きのう選挙が終わって、与党が惨敗したらしい。
私は今回も、投票権を行使しなかった。
民意をどう定義するかにもよるが、個人的には「政治」に参加できるほど、その集団について理解していないと思っている。
同時に「政治家」に対する嫌悪感が、あらゆる投票行動に二の足を踏ませている。
つまるところ、無理して参加しても意味はない、という諦念がある。
前回も書いたとおり、私は「少数派」だからだ。
政治や経済、宗教といったものは、多くの人間の「動きを操作」することで成立する。
言い換えれば、少数派はまっさきに切り捨てられる。
世界が私に背を向けているのか、私が世界に背を向けているのかはわからない。
たぶん両方だろうが、その状態を受け入れざるを得ないと思っている。
思想や学問、創作の分野では、個性的であることは強みになる(リスクは伴う)。
だが近年の西欧的民主主義国家では、少数派はあまり顧みられない(専制国家ではなおさらだ)。
私は自分の知識や能力が「足りない」と思っているが、すべからく自分で「考える力」をもっている、という前提だけは保持したい。
よって、だれかに言われたから、だれかが言っているから、神さまの御言葉だから、という理由で、それを信じることはない。
その意味で、昨今のリベラルには虫唾が走っている。
いわゆる国粋的「保守」が導いた歴史的悲劇について理解はしているが、リベラルはまだその「反動」から抜け切れていないのではないだろうか。
いくつかの事例をあげて、分析してみよう。
たとえばアメリカでは、どちらかといえば共和党が「保守」で、民主党が「リベラル」ということになっている。
まだバイデン大統領が大統領選を戦っていたころ、ヘイトクライム防止を訴える文脈で、こんなことを言っていた。
「沈黙は共犯であり、声をあげて行動しなければならない」
発言の背景は、白人がアジア人を対象に展開していたヘイトクライム。
私は白人ではないし、どちらかといえば被害者の側に共感すべき立場だが、すくなくともこの件については「選挙運動」にしか見えなかった。
白人のアジア人に対する差別と偏見は、「西洋の植民地主義に基づく画一的な見方」が「太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争や、外国駐留米軍基地周辺の性産業を通じてますます膨らんだ」結果らしい。
ややこしい言い回しだが、要するに「長いものに巻かれ」たのだ。
武器と金をもっている相手におもねるのは、致し方のない選択だろうと思う。
白人社会は事実、歴史的にあまりにも懲罰を「受けてこなかった」ので、調子に乗っている部分はとても大きい。
白人社会がアジア系を経済的脅威とみなして抑圧する「黄禍論」は、疫病の歴史とも重なる。
1882年に中国人労働者の移住を禁ずる中国人排斥法が成立した背景には「中国人はマラリアや天然痘、ハンセン病を持ち込む」という思い込みがあったとされる。
新型コロナを、当時のトランプ大統領が「中国ウイルス」と呼んだあたり、歴史的な文脈を感じざるをえない。
そのようなアメリカに残る差別の構造を、忌まわしいものと感じるバランス感覚は、多くの人々が共有できる。
当然、白人社会のなかからも、反省や反動は出てくるだろう。
バイデン大統領の「選挙運動」は、その「反動への手当て」だったわけだ。
「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」と言ったのは、アメリカ公民権運動のキング牧師だった。
まさに「宗教者」らしい物言いだと思う。
いずれも私が苦手とする「味方しないやつら全員敵」という議論だが、こればかりはいつ見ても萎える。
国際機関、公的機関が平然とやっているものだから、イジメ被害者の会なんかも平然と援用したりしている。
国際機関が言おうがイジメ対策委員会が言おうが、正しくないと思ったら指摘するし反抗する。
こちらに知識や考える力が足りないことに「かこつけて」、自分たちの言うとおりにしていればいいんだ、という「価値観を押しつけて」くる宗教者に似た態度だけは許せない。
結果的に少数派になっている。
この事実が、自分自身を生きづらくしている。
不正に対して声を上げなかったことが被害を大きくした、という歴史的文脈に立った反省を理解はするが、私にとっては「大きなお世話」だ。
いつでもどこでも「加害者役」が堂に入っている白人だが、この件については(部分的に)保守派の理屈のほうを支持する。
つまり私は、どちらかといえば共和党の支持者になるわけだが、もちろん投票は(たとえ投票権があっても)しない。
日本の選挙にすら投票できないのだから、ろくに知りもしない外国の選挙に口を出せるはずもない。
日本に原爆を落としたのは民主党だから、という理由ばかりではないが、共和党のほうがマシであることはマレによくある。
時々のリベラルが、多くのケースで私にとっての「一線を越え」てくる現実もある。
自分たちに反対する者は全員共犯者、という決めつけ。
かつての共和党も、福音派も、社会福祉団体も、多かれ少なかれそういう部分がある。
キング牧師の例を出したが、この手の言い回しは昔から宗教者が大得意としていた。
ある種の検閲や同調圧力も伴って、結果を出しやすいクレバーな心理的誘導である。
だが、目的は手段を正当化しない。
人間心理の弱点につけこんだこのような誘導は、えげつないと思う。
彼らはなぜ、このような卑劣な「手段」を用いるのか。
自分たちこそが正義である、多数派である、協力すべきという「思い込み」が、諸悪の根源にある。
中立はやめてほしい、自分たちに協力してほしい、と「お願い」する。
この時点では正しく、まったく問題ない。
同意するしないはともかく、「協力を仰ぐ」という行動に批判の余地はない。
一気に問題化するのは、自分たちに協力しない場合の「敵認定」だ。
もちろん敵と思う相手を敵と認定するのは彼らの自由なのだが、ただちに反対側も、彼らに対して敵対行動を準備しなければならなくなる。
彼らが戦争だという以上、こちらも最大限、戦争の準備をしなければ命にかかわるからだ。
このように、オートマティックに「敵を増やす行為」が、協力しない者全員が共犯者、という決めつけだと思う。
事実、世界は邪悪なので粛清する必要がある、と政治結社や宗教のなかのヤバい連中が言い出して終末戦争に駆り立てるのは、残念ながら定番の設定になってしまった。
敵認定、共犯者認定という「手段」は、まさにそのレベルのヤバいやつらの姿をほうふつさせる。
協力を依頼すればいいだけなのに、なぜ敵認定までしてしまうのか。
自分が「いいことをしていると思い込んで」いる人間が、しばしば陥る「暴走」状態だと考える。
この手の「善人」ほど、度し難いものはない。
キリストさまの教えを伝えてやる自分たちは正義なのだから、逆らうやつらは全員敵、場合によっては皆殺しOKですよ、というのが近年の世界史の姿だったように思う。
それと同じことを、このご時世にまだやっている人々を見ると、残念な気持ちにならざるを得ない。
物事を考える力のある人々は、現在の体制や価値観を含む世界のありようが、正解だとも絶対だとも思っていない。
次世代の比較的「正解」に近い状態を準備する過渡期、というのが冷静な見方だと思う。
その過渡期を泳ぎ切る手段として、大事なことをもう一度言っておきたい。
目的は手段を正当化しない。
どんな理想をもつのも勝手だが、中立の人間を敵認定という「手段」だけは避けるべきだ。
そういう私は、残念ながら少数派なのだが……。