時節柄か、原爆をネタに、プチ盛り上がっていた。
アメリカ映画『バービー』と『オッペンハイマー』絡みだ。
日本人にとっては不謹慎な原爆ネタのミーム。
そこにバービーの公式が「いいね」をしたとかなんとか。
フェミニズムやポリコレなど理想を語る面の皮で、原爆の悲劇には無関心。
しょせん軍事的勝利にあぐらをかいた連中の子孫が吹かしているだけ。
アメリカは911はネタにしないのに、原爆やナチスは平気でネタにする。
自国民がひとりでも殺されたら他国民を大虐殺、そもそも他国の悲劇なんかどうでもいいのがアメリカ人。
などなど多数の反発があり、日本の公式も謝罪したらしい。
そうでなくても中国が主張する国境線をそのまま採用するなど、世界戦略を展開する映画のマーケティングとしては、明確な「失敗作」にあたる。
まあ個人的には、あいかわらずだな、くらいの感想しかない。
軍産複合体の利害が最重要の国、アメリカ合衆国。
その歴史を学べば、彼らの行動は理の当然である。
そもそも他国の不幸は自国の利益、という現実はアメリカにかぎった話でもない。
言うまでもないが、戦勝国にとって敵国人の大量虐殺に成功した日は「忘れられない夏」に決まっている。
あの大虐殺国家アメリカに、なにを期待しているのか?
敵の悲惨は、自分の快楽。
ゼロサムゲームの国際舞台で、相手の都合など二の次、三の次は所与の前提だ。
アメリカ人がそのへん、国際標準より「ゆるい」感じがある部分も含めて、勝ち組の人間が負け組の人間の気持ちを理解できるなど、期待するほうがおかしい。
彼らの「良識」の多くを支配している「宗教」の歴史を踏まえるまでもない。
とはいえ、これまで「敵」を痛めつけすぎた。
多少は優遇してやろう、という社会の空気は、さすがのアメリカにもある。
あくまでも国内的にではあるが、たとえばアファーマティブ・アクション。
積極的な差別是正策で、1965年にアメリカ大統領行政命令として出された。
少数民族や女性などに対する差別的待遇をやめ、積極的な措置をとることが命じられているわけだが、現在これに「反対」する人々がかなり多い。
民主党的な理想を語る国で、厳然たる地位を保つ共和党の面目躍如といったところだ。
近所に有色人種が引っ越してくると、治安の悪化をおそれて白人が逃げ出す、ホワイトフライト。
最近では、優遇される黒人が多くなると仕事や進学の面でも相対的に不利になる白人が遠方に逃げ出す、という意味も付加された。
黒人優遇で、自分たちが不利を被っているのではないか。
白人はもちろん、アジア系での不満が渦巻いていたりもする。
これが違憲かどうか、だいぶ争いにもなっている。
国内の差別解消すらままならない国が、他国への配慮など優先順位の上位にくるはずもない。
社会というものは基本的に、多数派にとって都合がいいように運営される。
この映画が問題になるのも、アメリカ(と中国)という巨大マーケットをターゲットとしているからで、ある意味、許容範囲の失敗なのだろう。
そもそも多数派と少数派のバランスは、地域や時代によって変化する。
議論をすこし発展させよう。
少数派を守るべきだという主張はよく聞くが、ある種の発言については言葉を狩ろうとする傾向が強い。
たとえばいわゆる差別的とされる発言について、少数派がいっせいに噛みついてくる現象を想起してもらえればわかりやすい。
少数派の権利を守れ、というわけだが、あらかじめ申し上げておく。
すべての人間の権利が、平等ではない。
具体的には、権利と権利がぶつかるケースでは、多数派が優先される。
多数派が遠慮しろ、という主張の道理はまだまだ弱い。
多数派の配慮を求める性的少数者の意見が、まれによくある。
しかし個人的に、彼らは制度変更の「要求」ではなく、まず多数派の同意を得る「努力」をすべきだと思う。
努力が実れば、要求するまでもなく変化していく。
変化しない場合は、そこが生物的必然の均衡点ということだ。
LGBTQなどという、わかりづらい言葉を使うしかない現実が、多くを物語っている。
この言葉は、生まれつき特殊な性癖の持ち主はたくさんいるが、自分たちが味方するのはLGBTQだけですよ、という意味だ。
それ以外、たとえば小児性愛者や殺人嗜好なども、かなりの程度、遺伝子に刻み込まれている「性癖」である。
しかしそれが生まれつきであろうがなかろうが、彼らが社会的に許容される可能性はきわめて低い。
その「性的少数者」という広いカテゴリを限局化し、社会との摩擦をできるだけ減らしながら受け入れられる努力を試みる。
そういう道を選ぶ苦肉の言葉が、LGBTQというわけだ。
多数派への配慮を欠いた少数派の過激な主張は、たとえばマルコムXのように弾圧されることもある。
昨今は、むしろ弾圧されること自体をこれ幸い、噛みつく理由にしていく体のツイフェミや障碍者なども見かけるが、たいてい同じ少数派からの同意さえ得られない。
自分は障碍者なのであらゆるケースで優先されるべき、それをしない連中は差別主義者、という残念な障碍者の主張がかつてあったが、他の障碍者からさえ強い反発を受けた。
あなたには助けてくれる方々への感謝がないんですか、あなたの行動は障碍者のためではなく自分のためです、とても迷惑です、と。
この「尊大な弱者」誕生の背景には、それを容認する偽善者の群れがいる。
私がこの世でもっとも苦手とする連中でもある。
弱者を甘やかすことこそが正解であるかのように主張する、一部の社会学者や活動家。
いわゆるリベラルに属する、プロ市民と呼ばれるような人々は昨今、大いなる蹉跌を味わっている。
彼らにどれだけ現実が見えていなかったかは、「トランプ大統領」や「ブレグジット」のケースがもっともわかりやすい。
いずれも当時、そんなことあるはずないでしょ、バカらしい、と鼻で嗤っていたリベラルな人々を、わかりやすくサッパリと現実が裏切った。
障碍者である時点であらゆることをやってもらう権利があるんですよ、と某ラジオだかポッドキャストだかで吹聴していた、とある社会学者のことが忘れられない。
自分はいいことを言っているつもりのしたり顔が脳裏に浮かんで、それが彼らの商売であることを踏まえても、思い出すだに吐き気がする。
こういう学者らに煽動されたのだろう、くだんの障碍者もある意味では被害者かもしれない。
やさしくされすぎて、誤解してしまったのだ。
蝶よ花よと育てられた女の子が、世間に出て自分がブスだと気づく、というパターンに似ている。
気持ちはわからなくもないが、甘やかしすぎるのは問題だ。
ご家庭の出来事を修飾するのはもちろん各々のご家庭内の勝手だが、世間はその小さい範囲だけで完結しているわけではない。
大きな相互理解や配慮がなければ、けっして正常な関係は成り立たないのだ。
この手の考えが出現すること自体には、違和感はない。
古来から、もっぱら宗教者などがやってきた。
自分はいいことをしている、正しいことをしている、と信じて疑わない人々のことは、ときに「狂信者」と呼ばれることもある。
そういう人々を糾合しうるロジックは、おしなべて商売になるのだ。
だが無条件に助けてもらう権利など、この世のだれにもない。
あるとしたら神にでもすがるしかないだろう。
さいわい彼らには、福音がある。
社会を変えるAIという神が、ごく近い未来に準備されている……はずだ。