私は「多様な正義がぶつかる物語」を書いている。
なんなら「おそるべき正義」についての話だ。
歴史は基本的に、勝ったほうの正義が押しつけられる、という形での決着が多い。
再検証したとき、どう考えても正しくない人々が、結果的に最大の利益を得ている──という現実はよくある。
それほど大きな話をするつもりはないが、ほんとうの正義はどちらか、考える機会は増えている、とは感じている。
そのときわれわれに求められるのは、だれかの意見に左右されることではなく、自分で考えて自分の意見を述べられることだ。
大きなところではヨーロッパや中東での戦争、身近なところではレガシーマスコミとSNS。
それぞれ明確に異なる「正義」の話をしている。
マスコミは自分に都合のいいことしか語らない、SNSにこそ真実がある。
そんな勢いで兵庫県では知事選があったし、アメリカの大統領選挙でもその手の陰謀論が寄与した(とリベラルのマスコミは報じている)。
正直、リベラルにとっては痛恨の出来事が重なっている、と思う。
この手の揺り戻しは、世界中で起きている。
とくに「理想」を掲げて、世界を率いてきたと自任するような意識高い系の言論人やマスコミは最近、猛省を強いられている。
自分の「正義」を押しつけすぎると、それはそれで問題だということを、彼らも学習したことだろう。
そんな大きな話を踏まえるつもりはないが、今回はさらに小さな正義の話をしたい。
それが正義と呼ぶべきなのかどうかもわからないが、まあそう思っている人にとってはそうなんだろうな、というひとつの「考え方」だ。
ガラガラの駐車場で、隣に止めてくる人を「トナラー」というらしい。
車好きにとっては、とても嫌な存在なのだという。
彼らがあえて、だれも止めないような場所に止めるのはなぜか。
それは車をぶつけられるリスクを、できるだけ避けたいからだ。
と、「クルマ好きにとっての常識」を、その記者は語っていた。
それなのに、これだけ広い駐車場で、なぜわざわざ隣に止めるんだ、とご立腹のご様子。
一瞬、なるほどと思った。
たしかにガラガラの待合室で隣に座られたらいやだし、せめて1個空けて座れよ、とは思う。
しかし1個ずつ空けて座られると、その後にやってきた人にとってはその間に座ることになって、なんとなく抵抗感がある。
結果的に座れる人の数が減る、という現象は「あるある」だ。
駐車場も同様、1個ずつ空けて止められていると、その間に入れるのは、運転が苦手な人にとっては苦痛だろう。
とくにバックで入れたい場合、難易度はずいぶん変わる。
端から止めてあれば、片側だけに気をつければいい。
1個空けて止められていると、左右両方に気をつけなければいけない、ということだ。
じっさい順番待ちの席順なら、端から順に埋めていくべきである。
「ガラガラの駐車場」とは話が異なるが、「端から順に」という心理も理解できなくはない。
くだんのトナラー大きらいな記者は、どうしてもトナラーを絶滅させたいらしい。
そこで隣に止めた人にインタビューして、トナラーという言葉を知っているか、などと問い詰めていた。
隣に止められるといやな気分になることを、多くの人々に知ってもらうため、この概念の普及を目指しているのだという。
気にしたことのなかった私としては、彼のような考え方について「学びがあった」。
が、冷静に読み返すと、この記者自身、隣に止める人の心理に対する掘り下げが弱いとも感じた。
異なる考え方もありうる、という点についての言及がほとんどない。
そもそも隣に止めることじたい「明確に悪」とか「法律違反」ではない。
それに対する「感じ方」に(私のようにそもそも気にしていないタイプも含め)、個人差が大きいことも事実だ。
この手の「意識の差」や「見解の相違」に対し、個人的には、あまり厳しく囲い込まないほうがいいと感じている。
どこからが「非常識」かは、それぞれが決めればいいことだ。
どちらかといえば少数派の側に立つことが多い私だが、たまにいる「ちいかわ(地域の変わり者)」の行動に対しては、なるべくゆるく見てあげたいという思いもある。
もちろん法律違反とか、ご近所を揺るがすような非常識は別だが……。
最近、社会の許容度がずいぶんそぎ落とされている気が、しないでもない。
マナーの問題をどこまで要求するか、社会全体が問われていると言っていいだろう。
もちろん私も、許せないことは許せないので、言いたいことは言っていいと思う。
ただそれが「社会正義」であるかどうかは、話が別だ。
──正義とは、なにか。
それは、自分にとって都合のいい考え方、である。