ゴールまで1km、倒れた女性。
使われなかったAED──。
くりかえし拡散する「女性にAED使用で訴えられる」説。
警察や弁護士は、正しい知識で救命を、と呼びかける──。
本日のブログ執筆の発端は、上記のような記事だ。
私はひねくれているので、ひねくれた結論から述べよう。
やりたくないなら、やらなければいい。
あなたが倒れた女性を助ける必要は、ない。
まず「助けたら訴えられる」説。
基本的にはほぼないが、「そういうことにしておいたほうが都合がいい」のはだれか、という点から考えよう。
命はなによりも大事、みたいな教育が席巻するなかで、なかなか刺激的なフレーズだと思う。
まあ死にたい人を助けたら「よけいなお世話」だよなあ、という思いとも輻輳する。
現に「触られたくない女」は一定数、存在する。
見知らぬ男に触られるくらいなら、死んだほうがマシよ! と言われたら、返す言葉はない。
個人の自由というのは崇高なもので、死んでも触られたくない、と思う彼女らの意見は尊重しなければならず、われわれにはどうしようもない。
彼女らの利益が、それ以外の女性の利益と対立しても、それはしかたのないことだ。
とあるアイドルが、死にそうになってたら遠慮なく触ってほしいと投稿していたが、それもあくまで彼女の考えにすぎない。
「触るな」と主張する女性が現実にいて、彼女らはそれ以外の女性のリスクより、自分の感情を優先している。
それが「抑止力」として稼働する事実は、数字に表れている。
必要でも触らない、という男性が増えることは、彼女らにとってとても「都合がいい」。
似たようなロジックで「献血」がある。
献血に協力する人の多くは男性なので、一部の男性向けのノベルティが用意された。
すると、ある女性弁護士がたいへんご立腹だった。
こんな性的なノベルティを使わなければ血が集まらないくらいなら、そんな血は集めるべきではない、くらいの勢いだったと記憶している。
もちろん彼女自身、自分には必要がない献血など、なくてもいいのだ。
放置されたら死んでしまう女性がいたとしても、自分に関係がなければ気にする必要はない、というロジックは盤石である。
献血が減るとか、AEDで助けてもらえないとかは、基本的に自分には関係ないし、きわめてレアケースなので無視しやすい。
そんなことより自分が不快であることに優先順位を置くのは、むしろ当然だ。
彼女らは自分の主張のために、それ以外の主張や合理性に対して優先順位を下げる、という選択肢をとった。
結果を受け入れるのは「自分以外の女性や輸血を必要とする人々」なので、遠慮する必要は皆無だ。
理屈はわかる。
彼女らにとって、これは「絶対優位の戦略」だ。
多くの男女が協力したほうが、全体として高い利益が得られる。
だとしても、自分たちの主張を貫くほうが、全体の利益が減っても自分たちにとっては常に都合がいい。
映画でいえば実写版『白雪姫』が似ている。
DEIが正義で、王子さまを待ったりしない、という現代風の女性が主人公だ。
名作をぶっ壊して、新しい価値観の訴求の道具にする(自分たちは心地よい)。
結果は、史上まれにみる低収益(全体としての利益は低下)だ。
意識高い系は、自分の考えが正義だと思っているので、そう思わない人々に対して高圧的に「自分が正しいから従え」「新しい価値観を受け入れろ」という姿勢を示しやすい。
みんながやさしく聞いてくれているあいだはいいが、そうでもなくなったとき、相応のバックラッシュを引き受けざるを得なくなる。
反DEIやアンチフェミニズムは、その典型だろう。
ほどほどの主張で止めておけばいいのに、言いすぎるので反発される。
私も人間なので、命の危険がある局面で触るの触らないのという議論じゃないだろう、と常識的には思う。
だが残念ながら、女性に対してはAEDを使わないのが「絶対優位の戦略」だ。
命に危険があろうとも輸血するな、という宗教も実在する。
そのような思想集団に対しては、距離を置く以外の選択肢がない。
明示的に「触られたくないバッジ」みたいなものを携帯する、というやり方はあるかもしれない。
どれほど必要でも輸血はされたくないし、たとえ死にかけていても男性にAEDを使われたくないなら、自分はそういう考え方なのだということを「明示する義務」を負うことにすれば、それ以外の人々は助けてもらえる。
しかし現状、そうはなっていない。
よって、女性に対してAEDを使うのは「ただのリスク」ということにしておいたほうが、狭義の都合はよい(全体の利益は低下)。
「触られたくない」と公言すればするほど、触られない社会ができる。
それが命を削る結果になっても、だれのせいでもない。
だとすれば、こうした非常識な合理性は、偶然ではなく、だれかが選びとった結果ということになる。
非常識な選択のほうが合理的である社会にしたのは、いったいどこのだれですかね?