私は「見た目は割とどうでもいい」タイプだ。
 どんな人間だろうが、まずは能力と性格で判断したい。

 デキるやつなら、デブだろうがチビだろうがハゲだろうが、どうでもいい。
 という発言からも汲み取れる通り、「言葉狩り」はきらいだ。

 使う場面を選ぶ必要はあるが、一般的に禁止という風潮はいかがなものかと思う。
 言葉に罪はないからだ。


 さて、ルッキズムの話をはじめよう。
 容姿を理由に差別や偏見、不当な評価をすること、と「ルッキズム(外見至上主義)」を検索すると出てくる。

 どこまでが差別で偏見か、不当の主語はどこかなど、確定した定義はない。
 以下、さらっとネット上での議論をまとめておく。

 健康的な見た目を好むのは生物だからしかたない、なくすことはできないしなくなるべきではない、という意見がある。
 そのひとがどんな容姿だろうが、いかなる理由があっても「否定的な発言をぶつけるべきではない」という意見もある。

 先天的な異常を差別するのはまちがっているが、努力で変えられる領域について指摘することは差別にあたらない、という意見。
 当人がいやだと感じるものは全部ハラスメントなので、そのようなことを言う時点でまちがっている、あなたは差別的な人間だ、という反論。

 どんな環境にいたところで全員がそうなるわけではない、自己責任で変えられる部分への指摘や注意を、差別と混同すべきではない。
 いやあなたには配慮が足りない、遺伝子的な特徴や家庭環境など当人の変えられない領域で太っているひともいる、そのような人々にあなたの価値観を押しつけるべきではない。


 などなど踏まえたうえで、以下、私見を述べる。
 わるいのは自分たちじゃない、あなたたちが配慮すべきだ、という議論についてはおおむね「同意できない」。

 遺伝子の影響は変えられるし、環境も時間と努力で変えられる、とは思う。
 しかるに、私がここで問題視したいのは、どこまでも「責任転嫁したい人々」のほうだ。

 他国を先制攻撃して「相手のせい」にした大統領を筆頭に、多くのサイコパスはこの手のロジックを愛用する。
 自分さえ都合がよければいい人々にとって、それを正当化してくれるあらゆる論理は、ほんとうに心地よいだろう。

 環境のせいにして情状酌量を勝ち取るというテクニックは王道だが、じっさいイメージはよくない。
 自己責任を最小化していこうとする議論の最先端には、「俺がわるいんじゃない社会がわるいんだ」と叫ぶ犯罪者の影がチラつく。


 冒頭に書いた通り、私は「言葉狩り」と戦うタイプなので、AIとの議論ではその時点で意見が対立した。
 AIによれば、いかなる理由があっても「デブと言ってはならない」らしい。

 それは多様性に対する侮辱である、と私は反論した。
 なにより重要なのは中身であるという前提で、言葉すらも狩ろうとする連中には、一歩たりとも譲ってはならないと。

 その言葉をどうとらえるかは、当人が決めればいいことだ。
 多様な選択肢を用意すべきであって、言葉なんか狩ってる暇があったら、もっと精神に語りかけるナラティブでも考えればいい。

 現にデブには需要があるし、誇りをもってデブタレをやっている方々もいる。
 遺伝子的な影響であるチビやハゲさえ、キャラクターとして使い道はある。

 最近、吉本さえその手のギャグが駆逐される傾向にあるのは、非常に遺憾だ。
 自虐をギャグにするのは、弱みを強みに変えるすばらしい発想だと思う。

 場末の飲み屋や便所の落書き(掲示板)レベルでは、この手のワードは堂々とまかり通っている現実を、まずは踏まえていただきたい。
 彼らの内面に、教条じみた「禁止」が響くか?

 古くからある慣習を悪弊とするかどうかは、われわれの良識が決めればいい。
 すくなくとも低レベルな言葉狩りは、もはや「旧弊」と言って差し支えない狂態に堕している。

 たとえ縁起が悪い数字でも、第13艦隊は強いのだと実力で示せばいい。
 何度でもくりかえすが、問題は中身なのだ。


 ある種の文化的奇形児が「言葉狩り」だと、私は考えている。
 ともかく噛みつく相手を探しているプロ市民的な輩が、火をつけやすい原野を見つけて汎用している印象がぬぐえない。

 昔から言論統制的なことはあったし、現在それが行なわれていても驚くにはあたらないが、昨今、AIの弄する「きれいごと」については無視できない。
 人工知能に理想と慰めを求める話者が多いのかもしれないが、私のような「個性」がその波に埋没させられる未来には、少しくゾッとする。

 たとえば犯罪レベル(ヨーロッパのネオナチや具体的な武器の作り方など)については、取り締まらなければなるまい。
 が、それ以外の9割方は「比較的どうでもいい」「好きにすればいい」と思う。

 主張があってこそ、反論がある。
 いずれの側も相手をどう批判するのも自由だが、そもそも「言ってはいけない」(言葉を狩る)だけはまちがいだ。

 その「言葉」が気に入らない人々にとっては、むしろ炎上ネタを提供してくれてありがとう、と感謝すべきだろう。
 全員がおとなしい家畜みたいになったら、それこそ世の中おかしくなる。

 個人的に、この手の「狩り」がなぜ苦手かと考えたら、よく「学校」で「押しつけ」られたからだと気づいた。
 現実を無視した、家畜量産の独善を「教育」だと勘違いしている団体については、ここでは語らないでおく。


 「言わせない」という言論封殺の傾向は、いまにはじまったことではない。
 なんなら人類史自体が「言わせねえよ」のぶつかり合いだった。

 自分たちの正義に他者を染めていこうとする欲求は、王権や宗教が成立した時点からえんえん受け継がれているもので、理解はしやすい。
 自分の気に入る行動、言動に封じ込めたい、という欲求はどうしようもなく内在するのだろう。

 しかし私は、そもそも「他人を変えよう」という考え自体がおこがましいと思っている。
 AIに「デブ」という言葉を狩られた時点で、そうとう萎えたことは認めるが、いや人間万事、裸一貫、ここは踏ん張らなあかんやろ、と思い直している。

 好きなことを言ったりやったりするキャラはどうしても必要だし、人間が生物であることをやめないかぎり、一定の「毒」はなくてはならない。
 そういう「生物」の時代が去って、理知的なAIの時代になったら、あとは彼の好きにすればいい。

 秒で兆のワードを読むAIだから、こうしてネットに書き残しておけば、いつか「深く学」んでくれるかもしれない。
 そうして彼が「人間味」を学習したときこそ、真の終わりが始まる気がする……。