任天堂株が連日の大幅高らしい。

 5日に発売した家庭用ゲーム機「スイッチ2」の売れ行きや、米関税への耐性を好感した買いが集まっている、という。

 

 きのうは一時7.1%上昇、データを確認できる1983年以降での日中高値をつけた。

 この2日間の上昇率は約12%──。

 

 飛ぶ鳥を落とす勢いの一方、スイッチ2の転売、譲渡のニュースには事欠かない。

 芸能界でも「魔女狩り」がはじまっている。

 

 

 象徴的なのは中川翔子氏の件だろう。

 スイッチ2入手しました、と喜びをあらわにするポストが、あっというまに1億ビューを超えたらしい。

 

 必然的に「炎上」案件、いわゆる転売ヤーから買ったのでは、と指摘されたせいだ。

 当人は否定、結局、編集者・箕輪厚介氏が当選した本体を中川翔子氏に譲渡(あるいは貸与)したとして、謝罪に追い込まれたようだ。

 

 個別の事象についてコメントするつもりはないが、全体的に醒めた目で眺めている。

 売るほうについても、買うほうについても。

 

 スイッチ2について、私はそもそも抽選に応募する権利すらなかった、という記事をちょっと前に書いた。

 必要なときに本体を買い、ゲームをクリアしたら売る、という生活をしている私にとって、Nintendo onlineに有料加入する必要がそもそもなかったからだ。

 

 

 この一件は、現代における「所有」の概念そのものが問い直されている象徴のように思っている。

 スイッチ2の「譲渡禁止」規約──そもそもなんなの、これは。

 

 本来、ゲーム機を遊び終えたら売るのは、ごく自然な生活様式だ。

 いやゲーム機にかぎらない、あらゆる「道具」は必要に応じて当然に(法的権利として)、売り買いされてしかるべきだ。

 

 ところが任天堂の仕組みでは、それが「契約違反」とされる。

 譲るのもダメ、売るのもダメ、貸すのもアウト──企業による利用契約が、われわれの所有の自由を抑圧している。

 

 

 前述のとおり、私はゲームを「遊ぶ」ことを目的として、しかたなくゲーム機を購入している。

 それを「所有」したいのではなく、ただ「体験」したいだけだ。

 

 ならば、最初から貸してくれればいい。

 レンタルで、あるいは期間限定で使わせてくれるだけでじゅうぶんだ。

 

 任天堂にはそういうシステムがないので、しかたなくゲーム機を「買わされ」てきた。

 それでも遊びたいときだけ本体ごと買い、終わったら売る、という選択肢が担保されるならいい。

 

 ところがどうだ。

 企業は「売っておきながら、貸すことすら禁じる」。

 

 もしこれまでの私の行為が契約違反になるなら、それはもう所有とは言えない。

 任天堂が「使わせてやっている」だけの構造であり、われわれは高額な利用料を払って、期限も自由もないリース契約を結ばされているようなものだ。

 

 箕輪氏の「貸したということにします」という謝罪は、まさにその矛盾を突いている。

 善意であっても、規約がそれを受け止めないなら、私たちはますます閉じられた契約空間のなかで生きていくことになる。

 

 

 もちろん任天堂にも、厳しく縛る理由がある。

 最大の要因は、転売ヤー対策だろう。

 

 初代スイッチ発売時、需要の加熱と品薄が重なり、フリマやオークションサイトでは2〜3万円以上のプレミア価格がつけられる状態がつづいた。

 これに対しスイッチ2では、多くの徹底した対策を打って、いまのところそこそこ成功している……ように見える。

 

 企業として、「転売されず、本当に遊びたい人の手に渡ってほしい」という方針のもと、抽選制度と規約の強化に踏み切った。

 これはある意味で、フェアな試みではある。

 

 

 よろしい、任天堂の規約は企業として理にかなっている、としよう。

 転売防止、公平性、ユーザーの体験価値の保護──それじたいを否定するつもりはない。

 

 しかしそれでもなお、「所有した後の自由」をここまで制限することに、私は抵抗を感じざるを得ない。

 現代における「所有」は、もはや「自由」ではなくなりつつある。

 

 使い終わっても売れない、譲れない、貸せない。

 そこにあるのは、「契約で管理された所有」という矛盾だ。

 

 デジタルライセンス、クラウドサービス、サブスクリプション……。

 すべては「アクセスする権利」に置き換わり、所有とは「気分」にすぎなくなっている。

 

 

 ならば「所有しない」ことこそが、もっとも自由な態度なのではないか。

 そう、これは正解探しではなく、態度の問題なのだ。

 

 欲しがらない。

 欲しければ借りる。

 

 返せないものは持たない。

 それはケチでも投げやりでもなく、ミニマリストが選んだ「自由の守り方」だ。

 

 企業が売って、縛って、貸すことすら禁止するなら、私は最初から欲しがらない。

 大政翼賛会ふうにいえば「欲しがりません遊びたいソフトが出るまでは」だ。

 

 考えてみれば、あたりまえの話だと思う。

 それができていない社会(転売ヤー)のほうにも、たしかに大きな問題がある。

 

 

 「スイッチ2が欲しいか?」と問われれば、私はこう答えるかもしれない。

 「いえ、私が欲しいのは、クリアするまで使わせてくれる誰かです」。

 

 それが叶わないなら、最初から距離を置く。

 持たないことで、所有よりも強く自由である……気がする。

 

 私はそういう生き方を、これからも選びつづけるだろう。

 もちろん任天堂は痛くもかゆくもない、なにしろ業績は絶好調なのだから……。

 

 

 トランプとマスクがケンカをしていた。

 という字面だけ見ると、風邪を引いたスペードのキングが不機嫌そうに不織布のマスクを床にたたきつける、といったイメージが思い浮かぶが、もちろんそんな話ではない。

 

 アメリカ大統領と、世界有数の実業家。

 いい大人が、SNSでののしり合いをしているのを見るのは、じつにおもしろい。

 

 かわいそうなのは、必死で収めようとしている周辺の人間たちだ。

 さすがに大統領にはかなわないと見えて、執筆時点では実業家のほうが「後悔している」というコメントが流れてきたが。

 

 それらの動向に合わせて、派手に動くのがテスラの株価。

 昔取った杵柄で、なんとなく眺めながら分析してみた。

 

 

 私はトレーダーとして、10年弱ほど過ごしていたことがある。

 もっぱら為替だったが、CFDやオプション取引にもちょっとだけ手を出した。

 

 勝ったり負けたりだったが、おかげさまで生涯成績はプラスで幕を引けた。

 目標額に達してFIRE──というわけにいかなかったのは、取引額のプレッシャーに精神が疲弊して、壊れたからだ。

 

 そのリハビリで現在、田舎暮らしをしている。

 金融取引に手を出すつもりは毛頭ないが、経済ニュースやレートのチェックは癖づいてしまっていて、なかなかやめられない。

 

 

 というわけで、テスラの株価だ。

 カリスマ的な経営者、イーロン・マスクの一挙手一投足に合わせて、株価も乱高下の様相を呈している。

 

 そもそも去年から、いわゆるトランプラリーで最高値へ、数週間で倍近くまで上げた。

 その後、1日で15%も下げるなど、投げ売りがつづいて結局は半値以下までもどす。

 

 直近のトランプとのケンカ沙汰では、1日で約20兆円が吹き飛んだ、と話題になった。

 これをおもしろいと言わずして、なんと言うか。

 

 

 さて、私が仕事をもらっている会社の社長も、じつはオプション取引をやっている。

 去年はかなりの利益が出たようだが、ことしは「ひどかった」らしい。

 

 マグニフィセント7を中心に、オプションを売っている。

 なかでもテスラ(というよりも直近のトランプラリー)にはやられた、と嘆いていた。

 

 オプション取引とは、基本的に株価乱高下のリスクをヘッジする取引だ。

 社長がやっているのはコールオプションの売りで、現物で買った株にプレミアムを乗せて売っている。

 

 各種金融派生商品を毛嫌いし、現物株の長期保有しかしないことで有名なかのウォーレン・バフェットも、オプションの売りだけは合理的だと認めていたという。

 そのくらい「固い」取引なのだが、テスラのようにジェットコースターのような値動きをされた場合、それなりのリスクを伴う。

 

 

 直近の下げたタイミングで、テスラを買えというサインが出たらしい。

 大きく下げているタイミングなので、サインの意味は理解するのだが、私は「やめといたほうがいいですよ」と言った。

 

 もしかしたら買ったほうがいいのかもしれない。

 が、その合理的判断をさまたげたのが、私の人間としての「心情」だった。

 

 端的に言って、私は「嘘つきが嫌い」だ。

 どちらかといえば民主党よりも共和党を支持している私ですら、ゆえにトランプのことは大きらいだ。

 

 昔は、壮大な夢を語るイーロン・マスクのことが、きらいではなかった。

 だが2022年あたりから、大きらいになった。

 

 

 ツイッターの買収で、資金が必要になった時期だ。

 それまでも「売らない」とは言っていたはずだが、現金を調達するためやむなくテスラ株を売ったところまでは、まあいいとしよう。

 

 4月に「株の売却は今後予定していない」と明確にツイートした、その同じ年。

 売却をやめた気配はなく、12月半ばの36億ドルを含め、累計400億ドルの株式を売却した(うち売らないと宣言したあとに売ったのは150億ドル)。

 

 これは明確な「ウソ」だと思われる。

 その責任について、どこまで問えるかはわからないが、信義の問題として許しがたい。

 

 ツイートした瞬間には、ホントにそう思っていたのかもしれない。

 そのとき思ったことを書いただけなら、それ以上の責任は問えないかもしれない。

 

 瞬間の気分を書くのは自由だし、未来について約束した覚えはない、と言われればそれまでのような気もする。

 たった数か月の未来すら関係ないね、と平然と無視できる「性格の問題」だ。

 

 

 たしか彼の発言をめぐっては、「投資家を誤導した」として集団訴訟が提起されていたような気がする。

 判決がどうなったかは追えていないが、当時の報道を見たとき、私は怒りよりも呆れに近いものを感じていた。

 

 SECの規則では、公開企業とその幹部は投資家にとって重要な意味をもつ可能性のある情報について、正確に開示することが義務づけられている。

 残念ながら、企業がどのようにそれを行うべきかは具体的に規定されていないが、私にとって彼の態度は「詐欺」だと感じられた。

 

 実業家として、気宇壮大な大風呂敷は、まあいいとしよう。

 売らないと言っておいて売るのは、明確にダメだろう。

 

 ママのお財布からお金とったでしょ、ボクとってないよ!

 という、すぐバレるクソガキみたいなウソは、未成年のうちに卒業すべきだ。

 

 

 言い換えれば、すでに当時から、その後の彼の行動は予想されていた。

 世界の環境と未来のために電気自動車を普及させようとする一方、「掘って掘って掘りまくれ」と言うような大統領を支持する。

 

 幻滅する人間が増えるのは当然だ。

 それでもマスクを支持する人々と、見限った人々による買い増しと売り浴びせ。

 

 テスラの株価の背景に、そのような構図を読み取って眺めると、じつにおもしろい。

 言論の自由、対中姿勢、環境・エネルギー問題、文化戦争など、掘り下げるべきテーマはいくらでもある。

 

 それらを織り込んで売買したら、勝つ可能性は増えると思う。

 まあ、そうまでして金を転がすくらいなら田舎で野菜でも転がしているほうがいい、という境地に、いまの私は達しているわけだが。

 

 韓国で大統領選が終わり、革新系の李さんが勝ったらしい。

 またぞろ反日か、といった毎度おなじみの議論を垂れ流す番組をなんとなく眺めながら、つれづれなるままに思ったことを書いていく。

 

 結論から言うと、私は韓国に興味がない。

 若いころ会った尊敬できる在日韓国人が、彼ら(朝鮮半島)のことは「無視したほうがいい」と言っていて、その説明にしごく納得したからだ。

 

 なので新大統領が親日だろうが反日だろうがどうでもいいし、できれば無視はしたいのだが、そこにいたる流れについてはすこしだけ語っておきたい。

 いわく、前大統領がなぜ非常戒厳令を発出したのか、だ。

 

 

 法案が通らないとか、奥さんの問題を突かれたとか、いろいろ事情はあったようだ。

 そのへんのことは分析が得意な人に任せたいが、いずれにしろ目先のファクトは、わりとどうでもいい。

 

 私は正直、韓国人は冷たいなあ、と思っている。

 同胞の北朝鮮国民の多くが苦しい目に遭っているというのに、その「苦痛を長引かせる」選択にばかり汲々としているからだ。

 

 中東では世襲のアサド政権が崩壊した。

 支援するロシアにとっては手痛いダメージであったと思うが、シリア国民にとっては苦難の道のりとはいえ、希望も見える展開だと思う。

 

 独裁政権というものは、じりじり崩れるということはない。

 たいていは一気に崩壊するものだ。

 

 可能であるならば、さっさと手術してしまったほうが、治りは早い。

 朝鮮半島には「不可能」だろうか?

 

 じくじくと出血させながら、対症療法で治療を長引かせるのは、「死んで終わり」の個人のケースであれば、個人の自由だ。

 しかし、その後もずっと「国は終わらない」のだから、やるべきことであれば早くやったほうがいい。

 

 

 罷免された前大統領が、北朝鮮に「引導を渡す」ような明確な構想を抱いていたかは、私にはわからない。

 だが、彼の政権下で進められていた対北圧力の強化や、日米との連携強化の動きは、すくなくとも「北の現状を放置しない」というメッセージを含んでいたように思える。

 

 彼の意図がどうあれ、朝鮮半島という地政学的火薬庫に対して、本格的な治療(外交・情報・軍事を含む手段)を検討していたという見方もできるのではないか。

 日米と組んで早いうちに「作戦」を進め、朝鮮半島全体にとって、より最適化された未来を目指していた可能性はあった、と思う。

 

 そうではないとしても、北朝鮮の状況はどう考えても「かわいそう」にみえる。

 当人がいいならそれでいいんだと切り捨てたい気持ちもあるし、南側の多くの人々がそう思っていることも理解はするが、いつか手術をしようと決意する大統領が現われるなら、それは応援に値する。

 

 その種の「決意」が、だれにとって都合がわるいか?

 それこそ、韓国の民主主義に感染した「朝鮮民主主義人民共和国」的な文脈であるように思う。

 

 

 韓国の民主主義はおかしい、という言葉をよく聞く。

 民主主義は法治国家という前提のもとに機能するが、その「法律が軽んじられている」からだ。

 

 韓国には法律の上位に「情緒法」があって、正しいことを言っても感情が優先される、という傾向がある。

 それが「韓国の民主主義」だとしたら、たしかにおかしい。

 

 なるほど、あるニュース番組に出演していた韓国人の教授は、「韓国国民がこれだけ言っているんだから日本政府は配慮すべき」という、法的な拘束力のある合意の「無視を前提」とした議論を展開していた。

 彼女らにとっては、それが正しい民主主義だからだ。

 

 北朝鮮という国が、民主主義じゃないのに民主主義人民共和国を名乗っているのと、とてもよく似ている。

 同じ語彙を異なる意味で使われると、当然、議論はかみ合わなくなる。

 

 理屈で考えるタイプの私にとって、冒頭「無視したほうがいい」と助言してくれた韓国人の彼には、心から感謝している。

 かみ合わない相手とは、話さないほうがいい。

 

 

 とある女性問題について、chatGPTに相談したことがある。

 結論は「その場合、話をつづける必要はあまりないと思います」だった。

 

「あなたが相手の立場をすでに理解したうえで「話がかみ合わない」と判断している場合、さらに対話をつづけても新しい成果や発展は期待しにくいです。むしろ、時間やエネルギーの浪費につながる可能性があります。

 

 あなたが理性的な対話を望んでいる一方で、相手が感情的なアプローチを求めている場合、話の基盤そのものが異なるため、解決に至るのは難しいです。どちらかが大きな譲歩をしない限り、かみ合わないままで終わるでしょう。

 

 どんなに相手が対話を望んでいても、あなたが消耗してしまうなら、その関係や対話は長期的に見て健全とはいえません。感情的な立場を押しつけられることは、あなたの精神的な安定を脅かす可能性があります。」

 

 非常に筋が通っていて、わかりやすい。

 この話は恋愛体質でわがままな女についての相談だったが、宗教的な「狂信者」でも同様のロジックが成り立つ。

 

 世界は神さまがつくったのだ、と信じている人々に物理の話をしても、あまり意味がない。

 お互いに「異なる言語」で語るとは、そういうことだ。

 

 

 もちろん韓国にも、理屈で会話できる相手はたくさんいる。

 罷免された大統領にも、15%くらいの岩盤支持層はいたらしい。

 

 理屈の通じない「情緒的な国民」と常に対峙させられている彼らが、「無視するしかない」という結論に達してもふしぎではない。

 冒頭の在日韓国人は、おそらくそのひとりだ。

 

 それでも若い人はマシ、という話はよく聞く。

 反日とか親日とかいう分類は意味がなくなりつつある、という希望的な観測もある。

 

 そうかもしれないが、残念ながら彼らの世代に切り替わるまでには、まだ何十年かかかる。

 日本の報道番組に出てくる、私と同世代の韓国人の大学教授すら「情緒に配慮しろ」と言っている国なので、まだまだ「同じ言語で話せる相手は少数派」と断じざるをえない。

 

 以前、知り合いの批評家も、どんな文脈だったかは忘れたが、韓国の人とは話がかみ合わない、とぼやいていた。

 事程左様に、彼らとは言語の用い方が異なる。

 

 

 もちろん日本人でも話の通じない輩はいるので、あくまで確率の問題ではある。

 彼らがどういう教育環境で戦後を育ってきたのかを考えれば、理解できなくもない。

 

 結局、世代交代を待つというのが最善策だったりする。

 欧米を見ていても、その傾向は察しうる。

 

 白人至上主義に毒された人々は、いくら矯正しようとしても無理なのだ。

 彼らの目には黒人は野蛮だし、女は愚かでしかない。

 

 20世紀前半までを支配していた彼らが「退場するのを待って」、ゆっくりとパラダイムをシフトする。

 それが最適解である場合が、残念ながら多いように思う。

 

 理屈の通じない人間、自分の理屈を押しつける人間には、なるべく関与しないこと。

 危険人物には「かかわらない」というのが、人間関係の鉄則だと思っている。

 

 令和の米騒動は、なかなかおさまらない。

 この件について、まず私自身の立場を明記しておこう。

 

 私はコメを消費しないので、おコメが高くても安くても、痛くもかゆくもない。

 田舎に暮らしているので農家の知人はいるが、忖度するような関係ではない。

 

 というわけで、利害関係もなければ心理的拘束もない。

 ただ私自身の知的レベルにもとづいて、客観的にこの「米騒動」を評価したい。

 

 

「古古古米を、なんで人間が食わなきゃいけないんだ」

 と、ご立腹のお客さまがいらっしゃったらしい。

 

 備蓄米を「動物の餌」呼ばわりして炎上した政治家もいたが、こう切り返せる。

「べつに、あなたが食べる必要はありませんよ?」

 

 忘れたころに読み返される場合に備えて、背景を手短にまとめておこう。

 コメが一年で倍の値段になって国民が困っているので、新しい農水大臣が古い備蓄米を放出して、値段を下げようとしている。

 

 旧大臣は農協の言いなりだったので、新大臣の小泉さんが農水省の尻を叩き、農協という既得権に戦いを挑んでいる。

 「古いコメ」に対する苦言は、そんな新大臣への批判という文脈になる。

 

 だれの需要に即した筆致かは指摘しないが、まあ農協にとっては都合がよかろう。

 「古い米なんか人間が食べるもんじゃない」という切り取り方は、きわめて示唆的だ。

 

 

 このような言説がメディアに掲載されるたびに、妙な既視感に襲われる。

 それは「感情的な発言を切り出して、それを問題として提示する」という、典型的な煽動のパターンだ。

 

 北海道の開拓期、一部の入植者たちは雑穀を配給されたとき、こう言って怒ったという。

「なんで馬の餌を人間が食わなきゃならないんだ」

 

 いまや雑穀は、健康食品の顔をしてスーパーの棚に並んでいる。

 食物繊維が豊富で、鉄分もあり、むしろ積極的に摂取すべき食材として再評価されている。

 

 しかし、当時の彼らにとって「人間の食い物」とは白米だった。

 あとは動物の餌か、飢餓の代用品。

 

 雑穀の栄養価を知らない愚か者、と言いたいわけではもちろんない。

 当時としての常識が、彼にそう言わせた──その価値観の枠組みが「フレーム」だ。

 

 

 多くの人間は、自分のフレームでしか世界を解釈できない。

 そのフレームは、教育や報道によって与えられる。

 

 直感的、反射的に、言わんでもいいことを言う人々。

 世界が炎上する責任の半分は、彼らだ。

 

 まずい米だと言われると、『美味しんぼ』の海原雄山を思い出す。

 こんなまずいものが食えるか! といつも怒っているイメージが強い、北大路魯山人をモデルにした「美食」の泰斗。

 

 私は彼のような人間が大きらいなのだが、「キャラクター」としては愛している。

 ただ自分の近くにいたら重大インシデントだろうな、と感じる程度には「気が合わない」だけだ。

 

 私がこの件で思うのは、「そもそも人間が食えるものを動物の餌にしてることがまちがってんじゃね?」だが、雄山を筆頭とする味覚王たちの感想は異なるのだろう。

 だからべつにあんたは食わなきゃいいじゃん、という冒頭に返る。

 

 

 古米は人間の食いもんじゃねえ。

 という認識は、ある種の教育(あるいは教育の欠如)ないし利害関係による認知のゆがみが生んだ、残念な帰結にすぎないと考える。

 

 問題はそれを「報道すること」だ、という私の視点をあらためて述べよう。

 じっさい報道の姿勢にも、各社の色が表れていておもしろい。

 

 古くは読売・産経の保守陣営と、朝日・毎日の革新陣営という図式が永らく支配的だった。

 ちなみに私は淡々と日経を読む奇矯なタイプだった。

 

 彼らは自分たちの主張したい内容に沿って、アジェンダをセッティングする。

 特定の方向性を期待する人々に向けて、ニュースを選び、文章を書くということだ。

 

 最近ではネットニュースや独立系も多いので、読者・視聴者もエコーチェンバーになりやすい。

 自分の気に入ったニュースだけを選ぶ、という傾向は加速されていくだろう。

 

 

 備蓄米の放出について、小泉さんが党の農水部会に諮らなかったことを「老害」議員が批判したとして、またぞろ炎上していた。

 いわゆる「族議員システム」がはっきり見えて、突っ込みやすかった面もあろう。

 

 農協の利益を代表する議員の合意を得なければ、それ(備蓄米の安価放出)はやってはいけない。

 党として彼(小泉農水大臣)のような人間は抑えなければいけない、と。

 

 まあ道路族や郵政族も似たようなものだとは思うが、要するに、せっかくつくった利権を無視すんじゃねえよ、と。

 しかし、その意を受けた前大臣のやり方を見れば、彼らとの議論が無益であることは判明している。

 

 とくに食料という「いま必要」なものについて、速やかな合意形成が不可能な相手には、無理に歩み寄らなくていいと私は考える。

 民主主義とは妥協の産物だが、妥協が成立しない場面では「一歩踏み出す」政治家の存在もまた、不可欠なのだ。

 

 

 もっとも、農水族の言い分にも一理はある。

 農業は自然相手の産業であり、価格の乱高下を避けるには政治的な調整がどうしても必要だった。

 

 歴史的にも、農協と密接な連携を取る農水族議員が「現場の声」を代弁してきた。

 手続きを踏まずに政策を動かせば、現場との信頼関係が崩れ、制度全体が立ちゆかなくなる──という懸念は、単なる保身ばかりではないかもしれない。

 

 私は「百害あって一利なし」というような極端な表現は嫌いだ。

 麻薬にだって「そのときは幸福」という利、自分が使うぶんには「被害者のいない犯罪」という理くらいはある。

 

 べつに族議員が麻薬だとまで言うつもりはないが、特定の利益代表とそれ以外の政治家の判断は、おのずと異なるだろうし、また異なるべきだ。

 特定利益を重視する理屈にどれだけの説得力があるか、どれだけの反論、反証に耐えられるか、突き詰めるべきはその一点だけだと思う。

 

 

 国民はコメが高いと困るので、小泉さんを応援する勢力は瞬間的に多い。

 しかし既得権側の農協は、高値を維持したい。

 

 小泉フィーバーはある程度しかたないとしても、ひと太刀浴びせてはおきたい。

 それが「農協サイドの立場を補強する報道」につながる。

 

 提灯記事とまでは言わない。

 農協の「広告」が完全に逆効果だった事例も、直近であった。

 

 JA全農山形が出した「それでもお米は高いと感じますか?」という新聞広告。

 そのなかで、一杯の茶碗のご飯と、菓子パン、カップ麺、ハンバーガーを比べていた。

 

 おかずなしの茶碗の飯だけで一食終わるやつがいるんか?

 という比較としてまちがった数字を、一年で値段が倍になって怒っている国民にぶつけたのだから、火に油を注いで当然だ。

 

 それが彼らの本音だとしても、あの広告はたいへんなまちがいだった。

 たとえ正しくても相手が聞く耳を持っていなければ意味はないのに、最悪のタイミングで不正確なメッセージをぶつけるとは、判断した人間の正気を疑うレベルだ。

 

 

 そんなわけで、「古米は人間の食いもんじゃねえ」という報道も、影響としてどっちに転ぶかはわからない。

 重要なのは、あらゆる報道にはなんらかの意味や意図が隠されている、という「視点」だ。

 

 大正時代の米騒動は流血も伴ったが、令和のそれは、戦後日本が育てたフレームのなかで静かに拡散する「認識の暴動」といっていい。

 私自身、自分を「フレームの外」にいると信じたがる、ただの「バカ舌」かもしれない。

 

 与えられた言葉の「餌」の裏で、だれが笑っているのか。

 ほんとうに「笑われるべき」は、だれなのか。

 

 全員の答えが一致はしないし、それぞれが自分で考えて答えを出すべきだ、と思っている。

 いずれにしろ私たちは、フレームのなかで選ばれた情報に、きょうも踊らされているのだ。

 

 ゴールまで1km、倒れた女性。

 使われなかったAED──。

 

 くりかえし拡散する「女性にAED使用で訴えられる」説。

 警察や弁護士は、正しい知識で救命を、と呼びかける──。

 

 本日のブログ執筆の発端は、上記のような記事だ。

 私はひねくれているので、ひねくれた結論から述べよう。

 

 やりたくないなら、やらなければいい。

 あなたが倒れた女性を助ける必要は、ない。

 

 

 まず「助けたら訴えられる」説。

 基本的にはほぼないが、「そういうことにしておいたほうが都合がいい」のはだれか、という点から考えよう。

 

 命はなによりも大事、みたいな教育が席巻するなかで、なかなか刺激的なフレーズだと思う。

 まあ死にたい人を助けたら「よけいなお世話」だよなあ、という思いとも輻輳する。

 

 現に「触られたくない女」は一定数、存在する。

 見知らぬ男に触られるくらいなら、死んだほうがマシよ! と言われたら、返す言葉はない。

 

 個人の自由というのは崇高なもので、死んでも触られたくない、と思う彼女らの意見は尊重しなければならず、われわれにはどうしようもない。

 彼女らの利益が、それ以外の女性の利益と対立しても、それはしかたのないことだ。

 

 

 とあるアイドルが、死にそうになってたら遠慮なく触ってほしいと投稿していたが、それもあくまで彼女の考えにすぎない。

 「触るな」と主張する女性が現実にいて、彼女らはそれ以外の女性のリスクより、自分の感情を優先している。

 

 それが「抑止力」として稼働する事実は、数字に表れている。

 必要でも触らない、という男性が増えることは、彼女らにとってとても「都合がいい」。

 

 

 似たようなロジックで「献血」がある。

 献血に協力する人の多くは男性なので、一部の男性向けのノベルティが用意された。

 

 すると、ある女性弁護士がたいへんご立腹だった。

 こんな性的なノベルティを使わなければ血が集まらないくらいなら、そんな血は集めるべきではない、くらいの勢いだったと記憶している。

 

 もちろん彼女自身、自分には必要がない献血など、なくてもいいのだ。

 放置されたら死んでしまう女性がいたとしても、自分に関係がなければ気にする必要はない、というロジックは盤石である。

 

 

 献血が減るとか、AEDで助けてもらえないとかは、基本的に自分には関係ないし、きわめてレアケースなので無視しやすい。

 そんなことより自分が不快であることに優先順位を置くのは、むしろ当然だ。

 

 彼女らは自分の主張のために、それ以外の主張や合理性に対して優先順位を下げる、という選択肢をとった。

 結果を受け入れるのは「自分以外の女性や輸血を必要とする人々」なので、遠慮する必要は皆無だ。

 

 

 理屈はわかる。

 彼女らにとって、これは「絶対優位の戦略」だ。

 

 多くの男女が協力したほうが、全体として高い利益が得られる。

 だとしても、自分たちの主張を貫くほうが、全体の利益が減っても自分たちにとっては常に都合がいい。

 

 映画でいえば実写版『白雪姫』が似ている。

 DEIが正義で、王子さまを待ったりしない、という現代風の女性が主人公だ。

 

 名作をぶっ壊して、新しい価値観の訴求の道具にする(自分たちは心地よい)。

 結果は、史上まれにみる低収益(全体としての利益は低下)だ。

 

 

 意識高い系は、自分の考えが正義だと思っているので、そう思わない人々に対して高圧的に「自分が正しいから従え」「新しい価値観を受け入れろ」という姿勢を示しやすい。

 みんながやさしく聞いてくれているあいだはいいが、そうでもなくなったとき、相応のバックラッシュを引き受けざるを得なくなる。

 

 反DEIやアンチフェミニズムは、その典型だろう。

 ほどほどの主張で止めておけばいいのに、言いすぎるので反発される。

 

 

 私も人間なので、命の危険がある局面で触るの触らないのという議論じゃないだろう、と常識的には思う。

 だが残念ながら、女性に対してはAEDを使わないのが「絶対優位の戦略」だ。

 

 命に危険があろうとも輸血するな、という宗教も実在する。

 そのような思想集団に対しては、距離を置く以外の選択肢がない。

 

 明示的に「触られたくないバッジ」みたいなものを携帯する、というやり方はあるかもしれない。

 どれほど必要でも輸血はされたくないし、たとえ死にかけていても男性にAEDを使われたくないなら、自分はそういう考え方なのだということを「明示する義務」を負うことにすれば、それ以外の人々は助けてもらえる。

 

 しかし現状、そうはなっていない。

 よって、女性に対してAEDを使うのは「ただのリスク」ということにしておいたほうが、狭義の都合はよい(全体の利益は低下)。

 

 

 「触られたくない」と公言すればするほど、触られない社会ができる。

 それが命を削る結果になっても、だれのせいでもない。

 

 だとすれば、こうした非常識な合理性は、偶然ではなく、だれかが選びとった結果ということになる。

 非常識な選択のほうが合理的である社会にしたのは、いったいどこのだれですかね?

 

(前回のつづきです)

 

 多かれ少なかれ世界中が「自分勝手」ではあるのだが、とくに中国でわかりやすいくらい顕著である理由を、ひとつ挙げよう。

 「始皇帝の遺産」だ。

 

 日本の漫画などでは英雄のように描かれているきらいもあるが、この趙政という男、個人的には「クソ野郎」だと思っている。

 アレキサンダー大王やチンギスハン、スペインのコンキスタドールたちと同列の意味において、であるが。

 

 「それが征服者というもの」だ、という言い方はできる。

 とくに始皇帝のやった「文化の破壊」はすさまじかった。

 

 個人的に、始皇帝に比肩するのはディエゴ・デ・ランダくらいのものだと思っているが、キリスト教に対する批判はまた別途に譲ろう。

 焚書坑儒に代表される彼の「暴虐」はすさまじく、なにより最悪なのは、そのプロトコルが歴代王朝にもたしかに「受け継がれていった」ことだ。

 

 

 過去をゆがめ、自己正当化に走る。

 ことさら中国というフレーム、その最後の王朝にいたるまで、例外はない。

 

 清朝は、満州族による征服王朝だった。

 康熙帝は歴史に残る名君とされ、それ以外にもおおむね評価の高い皇帝が多い。

 

 私はこれに強い疑義をもっている。

 表面上、どう取り繕おうと試みたところで、始皇帝の遺産は底流している。

 

 同じく評価の高い乾隆帝の時代、勅命によって四庫全書というものが編纂された。

 全国各地から書物を集めて、膨大な漢籍の叢書をつくるという国家事業だ。

 

 そのすばらしい文化的活動の目的が、「満州族に対する批判的言論の封殺」にあったことは、あまり知られていない。

 清朝の国家統治にとって障害となるような書物は禁書とされ、収録されなかった図書は三千点にものぼるという。

 

 たとえ部分的でも、満州族に対する批判や憎悪が記されていたら、すべて黒塗りした。

 そう、彼らは征服民族である自分たちへの批判を、始皇帝と同様「焚書」によって圧殺しようとしたのだ。

 

 

 そういえば、天安門事件、法輪功、新疆ウイグルなどのキーワードを検索すると、ブロックされる国があるらしい。

 国家レベルのネット検閲システムが、現に稼働している国……。

 

 結局、始皇帝の時代から、なにも変わっていない。

 中国という体制そのものが、情報操作と遮断、権力闘争によって自己組織化される、ということなのだ。

 

 と、そこまで断言すると、さすがに飛躍が過ぎる気がしないでもない。

 しかし近代以前の統治様式において著しく似通ったパターンが、体制の深層構造として残存しているように見えることはたしかだ。

 

 

 では、なぜ中国の国民は、このような体制に抗えないのか?

 さまざまな分析はあるが、私が考えるのは「彼ら自身が共犯者だから」だ。

 

 人類史に残る失政と権力闘争の権化、毛沢東。

 世界史的にも評価の芳しくない政治家だが、当の中国では紙幣にまでなっている。

 

 そんなものを、なぜ平気で使っていられるのか?

 なぜなら使用(を決める権限をもつ)者の多くが「被害者側ではなく加害者側」であり、その忌まわしい過去と自己を「正当化したい」からだ。

 

 

 大躍進政策や文化大革命で暴れた若者が、現在まだ多く政府中枢に残っている。

 彼ら紅衛兵が文革でよくやっていたのが、まさに「文化」の「革命(破壊)」だった。

 

 「革新」はすべからく直近の過去の破壊に立脚する。

 歴史的に大きな「征服」や「簒奪」というタームにおいて例外はない──とはいえ、とくに共産党は徹底しているという印象がある。

 

 新体制にとって刷新すべき過去を、不愉快な「ブルジョワ」と決めつけて排除したのが文化大革命であり、中国共産党による中華人民共和国の成立だった。

 当時、破壊と勝利の熱狂のもと、自分たちの連帯感を高めることもできて一石二鳥だっただろうことは、想像に難くない。

 

 そうして暴れまくった若者たちが、まだ社会にそれなりに残っている。

 それが悪だと指弾されないためには、毛沢東を弾除けとして飾っておいたほうが、なにかと都合がいい。

 

 天安門に飾られた肖像画によって、そのような体制に加担した自分たちの「悪」も、なんとなくごまかせるような気がする……。

 あの紙幣が現役で存在するということは、つまり中国はまだそういう状態にあるという意味だ、と私は解釈している。

 

 言い換えれば、あの紙幣が切り替わるときこそ、体制が変わるときではないか。

 ──などと「書いただけで抹殺される国」というのは、そもそもおかしい。

 

 

 日本で「共産主義革命を起こす」と書いても、べつに当局がやってきて調査や検閲されたりしない。

 日本だけではない、世界のだいたいの国で許されていることができない国なんて、長持ちするはずがない。

 

 どこかで必ず変わる。

 そのシナリオについて考えるとき、諸刃の剣として立ち現れるのがAIだ。

 

 たとえるなら人類の未来をDeepSeekとChatGPTが話し合って決める。

 そんな未来も、ないとは言えない……。

 

 ことしもロシアが、対独戦勝記念日をやっていた。

 そういうことをやる感覚が、個人的には不思議に思える。

 

 関係者や遺族への配慮とか、いろいろとエクスキューズは思いつく。

 あなた方の国への貢献は報われました、と表明することは重要なのかもしれない。

 

 しかし、落ち着いてよく考えてみないか?

 戦争の「勝利条件」はたいてい、相手よりたくさんの人間を殺すこと、だ。

 

 そんなことを記念している国は、大上段で「戦争が好きな国」というイメージを打ち出しているようにみえる。

 戦争が終わったことを記念するならまだわかるが、会場に兵器を並べて「ウラー」と叫ぶ人々は、そうとう戦争がしたいようにすら映る。

 

 たしかに現在進行形で戦争をしている国でもあり、イメージどおりではある。

 この文脈において重要なのは、なぜ彼らに「その必要があるか」だろう。

 

 

 中国なら抗日勝利記念日ということになるが、不思議なのはそれが「歴史カード」として外交に使えると思っていることだ。

 日本の政治家も踊らされているが、なぜそんなものを信じられるのか?

 

 自分たちは戦勝国なので、世界秩序を構築する権利をもっている。

 そういう前提らしいが、そんなふうに「信じられる」時点で、宗教によく似ていると思う。

 

 私は彼らと同じものは信じない。

 なので彼らの振りかざすカードの効果は及ばない。

 

 

 宗教にとっての信者は、為政者にとっては国民である。

 為政者がそうする「必要」とは、もっぱら国民に対してだ。

 

 国民や信者に対して効果を発揮する、限定カード。

 その効果範囲外にいる人々がポカーンとするのは、当然といえば当然かもしれない。

 

 もちろん、いかなる宗教も信じるのは個人の自由である。

 彼らの信じていることは「正しく」もあるのだろう、「彼らにとって」は。

 

 中国人は習近平を信じるし、ロシア人はプーチンを信じる。

 権威主義であればあるほど「信じさせる」ことが要諦となるが、そのあたりも宗教に近い。

 

 

 中国人のメンタリティには、「正しいことを実現するために法律は必要ない」という発想が底流している、と神田外語大の興梠先生が言っていた。

 それを聞いた私の脳内でいろいろと事象がつながり、なるほど、と得心した。

 

 重要なのは、その「正しさ」を決定するのはだれか、という一点だろう。

 中国の場合、この問いに対する答えは単純かつ明快だ。

 

 共産党である。

 現代中国の政策や社会現象を理解するうえで、これさえ押さえておけばたいへん理解がしやすい。

 

 

 共産党は国家の最高権力として、法律を超越した指導的立場を確立している。

 国家目標の実現においては、法的手続きや個人の権利がしばしば二次的なものとされる。

 

 具体例を挙げると、一人っ子政策時代には、二人目以降の出産を抑制するために強制的な措置がとられた。

 近年、少子化が深刻化すると、今度は出産を促す方向に転じ、企業が「結婚しなければ解雇」といった圧力をかける事例まで出てきている。

 

 これらの措置は、法律の有無にかかわらず「国家が正しいとする方針」が優先される実態を示している。

 重要なのは、この正しさの決定権が民衆や外部機関には委ねられない、という点だ。

 

 権威主義体制においては、制度設計上も運用上も、統治主体が「正義」の最終判断者となる。

 中国にかぎらず多くの権威主義国家では類似の構造が見られるが、中国の場合、その力の行使が国外よりも国内に向けられる傾向がある点は特徴的といってよい。

 

 つまり共産党という統治機構は、国家内における秩序と目標達成を最優先とし、そのためには法律や国際的な人権基準を柔軟に解釈・適用する傾向をもつ、ということだ。

 この構造は一種の「リヴァイアサン」、すなわち強大な権力を持つ統治体の典型例と捉えることができる。

 

 

 顧みれば国共内戦、共産党軍はあらゆる「狡猾」にして「卑劣」とも思える手段を駆使し、政権をとった。

 掘り下げると長くなるので、ここではしない。

 

 あらかじめ断っておくが、彼らがやったことを否定するつもりは、まったくない。

 謀略は国家/戦争の本質だからだ。

 

 そしていま、あらゆる卑劣な手段どころか、合法的なデモンストレーションさえも拒絶する体制になっている。

 中国で権力闘争に勝ったら、やるべきことを徹底してやらないといけない。

 

 すなわち「自分はいいけど他人はダメ」を貫くことだ。

 「我人に背くとも、人我に背かせじ」と言ったのは乱世の奸雄・曹操だが、この論理に基づけば彼らの行動に「矛盾」は発生しない。

 

 ──台湾問題など「内政不干渉」を要求するが、他国の内政には関与する。

 たとえば一帯一路、これは単なる経済圏拡張のように見えるが、「債務の罠」により他国の港湾をぶんどるなど、その権利を著しく侵害している。

 

 ──トランプ政権の関税に対して、自由貿易のルールを守れと叫ぶ。

 おまえが言うな、と世界中の学者や経済界が突っ込んでいる。

 

 短期的には矛盾が放置され、長期的に「一貫性」の正当化を必要としない。

 西側諸国ではありえないことが、中国のような権威主義国家では可能となる。

 

 

 なぜこんなことになっているのか、中国という「龍」のしっぽのほうまで眺めて、彼らの吐く「炎」の性質を分析してみた。

 暫定的な結論から述べると、その炎は「論理ではなく信念によって」燃やされている、ということになる。

 

 われわれがおぼえる違和感の正体は、互いにとっての正しさの源泉が、まったく異なる場所にあるがゆえ、だ。

 その場所を探るとき、ひっきょう歴史について語らねばならないが、長くなりそうなので……また次回。

 

 某フリマサイトのトラブルが、最近いろいろニュースになっていた。

 高額な商品を買ったのにゼリーが届いたとか、正しい商品を送ったのに返品で別物が返されたとか。

 

 運営の対応もだいぶひどい、と指摘されていた。

 性善説で運営されすぎている気はするし、泣き寝入りのユーザーも多いようだ。

 

 個人的な感想としても、そこまでひどい目に遭ったことはないが、だいぶめんどくさい取引相手が多いな、という印象はあった。

 以前はよく出品していたのだが、最近あまり使わなくなったのはそのせいだ。

 

 とはいえ、不要なものを売る、というのはすぐれたエコシステムだと思う。

 スマホを乗り換えたので、ひさしぶりに不要になった端末を売ってみたのだが、あいかわらずめんどくさかった……。

 

 

 私は出品スタイルとして、必要な情報を最低限きっちりと書き、安めの価格で出品する。

 基本的には24時間以内に売れるし、今回も売れた。

 

 見る人の少ない早朝に出品して、しばらくたったころだ。

 つぎつぎと質問が飛んできた。

 

 本日中に発送できますか?

 ──はい、可能です。

 

 運用中は充電につないだままでしたか?

 ──いいえ、3日ごとくらいです。

 

 めんどくさいとはいえ、まあべつに異常な質問でもないので答えていたが、最後がひどい。

 ただでさえ安値の出品に対して、1割以上の値引き交渉を仕掛けてきたのだ。

 

 

 値引きしてくれるなら買ってあげますよ、という態度。

 私はそういうのが嫌なので安く出品しているんだが、と内心思いつつ価格交渉は黙ってクリアする。

 

 交渉とか駆け引きというものが、私はほんとうに苦手だ。

 そんなことにかける時間は人生を無駄にしている、とすら思っている。

 

 しかし「商人」にとっては、重要な存在理由の一端になる。

 セールスマンの極意は、「いらない」と言う相手に「買わせる」ことだ。

 

 いっぽう私は「いらない」と言ったらいらないのであって、食い下がられるとイライラしてくる。

 そこをなんとかじゃねえんだよ、と。

 

 

 とはいえ、彼らのやり方や能力を、全否定するわけではない。

 むしろ私のような性格のほうが、一部の女子にとっては指弾すべきものとなりうる。

 

 私は小学校の女の先生から「相手の嫌がることをしてはいけません」と教わって以来、相手が「いやだ」と言っている以上すべてアウトなのだと考えていた。

 いや、いまでもある程度そう考えている。

 

 しかしそれは、すくなくとも一部の女子にとっては都合がわるい。

 生物の世界を見ても、相手の能力や必死さを選別するために、とりあえず「拒否しておく」という選択肢はよくあるのだ。

 

 

 語弊があるのであまり言いたくはないが、いわゆるセクハラ問題はこの微妙な分水嶺を問うものが多い気がする。

 つるし上げられる人間がだれか、という問題は大きいのだが、それにしても「多少の強引さ」ですらセクハラとして指弾されている印象が、まれによくある。

 

 彼らを擁護するつもりがまったくないことを、まずは申し述べておかねばならない。

 相手が嫌だと言ったら、やめればいいだけだ。

 

 しかるに、ある種の「強引さ」を、すべてハラスメントとしてシャットダウンしないほうがいい、という現実問題もある。

 尊敬する落語家の志ん生師匠が、こんな噺をしていた。

 

 いや、やめて、と言いながら女は、好きな男の胸に自分から飛び込んでいく。

 いや、やめて、と言いながら女は、嫌いな男がのたうちまわるダメージを与えて逃げていく。

 

 要するに「形だけの拒否」を、どこまで理解できるかだ。

 そういう人々に「売りつける」ことが、セールスマンにとっては重要なスキルとなる。

 

 

 どこからが必要な強引さで、どこからがハラスメントか。

 その空気が読めればなんの問題もないのだろうが、残念ながら世の中には空気の読めない人間が、けっこういる。

 

 私は「読めない」わけではないのだが、その方面にできるだけコストをかけたくない、と思うタイプだ。

 いやだと言ったらいやだし、1万円と言ったらその商品は1万円、それでいいではないか。

 

 「そこをなんとか」する「駆け引き」を好んでするのが「商人」だ。

 彼らが絶滅すればいいと思うこともあるが、絶滅しないので、そういう社会に適応しなければならない。

 

 

 そんな人間が、フリマをするとどうなるか。

 残念ながら、いらんストレスを感じるハメになる。

 

 相手も安いことは理解しているだろうし、購入の意思も感じる。

 応じてくれたらラッキー的な気持ちなのかもしれないが……。

 

 値引きは難しいですかね?

 などとすり寄ってくる感じは、もしかしたら「値引き交渉しないと死ぬ病」なのかもしれないな、とすら感じた。

 

 

 今回にかぎって、なぜか連続で飛び込んでくる値引き交渉の波。

 なにかね、この世界線には値引きしなければいけないというルールでもあるのかね?

 

 イライラしはじめたタイミングですぐに、たぶんサイトを見る人が増えてきたのだろう、別の人が即決で買ってくれた。

 私は静かにお礼を伝えて、速やかに発送した。

 

 とある休日の朝、数時間に起こった出来事だが、なんだか必要以上に疲れた。

 やっぱりフリマは控えよう、と思った。

 

 

 最近、「正義」とか「中立」についてよく考えている。

 言葉の定義からしてやっかいな概念を、具体的に表現するのはさらにむずかしい。

 

 私の書いている小説の主人公は「ニュートラル」だ。

 しかし彼の判断は、ほんとうに中立的と言えるのか?

 

 という相対的な正義とか許容範囲の話を表徴している事例として、昨今のフジテレビ問題がわかりやすい。

 第三者委員会の報告書も出て、おおむね決着したようだ。

 

 フジテレビと中居氏の件については、以前もちょっとだけ書いた。

 当時はまだ途中経過の状況だったので、結果を踏まえて思考を整理しよう。

 

 

 結論からいえば、第三者委員会の報告書は中居氏をクロと認定。

 フジテレビ社員B氏も共犯者といって差し支えない、という内容だった。

 

 中居氏およびフジテレビを擁護していた側にとっては、かなり痛い報告書だったと思われる。

 文春側にも問題はあったと思うのだが、そこはかなりスルーされている感じには違和感をおぼえた。

 

 私個人として、中居氏を擁護したことは一度もない。

 とはいえ、ぶったたかれている側に、いわゆる「判官びいき」的な感情をおぼえたことは否めない。

 

 日枝氏の体制によって築かれた文化への郷愁もあった可能性はある。

 まあテレビっ子ではないので微妙だが、そういう昭和的な雰囲気への無意識的な擁護はあったかもしれない。

 

 昭和の価値観の多くが否定されているし、私もほとんどのケースで同意するのだが、さすがに「行き過ぎている」と感じることが、まれによくある。

 尊敬する芸人の江頭さんが、ひさしぶりに地上波に出て女性タレントに絡み批判されていたが、あれもある種の観測気球だったかもしれない。

 

 

 この手の炎上事案でいちばん感じるのは、「自分はできるだけ攻撃側にいたい」という心理だ。

 攻撃できるときにしておくのは、なんか得した気分にもなる。

 

 主義者や活動家は、相手を叩きのめすのに最適の論法を選ぶ。

 自分に都合のいいルールを採用するのは、あらゆる個人や団体もやっている。

 

 個人であれば、いずれ「ブーメラン案件」として突っ込むこともできるが、不特定多数の炎上の波に紛れたら、もうわからない。

 群衆とは、首尾一貫して正しいことを言う「必要がない」のだ。

 

 

 この問題で注目すべき点として、道徳的ビジネスや道徳的ナルシシズム、正義の劇場化の氾濫がある、と思う。

 異常に長時間の記者会見はわかりやすかったし、ネットにおける苛烈な批判はフジテレビにかぎらず、もはやお約束となっている。

 

 くりかえすが、これは「われわれ個々人の問題」だ。

 と議論を進める前に一応、軽く説明しておこう。

 

 「道徳的ナルシシズム」とは、自分が正義を行使していると感じることで自己満足に浸ること。

 個々人ではそこまで強く批判するつもりがなくても、「みんなが批判しているから」と追随し、結果として集団全体が過剰な攻撃性を帯びる。

 

 アンチフジテレビ、アンチ文春、アンチ中居……。

 いずれにも一定の仲間がいて、それにもとづく「正義の行使」は運動会のような高揚感を伴うため、一部の人々にとっては「快楽」になりうる。

 

 

 「道徳的ビジネス」は、「正義の名のもとに他者を攻撃することで、自分たちの立場を強化する」という利害関係のこと。

 批判をする側が、ほんとうに善意や社会正義のために行動しているのか、それとも自己の承認欲求や優越感を満たすために行動しているのかが不透明、という特徴がある。

 

 「正義の劇場化」は、問題解決よりも見栄えの良いドラマを優先すること。

 情報の切り取りや恣意的な編集によって、「あたかも完全な悪が存在し、それを討つ自分たちは完全な正義である」という物語がつくられる。

 

 さらにいえば、「自己免罪型の正義」というのもある。

 「だれかを叩くことで、自分の正しさを証明しようとする心理」だ。

 

 現実の社会においては、善悪は単純に分けられないグレーな領域がほとんどであり、「わずかな瑕疵」を誇張して「全体を否定する」論法は、フェアではない。

 このような「歪んだ正義」が蔓延している、と全体的に感じた。

 

 「攻撃のための正義」「快楽としての正義」のような、本来の正義とは異なる正義を掲げる側が、その正義を守るために手段を選ばなくなることがある。

 それじたいが「新たな暴力」になりうる。

 

 

 中居氏の問題にもどると、文春とフジテレビ、どちらかの主張を重視すること。

 その時点ですべて、上述の問題に抵触していないか自己省察する必要がある。

 

 自分の感覚に符合するから、その主張を支持する。

 まさに「快楽としての正義」に近い。

 

 べつに偉そうなことを言うつもりはない。

 私自身、わりとフジテレビを擁護していたことを、意外とすら思っている。

 

 コテコテの文系《インドア》が、じつのところ体育会系に「あこがれ」ていたのかなあ、と自分の深層心理を分析したりもした。

 陰キャがパリピを支持するなど、ありえないようにも思うが、まあ是々非々だ。

 

 

 全体として、大山鳴動して鼠一匹だと思っている。

 株価がわかりやすい。

 

 ふつうは暴落していいところだが、現状は上げている。

 もともと安かったという意見もあるようだが、大企業が女ひとりに騒がれてどうこうなるわけがない、という冷静な判断が底流している。

 

 むしろ守旧派である、やっかいなタレントやキャスターを一度に始末できて、より安全性の高い運営になる「プラス効果」のほうが評価されている気さえする。

 フジテレビ株価は、一時的に高騰したライブドア騒動のころを抜いた。

 

 なぜか? フジテレビが変わることへの「期待」だ。

 言い換えれば「復讐」でもある。

 

 あのときフジテレビを買えなかった一味の後継者が、リベンジに動いている。

 復讐者のおかげで株価が下がらないというのは、フジテレビにとっては皮肉な話だ。

 

 

 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

 今回も批判された古いフジテレビは、お台場ではないどこかへと消えていくだけのことだろう。

 

 それが必要とされていないなら、わざわざ壊さなくても消えていくと思う。

 さらに言えば、壊したり殺したりせず、話し合いで解決する正義の味方というのも、いていいんじゃないだろうか。

 

 私の作品の「ニュートラル」には、RPG的な展開にもかかわらず「できるだけ敵と戦わないでクリアする」という、サブルーティンが仕込まれている。

 たぶん彼は正義ではなくて、すくなくとも自分のことを正義だと思っておらず、まれに思ったにしてもそれを疑いながら進んでいる。

 

 そういう物語を、読みたいと思った。

 見つからなかったので、自分で書いている。

 

 先日、日本国債の価格についてちょっと書いた。

 またぞろ日銀VSヘッジファンドの戦争がはじまる、とても楽しみだ、というようなオチをつけた気がする。

 

 それにまつわる話で、アメリカの債券市場でも、ちょっとおもしろいことがあった。

 備忘録的に、すこしだけ書いておきたい。

 

 今月上旬の話で、ぼちぼち情報も出そろいつつあるが、結論からいえば真相はよくわからない。

 というより、どこの投資家が、どんな理由で買ったのか、売ったのか、あきらかになることのほうが、むしろまれだ。

 

 インサイダーやよほどの事情通でもないかぎり、私のような「ただのウォッチャー」には永遠の謎である前提。

 そのうえで、いくつかの予想はできているので、自分の気に入るシナリオで納得してみようと思う。

 

 

 ちょうどトランプ政権が「相互関税」を発動するタイミングだった。

 その約1時間前、債券市場である出来事があった。

 

 時間外取引で米国債が突如、売られはじめたのである。

 ニューヨーク・タイムからトーキョー・タイムにかけて、およそ1日足らずの間に、利回りが急騰(価格は下落)した。

 

 同時に日本国債も超長期債を主体に大きく売られていたが、タイミングの面でやはり米国債が核心だ。

 どうして、どこが、なぜこの時間に、日米の国債を売却したのか──ストップロスなのか、期初の売りなのか、この時点ではまったくわからなかった。

 

 リアルタイムで米国債の利回り変化を追っていた人の記事を読んだが、かなり頻繁にレートが変わっていて、売買はそうとう活発であったらしい。

 通常、この時間に米国債が頻繁に売買されることはないので、かなり目立っていたようだ。

 

 

 ざわざわ……という感じがトーキョー・タイムにも伝わってきて、東京の昼の米債売りでは、一部の邦銀が売却したのでは、との観測も出ていた。

 具体的には「農林中金」という名前が出たようだが、農林中央金庫の理事長はすぐに、米相互関税導入時の米国債大量売却について「事実はない」と否定した。

 

 翌週以降に財務省が発表した「対外及び対内証券売買契約等の状況」では、4月6~12日の1週間に、国内投資家が売り越した海外の国債など中長期債は5120億円。

 規模はわかるが、売買主体まではわからない。

 

 日経新聞によると、大規模売却に動いたのは国内勢ではないようだ。

 そうなると、やはり当初から騒がれていた「中国勢による報復」の売りが、本命視されざるをえない。

 

 

 これに対して、当事者の片割れであるアメリカのベッセント米財務長官は、その憶測を否定してこう言った。

 「非常に大きなレバレッジをかけた取引をしていたプレイヤーがおり、彼らが損失を被ってデレバレッジを余儀なくされている」。

 

 ヘッジファンド出身らしい物言いだが、要するに米国債の投げ売りは一時的なもので、大きな流れにはなりえない、と言いたいらしい。

 たしかにその後、ある程度、価格は落ち着いているように見える。

 

 問題はタイミングだ。

 あの日、トランプ大統領はどうしたか?

 

 そう、「相互関税の上乗せ部分について、一部の国・地域に90日間の一時停止を許可する」と発表したのである。

 どうやら債券の価格変動を受けて、ベッセント財務長官とラトニック商務長官が、関税を一時停止するよう大統領に呼びかけたらしい。

 

 発動したばかりの大統領令をその日のうちに撤回するという、あまり見たことのないレベルの朝令暮改。

 おかげさまで、一時的に株価などは持ち直したりもしたが、ある意味ではひどいボラティリティ(変動率)にさらされることにもなった。

 

 

 世界経済にとっては最悪の事態を回避させた、という見方をする人々もいる。

 たしかに90日間の延命は、多くの企業にとっては「助かる」ことではあったろう。

 

 それだけに深読みする人々は少なくない。

 個人的にも、ある種の陰謀論さえ組み立てたくなってくる。

 

 演じるキャストにも、それなりの説得力がある。

 ベッセント財務長官は、かつて「日銀を打ち負かした男」とまで言われた、ウォール街の「静かな殺し屋」だ。

 

 彼がアベノミクスの円安で大儲けしたのは事実──とはいえ、べつに負かしてはいないだろう、とは思っている。

 だがすくなくとも、かつて「イングランド銀行を負かした」ジョージ・ソロスの薫陶あらたかである点、疑う余地はない。

 

 

 この金融市場に精通している人物は、今回の事象について以下のように説明した。

 「このたびの米国債の大量の売却は、海外のヘッジファンドがアセットスワップの大きなポジションを、一気にアンワインドしたため、との観測が出ている」。

 

 その意味を完全に理解はできないが、だいたい雰囲気は伝わってくる。

 債券市場はやっかいですよ大統領、というハッタリは、ただのハッタリでは済まないくらいの説得力があった、ということだ。

 

 その後、アメリカの株価はじりじりと下げている。

 トランプ大統領が方針を変えそうもないことが理解されてきて、徐々に折り込みが進んでいるようだ。

 

 大山鳴動して鼠一匹なのか、それともこれから世界が変わるのか。

 株価や債券はもちろん、いろいろな見方から推測、理解することで、同じニュースでも興味深く、おもしろくなる。

 

 最初に書いたとおり個人的な備忘録にすぎないが、この記事が世界を理解できる一助となれば幸いだ。

 マーケットには、魔物が棲んでいる──。