ネットの記事で、ある男性が、かつて体験したイジメの思い出を書いていた。
そこで絶望的な状況にいる彼は、こう思ったらしい。
──だれでもいい、「やめろと言ってくれ」。
イジメられて絶望し、苦しんでいる自分を助け、いたわってくれ、と。
なるほど、彼は周囲に助けを求めた。
一見そうだろうなと思いがちだが、流し読まず注意して、冷静に考えてほしい。
この発想、おどろかないだろうか?
私自身、思わずこうしてブログに書くほど、おどろいた。
イジメている当人に対して「やめろ」と思うのではない。
その周囲に「やめろと言ってくれ」と思ったというのだ。
レトリックの問題で、じっさいには両方思ってはいただろう。
だが彼は、それでもあえて書いている。
そのとき彼が見ていたのは、イジメている「当人ではない」。
そのイジメを眺めている、「周囲の人々」だったのだ。
イジメは構造上、イジメる側とイジメられる側によって成立する。
わるいのはだれか、議論の余地はない。
当然、イジメている当人にやめさせればすべて解決するわけだが、イジメられている当人は傍観する「周囲に対して」強い思いを抱いた、と告白している。
イジメられている側にも問題がある、という議論に与したくはないが、残念ながらこの件には「そう言いたくなる側面」が含まれている。
通過儀礼とまでは言わないが、イジメはある程度、人間の本質に内在している。
むしろさまざまな人間がいることを前提として、その「程度問題」の埒内に構築されるのが社会だと考える。
なかには、ともかく自分がイジメられさえしなければいい、という性格の人間も確実にいる。
そこから、「助ける価値のない人間を助けてやる必要はあるか」という命題に、つながっていく。
自分さえよければよく、わるいのは全部まわり。
ここには、イジメの原因を当事者ではなく周囲になすりつけようという考え方との共通点が、色濃く見受けられる。
正直、このイジメられっ子の論法には、彼自身にある責任を想起せざるをえない。
優先順位を明確にまちがっている彼には、ある種の危惧さえもおぼえる。
たとえばイジメられている彼を、私が助けたとする。
すると翌日、机に花が飾られ、無視されるのは自分になっている。
助けてやった彼に視線を向けると、なんと彼は、周囲の人間といっしょになって自分を無視しているではないか。
──というパターンは、現実にもよくあって、なかば持ち回りになっている学校さえあるらしい。
もちろんないほうがいいのだろうが、そういう「スタイル」のイジメは一定程度ある。
限度を超えない程度に規制すればよく、そもそも「イジメ・ゼロ」などという目標設定は、現実味に乏しい。
一義的に「当事者どうしの問題」に、関係のない部外者を引っ張り込もうとする。
ここには「自分も部外者の側に立ちたい」という欲求が根差しているかもしれない。
一種の「逃避」であり、部外者を巻き込むことで、状況の悲惨さが希釈されることへの期待、という見方もできる。
それ自体に同情の余地はあるのだが、これを同情の余地のない「悪」に昇華させている人々が、世間には意外に多くいる。
「イジメを無視するのもイジメ」と豪語する人々だ。
この論法こそ最悪、と私は信じている。
イジメを救済はしないが、加担もしない。
これは「中立」だ。
しかし極論を飯の種にしているコメンテーターや知識人のなかには、この「中立」を「敵」と決めつける人々が実在する。
戦争を煽る「アジテーター」に近い。
やつらは敵だ、ブッ殺せ、と現在進行形で煽っている国は現にある。
戦時下というエクスキューズで、平時の冷静な目でみればありえないような論理展開がごり押しされている。
それと同じことを、イジメの論理でやっている。
彼らにとって「イジメ」は「戦争」なのかもしれないが、だとしても平和な世界を「世界大戦」に巻き込もうとする態度は、まちがっている。
言うまでもないが、イジメは、イジメている者がいちばん悪い。
よって、それを取り除く最短距離は、イジメている当人にやめさせることだ。
しかし冒頭の彼は、イジメている当人に働きかけるのではなく、まわりの人に「やめろと言ってくれ」と思った。
これは、放火犯に「火をつけるな」と言うのではなく、火はつけさせておいて、まわりの人に「消火しろ」「救助しろ」と要求するようなものではあるまいか。
もちろん現に燃えている家屋への消火や救助は必要だろう。
しかし、まずそれをすべきはプロの消防士であって、野次馬に「火の中に飛び込んで助けろ、それをしなければおまえも放火犯」などと言い出す必要はない。
野次馬に「協力を依頼する」のは、もちろん正しい。
が、「手伝わなければおまえも放火犯」は、いくらなんでも言い過ぎだ。
火をつけていない者を放火犯扱いしたら、それは誣告であり、名誉棄損にあたる。
なぜこんな愚かな論法がまかりとおっているのか、恐怖をおぼえる。
無視する人々は、たしかにまったく味方ではないが、敵でもない。
それを一方的に敵視したら、どうなるか。
「中立」の人々を、わざわざ敵視するメリットは奈辺にあるか?
もちろん「わざと」やっているのだから、なんらかの目的がある。
その心情を忖度するまでもなく、彼らは自分たちを「正義」だと思っている。
中立など認めない、その正義に同意しない人々は「倫理的にまちがっている」ので、平気で「放火犯に等しい」と決めつけることができる。
彼らは一見、イジメ問題を解決しようとする文脈で発言している。
つまり当人は「いいことをしているつもり」である分だけ、始末がわるい。
問題は、世界中の戦争は、「自分は正義」と思っている者どうしで勃発することだ。
そういう人間たちの片方が、突然、相手を「敵だ!」と言い出したら、どうなるか。
おそらく彼らは、「そのために」アジっている。
「最強の経済手段である戦争」の火種をまき散らそうとする人々は事実いて、世界を負のスパイラルに巻き込めば巻き込むほど、儲かる仕組みになっている。
近代国家が戦争を起こそうとするとき、よく使う手でもある。
問題の根源であるテロリストをどうにかするのではなく、その近くにいる相手に言いがかりをつけて軍隊を送る。
そんな国を、あなたも知っているはずだ。
──そう、言うまでもない、彼らは「戦争がしたい」のだ。
世の中には、殴られたら条件反射で殴り返すタイプというのが、一定数いる。
私自身「なにもしていない」ことを理由に、いきなり敵だと決めつけられたら、その先制攻撃に対してしかるべき反撃を加えるだろう。
単純にまわりを敵視してしまったら、ただでさえ苦しいイジメの被害者が、無駄に敵を増やすことにはなるまいかと危惧する。
「イジメ問題」とやらを解決する気があるなら、まずはこのバカげた態度を改めるところから、はじめたらいかがだろうか。
イジメを傍観する人々は、敵ではない。
だから彼らを敵視するのではなく、味方にする努力をしてほしい。
努力が実るとはかぎらない。
だが逆切れして敵を増やすよりは、ましだと思う。