私はグンマーの限界集落に住んでいる。

 きょうはローカルニュースから、気になった話題をひとつ。

 

 JR信越線の安中―磯部間に、新駅を求める動きがあるらしい。

 安中市の各種団体などでつくる「あんなかのみらい新駅応援団」が、新駅設置の早期実現を求める要望書を市に提出した、という。

 

 たしかに、安中駅と磯部駅のあいだは長い。

 安中市の資料でも、新駅構想は安中駅から約3キロ、磯部駅から約4キロの中間地点で検討されている。

 

 距離だけを見れば、そこに駅があっても不自然ではない。

 さらに西毛広域幹線道路との接続や、新しいまちづくりという理屈もついている。

 

 しかし、素朴に思う。

 ほんとうに必要か?

 

 

 もちろん、必要なのだろう。

 すくなくとも、必要だと考えている人々にとっては。

 

 地権者、周辺の事業者、開発を期待する団体、地域の将来像を描く行政関係者。

 駅ができることで利益を得る人、期待を持てる人、政治的な成果として語れる人にとって、新駅(ハコモノ)は「必要なもの」になる。

 

 だが、それ以外の人間にとってはどうか。

 私の周辺で聞くかぎり、「べつに要らない」という声は少なくない。

 

 もちろんこれは統計ではなく、あくまで生活感覚の話だ。

 その感覚は、無視していいか?

 

 

 駅ができる、道路がつながる、まちづくりが進む。

 そう聞くと明るい話に見える。

 

 だが、そこに住む人間が本当に日常的に使うのか。

 車で動く地域に新しい駅を置いたとして、それはどれほど生活を変えるのか。

 

 たまに信越線を使う私にとっては、新駅ができれば高崎へ向かう途中、一駅よけいに停まる、という意味になる。

 到着が数分遅れるかもしれないが、その程度は痛くもかゆくもないし、ぶっちゃけ損害はほとんどない。

 

 それが必要だ、と言う人々がお金を出してつくるなら、文句を言う筋合いはない。

 やや乱暴にいえば「勝手にすればいい」のだが……問題は、そこに公金が絡むことだ。

 

 まあ高額納税者ではない私ひとりの負担など、知れたものだ。

 家計が傾くほどの税負担が降ってわくでもなし、だから怒るほどでもないし、反対運動を起こす理屈はさらさらない。

 

 せいぜい「必要な人がいるならやればいい」という程度の話。

 政治とは、まさに「その程度の無関心」の上に成り立っている。

 

 

 強く望む少数者がいて、薄く負担する多数者がいる。

 多数者は強く反対するほど困らないし、少数者には強く求めるだけの理由がある。

 

 すると、物事は前に進む。

 駅が必要かどうかというより、駅を必要とする人々が政治的に組織されているかどうかが重要になる。

 

 そう理屈で考えているうちに、ふと北陸新幹線のことを思い出した。

 北陸新幹線の新大阪延伸をめぐっては、まだルートを一本化する議論がつづいている。

 

 費用対効果、いわゆるB/Cが議論になっていいる。

 国土交通省の鉄道局長が「B/Cだけで決まるなら政治はいらない」と発言し、炎上していた。

 

 この発言じたい、じつはまちがっていない。

 政治とは、数字だけでは切れないものを扱うために存在している。

 

 費用対効果だけで全部決まるなら、政治家も議会も要らない。

 役所が表をつくり、数値の高い順に予算をつければいい。

 

 災害対策、地域間格差、安全保障、将来世代への投資。

 そうしたものは、単純なB/Cだけでは測れない。

 

 だから政治判断が必要になる。

 ──問題は、その正論がどこまで許されるかだ。

 

 

 B/Cだけで決めないことと、B/Cを無視することはちがう。

 数字に表れない価値を拾うことと、数字で不利な計画を政治力で押し通すこともちがう。

 

 政治が必要なのは、計算を補うためであって、計算から逃げるためではない。

 地方の新駅も、大規模な新幹線延伸も、構図は似ている。

 

 前述のとおり、必要とする人は必要とするし、「利益を得る人」はさらに強く求める。

 反対する人は、たいてい「大損はしない」ので、そこまで強く反対しない。

 

 結果として、薄く広い負担の上に、濃い利益が積み上がっていく。

 ……それを、すべて悪と断じるつもりはない。

 

 地域には地域の事情があり、最初から「無駄」と決めつけるのも乱暴だ。

 とはいえ推進派の宣伝だけで、公共事業を語るのも危うい。

 

 

 「まちづくり」「地域活性化」「未来への投資」──どれも耳ざわりはいい。

 だが、その言葉の裏には、必ず「負担」がある。

 

 だれが得をし、だれが払うのか。

 どの程度の需要を見込み、外れた場合はだれが責任を取るのか。

 

 開発によってほんとうに地域が持続するのか、それとも一時的に工事と期待だけが生まれるのか。

 そこを曖昧にしたまま、「未来のため」と言えば、たいていのものは正当化できてしまう。

 

 政治とは、そういうものだ。

 必要な人が声を上げ、関心の薄い人が黙り、行政が絵を描き、どこかでだれかが利益を得る。

 

 それは「悪」ではなく、むしろそれこそが政治の「普通」の姿なのかもしれない。

 だからこそ──やりすぎてはいけない。

 

 

 安中―磯部間の新駅がほんとうに必要なのか、私にはまだわからない。

 北陸新幹線の延伸も、ぜったいに不要だと断言するほどの材料は持っていない。

 

 ただ、一納税者として思う。

 公共事業は、夢ではなく請求書を伴う──その請求書を、だれが、どれだけ、なんのために払うのか?

 

 「必要な人がいる」だけでは足りないし、「政治的に進めたい人がいる」だけでは、もっと足りない。

 そこから逃げる政治なら、駅も新幹線も、すこし立ち止まったほうがいい。

 

 

 立ち止まって、どうするか?

 さまざまな論点を積み上げ、妥当性を「総合的に評価」すべきだ。

 

 具体的な例を出そう。

 私にとっては「要らない」安中新駅の妥当性を、仮に「10」と置く。

 

 かなりの関連データを読み込ませているうちのAIに、そのうえで小浜・京都ルートの評価を問うと「2」らしい。

 かなり甘く見ても「3」、厳しく見るなら「1.5」。

 

 べつに北陸新幹線を否定したいわけではないし、なんなら誘致派がやっている「活動の成果」が、わが自治体にもある。

 さらにわかりやすい例を出そう。

 

 地元が誇る政治駅。

 そう、「安中榛名」駅だ。

 

 

 北陸新幹線を群馬に通したいなら、県内に駅ひとつつくらねーと許可しねーよ!

 と群馬の政治家がごり押したのかどうかは知らないが、事実として、わが自治体には謎の新幹線駅がひとつ、山奥にポツンとある。

 

 JR東とどんな話し合いがあったか知らないし、地元に還流したであろうマネーが、われわれのような末端にトリクルダウンしてきたなどという話も、さらさら聞かない。

 その妥当性は「4」。

 

 乗降客の少なさで知られ、秘境駅としても名高い安中榛名駅は、地元民としても使いづらいことこのうえない、残念な駅だ。

 かなり厳しい評価であってしかるべきだが、それでも「既存のルート上にある」だけで、被害規模は小さくなるようだ。

 

 要するに安中榛名は「小さい失敗」と結論していい。

 いっぽう小浜・京都ルートが抱える問題は、より「大きい失敗になりうる」ことだ。

 

 

 失敗ばかり挙げるのもなんなので、成功例もいくつか。

 さいたま新都心駅「30」、越谷レイクタウン駅「22」、群馬県では高崎問屋町駅「16」あたりが、優秀な新駅、請願駅として挙げられる。

 

 高輪ゲートウェイ駅や幕張豊砂駅はまだ評価途中だが、安中新駅よりは優秀そうだ。

 政治ではなく民間が主導していれば、まだマシになりうる例ともいえる。

 

 需要の説得力、代替性、失敗時の被害、政治臭さ……。

 そのもっともらしい説明をるる書き立てるつもりはないが、何兆円もかける整備新幹線については、より強く日本の良識が試されている案件であると感じる。

 

 以上、政治家ぎらいの私との蓄積された会話にもとづいたバイアスがかかっている可能性が高いため、この数字を一般化するつもりはない。

 ただし、これを無視する政治には疑問を感じていい。

 

 みなさんも、それぞれAIに質問してもらいたい。

 なにやってんですか、と。