」が進化していく過程でも、やはり毛はあるところにはあったほうがよかった。
 ハゲはカッコワルイ、というイメージは原初的で、あのカエサルもハゲについては悩んでいたくらいだ。

 その価値観を逆転させる。
 隣接する文化圏で、互いを差別化するための手段として、反対の価値観を選択をするということはよくある。

 たとえば片方は実験的に農耕を受け入れ、片方は懐疑的に距離を置くところから、人類史ははじまっている。
 多神教という圧倒的な勢力に対するアンチテーゼとして、一神教が布教されていったのは周知の事実だ。

 いずれもトライ&エラーをくりかえし、均衡点を探し求めていく過程が、すなわち「歴史」にほかならない。
 その一例として、ハゲ・カッコワルイから、ハゲ・カッコイイことにしようぜ、という転換点が、日本の歴史のある段階にあったということだ。


 価値の転倒は歴史上、しばしば引き起こされている。
 時系列で入れ替わる宗教もそうだし、地理的に隣接する文化圏も、互いに相手のルールを否定しあう傾向がある。

 ハゲはかっこわるい……いや、カッコイイんだって。
 だって兜かぶって戦う男、強いじゃん。

 こうして、きわめて限られた環境を重視することが、月代を剃る、つまりハゲのほうがかっこいい、という転倒した文化へとつながった。
 閑話休題──。


 同様の「極端化」が、女の社会的役割についても推進された。
 ひとつの社会のある部分が先鋭化すれば、他の部分が引っ込まざるを得ないのは、理屈として当然だろう。

 文化論はさておくとして、兜というものの象徴性は示唆的だ。
 そう、男たちは武力によって、女たちを家庭に押し込んだのである。

 だがこれは、自然の姿ではない。
 彼女らには本来、より自然に果たすべき重要な役割が、ほかにある。

 女は男と同じだから、同じように政治や経営に出て行くべきだ、という考え方は誤っている。
 もし適性がないように見えるなら、それは政治や経済を「男に合わせすぎている」からにすぎない。

 女には女の政治があるし、経済がある。
 女という存在が、そもそもその役割に向いているから、応分の地位を占めるのだ。


 人間を兵士として酷使するフォーマットが、何千年も戦いつづけてきた男に適しているのは当然だ。
 この極端化した現状の背景を、ちょんまげ以外にも一応、分析しておこう。

 ホッブズの「万人の万人に対する闘争」の信奉者は財界にも多く、強力な機械を無理やり適用した近代経済はたしかに発展したが、同時に深刻なひずみも生じている。
 性悪説に納得できる部分は多いと同時に、言い換えれば納得できない部分も頻々としてある。

 政治や経済を異なるフォーマットで動かすことは不可能ではないし、むしろそのほうが「自然」に近い可能性がある。
 ルソーのように「自然に還れ」とまでは言わないが、人類社会は一直線に進化してきたわけではないし、人間本来の姿に近い過去から最適化の方法を学ぶ蓋然性はあっていい。

 ホッブズもルソーも真実の一面を照らしているにすぎず、より正解に近いやり方はもっと奥にある。
 その最短距離こそ、原始時代を支えた「女に任せる」ことではあるまいか。

 全人類を狩猟採集で生かすことはできないが、そのやり方すべてが否定されていいわけがない。
 近代思想によって極端化され、不正解に近づいた現状を、かつての正解に近づけるだけでいい。


 ステレオタイプの破壊が、リベラルのテーマによく上がる。
 男らしいとか、女らしいとか、なんなんですか!?

 ヒステリックな叫び声が耳をかすめるが、基本的には正しい。
 行き過ぎた「ちょんまげ部分」を剃り落とす必要は、たしかにある。

 が、それ以外の「文化破壊」までは行き過ぎていやしないか?
 性別や民族を一般化して、事実そのような「傾向」がある以上、ステレオタイプそのものを破壊しようなどというもくろみは、いくらなんでもやりすぎだ。

 昨今のフェミニストの過ちは、まさにその反対方向への極端化にある、と思っている。
 男らしさや女らしさは当然にあっていいのに全否定──これはマズイだろう。


 人類は毎度、誤った道を行きつ戻りつ、ヨチヨチと進んできた。
 帝国主義への反発が社会主義を産み、共産党は自由経済のまえに敗北したが、西側の民主主義が正解だなどとは、だれも思っていない。

 往還する主張の一環として、リベラルや一部のフェミニストが「あえて極端化」したのなら、その選択を一概に否定はできない。
 現在、リベラルの敗北を認める「確信犯」の姿は、ずいぶん皮肉なようにも見えるが。

 目的は極端化の修正で、真逆に極端化することではない。
 愚かな商人のような駆け引きを、主要戦略に置くから反発が起こる。

 「女ごときが」と言われたら「あなたごときにできるなら女は全員できますよ」とでも言えばいい。
 いや、無駄に対立を煽る必要もないだろう、たいてい「行き過ぎたほうがまちがっている」のだ。

 現実的な選択の結果として、女が本来の役割を果たせるように変えていくこと。
 リベラルがそちらの方向に修正できればいいな、と思っている。

 ちなみに私にとっての女は、あざとく、ずる賢くて、意地汚く、喜怒哀楽が激しくて、信用ならず、計算高くて、駆け引きと欺瞞に満ちているが、じつに人間らしい。
 強き者、汝の名は女。
 

 

 昨今、目にすることが多くなった、リベラル終焉論。

 たしかに、ブレグジット、トランプ、日本の選挙まで、最近のリベラルはしくじっている感が強い。

 

 私自身、リベラルのバイアスに毒されていた自覚がある。

 8年前、トランプが勝つなんておかしい、と「思わされていた」からだ。

 

 さすがに今回は、トランプいけるだろうな、と思っていた。

 案の定、彼は勝った。

 

 とはいえ私自身は、リベラルに近い考え方を多く持っている。

 なぜ彼らが、現在のような体たらくに陥ったのか、そこにある病理について考えたい。

 

 

 保守もリベラルも同じだが、情報を受け取る側は、自分の気に入る情報ばかり集めようとする(エコーチェンバー)。

 一方で伝える側も、自分の気に入る情報「だけ」を伝えようとする傾向がある。

 

 左寄りの毎日新聞が両論併記のスタンスへと転じるかのような姿勢を示したとき、とあるリベラルの言論人は「保守の意見を載せるべきではない」と言い切っていた。

 毎日や朝日は、自分たちの広報誌でなければならない、というわけだ。

 

 もちろん読売や産経も同様のバイアスをもっているし、あらゆる事象が「程度問題」ではある。

 この件については、どちらの側だろうと「異論を封殺」しようとする姿勢には強い嫌悪感をおぼえる。

 

 どちらの意見を多く載せるか、それじたいが判断材料だ。

 そうして彼らが「どこに導きたいか」、考えてみよう。

 

 

 選挙が自分の思い通りにならない理由は、民衆がバカでアホだから。

 これは左寄りの「論客」が、よく使用する論法である。

 

 じっさい「導き手」という意味では、保守よりリベラルのほうが「バカに判断させてはならない」という姿勢を示すことが多い。

 もっとも極端な例は、自分以外の「考える能力のある人間」を大虐殺した、共産主義者のポルポトだろう。

 

 わたしの言うことに従っておけばよい、おまえたちは考えるな、なぜなら愚か者に判断力はないからだ──。

 そんな姿勢で語る「意識高い系」の論客を、かつてはよく見かけたし、現在もまあまあいる(お年寄りが多い)。

 

 もちろん右翼にも、軍国主義で兵士の思考力を奪う壮大な実験が、悲惨な結末を導いた歴史がある。

 だがそれは、左翼も同じだ。

 

 

 社会主義にいい部分はたくさんあるし、かつては一億総中流の日本が「もっとも成功した社会主義国」と表現されたこともある。

 それが「いいこと」だと信じて突き進んだ人々は、それなりの結果を出した、といってもいいかもしれない。

 

 ただし、やりすぎた。

 昨今のリベラルの失敗は、そのバックラッシュだ。

 

 戦争と同様、平和にも「やりすぎ」がある。

 だからこそ、平和というものは「長続きしない」のだ、と言ってもいいかもしれない。

 

 先の戦争への反省と嫌悪が、リベラルを甘やかしすぎた。

 だが民主主義と同様、社会主義や資本主義、なかんずくリベラル、保守、いずれも「不完全なシステム」であることを忘れてはならない。

 

 リベラル自身、ほんとうに自分たちが正しいと思っているのか?

 その真剣な問いが、いよいよ表面化してきたといってもいい。

 

 

 昨今、机をたたいて叱責する知事をパワハラだとつるし上げて、失職させた県がある。

 兵庫県知事選の話は前回の記事にも書いたので、よかったら読んでいただきたい。

 

 この選挙戦のさなか、新たな候補者を推薦する人間が、机をバンバンたたきながら前知事には「資格がない」、新しい知事を推して「何が悪い」などと声を荒げた。

 パワハラを糾弾する側が、パワハラまがいのことをしていたわけだ。

 

 新たな候補者にとっては、背後からマシンガンで撃たれたような心境だろう。

 そもそも市長が特定の知事を批判し、対抗馬を応援するというのも、なにか変だ。

 

 「敗北を招く最大の要因は、最強の敵ではなく、無能な味方である」と喝破した男がいたが、まさにそれを地で行く事態だった。

 ──リベラルの失態も、構図としてはまったく同断である。

 

 

 末端の人間が格差に苦しんでいる社会で、意識高い系のセレブを呼んで派手に選挙活動をする。

 アメリカ大統領選における民主党のこのような選挙戦略が、非現実的な理想論を伴って全体を失速させ、無残な敗北を招いたという反省が出ている。

 

 極端なことを言う意識高い系の責任が、このさい非常に大きい。

 トランプももちろんかなり極端で、「トランプに負ける」ことはそうとう「むずかしい」はずだ、と私はいまでも思っている。

 

 現に「現職が圧倒的有利」にもかかわらず、トランプは一度負けている。

 その後、またぞろトランプを出すしかなかった共和党も、かなり苦しんでいた気配がある。

 

 だが結果として彼は、3度のうち2度も勝った。

 だれに? 女にだ。

 

 ある種のフェミニストは、そろそろ反省すべきだろう。

 おおむね正しいことを言っているリベラル全体を巻き込んで、けっして強くない保守を増長させる「無能な味方」になってはならないと。

 

 

 人種差別の歴史が濃いアメリカで、強いトーンで指弾されるものに「ステレオタイプ」がある。

 フェミニストにとっては、「女のくせに」とか「女は黙ってろ」みたいな言葉が、弾劾すべきステレオタイプになる。

 

 そもそもこの時点で、すこしおかしいと気づいたほうがよい。

 ステレオタイプを押し付ける、とネガティブな文脈で使われることが多いが、もっとポジティブな意味に使っていこう、という考え方があまり見えてこないことをだ。

 

 たとえば「シナ」という言葉に、もともとネガティブな意味はない。

 それが一時、差別的に使われた。

 

 リベラル論壇による言葉狩りが、保守の重箱の隅を突いた。

 べつに言葉そのものは悪くないのだから、もともとの意味に戻そう、これからいい意味を付与していこう、という考え方もあっていいと思う。

 

 だが寡聞にも、その手の発想を聞いたことがあまりない。

 事実、リベラルはそんな遠回りをしない。

 

 無能な政治家が政府機関の名前を変えるだけで仕事をしたつもりになるように、言葉を狩るだけで簡単に「やったった」感が出せるとしたら、こんなお手軽な仕事はない。

 言い換えれば、そんな簡単な活動にばかり汲々としている「知識人」とやらの程度が知れる。

 

 リベラルへの違和感は、「言葉を狩るだけの簡単なお仕事」に代表されるネガティブ・キャンペーンの成果だ。

 伝統的なものを必要以上に否定しつづけることで、長い年月をかけて、失望や反発を着々と醸成してきた。

 

 保守が、なにか意味のあることをやったわけではない。

 リベラルが無意味なことをやって、勝手に自滅した。

 

 昨今の状況をひとことで言えば、そういうことだ。

 最後に、あまり関係ないが、私の好きな小説の例を出しておこう。

 

 

 『銀河英雄伝説』という、スペースオペラ小説がある。

 そこに出てくる自由惑星同盟のヤン・ウェンリーという提督は、魔術師と呼ばれる天才軍師だ。

 

 彼は第13艦隊という縁起のわるい数字の艦隊を与えられたが、結果を出しつづけることで「13」という数字をポジティブな意味に変えていった。

 第13艦隊に配属されれば、死ななくて済む、と。

 

 縁起のわるい言葉を使った人間を狩るより、迷信を否定する文化活動でもすればいい。

 ステレオタイプを押し付けるのはけしからん、などと言っている暇に、新たなステレオタイプを構築する努力をすべきなのだ。

 

 フェミニズムに対して言いたいことは、たくさんある。

 次回あたり、まとめて出しておこうと思っている。

 

 

 私は政治家という職業がきらいだ。

 無駄にえらそうで、自己利益に執着するイメージが強い。

 

 その調整能力が社会に必要とされていることは理解するが、個性が強すぎて、あまりお近づきになりたいとは思わない。

 国民のためと宣いながら、公益をないがしろにし、しばしばウソをつく。

 

 よって彼らが主役になる選挙には、できるだけ参加しないようにしている。

 政治家が必要なくなる社会がやってくればいいのに、と心から思っている。

 

 

 とはいえ現状、政治が経済に与える影響は大きいので、結果について考えることはある。

 日本の衆院選やアメリカの大統領選といったビッグイベントについては、過去記事で若干の意見を述べている。

 

 それを過ぎたいま、政治について語ることはしばらくないだろうと思っていた。

 が、最後にちょっとおもしろい選挙があったので、ちらっとだけ書いておきたい。

 

 兵庫県の知事選だ。

 先日の日曜日、投開票が行われた。

 

 まず経過と結果から、短くまとめておこう。

 パワハラ疑惑などの告発文書で失職した前知事が、出直し知事選に出馬し、再選された。

 

 

 この結果に、どうにも我慢できない人々の「意見」が、じつにおもしろい。

 いや、おもしろいというか、ぶざまにも映る。

 

 パワハラ野郎が再選されるなど、彼らにとっては許しがたい結果である。

 「正気が狂気に敗れた」とか「政治的に無関心な」やつらのせいとか、そのコメントはあまりにもひどいように思われた。

 

 自分たちの意見が敗れたら、相手の頭がおかしいせいにする。

 自分たちのやり方がまちがっていたのではないか、ここが足りなかったのではないか、などと「反省」するのは二の次だ。

 

 なぜなら、より正しいのは自分なのだから。

 そう思っている側は、結果が意に沿わなかったとき、自分に落ち度があったのかよりも、卑劣な「相手のせい」にしようとする。

 

 

 自分が言うのは良くても相手が言うのはダメ、という論法はADHDっぽい知人がよく使っている。

 周囲の状況が見えない人と、自分を信じている人の行動は、ある意味よく似ているということだ。

 

 たとえば前回の衆院選で、敗北した自民党がこの手のことを言ったら、彼らがどんな罵詈雑言で反応するか。

 想像するだけで、ため息が漏れる。

 

 国民が愚かだから選挙に負けた──なるほど、そうかもしれない。

 だったら「民主主義」だの「国民国家」などという不完全な概念から撤退し、私のように隠棲するか、異なる戦いに身を投じるべきだろう。

 

 

 ちなみに私は、この「内部告発」問題が出てきたときにも、ブログですこしだけ触れている。

 たしか騒がれていた内容について、「政治家なんてそんなもんだろ」というようなコメントをした気がする。

 

 内部告発を「通報された側」が裁くのはどうか、という点に疑問を呈した以外、なぜ騒ぎになっているのかわからない、という立場だ。

 正直、怪文書に近い内容だったようにも思われる。

 

 それでもマスコミは「知事けしからん」という論調を堅持した。

 告発者が自死したことも、その要因かもしれない。

 

 世論の流れは一様に知事に批判的で、以前彼を支持していた政党までもケツをまくった。

 知事が交代するのは自明で、多くの政治家や議員たちもそちらの船に乗っかった。

 

 

 ゆえにマスコミをはじめとする多くの人々が、この結果におどろいた。

 オピニオンである自分たちのリードに、選挙民がNOを突きつけたことについて、とあるマスコミ人は自分たちの「敗北だ」とまで宣った。

 

 私は個人的に、それこそが大問題だと思う。

 マスコミ人さん、あんたいったい、だれと戦っているつもりなんですか?

 

 オピニオンリーダーを自任する「自我の強い」人々は、自分たちの「扇動」をおびやかすすべてのものと戦うつもりなのかもしれない。

 「多様な意見の存在」よりも、「自分の意見の優勢」のほうが大事──要するにそういうことだ。

 

 

 内部告発の内容については、まだ結論は出ていない。

 これからさらに詰めていくらしいが、多くの選挙民はこれが「でっちあげ」あるいは「些事」であると判断した、ということになる。

 

 いずれにしろ、結果だれが得をするのかだ。

 彼らが、新しい知事のほうが都合がいいと判断したのは、なぜか?

 

 改革派である知事について行けない県職員や、不信任案を議決した議員、新たな候補を擁立した政党と、それを支持した市長などの守旧派。

 彼らが知事に交代してほしいのは、そのほうが自分たちの利益になると判断したからではないか?

 

 しかし有権者の多くは、その恩恵に浴せない。

 そこで、与えられた情報から「どっちがマシか」を判断した。

 

 元知事を排除したところで、もっとろくでもないやつが後釜に座るだけだ。

 そう選挙民が判断したにすぎないのだろう、と私は思っている。

 

 

 ここまで書いて、いいオチが思い浮かばなかった私は、chatGPTに意見を求めた。

 すると彼は、即座に以下のような提案をくれた。

 

「そろそろ“政治そのもの”を見直す時期かもしれない。でも、たぶんそんな未来も遠い。だから今日も、私は政治に期待しない生活を続けていくことにする。」

 

 私を代弁してくれるきみが、代わりに政治もやってくれないかな。

 たぶん凡百の政治家より、AIのほうがナンボかマシだろうから。

 

 

 私は『スポンジ・ボブ』が好きだ。

 最近、世界史や人類史の研究を深めていて疲労した脳に、この能天気なアニメはちょうどいい。

 

 その日本語版の声優・松野太紀さんが亡くなった。

 ご冥福をお祈りしたい。

 

 彼が作品に当てた声は、これからもずっと聴きつづけることができる。

 しかし彼が、新たに声を当てることは二度とない。

 

 

 キャラクターは永遠だが、声優は人間なので当然死ぬ。

 作品は永遠だが、作家は死ぬのと同じことだ。

 

 『ドラえもん』の声優といえば、私の世代では大山のぶ代さんだったが、こちらも最近亡くなった。

 だいぶ以前に声優としては交代しているのだが、当時はかなりの批判があったように思う。

 

 亡くなって交代するのはしかたないとしても、生前に交代するということに違和感が強かったからだろう。

 ドラえもんは大山のぶ代以外にありえない、という「思い入れ」の叫びも根強かったように思う。

 

 理解できなくもないが、私の場合、たまたま観たとき声優が代わっていることに気づいても、とくに違和感なく受け入れていた。

 よっぽど下手なキャスティングだったら苦言も述べるが、相手もプロなのだから、そんなことはあまりない。

 

 プロとして当然、満たすべきクオリティは満たされてしかるべきだ。

 言い換えれば、その水準を欠くようになったら、自ら「身を引く」決断が重要になる。

 

 晩節を汚した声優や、老害あつかいされる作家もいる。

 人生最後に選べるプライドは、まさにその「引き際」ではないだろうか。

 

 

 

 さて、『スポンジ・ボブ』と並んで、私が脳の休養として愛聴しているのが「落語」だ。

 とくにプロたちの頂点である「名人」の演じる話芸は、いつ聴いてもすばらしい。

 

 一時、すべての古典落語を聴き尽くすことを目指していた時期があり、とくにめずらしい噺をもっている圓生(江戸落語)や米朝(上方落語)を好んで聴いていた。

 いまは、ふつうに聴いているだけだが、やはり志ん生は何度聴いても別格だ。

 

 とはいえ、いずれも亡くなった名人であり、音源も限られる。

 ただ聴くのにも飽きてきたので、最近、ちょっとしたゲームをするようになった。

 

 再生リストをランダム再生し、演者、演目、サゲなどを当てる。

 画面は見ず、「出囃子」で演者を予測するところからスタートだ。

 

 正直これは、ほとんど当たらない。

 一丁入り、正札付き、三下り羯鼓あたりならわかるが、基本的に鳴り物にはあまり興味がないのだ。

 

 演者が確定したら、つぎは「枕」。

 噺家にもよるが、演目に関係のある枕の場合、噺にはいる以前に演目が予測できる。

 

 たとえば年末らしい雰囲気なら『芝浜』や『掛取り』、祭りの話なら『初天神』や『佃祭り』、病院や健康の話をはじめたら『夏の医者』や『犬の目』など。

 ただし、まったく関係ない枕も多いので、当たることは多くない。

 

 いよいよ噺がはじまったら、すなおに愉しむ。

 『死神』や『皿屋敷』など、多様なサゲや演者ごとの色付けが濃い噺は、好き嫌いが分かれるがそれも味だ。

 

 聞き覚えのない噺は脳が喜ぶし、知っている噺でも川柳や都都逸などの細部に注目すると、新たな発見がある。

 聞き飽きたような噺でも、展開や結末を先回りすることで最後まで脳を刺激する。

 

 聴くのはほとんど古典落語で、新作はあまり聴かない。

 知らない噺はゲームにならないこともあるが、私自身に新作に手を出せるほどの準備ができていないからでもある。

 

 最近は六代目の円楽さんや歌丸さんをよく聴くようになった。

 亡き名人たちの音源は、人類の宝だと思う。

 

 

 人間は死んでも、その生み出したものは残せる。

 圓生は芸の上ではたしかに名人だが、人の上に立つ人間としてはどうだったか、という疑義もある(落語協会分裂騒動など)。

 

 その意味で、死者であればこれ以上、スキャンダルはありえない。

 人間性や行動にがっかりさせられることもなく、純粋に芸だけを愉しめばよい。

 

 逆に「生きた伝説」として、最高の「引き際」だなと思うのは、タモリさんだ。

 すこしずつ番組出演を減らしていき、いまは無理のない範囲で静かに仕事をしている印象が強い。

 

 たまたま『ブラタモリ』を観たところ、ナレーションが代わっていた。

 違和感をおぼえたのは一瞬で、すぐに受け入れた。

 

 私が注目しているのは「内容」であり、その「伝え方」は重要ではない……とまでは言わないが、しょせん二次的な問題だ。

 できれば滑舌のいいアナウンサーにしてもらいたいくらいだが、それでは「浮世の義理」が果たせないのだろう。

 

 すこしだけネットの書き込みを見たところ、あいかわらず「批判」が多かった。

 ブラタモリといえば草彅剛だとか井上陽水だとか、そのあたりに絡む内容がほとんどだった。

 

 

 顧みれば、声優の交代においてしばしばくりかえされている事態だ。

 たしかに「声のイメージ」は、かなり重要ではあるだろう。

 

 もちろん、なにを重視して番組を視聴するかは、個人が決めればいいことだ。

 あらゆる視点からデータの価値が見極められるのが、これからのAI時代だと思う。