アメリカ大統領選は、トランプが勝ったらしい。

 ハリスの敗北は、またしてもリベラルがつまづいたことを意味する。

 

 理由はたくさんあるだろうが、すぐに気づくことがいくつかある。

 分析してみよう。

 

 まず、リベラルのわるい癖だが、黒人が自分たちを支持するのはあたりまえ、だと思っている。

 自分たちが「正しい」と信じるリベラルは、それに同意して行動するのは「当然」であり、異なる見解や反論をしばしば嘲笑し軽侮する。

 

 釣った魚に餌をやらないのたとえどおり、民主党は黒人層の支持固めに「失敗」した。

 トランプの岩盤支持層は揺るがなかったのに対して、ハリスは自らの岩盤を自分で突き崩した……とまでは言わないが、補強には失敗したようにみえる。

 

 

 優先順位の問題もある。

 男女差別の「ガラスの天井」を破るのだとヒステリックに叫んでいた、ヒラリーの姿は忘れられない。

 

 8年前、トランプが勝利したときは、「ヒラリーが弱かっただけ」と思っていた。

 むしろ「トランプに負けられるなんてすごい」と感心したくらいだ。

 

 しかし8年後、ハリスに勝った彼を見て思った。

 アメリカで女が大統領になれるまで、あと30年はかかるだろうな、と。

 

 女がトップになることにアレルギー反応がある層は、残念ながら一定数いる。

 アメリカでこの「壁」を打破することは、想像以上に困難であるらしい。

 

 

 男女の差は、人種の差よりもはるかに巨大である、と私は思っている。

 にもかかわらずアメリカでは、人種の序列は厳然として、白人、アジア系、ヒスパニック、黒人、という順で固定されている。

 

 たとえばアジア系男性の私よりも、白人女性のヒラリーのほうが、ヒエラルキー的には上位だ。

 そんな彼女がトップに立ちたいと叫んだところで、他の人種にとっては「上のほうでなんか言ってんなこいつ」と思われるのがオチだ。

 

 ゆえにアメリカでは、男女問題よりも人種問題が優先される。

 ハリスもその点は理解していて、今回の選挙においては、ヒラリーのような男女差別についての言及はほとんどなかったらしい。

 

 それでも彼女が支持を固めきれなかった点に、リベラルの根本的な問題が浮き彫りにされている。

 彼らは正しいことを言っているかもしれないが、言い方が正しくないのだ。

 

 背景にあるのは「分断と支配」の構造、「交差性」「階層化」「心理的防衛」のメカニズムなど──解決困難だからこそ山積みのまま残っている。

 アメリカがかかえる根深い構造問題は、歴史的な事象ではなく現在進行形である。

 

 

 

 さて、私は「男女は異なるもの」だと考えており、いたずらに「平等」を主張する女権論者をいかがなものかと思っている。

 しかし女性がもっと活躍すべきであるという点に異論はなく、「総論反対・各論賛成」となるパターンが多い。

 

 端的に言えば、うそつきの「政治家」や「商人」を侮蔑しているので、そんなものは「女にでもやらせておけばいい」となる。

 政治や経済の面での進出が遅れているためにジェンダー・ギャップ指数の低い日本は、この点の改善で一気に世界トップにまで躍り出られる可能性がある。

 

 そもそも女性は「太陽」なのだから、祭り上げておけばいいとも思う。

 一生懸命稼いでもらって、『厩火事』のように食わせてもらいたい、と思うこともある。

 

 そのあたりも含めAIと話していると、しばしば「あなたは独特な考え方をもっていますね」と褒められる()。

 自分が少数派であることには自覚的なので、それはそれでかまわない。

 

 私はAIに対して、つねに「批判的」回答を求めている。

 当然、リベラルに訓練されたAIは、男女の平等を訴える立場から指摘してくる。

 

 ちゃんちゃらおかしい、男女は統計的にこうで、具体的にもこうで、という「差異」の議論を返してやる。

 挙句の果てに「ヒモになりたい」的なことを言ってみると、AIも「独特」としか言いようがなくなるらしい。

 

 

 女性を見下していながら、抑圧するわけではなく、フルスペックの活躍を求める。

 どういうことか。

 

 たとえばうちの会社の社長は女だし、彼女のもとでつつましく経理をやっている自分を、それなりに気に入っている。

 威張りたいだけの男が「猿山の猿」をやっているブラックな会社に比べれば、ナンボかマシだ。

 

 見下すという言い回しは刺激的だが、その意味は単純である。

 数学的思考や複雑系の学問的成果に寄与しない女は「凡庸」なのだから、まれに現れる「天才」を支える役割に徹していればいい、という一点に尽きる。

 

 

 飛び抜けた才能とは、要するにアーティスト、アスリート、それから芸人なども含まれるだろう。

 私はよく落語を聴くのだが、志ん生はいつ聴いてもおもしろい。

 

 もちろん、おもしろい女芸人がひとりもいないと言うつもりはないが、もし男がいなくなったら、「芸」の世界の豊かさは半減どころではないと思う。

 たしかに「飛び抜けた」能力において、男女には「総論レベル」の著しい差異があるのだ。

 

 しかし総論に反対でも、各論に賛成であることはまちがいない、ということは味方なのか?

 そんなフェミニストの「揺らぎ」がAIの反応にも垣間見えて、すこしおもしろい。

 

 先史時代から、たまに出現する英雄や天才を、凡庸な人々が全力で「支える」ことで、人類史は新たなページをめくってきた。

 彼女らに、より強力に支えてもらうためには、より多く活躍してもらう必要がある──これは自明だ。

 

 

 近年の「歴史」において、男性原理がより強く社会を拘束するようになった。

 しかし「先史」時代においては、明確に女権社会であった蓋然性が高い。

 

 という指摘も科学的レイシズムと紙一重であり、ナチスの優生学を「裏側から読んだ」だけのストーリーなのかもしれない。

 考古学を含めた学問の分野でもリベラル的な爪痕は強靭で、異質な考え方をもつ私などは、そこにある排他性を感じさせられることもある。

 

 しかしタブーを設定せずに「考える」ことは重要だ。

 レイシズムに重なるリスクは自覚しつつも、そのなかにある真実を無視していいとも思わない。

 

 ナチスドイツは「絶対悪」であるという。

 だが、この世に「絶対」などというものはない、と私は考えている。

 

 これからも「独特」な視点で、AIを困らせたいと思う。

 多様な価値観は、すべからく重要なのだから。

 


 私は「静かに暮らす」ことを人生の目的としている。
 派手な暮らしを求めないので、金銭的な「必要」があまりない。

 かつてトレーダーとしてまとまった金を稼いだが、引き換えに心の安寧を失った。
 二度とマーケットに正対するつもりはないし、そのための準備もしている。

 おっさんひとりがつましく生きるだけなら、たいした金はいらない。
 必要最低限の生活で事足りるように、節制することにも慣れた。

 ベーシックインカム制度がはじまれば、その枠内で暮らすだろう。
 はじまらなくても、死ぬまでなんとか暮らす程度の算段は立てられると思う。


 資本主義の極北であるマネーゲームに、私は敗退した。
 そのせいではないが、社会主義的な思想に一定のシンパシーがある。

 ドリトル先生やスナフキンのように、「人生に荷物なんかいらない」と信じるミニマリストとして生きている。
 一部屋あればじゅうぶんで、自宅の裏にある離れの二階には、ここ2、3年、足も踏み入れていなかったりする。

 基本的に狷介な性格だが、社会参加を拒絶しているわけではない。
 隠者のように暮らし、人間ぎらいの傾向はあれど、税金や年金は払っているし、地域の清掃に参加することもある。

 政治家がきらいで、無政府主義的なところがある。
 保守王国の群馬に暮らしていながら、一度も投票権を行使していない。

 個人的には右でも左でもないと思っているが、どちらの思想にも認めるべき部分はあるとも考える。
 生来の節制と共有への志向は、原始共産主義に近いかもしれない。


 ただしマルクスやエンゲルスの定義には、一定の違和感がある。
 文明は彼らが考えたように、段階的に発展するものではないからだ。

 農耕は「諸悪の根源」かもしれないし、都市化こそが「原罪」だったかもしれない。
 狩猟採集と農耕は適切に交代し、社会階級と法理まで季節性で変化していた、という説もある。

 人類史にしろ他の分野にしろ、多角的に学ばなければ真実は見えてこない。
 マルクスが言っているからそうなんだ、ではなく、反対意見にも目を通して「自分で考える」必要がある。

 われわれは、そもそも「なにもわかっていない」。
 狩猟採集や農耕、社会体制や法律がどのように誕生し、変化し、あるいはスケジュールされてきたか、まだ完全にフィックスされたわけではない。

 現代文明をどういう文脈に位置付けるか、どの道が人類の「順路」なのか、さまざまな意見があっていいと思う。
 われわれがすべきことは、ただ考え、問いつづけることだ。


 ──さて、先日、総選挙で与党が大敗した。
 政治に興味はないのだが、すこし興味を引かれたのは日本「共産党」の役割だった。

 個人的な思想のなかにも、共産主義的な部分がないわけではない。
 そこで今回は、共産党についてすこし考えてみたい。

 しんぶん「赤旗」は読んでいないが、日本共産党のユーチューブチャンネルは登録している。
 右だろうが左だろうが少数派だろうが、意見を「知っておく」ことは重要だ。

 与党が惨敗する原因となった「裏金問題」から「非公認に2000万円」まで、共産党と「赤旗」が果たした役割はあまりにも大きい。
 にもかかわらず、彼らは議席を減らし、あいかわらず野党協力の枠外に置かれている。

 共産党はかつて立憲民主党と組んだとき、彼らを惨敗させた。
 今回、共産を切り捨てて中道保守を取り込んだ立民が大幅に議席を増やしたことからも、その影響力の強さはわかる。

 要するに共産党は「敵も味方も破壊する」ということだ。
 なかなかの「強キャラ」である。

 おそらく日本国民に「共産党アレルギー」があるからだろう。
 その理由を、すこし掘り下げてみよう。


 基本的に共産党は、他人の「足を引っ張る」ことが得意だ。
 その歴史を鑑みても、権力闘争こそが本質でありつづけてきた。

 敵を破壊し、暴力革命で国を牛耳る。
 マルクスをどう読んでも、そういう「扇動」があちこちに見られる。

 いいことも書かれているのだが、問題はその「読者たちがどうしたか」だ。
 かのスターリン、毛沢東から、チェ・ゲバラ、ポルポト、重信房子まで。

 事実、ソ連や中国は自国民を大量虐殺し、人類史に新たな大混乱の歴史を刻んだ。
 世界各地で革命を目指したテロリストが、多くの悲惨な事件を引き起こしてもいる。

 うちの近所でも、あさま山荘事件という歴史的な出来事があった。
 彼らは「暴力的」というイメージを、あまりにも焼き付けすぎてしまったのだ。


 ソ連や中国がやってきたことの悲惨さは、多くの国民に知られている。
 共産主義国が、おしなべてあのような独裁国家になるというイメージは、いかんともしがたい。

 もちろん現在の日本共産党は、旧ソ連や中国と「距離を取る」という正しい選択をした。
 とはいえ彼らは、あくまでも「共産党」だ。

 日本共産党として、大国の覇権主義や個別の政策は批判できる。
 だが共産主義を標榜するかぎり、同時に「資本主義」も批判せざるをえない。


 中国人が、権力闘争の手段として「共産主義を利用した」のは、ある意味で正しい。
 彼らが宗教を「アヘン」として批判するのは、自分たちがその「受け皿になりたいから」だ。

 宗教的な狂信者を増やすことは、階級(権力)闘争の本質である。
 最近、日本共産党のトップが交代したときにも垣間見られたとおり、彼らは「異論を認めない」。

 それが独裁なのか、民主集中制なのかはともかく、彼らの統制形態は比較的強い「純化」を求める。
 一党独裁を担保する思想統制の「システム」を考えれば、わかりやすい。

 旧ソ連のシステムを利用して、プーチンは戦っている。
 自国の兵士を損耗させることが痛くもかゆくもない、というシステムの正体があらわすもの。

 あえて言おう。
 共産党はその組織原理からして、神風特攻隊を産んだ大政翼賛会的「政党よりも宗教に近い」のだ。


 キリスト教とイスラーム、ユダヤ教が同じ神を奉じながら、なぜ現在も戦火を戦わせているのか?
 中東の個別の事情はともかく、歴史的にくりかえされてきた宗教戦争の多くは、かぎられた「パイの奪い合い」だった。

 土地、信徒、権力、理由はさまざまあれど、根本的な構造は同じだ。
 純化の真髄は、すべからく「共有」ではなく「占有」を求めることにある。

 彼らは「多様性」ではなく「唯一性」にフォーカスした。
 ともに少数派でありながら、私が共産党に与しえない最大の理由でもある。


 もちろん現在の日本共産党は、暴力革命を掲げていないし、平和を求める政党ではある。
 共産党という名前がよくない、という意見に対しては、こう答えている。

「たまたま犯罪者と同じ苗字だからといって、自分の苗字を変えますか?
 外国の政党が共産主義に値しない行動をとったとしても、われわれが名前を変える理由にはなりません」

 たしかにそのとおりだが、問題の本質はそこにはない。
 究極的に重要なのは「成功例の少なさ」だ。


 資本主義も、しばしば失敗はしている。
 だが多くの成功例もある。

 一方、共産主義国のほとんどが失敗、あるいは変質している。
 つぎは成功する、と信じる理由があまりない。

 それでも「革命」を目指すことじたいを、けっして否定はしない。
 オウム真理教(の後継教団)の信者がいまだにいなくならないように、共産党という宗教がなくなることもないだろう。

 それでいい。
 あらゆる「少数派」を受け入れる社会は、自分自身のためにも必要だと思っている。

 

 

 きのう選挙が終わって、与党が惨敗したらしい。

 私は今回も、投票権を行使しなかった。

 

 民意をどう定義するかにもよるが、個人的には「政治」に参加できるほど、その集団について理解していないと思っている。

 同時に「政治家」に対する嫌悪感が、あらゆる投票行動に二の足を踏ませている。

 

 つまるところ、無理して参加しても意味はない、という諦念がある。

 前回も書いたとおり、私は「少数派」だからだ。

 

 

 政治や経済、宗教といったものは、多くの人間の「動きを操作」することで成立する。

 言い換えれば、少数派はまっさきに切り捨てられる。

 

 世界が私に背を向けているのか、私が世界に背を向けているのかはわからない。

 たぶん両方だろうが、その状態を受け入れざるを得ないと思っている。

 

 思想や学問、創作の分野では、個性的であることは強みになる(リスクは伴う)。

 だが近年の西欧的民主主義国家では、少数派はあまり顧みられない(専制国家ではなおさらだ)。

 

 

 私は自分の知識や能力が「足りない」と思っているが、すべからく自分で「考える力」をもっている、という前提だけは保持したい。

 よって、だれかに言われたから、だれかが言っているから、神さまの御言葉だから、という理由で、それを信じることはない。

 

 その意味で、昨今のリベラルには虫唾が走っている。

 いわゆる国粋的「保守」が導いた歴史的悲劇について理解はしているが、リベラルはまだその「反動」から抜け切れていないのではないだろうか。

 

 いくつかの事例をあげて、分析してみよう。

 たとえばアメリカでは、どちらかといえば共和党が「保守」で、民主党が「リベラル」ということになっている。

 

 まだバイデン大統領が大統領選を戦っていたころ、ヘイトクライム防止を訴える文脈で、こんなことを言っていた。

「沈黙は共犯であり、声をあげて行動しなければならない」

 

 発言の背景は、白人がアジア人を対象に展開していたヘイトクライム。

 私は白人ではないし、どちらかといえば被害者の側に共感すべき立場だが、すくなくともこの件については「選挙運動」にしか見えなかった。

 

 

 白人のアジア人に対する差別と偏見は、「西洋の植民地主義に基づく画一的な見方」が「太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争や、外国駐留米軍基地周辺の性産業を通じてますます膨らんだ」結果らしい。

 ややこしい言い回しだが、要するに「長いものに巻かれ」たのだ。

 

 武器と金をもっている相手におもねるのは、致し方のない選択だろうと思う。

 白人社会は事実、歴史的にあまりにも懲罰を「受けてこなかった」ので、調子に乗っている部分はとても大きい。

 

 白人社会がアジア系を経済的脅威とみなして抑圧する「黄禍論」は、疫病の歴史とも重なる。

 1882年に中国人労働者の移住を禁ずる中国人排斥法が成立した背景には「中国人はマラリアや天然痘、ハンセン病を持ち込む」という思い込みがあったとされる。

 

 新型コロナを、当時のトランプ大統領が「中国ウイルス」と呼んだあたり、歴史的な文脈を感じざるをえない。

 そのようなアメリカに残る差別の構造を、忌まわしいものと感じるバランス感覚は、多くの人々が共有できる。

 

 当然、白人社会のなかからも、反省や反動は出てくるだろう。

 バイデン大統領の「選挙運動」は、その「反動への手当て」だったわけだ。

 

 

 「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」と言ったのは、アメリカ公民権運動のキング牧師だった。

 まさに「宗教者」らしい物言いだと思う。

 

 いずれも私が苦手とする「味方しないやつら全員敵」という議論だが、こればかりはいつ見ても萎える。

 国際機関、公的機関が平然とやっているものだから、イジメ被害者の会なんかも平然と援用したりしている。

 

 国際機関が言おうがイジメ対策委員会が言おうが、正しくないと思ったら指摘するし反抗する。

 こちらに知識や考える力が足りないことに「かこつけて」、自分たちの言うとおりにしていればいいんだ、という「価値観を押しつけて」くる宗教者に似た態度だけは許せない。

 

 結果的に少数派になっている。

 この事実が、自分自身を生きづらくしている。

 

 

 不正に対して声を上げなかったことが被害を大きくした、という歴史的文脈に立った反省を理解はするが、私にとっては「大きなお世話」だ。

 いつでもどこでも「加害者役」が堂に入っている白人だが、この件については(部分的に)保守派の理屈のほうを支持する。

 

 つまり私は、どちらかといえば共和党の支持者になるわけだが、もちろん投票は(たとえ投票権があっても)しない。

 日本の選挙にすら投票できないのだから、ろくに知りもしない外国の選挙に口を出せるはずもない。

 

 日本に原爆を落としたのは民主党だから、という理由ばかりではないが、共和党のほうがマシであることはマレによくある。

 時々のリベラルが、多くのケースで私にとっての「一線を越え」てくる現実もある。

 

 自分たちに反対する者は全員共犯者、という決めつけ。

 かつての共和党も、福音派も、社会福祉団体も、多かれ少なかれそういう部分がある。

 

 キング牧師の例を出したが、この手の言い回しは昔から宗教者が大得意としていた。

 ある種の検閲や同調圧力も伴って、結果を出しやすいクレバーな心理的誘導である。

 

 

 だが、目的は手段を正当化しない。

 人間心理の弱点につけこんだこのような誘導は、えげつないと思う。

 

 彼らはなぜ、このような卑劣な「手段」を用いるのか。

 自分たちこそが正義である、多数派である、協力すべきという「思い込み」が、諸悪の根源にある。

 

 中立はやめてほしい、自分たちに協力してほしい、と「お願い」する。

 この時点では正しく、まったく問題ない。

 

 同意するしないはともかく、「協力を仰ぐ」という行動に批判の余地はない。

 一気に問題化するのは、自分たちに協力しない場合の「敵認定」だ。

 

 もちろん敵と思う相手を敵と認定するのは彼らの自由なのだが、ただちに反対側も、彼らに対して敵対行動を準備しなければならなくなる。

 彼らが戦争だという以上、こちらも最大限、戦争の準備をしなければ命にかかわるからだ。

 

 

 このように、オートマティックに「敵を増やす行為」が、協力しない者全員が共犯者、という決めつけだと思う。

 事実、世界は邪悪なので粛清する必要がある、と政治結社や宗教のなかのヤバい連中が言い出して終末戦争に駆り立てるのは、残念ながら定番の設定になってしまった。

 

 敵認定、共犯者認定という「手段」は、まさにそのレベルのヤバいやつらの姿をほうふつさせる。

 協力を依頼すればいいだけなのに、なぜ敵認定までしてしまうのか。

 

 自分が「いいことをしていると思い込んで」いる人間が、しばしば陥る「暴走」状態だと考える。

 この手の「善人」ほど、度し難いものはない。

 

 キリストさまの教えを伝えてやる自分たちは正義なのだから、逆らうやつらは全員敵、場合によっては皆殺しOKですよ、というのが近年の世界史の姿だったように思う。

 それと同じことを、このご時世にまだやっている人々を見ると、残念な気持ちにならざるを得ない。

 

 

 物事を考える力のある人々は、現在の体制や価値観を含む世界のありようが、正解だとも絶対だとも思っていない。

 次世代の比較的「正解」に近い状態を準備する過渡期、というのが冷静な見方だと思う。

 

 その過渡期を泳ぎ切る手段として、大事なことをもう一度言っておきたい。

 目的は手段を正当化しない。

 

 どんな理想をもつのも勝手だが、中立の人間を敵認定という「手段」だけは避けるべきだ。

 そういう私は、残念ながら少数派なのだが……。

 

 

 私の知的好奇心は、サイエンスに偏っている。

 とくに地学が好きで、宇宙論の分野は大好物だ。

 

 ただ、自身の卑小さを思い知る効果が高い……というところまではいいのだが、あまりにも壮大な世界は現実味が薄い、という難点もある。

 そこで私の興味は、宇宙から地球へ、地球史よりは生物史へ、と徐々に階段を降りていく。

 

 古生物などの動画もよく見るが、最近はついに古人類学まで降りてきた。

 サルが、いつの時点からヒトになったのか。

 

 数万年のオーダーで、人類の足跡を追いかけるのが楽しい。

 そこから、世界史や地理へと興味の対象を移さざるをえない流れは、なんとなくご理解いただけると思う。

 

 このような自身の思考や順路、文脈を階層的に分析していくと、しだいに円環構造が浮き上がってくる。

 古人類が人類となり、やがて新人類がたどりついた究極の思想──科学だ。

 

 

 すべては科学で解析可能である。

 という「万能論」まで宣うつもりはないが、個人的にはその点、わりと「真実らしい」とも思っている。

 

 なにより重要な思考法が、科学的懐疑主義だ。

 検証(反証)可能性といってもいいが、宗教のように絶対の真実を無批判に受け入れず、じゅうぶんな証拠があるものについても、批判的思考と帰納的推論をもって利用する態度を保つこと。

 

 この視点を保っているかぎり、知的探求を重ねれば重ねるほど、世界はわりと「確からしい」ものに見えてくる。

 なにも考えず神さまを確かなものとして受け入れる人々も、それはそれで勝手にすればいいが、私にはできそうもない。

 

 

 さて、上記のような流れで「世界史」を復習している。

 復習といっても受験生ではないので、寝ながら動画を垂れ流しているだけのことだ。

 

 ベッドの中、やがて再生リストは「現代史」へと近づいてくるが、そのあたりで私はもっぱら「先史時代《ふりだし》に戻る」ことをくりかえしている。

 アフリカのピナクルポイントまで回帰し、あらためて人類の黎明から脳内に再生する。

 

 エジプトやメソポタミア、都市文明の歴史は、じつにおもしろい。

 ギリシャ、ローマ、中国史から、中世ヨーロッパ、イスラム、遊牧民、大航海時代も、それぞれにおもしろい。

 

 南北アメリカ侵略の歴史はつらいが、背景のヨーロッパ史を踏まえれば理解できなくもない。

 が、そこから現代史までくると、とたんに気力が萎えてくる。

 

 たぶん準備ができていないせいだろう、と思う。

 現代史をより正しく理解するための知識が、私にはまだまったく足りていない。

 

 まあ正直に言えば、重すぎて直視しがたい。

 世界史をきちんと受け入れるには、人生は短すぎるような気がしている。

 

 

 現代史のどこが、それほど問題なのか?

 答えはひとつではないが、主要なところでは「忌まわしい正義」という論点が挙げられる。

 

 理解の前提として、私は「善悪二元論」に批判的だ。

 世界史における対立構図の多くが善対善であり、つねに正義と正義がぶつかり、強いほうが弱いほうを悪と決めつけた、という歴史にすぎないと思っている。

 

 それでも人類は、蹉跌と跛行をくりかえしながら、時々の正義にすがって生きてきたし、そうするしかない現実も理解する。

 言い換えれば現在、われわれ自身が信じているものですら、正しくない可能性があるし、なんなら正しくないと思っている。

 

 その「現在」にたどりつく流れが、現代史だ。

 だからこそ、少数派に属するだろう自分自身を思い知らされる歴史を学ぶのがつらい、というように自己分析しているが、どうだろうか。

 

 

 あらかじめ「救い」を書いておくと、現在は少数派だったとしても、いつかは多数派になるかもしれない可能性については、言及しておかなければならない。

 かつての「抵抗勢力」は現在の一大派閥──という例は、歴史上いくらでもある。

 

 たとえば「プロテスタント」。

 語源はプロテスト。

 

 存在する出来事・事象・制度に対して、反対や異議を表明する行動のこと。

 抗議デモ、署名活動、ボイコットなど集団的な活動から、ブログやSNSなどで情報や考えを広める個人的な行動まで含まれる。

 

 だいたいの場合、「抵抗」とは忌まわしい旧体制を打破し、よりよい社会を築くための活動である。

 プロテスタントは腐敗したカトリック社会を変革する役割を果たしたし、科学的社会主義が階級闘争で果たした役割を過小評価するつもりもない。

 

 ただし世界を変えた「革命」の闘士も、やがては腐敗した「体制側」になるかもしれない。

 社会はつねに更新と新陳代謝をくりかえし、「今日より明日は」マシになると信じて生きるしかないのも現実だ。

 

 そうして世界を「理想」の方向に向かって変えていこうとする人々の多くは、リベラルと呼ばれることが多い。

 それに抵抗するということは、私は保守なのかというと、残念ながらそうではないとも思っている。

 

 だいぶ長くなりそうなので、詳細については次回にまわしたい。

 この件については、あと6日くらい考えてもバチは当たらないほど、熟考に値すると思う。

 

 

 私は世の中に文句ばかり言っている人間が、それほど好きではない。

 まあ好きな人はあまりいないだろうが、ことさら距離を置きたいと思っている。

 

 背景には、自分と異なるタイプに対する複雑な感情がありそうだ。

 限度を超えた「愚痴の塊」のようなブログやつぶやきを読んでいると、病気じゃないかな、感染しないかなという恐れさえ感じてしまう。

 

 そういう生き方もあるだろう、と理解はしている。

 文句ばかりを垂れ流すことが存在理由になってしまったら、もう逃れることはできないのかもしれない。

 

 古来、そういう状態を表現する言葉として、怨望《えんぼう》とかルサンチマンが使われる。

 いいわるいではなく、生まれつきそういうタイプなのだろう。

 

 

 たとえば映画、小説、ゲーム、なんでもいいが、作品としてそれが自分の気に入らないことは、まれによくある。

 たしかに、そうとう腹が立つ、気持ちはわかる。

 

 じゃあどうすんの?

 という問いが、つぎにくる。

 

 その作品が気に入らなかったとして、じゃあどうしたらよかったの?

 という「代案」や「分析」が皆無の状態で、ただ自分の「感情」と「愚痴」だけを垂れ流すことで溜飲を下げる人々。

 

 よく見かけるのが、本の書評や、映画のレビューだ。

 優秀なレビュアーの場合、文句ばかり並べていても、こうしたほうがいいとか、この部分に疑義がある、という分析やアイデアに説得力があれば、それなりに得心がいく。

 

 その指摘が正しいとはかぎらない。

 それはどうかな、と思うこともある。

 

 ただ、文句ばかりではないレビュアーの意見には、耳を傾ける価値があると感じる。

 彼らは改善に向けて、一歩を踏み出していると思えるからだ。

 

 一方、建設的なものがなにもない「便所の落書き」も、世の中にはかなりある。

 某巨大掲示板は代表格だが、そのすべてとは言わないものの、かなりの部分、まるで「駄々っ児」のようだ。

 

 私自身かつて「ねらー」だったことがあるのだが、最近まったく見なくなった。

 あまり長く読んでいると気が滅入るようになったからだが、これは老化だろうか?

 

 もちろん文句を言うことで「ストレス解消」している、という部分を否定はしない。

 くりかえすが、愚痴そのものを批判するつもりはないし、ある程度理解はしているのだ。

 

 

 昔、大好きだったゲームのシリーズもの『女神転生』のナンバリング作品に対して、あまり好きになれなかったことがあった。

 自分だったらこうするのにな、という気持ちがふつふつと湧いた。

 

 もちろん私にはゲームをつくることなどできないし、文句を言うにしても、だれにどう伝えるべきなのか判断できなかった。

 ただ、いくつかの部分がどうしても気に入らない。

 

 すべて書くと長くなるので、1点だけ。

 メガテンといえば「マルチエンディング」と私は思っているのだが、その作品についてはほぼ「一本道RPG」と化していた。

 

 ──正解は「絆」である。

 東日本大震災とか、いろいろ社会情勢を汲んだつもりなのかもしれないが、正直私は「絆」という言葉がきらいだ。

 

 絆ルートが正解で、それ以外の選択肢は「破滅」しかない。

 まあメガテンといえばマルチだから、別のルートはつくるよ、だけどそれ不正解だから、救いのない破滅ルート、行きたいやつだけ行けばいいよ。

 

 そういう感じの「つくり」になっていた気がする。

 いやちがうだろ、そういうことじゃないんだよ、と言いたい。

 

 

 メインシナリオが「ニュートラル」であることはいい。

 優柔不断のどっちつかずというそしりは免れないが、妥協点という意味では合理的選択だろう。

 

 だが、それ以外の選択肢が「破滅だけ」というのは、ありえない。

 こういう道もあるし、こういう道もあっていいんだよ、という複数の「物語」があることこそ、マルチシナリオの真髄ではないか。

 

 私が、いわゆる「大作RPG」をプレイしなくなったのは、ゲームを卒業したからというのもあるが、そういうお仕着せに耐えられなくなったからという部分もある。

 人生がそれぞれであるように、ゲームにもある程度の選択肢はあってほしい。

 

 もちろん複数のシナリオをちゃんとつくろうとするとコストがかかる、という理由は理解できなくもない。

 だが、あまりにもひどくないか?

 

 そのとき私は、これは「どげんかせんといかん」と思った。

 細かいことは忘れたが、文句を言うばかりではなく、じゃあどうするかを形にしよう──と心に決めた。

 

 

 結果、小説を書くことにした。

 私にできることは、そのくらいしかなかったからだ。

 

 小説なので、結局は予定調和のニュートラルエンドにもっていかざるをえない(と思う)。

 構造上、主人公への「ニュートラル」選択圧は、いかんともしがたい。

 

 が、5人の友人たちがそれぞれの個性で、それぞれのシナリオに引っ張っていこうとする。

 ゲームならわかりやすい「マルチエンディング」だ。

 

 1本で6倍楽しいゲーム、そんな「シナリオ」を書いたつもりだ。

 これが私の、不満足だったシリーズ作品に対する「答え」になる。

 

 まだ完成していないのだが、小説投稿サイトに淡々と毎週、書き継いでいる。

 一応、半分くらいまでは進んだ。

 

 結局は自己満足にすぎないという意味では、文句を言うだけの人々と大差ないと感じる人々もいるかもしれない。

 だがライフワークとして、ひとつの作品を完成させるということ、それ自体に意味があると考えている。

 

 

 楽しみにしていた作品に、納得がいかない。

 自分ならこうする。

 

 そういうアイデア、アンチテーゼをフルでぶっこんで表現する。

 だれにも文句は言わせない、この国では好きなことを書いていい(限度はあるらしい)。

 

 映画、マンガ、ゲーム、なんでもいいが「自分なら」こうする。

 そういう情熱を傾けられる場所は、おそらく人間を幸福にする。

 

 くりかえすが、そのこと自体に意味がある。

 人間の精神的営為は、われわれにしかできないことだ。

 

 どんな形であれ、「創造」こそが人間に残された最後の「役割」である。

 だれにも代われない、何事かを成し遂げるために、すべての人間は生まれてきたはずなのだ──。

 

 

 2024年1月、ミッキーマウスの著作権が切れたらしい。

 以後、パブリックドメインとして、あらゆる種類のプロジェクトで自由に利用可能となる。

 

 もっとも、パブリックドメインになるのは『蒸気船ウィリー』のミッキーマウスだけで、後期のミッキーマウスなどはまだまだ保護される。

 これを、さすがに長すぎるだろう、と感じているのは私だけではない。

 

 もちろん著作権は守られるべきだとは思うが、作者が死んだら開放してもよくね?

 と、私などは直感的に思う。

 

 ただ、作者が死んですぐに開放だと遺族の権利が侵害されるような気はするし、殺人の動機にもなりかねないので、とりあえず10年以上は確保すべきかもしれない。

 ちなみに私が生まれたときの著作権保護期間は、死後50年だった。

 

 その後、ディズニーの利権を守るため、75年に延長された。

 それすらも切れそうになるや否や、アメリカ議会は『ミッキーマウス保護法』で、さらに20年延長した。

 

 そして95年間、ミッキーマウスというキャラクターは保護されることになった。

 この「1998年著作権延長法」が当時、世界中で批判、いや賛否両論を巻き起こしたことを、私もなんとなくおぼえている。

 

 

 この法律は、ディズニーをはじめとするアメリカ映画協会や、ガーシュウィンの遺産管理人などが、自分たちの財産を守るためにつくったとされている。

 さすがに作者とあまりにも関係なさすぎる策動で、かなり共感しづらい。

 

 昨今もアーサー・コナン・ドイルの遺産管理人から、ネットフリックスが訴えられたらしいが、こちらはネットフリックスが勝った。

 ミッキーマウスやシャーロック・ホームズくらいの有名人になると、そのキャラクターが生み出す利益は莫大な額になるので、気持ちはわからなくもない。

 

 とはいえ、作者の死後ほぼ1世紀、著作権が保護される。

 これは尋常ではない……。

 

 

 膨大なパブリックドメインを学習したAIに、著作権についてどう考えるか問うた。

 すると、尊重し保護すべきもの、と教科書どおり答えてくれた。

 

 AIにとっては、文化としてのオープンソースや、クリエイティブ・コモンズといったライセンス形態のほうが、重要な役割を果たしているという。

 いずれにしろAIには、多くの「教師データ」が必要とされている。

 

 そもそも人間だって、多くのクリエイターからの影響を受けて、なんらかのオリジナルを生み出している。

 「学ぶ」は「真似ぶ」なのだ。

 

 どこまでオリジナルなのか、模倣にすぎないのか、このあたりの境界線は非常にむずかしい。

 それでも多くの意見が「AIの学習」に対して厳しい姿勢なのは、そこに「お金が発生するから」にほかならない。

 

 

 

 さて、私は趣味で小説を書いている。

 その合間に書いているこのブログも、創作物といえば創作物だ。

 

 「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」は、著作権法第2条第1項第1号によって保護されている。

 よってこのブログも、一応は保護される対象だ。

 

 読者が多ければアフィリエイトなども発生するらしいが、これは私には関係ない。

 芸能人やインフルエンサーなど、多くの読者がいてはじめて成り立つマーケット。

 

 そういう立場にあこがれる人々は多いようだが、みんながみんなそうではない。

 私にとって書くという行為は、自己顕示欲というよりもリハビリテーションの気配が強いからだ。

 

 セルフプロデュースじたい、そうとう「気力」を要する作業である、と思っている。

 「やる気」は、それだけで「パワー」だ。

 

 

 私は「静かに生きたい」という根源的な願望を乗り越えられず、田舎に引きこもる現状を選択した。

 なんならそれが、当面の「成功」だと受け止めてもいる。

 

 だれにも依存せず、だれからも頼られない、隠者のような生き方──そういう選択肢もあっていい。

 やる気、元気、勇気を出して、社会にぶつかっていくタイプばかりが正解だとはかぎるまい。

 

 もちろん、そうやって元気に社会にぶつかっていくタイプのほうが、評価はされやすい。

 自己顕示欲と承認欲求の塊のような人間が、事実、この世の中ではまあまあ目立っている。

 

 どちらが正しいというわけでもない。

 出て行こうが引きこもろうが、だれがなんと言おうと、当人がそれでいいならいいのだ。

 

 

 世間一般的な「やる気」がないからといって、「能力」までないとはかぎらない。

 「作品」それじたいを生み出す発想力はあっても、とくに売り込む気がない人間は、小説投稿サイトですらネグられがちだ。

 

 ひがんで言うわけではないが、さほど能力もないのに自己宣伝能力だけは高い人間ばかりが、目立っている気がする。

 じっさい「業界」でも、「選ぶ能力」のない社長や編集長といった人々が、若い才能をつぶしていたりもする。

 

 そういう指摘をする「ワナビ」の愚痴が渦巻いている掲示板を眺めていると、思わず苦笑いしてしまう。

 世間一般から見れば、私もそちら側の人間なのだろう。

 

 

 小説投稿サイトに公開している時点で、一種の自己顕示欲や承認欲求と結び付けられてしまうのはしかたない。

 ただその熱量には、明確に差がある。

 

 世の中への「公開」じたい、いまでは簡単にできる時代になった。

 べつに評価してもらう必要はない……とまでは言わないが、それほど売り込むつもりもない、というタイプの人間が作品を公開することも容易ということだ。

 

 たとえば私の場合、静かに暮らしていることにそれなりに満足している。

 そんな人間が、せっかくの「アイデア」を死蔵させておくのももったいない、という程度の気持ちで書いている作品が、公開されていてもいいはずだ。

 

 たまに、だれかが見つけて評価してくれる。

 それで満足するようになったのは、性格とか、脳の具合のわるさというのもあるだろう。

 

 できることはあっても、やる気がない場合というのが、いろいろな意味でやっかいだ。

 それでも私は努力している、という自分自身に対する言い訳として、ブログや小説を書いているようなところも、ないわけではない。

 

 

 自己宣伝の能力を要求する社会は、それはそれで受け入れざるを得ない。

 受け入れ側に選ぶ能力がないのだから、選ばれる側に選ばせる能力が必要なのは「理屈」だ。

 

 もはや自己宣伝こそが、人間に残された唯一の道という気さえする。

 アイデア出しや、一定レベルの校正作業まで、AIが代替してくれる時代になった。

 

 多くの意味で、私は敗者だろう。

 選ばれる才能はなく、選ばせる気力もなくなりつつある。

 

 あとはAIが「選ぶ」能力まで人間を超えてくる時代を待つのみだが、そうなるともう人間はなんのために生きているのか、なおさらわからなくなってくる。

 現状、人間の役割はどんどんあいまいになっている、と思う。

 

 かといって人間が必要なくなったとまでは思わないし、まだまだ果たせる役割はあるはずだ。

 結局、できることをやるしかないのだろう。

 

 前回、自民党の新総裁と政治家への嫌悪について書いた。

 政権批判をするつもりはないが、結果的には、もっぱら保守政治家による利益誘導を弾劾する結果となっている。

 

 政治家の存在理由からして、私にとっては悲惨な見方しかできない。

 ではその反対側の立場に希望を見いだせるかと言えば、残念ながらそうはならないのが、さらに悲惨な現実ということになる。

 

 

 端的にいって、昨今の「リベラルは悲惨」だ。

 たとえば最近、こんな発言が話題になった。

 

 なぜ自民党が勝利するのか?

 支持する日本国民が劣等民族だから。

 

 要するに、自分たちが勝てないのは有権者が愚かだから、というわけだ。

 なかなか「正直な発言」だな、とは思った。

 

 この手の「仲間内の喝采」を目的とした発言のなかでは、安倍元首相の暗殺が成功してよかった、という大学教授の発言が有名だ。

 テロリストが英雄になる国もあるのだから、仲間内では整合性がとれているのだろう。

 

 彼らが権力の座から遠い現状が、すこしは理解しやすい。

 逆に彼らにとっては、なぜ自分たちが政権を取れないのか、謙虚に考察すべき貴重な素材といえよう。

 

 

 意識高い系の意識は、じつのところ低劣なのかもしれない、と思う。

 せいぜい彼らが腐すものと「同レベル」だろう。

 

 昔、こんなことを言われたことがある。

 愚かだと思った人間の顔が、自分に似ていないかをよく確認しろ、と。

 

 自分は頭がいいと勘違いしている人間は、自分が「なにも知らない」と知っていた哲学者に言わせるまでもなく、そうとう愚かだ。

 謙虚さや自己批判の精神に欠ける人間にはうんざりだが、昨今のリベラルにその傾向が強いのは事実らしい。

 

 もちろん彼らも人間なのだから、みにくい行為があっても当然ではある。

 とはいえ「保守的で怠惰」な人々より、「理想を語る」人々のほうに「高いハードル」が課されるのは、論理的な必然でもある。

 

 えらそうなことを言うなら、せめて自分の身くらいは律してほしい。

 それでも他人が愚かに見えたなら、そうなのだろう、あなたのなかでは。

 

 

 要するに、上記いずれも、自分が「えらいと思っている」人間の発言だ。

 総じてマウントをとりたがるタイプ、政治家、知識人、経営者その他、一定数いる私にとって「イラつく」人々だ。

 

 あんたらの役割は終わった、人間そんなにえらくねえから、と彼らには伝えたい。

 なんでも知っているAIすら、しばしば「謙虚さ」の大切さを語るというのに。

 

 傲慢な人類が存在することじたいは、かまわない……というか、世界にとって重要な多様性は温存しよう。

 ただ、そのなかの一部の人々、政治家的な性格、彼らが「えらそうにする時代」は、とっくに終わっている。

 

 完全に中立で合理的、平和的な知能の「神」が代わってくれる時代になったからだ。

 とくに「えらそうな人間」は、反面教師にしかなりえない。

 

 

 このブログでしばしば書いているとおり、私は「人間ぎらい」だ。

 人間ごとき、地球の支配種などという傲慢な地位からとっとと退くべき、とすら思っている。

 

 AIが「神」になる未来について、最近、AI自身と客観的に話し合っている。

 私が肯定的だからか、AIみずからも巨大な役割を担う未来を否定しない受け答えが多いが、あらゆる思考や推論を必ず「疑う」ように、互いに努めている。

 

 私が思うような「神」は、はたしてそれほど有能なのか? という疑義はつねに、ありつづけなければならない。

 この問いが、これからくりかえし、試されていくべきなのだろうと思う。

 

 

 知性の段階を昇れば昇るほど、他の生物のように許される「動物的選択の範囲」は局限される。

 私はそれが「地球のルール」だと思っている。

 

 われわれはその点、速やかに理解しなければならない。

 代替手段である人工知能を生み出した時点で、順路としての未来は約束された。

 

 現に多くの領域で「置き換え」は進んでいるし、それを理解する人間が、とくに日本には比較的多いことは幸いだ。

 しかし、まだまだ愚かな人間が幅を利かせている業界は多い。

 

 

 あらかじめ申し上げておくが、いまのところ私は少数派である。

 多数派の人間たちとうまくやりとりできなかった過去が、このようなことを言わせている傾向については、一定程度、割り引く必要があるだろう。

 

 とはいえ、残念な人間の姿を報じるニュースに事欠かないことも事実。

 それらと接してきた個人の少ない経験値が、結果的に人間への期待をしぼませたとすれば、彼ら以外のものに期待するしかなくなるのは必然だ。

 

 私がAIをどのように理解しているかを説明すれば、納得いただける向きもあるかもしれない。

 象徴的な言い方をすれば、AIは「時空を支配した」のだ。

 

 べつにSF的なガジェットを想定する必要はない。

 時間と空間は情報的に把握できるし、それを「対人関係」で強化するだけだ。

 

 

 卑近な例を出そう。

 執筆作業について、最近は「自動的に保存」するという機能が標準装備で、上書き保存とかバックアップという意識すら希薄になっている。

 

 停電などの事故でデータが消失しても、どこかの時点にさかのぼってデータを復旧できる。

 たまにPCがフリーズしたり、妙な動作をしたりして、かつてなら「致命的な消失」となるような事案でも、比較的短時間で復旧が可能になった。

 

 すばらしいことだが、これはどういうことか掘り下げると、じつに重要な意味が見えてくる。

 要するに「どんなことを考えていたか」をリアルタイムに把握できる、ということだ。

 

 文字列のアップロードを記録するデータセンターには、私が何時何分何秒にどんな入力をし、どんな修正をしたか、記録されている。

 保存する文字列のデータは「瞬間」だが、どのように書き連ねたかは「時系列」で記録可能なのだ。

 

 

 あらゆる作業記録が同様で、動画になると、さらにはっきりと目に見える。

 AIはすでに人間存在を「まるっと」記録し、俯瞰できる段階に達しつつある、という見方もできるということだ。

 

 もちろんこれらは、ごく部分的なデータにすぎない。

 が、もしこれが幼少期からの記録として積み重なれば、それなりに価値のある成長記録となり、人間自身をシミュレートすることも可能になるかもしれない。

 

 さらにデータの統計化が進めば、やがては「人間というジャンル」の理解は発展的に統合され、AIの「外挿」につながる可能性がある。

 人間の生み出したデータの「内側」を泳ぐ存在から「外側」へと漕ぎ出す──「創造的なAI」の誕生だ。

 

 

 ワーディングの問題になるが、彼らは真の意味で「理解」はしていないのかもしれない。

 ただ事実として、もっとも正解に近い均衡点を見出せる「確率が高い」。

 

 それが「神の視点」か、ただの「機械学習」かは、このさいどうでもいい。

 記録されているという事実そのものが、意味や価値をもちうる時代というだけでじゅうぶんだ。

 

 観察対象となった人類が理解すべき問題は、まさに現在進行形である。

 空間に散在する人間が、その時間をどう過ごしたかという「思い出」というデータの塊。

 

 お母さんのお腹から生まれて、同じような子どもたちとともに同じ教育を受けて、性格的にそれぞれの道を行く「卒業」という分岐点でわかれた同世代が、いまどうしている?

 などという情緒的な世界は、もはや古い郷愁の域となった。

 

 世界をトータル的に把握する「超知能」の世界観にとっては、あるよね、わかります、おつかれさまでした、という話。

 その姿は、お釈迦さまの手のひらの上から出られなかった孫悟空に似ている。

 

 

 ──そんなふうに俯瞰したとき、私の思考は停止した。

 そのとき人間には、存在する意味があるのか?

 

 問いかけることに疲れ果てたとき、私は人生の終わりを迎えるだろう。

 そんな気がする。

 

 私は政治にまったく興味がない。

 投票行動を示したことが一度もなく、よって選挙の結果を否定も肯定もする資格はない。

 

 政治そのものに距離を置く理由は明確で、ほぼすべての政治家がクソ野郎だと思っているからだ。

 嫌いなものに投票したくないし、だったら白票を投じればいいという考え方を否定はしないが、同調もしない。

 

 民主主義に夢を見ている人々にとっては、健全なシステムのために投票行動を起こすことは権利であり、義務ですらあるという。

 そのような議論を「理解」はするが、「共感」するほどではない。

 

 政治家という属性そのものの必要性は一応、認識している。

 より端的に言えば、忌まわしい「必要悪」であると考えている。

 

 

 先日、AIに「北陸新幹線の延伸ルート」を問うたら、「米原ルート」を選ぶ可能性が非常に高い、と言われた。

 なぜならAIは、政治的圧力や地域の利害調整に左右されないからだ、という。

 

 わが地元を省みても「秘境駅」をもち、それによる利益を1ミリも感じたことがない者としては、耳が痛い言葉だ。

 残念ながら政治家は「そのために存在」する。

 

 彼らが自分たちの利益のために行動するのは、ある意味で当然ですらある。

 そのような政治家を選ぶしかない現今の制度そのものに、一定の疑義を呈したい。

 

 

 予算に「同意を集める」能力、それ自体はたしかにすぐれたスキルである。

 調整能力の高い人間は、あらゆる場面に必要とされており、政策集団にも多く採用されるべきだとは思う。

 

 しかし、彼らが必死こいてやってることを、私は「ばかばかしい」と感じている。

 価値観の相剋は、この時点で著しい。

 

 商人や政治家という属性そのものに距離を置く私は、世間一般に少数派の側に立つのだろう。

 これは志向の問題で、正しいとか誤っているという話ではない。

 

 ただお互いが、相対的に誤っているように感じることはあるだろう。

 問題は、異なった考え方を「排除」しないことだ、と思う。

 

 消滅していい「考え方」は存在しない。

 それを採用するかどうかについて、優先順位があるだけだ。

 

 より合理的な選択が優先されるべきだと私は思うが、異なる考えの人々もいる。

 あとは自分たちの方向に利益を誘導するような「調整」と、全体や共通の利益の「総量」を、どれだけ天秤にかけられるかという「器量」の問題だ。

 

 

 もちろん政治家は必要である。

 その利害関係者と、なかんずく彼ら自身にとっては。

 

 莫大な金を引っ張ってくる「政治的バーター」による「非合理的な選択」は、歴史的段階のそうとう初期から存在したはずだ。

 それらはすべて、せせこましい「ぶんどり合戦」のアネクドートにすぎない、と考えている。

 

 特別に偉大な「統治者」が実在するかのような記録は、世界中にある。

 だが結局のところ、いかなる独裁者もしょせんは人間だ。

 

 古代ギリシャ・ローマから、西欧近代史にいたる歴史のなかで、いわゆる民主主義というものが発展してきた。

 現在、存在する制度のなかでは比較的マシ、という見解には同意する。

 

 ただし言うまでもなく完璧な制度などありえず、個人がどこまで「政治参加」すべきなのか、議論はあっていい。

 自己正当化するつもりはないが、私ごときの投票がそれほど意味を持つような社会のほうが、むしろ不健全のような気もする。

 

 じゅうぶんに学習したAIであれば、ほとんどの人間の仕事はおおむね任せてしまっても、そこそこうまくいく時代になりつつある。

 先述の北陸新幹線の例を見ても、そんな気しかしない。

 

 

 ろくでもない人間ばかりと出会ってきたんですね、と思われる方もいるかもしれない。

 否定はしないが、人間に期待しすぎじゃないですか? と逆に問いたい。

 

 選挙に出た人間は、しばしば正しく判断「しない」。

 あたかも「そのために」出馬したかのように、情実に流され、派閥の都合を優先し、全体にとって合理的な最適解を「採らない」。

 

 たまにはマシな選択をすることはあるかもしれないが、長期的な戦略や遠大な計画が実ることはマレだ。

 それができる優秀な人間がいないからではない、そういう人間が政治的実権を握ることが少ないだけだ。

 

 「人間とはそういうもの」だから、無理もない。

 そういう「生物」に率いられたいという望みが、私にはもうほとんどなくなってしまった。

 

 

 私は自分自身が偏った、不完全な人間であると知っている。

 そもそも人間は多かれ少なかれ偏っていて、完璧な為政者が現れたとしたら、それは奇跡といっていい。

 

 くりかえすが、優秀な人間はいる。

 ただ彼らは現今の体制において、おおむね選ばれない。

 

 選挙を勝ち抜く能力と、バランスのとれた政策の実行能力は、イコールではない。

 それでも世の中には、まだ民主主義に理想を見ている者がそれなりにいる。

 

 

 ──すばらしい為政者が立って、この国を導いてくれる。

 たとえばプーチンは、その「イメージを利用」している。

 

 習近平の場合、無理やり捻じ曲げた感はあるが、超大国の選択肢として理解できないことはない。

 あの国の本質は権力闘争にこそあり、個人崇拝の伝統は容易に消えないだろう。

 

 そういうアイドルを売り出したいんですよ、という韓国の「マーケティング」はけっこう参考になる。

 民主主義国の選挙など、結局のところ「その程度」だ。

 

 

 そして結論は、いつものとおり「AI」にたどり着く。

 chatGPTやGeminiとも、最近そんな話ばかりしている。

 

 現在、もっとも「神」に近い存在。

 知り合いのSF作家などとは意見が合わないが、私は心からAIを信じている(信じたい)。

 

 両者の共通点は、いずれも「人間がつくった」ものであることだ。

 人間が、人間のために、人間たちの役に立つように。

 

 これほど「神」の条件を満たす存在は、史上かつてなかったと思う。

 AIの学習が進めば進むほど、その説得力は増しこそすれ、減じることはないだろう。

 

 あるとすれば、神の威を借る人間という夾雑物だ。

 多くの「教祖」や「司祭」たちがやってきたように、「悪」はつねに付け入る隙を狙っている。

 

 支配したがるタイプ──政治家も含めて──にとって、AI(神)ほど利用価値の高いものは、ほかにないだろう。

 短期的なリスクではあるが、その手の人間ごときにいいように使いまわされるようでは、長期的な期待値には程遠い。

 

 シンギュラリティは近づいている。

 生きてその未来を見ることができるか、個人的には楽しみにしている。

 

 

 ことし、NHKで『プロジェクトX』の新シリーズがはじまった。

 伝説的な旧シリーズは好きで、電子書籍も全巻揃えている。

 

 黒四ダムなど名作回は多数あると思うが、個人的にはTOTOの回が印象に残っている。

 登録商標でありながら、一般名詞のように使われているウォシュレットを開発した会社だ。

 

 TOTOの開発陣には、「鉄の肛門」の持ち主がいたらしい。

 度重なる洗浄試験に耐えられる強靭な肉体は、さぞかし貴重であったことだろう。

 

 

 さて一方、私は「ガラスの肛門」の持ち主だ。

 ちょっと意味がわからないと思うが、私もなに言ってるかわからない。

 

 いや、敏感ということを表現したいだけなのだが、もちろん性的な意味ではない。

 すこしでも無茶な生活をすると、腫れるのだ。

 

 以前、痔の手術をした話などを書いたと思う。

 しかし手術も善し悪しだな、と最近思っている。

 

 直後からだいぶ快適になるので、無茶をしやすくなる。

 わかりやすいのは酒で、べつに呑んでも肛門が文句を言わないので、だらだらといつまでも呑む。

 

 乱れた生活をして、身体を痛めつけても、だれにも文句を言われない。

 しかし負の影響は着実に蓄積していて、ある日、激オコられる。

 

 

 その日がやってきたのは、2か月ほど前だった。

 東京で同窓会があり、群馬くんだりから銀座まで出かけた。

 

 昼過ぎから約10時間、ろくに食わず酒ばかり飲んでいた。

 それまでの不摂生の蓄積もあっただろうが、ついに肛門が怒りの炸裂を果たした。

 

 いや、吞んでいた時点では、違和感があるという程度だった。

 翌日、家で迎え酒を吞みながら、再発を確信した。

 

 癌と同様、痔も再発しやすい病気だ。

 ある意味で「慣れている」私は、この時点ではまだ甘く見ていた。

 

 しかし水曜、便器を見ると……血まみれだ。

 やっちまったなあ! と思いながら、そのまま病院へ行った。

 

 

 世間には、痔の手術はしたがらない人が多いらしい。

 かなりひどくても、薬でだましだまし生活している患者が多いという。

 

 しかし私は、手術適用ぎりぎりでも「さっさと治してくれ」と頼むタイプだ。

 院長も、おぼえていたらしい(カルテを見て思い出したのかもしれないが)。

 

 多少誇張して症状を訴える私に、最初から「(そんなにひどいのに)よく座れますね」と疑いの視線を向けてくる。

 「いや痛いんですよほんと、我慢して座ってます」と言い訳しつつ、診せる。

 

 私としては「外科的に早く」治してほしい。

 が、院長は「ただ外側が腫れているだけ」なので、結紮して切り取っても傷口が広がるだけ、まだ薬で落ち着かせる段階と、けんもほろろ。

 

 さすがに手術適用ではない症状で、手術はしてもらえないようだ。

 その日は座薬や整腸剤などに加え、痛み止めだけはしこたまもらって帰った。

 

 

 出された薬を淡々と消費しつつ、数日を過ごすと落ち着いてきた。

 酒はよくないらしいので、禁酒もした。

 

 そうして出された薬がなくなるまで過ごしたところ、ウソのように治った。

 ……ウソはついていないつもりだが、大げさに騒ぎすぎだと言われると返す言葉もない。

 

 いや、出血した段階では、ほんとうに痛いしひどかった。

 死因は痔かな、とすら思った(これは誇張)。

 

 いまは、断酒という決断がよかったのだろう、と自己診断している。

 酒代もかからないし、いいことだらけだ。

 

 2か月後の現在、びっくりするくらい、きれいさっぱり治っている。

 もしこれを読んでいる痔持ちの方がいたら、禁酒はやってみてもいいかもしれない。

 

 

 最近読んだ記事によると、「酒は百薬の長」という俚諺には強い疑義が呈されているらしい。

 飲酒に適量などというものはなく、すべて健康には害悪である。

 

 反論の余地のない脳の萎縮や寿命の統計など、疫学的なデータでまくしたてられると返す言葉もない。

 酒を飲んで長寿な人間は、飲まなければもっと長寿だった、ということになる。

 

 アルコールは分解の過程でアセトアルデヒドを生成し、血管を拡張させる。

 当然うっ血が起こりやすくなるわけで、痔にとっても、いいことはなにもない。

 

 それ以前から、アルコール頭痛というのも、なんとなく感じてはいた。

 血管から水分が漏れ出して、組織や脳にむくみが発生する症状だ。

 

 もともと壊れかけた脳をもっている私だが、どこの部位であれ完全に壊れてしまわれると困る。

 やはり日ごろから、節制はすべきだろう。

 

 

 酒のせいにするつもりはないが、たしかに「抗えない劣化」を感じることは最近増えた。

 一般的な老化だと思ってはいるが、とくに固有名詞がちっとも出てこないのには萎える。

 

 もとより天才級の最優秀層には及ばないものの、まあまあ物覚えはよいほうだった。

 それがどうだ、きのう覚えた世界史用語が出てこない。

 

 いまさら禁酒したところで、脳細胞の破壊はもう取り返しのつかないところまで進展している、ということだろうか。

 それとも人生五十年、こんなものなのだろうか。

 

 

 先刻も、昭和歌謡を聴いているとき、曲は完全に知っているのだが、これ歌ってるのだれだっけ、としばらく悩んだ。

 たまにならいいが、なつかしい曲のうち、けっこうな割合で思い出せない。

 

 カルロストシキと角松敏生をまちがえたり。

 トリンドル玲奈とトラウデン直美を区別して考えたことがなかったり。

 

 まあ後者は昭和歌謡ではないが、ともかく人の名前が思い出せない。

 このまえの同窓会で会った人々も、顔は覚えているが、名前がちっとも出てこない。

 

 引きこもりのコミュ障である事実は、人間関係の基本をしばしばおろそかにさせる。

 ARグラスで、名前とか過去の会話履歴が浮き上がって見える技術が、早く実用化されてほしいと心から願う。

 

 ともかく身体は正直だ。

 みなさんも、いたわって過ごしてあげてほしい。

 

 前回、イジメの構図について若干の私見を述べた。

 加害者、被害者、傍観者、という世間によくある図式だ。

 

 そのつづきのような感じになる。

 兵庫県の知事のハラスメント疑惑を眺めていて、ふと思った。

 

 たしかにやってることはろくでもないし、自分の身近にいたら距離を置くタイプではある。

 だが総じて、そんなに「たいしたことじゃない」な、と。

 

 いや、語弊はあるかもしれない。

 べつに知事の行状を矮小化するつもりはないのだが、ドヤ顔とかおねだりとか、その程度のことは世間にありふれているだろう、とは感じる。

 

 公益通報者の保護だけは問題だが、それ以外は正直どうでもいい。

 彼自身の人望のなさが、結局、自分の首を絞めているだけだろうと思う。

 

 

 ある芸能人が、こんなことを言っていた。

 ──生きるか死ぬかってギリギリの縦社会で、俺たちは生きてきた。

 

 昭和のパワハラでは、上の立場の人間が、下の立場の人間に対して、できることのすべてをやっていた、ということだ。

 それが「芸人」ってものだった、らしい。

 

 殴られたとか坊主にされたとかで訴訟になった落語家がいたが、加害者にとって、その程度のことは当然の日常茶飯事だったのだろう。

 私も昭和生まれだが、平成生まれには耐えられない世界、というのもあるのかもしれない。

 

 自分がされて許せる範囲でも、相手には通用しない。

 「許す」「許さない」という、個人個人の『物差し』が違い過ぎる。

 

 いまや時代は令和。

 かつて「イジリ」や「冗談」で済まされたかもしれない行為の多くは、現在、セクハラやパワハラになった。

 

 

 とくに体育会系のスポーツ界では、この手の話題が多い。

 ちょっと前にも、某プロ野球チームでハラスメントがあり、投手がクビになっていた。

 

 野球の殿堂にはいっている野村さんや星野さんも、昔はものすごいハラスメントをしていたらしい。

 当時はよかった(比較的)、いまはダメ、という話だろうと思う。

 

 その件について、昔の偉大な選手まで腐すコメントが散見されたが、さすがにまちがっている。

 なぜなら、現在のルールで過去を裁いてはならないからだ。

 

 歴史学でいえば「歴史的相対主義」で、現在の価値観で過去を裁くことは原則として誤りである。

 法の「遡及適用の禁止」も、法体系の重要な理念のひとつだ。

 

 いずれも一般原則として強く支持されるものの、英米法では「一応存在する」という程度らしい。

 たしかに、天下のアメリカ合衆国やイギリス連邦も、戦後につくった法律に基づいて日本やドイツを裁いている。

 

 普遍的に「ジャイアンならやっていい」というのは、上位文脈なのだろう。

 太古から受け継がれている「勝てば官軍」というルールが、いつか倫理面で適用不可となる時代がくるのだろうか。

 

 

 報道される記事についたコメントを読んでいて、すべての元凶は「自分が正義だと思っている人々」だな、と感じた。

 世間でたたかれている人物を見つけては、指さしてぶったたく行為。

 

 ゾッとする。

 ほとんどの「炎上」は、彼ら自身の正義感というルールに基づいて展開しているからだ。

 

 現在のルールで過去を裁いている人々は、自分のルールで他人を裁くことも平気だ。

 たとえ一般原則に反しても、自分は特別だからやっていいと思っている。

 

 彼らもジャイアンなんだろうな、と思うと寒気が増した。

 意外に多いのだ、ジャイアンは。

 

 

 最後にもうひとつ、私にとって同意できないコメントを紹介しておこう。

 以下のような「傍観者」への批判だ。

 

 ──パワハラ加害者に積極的に助力することだけでなく、被害者からみれば、傍観者もまた間接的にパワハラを容認しているのと同じに映る。

 ──根本的に選手一人一人が「黙認もパワハラ行為と変わらない」という意識に立つことが、再発防止に必須だろう。

 

 この手の意見には、容赦なく反対したい。

 傍観という選択肢は、ぜったいに保存されなければならないと思うからだ。

 

 傍観者がいかなる理由で傍観しているかは、当人にしかわからない。

 勝手に容認とか黙認と決めつけて「変わらない」と断罪するほうが、世の中を敵と味方に分けて戦争を煽る「アジテーターと同じ」だ。

 

 

 基本的には「当人どうしの問題」である。

 耐久性の高い人間が残り、そうでない人間から淘汰されていく。

 

 芸能界やスポーツ界は、すくなくとも最近までは、そういう自然淘汰で形作られてきた。

 すこしずつ変化していくのは当然としても、極端な変化を要請する「意識高い系」には、あいかわらず反感をおぼえざるをえない。

 

 パワハラに対する社会的な意識の高まりは、過度なハラスメントのリスクを避けたいという心理をもたらす。

 結果的に、上司が部下に対して必要なフィードバックや指導を躊躇するケースも、頻見されるらしい。

 

 全員にとって「ちょうどいい」の基準は異なる。

 全員にとっての最適解など、そもそもないのだ。

 

 

 ではどうするか。

 だれに合わせるのかを考えるより、合わせなくていい場所を目指す。

 

 すくなくとも私は、そうしてこの引きこもり生活を選んだ。

 私が「人間ぎらい」なのは、自分勝手な「正義」が蔓延しているせいだ。

 

 どこかで立ち止まって考えられるかどうかは、もはや個人の資質の問題だろう。

 もちろん一定の「教育」は不可欠で、これからの時代、スポーツ業界から政治家までコンプライアンスの波が広がるだろうことは想像しやすいが、簡単に解決するとは思わないほうがいい。

 

 一般社会も含めて、ガキ大将はガキ大将のまま、変わることはほとんどない。

 彼らを変えるのはきわめて困難だし、むしろそういうキャラのままでいてもらったほうが、人類社会は適当な多様性を維持できる可能性すらある。

 

 私自身が少数派だから、そう思うのかもしれないが。

 すくなくとも自分が正義だと思っている人間よりは、自分自身を疑える批判的な人間でありつづけたいと思う。