先日、地元で飲み会があった。
午前中の準備から参加し、終わってみれば12時間近く拘束された。
それは、べつにいい。
地域の行事とは、そういうものだ。
準備から片づけまで、だれかがやらなければ成立しないし、自分だけが客でいられるわけもない。
ただ、ひとつ気になる場面があったので、記録しておきたい。
早めに集まり、会場の掃除などをした。
持ち込まれた飲食物のうち、漬物を切って紙皿に盛る、という作業を請け負ったときのことだ。
食べ物を扱うので、まず石鹸で手を洗った。
洗った手をぶらぶらさせながら作業の説明を聞いていると、指示者がハンカチを差し出して「手を拭け」と言った。
私は反射的に答えた。
「いや、これから水仕事をするんだから、拭く必要ないですよ」
すると怒られた。
「年上から手を拭けと言われたら、はいと応えて拭けばいいんだよ」
かちんときたが、ここで問題にしたいのは、私の返答がよかったか悪かったかではない。
たぶん「下の人間」としては悪かったのだろう、認めよう。
年上の人がハンカチを差し出したら、それを素直に受け取り「ありがとうございます」と言って手を拭く。
そうしていれば、なにも起こらなかった。
だが十数秒後の私は、つけ汁に漬かった漬物を手に取り、びしょびしょの手で漬物を切っていた。
つまり「手を拭く」という行為は、作業上ほとんど意味がない。
では、あの場面で求められていたものは、なんだったのか。
答えは簡単、手を拭くこと?
ちがう、「はい」と言うことだ。
これが、いわゆる体育会系のルールである。
私は文系の陰キャだが、陽キャを否定しているわけではない。
体育会系のルールに、一定の合理性があることは認めている。
災害現場、戦場、スポーツの試合中、工事現場などでは、いちいち議論している暇がない。
上位者の指示に即座に従うことで、全体の動きが速くなり、事故を防げる場合もある。
だから、命令系統そのものを否定はしない。
問題は、それが必要のない場面にまで持ち込まれることだ。
漬物を切る場面で必要なのは、上下関係の確認ではない。
衛生的に扱うこと、必要な量を切ること、見た目よく紙皿に盛ること、時間内に作業を終えること。
つまり、目的に沿って手を動かすことだ。
ところが、そこで突然、別のルールが割り込んでくる。
「年上が言ったことには従え」
この瞬間、作業の目的は漬物を切ることから、上下関係を確認することへとすり替わる。
自己正当化をするつもりはないので言っておくが、私自身にも、かなりやっかいな癖がある。
合理的だと思ったことを、そのまま口に出してしまうのだ。
要するに、アスペ傾向。
相手の言葉を文字どおりに受け取り、理屈を優先して反応してしまう。
以前、強い風の日に看板を設置していたときのことだった。
風で看板が倒れないよう、それを押さえる役割を負った私。
こう指示された。
「ちゃんと押さえてろよ。ぜったい放すなよ」
私は答えた。
「突風が吹いたらわかりません」
だいぶ怒られた。
あとで考えれば、あの場面でも「はい」と言っておけばよかった。
相手が求めていたのは、物理学的に厳密な保証ではない。
「気を抜くな」「責任を持って押さえていろ」「危ないから集中しろ」という意味だったのだろう。
しかし私は「ぜったい放すな」という言葉を、ほとんど文字どおりに受け取ってしまった。
強風下で看板を人力で押さえている以上、突風が吹けば放す可能性はある。
自分の力を超える風がきたら、保証はできない。
だから「突風が吹いたらわかりません」と答える。
理屈としては、まちがっていない。
が、共同作業の場では、理屈として正しい返答が、社会的には不適切な返答になることがある。
これは自分の弱点だと思う。
じっさいの人間関係では、言葉は情報だけを運んでいるわけではない。
確認、励まし、威勢づけ、上下関係、責任の共有、場の空気。
そういうものも同時に運んでいる。
「ぜったい放すなよ」は、厳密な契約条項ではない。
それを私は、契約書の文言のように読んでしまう。
言葉を厳密に解釈し、その場で不要な正確性を持ち出す、相手が求めているシンプルな「はい」を、情報として不正確だから拒んでしまう。
これは共同体のなかでは、かなり扱いにくい人間だろう。
ただし、それでもなお問題は残る。
私が面倒くさい人間であることと、年齢を根拠に思考停止を求めることは、別の問題だからだ。
看板の件でいえば、「突風が吹いたらわかりません」という返答は、場の空気としては悪い。
しかし安全管理としては、むしろ確認すべきことでもある。
突風が来たらどうするのか、倒れそうになったら逃げるのか、支えるのか、人力で押さえるだけで本当に安全なのか、重しや固定具を使うべきではないのか。
ほんとうに危険な場面では、「はい」と言わせることより、限界条件を共有することのほうが重要になる。
漬物の件も同じだ。
手を拭くかどうか自体は小さな話で、手を拭けと言われたら拭いておけばいいし、そういう処世術もある。
だが、そこで怒られた理由が「衛生上、そのほうがよい」ではなく、「年上から言われたら従え」だったことには、やはり引っかかる。
敬意と服従は、ちがうのだ。
昔は、それでも回ったのかもしれない。
全体的に人が多く、若い人もいて、多少の非合理を吸収できる余裕があった時代なら、「黙ってやれ」で済んだのだろう。
いまは、ちがう。
地域行事に参加する人は減っている、若い人は忙しい、高齢者も疲れている。
人手不足のなかで、意味のない儀礼まで維持していたら、参加者はさらに減る。
それでもなお、「年上が言ったら従え」というルールを優先するなら、その共同体は合理化ではなく、縮小を選んでいることになる。
あの場面での私は、たぶん手を拭いておけばよかった。
十数秒後にはまた濡れるとしても、「承知しました」と言って拭く、それが大人の対応だったのかもしれない。
看板のときも、たぶん「はい」と言っておけばよかった。
そのうえで、必要なら「突風がきたら危ないので、重しを置きませんか」とでも言っておけばよかった。
私の弱点は、言葉を文字どおり受け取りすぎることだ。
いっぽう古い共同体の弱点は、言葉を上下関係の確認に使いすぎることだと思う。
このふたつがぶつかると、濡れた手を拭くかどうか程度で、妙に場がこじれることもあるかもしれない。
……まあ、そう思っているのは私だけなのだが。
あのとき私の手は、すぐにまた濡れた。
そんな私のような人間が、より乾いた関係を目指すようになって、地域社会は変わっていくのだろう。