私は「静かに暮らす」ことを人生の目的としている。
派手な暮らしを求めないので、金銭的な「必要」があまりない。
かつてトレーダーとしてまとまった金を稼いだが、引き換えに心の安寧を失った。
二度とマーケットに正対するつもりはないし、そのための準備もしている。
おっさんひとりがつましく生きるだけなら、たいした金はいらない。
必要最低限の生活で事足りるように、節制することにも慣れた。
ベーシックインカム制度がはじまれば、その枠内で暮らすだろう。
はじまらなくても、死ぬまでなんとか暮らす程度の算段は立てられると思う。
資本主義の極北であるマネーゲームに、私は敗退した。
そのせいではないが、社会主義的な思想に一定のシンパシーがある。
ドリトル先生やスナフキンのように、「人生に荷物なんかいらない」と信じるミニマリストとして生きている。
一部屋あればじゅうぶんで、自宅の裏にある離れの二階には、ここ2、3年、足も踏み入れていなかったりする。
基本的に狷介な性格だが、社会参加を拒絶しているわけではない。
隠者のように暮らし、人間ぎらいの傾向はあれど、税金や年金は払っているし、地域の清掃に参加することもある。
政治家がきらいで、無政府主義的なところがある。
保守王国の群馬に暮らしていながら、一度も投票権を行使していない。
個人的には右でも左でもないと思っているが、どちらの思想にも認めるべき部分はあるとも考える。
生来の節制と共有への志向は、原始共産主義に近いかもしれない。
ただしマルクスやエンゲルスの定義には、一定の違和感がある。
文明は彼らが考えたように、段階的に発展するものではないからだ。
農耕は「諸悪の根源」かもしれないし、都市化こそが「原罪」だったかもしれない。
狩猟採集と農耕は適切に交代し、社会階級と法理まで季節性で変化していた、という説もある。
人類史にしろ他の分野にしろ、多角的に学ばなければ真実は見えてこない。
マルクスが言っているからそうなんだ、ではなく、反対意見にも目を通して「自分で考える」必要がある。
われわれは、そもそも「なにもわかっていない」。
狩猟採集や農耕、社会体制や法律がどのように誕生し、変化し、あるいはスケジュールされてきたか、まだ完全にフィックスされたわけではない。
現代文明をどういう文脈に位置付けるか、どの道が人類の「順路」なのか、さまざまな意見があっていいと思う。
われわれがすべきことは、ただ考え、問いつづけることだ。
──さて、先日、総選挙で与党が大敗した。
政治に興味はないのだが、すこし興味を引かれたのは日本「共産党」の役割だった。
個人的な思想のなかにも、共産主義的な部分がないわけではない。
そこで今回は、共産党についてすこし考えてみたい。
しんぶん「赤旗」は読んでいないが、日本共産党のユーチューブチャンネルは登録している。
右だろうが左だろうが少数派だろうが、意見を「知っておく」ことは重要だ。
与党が惨敗する原因となった「裏金問題」から「非公認に2000万円」まで、共産党と「赤旗」が果たした役割はあまりにも大きい。
にもかかわらず、彼らは議席を減らし、あいかわらず野党協力の枠外に置かれている。
共産党はかつて立憲民主党と組んだとき、彼らを惨敗させた。
今回、共産を切り捨てて中道保守を取り込んだ立民が大幅に議席を増やしたことからも、その影響力の強さはわかる。
要するに共産党は「敵も味方も破壊する」ということだ。
なかなかの「強キャラ」である。
おそらく日本国民に「共産党アレルギー」があるからだろう。
その理由を、すこし掘り下げてみよう。
基本的に共産党は、他人の「足を引っ張る」ことが得意だ。
その歴史を鑑みても、権力闘争こそが本質でありつづけてきた。
敵を破壊し、暴力革命で国を牛耳る。
マルクスをどう読んでも、そういう「扇動」があちこちに見られる。
いいことも書かれているのだが、問題はその「読者たちがどうしたか」だ。
かのスターリン、毛沢東から、チェ・ゲバラ、ポルポト、重信房子まで。
事実、ソ連や中国は自国民を大量虐殺し、人類史に新たな大混乱の歴史を刻んだ。
世界各地で革命を目指したテロリストが、多くの悲惨な事件を引き起こしてもいる。
うちの近所でも、あさま山荘事件という歴史的な出来事があった。
彼らは「暴力的」というイメージを、あまりにも焼き付けすぎてしまったのだ。
ソ連や中国がやってきたことの悲惨さは、多くの国民に知られている。
共産主義国が、おしなべてあのような独裁国家になるというイメージは、いかんともしがたい。
もちろん現在の日本共産党は、旧ソ連や中国と「距離を取る」という正しい選択をした。
とはいえ彼らは、あくまでも「共産党」だ。
日本共産党として、大国の覇権主義や個別の政策は批判できる。
だが共産主義を標榜するかぎり、同時に「資本主義」も批判せざるをえない。
中国人が、権力闘争の手段として「共産主義を利用した」のは、ある意味で正しい。
彼らが宗教を「アヘン」として批判するのは、自分たちがその「受け皿になりたいから」だ。
宗教的な狂信者を増やすことは、階級(権力)闘争の本質である。
最近、日本共産党のトップが交代したときにも垣間見られたとおり、彼らは「異論を認めない」。
それが独裁なのか、民主集中制なのかはともかく、彼らの統制形態は比較的強い「純化」を求める。
一党独裁を担保する思想統制の「システム」を考えれば、わかりやすい。
旧ソ連のシステムを利用して、プーチンは戦っている。
自国の兵士を損耗させることが痛くもかゆくもない、というシステムの正体があらわすもの。
あえて言おう。
共産党はその組織原理からして、神風特攻隊を産んだ大政翼賛会的「政党よりも宗教に近い」のだ。
キリスト教とイスラーム、ユダヤ教が同じ神を奉じながら、なぜ現在も戦火を戦わせているのか?
中東の個別の事情はともかく、歴史的にくりかえされてきた宗教戦争の多くは、かぎられた「パイの奪い合い」だった。
土地、信徒、権力、理由はさまざまあれど、根本的な構造は同じだ。
純化の真髄は、すべからく「共有」ではなく「占有」を求めることにある。
彼らは「多様性」ではなく「唯一性」にフォーカスした。
ともに少数派でありながら、私が共産党に与しえない最大の理由でもある。
もちろん現在の日本共産党は、暴力革命を掲げていないし、平和を求める政党ではある。
共産党という名前がよくない、という意見に対しては、こう答えている。
「たまたま犯罪者と同じ苗字だからといって、自分の苗字を変えますか?
外国の政党が共産主義に値しない行動をとったとしても、われわれが名前を変える理由にはなりません」
たしかにそのとおりだが、問題の本質はそこにはない。
究極的に重要なのは「成功例の少なさ」だ。
資本主義も、しばしば失敗はしている。
だが多くの成功例もある。
一方、共産主義国のほとんどが失敗、あるいは変質している。
つぎは成功する、と信じる理由があまりない。
それでも「革命」を目指すことじたいを、けっして否定はしない。
オウム真理教(の後継教団)の信者がいまだにいなくならないように、共産党という宗教がなくなることもないだろう。
それでいい。
あらゆる「少数派」を受け入れる社会は、自分自身のためにも必要だと思っている。