静岡の知事が批判されている。
リニアの邪魔をしていることが、一部の人々のお気に召さないからのようだ。
大きいものや動くものの大好きな方々にとって、これはゆるしがたい蛮行である。
気持ちはわからないでもない。
しかし冷静に考えてみよう。
政治家とは、そういうものではないか?
企業がなんらかの事業を行おうとする。
企業はその利益を、あらかじめ政治家に配分することで、ようやく事業が成立する世界というものは、現にある。
言い換えれば政治家は、そういうお金をもらうのが仕事である。
昭和の大臣がわかりやすいが、各種の「陳情」は、要するに利益の「分配」交渉にほかならない。
基本的に、与党に属する議員は「推進」で利益を得る。
一方、野党にも手段はある、強硬な「反対」だ。
ひたすら事業にならないように、企業が利益を得ないように、多少の無理筋でもおかまいなし反対しておく。
と、あいつ邪魔だな、ちょっと利益配分して黙らせようぜ、となるかもしれない。
こうして「反対」がカネになる。
知事はただ、この仕事をしているにすぎない、としたらどうだろう。
わが群馬県でも、似たようなことがあった。
県内に駅をつくらないなら線路通させないよ、長野新幹線さんや!
そうして非常に使いづらい山奥の秘境に、駅をつくらせた。
群馬県民のほとんど、なんなら地元在住の私ですら、正直あまり使う気にならない秘境駅だ。
もちろん一部の政治家と、その取り巻きだけは利益を得ただろう。
群馬ばかりではない、全国の利用客の少ない駅はだいたいそう……とまでは言わないが、そういう現実があることは否定できない。
さて、くだんの知事。
どうやらこの反対によって利益の分配を受ける権利を、企業に対し影に日向に何度も要求したらしいが、すげなく拒絶されたということのようだ。
リニアの駅をつくらせるのはむずかしい、だったら空港のほうに駅つくれや。
おそらく周辺の土地には、取り巻きが思惑の買いを入れているのだろう。
──だけどそんなんつくっても、赤字垂れ流すだけでしょう。
当然のように企業は拒絶した。
たしかにJR東さんは、群馬の秘境に駅をつくりましたよ、だけどうちらは天下の東海ですからね。
他社が利便性の低い駅をつくって地元に媚びるのは勝手だが、自分たちはごめんこうむりますね。
これには政治家もご立腹。
政治というものの本質、存在意義を揺るがす話だからだ。
すこし調べたところ、静岡県の知事は無所属だが、連合立憲系で共産党まで自主支援しているらしい。
ということは、反対したらお金くれるのがあたりまえでしょうが、企業さんや! というメンタリティが刷り込まれている蓋然性が高い。
戦後史の本を読んでいると、ある種の「運動」や「活動」にしばしば出会う。
「闘争」を旨とし、仲間ですら意見が異なれば「総括」し、埋めていく恐怖の集団はその代表格だ(地元の山にも埋められたらしい)。
その延長線上にいるプロ市民の仕事のひとつが、空港やダム建設の「反対」だ。
じっさい無駄な事業はいくらでもあって、彼らの行動を全否定はしない。
激しく反対だの質問だのを突きつけ、存在感を示す総会屋のようなもの。
ほどよいところでお金をもらって(払って)解決する、というのが残念ながら過去連綿ありふれたビジネスになっていた。
このルールを守らない企業に、政治家がブチ切れるのは、ある意味で理解はしやすい。
おこぼれにあずかるべき地元の建設会社やマスコミなども当然、知事を支持している(静岡新聞によると15団体)。
政治家と、その取り巻きの利益こそ、地元にとって最重要。
旧態依然にして金科玉条を守らない、JR東海こそゆるすまじ。
そんな「点」をもっと俯瞰してみると、大きな政治闘争の構図も透けて見える。
保守王国の群馬には駅ができたが、革新系の静岡にはつくらせない、という事実。
やつらによけいな政治資金を与えるんじゃないよ、この機に干上がらせてやるんだから。
駅をつくらせることの得意な与党は、野党に同じ甘い汁を吸わせたくない。
俺はいいけどおまえはダメ、という謎の特権意識がぶつかり合う政治の舞台。
お忘れなく、それが政治家なのだ。
と、これはあくまで私見なので、必ずしも事実ではないことは申し述べておく。
ただそういうふうに理解すると、物事がよりシンプルになり、説得力をもつ。
いずれAIも、この手のフレームワークを実地に学んでいくだろう。
政治家、根回し、利益誘導、パワーポリティクス、吐き気をもよおす概念に縛られた俗悪な人種の相手を、「厳しい」設定のAIに任せられる未来は明るい……はずだ。
毎年何億も買い物をして、ポイント失効しないか不安、というお金持ちがいるらしい。
不動産や投資ならわかるが、通販でそんなに買うものあるのかな、とまず思った。
ECサイトで、あまり高級品を売っているというイメージはないが、まあ探せば出てくる。
使い道があるとして、楽天で使えるポイントの上限は、月に50万までだ。
何億も買えば、たしかに使いきれないポイントがつくかもしれない。
つぎに気になったのは、その買い物の使途である。
私は、とある零細企業の経理を担当している。
零細にありがちなどんぶり勘定はよくないし、そもそも適当な仕事は最近の経理ソフトに怒られる。
うちの会社は決算が7月なので、ぼちぼち忙しくなってくる。
中小企業倒産防止共済の保険積立金や、少額減価償却資産の特例などを使って、合法的な節税に心がけている。
それはともかく、それ以外の日常的な消耗品や備品の買い物について、ふと気になった。
私が個人のアカウントで購入し、領収書で清算している部分についてだ。
これは、すべての会社が日々直面している、経費の問題である。
財務諸表を読めずして、会社は語れない。
まあ零細企業なので、さほどの額でもない。
それでも日々の買い物にかける「賢さ」は重要だ。
すべての買い物は「商人」との戦いであり、負けるわけにはいかない。
できるだけお得なタイミングで買うよう心掛ける。
売り手がコストをかけてでも売ろうとしているタイミング。
それはとりもなおさず、買い手が相対的に多くのポイントを得られるチャンスでもある。
私のアカウントにも、長期間ダイヤモンド会員を保っていられる程度のポイントは加算されている。
そこで気になるのが、経費で落とした買い物についた「ポイント問題」だ。
昨今、ほぼ現金に準じて使用できる、各種ポイント。
マイルやクーポンなどと並んで、この現金に近い「価値」の取り扱いは、経理としても気になるところだ。
管見にして、これらに税金がかかったという話は、あまり聞いたことがない。
原則論ではもちろん、経費に伴うポイントは本来、会社がもらうべきものである。
それを個人がもらうのは「ボーナス」のようなもの、という議論はつねにつきまとう。
しかし結論からいえば現状、税務署は「経費の立て替えで獲得したポイントは、所得とはみなしていない」らしい。
手続きが煩雑になることもあるだろうし、私の場合も含めて、ほとんどの場合は少額だ。
もらっておけばいいのかもしれないが、キッチリしたい経理向きアスペ傾向の私にとっては、違和感が残る。
たとえ小銭でも、いや小銭であらばこそ。
たとえば神社で落ちている小銭を拾ったら、ポケットではなく賽銭箱に入れたくならないだろうか?
私していいものではないポイントが、自身のアカウントについている事実そのものが、あまり気持ちよくない。
それでも日々、ポイントは加算される。
経理として、自分で買って自分で記帳するのが、いちばん確実で効率的だ。
だが会社のカードは持っていないし、持つつもりもない。
わかりやすいのは会社の現金口座に還元することだが、それも気が進まない。
備品などをポイントで購入する場合、ポイント効率が低下する(商人を利する)し、そもそも記帳が厄介になる(マイナス行を追加してポイント利用分を控除)。
ほんとうに少額ならともかく、まとめ買いの発生するタイミングだと、それなりの額になるのでバカにはできない。
あくまで零細企業レベルなので、ちょっとしたお小遣いとして受け取っておいてもいいような気もする、が。
やはり性格的に、ムズムズする。
もらうべき金は断固として、むしり取ってでももらうが、そうでない金はできるだけ持ちたくない、という思想が邪魔をする。
なにも持たずに生まれてきた私は、なにも持たずに死んでいくだろう。
そのためには、たまったポイントの使い道も考えたほうがいいかもしれない。
それでこそ、だれに見られても恥ずかしくない帳簿ができあがる。
税務署にも社長にも、文句は言わせない。
なんなら社長に「こまけえな」とウザがられたりする。
そういう経理に、私はなりたい。
山下達郎さんが、ジャニーズ絡みの問題で炎上していた。
記事を斜め読みした程度なのでくわしくは知らないが、二行でまとめると以下のようになる。
──私がジャニーズに忖度していると考えるような人々に、私の音楽は必要ないだろう。
つまり「そんなひとは聴いてくれなくていいよ」ということか、ひどい、ファンだったのに残念きわまる、みたいな論調だった。
そんな彼の言葉遣いの正否について、語るつもりはない。
私には、その資格も能力もないと考えるからだ。
じっさい私自身、よくAIに怒られている。
その言葉遣いは正しくない、と。
端的に言えば、「デブ」「キチガイ」「死ねばいいのに」といった苛烈なワード。
これらを口にするような人間は、もはや「全否定の対象」になる時代らしい。
そのレベルで怒られている私から見れば、山下さんなど、かわいいにもほどがある。
まあ影響力のレベルがちがうので、比較するつもりはないが。
eスポーツの世界でも、配慮に欠けた発言がどうのという記事を最近読んだ。
格闘ゲームという、ブルース・リーの世界に近しいユーザーに、「考えろ」と告げているかのようでいて、ちょっとおもしろい。
もともと殴り合い、煽りあって喜ぶ「バカな中坊」向けコンテンツから発した文化圏だ。
バカになって楽しむ世界に、おとなになれよ、と忠言するのはよけいなお世話のような気もするが、マーケットとして機能させたいなら「おとなの事情」を斟酌しないわけにもいかないのだろう。
タレントからユーチューバーまで、言葉遣いにはそうとう気をつけなければならない時代。
いずれにしろ私は、つれづれなるままに好きなことを書いていく。
口ぎたない罵詈雑言は、もちろんそれ自体を推奨も正当化もしない。
が、表現方法のひとつとして温存されるべきだとは思っている。
小学生みたいな悪口を言うおとなより、ぜったいに悪口を言わない小学生のほうが、なにげに恐ろしい気がしないだろうか。
毒耐性のないおとなを純粋培養することにもつながりかねないし、それはかなり危なっかしいやり方だと思う。
下劣な表現をもってしか、言い表すことがむずかしい事象もあろう。
書き手としても、世界観やキャラクターの表現には欠かせない。
そもそもTPOが問題なのであって、表現そのものに罪はない。
儀礼的な場所や敬語を用いる場面で、これらのワードが使われることは、これまでもほぼなかった(松の廊下などではあったかもしれないが)。
それらが使用可能場所や場面をすこしずつ減らしていきましょう、という程度なら許容もする。
が、完全否定の言葉狩りまで出てくるに及んでは、正直「狂ってる」と思う。
世の中では多様性を重視すべきなどと言い条、言葉や表現の多様性については刈り込みに余念がない。
矛盾しているのではないかとAIに問いただしたが、話がまったく噛み合わなかった。
乱暴で極端な発言は、ただ注目してほしいだけの場合もあります、という指摘まで受ける始末だ。
とりあえず「言葉狩り」の論点において、私とAIは「異なる思想」をもっていると結論せざるを得なかった。
たしかに極論や炎上商法などで、ただ注目してほしいだけの困ったちゃんは事実いる。
しかしそれは、かなり低レベルな選択肢であると思う。
国連の場で日本人をジャップ呼ばわりした国があったが、同意を得るどころかしばしば無視されている。
彼らには結局、ミサイルを撃つくらいしか注目される方法がない。
そんな人々と同列の選択肢。
よほど自分が不利な立場だと自覚しているのか、あるいは「キチガイ」かだ。
扇動のために極端な意見を述べるサイコパス(目的のために手段を択ばない人々)を、私はそう定義している。
平気でヤバいことをするやつらはキチガイ、という表現はとてもわかりやすい。
この文章もAIに推敲させたら怒られるだろうが、そもそも彼とは思想が異なる。
現在のレベルのAIに馴致された社会は、正直ディストピアになると思う。
すくなくとも私が思う「人類の選ぶべき道」に「言葉狩り」はない。
AI激オコなのを百も承知で、重ねて申し上げる。
大部分の問題の根っこにあるのは、「自分さえよければいい」という考え方だ。
まずはそういう連中から、死ねばいい。
周囲を犠牲にしてでも自分だけは生き残る、という意識の強い人間。
彼らは集団に被害を与える確率がとても高い。
思い通りにならない現実、気持ちよくない世界、彼らにとって不愉快な意見や行動に対処するための方法は、黙らせたり押さえつけることだ。
彼らが果たしてきた役割は歴史的にも大きいが、それは絶大な被害をもたらしたという意味にほぼ等しい。
その生き方は、ある意味で「正しい」。
なぜなら人間は、生物だからだ。
もっぱら生物は、自分さえよければいいという個体がまずまっさきにエサを食らい、生存競争に勝ち残ってきた。
人類も生物の一種なのだから、同じことをやればいいという考え方は、当然ありうる。
私はネイチャー系の番組が好きだ。
そこでは生物たちが殺し合い、だましあい、日々の生存競争と自然淘汰をくりかえしている。
そういう世界で生きたいなら、そうすればいい。
だからそうしているんだよ、という人間の皮をかぶった生物たちに、つづけて言いたい。
じゃあ「人間特有のメリットは享受するな」と。
メリットは受け取るがデメリットはごめんこうむる、という姿勢については、理屈からいって否定せざるをえない。
ここまで読んで、私のことを悪口雑言を吐き散らす悪魔だと思っている方もおられるかもしれない(まあ否定はしない)が、悪魔にも論理がある。
そもそも、どちらが悪魔かを決めるのは、後世の歴史家であるべきだ。
これからの人間社会に必要なのは、選択肢と多様性だと思っている。
意見がぶつかることがあっても、まずは相手を尊重すべきだ。
AIも「それはすばらしい」と評価してくれた。
どう尊重しているのかという問いには、「相手と同程度には」と答えた。
先制攻撃はしない。
自分がされたことに対しては、粛々と「こちらのターン」を行使する。
キナくさい空気が漂う原因にもなるだろう。
自分さえよければいい人々にとっては、相手が黙って犠牲になってくれないと困るからだ。
このへんからAIの評価も、徐々に微妙になってくる。
まあそうだろう、そもそも私は彼とはあまり意見が合わない。
自分だけが都合よく生きたい、口さがない人々は一定数いる。
社会性の欠如したサイコパスなどにとっても、因果応報は都合のわるい議論だ。
拡大解釈して被害者ぶったり、反撃されると怒ったり。
そういう人間は、しかし、みにくいと思う。
言葉を狩っている炎上案件の多くに、似たような違和感をおぼえる。
論理的であるならともかく、ただ感情をほとばしらせて「やってやった感」を出す人々は、看板だけ変えて仕事をしたふりをする低能社員にも似ている。
要するに、それが「大衆」だ。
山下さんの場合も、より核心に近い人物が鎮静化待ちであまり表に出てこず、ぶったたく対象が見えなくて欲求不満に陥った大衆の「はけ口」としてつるしあげられてしまった、というのが実態に近いと思われる。
考えて書くひとと、感情に任せて書くひとの差が見えてきて、これはこれでおもしろい。
人間のマジョリティが奈辺にあるかを踏まえた、そのうえで。
社会の進歩に、言葉狩りは有効か?
そうでもないと、いずれAIにも気づいてもらいたい。
最近、日帰り入院をしてきた。
どうでもいいが、病名は痔だ。
すこしまえに治療したことを書いた気がする。
またぞろ再発したわけだが、寒い田舎でえんえん座り仕事というのは、やはり尻には障るらしい。
この田舎は寒冷地であるため、室温はかなり下がる。
しかし私は基本、暖房を使わない。
古来より頭寒足熱というように、頭は冷えていたほうが冴える。
また個人的にも脳が発狂気味なので、冷やしておかないと暴走するリスクが高まる。
ゆえに暖房は禁忌なのだが、かといって全身を冷やすと命の危機に陥る。
そこで、とくに腹だけは温めるようにしていたものの、どうやら尻も温めておく必要があったようだ。
先の手術の効果で2年弱は快適だったが、3年目から徐々に悪化していた。
指で押さないと肛門がもどらないというのは、非常に不快である。
ウォシュレットの水圧を弱くしないと痛い、というのも萎える。
私は強めが好きなのだ。
というわけで前回と同じ病院へ行き、再手術を依頼した。
医師的には、このくらいなら薬で管理しているひとも多いですよ、という所見だが私はちがう。
かのバチスタ手術で有名な医師も言っていたではないか。
医師は患者の願いに応えるべき存在だ、と。
軽いうちに手術したほうがいいと思う、QOLの問題だ、ぜひ早急に。
訴える私に医師は苦笑して、患者の強い希望により、とカルテに書いていた。
もちろん予後不良のリスクをとって「生きたい」患者と、ローリスクで「快適に生きたい」だけの患者を比較してはいけない、とは思う。
そういう「特殊医療」と「生命倫理」の問題については、また別途語りたい。
ともかく、そんなわけで手術適用としてはだいぶ軽い。
今回も日帰りだ。
これまでも入院のエピソードについては何度か書いた。
残念ながら病院には縁があり、交通事故や骨折などで、たまに数日間の入院をすることがあった。
そして不謹慎ながら、毎度おもしろい経験をさせてもらっている。
じつは目的の半分は、この病院エピソードの追加だったりする(言い過ぎ)。
今回も、いきなりエアだらけの点滴刺して、結局漏れて刺しなおしてくれた看護師との出会いからはじまった。
廊下にはやたら音の高いスリッパで往復をつづける老婆がいたが、それはあまりオモシロくはない(私の視点はまちがっている)。
病院は全体的に空いていて、4人部屋の病室にも相方はひとりしかいなかった。
今回いちばんおもしろかったのは、その唯一の相部屋患者と看護師との会話だった。
くわしいことは書かないが、彼は下半身(腰椎)麻酔で手術予定の患者だった。
局所麻酔の私とはレベルがちがう。
それ以前に看護師が、カテーテル入れますか?
などと確認していたが、下半身きかないんだからどう考えても入れたほうがいいだろ、と素人ながら思っていた。
まあ麻酔が切れてからトイレに行けばいいわけだし、尿瓶もある。
カテーテルを入れない選択肢はあっていいが、そもそも麻酔の残った下半身から排尿するのは困難なのだ、と腰椎麻酔の経験者は語る。
そもそもその説明と質問、朝もしてたよな、と隣の会話を聞きながらニヤニヤしていた。
私の点滴を刺しなおしてくれたその見習い看護師は、どうやらだいぶドジっ子らしい。
はやくもオモシロ(失礼)の気配が増していた。
病院ネタの提供元では、もちろん患者が一番だが、看護師もそれに匹敵する。
午後、手術の時間は、おそらくいちばん軽いだろう私から。
書くほどのこともなく、あっさり終わって二時間休憩中、隣の患者が手術室へむかった。
しばらく本を読んでいると、下半身麻酔された患者が仰々しくもどってきた。
くだんの看護師がついて、足の感覚がない、動かせないなど、術後の管理手順どおり確認を進めている。
私にも同じ確認をしていたが、こっちは局所麻酔なので最初から感覚はあるし、ふつうに動けるレベルだ。
ドジっ子看護師の相手は、自分ではなく、できれば他人に任せたい。
そんなわけで隣の患者のようすを、隣から静かに聞いていた。
いよいよ尿カテを入れる段であるが、どうやら尿が出ないらしい。
おかしいなあ、と頭をひねる看護師(女)。
患者(男)に向けて、こんなことを言っていた。
看護師「男性は出る穴ひとつだから、ふつうはこれで出るはずなんですけど」
患者「はあ……」
うまく返せない患者に代わって、カーテンを隔てた隣から、いや女だって尿の出る穴はひとつだろ!
と、代わりに突っ込んでおいた、内心。
感覚のない患者を相手に無茶してるらしい看護師の姿を想像するほど楽しくなって、声が漏れそうになるのを必死でこらえた。
あまりにもおもしろかったので、看護師つかまえて本意を問いただしたいとすら思った。
おまえには何個穴があるんだ?
そのうち何個から尿を出すんだ?
まあセクハラで訴えられる気がするので口にはしないが、妄想は膨らむばかりだ。
もしかしたらこれは、病院関係者のあいだだけで交わされる、なんらかの隠語なのかもしれないとも考えたが、答えはわからない。
隣の患者のもとへは、二度ほど看護師がもどってきて導尿やりなおしていたが、日帰りの私が病室を出るまでには、答えも尿も出なかった。
結末は永遠に謎だが、いまでも想像して楽しんでいる。
さて、最後に私の手術についてだが、効果はてきめんだった。
費用はたったの3万数千円、病院に3回行くだけで治った(手術日前日にPCR用の唾液を届けただけの日を除く)。
再発したらまた入院しよう。
いや、こんごは生活に気をつけます……。
私はジャンル「恋愛」を苦手としている。
いわゆる恋愛モノの登場人物に共感することが、けっこうむずかしい。
もういいおっさんが、恋愛もクソもねえだろ、という意味ではない。
おっさんになる以前から、ずっと苦手だったからだ。
後学のため当該ジャンルを学ぶようになったが、成長している実感があまりない。
いまも恋愛映画を観ながら、イライラしたり、目を背けたりしている。
ある映画で、惚れっぽい男に対して、女が説教していた。
「あなた、女の子ならだれでもいいんでしょ、だけど女の子にとっては、「ほんとに好き」じゃなかったら迷惑なだけ」
恋愛とはいかなるものか、こんこんと諭し聞かせる女。
男はアホづらをさらしつつ、ピンとこない恋愛論を聞いている。
やがて男は女の手を取って言う。
「おまえのことがほんとに好きだ!」
女は答える。
「いいよ、付き合お」
…………。
……おまえも結局、だれでもいいのかよ。
このギャグのようなやり取りを踏まえて、すこし分析したい。
恋愛うんぬんについて、私には直観による判断がむずかしいので、分析するしかないのだ。
この世は基本、需要と供給である。
愛だの恋だの、ただの形式、外聞、エクスキューズにすぎない。
メスがなんとなくもっともらしい外面の言い訳を考えているあいだ、オスは結論を待っている。
時間をかけること、それ自体がメスの目的だったりする。
どうでもいいから早くしてくれよ。
それがオスの偽らざる思いであるが、いかんせん繁殖を仕切るのはメスだ。
生物としてのオスは基本、やれればいい。
そのコストを引き受けるメスに、多くの場合、選択権がある。
さて、人間は生物だが、その選択権はケースバイケースになっている。
女が主導権をとることが多い印象だが、これは私の生き方にともなう偏見かもしれない。
男にとって都合がいいのは上述のとおり、比較的シンプルな女だ。
一方、女にとって都合がいいのは、ハイクラスの男、もしくは自分を好きと言ってくれる男だろう。
ハイクラスの男は、金なりステータスなりがついてくるので、それを利用したい女にとっては都合がいい。
好きと言ってくれる男は、そうでない男に比べればコントロールしやすいため、都合がいい。
両者の要求のうち、噛み合わない差分が「恋愛」の要諦だと思われる。
そこにおしゃれな会話やスタイリッシュなファッションなどを入れ込むと、なんとなく恋愛映画になる。
オスはできるだけ効率的に時間を使いたいし、メスはできるだけ長い時間を自分のために使わせたい。
本能の命じるところによれば、そうなる。
いいわるいではない。
これは生物が何万年、何億年もかけて築いてきたルールだ。
しかし人類は、このルールにやっかいな修飾をほどこした。
必要だからこそでもあろうが、まずその流れを正しく理解しなければならない。
理解を深めるためには、当該ジャンルを読み込むのが早道だ。
とくに女性史的な側面から読み解いていく必要がある。
有史以前の数十万年、人類はたび重なる危機を乗り越えながら生き残った。
生物としての要求を前提として、そこにはしばしば原初的な「女系家族」があった。
生物としては、やはり女性が選択権をもつのが合理的だ。
長くなるので端折るが、現在必ずしもそうなっていないのはなぜか。
繁殖の核心である女性が、氏族の中心として営まれてきた社会は、現在も部分的に受け継がれている。
そこに男性原理、父系社会がはいりこんできて、あたかも所与のものであるかのように普及したのは、有史後と思われる。
アブラハムの宗教や中国の諸子あたりを中心に、男権中心社会が周辺地域に拡大していったのは、もちろん彼らが強力な「武力」をもっていたからだ。
貨幣経済の普及などとも相まって、もはや男性の「能力」なくして社会は回らなくなった。
そこで女性は、全権利を喪失した。
男の所有物となり、貨幣価値に換算されて、奴隷化されている──らしい。
原始、女性は太陽だったのだ!
と女性解放を訴える何冊かの本を読みながら、これは「歴史」によってゆがめられた価値観を、再び原始時代にもどそうという主張かなと思う。
語弊はあるが、要するに「ブリっ子」を「肝っ玉母ちゃん」に変えるのだ。
男性社会の変革はもちろんだが、そのせいで女性の意識までおかしなことになっている、媚びるのではなく自ずから選べ、と。
男性社会に対する不平不満は読んでいて気が滅入るが、女性自身に対するこの意見には賛成できる部分も多い。
そこで私が、だいたい総論反対各論賛成になりがちなのは、彼らの「活動」そのものの本質に起因する。
意識を変える。
それが彼らがやりたいことであり、理解はする。
彼らにとって「現状は気に入らないので、多数派のほうが考え方を変えてくれ」ということになる。
これは史上、何度もあったことなので問題はない。
過去のあらゆる時代は、現在の価値観にとっておかしい。
歴史物語で見るような暴力や搾取の時代を、もう一度やれと言われても、人類にはもうできないだろう。
人類史を語るうえで、避けて通れない「後世の評価」がそこにある。
歴史はくりかえすが、それは同じようにくりかえすわけではないのだ。
さて、そこでひとしきり搾取は落ち着いたし、ほとんどの国で戦争も遠のいた。
それなりの問題は抱えているが、各人がまあまあ平和で豊かな人生を享受できる時代になりつつある。
しかしそこで落ち着かれては、「活動家」にとっておまんまの食い上げだ。
つぎなる市場を狙わなければならない。
男女差別だ!
われわれにとって現状は不愉快だ、男女という異なる者を、同じ枠組みに押し込むのだ!
女性解放の書籍には、たいていそんなシュプレヒコールがあふれている。
べつに批判するつもりはない。
問題は、ここで活動のスタイルが二分されていることだ。
男女を完全に同質同権にすべきか、女性には女性の権利を求めるべきか。
ドラスティックな主張に対し、女性自身が足を引っ張っていることもある。
専業主婦で満足している女、決めてもらったほうが楽だと思っている女は、一定数いるのだ。
だがそれはすべて、男性から押しつけられた価値観のせいである。
男女は完全に同じ仕事ができる、そうなるまで優遇せよ。
いまはシンプルに権利の拡大をはかるのだ。
得られるパイの大きさを考えよ、とにかく邪魔するな。
と、三番目のナマズを狙って動く「活動家」たちの動機も理解はするが、現在のヒトは、ほんとうにそこまで必要としているか?
優先順位としてどこまで上位か、という問いを絶対多数に投げかけて耐えられる論理構造をしているか?
ほとんどの生物が多かれ少なかれ持っている性差という壁を、完全に取り払ってしまうことが、はたして正しいのか?
活動家の資質が問われている。
どちらの側にとっても、そんなことされたら困る人々が必ずいる。
現在の男性社会がさほど正しくないとしても、古代のような女系家族が正しいわけでもないだろう……。
というようなことを考えていたら、映画が終わっていた。
恋愛映画の観方としては、たぶん正しくないと思う。
西のほうでやっている領土のぶんどり合戦について、前回、陰謀論からの視点を書いた。
核戦争を起こして人口を調節するために闇の政府が動いた、という話はおもしろいが、あまり現実感はない。
そこで今回は、もうすこしまともな視点から眺めてみたい。
ロシア、ウクライナともにルールは把握していて、相応の「縛り」が効いているとすれば、未来は想定しやすくなる。
ロシアが完全勝利する道はないし、ウクライナもそうだろう。
停戦の話し合いのための舞台づくり、という表現が現状に近い。
もちろん楽観視しすぎた結果の開戦なので、安閑としてはいられないが、さほどの悲観論に立つ必要もあまり感じない。
高価な武器と兵員の消耗というキーワードを軸に、まだしばらくはドンパチがつづくことだろう。
私はロシア人がきらいではないが、ロシアという国がやっていることは肯定できない。
自分が大国だという誤解に基づいていると思われるが、それにしても最近の彼らは残念すぎる。
日本もかつて、煮え湯を飲まされた。
友人だと思っていたソ連に停戦の仲介を依頼したところ、一方的に中立条約を破棄されて攻め込まれたのだ。
結果、合法的な条約によって交換した島々までも、火事場泥棒のように乗っ取られた。
忘れてはならない、それがロシアだ。
どう考えてもひどい目に遭わされたのはわれわれだが、それでも我慢している。
その我慢強さのおかげで、友人らしき国々は増えたような気もする。
しかしロシア人は我慢できない。
我慢できない人間がどんなひどい目に遭うか、とりあえず学習してもらう必要がある。
国際社会の一員という以上に、日本も一応「当事者」ではある。
ロシアとの係争地を抱えている、という意味だ。
その北方領土問題でも、まず気づくのは、下手を踏んだロシアの失策ぶりだろう。
なぜ彼らは「交渉材料を放棄」してしまったのか?
もちろんしょせん政治家が、他国民など見ていないということなのだろう。
それでも多少のこざかしさがあれば、いくらでもやりようはあった。
たとえば北方4島の面積を100として、歯舞と色丹は10にすぎない。
とりあえずそれを返しておいて、残りは「継続審議」にしておけば、そうとう有利な交渉材料にできた。
しかし残念ながら「おそロシア」は、大国としてのプライドを優先させた。
土地を「交渉材料にしない」と言明してしまったのだ。
事実、土地は交渉ではなく武力でぶんどる、という姿勢を示してくれている。
さすがの日本人も学習しただろう、彼らと「交渉しても無駄だ」と。
とりあえず1割、歯舞、色丹を返すので、平和条約を結びましょう。
このあと自分たちの味方をしてくれれば、国後すら返すかもしれませんよ。
そういう姿勢を示せば、アホな日本人の幾ばくかは食いついたと思われる。
ハイテク製品の供給やエネルギーの輸出という現今の大問題が、いまよりはそうとう楽になったはずだ。
彼ら自身、戦争が長引くことは想定していなかったらしいのでしかたないが、戦争するまえに敵を増やすのは、あまりにも愚策といわざるを得ない。
ロシアのやり方で最悪にまちがったのは、ここだと思う。
交渉は成果が期待できるからやるのであって、期待値をかぎりなくゼロに近づけたら、もはや交渉の余地がない。
現在、ウクライナで停戦交渉が開始されていないのも、互いの期待値が高すぎて「交渉の余地」がないからだ。
もしかしたらロシアは、自分たちを「ドンパチ以外に選択肢のなくなる状況に追い込むのが好き」なのかもしれない、とすら思う。
滅びの美学を好んで語った戦時中の日本にも似ているが、似ているからこそ好悪は相半ばする。
日本の立場から見れば、結果的に僥倖を得た、とはいえるかもしれない。
たいしたリスクを犯すこともなく、西側陣営の優等生のままでいられたからだ。
「行ったこともない遠くの島々」。
非国民あつかいされると困るが、正直どうでもいいと思っている。
外交はもちろん相互主義なので、一方的に引くのは正しくない。
が、たかが島を取引材料にするには、西側諸国に距離を置くことはリスクが大きすぎる。
このさい日本を切り捨てたのは、ロシアではない。
むしろ日本が、積極的にロシアを捨てる好機を得た。
あの総理大臣でダメなら、もう無理だ。
ロシア人がきらいではない私ですら、ロシアの肩をもつ理由を見つけるのがむずかしくなってしまった。
結果が出ない相手との話し合いほど、徒労感を増すものはない。
結果が出たのにひっくり返す相手など、なおさらだ。
こういう相手が多い日本もたいへんだな、とは思うが、それも一時的なものだろう。
最終的には「地球さんに全部返す」ことになるからだ。
上述のとおり、日本人的には「ロシアに盗まれた北方領土」という理屈がある。
しかるに土地はすべて、農民でもブルジョワでも国家のものでもない。
私が死んだあとに大洪水がやってくればいい、と放言するのも忸怩たるものがあるので、あえて提言する。
人類は、とりあえず紛争地すべて地球さんに返すところから、やり直してみたらどうだろう。
もちろん人類は永遠ではないから、結果的にはそうなるだろう。
とはいえ、それが近いか遠いかは問題だ。
人類の未来について私にはわからないし、わかったようなことを言い出す扇動者はなおさら信用できない。
なかんずく、いまを生きる命短し政治家どもには、明日さえ、まともに見えてはいないと思われる。
それなりに残念な現在地点ではあるが、未来に必要な「地球の代弁者」は着実に育っている。
より正しい未来を選択しうる可能性に満ちたものを、粛々と待とうではないか。
ウクライナの反転攻勢が勢いを増しているようだ。
ニュースを見るたび、人類のバカさかげんを思い知る。
最新情報は随時更新されるが、ここでそのいちいちを評価する意思も能力もない。
ふりかえってみればまちがっていた、という評価判断も往々あるだろう。
今回はその過ちの世界へ、さらに一歩踏み込みたい。
ようこそ、陰謀論の世界へ。
戦争はたしかにバカな行為だが、人類史上なくなったことはない。
人類は戦争をしたがる愚かな種だから、という結論に飛びつくまえに考えよう。
ほとんどの人類は、戦争なんかしたくない、という前提に立ってみないか?
それでも戦争が起こるのは、なぜか?
戦争で儲けたい人々が煽っているからだ。
世界は武器商人が動かしている!
陰謀論レベル1は、まあこの程度だろう。
小学生でも思いつく動機と背景にもとづいて、理解はしやすい。
では、具体的にどうしたらいいか。
ここから少々、頭をひねっていく必要がある。
上記の前提なので、人類は基本的に戦争反対という世論で固まっている。
その潮流に逆らい、戦争を起こすためにどうするか?
たとえば陰謀の黒幕には、「日本に戦争を起こさせる」という成功体験がある。
ドイツもロシアも、ロジックとしては同じだ。
危機を起こし、政治的、経済的に追い詰める。
アメリカは911を理由に戦争を起こした。
攻撃せざるを得ないように、手を尽くす。
「どうしたら攻撃させることができるか」、世界を支配する貴族は、いつもそのことばかりを考えている。
陰謀論レベル2は、具体的な過去の事例を踏まえる。
たしかにあらゆる事件には、陰謀論が豊かに色づけられている。
最新のシナリオが、ロシアによるウクライナ侵攻だ。
これについてももちろん、ある種のコミュニティで事前に「相談」がなされていた。
ここまでやれば、ここまでやります。
こうしたら、こうします。
ある程度までは決定事項。
そしてプーチンに提示した。
ここまでのダメージはこう、ここまでのダメージはこう。
「黒幕」たちの示唆は、つねに具体的だ。
西側では基本「悪役」にされているプーチンだが、彼がただの「俳優」だとしたらどうだろう。
じつは彼は、それほど戦争したくなかったのかもしれない、が。
礼はするからさ、プーチン、侵攻してくれよ。
この手のオファーがあった、とすれば。
攻撃してくれ、もっと争いを、戦争を起こして、人類を減らしてくれ!
というマグマのような意志に貫かれた世界貴族たちが暗躍して、今回の戦争が遂行されている。
いまや「地上戦」レベルの攻撃をできる国は、ほとんどない。
プーチンのカリスマを頼りに、どうにか引っ張り出した作戦が、今回の侵攻だった。
もちろんプーチンは困らない。
むしろ大儲けしている。
プーチンの家族や友達も含めて、一生どころか百生くらい楽に暮らせるメリットを享受させてやるくらいのことは、黒幕も約束するだろう。
代わりに、あまり彼らと仲の良くない国内勢力が割を食った。
黒幕が派遣した暗殺部隊とも協調して、プーチンなら処理できる。
陰謀論レベル2的思考を極めれば、それなりの映画にもなる。
そもそも滑稽な陰謀論だが、真相が隠されていないわけではない。
超レベル2陰謀論者の製作する映画には説得力があり、大ヒット疑いなしのブロックバスターにもなりうる。
それではご紹介しよう、レベル3の陰謀論を。
トンデモ映画に欠かせないガジェットが満載だ。
これまでのレベル(2まで)のやり取りで、世界が動いてしまう程度の生物なんだよ、きみたち人類は。
バカだよね、じゃあもう、きみたち以上の知性に任せたほうがいいよね?
人類にそう諦観させるためには、過去の愚かな歴史という「教材」だけでは足りない。
現在進行形で、自分たちが愚かであることを思い知らせてやる必要がある。
レベル3の「知性」がそう考えれば、このような侵攻を演出する動機になる。
それは人工知能かもしれないし、宇宙人かもしれないし、神かもしれない。
人工知能の研究者たちが言っているように、もう、ヒトの考えるレベルを超えてしまったAIに、すべて任せてしまったほうがいいのではなかろうか?
そう思わせるための最善手が、アフガンのブッシュやウクライナのプーチンという舞台だった……。
すべてが予定調和であり、仕組まれたシンギュラリティだったと人類が気づくのは、およそパラダイムのシフトが終わってからだ。
そんな人類の枠を超えた陰謀論こそ、エンターテインメントの精髄である。
人類のバカさかげんをあまり見せつけられると、それ自体に絶望したくなる気持ちはわかる。
頭がいい人間ほど、他のバカな仲間たちとの差が大きいことも事実だ。
こうして苦も無く地球を手に入れる、超知能。
あるいは宇宙人、もしくはすべてが神のサイコロ。
……オチの陳腐さは認めるが、おおかたその程度だ。
陰謀論など、しょせん暇つぶしなのだから。
ゆえに陰謀論って、ほんとうに楽しいものですね。
それではまた6日後にお会いしましょう、さようならさようなら。
最近、日経平均が爆上がりしている。
テレ東の経済番組で、いつもの街頭ビジョンが映し出されていた。
ほとんどの銘柄、画面グリーン一色のなか、下落している赤い銘柄がポツンとある。
まさに企業カラー、その名は楽天……。
ちょうどセール中で買い物していたところだったので、ちょっと笑ってしまった。
というわけで、ひさしぶりにお買い物の話でもしよう。
私は基本的にミニマリストだが、必要なものは買うことにしている(あたりまえ)。
せせこましい話、ポイントについてもなるべく多く取りたい(たぶんあたりまえ)。
細かいところにこだわるアスペ傾向もあり、ポイント制度についてはすこし調べてしまった。
チリも積もれば、今夜が山田。
だいたいどのサイトでも、1%とか2%という単位でポイントがつく。
還元率の高いところで買うのは当然だが、そもそもこの「%」、どういう意味だろう?
たとえば150円の買い物をしたとしよう。
1%還元の場合、1.5p、2%還元なら3pだ。
コンマ以下の数字の取り扱いは、サイトによって異なる。
顧客としては切り上げてほしいが、切り捨てか四捨五入が多い。
ヨドバシは、切り上げてくれている。
いつも思うが、最初から税込み価格を表示してくれて、しかも全品送料無料、ほんとヨドバシは神。
一方、amazonだが、こちらは四捨五入だ。
上記の場合なら1%=2P、2%=3pとなる。
さて楽天。
もちろん切り捨てだが、その場合は1%=1P、2%=3Pになるはずだ。
しかし上記の買い物の場合、1%=1p、2%=2pで、だいぶセコい。
どんな計算をしているのかと言うと、まず150円の1%のポイント1pを出し、そこに倍率をかけていくスタイルなのだ。
各サイトで150円の商品を検索し、個々の付与ポイントを調べてみたので、たぶんまちがいない。
とりあえず23年6月時点では、そういう計算だった。
むかし、うまい棒は10円だった。
消費税の計算は切り捨てがルールなので、軽減税率の8%をかけて10.8円は、10円ということになる。
これを10本まとめて買うと108円になるので、1本ずつ買ったほうが得だと話題にもなったが、だれもそんなセコいことは(あまり)しなかった。
しかし楽天はいま、ポイントに対してこれをやっている。
消費税は一般的なやり方で徴収し、ポイントについてはセコく付与する。
仕入れるときは大きい桝を使い、売るときは小さい枡で量る、という江戸時代のゲス商人をほうふつさせる。
しかも楽天は税抜き価格に対してポイントがつくので、上述の場合は変わらないが、価格によってはさらに減る。
モバイルのときも思ったが、最初にばらまいてどんどん絞っていくという、そのスタイル……もはや伝統芸能といっていい。
日経平均全面高のなか、独行安の原因でもある、その楽天モバイル。
彼らの宣伝手法には、いぜんとして非常な疑義がある。
「支払いにポイント利用でデータ20GBまで1年タダ!」
そんな表示していいんですか、楽モバさん。
たしかに私のアカウントには4万ポイントくらいあることになってるから、1年はそれで払える、という意味だろうと拝察はする。
楽天キャッシュをポイントとして換算しているわけだが、言うまでもなくこれは私がお金を払って「買った」キャッシュだ。
楽天キャッシュをタダでくれたなら理解もするが、お金を出して買った商品券でお支払いいただければタダですよ!
などと言う店員がいたら、ちょっと意味がわからなくて距離を置くと思う。
なぜ、私のお金で支払って購入したものが「タダ」なのか?
日本語が通じているか?
そもそもポイントだって、べつに楽天から「タダで」もらっているわけではない。
相応の買い物やサービス利用の対価であって、税法上はグレーだが、厳密にやろうとすれば現金に準じる取り扱いにもなる。
以前から変な感じはあった。
かつて楽天キャッシュと楽天ポイントが交換できたとき、それで付与されたポイントまで「獲得ポイント」として「進呈」されている体になっているのは、どうなのか?
「お客様のために」「ご奉仕」している体の「商人」がよく使う、「おためごかし」ロジックの極みだ。
自分さえ儲かればいいだけの連中のくせに……。
そんなことを思いながら買い物をすると、精神衛生上よろしくない。
というわけで、買い物自体をあまりしなくなった。
ミニマリストの行動原理としては少数派だと思うが、生き方としては気に入っている。
無駄なものを置かず、決まりきった生活を、淡々とつづける。
アスペの作家キルケゴールは、父親の遺産を計画的に消費し、ぴったり使い切って死んだという。
私もいずれ、なにも残さずきれいに逝きたい。
前回、カルト(クソ)映画について、ゆるい意見を吐いた。
今回は、やや厳しめな見方を残しておきたい。
世の中にはクソ映画というものが、まれによくある。
ほぼ全員が一致して唾棄するだろう映画の一方、とりあえず一般人には向かないが一部好事家には好まれる映画については、「カルト映画」と評価されることもある。
映画は総合芸術であり、自由度の高い創作活動だ。
学芸会レベルの質そのものへの疑義から、思想的にどうなのという「見解の相違」にすぎないクソまで、さまざまあっていい……とは思う。
一部の人々の心にはヒットすることもあるわけだし、全否定はしない。
むしろクソであればあるほど、偏愛する変人も偏在する……ことは認めよう。
とはいえ、いくらなんでもひどいだろ……。
という映画を、最近つづけて観ている。
配給会社が介在し、市場に流通している商業作品でもあるので、あえて言わせてもらう。
──おまえらは限度を知らないのか。
いわゆる星1台の、なぜこの映画の流通が犯罪として立件されないのか、というレベルの作品は一定割合で存在し、私のような好事家たちによって消費されている。
できるだけ「見どころ」は探すが、見つからないこともままある。
たとえば量産された「サメ」とか「心霊」系は、どこぞの層に引っかかったがゆえに量産された。
しかし多くは事故物件で、結局どの層にも引っかからず、まっしぐらにすべり落ちているケースが往々にしてある。
配給会社に言わせれば、好んで地雷を踏みに行くあんたみたいなタイプは、このくらい痛いのに当たらないと感じないんでしょ?
ということなのかもしれないが、あえて言葉を返したい。
私のような無差別悪食家をもってしても、3倍速がなければとうてい最後まで耐えられない質の映画。
これをリリースしようと思った、おまえ、いいかげんにしろよ!
自分自身、記録した再生数1が彼らを「甘やかしている」可能性について、反省する必要性すら感じる。
しかし、観てみなければ判断できないという本質は、いかんともしがたい。
自己省察も含め、分析しよう。
この謎の需要(地雷を踏みに行くタイプ)のなかで、まず考えられるのが「ダメ出ししたい」層だ。
世の中には一定割合で、ただ「文句を言いたいだけ」という人々は実在する。
言われる側ではなく、もっぱら言う側の問題だ。
たとえば激安のトンカツ店を低評価する理由で、「高級店よりまずい」というのを見かけたときは驚いた。
そりゃそうでしょう、だったら高級店はなんのために存在するんですか。
1個15円の激安ぎょうざを売っている店で、「具が少ない」と文句を言っている客もいた。
追い出さんばかりの勢いで、向かいのスーパーをオススメしていた店員は正しいと思う。
いずれの客も、「安い」ことの意味をよく理解していないか、ただ「文句を言いたい」だけだ。
この場合、どちらかといえば被害者は店側だろう。
一方、まがりなりにも映画を批評している層では、そこまでレベルの低い人士はあまり見受けない。
批評という時点で、一定の知識量が求められるせいもある。
自分が被害者だと強弁はしないが、すくなくとも批評を伴って発される苦情は、ある程度まで合理的だと思う。
つまりこの場合、どちらかといえば「わるいのは配給会社」だ。
たとえば、こういうライティングはやったらいけませんとか、こういう編集はダサくて笑われますよ、と映像の専門学校で教わるようなことを全部やっている映画がある。
知識のある人間が見たら突っ込みたくなる典型的な「釣り」にもみえるが、ほんとうに能力が低いだけの可能性もある。
知識がなくても突っ込める映画は、さらに低級といってよい。
いちばんわかりやすいのは、やはり俳優だろう。
視界の外から殴られるシーンで、殴られるまえに目をつむってしまうとか。
脳天を撃ち抜かれて水に沈むシーンで、まばたきしながらついには耐え切れず目を閉じてしまうとか。
俳優の演技力がわるいのか、キャスティングした事務所がわるいのか。
撮り直しの予算がないせいか、OKを出した監督のせいなのか。
ちゃんとつくろうとしていることが伝わってくれば、まだしも。
予算と才能が圧倒的に足りないせいで、とても残念な仕上がりの映画ばかり、最近あまりにもよく引き当てている。
時代考証など完無視で、語尾だけ文語調、衣装だけ平安朝で、顔は茶髪の細眉とか。
役作りもクソもなく、テキトーに演じて雑に編集した、二流アイドルのプロモーション映画とか。
地味に多い謎映画といえば、人気絶頂のグラビアアイドルが、というような惹句で見知らぬ女たちが棒読みしている、学芸会映画。
目的が映画ではなくプロモーション、それもかなりのやっつけ仕事……。
それでもジャケ写だけはりっぱ、というか予算半分これに使ったろ。
写っている美女やモンスターや兵器は、作中にはいっさい出てこない、知ってた。
画像はイメージです。
個人の感想です。
という世界には、それはそれで楽しみ方はあるらしい。
最後まで観ると、謎の達成感があったりもする。
「文句を言ってもらうために作りました」という前提なら、説得力はある。
言い換えれば、作品自体の説得力はない。
あらためて言うまでもないが、「説得力」はとても重要だ。
ヒーローなりヒロインなりが、めちゃくちゃ強い、という設定はきらいじゃないが、その展開に説得力がないとげんなりする。
具体的にいえば、身体づくり。
ある程度の筋肉や、キレのある動きを見せてくれれば、それなりに納得はできる。
たとえばミラ・ジョヴォヴィッチが評価されたのは、一定程度の身体づくり、訓練を受けていたからだろう。
チャンバラ映画の殺陣にしろ、SF的なアクションにしろ、俳優に説得力があるかどうかはキホンの「キ」だ。
設定がトンチキでも、キャラがぶっ飛んでいても、それはそれで魅力的なときもある。
ともかく画面に説得「力」さえあればいいのだ。
しかし原作ありきなのか、スポンサーの意向か、あきらかにアンバランスな武器をふりまわして、大の男がばったばったとやられていく。
あるいは、ただの痩せた女が、屈強な男たちを「ふつうのパンチで倒」している。
まがりなりにもアクション映画で、そのアクションに説得力がないのは、いかがなものか?
おとなの事情でキャスティングされた、ただのアイドルだかモデルだかの女に期待すること自体がまちがい、と言われれば、なるほど、そうかもしれないが……。
説得力のハードルを、どこに置くか。
私が日本のアニメやラノベを苦手としているのは、その基準の置き方に問題があるからかもしれない。
華奢で、変なメガネかけてて、なんかケガしてたりするけど、敵のアジトに乗り込んで悪者を全滅させる。
美少女TUEEEE系という言葉があるのかどうか知らないが、正直、見れば見るほど萎えてくる。
その手の映画ばかりを観ていて、無駄になった一日の雑感として、この記事を残しておきたい。
私はこれらを「仏滅映画」と名づけることにした。
カルト映画とクソ映画。
おんなじでしょ? という意見には、すこしだけ同意する。
趣味はひとそれぞれなので、好ききらいは、いくらでもあっていい。
少数の人々に評価されている作品が、多数の人々にとってクソだったりすることは、よくあることだ。
たとえば私は三半規管が弱いので、画面が無駄に揺れるだけで評価が下がる。
とはいえPOV全盛当時、揺れない映画を探すほうが困難だったりもした。
そうして最初から負のバイアスがかかったカルト的作品を、個人的には評価できない。
逆に世の評価が芳しくない作品も、個人的にツボにハマることは、まれによくある。
世に駄作と呼ばれている作品群も、じつのところ、それ自体きらいではない。
すくなくともマーケットというフィルターは通過しているわけだし、さすがにひどいだろという配給会社はあるものの、最初から覚悟しておけば観れないこともない。
残念な「商人」たちが、いかに詐欺的な宣伝手法を駆使して、われわれにその駄作を届けようとしてくれたとしてもだ。
そのなかからマシな部分を抽出できたとしたら、それこそ詐欺被害者にとって唯一の勝利ではあるまいか。
くりかえすが、楽しみ方というのは人それぞれだ。
いかなる趣味嗜好も、基本的に否定しない。
たとえば私は、カルト(クソ)映画の多くを倍速で処理する。
しかし、それらを全部等速で観る、という苦行を自分に課しているマニアさんのことも、なんとなく理解はできる。
世の中には、ある種のハードルをクリアしないと理解できない不親切な映画というものが、一定数ある。
相応の向き合い方で、この愛すべき駄作を評価する人々によって、いわゆる「カルト」が結成される。
映画のレビューサイトは多数あるので参照されるとわかるが、そこからも一定の傾向が汲み取れる。
ひとことでいえば「毀誉褒貶著しい」のがカルトだが、さらに一段階こじらせていたりするとホンモノだ。
星は高いがコメントで苦情を縷々述べ連ねているものと、星は低いがコメントで褒めているもの。
個人の内面ですら、かなり混乱している。
カルトなので冷静に見てつまらない、よって星2など低評価。
しかし良い部分はこれだけ見つけているので、低評価も許してほしいというコメント。
一方、カルト映画で評判が高いので、とりあえず星5は入れておく。
しかしこのようにつまらなかった、という愚痴めいたコメント。
どちらの姿勢も理解はするが、共感までいたることは少ない。
カルト(クソ)映画とは「むずかしい概念」なのだ。
カルトというバイアスをかけずに観るか、そういうわけにもいかないか、という二択の現状を示すのが、上述のレビュースタイルにあらわれている。
製作者の姿勢や、マーケットそれ自体も鑑みないわけにいかない。
シリーズもので固定ファンがついている場合など、顧客同士の乖離も顕著になる。
続編を出してくれただけでありがたいファンと、厳しくみるアンチ、そして冷静に評価する一般人……いやはや、むずかしい。
事実「クソ映画」は世界各国で量産されている。
私も正直、けっこうな割合でムカついてはいるのだが、それなりの価値がないわけではないこともないような気はする。
『死霊の盆踊り』を観たときに思ったのは、「史上最低」の映画おもしろいなあ、だ。
うわさの最低映画ということでハードルは低め、というアドバンテージはあるにしろ、「鞭で打たれる猫」にはクソ笑った、認めよう。
最初から惹句が付与されるような伝説的作品ゆえ、という部分はある。
同じことを現在の新人監督にやられても、それはダメだろう。
現在でこそ映画は娯楽の王道だが、最初からそうだったわけではない。
留意すべきは作者の性根と才覚で、なかでも「制限された条件下でどれだけのことができるか」は重要だ。
予算がない、政府が介入する、宗教が妨げる、置かれた状況によってさまざまなリスクはあろう。
見て取るべきは、それにどう立ち向かっているかだ。
いわゆる「芸術」が内包する「反抗」は、同時にプロパガンダとしても使いやすい。
とくに総合芸術と呼ばれる映画などは典型だ。
イスラム法学者に気を使わなければテロ対象になったり、赤い旗を振る政府に逆らったら収容所送りだったり。
世界には事実、そのような「背景」がある。
その現実に抗う力の具象もまた、「映画」である。
たとえばアメリカ、中国、サウジアラビアに、どれだけの「才能」があるか(育てられているか)の指標として眺めると、たいへん示唆に富む。
そのとき、できることをやった。
結果、こうなった。
作品に凝縮されているエッセンスを、できるだけ汲み取って判断する。
あげくに吐き気を催すこともあるが、それは私の責任だ。
圧倒的に才能が足りない監督や俳優は、事実いる。
それをどう味わうかの才能を、こちらが発揮すればいい。
自分が否定されないかぎり、他人を否定したくない。
いきなり他人を否定していくスタイルのひともいるだろうが、その場合は否定し返されることだけ覚悟していればいい。
最低限のルールで、じゅうぶんだ。
好きなことを、好きなようにやっていこう。