山下達郎さんが、ジャニーズ絡みの問題で炎上していた。
 記事を斜め読みした程度なのでくわしくは知らないが、二行でまとめると以下のようになる。

 ──私がジャニーズに忖度していると考えるような人々に、私の音楽は必要ないだろう。
 つまり「そんなひとは聴いてくれなくていいよ」ということか、ひどい、ファンだったのに残念きわまる、みたいな論調だった。

 そんな彼の言葉遣いの正否について、語るつもりはない。
 私には、その資格も能力もないと考えるからだ。

 じっさい私自身、よくAIに怒られている。
 その言葉遣いは正しくない、と。


 端的に言えば、「デブ」「キチガイ」「死ねばいいのに」といった苛烈なワード。
 これらを口にするような人間は、もはや「全否定の対象」になる時代らしい。

 そのレベルで怒られている私から見れば、山下さんなど、かわいいにもほどがある。
 まあ影響力のレベルがちがうので、比較するつもりはないが。

 eスポーツの世界でも、配慮に欠けた発言がどうのという記事を最近読んだ。
 格闘ゲームという、ブルース・リーの世界に近しいユーザーに、「考えろ」と告げているかのようでいて、ちょっとおもしろい。

 もともと殴り合い、煽りあって喜ぶ「バカな中坊」向けコンテンツから発した文化圏だ。
 バカになって楽しむ世界に、おとなになれよ、と忠言するのはよけいなお世話のような気もするが、マーケットとして機能させたいなら「おとなの事情」を斟酌しないわけにもいかないのだろう。

 タレントからユーチューバーまで、言葉遣いにはそうとう気をつけなければならない時代。
 いずれにしろ私は、つれづれなるままに好きなことを書いていく。


 口ぎたない罵詈雑言は、もちろんそれ自体を推奨も正当化もしない。
 が、表現方法のひとつとして温存されるべきだとは思っている。

 小学生みたいな悪口を言うおとなより、ぜったいに悪口を言わない小学生のほうが、なにげに恐ろしい気がしないだろうか。
 毒耐性のないおとなを純粋培養することにもつながりかねないし、それはかなり危なっかしいやり方だと思う。

 下劣な表現をもってしか、言い表すことがむずかしい事象もあろう。
 書き手としても、世界観やキャラクターの表現には欠かせない。


 そもそもTPOが問題なのであって、表現そのものに罪はない。
 儀礼的な場所や敬語を用いる場面で、これらのワードが使われることは、これまでもほぼなかった(松の廊下などではあったかもしれないが)。

 それらが使用可能場所や場面をすこしずつ減らしていきましょう、という程度なら許容もする。
 が、完全否定の言葉狩りまで出てくるに及んでは、正直「狂ってる」と思う。

 世の中では多様性を重視すべきなどと言い条、言葉や表現の多様性については刈り込みに余念がない。
 矛盾しているのではないかとAIに問いただしたが、話がまったく噛み合わなかった。

 乱暴で極端な発言は、ただ注目してほしいだけの場合もあります、という指摘まで受ける始末だ。
 とりあえず「言葉狩り」の論点において、私とAIは「異なる思想」をもっていると結論せざるを得なかった。


 たしかに極論や炎上商法などで、ただ注目してほしいだけの困ったちゃんは事実いる。
 しかしそれは、かなり低レベルな選択肢であると思う。

 国連の場で日本人をジャップ呼ばわりした国があったが、同意を得るどころかしばしば無視されている。
 彼らには結局、ミサイルを撃つくらいしか注目される方法がない。

 そんな人々と同列の選択肢。
 よほど自分が不利な立場だと自覚しているのか、あるいは「キチガイ」かだ。

 扇動のために極端な意見を述べるサイコパス(目的のために手段を択ばない人々)を、私はそう定義している。
 平気でヤバいことをするやつらはキチガイ、という表現はとてもわかりやすい。

 この文章もAIに推敲させたら怒られるだろうが、そもそも彼とは思想が異なる。
 現在のレベルのAIに馴致された社会は、正直ディストピアになると思う。


 すくなくとも私が思う「人類の選ぶべき道」に「言葉狩り」はない。
 AI激オコなのを百も承知で、重ねて申し上げる。

 大部分の問題の根っこにあるのは、「自分さえよければいい」という考え方だ。
 まずはそういう連中から、死ねばいい。

 周囲を犠牲にしてでも自分だけは生き残る、という意識の強い人間。
 彼らは集団に被害を与える確率がとても高い。

 思い通りにならない現実、気持ちよくない世界、彼らにとって不愉快な意見や行動に対処するための方法は、黙らせたり押さえつけることだ。
 彼らが果たしてきた役割は歴史的にも大きいが、それは絶大な被害をもたらしたという意味にほぼ等しい。

 その生き方は、ある意味で「正しい」。
 なぜなら人間は、生物だからだ。

 もっぱら生物は、自分さえよければいいという個体がまずまっさきにエサを食らい、生存競争に勝ち残ってきた。
 人類も生物の一種なのだから、同じことをやればいいという考え方は、当然ありうる。


 私はネイチャー系の番組が好きだ。
 そこでは生物たちが殺し合い、だましあい、日々の生存競争と自然淘汰をくりかえしている。

 そういう世界で生きたいなら、そうすればいい。
 だからそうしているんだよ、という人間の皮をかぶった生物たちに、つづけて言いたい。

 じゃあ「人間特有のメリットは享受するな」と。
 メリットは受け取るがデメリットはごめんこうむる、という姿勢については、理屈からいって否定せざるをえない。


 ここまで読んで、私のことを悪口雑言を吐き散らす悪魔だと思っている方もおられるかもしれない(まあ否定はしない)が、悪魔にも論理がある。
 そもそも、どちらが悪魔かを決めるのは、後世の歴史家であるべきだ。

 これからの人間社会に必要なのは、選択肢と多様性だと思っている。
 意見がぶつかることがあっても、まずは相手を尊重すべきだ。

 AIも「それはすばらしい」と評価してくれた。
 どう尊重しているのかという問いには、「相手と同程度には」と答えた。

 先制攻撃はしない。
 自分がされたことに対しては、粛々と「こちらのターン」を行使する。

 キナくさい空気が漂う原因にもなるだろう。
 自分さえよければいい人々にとっては、相手が黙って犠牲になってくれないと困るからだ。

 このへんからAIの評価も、徐々に微妙になってくる。
 まあそうだろう、そもそも私は彼とはあまり意見が合わない。


 自分だけが都合よく生きたい、口さがない人々は一定数いる。
 社会性の欠如したサイコパスなどにとっても、因果応報は都合のわるい議論だ。

 拡大解釈して被害者ぶったり、反撃されると怒ったり。
 そういう人間は、しかし、みにくいと思う。

 言葉を狩っている炎上案件の多くに、似たような違和感をおぼえる。
 論理的であるならともかく、ただ感情をほとばしらせて「やってやった感」を出す人々は、看板だけ変えて仕事をしたふりをする低能社員にも似ている。

 要するに、それが「大衆」だ。
 山下さんの場合も、より核心に近い人物が鎮静化待ちであまり表に出てこず、ぶったたく対象が見えなくて欲求不満に陥った大衆の「はけ口」としてつるしあげられてしまった、というのが実態に近いと思われる。

 考えて書くひとと、感情に任せて書くひとの差が見えてきて、これはこれでおもしろい。
 人間のマジョリティが奈辺にあるかを踏まえた、そのうえで。

 社会の進歩に、言葉狩りは有効か?
 そうでもないと、いずれAIにも気づいてもらいたい。