最近、古い映画をよく観ている。

 そこに頻々と出てくる、太った俳優。

 

 べつに「太っちょキャラ」を演じているわけではない。

 むしろ堂々と、二枚目の延長線上にいる。

 

 大物らしく振る舞い、周囲もそう扱っている。

 画面のなか、みんなが気を使っているように見える。

 

 オブラートに包んでもしかたがないので名前を出そう。

 石原裕次郎だ。

 

 

 太っちょキャラ(?)はキャリア後半で、若いころの裕次郎はもちろんスリムだ。

 戦後、青春スターとして爆発的に売れたらしい。

 

 「日本人離れした長い足」で「またたくまに銀幕の大スター」になった。

 時代の空気を含めて、強烈な存在感がひとつのスター像をつくった。

 

 問題は、その後だ。

 大スターが、またたくまに膨れ上がった体形を利用して、デブキャラ枠を埋めたという話は聞かない。

 

 

 よしもと新喜劇で、太った演者が「裕次郎」のモノマネで笑いをとっていた。

 彼がいつからあの芸をやっているのか知らないが、たぶん死後かなり経ってからだと思う。

 

 本人が現役の大物スターだった時代、その体形を真正面から指摘する空気はなかったのではないだろうか。

 私はここに、すこし引っかかっている。

 

 あらかじめ言っておくが、私は人を見た目だけで判断しない。

 なにができるか、それが問題だ。

 

 仕事でも、政治でも、商売でも、最終的には能力と成果がすべてであるべきだ。

 しかし芸能界、とくに古い芸能界においては、話がすこしちがう。

 

 

 見た目とタイミングが9割、という世界はたしかにある。

 顔がいい、脚が長い、声が甘い、色気がある、時代の空気に合っている、たまたま近くに強い事務所があった──そういう要素でスターになる人間はいる。

 

 それを否定はしない。

 美貌は才能であり、肉体も天賦の才、見た目とタイミングだけで売れる人間がいてもいい。

 

 おなじ文脈を逆から読めば、デブやブスを売りにするキャラクターだ。

 新喜劇など、その役割は露骨なほど明確に成立している。

 

 太っているから笑える、顔が濃いから笑える、小柄だから笑える、禿げているから笑える。

 現代的な倫理で全部を洗い流そうとすれば、喜劇のかなりの部分は消えてしまう。

 

 だから、問題は見た目で売ることではない。

 一貫性だ。

 

 

 見た目で売れた人間なら、見た目にこだわる、これは当然だ。

 若いころ美貌で利益を得たなら、後年その美貌が失われたときにも、おなじ物差しを当てられなければならない。

 

 若いころは「かっこいい」「色気がある」「脚が長い」と称賛され、後年に太ったら「貫禄が出た」と言い換えられる。

 海外ならマーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリー、若いころは圧倒的な肉体的魅力で売れ、その後は「貫禄」が出た。

 

 実績、年齢、場数、社会的地位が身体に乗ってくる──それを貫禄と呼ぶことを、否定はしない。

 若いころの美貌とは別の形で、スターとしての存在感が残ることもある。

 

 ならば「太った」と「貫禄が出た」は両立していい。

 ゆえに全否定はしないが、もし前者を隠すために後者を使うなら、それは評価ではなく忖度である。

 

 

 おなじ状態になっても、小物なら「節制が足りない」「劣化した」と切り捨てられる。

 ならば「貫禄」とは、男性の成功者の肥満にだけ与えられる敬称になりはしないか。

 

 この非対称は、女性の場合さらに露骨になる。

 女性スターが男性スターと同じように太ると「劣化」「老けた」「昔は綺麗だったのに」と言われやすい。

 

 だから近年、「女優」ではなく「俳優」と呼んでほしい、という流れが出てくる。

 呼称を変えただけで、この非対称が消えるわけではないが。

 

 

 話をもどそう。

 ルッキズムの是非は措くとして、現に成功した美貌の延長線上には、おなじ物差しが当てられるべきだ。

 

 若いころの美貌は称賛しておきながら、後年の崩れだけを「貫禄」と呼んで免責するのは、容姿評価として一貫性を欠いている。

 くりかえすが、これはデブを否定する文脈ではない。

 

 べつに、太ること自体はかまわない、個人の自由である。

 体形を理由に、生活上の不利益を受けるべきではない。

 

 しかし、それを「飯の種」にしているなら、話は別だ。

 見た目で売っていた人間には、その劣化コストを支払う義務がある。

 

 言い換えれば最低限、見た目を維持する努力義務。

 これは道徳の話ではない、商品の話である。

 

 

 あるビデオシリーズで、「伝説の雀士」を主人公にする作品を観た。

 雀士を演じた俳優の若いころの写真を検索すると、スリムな二枚目が出てくる。

 

 問題はシリーズの後半だ。

 演じる俳優は後年、かなり体形が変わっていた。

 

 事情はわからない。

 薬物事件など、私生活でもいろいろあったらしい。

 

 薬をやめた反動なのか、体調の問題なのか、単なる生活習慣なのかは断定できない。

 ただ、画面上の印象としては、かつての役柄と現在の身体があまりにも乖離していた。

 

 卓に牌を叩きつけた瞬間、顎の肉がぶるんと揺れた。

 申し訳ないが、思わず笑ってしまった。

 

 このとき「他人の容姿を笑った」私が悪いのか。

 それとも、その状態でなお「同じ役をつづけさせた」制作側が悪いのか。

 

 私は後者だと思う。

 いくら昔から演じているとはいえ、現在のイメージが役柄から大きく離れてしまったなら、キャスティングを変えるべきだ。

 

 縁故や惰性で続投させたのだとすれば、それは正しくない。

 すくなくとも作品の説得力を損なっている。

 

 俳優の身体は、声や顔と同じく表現媒体である。

 そこを無視して「昔からこの人だから」で押し通すのは、観客を軽く見ている。

 

 

 結局、これは容姿の話というより、権力の話なのだ。

 小物の変化は欠点として指摘され、大物の変化は美称に変換される。

 

 痩せている若者の美貌は「商品」になり、太った成功者の身体は「貫禄」になる。

 女性の変化は「劣化」と呼ばれ、男性大物の変化は「味」と呼ばれる。

 

 ここには、見た目そのものよりも、見た目を評価する側の権力関係がある。

 まさにこの「権力」によって、一貫性がゆがめられるのだ。

 

 だれなら笑ってよいのか、だれなら笑ってはいけないのか。

 だれの肥満は怠惰で、だれの肥満は貫禄なのか。

 

 その線引きは、見た目の問題に見えて、実際には地位の問題である。

 だから私は、「貫禄が出た」という言葉を疑う。

 

 それが本当に貫禄を意味しているならよい。

 しかし、ただの成功者補正なら、もうすこし正確に言ったほうがよい。

 

 太ったのである。

 そして、それでもなおスターであるなら、よけいに忖度など必要ないはずなのだ。