私は女好きなので(語弊)、よく女性ボーカルの曲を聴く。

 歌は世につれ、世は歌につれ、その時々の「文化」があらわれていて、とてもおもしろい。

 

 カラオケでも、よく歌う。

 オクターブを下げて音域ぴったりの曲が多いからだが、ある種の「勉強」もある。

 

 で、気づいたのは、女性アイドルが「僕」という一人称の曲を歌うことや、男性演歌歌手が「女」の道を歌うのが、正直あまり好きではないことだ。

 自分が女性目線のラブソングを歌うことは、まさにその構図に当てはまる。

 

 なるほど、そういうわけか。

 私は「勉強」が好きなのだ。

 

 AIと話し合っていても、必ず「批判」や「反対意見」を募集する。

 論破したいからという浅薄な感情もあるかもしれないが、さまざまな立場や感情は勉強しておくに越したことはない。

 

 もちろんすべてを受け入れるわけではない。

 イライラしながら聴いてる女子トークはままあるが、それじたいが「いい勉強」だ。

 

 

 報道番組を見ていて、ジェンダー・ギャップの話題になった。

 フェミニストの大好きな「言葉狩り」の文脈で、男のアナウンサーが、「じゃ僕らも女子アナって言ったら失礼なんですかね」と、なかば冗談ぽく隣の女子アナに振っていた。

 

 すると女子アナ、「そうですね、男子アナとは言わないし、女子というのは女の子みたいな感じで、見下している感じがありますね」などと乗っかる。

 しかしさすがに、どこかで「まあ女子くらいはいいんじゃないですか」と拾ってまとめるのかと思ったが、そのまま話題を変えていた。

 

 空気を読んだつもりで読みすぎただけなのか、それとも心からそう思っているのか。

 だとしたらヤバイと思うが、影響力のある立場にいる人間が冗談半分の問いかけに乗って「女子もダメ」に寄せてしまうのは、正直バランス感覚を疑う。

 

 じゃあ女子会もダメだろ、女子会はババアだってやるんだぞ。

 いくらなんでも「女子」まで狩るのはやりすぎだろ?

 

 もちろん「自分たちで女子会を名乗る」のと、「局の内外のだれかが女子アナとラベリングする」のはちがう、という理屈はわかる。

 それでも言葉を根こそぎ狩りに行く態度には、賛同できない。

 

 バランス感覚をもったアナウンサーなら、そんな暴論には乗るべきではない。

 もし彼女がノリノリでそう思っているのだとしたら、それこそが昨今のリベラル衰退の遠因だと思う。

 

 

 意識高い系だと言いたいのか知らないが、ある「女優」が「俳優」と自称していたりする。

 なぜ女優ではダメなのか?

 

 女優といえばセクシー女優だからだろうか?

 職業差別をしているのは、いったいどちらだろう?

 

「昔、平賀源内という男が公儀に願い出て、こういうものがないと悪所が盛るから、ぜひともつくるべきだと申し上げてできたのが、この吉原というものでね。

 最近は、吉原はダメだとか、こういうものはよくないってね、そんなこと言ったってしょうがないんですよ、そういうもんなんですからね」

 

 いつものように落語を聴いていて、名人・志ん生の名調子でそう言われた。

 まったくだな、と思った。

 

 それが人間というものであって、その人間の本性を否定する方向に進む理想主義者は、昔のヤバイ宗教と変わらない。

 フェミニズムをめぐる議論のなかで、かなり大きな比重を占めているのがこの「性産業に対する偏見」だと感じている。

 

 

 私は女の人が大好きだし、社会の枢要を占めてもらいたいと思っている。

 彼女らに食べさせてもらいながら、好きな物語を書きつづけていられれば幸せだ。

 

 男女機会均等や同一労働同一賃金は理解できる。

 女性が働きやすいように、という各論に対しては、ほとんど賛成だ。

 

 しかし性的二型は進化的な時間スケールの話であり、それに紐づく社会的な役割もまた、長い時間をかけて成り立ってきた。

 その「役割」否定、極端な男女の均質化については、あきらかにまちがっている。

 

 われわれは「おなじ人間」ではなく、それぞれが「異なる人間」だ。

 だからこそ、言葉や性を管理しようとする方向ではなく、「女が女であること」「男が男であること」を前提にしつつ、権限も責任も分け合っていく方向に未来を見たい。

 

 「女性」としての担当範囲を拡張し、「男性」の職権を大幅に譲る。

 それは彼女らが「人間だから」ではなく、「女性だから任せる」のだ。

 

 個人的にも、相当程度「任せたほうがマシ」になると思っている。

 だから高市さんには働いて働いて働いて……もらいたい。