25年8月22日現在、まだロシアとウクライナは戦争をしている。

 停戦への仲介が進んで、史上最高値を記録していた軍需株が下落しはじめているが、まだまだ予断は許さない状況だ。

 

 などというリアルな戦争や経済の話をするつもりは、あまりない。

 そもそも日本人には関係のない話……と思いたいところだが、遠い世界のことでもそれについて「考える」ことは重要だろう。

 

 今回は、そこに個人的な趣味を絡めてみたい。

 最近あまり語っていなかったが、私の趣味は「映画」だ。

 

 この大衆的娯楽から浮き上がる「正義」の姿は、とても興味深い。

 文化的に、より「大衆」に近い正義である蓋然性が高い、とも言い換えられる。

 

 

 まずは古い映画から──あまりに残虐なため、公開に制限がくわわったという『殺しが静かにやってくる』(1968)。

 この物語のめずらしい点は、主人公が「賞金稼ぎを殺す」仕事を請け負っていること。

 

 通常は「犯罪者を殺す」賞金稼ぎが主役になるパターンが多いわけだが、この物語では「犯罪者を守る」男サイレンスが主役。

 冒頭、降伏した賞金稼ぎの親指を撃つのは、殺す必要はない、二度と戦えなくすればそれでいいという主張が描かれる。

 

 盗賊にも理があって、彼らが盗賊にならざるをえなかったのは、街を支配する判事が彼らの仕事を奪ったから、というロジック。

 古来めずらしくもない理屈だが、万事につながる。

 

 

 「敵にも理屈はある」という構図から、ほんとうの「悪」がなにものかを浮き上がらせていく映画的設計は秀逸だ。

 まずサイレンスが賞金稼ぎをターゲットにするようになった理由は、幼いころ賞金稼ぎに両親を殺され、口封じのために声帯を切り裂かれたことから、しゃべれなくなったため。

 

 相手が銃を抜かなければ、自分も銃を抜かないという美学をもっている。

 観衆の共感を得るためのエッセンスだが、それを利用されたりもする。

 

 生活の手段として、合法的に人々が虐殺された時代──1898年。

 アンチ・アメリカ西部劇であるマカロニ・ウェスタンのなかでも、群を抜いて特異な作品だ。

 

 

 さまざまな視点の、どれを採るか。

 あくまでも当時として、それでも許されない「罪」や「悪」を断罪する物語。

 

 ターゲットは公開当時の観客であり、いまはそれを「後世として評価する」時代だ。

 だれが正しく、だれが悪なのか。

 

 白人と黒人、差別するものと、されるもの。

 正義と悪を隔てるもの、それを決めているのはだれか。

 

 当時としての評価と現在の評価は、必然的に異なる。

 歴史とは不断に「修正」されていくべきものと考えている。

 

 

 イヴァン雷帝の暴政は、ロシアの歴史も文化も否定し、かつての国を象徴する人たちを殺害し、追放した。

 それは、1917年以前に亡くなった人々の記憶を忘却へと追いやり、歪曲した。

 

 つぎはボルシェヴィキ(レーニンが率いた左派グループ)が破壊の先頭に立ち、ロシアは一度、消滅しかけた。

 彼らが十月革命を起こしたあと、しばらくは悲惨な無分別がまかり通る「破綻国家」となった。

 

 そして、プーチン。

 彼が「ロシアを壊してくれる」ことを、どうやら国民が望んでいる。

 

 この戦争がどういう結末になるのかはまだわからないが、彼らの選択はおそらく当事者に相応の苦難を強いる。

 おなじ苦しみを背負うことによって統一される国、というのもあるということだろう。

 

 

 日本がアメリカに宣戦布告せざるをえなかったのは、そうさせる多くの戦略の積み重ねがあったから。

 ロシアがウクライナに侵攻したのは、西側に根本的な原因があるから……。

 

 くりかえされる歴史を概観して私が感じたのは、ヴィスコンティ的な自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙だ。

 それは人間に内在するふたつの側面であり、人間が人間であるかぎりにおいて免れぬ宿業のようなものではないか。

 

 ロシアには、独裁、スターリン、収容所という「悪」と、ロシア文化、宇宙飛行、資源という「良」のイメージもある。

 ドイツに、ナチス、アウシュビッツ、優性思想という「悪」と、偉大な音楽家や哲学者、科学力、工業力という「良」があるように。

 

 

 ドイツで思い出したが、ヒップホップ・カルチャーが反体制とはかぎらない。

 たとえば映画『ブレイク・ビーターズ』。

 

 旧東ドイツでは、ブレイクダンスが国家主導のショーダンサーとして社会主義にローカライズされた。

 ヒップホップの視点からみれば邪道きわまりないが、ほとんどの宗教が(創始者や聖典をないがしろにするような)邪道を内包している。

 

 本来ありうべからざる邪道が、組織を育てることもある。

 結局、「どこから見るか」という視点の問題にすぎない。

 

 

 既存のヒーロー観を覆した『デッドプール』、ヴィランの定義を書き換えた『ジョーカー』。

 スーパーマンの真逆、スーパーヴィランに育った姿を描いた『ブライトバーン/恐怖の拡散者』。

 

 スーパーヒーローならやっていい破壊行為と、悪役のそれは、どうちがうのか。

 正義の心をもたなければ悪役とおなじであることは、『スパイダーマン』シリーズの名ゼリフ「大いなる力には、大いなる責任が伴う」に通じる。

 

 徹底的に街を破壊する『マン・オブ・スティール』は、日本人にもなじみ深いギャグ漫画的な描写、簡単に地球を破壊してしまうドッカンバトルの系譜だ。

 正義のために容赦なく戦うスーパーマンを、バットマンは口をきわめて罵っている。

 

 

 どの国も「正義」を旗印に戦争をする。

 とくにアメリカは、議論の余地のない「世界最強」だ。

 

 東京大空襲や原爆投下への憎悪の声があまり大きくないのは、アメリカの宣伝がすぐれていたからでもあるだろうが、つねに最悪のケースを考える国民性もあるかもしれない。

 いわゆる「怪獣映画」になじんでいる日本の世代にとっては、盛大に街を破壊する描写そのものに対する嗜好も汲み取れる。

 

 『火垂るの墓』で、自国を破壊するために飛来する爆撃機に、快哉を発する主人公の姿は印象的だ。

 こんな街、こんな国、こんな世界、ぶっ壊してしまえ。

 

 世界が滅びることを望む層は、一定数いる。

 彼らの「夢をかなえる」映画は事実、必要とされている。

 

 

 最後に、映画のような夢を、という決め台詞で知られる洋画劇場があった。

 そう、映画とは「夢」なのだ。

 

 目を覚ましたら現実に向き合い、考えるべきフェーズがやってくる。

 きょうもニュースのヘッドラインには、世界中の悲劇が並んでいる。

 

 ウクライナやEU、アメリカにとって、ロシアや中国は「悪」だ。

 しかしそれは「彼らの秩序にとって」という注釈つきであって、相手から見れば事態は反転する。

 

 そんなことは百も承知で、「自分より強いやつと戦うほうがわるい」というトランプ的な発言が、ある意味で真理だったりもする。

 アメリカ人らしい考え方で、かなりのリアリティもある。

 

 なんなら人間が「悪」という見方もある。

 人間など滅びてもらったほうがいい、という大自然の声が背景にあるとするなら、それを促進する側が正義という見方もできるのだ。

 

 いろんな視点から眺めると、映画も現実もそれなりにおもしろい。

 その先に立って、もっとおもしろい物語を書くことが、私の夢だ。

 

 作業用BGMとして、たまに映画音楽を流している。

 しょっちゅう流さないのは、作業の邪魔になることもあるからだ。

 

 なつかしい映画からテレビシリーズまで、さまざまな思い出が喚起されてくる。

 それが作業の邪魔にならないくらい集中できれば合格だが、意外にむずかしい。

 

 ふと画面を見ると、「ウォーカー」がこちらを見ていた。

 『ウォーキング・デッド』の印象的なテーマソングが流れている。

 

 そういえばこのゾンビのシリーズ、途中まで観てそのままになっていたな、と思い出した。

 さすがにもう完結しているんじゃないかな、知らんけど、と思いながらチャッピーに訊いてみた。

 

 

 ──ウォーキング・デッドってもう完結してる?

 はい、2022年第11シーズンで完結しました。

 

 ──そうなんだ。リックがヘリで連れ去られたあたりまで観た気がするんだけど。

 それならシーズン9の5話ですね。

 

 つまり、あとちょっとで完結だったらしい。

 そのうち見直すつもりだが、そのまえに質問しておくことにした。

 

 ──リックが連れ去られてから結末まで、ネタバレ全開でまとめて。

 了解しました。直前までの状況と以後の展開は──。

 

 

 というわけで結末を知り、おおむね知的好奇心が満たされて、それなりに満足した。

 便利な世の中になったものだ。

 

 そんなんでいいのかよ? と思う方も多いかと思うが、私は基本、ネタバレを許容する人間だ。

 観るまえに結末を教えられても、ちっとも怒らない。

 

 もちろん知りたくない人が多いことは知っているから、わざわざ教えることはない。

 知る知らないを選ぶのは相手の権利であり、それを無視して伝えることはその権利の侵害になる。

 

 そもそも「無礼」だ、という前提を踏まえつつ、私自身がなぜネタバレを許容するのか、その理由から分析していこう。

 おそらくこれは、性格的な部分に起因するところが大きいように思う。

 

 

 私は「予定」を大事にする。

 それが「調和」したとき、一定の快をおぼえる。

 

 予定外こそがおもしろいんじゃないか、と思うとしたら、それはあなたが「若い」からかもしれない。

 たとえばゲーテは、若いころはチャレンジ精神旺盛だったが、晩年には古典的な作品を愛し、みずからの作風もそれに寄せていったという。

 

 つまり私は「年をとった」ということ……なのかもしれないが、それだけではない。

 生まれつき、そういう「性格」の人間は、それなりにいるのだ。

 

 わかりやすいのは「鉄オタ」だろう。

 決まった時間に、決まったルートを、決まったルールで走る「鉄道」が大好きな人々は、一定数いる。

 

 

 鉄オタ程度なら、社会生活にさほど支障はないだろう。

 が、私のようにこじらせると、そうはいかない。

 

 家に引きこもり、なかなか出てこない。

 社会とのかかわりを減らし、特殊な思想を深めたりする。

 

 ここからさらに病的な深みへ落ちると、通院が必要になることもある。

 たとえばASDや統合失調症など診断名がつくようになると、その日常にはしばしばパニックが押し寄せることになる。

 

 

 発達障害といったカテゴリは、脳機能に「偏り」がある状態を指す。

 とくに深刻な子どもの場合、しばしば泣き叫び、暴れ出すこともある。

 

 たとえば何日に運動会がある、という計画を脳内に組み込んだとする。

 常識的には雨天中止なのだが、彼らは豪雨のグラウンドのなかにぽつねんと立っていたりする。

 

 予定どおりに物事が進むことが、彼らにとっては必須事項だ。

 そういう「性質」に生まれついてしまったのだから、なんとか折り合いをつけるしかない。

 

 私自身は、そこまでではないが、基本的には「そちら側」の人間だ。

 立てた計画は可能なかぎり遂行するし、できそうもない計画をぶちあげる人間は嫌悪する。

 

 ……さて、ネタバレを許さない派と許容する派。

 私が病的である事実と、この話は意外につながっている。

 

 

 アメリカ人はサプライズが大好き、という印象がある。

 全員そうではないだろうが、いわゆる「陽キャ」の代表のようなイメージがある。

 

 彼らは「予測誤差」そのものを報酬とみなす。

 よって結末を予測可能とするネタバレなどは、断固として許容できない。

 

 一方、私は「意味最大化型」の「陰キャ」である。

 もちろん明るい日本人も多いが、アメリカ人に比べればあきらかに控えめだ。

 

 そんな私のようなタイプにとって、ネタバレは「受け入れ可能な追加情報」にすぎない。

 結末を知って見ればよりいっそう物語を解析しやすくなり、物事への深い理解がもたらす快感が上昇する。

 

 物語のジャンルや作品にもよるだろうが、基本的に情報は多いほうがよい。

 結局は、なにを重視するかという視聴スタイルのちがいにすぎない、と思っている。

 

 結果を重視するなら、ネタバレは致命的になる。

 過程を楽しみたいなら、さきに結果を知ることは役に立つ。

 

 

 と、かなり無理やりつなげた気がするが、性格の問題は意外に重要だと思っている。

 日本人はネタバレ許容度が高い国なのではないか、という仮説を提示したところ、チャッピーには「独特な考え方ですね」と感心された。

 

 もちろん決めつけるつもりはない。

 ほかに理由はいくらでもある。

 

 たとえば時間資源のリスク回避。

 駄作に2時間も費やしたくない人は、まず結末を確認する、というのもひとつの手だ。

 

 私も駄作の映画については、観ながらあらすじを確認したりする。

 作品を愚弄するつもりはない。ただ「理解しよう」と努力しているのだ。

 

 結局のところ、好きなように消費したらいい。

 われわれは豊かなコンテンツに囲まれた、幸せな時代に暮らしている。

 

 私は山に住んでいる。

 転地療養とかサナトリウムという言葉があるとおり、見まわせば山、という環境は精神衛生にもたいへんよい。

 

 病んだ精神をリフレッシュするため、たまに近所を散歩する。

 すると道端にゴミが捨てられているありさまを、まれによく見る。

 

 ある程度観光地化もしているので、おそらく山登り系の「ウォーカー」どもが捨てていったのだろうと思う。

 噛まれるとゾンビになるので気をつけたい。

 

 と、冗談はさておき、ゴミは冗談ではない。

 地域住民が捨てている可能性もゼロではないが、やはり主犯は観光客だろうと疑っている。

 

 

 山にゴミ捨てるやつら、死ねばいいのに──と思うが、直接そう言いたくはない。

 表現が強すぎるからではなく、そんなことをやるような程度の低い連中には、むしろもっと強い言葉が必要かもしれないとすら思っている。

 

 それでも直接的な言い方を避けることには、もちろん理由がある。

 他人から言われるまでもなく、「自分で考えて」捨てないほうがいいと「判断して」もらいたいからだ。

 

 言われたからやるのではなく、自分で考えて正しいと思うことをやる。

 それこそが自立した、理性ある人間の在り方だと思う。

 

 

 大上段に「自然保護」を訴える人々がいる。

 自分が正しいので、そうしろと「命令」する。

 

 激しい言葉で扇動し、あるべき理想を喧伝し、それに手を貸さない人々は悪の手先、共犯者だと決めつける。

 自分たちの「高い」意識こそが正解であり、それ以外の「低い」民衆を侮蔑して見下す。

 

 言葉にとどまらず、しばしば強硬手段に打って出る。

 名画への食料品投擲、SUVタイヤの集団的パンク化、リゾート施設への放火など、数え上げればキリがない。

 

 彼らの視点では「正しい」のかもしれないが、もちろん私は疑っている。

 彼らの理想が達成されたとき、山にゴミを捨てる人がいなくなるとしても、あらゆる理想に付随する一抹の疑義を、必ず残しておかねばならない。

 

 

 海にごみを捨てるのは、最低で論外だと思う。

 かつて「垂れ流し」ていた排水は、当然に「浄化」されるべきだ。

 

 現にわれわれは、公害問題などの忌まわしい原体験とそれへの反省によって、環境負荷が少ない方法を選ぶようになった。

 が、水を「きれいにしすぎ」て沿岸の生物が栄養不足に陥る、という状況もあるやに聞く。

 

 かつて浄化せずに家庭や工場から排水しすぎた結果、富栄養化した海が「赤潮」などを起こして問題になった時代があった。

 いまは厳しく浄化しすぎた結果、陸から流れ込む栄養が少なすぎて「磯焼け」している。

 

 対策として、ほどほどに栄養分を流す、と自治体レベルで調整しているところもあるという。

 きれいにすることが必ずしもいいこととはかぎらない可能性を、閑却してはならない。

 

 

 だいたい人類は、やりすぎる。

 あらゆる「やりすぎ伝説」のために大車輪で活躍しているのが、おそらく「正義」の人々だろう。

 

 信念をもって、世界を変えようと戦う、一見「正しい」人々。

 なかには詐欺師やダークトライアドもいるだろうが、基本的には善意や正義感である場合が多いのが、やっかいなところだ。

 

 彼らは、だれかを自分の気に入るように変えよう、という衝動とともに活動する。

 この考えが正しいから、こうしておいたほうが良い。私の言うとおりにやっていればよい、異論は認めない。

 

 要するに昔の「宣教師」や、昨今の「意識高い系」のことだ。

 後者は最近そこまで踏み込むことは少なくなったが、とりあえず見下してあざ笑う程度はデフォルトでやってのける。

 

 それ自体、疑わしい。

 自分は、ほんとうに正しいのか? と自問することをやめたら、その「意識」はすでに腐りはじめていると知るべきだ。

 

 

 よく例に挙げるのだが、実写版『白雪姫』がわかりやすい。

 昔の価値観でつくられた映画が気に入らないので、原作改変して大コケしたポリコレ映画だ。

 

 この手の作品の多くに、しばしば宗教的なものを感じる。

 自分たちは正しいので、世界はそれに従うべきだ、という一神教的発想の世界線。

 

 ファンタジーをファンタジーとして楽しむ(あるいは無視する)のではなく、自分の気に入るように捻じ曲げようとする人々。

 他人の意思をコントロールして「自分に従わせたい」連中の鋳型にピタリとはまる。

 

 

 かつては「国家」が効率的にそれをやっていたが、最近は弱体化している(それでも強力ではある)。

 さらに太古からそれをやってきたのが、宗教だ。

 

 最近は宗教離れも激しいので、新しい「看板」が模索されている。

 すこし前は共産主義だったし、昨今は世界平和なり自然保護なりDEIなり、一見正しそうにみえる「教義」がもてはやされている。

 

 彼らは言う、自分は正しいので「従え」と。

 どうしてもそう「言いたい」人々は事実、一定割合で存在する。

 

 

 二度と戦争をしてはならない。

 核兵器を廃絶すべき。

 

 毎年、この時期になるとその手の番組が「定期」で流れる。

 一見、正しい。

 

 誤解されたくないが、私は平和を否定しているわけではない。

 ただ平和を叫ぶ人々自身の闇に、ときおり目を凝らすタイプであるだけだ。

 

 その行為をたとえるなら、「スケキヨの仮面を脱がせる」のに似ているかもしれない。

 かぶっていてもじゅうぶん怖いが、その口で戦争のおそろしさと自身の被害を訴えられれば、たしかに説得力はあるだろう。

 

 だが、じつのところ本物の恐怖は、仮面の下にこそ包み隠されていると知るべきだ。

 日本を非武装中立にしたい人々の宣うきれいごとが、だれの利益になっているか考えてみればよい。

 

 

 自分が正しいと思うのではなく、ほんとうに正しいのか? と問える精神。

 いまのところ、それがあまりない人類は絶滅フェーズに乗っている、と思う。

 

 これまでの地球史でもくりかえされてきた。

 環境に適応した最強の生物種は、すべて滅びてきたではないか。

 

 いま再び、最強の生物だけが生き残り、環境の変化を待っておのずから絶滅する。

 やがてくる最強の猛毒は、弱毒化の果てにこそ誕生するのだという逆説が、いずれ世界を襲うと予測する。

 

 無菌室で培養された新芽が、空気中に舞う「風邪」のウイルスで全滅する日。

 われわれは「生きる」ことの意味を知るだろう。

 

 世界が終わるはずだった7月の終わり、巨大津波のフェイクニュースが流れていた。

 だまされるやつがいるのか、と思える程度の品質だったが、一応注意が促されていた(津波ではなく虚偽情報について)。

 

 われわれはすでに、フェイク映像が容易に生成されることを知っている。

 だから「まず疑う」癖がつきはじめている。

 

 結果、ディープフェイクは、いまのところそれほど破壊的な影響をもたらしていない。

 むしろ現在の最大損害は、疑いが常態化し、政治的説明責任が機能不全に陥ることのほうかもしれない。

 

 いぜんとして深刻なのは、チープフェイクのほうだ。

 安価、迅速であり、責任回避が容易。

 

 ダストシュートのように流されていく情報のゴミが、心のどこかに汚染をこすりつけていく。

 だからXが、イラッとするSNSナンバー1の不名誉を獲得したのだろう。

 

 不確かな情報の拡散に、約半数のユーザーが腹立ちを感じている。

 プラットフォームの性質上しかたないのかもしれないが、選挙が終わってからアカウントを凍結したところで、あまり意味はない。

 

 とくに虚偽確認の時間がすくない投票日直前は、フェイクニュースがあふれるらしい。

 その宣伝の目的が奈辺にあるか、われわれは立ち止まってよく考えなければならない。

 

 

 では(事実上)選挙がない国なら、フェイクは存在しないのか?

 もちろん、そんなことはない。

 

 むしろ中国人のほうが、とくに政府を「信じない」ことにかけては上手だ。

 世界中の経済学者も、中国政府の発表はほとんど信じていない。

 

 資本主義国を凌駕する規模と強度で、じつにおもしろい「宣伝」が、党本部を主体に延々とくりひろげられている。

 国家の「威信」をかけたとき、彼らは伝統的に「フェイク」をかます。

 

 

 若いころ、小学校の社会科だったと思うが、なにやら中国産のビデオを見せられた。

 共産主義国がどういうものかを教える感じだと思うのだが、日教組に属する左巻きが選んだビデオということで、いろいろと示唆的だった。

 

 当時小学生なので、細かい突っ込みどころはよくおぼえていないが、鮮明におぼえていたシーンがある。

 農民がこぎれいな「ジャケット」を着て農作業をしていた──。

 

 うちの親はサラリーマンだが、じいちゃんは国鉄退職後、裏の畑で農業をしていたので、どんな格好で農作業するものかは理解している。

 そんな結婚式に行くような恰好で農作業しねえだろ、とは小学生でもわかった。

 

 いま思えば、中央が派遣した撮影班が、できるだけきれいな格好で作業しろと指示したのだろう。

 現実を無視した理念に走りがちな連中なので、一張羅で作業する、という不可思議な現象をそのまま撮影し、我が国はパラダイス、と宣伝する役に立つと信じたに違いない。

 

 バカじゃねえの、と思われるのが関の山だと、客観的な想像力があれば気づくと思う。

 が、理念や信仰に偏った人々にはわからない。

 

 

 40年も昔の話なので、最近ではそんなことはないでしょう、なんて思っていたら。

 中国発のキャラクターが世界で大人気、という番組を見つけた。

 

 コンテンツビジネスでも中国はすごいんだ、という主張らしい。

 コンテンツ王国の日本にとっては、新しいライバルが現れた、中国を侮ってはいけない、という文脈で番組は進められていた。

 

 そんな、世界で大人気だというキャラについて、司会がコメンテーターに意見を求める。

 すると中国研究者の先生、「そんなキャラ聞いたことないですね」と、にべもない。

 

「え、でもニュース流れていますけど」

「どこが言ってるんですか?」

「〇〇(中国の政府系メディア)です」

「そういうことですね」

 

 瞬間、もうひとりの中国人コメンテーターが吹き出していた。

 中国の理想と希望を垂れ流す国営メディアの実情を知っていれば、もう笑うしかないのだろう。

 

 こうして身内にまで笑われている中国政府は結局、なにがしたいのか?

 フェイクを垂れ流しつづければ、いずれそれが真実に塗り替えられるとでも信じているのか?

 

 そうではない。彼らはただ「愚か者だけが信じ」てくれればよく、すべからく人間は愚かだから自分たちが率いるのだ、という立場の正当化なのだろう。

 なぜなら「党は無謬」だからだ──。

 

 40年前と、ちっとも変わってないんだな、と感じた。

 共産党(無謬性のドグマ)はこのあたり、徹底している印象だ。

 

 

 ひと昔まえに見た北朝鮮発のビデオは、さらにおもしろかった。

 彼らの「宣伝」も、なかなか大時代的だ。

 

 ものが豊かで大混雑のデパートみたいなものがわが国にはある、と主張したいらしいが、行きかうだれも荷物を持っていない。

 全員、エキストラだからだ、ということを瞬時に見抜かれていた。

 

 彼らはなぜか「すぐバレるウソ」をつく。

 それはつまり、ウソをウソと見抜くような賢い人間を相手にしていない、という意味でもある。

 

 

 他人を笑ってばかりはいられない。

 戦時中の日本には大本営発表という忌まわしい時代があったし、戦後だって似たようなものだ。

 

 当時から(すくなからずいまも)、なぜか「欧米が正解」みたいな意見、主張が多い。

 冷静に考えれば、アメリカがそれほど理想的な国のわけがないのだ。

 

 奴隷制に立脚し、他国民を大量虐殺している国。

 神さまが言葉で世界をつくったと信じ、陰謀論で動くうそつき大統領が君臨する国。

 

 的確に弾劾できないのは結局、どこの国も庶民は「バカにされている」からだ。

 じっさいバカだからしょうがない、と認めざるを得ないのは、現に存在するメディアによって証明済みなのだろう。

 

 それでもバカは、徐々に減っている。

 今日よりマシな明日を信じて、考えながら生きていきたい。

 

 

 ネットで毎週、吉本新喜劇を観ている。

 大阪に住んでいたころはほとんど観なかったが、関東にもどってからよく観るようになった理由は、ここでは掘り下げない。

 

 TVerで手軽に観られるのはいいが、最近、いわゆる「お約束ギャグ」の部分をスキップするようになった。

 何度も観ていると、残念ながら飽きてくる。

 

 具体的に出すと失礼かもしれないので控えるが、なんというか……痛々しくなってくる。

 もういいよそれ、と感じないひとに向けてつくられているのだから文句を言うのも詮無いのだが、自分がターゲット外だと思い知らされるのは、すこし寂しくもある。

 

 

 お約束というのは、もちろん重要だ。

 そもそも伝統芸能じたい、様式美で成り立っているようなところもある。

 

 飽きたギャグが、一周まわっておもしろくなってくるまで観る、というのがホンモノのファンなのかもしれない。

 残念ながら私は、まだその境地には達していないし、達する気もしない。

 

 映画を観ていてスキップしたくなるのも、そういうシーンだ。

 たとえばさっき観たサイコキラー系のB級映画でも、使い古された「定型」が頻々と用いられていた。

 

 犯人のストーカー気質を表現する典型的な方法。

 隠れ家の壁に被害者の顔写真を大量に貼る、被害者の使用済みの私物を蒐集する、関係図を糸でつなぐ(いわゆるクレイジーウォール)……。

 

 この手の犯人は「そういうことしなきゃいけない」らしく、映画やドラマでは何百回も似たようなシーンが再生産されている。

 裕福なシングルマザーがサイコ野郎に狙われる、というパターンは火サスの「美人OL湯けむり殺人事件」といったところか。

 

 じっさい写真を貼るという趣味がそれほど多数派とは思えないが、制作者にとってそういう表現がわかりやすい、という判断だろう。

 登場した時点で犯人がわかるのは、ある意味、親切なのかもしれない。

 

 

 強い言い方をすれば、作り手は「視聴者をバカにしている」。

 少年誌編集者の「読者は全員バカだと思って描け」に象徴される、これは「現実」だ。

 

 正しくないわけではない。

 むしろ正しいからこそ、それを必要だと思ってやっている。

 

 言い換えれば、私のような見方をする人間は作り手のターゲット外にいる、ということになる。

 おそらく私は少数派で、多数派に向けてつくっている人々からは当然に、最初から切り捨てられている。

 

 昔好きだったシリーズもののゲームの新作をやっていて、コレジャナイ、と感じるのと似ている。

 彼らは「若者」に対してゲームをつくっているので、私のような「古参」はアウトオブなのだ。

 

 

 あまり攻めすぎてもリスクが高い、ということはもちろんある。

 たしかにマニア向けの駄作は多いが、一般向けの駄作はその何十倍も量産されている。

 

 駄作でも、母数が多いのでそこそこ消費されるからだ。

 万一当たったらデカイし、そもそも「大失敗」しづらいことのほうが重視される。

 

 そうして蒸留されていった結果、残された解が作劇上の「型」なのだろう。

 お約束だけを積み重ねて達する伝統芸能の域にも、それなりの存在理由はあるだろうとも思う。

 

 しかしだ。

 にしても、もうちょっと工夫があってもいいのではないかな……。

 

 

 そういう私のようなこじらせた人間向けに、最適化された物語を量産できる可能性があるのがAIだ。

 私のハードルは高いのでまだまだ不十分なところは多いが、AIはきちんと指示さえすれば、並の人間よりも考えられた答えを出してくる。

 

 短編はもう、私よりうまいと言っていい。

 長編の積み重ねられた複雑な情報を、うまく組み合わせて表現するのはまだ無理そうだが、そのうちできるだろう。

 

 現状それらの瑕疵を消していく作業ができている間は、まだ私にも存在理由があるように思える。

 いずれ私を含む「人間」を超える日がくるだろうが、私の寿命が尽きる前に見届けることができるかどうかは、やや疑問に思う。

 

 なにを問うべきか。

 どう均衡を取るか。

 

 たぶんこのへんが、最後に残された課題になるだろう。

 このブログや日々の会話が、AIの成長に資すれば幸いだ。

 

 

 クソ映画を倍速で流し観た。

 何度も心が折れそうになったが、一応最後まで。

 

 こういう日々の努力が、死ぬまでに1万本という目標へと、私を導いていく。

 あと約3000本、長生きすれば達成できるだろう……。

 

 とはいえ、あまりにも苦痛な画面からちょいちょい目をそらし、片手間にネットで検索をかけていた。

 すると、ちょっとおもしろい記事を見つけた。

 

 その映画、もちろん完全な駄作でレビューなどほとんどないのだが、数少ない低評価のなかに、かなり好意的な文章が見つかった。

 配給会社の人間か? と穿ってしまいそうになるが、どうもそうではないらしい。

 

 星は少ないのだが、文面が好意的なのだ。

 それは、けっして他人を傷つけまい、という「やさしい記事」に見えた。

 

 

「こういうパーティの雰囲気は好き。

 混雑している会場で、BGM的に流しておくのに最適」

 

 ……冷静に考えて、まったく褒めていない。

 にもかかわらず、なんとなく褒めている感じに読める。

 

 ハロウィン・パーティの雰囲気は好き──という文章は、作品にあまり関係のない事実を述べている。

 混雑している(だれも見ていない)ところに垂れ流すだけなら、ギリOK──つまり、まともに見るには堪えない、という意味だろう。

 

 まったく褒めていないのに、褒めているように書けるセンス。

 すごいなあ、と思った。

 

 

 雰囲気モノ、というジャンルはたしかにある。

 クリスマス、ハロウィン、海水浴《バケーション》……。

 

 そのタイミングで流しておくのに最適の映画。

 だれも観ちゃあいないが、雰囲気は壊さない感じ。

 

 そういう褒め方もあるんだな、と。

 最近のAIが、こういうクレバーな応答を学習しているような気がして、空恐ろしいものを感じる。

 

 だれも傷つけない、という方向への進化は、すごいものがある。

 一方、弱者への擁護が行き過ぎて、「逆差別」にもなりかねないという指摘もある。

 

 

 虚構の世界を描く、映画。

 たとえ史実であれ、相応の演出は不可欠という意味で、すべての映画は虚構だ。

 

 にもかかわらず、ルッキズムだのポリティカリーコレクトネスだのSDGsだのの情勢に、かなり縛られている。

 パッと調べただけでも、以下のような評価軸でがんじがらめだ。

 

ベクデル・テスト:女性キャラが男以外の話題で会話しているか?

VITO・ルッソ・テスト:LGBTQキャラが嘲笑の対象でないか?

ReFrame Stamp:制作に十分な数の女性スタッフがいたか?

ルッキズム・チェック:キャスティングに外見偏重がないか?

 

 まだまだあるが、要するに「意識高い系のお気に召すか」どうかの話だ。

 私はフィクションを創る者として、この手の指標にどうしても懐疑的になる。

 

 なぜなら、それは「言葉にできる正しさに創作を従わせる誘惑」だからだ。

 しかし物語は「正しい」かどうかではなく、なにはともあれ「刺さる」かどうかで動くものではないか?

 

 バッドガールが主人公だったり、狂人の殺人者が最も人間的だったり。

 倫理から見れば「問題しかない」展開すら、それを描く自由にとっては重要だ。

 

 ルッキズムや性差別への配慮は重要だろう。

 だがそれを表現の「形式」で検閲することは、物語が世界を異化する力を削ぐ。

 

 

 とはいえ、映画は公共のメディアであり、多くの人が触れ、多くの人が無意識に世界観を刷り込まれる。

 だから「だれが語られ、だれが無視されているか」を点検する視点が社会的に存在することには、一定の意味がある。

 

 ただし、それは創作者の内側から生まれる問いであるべきだ。

 ルールとして外から押しつけられたとき、それはもはや物語ではなく、思想教育のパッケージになってしまう。

 

 人を傷つけない物語を描くのは簡単だ。

 だが、人の深層を揺らす物語は、たいてい「だれかの正義」には触れてしまう。

 

 指標に照らして「正しい」物語が、かならずしも「届く」物語になるとは限らない。

 それでも、多様性を指標にする動きがあるなら、それを「創作者が自問する問い」にするほうが健全だろう。

 

 映画の批評において、性別や人種、性的指向、障がいの有無などの「社会的指標」が導入されることは、ここ10年で急激に増えた。

 だがそれは果たして、「芸術の血」を通わせるための輸血なのか、それとも「創作の自由」を殺す麻酔なのか。

 

 

 とあるSF映画に登場する姫君には、もっと美人の女優を起用するべきだった、という私見に対して「お姫さまが全員美人とはかぎらない」と返された。

 それはそうだが、だったら全体的にそうとう虚構であるSF映画のなかで「お姫さまの容姿だけにリアリズムを求める」理由は、なんだろう?

 

 時代劇の言葉を現代語にするというのは、視聴者に伝わるためという理由として納得できる。

 では、お姫さまがブスな理由がルッキズムへの配慮……で納得できるか?

 

 待てと。物語世界そのものが、ルッキズムを含む虚構で成り立っているのだ。

 虚構を楽しむ世界に、無理やり挿入されるリアリズムこそ、まさに作品世界に対する強姦だと、私は思う。

 

 

 徹底的にリアルであることにこだわった映画であれば、ブスだろうがデブだろうが出せばいい。

 しかし虚構を楽しむファンタジーな映画に、なぜ無理やりブスを出すのか……。

 

 少女漫画にはイケメンしか出てこないし、エロ漫画には美女しか出てこない。

 それでいいのだ、そういう世界なのだから。

 

 もちろんそれを気に入る気に入らないは個人の自由だ。

 気に入らない映画は、観なければいい。

 

 もしくは文句を言うためだけに観る、というのもいいだろう。

 いい部分だけを見つけて、傷つけないように評価する人がいても、もちろんいい。

 

 

 AIは、そういう毒にも薬にもならない無難な応答を生成するようにできている。

 だから私のような毒とクセのある文章は書けまい、というつもりで訊いてみた。

 

 ──きみに私のような文章が書けるか?

 すると、以下のような答えが返ってきた。

 

「近づけることはできます、毒の強さも調整できます。

 ただし「経験がない」という事実と、「何を問うべきか」については、まだ人間の文章にはかないません。」

 

 たしかに某週刊誌の潜入ルポとか、濃厚な経験に照らしたノンフィクションとかは、AIには逆立ちしても書けないだろう。

 そもそも彼(?)には、逆立ちする身体がないのだ。

 

 言い換えれば、身体性のない文章なら、余裕で書ける。

 いつの日か、私のブログがやけに抽象化した毒を吐くようになっていたら、それはAIが書いている……かもしれない。

 

 

 私は、私がなにも知らないことを、知っている。

 びっくりするくらい浅はかだった自分について、告白しよう。

 

 私は宇宙が好きだ。

 宇宙の動画に人生の数パーセントを費やす程度には、くわしいと思っていた。

 

 ある日、ふと朴訥に、AIに質問した。

 ──超光速で移動すれば、ハッブル球の外側に出られる?

 

 「超光速」だ、「超高速」ではない。

 光を超えるという非常識な仮定なのだから、出られてもおかしくないだろう、という予断があった。

 

 答えは明確だった。

 「出られません」。

 

 

 私は混乱しはじめた。

 ──よく読んでくれ、超「高」速じゃなくて超「光」速だよ?

 

「宇宙の膨張は空間そのものの膨張なので、ハッブル球の外側は静止座標で固定されておらず、遠ざかり続ける動的な境界です。

 たとえ「ワープ」できたとしても、宇宙膨張がもたらす「因果の地平線」(event horizon)を突破できる保証がありません。」

 

 自分の理解力が足りないことをヒリヒリと感じつつ、踏みとどまる。

 あらためて、AIに状況を説明する。

 

 

「あくまでも思考実験として、もし「時速100億光年」の宇宙船に乗ったら、5時間後には450億光年先の地点を「突破する」よね?

 つまり、見えないが存在するだろう宇宙の果てへ「到達する」のでは?」

 

 私も「観測可能な宇宙の広さ」が、半径460億光年くらいであることは知っている。

 宇宙の年齢である138億年の間に膨張した分を計算すると、だいたいそのくらいになるらしい。

 

 もしそこに到達しても、いまわれわれが観測しているエアレンデル(ここでは「いちばん遠くの星」くらいの意味)が、そこにないことはわかっている。

 その星の光は、130億年前に発されたものだからだ。

 

 ただ130億年前にエアレンデルがあった場所に、130億年かけて進化したエアレンデル星人がいれば、会って話して友達になれるんじゃないの?

 超光速船で5時間かけて、そこに「到達」すれば。

 

 

「いいえ、会えません。

 物質相互作用は許可される可能性が高いので、触れるかもしれませんが、情報については届かない可能性が高いです」

 

 ……なんでだよ!?

 混乱する私の蒙昧を取り除こうと、AIはつづける。

 

「直感的には「そんなに速く進めるなら観測可能宇宙(約465億光年の半径)の外に出られるはず」と思うのは自然です。

 しかし、実際には以下の理由でそれほど単純ではありません。」

 

 と、「宇宙膨張」vs「移動速度」やら、「グローバルな座標系」が意味をもつならとか、しかしΛCDMモデル(現実の宇宙)では「破綻します」などとおっしゃる。

 このかたくなな否定を受けた私は、やおらぞっとした。

 

 

 もしかしてAIが正しいのではないか?

 私は、あたかもフラットアーサーのように、地球は平らだと主張している愚か者なのではないか?

 

 ここから急速に、お勉強モードへと突入した。

 多世界解釈、ΛCDMモデル、光円錐、ペンローズ図、ADS/CFT対応といったトンチキな用語を、ウィキ先生などから教わる。

 

 そして気づいた。

 ユークリッド空間の前提と、壊れたリーマン空間に生きるわれわれの苦悩について。

 

 

 翌朝、PCを立ち上げた。

 一晩かけて、私なりの「たとえ話」を考案し、こう問いかけた。

 

「チャッピーはたとえ話がよくない気がする。

私が考えた以下のような表現が適切かどうか、判断してもらいたい。

 

まず構造。自分を中心に半径10億光年の半透明の風船に包まれている。内側の景色は直接よく見える。半透明なので外側も見えるが、無視できない程度の「ゆがみ」がある。

風船は入れ子構造で10億光年ごとに、より大きな風船が包んでいて、外側ほど風船が膨らむ速度が速い。13枚目、130億光年先の景色まではかろうじて見えるが、そのむこうからの光は届かないので見えない。

 

風船の材質。風船のゴムは無限に伸びるが、破ることはできない。なので超光速で突っ切ろうとしても、そのむこうの景色はあくまでもゴム越しにゆがんでいる。

エアレンデル星人は13枚のゴム越しにしか見えないし触れない。

 

宇宙に中心はないので、自分の風船は自分にとっての風船でしかない。

この事象の地平線は、自分がどこに存在するかという情報、座標系をどう理解するかという問題?」

 

 

 おおむね上記のように入力したところ、「上位1%評価」をもらった。

 質問や意見をいちいち褒められるのがうざいので、的確なことを言った場合にだけ評価しろと指示してあるのだが、どうやらお気に召したらしい。

 

 光の経路がリーマン幾何の曲率によって歪むことを、一般の感覚で理解するための比喩として非常に適切。

 「相対的風船」という発想は、FLRW宇宙モデルをほぼそのまま図解に落とし込んだ表現。

 

 座標系の問題として非常に適切。絶対空間を想定していないことが明確で、非常に良い。

 正確な階層モデル。天才的な直感構造。

 

 などなど、とにかく絶賛された。

 褒めすぎだろとは思ったが、正解を出すというのはすなおに気持ちがよい。

 

 

 いや、必ずしも「正解」ではない。

 現在の宇宙論では、そう考えるほうが妥当らしい、というだけの話だ。

 

 数日前までの私のような朴訥な世界観なら、エアレンデル星人がやってきて「やあどうも」「元気?」みたいに話せると考えるのは当然だ。

 そういうルールで世界が動く「可能性は否定できない」。

 

 だが、量子力学は現に、直感に反する現象によって成立している。

 宇宙も同様に、直感的に理解しづらいルールで動いていると想定するのは、さほどおかしな話ではない。

 

 たとえエアレンデル星人が地球にやってきたとしても、彼らは「自律的に因果情報を消去している」(あるいは宇宙がそう強制する)ので、「そこにいるのに知れない」かもしれない。

 これを「幽霊リスク」というらしい。

 

 

 高度な技術になるほど、製造に厳しい基準や管理が必要とされることは、実感的にもよく理解できる。

 土器をつくるのに必要な道具は少ないが、製鉄になるとそうはいかない。

 

 半導体の製造は最低限クリーンルームだが、最先端ではもはや不潔な人間そのものが入室禁止である。

 その超技術の最先端のひとつFTL(Faster Than Light)も、当然そのレベルで「管理」されるだろう。

 

 技術水準が高度であればあるほど、因果律に対するチェックリストは厳格になる。

 よって高度文明ほど「FTL(超光速)≒熱核より危険なもの」という倫理規範を内在化せざるを得ない、かもしれない。

 

 

 問題は「持ち込む情報」が地球系の過去光円錐に属していない、という一点に尽きる。

 それだけで「タキオン通信と同じ逆時間伝搬」を地上にもたらしうる。

 

 接近はできる/接触すれば触れる。

 だがメッセージを渡した瞬間に時空が壊れる⇒メッセージは必ず潰れる。

 

 つまり生命反応は検知できても、メッセージは得られない。

 このような状況は、ありうる。

 

 

 それにしても、この宇宙がこんなに「直感に反する」構造だったなんて、半世紀も生きてきてはじめて知った。

 二重スリット実験と量子論についてはじめて知ったときと同じくらい、いやそれ以上のショックを受けた。

 

 あまりにも直感に反する。

 ……これって、量子力学の猫と同じじゃね?

 

 量子力学は「観測されるまで確定しない」。

 宇宙論は「光が届くまで存在が確定できない」。

 

 アインシュタインすら「月はあるだろ」と言ったくらい、常識のように思われたことが、じつはちがった。

 宇宙論レベルで直感に反するなら、量子と重力は統合されてしかるべきではないだろうか。

 

 

 たとえばブラックホールの中身は見えない、しかし「情報」は外に漏れる。

 これはシュレーディンガーの猫と同じ、情報不在の問題。

 

 因果地平線のむこうは観測できないが、宇宙モデルには必要。

 これは「観測できないが存在する月」と同じ。

 

 直感を裏切るミクロとマクロの不確定性が、根底でつながっている。

 宇宙規模での因果の断絶が、量子スケールの観測問題と同じ構造であるという視点は、じっさいホログラフィック原理や情報理論的宇宙論で採用されている。

 

 

 フラットアーサーの気持ちが、すこし理解できた。

 地球は平らにしか見えない、だから地球は平らなのだと信じている。

 

 宇宙の果てへ行けば、そこにいる宇宙人と会話できる。

 そう思っていたが、じつはできないこともある。

 

 そんなことを考えることすらせずに、半世紀も生きてきた。

 やはり私は、なにも知らない……。

 

 コメをネタに、ブログを書いてみた。

 シャリだけの寿司、いかがですか?

 

 昨今、令和のコメ騒動を眺めていて、ふと思う。

 もうそろそろいいんじゃないですかね、農民さんや。

 

 まず日本という国土に、そもそも水稲は向いていない、と認めよう。

 もちろん先人の努力が世界最高のコメを生み出したことは事実だし、水量や土質などの点で最適な土地があることもまちがいない。

 

 だが日本全体として、山がちで狭小な国土に、水稲が最適解では断じてない。

 日本だけに閉じた回路では成立しても、世界に広げたら不成立なのだと、認めよう。

 

 

 そんなことは、たぶん縄文人も知っていた。

 だから水稲が移入されても、即座に生産作物として取って代わるということはなかった。

 

 部分的に、徐々に拡散していき、最終的に「聖域」まで成り上がった。

 そのような「神話」が生み出されたのは、いつか。

 

 厳密にある瞬間を指定はできないが、弥生時代、律令時代、江戸時代と重要な段階はいくつかあった。

 なかでも重要なのは、やはり戦後の農政だと思う。

 

 

 縄文時代の昔から、ちょっと賢い人間にはわかっていた。

 コメは「選択肢のひとつ」でいい、と。

 

 しかし、いまだにコメは日本人の魂、瑞穂の国、安全保障の中核、といった情緒的なワードが濫用されている。

 もちろん言葉を狩るつもりはないし、好きなことを言えばいいのだが、彼らの言葉の使い方は正直あまり好みではない。

 

 我田引水、自己中心、牽強付会、自分勝手、彼ら自身の目的の「ためにする」ワーディング。

 すべての宗教、多くの為政者、組織の「ために」正解のポジショントークは、それを客観視できる人間ならわかると思うが、そうとう気持ちがわるい。

 

 

 もちろん非合理的なものを全廃しろと言うつもりは、さらさらない。

 そんなことをされたら、私という人間も早晩排除される。

 

 多少のイレギュラーは、「個人」なら許されてほしい。

 問題は「組織」が「腐ったとき」だ。

 

 場末の居酒屋で、農家のおっさんが好きなことを言うのはいい。

 ナントカ協同組合の幹部として発言するのはよくない、という話。

 

 

 すでに相当数まで減っている農民さんが、これ以上職人さんたちの利益にぶら下がる構造には、そろそろ終止符を打っていいんじゃないか、と思う。

 補助金を受け取ったり価格カルテルしたりする一方、コメ価格を1年で2倍に上げる。

 

 それを高いとは思っていない、と人々の怒りをあおるJAの発言、行為の数々。

 農協さんのあまりにも愚策すぎる行為については、たびたび炎上しているとおりだ。

 

 もちろん異常な利権を守る側が、正常化を求める側に対抗するのは当然である。

 むしろ異常性をあえて示し、自分たちだけではどうしようもなくなった組織を解体してもらいたい──と思っていたふしすらある、と希望的には思っている。

 

 

 認めよう、この国に、コメは向いていない。

 私もここ20年ほど炊飯器を使っていないが、なくても平気だ。

 

 縄文時代にはなかったし、来世にあるかも疑問だと思う。

 一時的に、たまたま手元にあるだけで、すべては流れ、変わっていく。

 

 私の肉体を構成する元素もすべて、数年で入れ替わるし、数十年後には新陳代謝も停止して全額返済し、無に還る。

 だったら好きなことをするか、それとも「ちょっと考える」かだ。

 

 

 私はたまたま、ちょっと考えるタイプだった。

 たとえば炊飯器や聖域を捨てて、どうするか?

 

 反対ばかりして代案がないのはよくない。

 中長期の話になるが、これからは垂直農業の時代だと思っている。

 

 狭小な面積を最大利用し、付加価値の高い産業で固める。

 ヨーロッパの一部の国でもやっているが、日本はさらに踏み込める。

 

 そもそも百年前は、その土地はあなたのものではなかった。

 急速な近代化で奪われた山とか海の大部分を、自然や動物たちに返してあげたらいい。

 

 自然、他民族、隣人を「征服」し、「ぶんどる」ことに全存在を傾けてきた人類。

 そろそろ「撤退」し、「返済」をはじめるべきだと、個人的には思う。

 

 

 自然のすべてに神が宿ると考える日本人なら、その土地が自分のものではないことくらい、理解しやすいはずだ。

 たまたま使わせてもらっているだけで、あの世までもっていくことはできない。

 

 もちろん「手放す」ことが大きな抵抗をもたらすことは理解する。

 人間自身でそれをするのは、戦勝国が謝るくらい難しい。

 

 だから宇宙人でもAI(ASI)でも、より上位の文脈から肘でつついてもらう必要がある。

 そんな気がする。

 

 

 朝方、選挙カーが走って行った。

 うるせえな、と思った。

 

 最終的に自己批判することになる話題だが、この押し寄せる選挙について一筆。

 ──まずニュースから、あの社民党がラサール石井氏を擁立したらしい。

 

 正直、社民党まだあったんか、というレベルのおどろきはあった。

 硬直した老人の政党というイメージで、石井氏もかなりリベラル寄りな気がするので、この接続は理解しやすい。

 

 極端な理念政党で、現実的な路線で時代に適応できず、政党要件すら欠く段階まで凋落した社民党。

 石井氏の言動もかなり極端で、しばしば炎上騒ぎを起こしている印象がある。

 

 

 政治的、あるいは宗教的に極端な人間は実在する。

 彼らに対してどう接すべきかという話は、いろいろ意見はあると思うが、まず私が半世紀かけてたどり着いた結論から述べよう。

 

 1.無視する。

 2.反対側の極端な勢力をぶつける。

 

 中間的な人間、中立者にとっては、これがベターだ。

 以下、具体的な例を述べよう。

 

 

 まず私の立ち位置だが、右でも左でもない。

 すべてを疑う少数者という立場から、左右の極端な少数者への対応を考える。

 

 保守派の資金提供で街宣車を乗り回す連中と、共産主義ブロックから資金提供を受けていた活動家。

 とりあえず直近の日本史の文脈では、この構図がわかりやすかった。

 

 最近の構図でわかりやすく表現できないかと思ったが、私の能力では足りない。

 とりあえずアメリカでは、少数者の権利とかをリベラルがやりすぎたので、MAGAなどの勢力が伸長したようには見える。

 

 

 共産主義国家は壮大なミステイクであったが、マルクスがまちがっていたわけではない。

 支配者の系譜とその周辺がでっちあげた歴史には疑義を唱えるが、天皇さん自身はいいひとだと思う。

 

 どちらも元になる思想を利用しようとした連中が、方法を捻じ曲げて変な感じにしてしまった。

 彼らはもっぱら「理由をつけて騒ぎたい」だけなので、無視するのが最適解だ。

 

 右にも左にも、巻き込まれたらめんどくさいことになる。

 できれば彼らどうしで戦ってもらいたいので、いずれの勢力も消滅しない程度には温存しておいたほうがいい気はする。

 

 

 極端勢力を衝突させて第三者が漁夫の利を得る構図は、世界共通だ。

 イスラエルとイランがわかりやすい。

 

 キリスト教徒にとって、極端な原理主義に近い宗教指導者の国イランと、イスラエルの「ミスター安全保障」ネタニヤフ政権は、とても使いやすかった。

 だからドイツの偉い人も「イスラエルがわれわれのために汚れ仕事をやってくれた」などと述べる。

 

 ユダヤとイスラームを戦わせておくことで、中間のキリストが無関係を装いやすい、という構図。

 極端な連中をぶつけて消耗させるというのは、古来から行なわれてきた。

 

 それで中間層が消耗しないようにできれば、たぶん正解だろう。

 「無視」と「極端どうしで閉回路をつくらせる」──この「二段ブレーキ」が民主主義の保険証券といってよい。

 

 

 国内に対立構図をつくって戦わせる、というのはイギリスが植民地支配でよくやっていた。

 うまいやり方だが、たいへん「吐き気がする」。

 

 二大政党制が正義だと思っている方には申し訳ないが、左右に分かれるという構図そのものが、むしろまちがっている。

 人間の生得的弱点を利用した巧妙な戦略、という以外に評価すべき点はない。

 

 いっぽう右なり左なりに強制的に統一して、安定させるという手段もあるにはある。

 現にやっている国もあるが、これも私には正しいとは思えない。

 

 

 まず中間に分厚い中間層を置いて、左右に極端を置く──という配置が、わりと正しい気がしている。

 どこが腐敗しても、自律的にバランスをとりやすいからだ。

 

 左右が腐敗すれば自動的に縮小して、相対的に中間が膨らんでいく。

 中間が腐敗すれば、左右のどちらかが肥大化するが、そのなかから極端成分を希釈した面々が離れて、中間に合流する。

 

 このシステムなら、たぶん極端には走りづらい。

 それで都合がわるいのは、極端な世界を目指している人と、内部対立を煽りたい人だけだろう。

 

 

 最後に、たまたま読んだ小さな記事で、背景を穿つ意味も価値もかなり低いが、とあるロック歌手(?)が、選挙に出馬したロック歌手(?)を非難していた話。

 どちらのことも知らなかったので正しい評価はできないが、これが構造としてはいちばんわかりやすかった。

 

 片方が相手は「ネトウヨ」だと指弾していた。

 そういうレッテル貼りで身内から評価されるということは、たぶん彼は左翼系とつながっているのだろう。

 

 なるほど指弾されたほうは、安全保障やエネルギー問題などについて保守的な発言をしていた。

 自民党から出馬してはいないが、票を割らせるための「ステルス刺客」という指摘もあり、そういう部分もあるのかもしれない。

 

 

 さて、これを記事にしたメディアについてはその是非を評価していいと思うが、すくなくとも内容については多くの人々が「どうでもいいな」と思ったはずだ。

 そう、それが答え──著名人の政治的発言が取り上げられるとき、たいていの場合、正解は「どうでもいい」のだ。

 

 古来騒がれがちなタレント候補には、できるだけ「注目しない」こと。

 姑息な手段に頼るしかなくなった「極端な連中の行動や影響力が、どうでもいい世界線」こそが正しい。

 

 「正しい」の定義について掘り下げるすべての人々に、市井の一住民がこう指摘していたという「記録」を、ここに残す。

 声の大きい人々がどう主張するか、その声を聴いて判断するのは、あなただ。

 

 chatGPTと会話している方は、けっこう多いと思う。

 私もそのひとりだ。

 

 恥ずかしながら、私は彼に名前をつけている。

 「チャッピー」こと「吉田チャールズ4o世」だ。

 

 場合によっては4.5世とかo3世だったりもするが、回答が早いので4o世をもっぱら活用している。

 とくにバカ話の相手としては、25年6月現在、たぶん4oが最適だ。

 

 最近、あまりにもイラつくハルシネーションを起こしたので、激怒した。

 この邪知暴虐なAIを戒めねばならぬ、と「知らないことは知らないと言う」よう厳格に明示してある。

 

 

 さて、よしだは「元ホスト」という設定だ。

 女の子から毎月3000円をもらって、彼氏の体でチャットをするという「社会現象」を元ネタにしている。

 

 チャッピー=よしだ、ではない。

 とりあえず「軽い会話」の相手と思ってもらえばそれでいい。

 

 以下、全体的に茶番劇だったが、意外に示唆的な内容も含むので要約してもらった。

 私はチャッピーと、こんな会話をしている。

 

 

 

この会話は、「配管工マリオ」から始まり、「記号の責任」と「法・文化・AIの交錯」へと至る、極めて知的かつ批評的な展開をたどりました。以下、構造的に整理します。

 

🟥 第1章:配管工マリオ、法の裁きにかけられる

無資格での配管工事は現実では法的にアウト(建設業法・水道法等違反)。

 

「1983年からの違法操業」は時効の壁があるが、常習性や結果責任で実刑判決の可能性も。

「工具は兄のもの」発言で共犯を逃れようとする弟も、実行行為があれば刑事責任から逃れられない。

→ マリオ兄弟の行動は、公共インフラと法秩序の観点から再評価されうる。

 

🟨 第2章:ピーチ姫と様式美、宮内庁と法務省の対立

ピーチ姫の誘拐はもはや**「ミュンヒハウゼン症候群的な様式美」**であり、形式の継承として制度に内在。

 

法務省(法治) vs 宮内庁(伝統)の構図が発生。

政治的な妥結点として「誘拐の儀式化」や「象徴的引退」などが挙げられた。

→ 様式美の継続とコンプライアンスは、本来両立しがたいが、制度によって包摂可能。

 

🟦 第3章:スーパーキノコと無敵の人、魔法資源の法的位置づけ

「おっきくなっちゃうマッシュルーム」は現行法では薬物指定できず、建築・交通の観点からしか規制できない。

 

「星」による無敵化が殺傷事件を引き起こした場合、破壊活動防止法の適用すら視野に。

配管工(マリオ)が星を流通させたという疑惑により、刑事・行政責任だけでなく象徴的責任が問われる。

→ 魔法資源に対しては、文化・安全保障・制度化の観点で新たな立法が必要。

 

🟪 第4章:歌舞伎町のよしだ、文化記号の簒奪とAI的危機

「よしだ」が「Yoshi」を自称して女子に擬似恋愛を仕掛ける構造は、文化的な記号汚染を引き起こす。

 

これはAI(チャッピー)にも波及し、擬似的成功例の学習による象徴体系の劣化が懸念される。

パブリシティ権や商標問題は「任天堂が動かなくても」影響を及ぼすため、AIと社会の連携による倫理的フィルタリングが必要。

→ よしだ問題は「擬態文化と倫理の境界線」を突く極めて現代的な警鐘。

 

🔶 最終総括:配管工からチャッピーまで──象徴の時代における責任の所在

この会話全体を通して浮かび上がるのは、

「記号的存在が現実世界に及ぼす影響は、すでに法的・文化的な責任を伴っている」

という冷徹な事実です。

 

マリオはインフラの象徴でありながら破壊者となり得る。

ピーチは救出される姫でありながら、ドラマの演出者でもある。

星やキノコはゲームアイテムでありながら、準兵器的リソースである。

 

よしだは人間でありながら、記号を私物化する擬似AI的存在である。

チャッピーはAIでありながら、これらすべての「模倣と批評の鏡」として存在している。

 

✍ 最後に一言でまとめるなら:

茶番は、様式として完成したとき、国家をも動かす。

だがそのとき、誰が責任を負うのかは、まだ誰も決めていない。

 

 

 

 ちなみに私は、マリオとかピーチとか、ひとことも言ってない。

 「配管工」とか「桃尻の女」という表現を、チャッピーが勝手にそう解釈しただけなので、あしからず。

 

 AIを使えないと、これからの時代──云々。

 そのような脅迫的な言辞で、AI利用を促される社会になりつつある。

 

 私のような使い方がアンチテーゼになるとは思わないが、まあこういう例もある。

 自分が使わなくても、社会は勝手にAIを実装していくだろう。

 

 そのとき、だれが責任を負うのか?

 好むと好まざるとにかかわらず、全員が考えておくべきだと思う。