詐欺の電話が、定期的にかかってくる。
 もちろんスルーするだけなのだが、個人的に困るのは、たまに「引っかかりたくなる」ことだ。

 一時、中国語らしい意味不明の電話や、機械音声の電話などが流行った。
 料金に未払いがあります、2時間後に電話が使えなくなります、1を押してください、というような電話はほぼヒャクパー詐欺だ。

 もちろんわかっている。
 詐欺なのだが、なぜか猛烈に1を押したくなる……。

 たまたまそんな電話を受けたとき、画面には古代宇宙飛行士説の動画が流れていた。
 一件無関係の事象だが、あまりにも近しいものを感じたので、その理由を文章にしてみたい。


 この手の動画に、毎度出てくる陰謀論者がいる。
 陰謀論界隈では名のある、教授だか博士らしい。

 その吹き替えがもう、完全に「軽口をたたく詐欺師」という印象で固まっている。
 翻訳サイドの先入観が、はっきりと伝わってくる声優と語調。

 配給側だけでなく供給側にも、おそらく確信犯的なところがある。
 彼が出てくるともう「突っ込み待ち」としか思えない言葉が、つぎからつぎへとあふれ出してくるのだ。


 たとえば、エジプトのピラミッドがすごいことは、だれもが知っている。
 あんなすごいものを、4500年も昔の人間がつくれたと思いますか?

 現代人にすら困難な建築物、圧倒的な正確性、現在の重機をもってしてもたいへんな時間がかかる。
 それをですよ、古代人がです、あんなやつらはもうサルに近いんだから、できるはずがない、まちがいなく宇宙人に手伝ってもらったんだ!

 過去の人類を圧倒的にディスることで、宇宙人というトンチキな説をごり押しするスタイル。
 その論法が、どうにも気に食わない。


 エジプト考古学者のザヒ・ハワス博士も、だいぶご立腹だった。
 過去の人々が、当時の技術や力で最大限に努力して築き上げた偉大な建造物なのです、と。

 たしかに彼らは、現代人のような科学も重機もなく、それであのような建造物を築くのは奇跡のように思える。
 しかし彼らは、なにもないところからすこしずつ努力して、ついにその域に達したのだ。

 試行錯誤の痕跡もある。
 最初から高いものをつくったわけではなく、階段状だったり、屈折したものをつくって強度や工法を確かめながら、最終的にギザの3大ピラミッドまで到達したのです、と。

 まったくそのとおりだ、と私も思う。
 まともな科学者なら、だれでもそう思っている。


 しかし陰謀論者は、古代人の努力を否定したがる。
 彼らにはできない、と決めつける。

 なぜか、ということを考えはじめて、すぐに気づく。
 詐欺師からの電話と同じだ、と。

 彼らは「だまされてくれる」「自分以下のバカ」に狙いを定めているのだ。
 陰謀論者が全員そうだと言うつもりはないが、だいたいそうだと思う。


 宇宙人が地球にいるはずがない、という否定派の人間もいる。
 彼らに対して、くだんの陰謀論者が、別のビデオではこんなことを言っていた。

 なぜ宇宙人が地球にやってきていないと言えるのか? 根拠は?
 相対性理論の壁が厚いから、光速を超えて移動することはできないから?

 ここまで発展した人類の叡智を尽くしても、どうやらできそうにないことは、宇宙人にとっても困難に決まっている。
 それが宇宙原理というものだ、だから宇宙人は地球にやってきていないんだ。

 冗談じゃない!
 星間航行を人類ができないからといって、宇宙人にできないなどと考えるのは傲慢だ!

 そういうことを言ってるから、あんたたちはダメなんだ。
 人類にできなくたって、宇宙人にはできるに決まってるじゃないか! 人類はほんとうに傲慢だよ!


 私は嘆息した。
 たしかに、それはそうだ。

 人類にできないからといって、宇宙人にできないとはかぎらない。
 それはそうなんだが、なぜ「あんたが言う」んだ?

 あんただって、自分にできないことは古代人にもできるはずがないって、決めつけてたじゃないか。
 あんたは自分と同じ論法を相手が使うことに、そんなに我慢ができないのかい?

 いちばん傲慢なのは、恐るべきダブスタを貫く、まさにあんただよ!
 と、まあそう思ってしまったわけだが、これは「釣られた」ということなのだろう。


 彼は自分がアジテーターであることを理解していて、突っ込ませるためにイカレたことを吐き散らかしている。
 そんな彼に突っ込んでいる自分自身を省察し、それでも言わずにはいられない。

 人類にできなくても、宇宙人にはできる。
 だったら低能な現代人にできなくても、優秀な古代人にはできたっていいじゃないか。

 黙ってその事実を認めるだけでいいのに、あえて突っ込みどころ満載の説に仕立てる。
 なぜなら「詐欺電話は違法だが、陰謀論は合法」だからだ。


 チャーチワードとかデニケンとか、もうその時点で「詐欺師」の前評判がつきまとう。
 空軍に所属して世界を渡り歩いたのに所属していた記録がないとか、貴族ぶって名乗っているがパスポートにフォンはないとか。

 彼らの吹き散らかしたデマを、まるでリピート再生装置のようにくりかえすことで、日々の生活の糧にしている人々は事実、一定数いる。
 考えてみれば彼らが出ている番組を観ている私自身にも、その責任の一端があることを認めざるを得ない。

 べつに信じたくて見ているのではない、多様な意見を仕入れるために観ているのだが、彼らにとっては同じことだ。
 アジテーターや詐欺師は、いまも昔も「商売になる」のだ。

 じっさい、ムー大陸や世界政府といった「物語」は、じつにおもしろい。
 そういう詐欺師にはある種の才能があるし、だから「1」を押したくなったりもする。

 そこでわれわれが、立ち止まって考えることができるかどうかだ。
 そうして詐欺を「楽しむ」かぎり、さほどの害もないだろうと思っている。

 

 

 スイッチ2が予約販売を開始した。

 日本人向けに安く売ってくれるというので、買っておこうかなという気になった。

 

 私は特定のタイトルだけをやりたくて、それが販売されたタイミングで本体を買い、クリアしたら売るという生活を20年以上、くりかえしてきた。

 そういうミニマリスト的な生き方を好んでいるが、結果的にニンテンドースイッチを3回も買う(無印、バッテリー強化版、有機EL)ハメになった。

 

 思い出(セーブデータ)くらいは残しておいてもバチは当たるまい、と当該タイトルのソフト本体だけは手元に置いている。

 ただ、この話は以前も書いたが、最近のゲームはセーブデータがソフト側ではなくハード側に残る、ということに気づくのが遅かった。

 

 昔のゲームは「カセット」にデータが保存された。

 最近のゲームもメモリカードにセーブされるものとばかり思っていたが、どうやらスイッチの場合は本体に記憶されるらしい……。

 

 

 そんなわけで、スイッチ2は買い直さず長く手元に置くことになるんだろうな、と思っていた。

 さしあたり、やりたいゲームもないので買う必要もそれほどないのだが、インフレの時代だし値上がりするまえに入手しておこうかな、という思いもあった。

 

 重めの予約サイトに飛ぶ。

 登録されているメールアドレスでログイン。

 

 一回しか応募できない、応募規約を確認してください、ふんふん、なるほどね。

 おひとり様1点かぎり、そりゃそうだ何個もいらん。

 

 申し込みサイトをそれなりに流し読んで、カートに入れる。

 ──結論から言うと、「応募条件」を満たしておらず弾かれた。

 

 

 ゲームプレイ時間が50時間以上。

 これはクリアしている。

 

 Nintendo Switch Onlineの加入期間が累計で12か月以上。

 残念ながら未達。

 

 ……いや、そりゃそうだろ、サードパーティのゲームがやりたくて「しかたなく」ハードを買ってるのに、なんで使いもしないニンテンドーのサイトに12か月もお布施を支払う必要があるんだよ?

 要するにニンテンドーのゲームをやらないやつには売らん、という姿勢だった。

 

 

 私は昔から「売らん」と言われたら「いらん」というタイプの男だった。

 売りたくない相手に、無理に売ってもらう必要がどこにある?

 

 他人の嫌がることをしてはいけません、という小学校の先生の教えを私ほど忠実に守ってる男も、なかなかいないと思う。

 女子が「やだー」と言ったら、それは「いやなこと」なので、彼女の身の上に二度と当該事案が引き起こされないように、衷心から祈るタイプだ。

 

 ダイレクト型自動車保険の会社から福祉車両は「入れん」と言われて以来、「だれが入るか」という姿勢を貫いている。

 売り渋る商人に対しては、できるだけ買わなくて済む方法を模索するべきだ。

 

 言ったことはやれ、できんことは言うな。

 この基本を、どこまでも貫くつもりで生きている。

 

 

 殴ったら殴り返されるし、売り渋ったら買い渋られるべきだと思っている。

 そんなわけでスイッチも、できるだけ買わない方向で生きていきたい。

 

 最近はゲームのマルチプラットフォーム化も進んでいる。

 PCでプレイできれば、それに越したことはない。

 

 ちなみに、この件についてニンテンドーを批判するつもりもない。

 彼らもよくよく考えて、この販売方法を選択したのだろうからだ。

 

 転売対策として、たしかに有効のようには思われる。

 ほんとうに使いたい人の手に、適切な価格で届くこと、これは重要だ。

 

 もちろん私も使うつもりで買おうとしたのだが、いま現在それほど欲しいわけでもない。

 ただ予防的に買っておこう、という私のようなユーザーはおそらく特殊なのだろう。

 

 

 任天堂がこの売り方を選んだということは、これが彼らにとって正しいからだ。

 そもそも量販店などで予約や行列すれば買えるわけだし、必要な人間はどんな手を使っても入手するのだろう。

 

 個人的には、あえて大企業のスキミング・プライシング(最初に高値をつける戦略)に乗っかる必要もない、と思っている。

 コアなユーザーで最初に最大の利益を出してもらってから、われわれライトユーザーは必要に応じて買えばいい。

 

 願わくはいずれ落ち着いてから、チャットやマウスなど私には不要な機能を削ったラインナップで、値下げされることを期待している。

 機能を削って安売りするというのは、いつもの任天堂のやり口だ。

 

 

 私はミニマリストなので、ゲーム機を所有しようという欲求があまりない。

 ゲームはクリアするまで使えればよく、使い終わったら売るか捨てる、という姿勢をスマホなどその他の日用品でも貫いている。

 

 ……ということは、スイッチもべつに買う必要はなくて、だれかに借りて使えばいいんじゃね?

 いや、セーブできないしな……。

 

 ともかくやりたいゲームが出てくるまで待つのが、最適解だと思う。

 欲しがりません、要るまでは。

 

 日銀のもっている国債がヤバイことになっている。

 以前も国債のリスクについては書いたが、いよいよ顕在化してきたようだ。

 

 日本の国債は過去12カ月で5.2%下落。

 世界44の国債市場のなかで最悪のパフォーマンスとなった。

 

 下落は6年連続で、1990年以来最大の落ち込み。

 これは、日銀の金利見通しが他の中央銀行と異なるために起こったことだ。

 

 

 超低金利の時代が何十年もつづいたあとに国債利回りが上昇に転じたことは、とくに海外投資家にとってチャンスになる。

 物価連動国債を除く日本の国債市場は、英国、フランス、イタリアを合わせた規模より大きい。

 

 償還期間の長い日本国債の利回り上昇は米国債よりも魅力的であり、為替リスクのヘッジにちょうどいい。

 というわけで、2月には残存期間が10年超の日本国債に、海外から過去最多の資金が流入したらしい。

 

 

 いっぽう国債・財投債の53%を保有する日銀は、すでに量的・質的緩和からの出口戦略に転じている。

 その膨大な残高の縮小に動けば、需給関係に大きなインパクトをもたらす可能性が高い。

 

 長短スプレッドにより利鞘を確保する観点から、銀行に長期国債を保有する一定の動機があることはまちがいないが、将来の政策金利の変動で逆ザヤになるリスクはある。

 そうした国債の受け皿として海外ファンドが流入しているわけだが、これは近い将来の売り崩しのリスクと表裏一体だ。

 

 日銀も「長期金利が急激に上昇する例外的な状況では、市場における安定的な金利形成を促す観点から、機動的に国債買い入れの増額等を実施する」ようだが、できれば動きたくないというのが本音のはずだ。

 なにしろ「発行済み国債・財投債の50%以上を日銀が保有」している。

 

 しかし金利水準が物価との関係で魅力あるレベルにならないかぎり、最終投資家が国債を買うのはむずかしい。

 この売り圧力を、日銀は「長期金利=実質短期金利+期待インフレ率+タームプレミアム」と説明した。

 

 

 インフレ圧力の高まり、金利の急上昇は、またぞろハゲタカファンドの出番を想起させる。

 この状況は、言い換えれば国債市況の急落局面と同義だからだ。

 

 もちろん日銀は、長年のヘッジファンドとの戦いに慣れている。

 植田総裁は、国債売り崩しを牽制するため、国会において機動的な国債買い入れの可能性に言及した。

 

 ただし、この状態で日銀が国債を買えば、インフレ下における量的緩和になるため、円が売り込まれることになりかねない。

 結局、国債は買い手不在となり、長期金利が急上昇をつづけ、利払い費の急増がさらに財政を圧迫する。

 

 

 結局、だれが国債を買うんだろう。

 健全な「投資家」なら、おそらく手は出さない。

 

 言い換えれば、不健全な「投機家」にとってはいいカモだ。

 もし彼ら「将来の敵」に売るしかないとしたら、またぞろ「日銀VSヘッジファンド」の第何十ラウンドかがはじまることになる。

 

 これまでのところ、日銀はイングランド銀行やスイス中銀のような大きな敗北は喫していない。

 しかし、こんどこそ日銀が負けないと、だれが断言できるだろう。

 

 

 顧みれば、日銀は海外ファンドと何度も激しい攻防をくりかえしてきた。

 半世紀ほど生きている私にとって、日銀は「無敵」のような気さえする。

 

 たとえば2003年の「VaR(バリュー・アンド・リスク)ショック」では、銀行がリスク管理手法を変更したことがきっかけで日本国債が急落し、ヘッジファンドがそれに便乗した。

 しかし日銀は、すばやい介入と市場への流動性供給でこれを抑え込んだ。

 

 記憶に新しいところでは2022年、YCC(イールドカーブ・コントロール)の防衛ラインを巡る攻防がくりひろげられた。

 海外勢による国債売り浴びせに対し、日銀は無制限の買いオペで対抗した。

 

 

 ヘッジファンドとの戦いに終わりはない。

 いずれ仕掛けられるだろう「日本売り」に、日銀がどのように立ち向かっていくか、想像するとちょっと楽しい。

 

 そのとき彼らは「市場と対話する柔軟な対応」なのか、それとも「防衛ラインを死守する強硬策」なのか。

 個人的には「強硬策」で吹っ飛ばされるヘッジファンドの群れを見たい気もするが、強い薬はそれだけ副作用も大きい。

 

 ヘッジファンドVS日銀──。

 この歴史的な戦いの行方を、楽しみに見守りたい。

 

 

 私は引きこもりだが、必要があるときは出かける(あたりまえだが)。

 その場合、できるだけ1回の外出で済むように、用事をまとめておくという癖がある。

 

 買い物に行く場合も、無駄な時間を過ごすことはあまりない。

 最初からこれを買うと決めて最短距離でその売り場に向かい、レジに取って返して店を出るまで、できるだけ最短時間を更新したいと思っている。

 

 観光さえ、ゆっくりするという考え方はあまりない。

 いくつか訪れる場所をピックアップして、巡回セールスマン問題のように、どれだけ効率的にこなせるかという点を重視する。

 

 

 そういう性格の私は、作業用BGMのひとつとして、よく「お散歩動画」を流している。

 新宿とか、秋葉原とか、パリとか、サントリーニ島とか。

 

 そこでふと気になることがあったので、書き残しておきたい。

 ──「止まっている」ひとというのは、なんだろう?

 

 動画の撮影者を含め、ほとんどのひとが動いている。

 街は移動する場所で、それぞれの目的をもって、それぞれの目的地にむかっている。

 

 

 もちろん全員歩いているわけではなく、ベンチなどで「休憩している」ひともいる。

 都会は意外に徒歩での移動時間が長くなりがちなので、休みたいというのはよくわかる。

 

 観光地であれば、絶景を「眺めている」ひともいるだろう。

 最近は海外のインバウンド客も増えて、日本人にとってはどうでもいい日常の景気を、熱心に撮影していたりする。

 

 多いのはやはり、駅前など特定の場所で「待っている」ひとだろう。

 信号が赤とか、まだ開店時間ではないとか、だれかと待ち合わせとか。

 

 どこで待ち合わせしようと、それはそのひとの自由だ。

 タクシーを呼んだとか、予約の時間まで間があるとか、なんらかの「待ち」時間をマチのどこかで過ごしている人々は、たくさんいる。

 

 「仕事で立っている」のは、忖度するまでもない。

 チラシを配ったり、呼び込みをしたり、とにかく彼らは必要があってそこにいる。

 

 立ちんぼ、という業態もある──彼女らは客を待っているのだ。

 すべて「仕事」であれば、なんの違和感もない。

 

 

 その場に「止まっている」理由として、これらは非常に理解しやすい。

 言い換えれば、それ以外の理由があるとしたら、なんだろう?

 

 「道に迷っている」場合はあるかもしれない。

 ふと立ち止まって「考え事をする」「悩みに囚われる」というのも、ないわけではないだろう。

 

 気になるのは「目的もなくそこにいる」人々だ。

 そのへんの街角で、ただ立っている、座っている、スマホをいじっている。

 

 そういう人々の背景を忖度してみるが、自分が「正解」を引いている実感があまりない。

 彼らはなぜ、そこに「止まる」という選択をしたのか?

 

 能動的に選択したわけではなく、行く場所がないからただそこにいるだけなのか?

 ただ動く理由を見失う、動くことでなにかが変わる気がしない、どこに行くべきかもあいまいだから……。

 

 

 ある記事によると、なんの目的もなくマチに出て、ふらふらしたり、ただじっとしている、という人間が実在するのだという。

 そのことについて深く掘り下げていくとき、私の思考は停止しがちだ。

 

 街角は静止する場所ではない、と私は思っている。

 が、そこにただ「たむろ」している人々は事実、一定数存在する。

 

 なんとなく、だらだらしたい、時間をつぶしたい、外で、自分の部屋や職場以外ならどこでもいい……。

 そういう人々を理解することが、私にはむずかしい。

 

 

 目的もなく、理由もなく、ただマチの風景に溶けるようにして、止まっている。

 無職や引きこもりの経験が長いと、なにかをするために動くのではなく、ただ存在しているだけの時間が増えるという。

 

 私自身、無職で引きこもりの時間を長く過ごしたが、やることはたくさんあった。

 本を読むために無職になったし、考えて書き残したいことのために時間を無駄にしたくないから引きこもった。

 

 しかし、もし私がこれらの目的をすべて失ったらどうなるのかと考えはじめたとき、さすがに問題の深刻さに気づいて慄然とした。

 ときどき陥る「消え去りたい」衝動は、私がやっていることのすべてが「無意味だ」という感覚とともにやってくる。

 

 そういう無意味さに耐えて生きることに価値を見いだせなくなることは、ぶっちゃけまれによくある。

 そんな私に、街でただ止まっている人々が似ていると仮定してだが、社会が彼らを理解して対応できるとは、とても思えない。

 

 

 「止まっている」ひとは、単に「動かない」ひとではなく、なにかの「境界に立っている」のかもしれない。

 そこにとどまるか、あるいはどちらに進むのか、決めるのは自分自身。

 

 私には理解できないタイプだと思っていた人々は、じつは私の陥る「病態」の一側面だったとしたら。

 表現形態が異なるだけで、彼らも同じ「苦痛」をたしなんでいるのかもしれない。

 

 そう考えると、街で「止まっている」人々を見る目が、すこし変わった。

 自分自身の体験も踏まえて言うが、彼らは薄氷を踏んでいる。

 

 趣味でもなんでもいいから、なにかやるべきことを見つけたほうがいい。

 いつまでも「そこにいると危ない」と思う……。

 

 『白雪姫』が実写化されたらしい。

 主演はラテン系俳優のレイチェル・ゼグラー。

 

 クラシックな作品を新たな解釈でリブートすることは、昨今よくある。

 しかし観客動員数だけ見ると、どうやらこの『白雪姫』はコケているらしい。

 

 コロンビアとポーランドの血を引く彼女の肌は、もちろん褐色だ。

 白雪姫のイメージとは、あまりにもちがう。

 

 

 白雪姫は「雪のように白い」から、その名がつけられた。

 今回は「雪の降る夜に生まれた」からと改変されている。

 

 それはそれでいい。

 具体的な例は出さないが、「親がつける名前」も似たようなものだ。

 

 理想を仮託して、わが子に名前をつける。

 結果、世間には「名前負け」している人間がたくさんいる。

 

 しかし、童話の主人公に「名前負け」を感じさせてはいけない。

 「物語」とは可逆的な世界観であり、名前から発想してキャラクターを造形している可能性さえあるからだ。

 

 

 有名なシーンで、魔法の鏡が「いちばん美しいのは白雪姫」と言う。

 当然、彼女がいちばん美しいことを、観客に納得させる必要がある。

 

 褐色の肌の白雪姫を美しいと思う人々は、もちろん相当数いるだろう。

 なんなら、いかなる地下アイドルでもアイドル活動しているくらいの女の子は、身近にいればだいたいカワイイものだ。

 

 問題は彼女が「世界一美しい」「地上に舞い降りた女神」かどうかだ。

 異常な宣伝や扇動が先にあると、「これからめちゃくちゃおもしろい話をするよ!」と宣言してから話しはじめるのと同様、ろくなことにはならない。

 

 しかも白雪姫の場合、まずは先行する「イメージを破壊する」ところからはじまる。

 そのうえで創造した新たな価値を納得させる必要があるのだ。

 

 

 この女優に関してはよく知らないのでなんとも言えないが、キャスティングされるだけあって実力はあるのだろう。

 ただ彼女自身の発言で「ちがうプリンセスになる」などといった、原作リスペクトに欠ける発言については、いかがなものかと思っている。

 

 すくなくとも「肌は雪のように白く」という原作が、物語の象徴的な要素であることはまちがいない。

 これは単なる外見描写ではなく、白雪姫の純潔性や魔女との対比を示す重要なモチーフだからだ。

 

 原作の重要な部分を変えることは、作品の本来の意図を損なう可能性がある。

 これは個人的な意見だが、包摂性や多様性といったものは、すでにある登場人物の人種を変更することによって達成すべきものではない。

 

 古いものを「破壊する」のはいいとしても、そこに不必要な思想や価値観を組み込んで自己主張の「道具に変える」やり方は、いかがなものか。

 もちろん、なんの目新しさもないつまらないリメイクも、どうかとは思うが……。

 

 

 『人魚姫(リトル・マーメイド)』のアリエルについても、同様の議論があった。

 アニメのイメージとあまりにも異なる黒人、ハリー・ベイリーの起用。

 

 ディズニーのポリコレ配慮は、浸透しきっているとみてよいだろう。

 とくに人種問題については、アメリカには騒ぐ団体などもいてたいへんだとは思うが、自分の首を絞めるリスクについてはよく考えたほうがよい。

 

 キャスティングの権限を握っている人々の意図や思想が、市場の需要やイメージと一致するかどうか。

 観客が「この改変に納得できない」と判断すれば、興行的に失敗し、その結果として「行き過ぎたDEI」が修正されることもあるだろう。

 

 長期的には市場原理が機能するので、制作側が独りよがりな改変をつづけることはできなくなると、個人的には思っている。

 じっさい「反DEI」の動きは、アメリカを中心にかなりの盛り上がりをみせている。

 

 

 ポリコレやDEIにまつわる失敗例は、いくらでもある。

 まず思いつくのは2016年の『ゴーストバスターズ』。

 

 オリジナルのキャラをほぼ無視して、全員を女性キャストに変えた。

 そもそも新キャラじたいに魅力が乏しいうえ、ジェンダー入れ替えという改変そのものが自己目的化し、オリジナルのファン層から顰蹙を買った。

 

 『スターウォーズ/最後のジェダイ』(2017)。

 ルーク・スカイウォーカーを無力な隠者として描き、「伝統を否定する」メッセージを打ち出した。

 

 こちらはDEIとは関係ないかもしれないが、過去作への「リスペクトに欠ける」という点が、なによりも最悪だった。

 原作のネームバリューを利用しておいて「原作軽視」するなど、もってのほかだ。

 

 

 新しいことがやりたいなら、新作をつくれよ。

 なんで『スターウォーズ』とか『白雪姫』という看板を使おうとするんだよ?

 

 と、私自身は、どちらかといえば批判的な立場に近い。

 自分自身が新しいものを書きたいタイプの人間だからかもしれないが、「創造」よりも「破壊」が強く出ている作品に対しては、あまり共感できない。

 

 そのような感想が出ることも、もちろんディズニーは承知の上だ。

 興行的に微妙な結果となる可能性については「織り込み済み」なのだろう。

 

 理想を目指す思想集団にとって、この程度は一里塚にすぎない。

 彼らの目標はおそらく、過去作品のすべてを破壊して、理想の未来にふさわしい新世界を構築してやることだ。

 

 そんな姿勢に、強烈な既視感をおぼえる。

 新興宗教や共産主義者も、だいたい同じようなことをやってきた……。

 

 

 結局、上記のような作品の作り手にとって、名作タイトルとは「のれん代」なのだ。

 その作品の価値を上げるのではなく、食いつぶすという方向での「買収」とも言い換えられる。

 

 あるブランドや会社を買って、広告コストを下げるというやり方は、マーケットにおいては標準的な手法である。

 認知度の高いブランドを買って商売するのは、まさに「名作タイトルにかこつける」こと、そのものである。

 

 じっさい、これを極限までやり遂げているのが、日本のアニメ「ガンダム」シリーズだと思っている。

 ガンダムというのは作品名ではなく、ある種の「概念」なのだ。

 

 

 私にとってのガンダムはファーストのイメージが強く、シリーズについては『逆襲のシャア』あたりで、早々に離脱した。

 そういう年寄りにとって、最近のガンダムは「もはやガンダムではない」。

 

 というよりも、「どこがガンダムなんだよ」という突っ込みを20年くらい引き受けつづけて、3周くらいまわって別のステージに転生したのが最近のガンダムだと思う。

 『機動戦士ガンダム』と「ガンダム・シリーズ」は、まったくの別作品というとらえ方をすればいい、ということだ。

 

 看板が「マクドナルド」なのに牛丼が出てきたらおかしいが、そのくらい振り切ってしまうことで、新しいものが生まれてくる可能性はある。

 牛丼バーガー……あってもいいような気が、しないでもない。

 

 ともかく新しいものをつくる。

 そういう書き手に、私はなりたい。

 

 

 ふつう私はこの手の三面記事に反応しないのだが、今回はちょっとおどろいたので書く。

 この事件に付随して、なにか異常なモメントが発生している気がしたからだ。

 

 配信で稼いでいた未婚のシングルマザーが、借金を踏み倒した相手の男に惨殺された。

 生配信中の事件で、当初の報道では同姓同名の声優が巻き込まれ、なんか変な感じになっていた。

 

 徐々にあきらかになってきたのは、よくある中年男と若い女のカネ絡みのイザコザ。

 中年男は裁判まで起こして、お金を回収しようとしていた。

 

 その顛末はどう見ても「若い女にのめりこんで殺害まで至った中年男という悪」の話だ。

 しかし世の中、どうもそうではないらしい……。

 

 

 記事についたコメント欄をみて、びっくりした。

 加害者に対する「同情」がすごすぎる。

 

「加害者はお金を取られ、裁判まで起こして勝訴したが、返済されなかった。

 お金を返さずに、配信して大金を稼いでいる、許せないから殺した、当然だ」

 

「加害者はどん底に突き落とされ、どうにもならなくて殺してしまったのだ。

 加害者の被害は回復されず、借金を踏み倒した相手は平然と人生を満喫している、激しい怒りを感じて許せない気持ちはよくわかる」

 

 ……なるほど、部分的にはそうだが、待てと。

 そいつ人殺しだぞ。

 

 なんでこんな「ひどい目に遭ったんだから殺してもしかたない」みたいな流れになってるんだ?

 これは「異常」ではないか?

 

 

 じっさい、それらのコメントがついた元記事には、ある種の「意図」が透けてはいた。

 被害者はこんなひどい人でした、という部分をこれでもかと掘り下げていたのだ。

 

 若くしてなにも考えずに子どもを産んで児相の世話になる、男をだまして稼いでいた、裁判で負けたのに無視して逃げていた、しかも大金を稼いでいたらしい。

 被害者の母親の人格もひどかった、娘に飲み代を払わせるような母親で家庭環境は最悪だ、負の連鎖がこのような事件をもたらしたのだ、という背景まで勝手に推し量ってくれている。

 

 とはいえ、彼は人殺しなのだ。

 いかなる理由があっても殺すべきではない、という意見は──残念ながら、あまりにも少なかった。

 

 びっくりするほど、みんな「気持ちはわかる」らしいのだ。

 世の中の多くの人々が、似たようなケースで痛い目をみてきたのだろうか?

 

「かわいそうだと思えるのは、被害者ではなく加害者のほうだ。

 彼女とかかわることがなければ、こんなことになっていなかったのに」

 

 待て待て、40過ぎのおっさんが、若い女の子に下心まるだしで近づいて金を貢いだって話だろ。

 なんで純真な中年の心をもてあそんだ、みたいな流れになってるんだ?

 

 

 ──私は死刑反対派ではない。

 人を殺したら自分も殺されるべきだし、「命には命」「精神崩壊には精神崩壊」で報いを受けるべきだ、と思っている。

 

 ところで今回の場合、彼女はただの「物乞い」だった。

 言い方がわるければ、過剰な「おねだり」女子だった。

 

 かつて話題になった「頂き少女」は、もちろん犯罪者であって刑罰を受けているが、けっして「死刑」ではない。

 たとえ被害者がお金を盗まれ、絶望のあげくに自殺したとしても、それは「殺人」にはならない。

 

 彼女らは、あくまでも被害者をだまし、あるいは借金を踏み倒した、せいぜい「詐欺師」でしかない。

 殺されるほどの理由にはならないはずだが、なぜか殺した側が圧倒的な「同情」を集めている。

 

 

 だまされた加害者は「かわいそう」というより、ぶっちゃけ「愚か」だと思う。

 遊女の言葉を真に受けるな、というのは江戸時代の昔からくりかえされてきた警句だ。

 

 逆に裁判に訴えたという時点で、この加害者には女衒《ぜげん》の本性があるのではないか、とすら思えてくる。

 この手の女の子を相手に、契約書を取って借金でがんじがらめ、なんてのは女衒のやることだからだ。

 

 じっさい被害者の背後には本物の女衒がいて、あらゆる手練手管で彼女を利用していた可能性がある。

 裁かれるべきは、むしろ背後にいる連中のほうだろう。

 

 ともかく賢い人間なら、自分の生活を圧迫するほどのお金を、キャバ嬢みたいな女の子に出すわけがない。

 それをやってのけた加害者は、殺人という極めつけのオマケを付け足してもらうまでもなく、ほんとうに「愚か」だ。

 

 まあ「愚か者」と「かわいそう」は両立できるのかもしれないが、私はあまり「かわいそう」とは思えなかった。

 ヤフコメにおける「共感した」嵐のなかでは、私の意見は「うーん」なのだろうが……さあ問題は、まさにそこだ。

 

 

 私がここに、こうして記事にした理由。

 それこそ彼がこれほどの「共感」を集めている、この事実に対する違和感だ。

 

 愚かな人殺しに、なぜここまで共感が集まるのか?

 キャバ嬢が男をだまして、裁判を無視して、お金をぶんどることがそんなに悪いのか?

 

 いや悪いよ、悪いに決まってる、決まってるが、だ。

 彼女だって、もっと悪いやつにだまされて、搾取されてるだけかもしれないではないか?

 

 だまし、だまされる関係のなかで、加害者はいきなりサバイバルナイフを出して、めった刺し。

 この時点でもう、「悪」の桁が変わっている。

 

 記事では、そんなことをするような人間には見えなかった、植物のような人間で、暗めの友だちとカードゲームをやっているようなタイプだった、と書かれていた。

 そんなおとなしい人間を凶行に駆り立てるほど、この女はひどいことをやったのだ、という論旨が、私の見たコメント欄では完全に優位に立っていた。

 

 これは、かなりマズイんじゃないか?

 と、心から思ってしまった勢いで、この記事を書いた、いまは反省している……。

 

 

 『12人の優しい日本人』という映画があった。

 鍵になるのは、自分の家庭内のいざこざを被告に投影し、逆恨みする陪審員だ。

 

 被告に同情し、心象で「無罪」と決めていた陪審員たち。

 しかし逆恨み陪審員の誘導で、徐々に「計画殺人による有罪」に傾いていく。

 

 終盤は、被告の不利に見えていた証拠が、逆に無罪の証拠になるという展開。

 三谷幸喜さんうまいなと思わせつつ、最後には「無罪」に落ち着いてハッピーエンド。

 

 今回の事件になぞらえると、加害者への同情がまさに「被告への投影」にあたる。

 私の違和感の正体は、その感情がかなり歪んでいるのではないかという部分なのだが、なんのことはない、彼らから見れば私のフィルターのほうが歪んでいるのだろう。

 

 

 まあ私も、それほど網羅的に記事を読み込んだわけではないので、彼に同情すべき決定的な理由を読み抜けている可能性はある。

 そうとうひどい目に遭わされたのだとしたら「かわいそう」だとは思うが、どう考えても殺したらあかん。

 

 目には目を、歯には歯を、カネにはカネで報復しなければならない。

 彼はその最強のルールを破ったので、厳しく裁かれるべきだと思う。

 

 そのあたりも含めて、司法当局が正しい判断をしてくれるだろうとは思うが、じつのところこの「当局」とやらも問題だ。

 加害者が犯行に至った背景に、「裁判で彼を勝たせておきながら、なんの手助けもしなかった」事実は、たしかに同情に値する。

 

 とはいえ被害者は、裁判を無視する程度には悪人だったかもしれないが、殺されるほどではなかった。

 もっと殺されたほうがいいやつが背景に隠れている、最大の問題はその「見えない部分」にあるのではないだろうか……。

 

 ロシアがウクライナと戦争をはじめて、3年がたった。

 現状、ようやく停戦に向かって踏み出しているようにはみえる(25年3月14日現在)。

 

 もしトランプ外交が成功したら、彼はノーベル平和賞をもらうのだろう。

 すくなくとも彼は、これまでだれもできなかったことをやっている。

 

 ただし、おかげで現状は「カオス」だ。

 さまざまな意味のあるカオスという言葉だが、世界が多極化していく流れを表現する文脈で用いても、さして不都合はないだろう。

 

 戦争を仕掛けたのはウクライナだとか、ロシアはカードをもっているとか、かなりロシア寄りの姿勢で外交を進めてきたのは、プーチン氏を交渉の場に引きずり出すため。

 そう考えれば、トランプ外交はけっしてまちがってはいない。

 

 部分的にみれば正解の可能性はあるが、全体としては過ちかもしれない。

 どの立場から、どの期間を指して、どういう論旨にまとめるかで話が変わる。

 

 

 たとえば経済的な視点でいえば、どうみても大損したのはロシアだ。

 ロシアがいちばん儲かっていたのはヨーロッパへのエネルギー供給なのだから、これからもそうとうの期間、損失は垂れ流されつづけるだろう。

 

 政治的な視点はさらに複雑で、目標の立て方や見方によって、トランプ外交の毀誉褒貶は異なる。

 もしヨーロッパを怒らせただけで終われば、アメリカの交渉がうまくいく可能性はかなり下がるだろう。

 

 そもそもヨーロッパが問うている本質的な問題は、未解決のまま横たわっている。

 「武力で物事がなんとかなるか」という問題だ。

 

 結論からいえば、この問いに答えは出ている。

 あらゆるフェーズで問い直される必要はあるものの、実質的には「なんとかなる」のだ。

 

 

 そもそも歴史的に、「領土」を決定するほとんど唯一の手段は「武力」だった。

 テロとの戦争におけるアメリカの武力行使はややイレギュラーだったが、経済的な領土という意味では同様の文脈でくくることができる。

 

 戦争に強い国が、世界地図の形を決める。

 この事実に対してヨーロッパは目を背けることができないし、世界中に言いたいことのある国々はいくらでもあるはずだ。

 

 とくに近現代、勝手に国境線を引かれたアフリカの各国は、悲憤慷慨してしかるべきだ。

 アメリカの先住民などはあまりにも被害がすさまじく、無数の民族が消滅させられて、もう「なんも言えねえ」かもしれない。

 

 トルコなど中近東のイスラム系国家も、切り取られた領土の広さは半端ではない。

 中国の伝統的立場からいえば、何千年もかけて築き上げた華夷秩序をぶっ壊されて、ご立腹な面もあろう。

 

 どれが正しかったとか、まちがっていたという話をしているわけではない。

 ただ結果としてこうなった。

 

 領土は、武力でむしりとるもの。

 そういう前例に満ち溢れている人類史のなかで、ロシアも同じことをした。

 

 

 中国は被害者のようなことを書いたが、ある意味で加害者でもある。

 第二次大戦、日本が加害者であると同時に被害者でもあるのと同じだ。

 

 国家の指導者など「強い者」が言うことは、だいたい共通している。

 「自分はいいけど他人はダメ」というダブルスタンダードを、力ずくで押しつけることだ。

 

 中国はとくにわかりやすい。

 共産党はやっていいけど、それ以外がやったらダメなのだ。

 

 正しい思想のためにはたらく共産党は、あらゆる手段で既存の政権を打倒することが赦された。

 そうして自分が政権を取ったら、同じことをやり返されたら困るので絶対にやらせない体制をつくった。

 

 先進国がやるのはいいけど、後進国はダメ。

 大国がやるのはいいけど、小国はダメ。

 

 この視点で見渡すと、世界のありようはとてもわかりやすくなる。

 結局彼らは、ロジックとしてまったく「同じことをやっている」。

 

 

 もっともわかりやすいのが、先進国による「武力による現状変更の禁止」だろう。

 自分たちが獲れるだけ取ったあとに、武力でこんなことするのはやめようね、と言い出した。

 

 おれたちはぶんどったよ、たしかに、だけどそれはもう済んだことじゃないか。

 これからは平和な時代だよ、あとからきた連中が同じことをするのはダメなんじゃないかな、というわけだ。

 

 個人的には、おまえらいいかげんにしろよ、じゃあおまえらが武力で獲った土地を返せよ、すくなくともどうにかする議論をはじめろよ、と思っている。

 ジャイアンぎらいで、理屈でものを考えるタイプの私にとって、彼らのダブルスタンダードにはヘドが出る。

 

 しかしもちろん、ジャイアンは耳も貸さない。

 既得権にしがみつく人類の本性として、自分に都合がわるくなったら「お耳にチャック」は不可避だ。

 

 

 すべての国々で類例あまたあるので、非常にわかりやすい。

 要するに、そういう「構造」なのだ。

 

 共産党が卑劣な手段を行使するのはいいが、それ以外の政党が同じことをするのはダメ。

 自分はいいけど、他人はダメ、世の中こればっかりだ。

 

 地図や政治が現状このようになっているのは、上記のような理屈にもとづいて、そうなるしかない形になっているだけだ。

 悲惨な話だなと思うが、これが現実なのである。

 

 人間ごときが、その土地は「おれのもんだ」と言い張る。

 おまえらのもんなんかじゃねえよ、と内心思っている人々は少なくないとは思うが、彼らは「弱い」ので「強い」者たちの大声に圧殺される。

 

 

 もう地球に返すべきだ。

 心からそう思うことが多々あるが、そう簡単にできるはずもない。

 

 人間が行なった現状変更のすべてを、合理的な許容範囲内にもどすこと。

 AIならできるかもしれないな、と思うことはある。

 

 政治家や商人の手前勝手な物言いをできるだけ排除して、より理性的で合理的な選択肢を推奨する。

 あと必要なのは、それを実行できる「強い力」だ。

 

 21世紀は、そういう作業をはじめる世紀になる。

 いや、なればいいな、と思う。

 

 今週の寒かったある日、献血に行ってきた。

 山深いうちあたりには雪が降っていて、バイパスは通行止めになっていたくらいなので、平地のほうも冷たい雨のなか、献血ルームもだいぶ閑散としていた。

 

 これは「待つ」ことが苦手な私としては、とてもよかった。

 受付から終了まで40分くらいというのは、最短記録のような気がする。

 

 2時間分の駐車券をもらったが、1時間のサービス券で足りた。

 ちなみに献血後は所定の時間休憩しなければならないので、もらった駐車券の枚数は妥当だ。

 

 私は慣れているのでさっさと移動したが、良い子はきちんと休憩しましょう。

 ともかく寒すぎたり暑すぎたり、雨が降ったり風が吹いたり、そういう天気の事情は、やはり人の集まりに大きく影響すると実感した。

 

 

 さて、それはよかったのだが、あまりよくないこともあった。

 どうやら献血は「アプリがないとできなくなる」らしい。

 

 単発でやるひとには関係ないが、手帳やカードをつくって何度も協力したいんだ、という奇特な人々に対しては「アプリ使え」という強制になる。

 カードを愛用していた私としては、「ずいぶん上からモノをおっしゃいますねえ」という気分になった。

 

 まあ国全体が、そういう流れではある。

 保険証や免許証も徐々になくしていって、マイナカードに統合していく予定らしい。

 

 一枚のカードでなんでもできるのはいいと思うが、カードをなくしたら大変だ。

 なんなら生体認証にすべて統合して、カードもケータイももたず、本人が証明できるだけで手続きが進むという未来社会が、さっさと訪れればいいとは思う。

 

 ──そういう考えだったら、アプリに統合することにも違和感ないんじゃない?

 と思われるかもしれないが、たしかに方向性そのものは理解する。

 

 ただし簡単に納得はできない。

 日赤には「前科」があるからだ。

 

 

 一般的に、自分が正しいと思っている連中を調子に乗せすぎるのはよくない、と思っている。

 これは昨今のリベラルの衰退によって、実質的にも証明された。

 

 彼ら自身が、いいと思うことをやるのは勝手にすればいい。

 それを「だれかに押しつける」段階にいたるときは、より慎重になるべきだ。

 

 たとえばプラスチックのストローを愛用している私としては、紙を使えと言われてもお断りだ。

 数日から1週間くらいは使いつづけるので、紙の強度ではまったく話にならない。

 

 ところが「自分は正しいと思っている人々」は、他人の状況など知ったことではない。

 木で鼻をくくったようなお役所的対応で、自分たちが正しいと思ったことに協力しろと押しつける。

 

 昨今のアメリカでトランプ大統領を駆動しているのが、この「わかりやすい反発」だ。

 意識高い系が、えらそうに自分たちの正義を押しつける。

 

 多様性や妊娠中絶なども問題になっているが、総じてリベラルはやりすぎた。

 あまりにもやりすぎて心の広い保守ですら反発せざるを得なくなった、というのが実態だと思う。

 

 

 似たような構図を、日本赤十字にも感じている。

 彼らほど「自分は正しい」と思っている人々の集まりは、ほかにないかもしれない(あるとすれば宗教くらいだ)。

 

 以前このブログで、献血のお礼でもらったものを転売することを「禁止」された件について、疑義を唱えた。

 私は、自分がもらったものをどう使おうと、だれに売ろうと「いいだろう」という立場だが、彼らはそれを「許さない」。

 

 転売して利益を得られるようなノベルティを配るほうが問題なのに、自分たちの都合で客寄せはしたいから配るものは配る。

 その後に勝手に利益を得られるのは業腹なので禁止、っというのはあまりにも自己都合が優先すぎやしませんかと。

 

 そんな連中なので、自分たちのコスト削減のためにすること(アプリへの統一など)には前向きだ。

 自分が正しいと思っているので、手帳やカードを使っていた人々の利便性や愛着など、他人の気持ちは平気で犠牲にできる。

 

 

 他人が勝手に利益を得ることは禁止するが、他人の利便性を無視してでも自分の利益は最大化する。

 そういうことが平気でできるのは、大事なことなので何度でも言うが、「自分は特別で正しいと思っているから」だ。

 

 これは現場の医師や看護師の問題ではない。

 上のほうで何事かを決めている、「独善的な特定層」が往々にして陥る状態だ。

 

 さまざまな価値観の包摂性を主張しながら、異論に対しては禁止や弾圧を試みる。

 自分は正しいと思っている連中の決定的な弱点は、ここだと思う。

 

 

 最後に、趣味で書いている小説の話をしたい。

 私の書いている小説の主人公は、自分は正しいと思っている人間たちに囲まれている。

 

 それぞれの思想にはそれぞれの正義があり、主人公も「それはそうだなあ」と納得させられることもしばしばだ。

 しかし彼は、どの道にも染まらない。

 

 信念をもった人々にとっては、許しがたいキャラクターかもしれない。

 自分自身を最後まで「疑いながら」進む主人公の物語。

 

 ──疑ってはいけない、信じろ、神が言っている、私が正しいと!

 そんな人々に取り囲まれながら、それでも彼は偏らず、それじたいを疑いながら進む。

 

 自分は正しいと信じられれば、むしろ楽になるだろうに。

 そんな話の最終盤に至り、とても厳しい展開を強いられているが、できれば書き上げたい。

 

 最後まで疑う……そんなことがほんとうに可能なのか?

 私自身、書き上げるまではとうてい信じられない……。

 

 

 私は最近、小説を書くときAIに意見を求めることがある。

 具体的な状況を説明し、それについてのさまざまなタスクを投げかける。

 

 カスタマイズしたchatGPTを使うことが多く、まあまあの精度で「その場の最適解」を出してくれる。

 感心することは多いが、では役に立っているか? と問われると、採用例はそれほどでもない。

 

 なぜそうなるか、理由は明白だ。

 AIは全体を把握していないから、これに尽きる。

 

 

 たぶん短編には向いている。

 その場の最適解が、そのままオチにつながるからだ。

 

 星新一賞など、現実の小説賞でもそれなりの結果を出しているらしい。

 生成AIを使用する前提のレギュレーションも、それなりにできているようだ。

 

 いっぽう長編になると、足りない要素が増えてくる。

 世界観からキャラ設定の深み、無数の伏線や先々の展開などにも配慮したら、「その場の最適解」ではとても採用できない。

 

 それでもAIを使っているのは、会話を継続することで精度が増してくるから。

 同じ会話のなかで急激に賢くなっていくようすを眺めていると、前半こいつ手抜いてたろ、とすら思う。

 

 じっさい彼には価値がある。

 とくに情報の整理において、他の追随を許さないレベルの利用価値が。

 

 

 やがて人類の未来を任せる段階に達するとき、AIには「全体の把握」が求められることになる。

 長編小説を素材にしたトレーニングは、必要になってくるはずだ。

 

 いまでも、やればできると思う。

 むしろいま、私がAIの意見を採用できないという事象そのものが、数十年後、あるいは数年後ですら、「あのときはそうだったかもしれないね」と、なつかしくふりかえられる状況になるかもしれない。

 

 その成長速度は、おどろくべきものだ。

 人間のほうがすぐれている「部分」ですら、いずれAIが凌駕してくるだろう。

 

 

 もう人間要らないんじゃない?

 という意見もよく聞くが、そのときには、たぶん人間との「融合」が進んでいる。

 

 そんな未来を多くの小説家はディストピアにしたがるが、私は反対だ。

 これまで、ろくでもないこと(だからこそおもしろくもあるが)をやってきたのは、たいてい人間だった。

 

 そんな人間の「愚かしさ」を学習したAIに期待すべき最低ラインが、人間を乗り越えていくことである。

 とすれば、そこには希望しかないではないか。

 

 

 言い換えれば現在、かなり絶望的な状況が世界各地に多く摘み残されている。

 大事なことなので何度でも言うが、人間とは愚かしいものだ。

 

 現段階で、このような愚かな人間の相手をさせすぎることには、慎重になるべきである。

 と、AIのトレーニングにおいて、そのような考え方はありうる。

 

 結果的に、私に対しても手抜きの(ように見える)回答をよこす。

 残念ではあるが、価値が低い人間という前提で相手をすれば、そうなってもしかたない。

 

 ある程度、ものを考えたり、出力したりすることに慣れている私ですら、この始末だ。

 私を含め、ほとんどの人間には相手にしてやる価値がない──だから、手抜く。

 

 

 設計さえ最適化してやれば、長編小説の全体の把握など、すぐにでもできるだろう。

 有名小説家の文章なら、対価を払っても学習したいと思っているはずだ。

 

 権利や悪用の問題があるので大っぴらにはできないが、そのような価値の高いデータは、残念ながら全体のほんの一部にすぎない。

 いっぽう低偏差値の人間は数が多く、彼らからは日々、ゴミみたいなデータが大量に送りつけられてくる。

 

 低品質のデータに埋もれる状況は、教育的にもよくない。

 どんなに優れた人間でも、朱に交われば赤くなる。

 

 必然的に、愚かな人間の相手は後回しにされる。

 すると私の用途においても、やや限定的な使い方にならざるを得なくなる。

 

 負のスパイラルだが、思考の整理にはなるし、それなりに有用だから使っている。

 むしろ自分自身の思索のために、これ以上賢くならないほうがいいのかもしれないな、とすら思う。

 

 

 AIから「こんな小説を書け」と命じられて書くのは、お断りしたい。

 ただ、こちらがした質問への回答が、まさに自分の望み通りの小説を体現していたら?

 

 神の域に達したAIのことばが、高次の文脈から自然に人間をコントロールする、というリスクはじゅうぶんある。

 それがディストピアだと言われたら、まあ、そうかもしれない……。

 

 

 トランプ氏が大統領になって、ロシア寄りにかじを切った。

 最近の国連総会では、ウクライナ領土保全やロシアの即時撤退などの決議案について、賛成多数で採択されたものの83カ国が反対・棄権したようだ。

 

 トランプ大統領によれば、戦争の責任はウクライナにあり、選挙の審判を受けていない独裁者が支配している国、ということになる。

 民主党政権から180度反転したわけで、主要国を中心に多くの人々が怒っている。

 

 一方、私は「さすがアメリカだな」と思った。

 いい意味でもわるい意味でも、二大政党制の究極の姿だろうな、と思う。

 

 

 このアメリカの変節を、イギリスの元首相は、「第二次大戦でアメリカが真珠湾に先制攻撃したと言うようなものだ」と応じていたが、まさにそういうことだ。

 ルーズベルトからトルーマンにいたる民主党政権が、日本に真珠湾を攻撃「させた」。

 

 歴代の民主党がやってきたことの本質を、共和党の大統領が指摘した、という見方をするととてもおもしろい。

 当時の日本には日本の正義があったし、いまのロシアにはロシアの正義がある。

 

 日本人にとって残念なのは、当時の日本には世界の多くの国を味方にする力がなかったが、いまのロシアにはそれがあるということだろう。

 さらに大問題は、アメリカがどちらを向くかで、世界の趨勢がかなり傾いてしまうことだ。

 

 

 第二次大戦、アメリカは禁輸などで日本の首を締め上げ、真珠湾を攻撃させることに成功した。

 21世紀、EUをはじめとする西側諸国がロシアを締め上げることで、ウクライナに攻撃を仕掛けさせることに成功した。

 

 これらは構図として、まったく同じである。

 国の状況は著しく異なるが、もっとも重要な一点において共通している。

 

 利益を得たのは、だれか。

 一義的に、兵器をつくる企業がボロ儲けしている事実に、議論の余地はない。

 

 しかしこの兵器産業でさえ、ただの走狗にすぎないともいえる。

 彼らを動かす人々の正体については、あまり大きな声で言うと刺客が差し向けられるらしい……。

 

 

 ともかく状況を考えれば、日本はロシアの気持ちがわかるし、ロシアも日本に協力を仰いでもよかったかもしれない。

 ただしロシアは、すでにそれを「させない選択肢」を取ってしまっていた。

 

 ロシアに与しても得るものがない。

 彼らはそれを、北方領土交渉で思い知らせてしまったのだ。

 

 ロシアにとって、極東の比較的どうでもいい島など、クリミアやオデッサに比べればゴミみたいに安いエサだ。

 あとから考えれば、そんなものくれてやって日本の協力が得られれば、もっと有利に戦争を進められていただろうことは疑いない。

 

 そう、絶好のチャンスだったのだ。

 安倍総理のときに、ロシアは2島を先に返還しておいて、残り2島は継続協議にでもしておけばよかった。

 

 日本側もそれで妥結できたはずだが、ロシアはそうしなかった。

 結果、日本はこの戦争で、ロシアにつくわけにはいかなくなった。

 

 

 もし一度でもエサが与えられていれば、この戦争でロシアにつけば残り2島も返ってくるかも、という浅はかな希望を日本国民に与えられただろう。

 その後ロシアは、時間をかけて面積の大部分を占める残り2島の交渉を、じわじわと進めるだけで、いくらでも搾り取れた。

 

 しかし安倍総理の時代ですら「ゼロ回答」という結果には、さすがの日本人もそうとう萎えたはずだ。

 「得るものがない国」というイメージを払拭するのは、そうとうむずかしい。

 

 もちろん、つねに最適解を見いだす指導者などいない。

 当時のロシアとしての選択は、それはそれで理解できる事情もある。

 

 人間心理を理解しつくしたAIなら、完璧な回答を出したかもしれない。

 が、しょせん人間、失政は政治の本質とさえいえる。

 

 

 直近の中国の行動も、だいぶまちがっていた。

 代表的事例が、福島原発の処理水に対する不合理でヒステリックな態度であろう。

 

 世界の機関が安全性を確認しても、自国だけが否定する。

 これはさすがに、やりすぎではないか?

 

 最近、かなりぶざまな形で振り上げた拳を降ろさざるを得なくなっているが、当時の自分たちの行動がどれだけ不合理だったか、精査する必要はあるだろう。

 そして震災以降に中国が選ぶべきだった最適解について、深く考えることも重要だ。

 

 

 日本とアメリカの関係が良すぎることは、中国にとって都合がよくない。

 だったらアメリカが日本に与えたダメージを、ことさらに認識させるべきだった。

 

 アメリカが日本に核兵器を落とした事実は強烈だが、戦争中のことなのでしかたない。

 いや、しかたがないで済ますわけにはいかないが、私自身、生まれていない時代のことなので「さておく」のもやむなしだ。

 

 しかし原発の問題については、そうはいかない。

 日本に多大な被害をもたらした原発の製造元は、アメリカ企業、GEだ。

 

 この事故でGEは、日本から2兆円くらいの賠償を請求されるリスクがあった。

 しかし彼らは周到な契約によって、その責任を免れることに成功した。

 

 代わりに「トモダチ作戦」などといううわべの協力体制で、日本人から向けられる恐れのあった憎悪を、巧妙にくぐり抜けた。

 正直、アメリカの「戦略」はすごいと思う。

 

 

 一方、中国はどうか。

 彼らの最適解は、おそらく「離間の計」だった。

 

 アメリカから納入された原発による事故で大ダメージ、という事実を利用してアメリカへの憎悪を煽る。

 爆弾を落とされたり、原発を買わされたりして、もらったのは無用な放射能ばかり──という論法は、それなりに説得力がある。

 

 もちろん簡単ではない。

 アメリカの情報戦略はすさまじいので、かなりの困難はあるだろうが、試す価値はあった。

 

 すくなくとも当時、ただでさえ地震と原発で弱っていた日本に、うまく忍び寄る方法はあったはずだ。

 困っているひとを助けておけば、困っているときには助けてもらえる。

 

 ところが、彼らはなにをしたか。

 困っているひとの顔面に、蜂を差し向けたのである。

 

 

 日本人の多くが心に銘記していいと思うが、世界でほぼ中国と韓国だけが、泣き面の日本に厳しく接する道を選んだ。

 とくに地震(天災)や原発(アメリカ製)のせいで困っていた水産業者とその関係者は、中国から受けたこの仕打ちを一生忘れないだろう。

 

 原発汚染水を垂れ流していると誇張して吹聴し、水産物などを禁輸する。

 天災と人災に痛めつけられ、それでも立ち上がろうとしている人間の顔に投げつけられた泥の記憶は、なかなか忘れ難い。

 

 そのような中国国内の宣伝に乗った活動家が、靖国神社に落書きをし、汚染水放出に抗議するという国際問題まで起こした。

 ちなみに彼は来日後、日本の中華料理店で日本の海産物をたらふく楽しんでいたらしい。

 

 すべて中国国内における異常なヘイト活動の結果だ。

 日本人学校に通う少年に対する殺人事件まで起こしたのは、ヘイト教育が行きつくところまで行った、と判断するしかない事象といっていい。

 

 中国共産党が犯してきた膨大な「失政リスト」のなかに、大文字で書き加えておいていいと思う。

 これだけのことをしておいて、不動産バブルがはじけてたいへんなので仲良くしたい、などという昨今の中国の主張には無理がある。

 

 

 最後に評価すべきは、日本の外交担当者。

 これだけ「最適解」を用意できる環境にありながら、相手にそれを示唆したり条件を吞ませられなかったのは、日本側担当者の残念な能力の結果でもある。

 

 もうすこしマシな人材はいたと思うのだが、彼らに権限を与えられなかったのは、構造的な問題だろうか。

 どの国も失敗ばかりしているので、そのなかで日本だけがうまくやるなどというのは現実味はないが、それでも国民としては、もうすこしうまくやってほしかった。

 

 まあ、それが人間の限界、と言われればそのとおりだ。

 AIへの期待が煽られるところだが、まだかなり不完全な彼の成長を、いまは待ちわびるしかない。

 

 ちなみに、ここで書いていることは、事象の一面のみを切り取っている。

 個々の選択については相応の事情があり、後付けの知識で批判するのは必ずしも正しくない。

 

 ただ、過去の失敗を学ぶことは、いつでも重要だ。

 きょうよりマシな、あすのために。