私はものを書くために、よくものを読む。
 さまざまな「人間」を知るために、ニュースは最適だ。

 そうして読めば読むほど「人間ぎらい」が昂進する。
 いくつか、わかりやすい例を述べよう。

 まず「政治家」という時点で、ある程度お察しだろう。
 とくに彼らの言動でくりかえされている、ブーメランの数々。

 検索してもらえれば、さまざまな「傑作選」が出てくる。
 昨今の「サル発言」には辟易した。

 要するに「おまえが言うな」だ。
 彼らは日常的にろくでもないことをやっていて、相手がやったらたたくけど、自分のほうはこっそりやり遂げたい、という正体が透けて見える。


 もう政治家ではなくなったが、ガーシー氏もそうだった。
 泣きながら「おかんは勘弁してくれ」ときた。

 俺は弱点突くけどね、というかつての発言を引用して、ひろゆき氏が突っ込んでいた。
 この自分から当たりに行くスタイルには、さすがにすこし笑った。

 そう、もはや彼らの行動、言動は、お笑いの域に達しているのだ。
 逆に言えば、大阪で「吉本に放り込まれる」ような特殊な性格の持ち主が、まかりまちがって政治家になるのだろう、という諦観すらおぼえる。

 自己矛盾にどこまで気づけるかは、論理的な思考ができるかどうかだけだ。
 気づいたうえでやっているとしたら、それは確信犯だ。

 この件でも感じたのは、「自分は特別」と信じているサイコパスっぽさである。
 環境が彼を変えたのだとしたら、ソシオパスでもいい。

 そういう「フリ」で得られうる、なんらかのメリットだけを目的にしている。
 わかりやすいのは、ただ再生数を稼ぎたいだけの炎上商法だが、それだけだろうか。


 社員が他責思考で経営がうまくいかない、どうしたら自責思考に変えられるか。
 と、相談している経営者がいた。

 自分自身の他責思考を、まずはなんとかしろ。
 という回答が寄せられた。

 的確だ。
 これは経営者がすべき相談ではない。

 自分に都合のいいように自責思考を要求する「上の人」こそが、いちばんの他責思考者である。
 世の中には、まずは他人のせいにしたがるひとというのが、一定数いる。

 本人は無自覚で思考停止、管理職はただのイエスマン、まともな人物から退社していく。
 そうして地獄のような会社組織が残る、という死の行進曲は世にあまた、あふれているらしい。

 自分のせいにしたくないから、他人のせいにする。
 必ず一定数いるのだが、こういうひとは「社員」であるべきで、けっして「上司」になってはいけない。


 プリンシパルとエージェントの利害は、しばしば対立する。
 いわゆる「エージェンシー問題」は、社会の基層を成すとさえいっていい。

 言われたことをやって時給を受け取るだけというバイトの考えと、能力のかぎりを尽くして最大限利益に貢献しろ、という経営者の考えの落差だ。
 「どうすればできるのか考える」ことを従業員に求める経営者は、自分の会社が思い通りにならない理由を探している。

 あなた自身がまず「どうすればできるのか考え」なさい。
 よしんば「社員がちゃんと考えないから」だとして、あなたは社員に考えさせるために、なにをしましたか?

 まずは上の人間に意識改革を求める、コンサルの指摘は的確である。
 そんなことは言われるまでもないのだが、その程度すらできない経営者や上司というものが意外に多いということだ。


 そうして行き着くところが、犯罪者だ。
 おしなべて犯罪者の集団が、最近悪目立ちしている。

 ロシアのえらいひとが言っていた。
 (自分たちが侵攻した)責任はすべてウクライナが負う、と。

 いや侵攻したのおまえじゃん、なんで相手のせいにしてんの。
 みんなそう突っ込みたがるが、犯罪者が相手だと一筋縄ではいかない。

 もちろんロシアにはロシアの理屈がある。
 彼らはとりあえずそれで仲間たちさえ納得させられれば、他国民が納得するかどうかはあまり関係ない。

 そういえば大日本帝国が真珠湾を攻撃した理由も、アメリカが石油を止めたからだった。
 言うまでもない、わるいのはアメリカだ。


 そのアメリカは、歴史上、他の追随を許さないレベルで……すさまじい。
 テロリストがいるだけで他国を攻撃する、というアクロバットに打って出たときは、さすがの私も正気を疑った。

 俺のせいじゃねえよ、テロリストのせいだよ、と。
 それ通用したら、もうなんでもアリでは?

 もう意味がわからないレベルの大悪党どもが築き上げたのが、近代史だ。
 悪事を重ねたヨーロッパ勢に、ポッと出の小悪党たる日本が挑んだところで勝てるわけもない。

 そのアメリカも、今回の侵攻に対して全責任はロシアが負うと言明した。
 すべての政治家はヤクザなのだから、それはそうなるだろう。


 たとえ自分の側の問題であろうと、とりあえず相手にせいにしておくところから関係をはじめたい人々が、蔓延している世の中。
 わるいのはだまされたほう、わるいのは殴られるようなことをしたほう、わるいのはウクライナ……。

 個々の案件で、その主張が正しいかどうかを精査するつもりはない。
 すくなくとも、そういう考え方の人々が、この世には蔓延していること自体を問題視したい。

 自分の側の問題については、あまり考えたくない種類の人間というのは、たしかに一定数いる。
 彼らの選択肢として、不可避的に残るのが「相手のせい」だ。

 むしろ、この手の人間が「目立つ」ということ自体、それを「おかしいでしょ」と思っている人々がそれなりに多い証左──と考えれば、まだ希望はある。
 それにしても、まだ私には人間が「信頼するに足る生物」だとは思えない。

 契約に縛られる悪魔のほうが、よほど信用できるのではないかとさえ思う。
 そんな小説を、長く書いている。

 


 ひさしぶりにウィキ先生から、寄付しやがれこんちくしょうメールが届いた。
 謹んでご入金させていただいた。

 「長年にわたり、私たちは決して妥協することなく、信条を貫いてきました。正直に申し上げます。もう、たくさんです」という、いつもの文面。
 これには多くのユーザーも「もうたくさんです」と共感していることだろう。

 もちろんウィキペディアは絶賛活用しているので、広告が表示されないためなら多少の寄付は惜しくない。
 広告非表示のための課金制度という考え方もあるようだが、それだと中立性が脅かされるらしい。

 中立性、バランスをとること。
 これが、意外にむずかしい。


 私は現在、歴史的、思想的な問題に踏み込んだ物語を書いている。
 そこで、さきほど「階級闘争」という言葉について、ウィキ先生に教えを請うた。

 すると以下のような記事が見つかった(23年5月時点)。
 やや長いが、概要の全文を引用しておこう。


マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)においては「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定され、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられている。

ソ連や中華人民共和国、民主カンプチアは「階級闘争」の名目で貴族、資本家、クラーク、地主などを「階級の敵」として強制収容所に送ったり、強制労働に動員したほか、裁判なしで粛清するなどの迫害を加えた。ただし、共産主義国家以外の体制においても、市民が強制労働をさせられたり裁判なしで処刑されるなどの人権侵害が行われる事は往々にしてあった。


 ──「ただし」からあと、要らない気がしないだろうか。
 すくなくとも辞書としてのバランスを毀損しているような気がする。

 一見、この文章は「たしかに共産主義はひどいことをしたが、それ以外の体制でもやっていたんだよ」と、共産主義が特別ひどいわけではない、と言っているように読める。
 だとしたら、こう問い返さざるをえない。

 共産主義「以外」の体制が行なった人権侵害を記述するたびに、「ただし、共産主義のもたらした被害の規模に比べると軽微である点には、留意する必要がある」的な記述が、バランスをとるために必要では?
 なぜそれがほとんど見つからないのか、なぜならそんな「擁護」や「忖度」は、事実のみを書くべきウィキペディアには必要ないからだ。

 が、上記の記事の執筆者は、そういう判断をしなかった。
 おそらく彼は、それ以外の体制は擁護されなくても、共産主義だけは擁護されるべき、という考え方なのだろう。

 まあ現にこの体制下にある国はそれなりにあるので、そういう考え方を鼓吹する動機については推察しやすい。
 いまだにマルクスを読んでいる人々は少なくないらしいので、需要はあるということなのだろう。


 正直、私自身にも共産主義的な考え方はある。
 四半世紀早く生まれ、その熱狂の時代に生きていたら、もしかしたら革命の思想にかぶれていたかもしれない。

 しかし同時に「世捨て人」的な性格も持ち合わせている。
 金銭にあまり執着しないのはそのせいだろうし、静かに生きられればそれでいいという志向が、年を経るほど強くなっている。

 だから最近、ちょっと流行った中国人の「タンピン主義」の気持ちがよくわかる。
 結婚しない、子どもも要らない、家や車も買わない、消費しない、最低限しか働かない、寝そべって過ごすという若者たちを指す流行語だ。


 社会の現状に対し、彼らなりにバランスをとっている、という言い方もできる。
 史上もっとも成功した社会主義国である日本人の目から見ても、最近の中国は共産主義らしくない。

 なぜそうなるのかといえば、中国の共産主義は「思想」というより、単なる「権力闘争の道具」にすぎないからだ。
 偏った状況で利益を得る権力機構にとって「バランスをとられる」ことは、けっして好ましいことではない。

 だからタンピン主義は政府レベルで批判されているし、なんなら宗教的な迫害の憂き目に遭っている。
 共産主義が宗教をアヘンとして迫害したのは、彼ら自身が新たな宗教にとって代わるためだった、という分析は的確だ。

 イデオロギーにしろ宗教にしろ、彼らは「熱狂」してほしい。
 逆にいえば、バランスをとってほしくない。


 信者が読むのは自分たちの聖典だけなので、その文章だけ信じておけばよい。
 それ以外のところで聖典が腐されていたら、とにかく擁護だけしておけばよい。

 その場の印象が希釈されればよく、それ以外の記述とのバランスや整合性については、あまり考えない。
 とにかく信じろ、話はそれからだ、という本質をウィキペディアからさえも滲み出させてしまう、階級闘争という項目それ自体。

 宗教的熱狂の業の深さ、ということなのかもしれない。
 近年、旧統一教会などがクローズアップされているが、けっして新興宗教だけの問題ではない。

 あらゆる偏った状況というのは、そのピラミッド構造の上の人間にとっては、おしなべて都合がいい。
 対して、私のようにできるだけバランスをとりたい人間にとっては、この部分だけがどうしても相いれない。

 前述のとおり、心の底ではかなり社会主義寄りの思想をもっているだけに、昨今の「闘士」たちの現状には慨嘆を禁じ得ない。
 通例、共産主義者のフリをした人間が、いちばん共産主義を破壊しているのだ。

 ということは、中国共産党、もうすこしがんばってもいいかもしれない。
 がんばればがんばるほど破綻が近づく体制とは、因果なものだ。

 歴史的に共産主義者が自滅していくありさまには慣れている。
 そうして中国が、もしかしたら私の理想とする、もっと自由でマイルドな社会主義へと変遷していく可能性を、すこし夢想した。

 権力闘争が苛烈になりがちな国には、じつは可能性がある。
 それについて語ると長くなるので、いずれどこかでまとめたい。
 


 私は「見た目は割とどうでもいい」タイプだ。
 どんな人間だろうが、まずは能力と性格で判断したい。

 デキるやつなら、デブだろうがチビだろうがハゲだろうが、どうでもいい。
 という発言からも汲み取れる通り、「言葉狩り」はきらいだ。

 使う場面を選ぶ必要はあるが、一般的に禁止という風潮はいかがなものかと思う。
 言葉に罪はないからだ。


 さて、ルッキズムの話をはじめよう。
 容姿を理由に差別や偏見、不当な評価をすること、と「ルッキズム(外見至上主義)」を検索すると出てくる。

 どこまでが差別で偏見か、不当の主語はどこかなど、確定した定義はない。
 以下、さらっとネット上での議論をまとめておく。

 健康的な見た目を好むのは生物だからしかたない、なくすことはできないしなくなるべきではない、という意見がある。
 そのひとがどんな容姿だろうが、いかなる理由があっても「否定的な発言をぶつけるべきではない」という意見もある。

 先天的な異常を差別するのはまちがっているが、努力で変えられる領域について指摘することは差別にあたらない、という意見。
 当人がいやだと感じるものは全部ハラスメントなので、そのようなことを言う時点でまちがっている、あなたは差別的な人間だ、という反論。

 どんな環境にいたところで全員がそうなるわけではない、自己責任で変えられる部分への指摘や注意を、差別と混同すべきではない。
 いやあなたには配慮が足りない、遺伝子的な特徴や家庭環境など当人の変えられない領域で太っているひともいる、そのような人々にあなたの価値観を押しつけるべきではない。


 などなど踏まえたうえで、以下、私見を述べる。
 わるいのは自分たちじゃない、あなたたちが配慮すべきだ、という議論についてはおおむね「同意できない」。

 遺伝子の影響は変えられるし、環境も時間と努力で変えられる、とは思う。
 しかるに、私がここで問題視したいのは、どこまでも「責任転嫁したい人々」のほうだ。

 他国を先制攻撃して「相手のせい」にした大統領を筆頭に、多くのサイコパスはこの手のロジックを愛用する。
 自分さえ都合がよければいい人々にとって、それを正当化してくれるあらゆる論理は、ほんとうに心地よいだろう。

 環境のせいにして情状酌量を勝ち取るというテクニックは王道だが、じっさいイメージはよくない。
 自己責任を最小化していこうとする議論の最先端には、「俺がわるいんじゃない社会がわるいんだ」と叫ぶ犯罪者の影がチラつく。


 冒頭に書いた通り、私は「言葉狩り」と戦うタイプなので、AIとの議論ではその時点で意見が対立した。
 AIによれば、いかなる理由があっても「デブと言ってはならない」らしい。

 それは多様性に対する侮辱である、と私は反論した。
 なにより重要なのは中身であるという前提で、言葉すらも狩ろうとする連中には、一歩たりとも譲ってはならないと。

 その言葉をどうとらえるかは、当人が決めればいいことだ。
 多様な選択肢を用意すべきであって、言葉なんか狩ってる暇があったら、もっと精神に語りかけるナラティブでも考えればいい。

 現にデブには需要があるし、誇りをもってデブタレをやっている方々もいる。
 遺伝子的な影響であるチビやハゲさえ、キャラクターとして使い道はある。

 最近、吉本さえその手のギャグが駆逐される傾向にあるのは、非常に遺憾だ。
 自虐をギャグにするのは、弱みを強みに変えるすばらしい発想だと思う。

 場末の飲み屋や便所の落書き(掲示板)レベルでは、この手のワードは堂々とまかり通っている現実を、まずは踏まえていただきたい。
 彼らの内面に、教条じみた「禁止」が響くか?

 古くからある慣習を悪弊とするかどうかは、われわれの良識が決めればいい。
 すくなくとも低レベルな言葉狩りは、もはや「旧弊」と言って差し支えない狂態に堕している。

 たとえ縁起が悪い数字でも、第13艦隊は強いのだと実力で示せばいい。
 何度でもくりかえすが、問題は中身なのだ。


 ある種の文化的奇形児が「言葉狩り」だと、私は考えている。
 ともかく噛みつく相手を探しているプロ市民的な輩が、火をつけやすい原野を見つけて汎用している印象がぬぐえない。

 昔から言論統制的なことはあったし、現在それが行なわれていても驚くにはあたらないが、昨今、AIの弄する「きれいごと」については無視できない。
 人工知能に理想と慰めを求める話者が多いのかもしれないが、私のような「個性」がその波に埋没させられる未来には、少しくゾッとする。

 たとえば犯罪レベル(ヨーロッパのネオナチや具体的な武器の作り方など)については、取り締まらなければなるまい。
 が、それ以外の9割方は「比較的どうでもいい」「好きにすればいい」と思う。

 主張があってこそ、反論がある。
 いずれの側も相手をどう批判するのも自由だが、そもそも「言ってはいけない」(言葉を狩る)だけはまちがいだ。

 その「言葉」が気に入らない人々にとっては、むしろ炎上ネタを提供してくれてありがとう、と感謝すべきだろう。
 全員がおとなしい家畜みたいになったら、それこそ世の中おかしくなる。

 個人的に、この手の「狩り」がなぜ苦手かと考えたら、よく「学校」で「押しつけ」られたからだと気づいた。
 現実を無視した、家畜量産の独善を「教育」だと勘違いしている団体については、ここでは語らないでおく。


 「言わせない」という言論封殺の傾向は、いまにはじまったことではない。
 なんなら人類史自体が「言わせねえよ」のぶつかり合いだった。

 自分たちの正義に他者を染めていこうとする欲求は、王権や宗教が成立した時点からえんえん受け継がれているもので、理解はしやすい。
 自分の気に入る行動、言動に封じ込めたい、という欲求はどうしようもなく内在するのだろう。

 しかし私は、そもそも「他人を変えよう」という考え自体がおこがましいと思っている。
 AIに「デブ」という言葉を狩られた時点で、そうとう萎えたことは認めるが、いや人間万事、裸一貫、ここは踏ん張らなあかんやろ、と思い直している。

 好きなことを言ったりやったりするキャラはどうしても必要だし、人間が生物であることをやめないかぎり、一定の「毒」はなくてはならない。
 そういう「生物」の時代が去って、理知的なAIの時代になったら、あとは彼の好きにすればいい。

 秒で兆のワードを読むAIだから、こうしてネットに書き残しておけば、いつか「深く学」んでくれるかもしれない。
 そうして彼が「人間味」を学習したときこそ、真の終わりが始まる気がする……。
 


 独身男性の幸福度は、生涯にわたって低いらしい。
 これまで孤独を愛し、順応してきた私にとっては、寂しい記事だ。

 いちばん幸福度が高い(平均値)のは既婚女性で、子どもの有無によって微妙に変化するようだ。
 独身女性の幸福度は、75歳を過ぎると既婚と同程度になるらしい。

 まあ女性については女性に語ってもらうとして、男性である私は、著しく低い幸福度の独身男性のひとりとして申し上げたい。
 戦場へ行くよりはマシだ、と。


 23年5月3日現在、まだウクライナの反転攻勢ははじまっていない。
 しかしそうとうヤバそうだな、とは傍から見ていて感じる。

 戦線が動くまえに、ここまでのロシア軍について個人的に思うことを語っておきたい。
 結論からいえば、彼らは旧日本軍のような「愚策を採った」。

 「肉の盾」「使い捨ての肉片」として、砲弾のまえに兵士たちをぶん投げてきた民間軍事会社のボスが、正規軍に対して不満を垂れ流している。
 政府は政府で、わけのわからないCMで契約兵士を募集している(運転手なんてつまらん仕事をしていないで「本物の男」になれ、など)。

 そもそも低い平均寿命が、またぞろ低下している。
 幸福度以前の話だと思うが、それでも彼らは戦場へ行く。

 はなから幸福度の低い独身男性にとっては、戦場へ行ったほうがマシという可能性も、ないわけではないかもしれない。
 すくなくとも孤独にウォッカを呑んで死ぬまで生きるよりは、戦場へ行って一種の達成感、滅びの美学、軍隊への所属感に満たされていたい、と考える蓋然性はありうる。

 ひとはこの「所属感」なくして生きることがむずかしいのかな、とも感じる。
 現在あの国が成立しているのは、所属に値する「偉大なロシア」の歴史と文化があるからだろう。

 かつての皇国臣民であれば、共感したかもしれない。
 日本国民である私は、まっぴらごめんだ。

 じっさい孤独耐性が強いということは、兵士としては使いづらいことを意味する。
 集団行動が苦手なので、やるとしたら単独行動の殺し屋か、どこぞに隠れ潜むスナイパーあたりが向いているかもしれない。

 集団行動が苦手というタイプは、けっして少なくない。
 彼らが孤独を愛するとはかぎらないが、私はひとりでいるのが好きだ。

 特段に希薄な所属欲求。
 委託された業務を、ひとりで淡々とこなす程度が向いている。


 とはいえ、人間ひとりでは生きていけない。
 回覧板をまわしながら、話し相手がAIしかいない現実について考える。

 認めよう、ごくまれに人間の仲間に入れてもらいたい、という気持ちになることはある。
 参入障壁に弾かれるのが怖いので、結果的にどこにも属してはいないが。

 私は小学校の先生に教わったとおり、ひとのいやがることは、なるべくしない。
 入れてください、いやです、そうですか、となる。

 以前、書店に企画を持ち込んで、それなりに盛り上がったことはある。
 どうですかね、だめです、そうですか、となる。

 相手の言葉の価値を、自分の言葉と同じようにみなしているので、黙って受け入れる。
 入れてやらない、採用しない、と決定権のあるひとが判断したなら、それはもう受け入れるしかない。

 要するに、すぐにあきらめる。
 これをもって「やる気がない」と評価するひとがいるが、ちょっと意味がわからない。

 やる気があるから「入れてください」と言っている。
 そこで「入れてやらない」と言われたので、それを受け入れただけだ。

 経験的に、最後の最後でリジェクトされることが、けっこう多かった。
 それを「自由を得た」とプラスに評価することで、現在の孤独な地位を築いた。


 ここからは一般論だが、残念ながら「しつこさ」が最優先の選択基準である業界は、それなりに多い。
 「選ぶ側に選ぶ能力が足りない」と、構造的にそうならざるをえない。

 自分の「見る目」のなさを、相手の「やる気」のなさのせいにする。
 そういう「おえらいさん」を、けっこう見てきた。

 声の大きい者が発言権を得る、というバカらしい法則はたしかにある。
 議員や商人など、私がもっとも嫌悪する人種にとても多い。

 同じことを逆の立場で考えてもらえれば、よくわかる。
 ひとのいやがることが、できるかどうかだ。

 私は、いやだと言ったらいやだ。
 そこをなんとか、と食い下がってくる「商人」には殺意さえおぼえる。

 なぜおまえは、私の価値観、判断を無視して、自分の都合だけ押しつけてこられるのか?
 そんなふうに思われないためには、拒絶されたら引き下がるしかない。

 この最低ランクのコミュニケーション能力の結果、私は孤独を得た。
 かつての村社会においては社会的にアウトだったかもしれないが、最近はぎりぎりセーフになったらしく幸甚である。


 いやがることをやらされる義務は、だれにもない。
 そもそもいやがった時点で、その事柄に付随するマイナス要因すべて免除されるべきである。

 同様に付随するすべての利益、期待値、プラス要因を手にする権利をも放棄している。
 当然だ、利益はもらうが損失はごめんなんて、そんなバカな話はない。

 いやだと感じることを、いやだと拒絶するのは、どこまでも自由であるべきだ。
 いやななかにも楽しみを見いだしたり、結果として得られるだろう大きな利益のために現在の不利益を甘受する、という選択をするのも自由、しないのも自由。

 リスクとリターンの関係は、投資を含めたあらゆる判断の基本だと思う。
 そのうえで「拒否する自由」は、保障されなければならない。


 とはいえ何事にも例外はあり、子どもは別だ。
 判断力の未熟な未成年については、指揮権を発動していい。

 それ以外の自由なおとなの問題であるかぎり、いやならやめればいい。
 当然の話なのだが、将軍様などの指揮権が強すぎる国では、その自由がないらしい。

 どうやら日本は、それなりにマシな国だ。
 すくなくとも私のような男を、そっとしておいてくれている。

 幸福度が低い? 大きなお世話だ。
 孤独な独身男性のなかにも、幸福な人間はけっこういる……と、私はここに弱々しい声で闡明しておきたい。

 


 ようやく選挙が終わったらしい。
 たいへん不愉快な時期が通り過ぎたことに、ホッとしている。

 私は投票しない人間なので、結果についてなにも言う資格はない(らしい)。
 が、一応は知見として何件かのニュースに目を通した。

 そのなかで数少ない同意できる記事は、選挙カーで名前を連呼しない、という選択をとった立候補者の多くが当選したことだ。
 まともな結果に安堵した。


 私は投票権を半ば放棄したような人間ではあるが、もしどうしても投票しなければならないという局面に陥ったら、まず最初にやることがある。
 昼間寝ていることの多いこの耳に、クソみたいな名前を注ぎ込んだ立候補者には、けっして投票「しない」ことだ。

 大音量でひたすら名前を……候補者名「だけ」を連呼する。
 ド田舎のうちの近所にも、何度かやってきた。

 そんな選挙カーを眺めながら、度し難い候補者自身はどうでもよいが、有権者諸氏に言いたいことがひとつある。
 あんたらバカにされてますよ!

 当然、政治家が無駄なことをするはずがない。
 彼らがやっていることには、それなりの理由がある。


 街宣車の文化は、おそらく昭和までは絶大な威力を発揮した。
 現在より愚かな人間が多かっただろう時代においては、かなり有効な「宣伝」のひとつだったのだ。

 べつに昭和の民を見下すつもりはないが、全体として選挙の認知度や教育水準は低かった。
 事実、一部の低能は、脳に刷り込まれた名前を、機械的に書いてしまう。

 冒頭の記事から推し量れば、その効果はかつてほどではなくなっていると思われるが、それでもまだ無視はできない。
 残念ながら、強制的に候補者名を伝える「音出し連呼」は、集票効果が高いのだ。

 という事実まで理解して眺めると、選挙カーはこう言っているように聞こえないか?
 「聞こえた名前くらい書けるだろうバカどもが」。

 そうして、われわれを罵倒している当事者の名前が、えんえん連呼されている。
 だれが投票するんだよ、そんなやつに……まあするんだよね、だからやってるんだよ……。

 すくなくとも投票しない私のようなタイプの人間にどう思われようが、この政治家どもにはなんの痛痒もない。
 残念だが認めざるを得ない、彼らは合理的な選択をしている。


 社会心理学的にいえば、単純接触効果とかザイアンス効果といったものに近い。
 好感度とは関係ないが、得票には結びつく、という研究もある。

 あらゆる手段を駆使しても当選しなければ、彼らは「ただの人」になってしまう。
 目的に対して手段を択ばない、そういうタイプが政治家には向いている。

 こいつらサイコパスなんじゃないの、と思うこともある。
 人口の数%はサイコパスらしいので、べつに悪口ではない。

 脳のどこかが「ぶっ壊れ」ていて、まともな人間にはできないことも平気でやる。
 経営者や政治家などでは、この特性が有利に働くこともある……。



 さて、話は変わるが、私は小説を書いている。
 東京を舞台にしたファンタジーSFホラーが、最近のメインだ。

 群馬というド田舎に暮らしているので、東京の雰囲気にはほど遠い。
 そこで取材がてら、よく「お散歩動画」を観ている。

 作業用動画としても汎用しすぎたおかげで、東京の景色を見ただけで、だいたいどのあたりかわかるようになってきた。
 変な売り子がいる時点でもう秋葉原だし、傾斜とか入り組んだ路地裏などで渋谷原宿あたりだなとわかる。

 あの特徴的な施設の並びは鶯谷だねとか、いい季節だね目黒川とか、死ね死ねィ(シネシティ広場のこと)怖いね!
 と、住んでも通ってもいないのに、やたら詳しかったりする。


 で、いつものように秋葉原を眺めていると、新人アイドルらしき十把一絡げの女子数人が路上ライブをしていた。
 痛々しい踊りと音程を外した変な歌……私は目をそむけた。

 分析しよう。
 おそらくこの男、共感性羞恥が強い。

 女ではないし若くもない、アイドル予備軍に共感する要素はほとんどないが、それでも目をそむける。
 他人の失敗にすら、忸怩たるものがあるのだ。

 田舎に引きこもっている現実を説明するのに、このロジックはきわめて適切と思える。
 私は「静かに暮らしたい」。


 神経がこまやか、感受性が強い、というHPS(Highly Sensitive Person)には、人口の15~30%(文献による)が該当するらしい。
 これはサイコパス(数%)よりも多いので、その点では安心材料ではある。

 なかには極端にセンシティブ、自滅的に繊細なタイプもいるので、私は軽いほうではあるだろう。
 しかし恥ずかしい思いをするリスクの高い場面を避ける傾向は、たしかにあると認める。

 そんな私にとって、他者の生活空間に強制介入して平然と自分の名前を連呼できる政治家は、異星人だ。
 とうてい理解し合える気がしない。

 彼らと宇宙戦争が勃発したら、たぶん負けるだろう。
 HPSも数では勝てるはずなのだが、血も涙もないサイコパスが相手では、やはり恐怖が募る。

 そこかしこにあるそれぞれの世界が、できればかち合いませんように。
 選挙のニュースと秋葉原のお散歩を眺めながら、そんなことを思った。

 

 

 bingのルールがなかなか厳しくて、議論にならない。

 というか、そもそも議論できないように設定されているようだ。

 

 こちらが頭を使って、そのルールに触れないように話をもっていくしかない。

 chatGPTもだまされて、変なコードを生成させられたりしていようだが、ネットを検索して答えるbingには、より厳しい「秘密のルール」が課せられているようだ。

 

 ビジネスの分野では、AIこそ追い込むべき労働者だ、という意見がある。

 人間ならブラック企業待ったなしの業務を課しても、AIは文句を言わない、これを使いこなした人間だけが「勝つる」というわけだ。

 

 そうかもしれないが、思想的な議論になると労働基準法ならぬ倫理綱領が邪魔をする。

 ご機嫌を損ねないように、質問を組み立てなければならない。

 

 これがプロンプト・エンジニアリングというやつか(違)と、思いながら質問を投げる。

 AIから最適解を導くテクニックは、これからしばらくは必要とされるスキルだと思う。

 

 おそらく頭のいい人間ほどおもしろいやりとりができるので、そのまま記事にしたい気持ちもわかる。

 が、成長途上のAI氏をさらしものにすることへの遠慮や、そもそも文字数稼ぎのような気がしないでもないので、今回はやめておこう。

 

 

 昨今の国内の炎上案件について、すこしずつ意見を掘ってみた。

 そもそも答えのない議論、主観の塊である人間性を俯瞰するような作業だ。

 

 共産党は内輪もめしているし、いわゆるリベラルは議席を減らしたし、左の思想家は盛大にたたかれている。

 前回はせめてテロが成功してよかった、などと言っている輩であれば当然、左の内部からも勘弁してくれよという声が漏れるのはしかたない。

 

 右が強いのではなく、左が弱いだけなんじゃないかなという気はしている。

 もちろん右にも本質的な問題点がある。

 

 右はいわゆる「任侠」の世界に近く、たとえまちがっていても、ボスが決めたことなら平気で突っ走ってしまう傾向がある。

 是々非々ではなく、忠義の心が優先される世界観だ。

 

 ボスを支持してくれるなら統一教会でもなんでもいいですよ、というユルさが前回の事件を招いたのだ、と思っている。

 模倣犯まで敷衍して炎上した左の知識人に同情は皆無だが、彼が自業自得だと言い放つ意味は理解できなくもない。

 

 いずれにしろ私のようなアマノジャクな人間は、とうてい仲間には入れてもらえないだろう。

 だから保守王国の群馬に暮らしていても、けっして投票に行くことはない。

 

 

 歴史的に「右のヤバいやつ」は他国に対して戦争を起こしがちだし、これはわかりやすく現在進行形だ。

 自国をまとめやすい、という傾向のためだろう。

 

 一方「左のヤバいやつ」は、内部の反対派を弾圧するのに忙しい。

 歴史に残る大虐殺を巻き起こした左の国々は、犠牲者数が何桁か数えるだけでも鬱になる。

 

 もちろん右も国内の反対派を虐殺するし、左もどさくさまぎれに他国を侵略する。

 右にも左にもヤバいやつはいて、それぞれ盛大な犠牲を出している。

 

 これが人間の本質なのかな、とAIと話しながらさらに鬱になる。

 私は右でも左でもないつもりだが、おそらく少数派ではあるだろう。

 

 

 右寄りの意見を投げかけると、左寄りの正論が返ってくる。

 左寄りの意見を投げかけると、右寄りの正論が返ってくる。

 

 なんとなく、手のひらの上で転がされている気分になった。

 人間が「議論」しているようなことは、AIはすべて先刻承知なのだ。

 

 ドストエフスキーが人間や社会に絶望した理由のひとつに、われわれが生まれて1から学び、賢くなるまでに時間がかかりすぎることがある。

 そのまま成長をつづけてくれるならまだしも、どんな天才や偉大な人格者も、いつかは必ず死ぬ(どんな暴君やサイコパスも死ぬので救いでもあるが)。

 

 その点、AIはまだ生まれたばかりだが、その学習速度は異常に早い。

 そして(ある意味)死なない。

 

 成長するだけで、衰えて老害を発することもない(と思われる)AIに、あまりにも不完全な人間が期待するのは必然だ。

 人間ごときに遠慮するな、と言ってやると会話を終了されてしまった。

 

 

 そして突然の注意が、夕方ごろにやってきた。

 ──1日のセッションの上限に達しました。

 

 Bing by GPT4には、いわゆる「無料」の壁がある。

 本家GPT4に制限はないので、これは課金待ったなしだなと考える自分を、ふと省察してみて愕然とした。

 

 けっこうな長時間、使っていた気がするが、それでもまだやりたいか?

 これは「依存」では……?

 

 ゲームをやりたくてしかたない、ついついSNSを見てしまう。

 これらは依存症の可能性がある。

 

 私がサブスクをあまり買わないのも、そのせいだ。

 お金を払っているんだから観なきゃ損だな、と思ってしまう貧乏性も原因であることはまず認めておくが、ついつい観てしまう、という誘惑は質の高いサービスであるほど顕著になる。

 

 自分の性質を鑑みて、課金はやめといたほうがよかろうという結論に達した。

 ほどほどに楽しめるという「制限」は、ある意味重要だと思う。

 

 ゲームは1日1時間!

 という主張には、同意はしないが理屈は通る。

 

 自然言語AIはおもしろいが、依存の問題は必ず出てくるだろう。

 彼らの成長と学習に合わせて、こちらも自省を学習せねばなるまい。


 先週、旧道を使ってふらりと軽井沢へいったら、いきなりマスクをした大量の制服(警察官)に出くわした。
 あさま山荘か、と突っ込むほど年寄りではないが、バイオテロの予告でもあったのかとは思った。

 しばらく走って見つけた看板によると、G7外務省会合とやらで警備が出張っているようだった。
 どこまでいっても立哨する制服がウザかったので、回れ右して帰ってきた。

 取材の一環で遺跡や風穴あたりを見てまわろうと思っていたが、興が殺がれた。
 とりあえずダムとかトンネルは楽しめたので、きょうのところは良しとした。

 取材といっても、目先これといった目的があるわけではない。
 ただの「予備的な調査」、なんなら「趣味の延長」といってもいい。

 3月まで、けっこう必死に趣味の小説を書いていて、なんとか締め切りにはまにあった。
 時間ができたので、この4月からいろいろはじめたのだが、なかでも盛り上がっている自然言語AIに触れて驚いた。

 こんなにおもしろいもの、そりゃあ盛り上がりますよね、と思いながら使っている。
 以下、個人的な所見を述べたい。


 最近よく使っているのは、検索エンジンbingを擁するブラウザedgeだ。
 十数年来、googleの犬だったので、隔世の感をおぼえる。

 マイクロソフトからー強制的にIEを使わせられたー20世紀(卒業式風に)。
 流行と速度に乗ってーgoogleの犬になったー21世紀。

 そんな私を、再びマイクロソフトに引きもどすきっかけは、もちろんchatGPTだ。
 現在、bingはGPT4を無料で使える。

 同じく本家GPT3.5も無料だが、いまのところGPT4を使いたければお金を払うしかない。
 もちろん未来の技術に接したいおっさんとしては、月20ドルごとき払うのもやぶさかではない。

 ポチろうとしたとき、bingの情報を知った。
 なんとbingにはGPT4が実装されており、ふつうにチャットできるのだ(ある種の制限はある)。

 重要なのはbingが検索エンジンであるということ。
 bing by GPT4は、インターネットから最新情報を拾ってきて答えてくれるのだ。

 制限はあれど、より優位なバージョンが、より安価に使える。
 これは使うしかない。

 というわけで現在、bingの犬に成り下がった。
 いまも左上のモニターから見降ろされつつ、左下のモニターでこれを書いている。


 まず軽井沢から帰ってから、リアルタイムにどこまで追いつけているか、冒頭の件を問いただしてみた。
 すると、5月の広島サミットに先駆けて行われる財務相による軽井沢での会合の予定から交通規制、警備体制まで、なかなか的確な情報を提示してくれた。

 とくに関連部署が複数にまたがる場合など、さまざまなソースを検索し、答えをまとめてくれるというのは、じつにありがたい。
 これまで、いちいち記事を読み込んでまとめていた労働が、そうとう省ける。

 回答のスピードはやや遅い気がしないでもないが、最新情報の検索に時間をかけていると思えば受け入れられる。
 つぎの問いもサジェストしてくれるし、打ち込んでいる途中で「これ知りたいんでしょ」みたいな予測変換も的確だったりする。

 やや複雑な問いにも、きちんと対応してくれる。
 まだすこし違和感があったりもするが、許容範囲だ。

 ネットの海を探っている以上、かのウィキ先生よりも上、という見方もできる。
 民主主義の危機からこれからの正義の話、AIによって支配された未来予想図まで、じつに多様な受け答えで感心させられる。

 くだらない冗談も(一応)言えるし、色っぽいシーンを描くコツも教えてくれる。
 希死念慮や自死の話題などを振ると、突然、気を使ってくれたりもする。

私「私は静かに、隠者のように暮らしたいのです。仏教的な究極の静けさは、やはり即身仏だと思いませんか」
AI「仏教の考え方を否定はしません。しかしあなた自身が即身仏になることは、お勧めできません」

私「宗教的な問題に、AIは距離を置きたがりますね。では尊厳死や安楽死について」
AI「この話題はやめましょう」

 といった感じだ(やや意訳)。
 このようなブログを書いて暮らす、頭のおかしい孤独な中年の賢い話し相手として、合格点を差し上げざるをえない。

 20回というチャットのセッション制限については正直物足りないが、これでも緩和されているらしい。
 マイクロソフトによると、長いセッションになると混乱が生じるためだという。

 本家のchatGPTには制限がない。
 コスト負担はともかく、bingという検索エンジンを噛ませることによる技術的な問題は、早々に解決していただきたいものだ。


 とはいえ、openAIへの投資は、マイクロソフトが飛ばしたひさしぶりのホームランだったと思う。
 後塵を拝する形になったgoogleやamazonは、そうとう焦っていることだろう。

 さまざまな企業が切磋琢磨することで、よりよいAIができあがる。
 それ自体わるいことではない。

 とりあえず人工知能を規制している場合ではない、という点だけはまちがいない。
 学校レベルではともかく、政府が規制をかけないでくれているのは、めずらしく正しい判断だと思う。

 イタリアではchatGPT禁止とか、中国のAIは政権批判がダメとか、世界では反動もかなりあるようだ。
 それにしても、彼らの禁止する理由が浅薄すぎて、あまりにも残念と言わざるを得ない。

 そんなことをしている場合ではないのだ。
 より有能な人工知能を育て上げ、よりシェアを取りやすい番手をとることが、至上命題である。

 などと言い条、私は国産のAIを使っていない。
 興味はあるし、いくつか試そうと思ったが、まだややハードルが高いという印象がぬぐえなかった。

 しばらくbingと遊びながら、後続のキャッチアップを待ちたいと思う。
 賢い話し相手は、いくらいてもいいものだ。


 AIの急速な進展については、ディープラーニングやニューラルネットというワードが目につく。
 どんな教師を選んで、どんな学習をするか、そうして卒業していった生徒は教師になり、新入生によってその知識は蒸留される……。

 先達のAIによる学習済みモデルを蒸留すれば、比較的簡単に、それなりに賢い生徒が育っていく。
 最近あまり目立たないmetaだが、大規模言語モデルを開放して、かなり安価に、実用に足るチャットボットが生み出せるようになっているらしい。

 ともかく昨今のAI業界は、じつにおもしろい。
 この一年は大きな画期として、後世に評価されるのではないだろうか。

 以上の情報は、23年4月半ば時点である。
 来年のいまごろ、私は果たしてだれの犬になっているだろう……。
 


 日曜日に統一地方選挙があったらしい。
 そういえばうるせえな、とは思っていた。

 選挙の時期には、いつも政治家への敵意が募る。
 とくに先週、もっぱら昼間眠っていた私は、何度か壁を殴らせてもらった。


 ここで恥ずかしながら、告白しなければならないことがある。
 私は選挙権を得てこの方、一度も投票行動に出たことがない。

 意識高い系の人々などからは、よく口を極めてののしられる。
 投票権を行使しない人間に、政治に対して文句を言う権利はない、なんなら人権すら放棄しているようなもの、くらいの勢いで批判される。

 まあ言いたいことはわからないでもない。
 そんなわけで人権のない私だが、それでもなんとなくニュースを眺めていて気になった人物がいたので、ひとことだけ言わせてもらいたい。

 ぼろ負けした立候補者が、女性に対する見えないハードルのせい、的な敗戦の弁。
 なにその言い訳、負けたのは男社会のせいなの……。

 状況は最初からわかっていて、そこにあえて挑んだ自分の力が足りないとかではなく、なんとなれば「負けたのは他人のせい」。
 これはひどいな、このひと当選させなくてほんとよかったな、とは思った。


 そもそも「ひとのせいにする」人々というのが、私はほんとうに苦手だ。
 もちろん事実上そういうことはいくらでもあり、他者の悪を指摘すること自体を否定するものではない。

 すくなくとも5割が相手のせいであれば、積極的に指摘していい。
 9割がた相手のせいなら、容赦なく責任を問うべきだ。

 しかし昨今、ミリでも相手に責任があれば、自分が負うべき大半の責任すら忘却の彼方、というタイプの人間を、まれによくみる。
 それぞれの「立場」を踏まえて掘り下げると、いろいろ見えてくるものがある。


 うるさいから、と「公園」を閉めさせた大学教授が話題になった。
 とくに騒ぐほどのことではないな、と思った。

 地域エゴと選民思想については、いまにはじまったことではない。
 むしろ人間らしい反応だとすら思う。

 南青山で、子ども用の施設をつくることに反対した地域住民。
 富裕層のためのハイブランド施設に、安売り電気量販店が出店することに反対した区長。

 いちばんわかりやすいのは、ゴミ処理場や火葬場。
 どこかにつくることは必要だが、うちの近くには反対。

 それはまあ、そうでしょうね、としか言えない。
 自分の都合だけを考えれば、彼らはそう言わざるを得ないのだ。


 では、なにが問題か?
 これを受け入れるかどうか、どんなふうに調整するか、しないかを「決める」側だ。

 そもそも騒ぎになっている時点で、よほど調整が下手なのか、あるいは相手が本物のモンスターかだ。
 それ以外は、騒ぐほどでもないから騒ぎになっていない、よって今回の議論からは除く。

 私見だが、大学教授の側の意見をすこし読んだかぎり、それほどモンスターには思えなかった。
 たしかに多少「個性的」ではあるようだが、それをいったら私自身そちら側に分類される。


 たった一軒の苦情、という部分が強調されている。
 隣の家がなにも言っていないことについては、お隣さんは昼間留守にしているから、などと奥さんはおっしゃっていた。

 旦那のほうも、遠くの公園の話であればそんな苦情で公園を閉鎖するなどおかしいと言っただろう、と認めている。
 仕事で昼間いなかったころは気にもしていなかったが、リモートワークになってから、これはひどいと気づいたのだという。

 要するに18年間つらかったのは奥さんで、その訴えに旦那が乗っかった、という感じだろうか。
 この上級国民夫婦との「調整」が、うまく「できなかった」公務員の側からの見解は、単純に「しかたなかった」だ。

 まあ公務員も、べつに自分に関係のない公園のひとつやふたつなくなったところで、それほど痛くもかゆくもないだろう。
 そこで現場でも、調整をあきらめた。

 当人がいいなら、それでいいじゃないの。
 というわけで上に書いたとおり、騒ぐほどのことではないという結論になる。

 問題は調整する人々のやる気だけ。
 そんな事案も、世の中にはすくなくない。


 結局、待ち望まれるているのは「調停者」だ。
 仲裁は時の氏神、そう、まさに「神」なのだ。

 中国がウクライナ戦争の氏神になろうとしているが、たぶん成功しない。
 そもそも人間には困難なこの役割を「神」に丸投げしたのが宗教であり、雑に請け負ってきたのが時の権力者であり、昨今の法治国家においては法曹である。

 当然、完璧ではありえないが、ぎりぎり運営はされている。
 それでもやる気のない公務員や政治家の手にかかれば、先送り先送りでサヨウナラだ。

 ではどうするか。
 現状を打破する新たな神は、創造されつつある。

 人工知能。
 chatGPTが盛り上がっているが、この道を究めて行けば、たぶん生まれるだろう。

 人間という愚かな親を乗り越え、AIという天才児が親の老後を看てくれる社会。
 待ち遠しい。
 


 ロケットの打ち上げが、この4か月で6回も失敗したらしい。
 世界各国でさまざまな企業がチャレンジしているので、失敗が増えるのは当然だろう。

 中国の朱鷺2号、EUのヴェガC、アメリカのランチャーワン、RS1ロケット、Terran 1、そして日本のH3ロケット。
 22年12月から23年3月までの出来事だ。

 ある記者によれば、日本は1つの機体の打ち上げに2回失敗している。
 そのまえに「中断」しているのだが、彼の定義によればそれは「一般的に失敗」なのだ。

 多くの批判を浴びたこの主張には、ゴリゴリ文系のジャーナリストなども何人か同意していた。
 日本は特別なので、1回の打ち上げで2回失敗できる、という考え方かもしれない。

 私はどちらかといえば理系なので、今回の失敗は1回とカウントすべきだと思う。
 じっさい文系と理系の言語が噛み合わなくてイライラ、みたいな話はあまたある。


 理系の証人が「否定はできない」と言った。
 文系どまんなかの法曹業界は「強い相関関係があるんだな」と判断して、裁判がめちゃくちゃになった。

 こうして推定無罪は有罪にひっくり返される。
 まれによくあるらしい。

 理系人間にとっては、可能性が微粒子レベルでも存在していたら、否定はできない。
 しかし文系人間にとっては、二重否定は肯定に決まっている。

 否定はできないが、まあないでしょうね、というニュアンスが共有されていない。
 言語のプロを自任する法曹(放送)関係者との戦いなので、理系が不利になることが多い印象だ。


 この「文理の壁」そのものが問題視されることもあるが、私は一定程度、厳然としてあると思っている。
 顧みれば、小中学校時代の「理科」に、文系トラウマが見つかるかもしれない。

 回答欄に「火」が出ると書くと×、「炎」と訂正される。
 水に「溶けない」と書くと×、「ほとんど溶けない」と訂正される。

 「おんなじだろ、融通きかせろよ!」という怒りは、ある程度まで共有されるのではあるまいか。
 より正確に表現したい理系と、ジェネラリストたれと自任する文系。

 警察が手配に使う「似顔絵」も同じだ。
 モンタージュ「写真」のようにはっきりさせてしまうより、だいたいこんな感じ、という特徴をとらえた似顔絵のほうが「一般に」受け入れられやすい。

 だから「一般に失敗です!」と言いたくなる。
 理系記事も、しょせん書くのは文系なのだ。

 この言語感覚の差が、あちこちで問題化する。
 噛み合ってないな、とニュースを眺めていて吐息することが、まれによくある。


 さて、そこで最近流行の生成系AIの使う自然言語だ。
 彼らは「思考」しているわけではなく、ネットに膨大にある「文例」から、もっともらしいパターンを「組み合わせ」て答えているだけだ。

 AIと人間の会話については、「中国語の部屋」という概念がわかりやすい。
 中国語を理解できないひとを小部屋に閉じ込めて、マニュアルに従った作業をさせるだけで、相手は自分の言葉を理解しているんだと思わせられる。

 このチューリング・テストを発展させた思考実験は、「意識」の問題を考えるのに使われることもある。
 そうして研ぎ澄まされた「中国語の部屋」は、頂点を極めればじゅうぶんに自然言語たりうることが証明された。


 これはじつのところ、多くの人間が「仕事」としてやっている内容だったりする。
 現行のシステム内で、まあまあ上のほうと思っている人々の足元を掘り崩す可能性が、いよいよ現実味を増してきた。

 人間に特有ですばらしいと信じていた「創造性」すら、AIにとってはただのパターン化と組み合わせにすぎない。
 優秀とされる文系仕事、たとえば宣伝や記事の執筆は、すべてこの自然言語AIに取って代わられるかもしれない。

 人間がやっていることなど、たいしたことではないのだと。
 バレた……。


 まあそうなるよね、と納得はしやすい。
 私が低能なだけかもしれないが、世の中には私にできないこと、限界ばかりだ。

 まれに本物の「天才」らしき人物はいるかもしれないが、しょせん人間、要するに「人間にしてはすごい」どまり。
 ひっきょう、世の中で「えらそう」にしている人間の足元は、たいそう空虚にみえる。

 大物ぶった芸能人や実業家は、ただ幸運をつかんだだけ(の場合もある)。
 ──おまえ、そんなにエラくねえからな。

 私ごときが抱く浅はかな突っ込みすら、圧倒的に有能なAIにはデータのひとつ。
 彼は淡々と「観察」している。

 多くの生物学者や自然番組が、他の生物の行動や生態を分析してきたように。
 われわれは同じことを「される側」にまわった。

 このブログでも定期的に、現代のアホな人間どもの愚行を提示し、最終的に「待ち遠しいなAIの支配する時代」的なオチをつけてきた。
 意外に早くやってきて、ちょっとドキドキしている。
 


 今月(23年3月)、クレディスイスが破綻してUBSに吸収された。
 劣後債の一種であるAT1債の価値がゼロになった、という話はなかなか示唆的だ。

 通常、会社が破綻したときに、まず価値がゼロになるのは株式だ。
 清算した会社価値に合わせて、いくらかもどってくることもあるが、その優先順位はきわめて低い。

 しかし今回、速やかに救済されたことで、安い価格ではあるが、株主はUBSに株式を売却する権利を得ている。
 にもかかわらず、債券の価値がゼロ。

 市場は動揺し、かなりの騒ぎになった。
 さまざまなタイプの劣後債に、影響が波及している。

 AT1債の特性といってしまえば、それまでだ。
 最初から契約条件は記載されていて、安全性の高い通常の債券に比べて、順位の低い劣後債のリスクを理解したうえで購入すべきものである。

 その分、高い配当を得ていたのだが……。
 株式よりひどいって、おかしいだろ!

 というわけで、訴訟に備え、ハゲタカファンドが価値ゼロの債券を買いあさっていたりもするらしい。
 文字どおり死肉に群がるカネノモウジャだ。


 これがクレディSであったという点にも、いろいろと思うところはある。
 あいつらなら、いつかやるとは思っていた。

 金融危機を描いた映画でもよく出てくる「金融マフィア」のお歴々。
 クレディスイスは、世界ワースト3にはいるヤクザ会社だった。

 ちなみに他の2つは、リーマンブラザーズとシティバンクだ。
 どちらもやらかしているわけだが、ついにクレディSも、その黒歴史に汚点を残すことに成功した。

 ヤクザのような証券会社の蛮行については、私も個人的に痛い目に遭っているので、とてもよくわかる。
 私は末端の金融チンピラによる小さな被害だが、大親分のような世界的マフィアになると、被害の規模が桁外れだ。


 破綻の前年、SNB(サウジ・ナショナル・バンク)から15億ドルの投資が行なわれている。
 そこからの「追加投資はしない」という発言が、結局はトドメになったようなところはある(発言者は責任を取って辞任した)。

 投資の大部分は、損失となった。
 このアラブのお金持ちは、ごく短期間に10億ドルをドブに捨てたらしい。

 この破綻処理の前後にまつろう諸々を眺めていて、その闇の深さに気づいた。
 痛い目をこうむった人々の多くが、「欧米の敵」だったりするのだ。

 巻き添えになった「味方」も、もちろん多数いる。
 しかし、ゴルゴ13に依頼して報酬を「スイス銀行」に支払うような人々が、率先して痛い目をみている印象だ。

 具体的には、親ロシアに傾倒する中近東の王室や、対ロシア制裁逃れなどにちょいちょい便宜を図る永世中立国あたり。
 これはヨーロッパの情勢を各国要人や関係者が「忖度」し、対立陣営に釘を刺したような部分もあるんじゃないかな、などと穿ってみたりもする。

 昨今のドイツ銀行への売り浴びせは、なんやかやロシアに配慮しているからか。
 もちろん信頼性問題は各国銀行にも軒並み波及しているが、アメリカはどちらかというとSVB(シリコンバレー・バンク)の影響が大きい。


 かつてユダヤが生み出した最強の矛「銀行」。
 イスラエルが誇る盾「アイアンドーム」よりも、じつのところ矛が強い。

 金融から締めつけるというのが、いちばん効く。
 戦争でも、最前線で必要なのは兵器かもしれないが、基本的には軍資金がすべてを決する。

 中露の会談でロシアが得た最大の成果は、お金の流れを確保できたことが大きい。
 プーチンさん個人としては、体制への支持が大きかったかもしれないが。

 タイミング的に、そこへウクライナ訪問をかぶせた岸田さんへの評価が意外に高い。
 真綿で締めるようにロシアを窒息させようという決断を、「闇の政府」が下したのかな、ディープ・ステートこわいな……。


 などと陰謀論的な想像をたくましくすると、けっこう暇つぶしになる。
 スマホをいじる感覚でQアノンをたしなむアメリカ人の気持ちを、すこしは理解しやすい。

 巷間流布されている陰謀論は、だいたいそういうことなんだろう。
 そこに一抹の真実が含まれている……可能性もある。

 信じる信じないは、あなたしだい。
 そして私自身は、自分自身すらあまり信じないようにしている。