サイコパス診断テストをやった。
 ふつうにやってもつまらないので、サイコパスならこう考えるだろう、という類推のうえで答えた。

 ──あなたは人を殺すために包丁を買った、高いものではなく安いものを、なぜか?
 私の答えは、安いほうがたくさん買えて、たくさん殺せるから。

 模範解答は、安いほうが切れ味が悪くて、たくさん痛ぶれるから、らしい。
 なるほど、そういう考え方もある。

 ──あなたはある一家を全員殺害したが、その後、犬も殺した。
 なぜか?

 私の答えは、天国で家族を再会させてやりたいから。
 これは模範解答だった。


 全問こなした結果、かなりの高得点だった。
 もちろん胸を張って私はサイコパスだ、とは言えない。

 多数の書籍や映画などによる経験値を踏まえて「考えた答え」なので、秀才サイコパスとはいってよいだろう。
 天才はもちろん、直感で満点の回答を出すはずだ。

 要するに「胸糞のわるい答え」を考えれば、サイコパス診断をパスできる。
 アホなことやってんな、と自分でも思うのだが、人物を描くためには必要な訓練だと思っている。

 同じような訓練が必要とされるのが、警察の捜査関係だ。
 とくに特殊な犯罪を担当するFBI捜査官などは、サイコパスに感情移入しすぎて心を病むなど日常茶飯事らしい。


 多くの小説や映画にもなっている、大量殺人鬼。
 それ以上にネタになっているのが、殺されたので殺し返す、いわゆる「復讐モノ」だろう。

 犯罪者は本来、国家などによって刑罰を受けなければならない。
 そのために「死刑」があるが、昨今そういう国は減ってきている。

 しかたないので自分の手でやる。
 治安のいいわるい以前に、理屈として理解しやすい。

 犯人と同じ手口で拷問する、という設定の復讐モノも、けっこうある。
 やられたのでやり返す、この理屈を否定するのはむずかしい。

 同害報復は、だれもが考える。
 倍返しまで望まなくていい、たったの「同程度」でいいのだ。


 同害報復刑は、とくにイスラーム世界に多く残っている。
 「キサース」は、刑罰の原点といっていい。

 文字どおり、目には目を。
 他人を失明させた男の両目を失明させる刑などが、イランでは執行されている。

 パキスタンには、ジャベド・イクバル(1956~2001)という連続殺人鬼がいた。
 確定犠牲者数は、およそ100人。

 6歳から16歳までの少年に対する性的虐待と殺人。
 証拠を隠すため遺体をバラバラにして酸で溶かした、などなど罪状あまた。

 有罪判決後、被害者たちを殺したのと同じ方法で殺されるはずだったが、そのまえに自殺した。
 警務官がやさしかったからか、賢かったからか、アホだったからかはわからない。

 同害報復の国は、ほかにもいくつかある。
 しかしほとんどの国では、よりシンプルな方法に置き換わってしまった。

 絞首刑が用いられる場合が多く、薬殺や電気椅子なども使われる。
 有名なギロチンは、1977年でその役割を終えた。


 さて、この人類の基本的な需要である「報復」を、批判的なニュアンスで語る者がいる。
 やりすぎたケースについてはその通りだと思うが、報復全般を一般化して批判しているのを見ると、そこに危険な思想を嗅ぎ取らざるを得ない。

 まっさきに思い出すのが、冒頭に述べた「サイコパス」の理屈だ。
 たいていの「先制攻撃者」は、自分はやっていいけど相手はダメ、という特異な選民感情を持ち合わせている。

 サイコパスはつねに攻撃する側であって、自分が攻撃されることは許さないし、そもそも考えもしない。
 彼らの耳に「復讐はいけません」という理屈ほど、都合のいいタナボタ話はあるまい。

 攻撃しても反撃されない、というこの特異な理屈のせいで、本来は矯正されるべき軽度のサイコパスさえ重症化させているかもしれない。
 偏った自意識を駆動させるのは「誤った教育」であり、必要以上に「甘やかす」ことはそれにあたる。

 報復されるようなことをしてすいませんでした、とまずは謝るべき人間が、報復なんてひどいと泣き叫んでいる姿は正直、正視に堪えない。
 サイコパステストで、生まれつき高得点をたたき出せるタイプなのだろう。


 古来、報復の問題がしばしば取りざたされるのは、明確な基準が存在しないためだと思われる。
 もちろん、個人が好き勝手に報復していたら、秩序そのものが保てない。

 ハンムラビ法典以来、報復の「程度」についての規定は、現代の最高裁判例まで綿々と積み重ねられつづけている。
 宗教が報復自体を禁止したり、神に委ねるなどして先制攻撃者に有利にしているのは、利益を吸い集める権威という構造自体が先制攻撃者だからだろう。

 いずれにしても、人類には報復が必要だ。
 ただしより強力な秩序も必要なので、公正無私な「代行者」を求めてもきた。

 歴史的には、宗教や法律がその役割を果たすべく、付託されてきたといえる。
 が、彼らの権能はすべからく盤石ではない。

 国家や教団に任せて、世界がどんなありさまになるか、なったか。
 われわれは、もう十二分に学習してきたはずだ。

 もっと明確で、同意しやすい基準に基づいて、あるべき「報い」の形を目指さなければならない。
 すくなくとも、報復されるべき人間が、報復ひどい、などと寝言をほざけないようにする最低限の基準は、ぜったいに必要だ。


 復讐モノ(実話・フィクション問わず)は、そのガス抜きのひとつとして機能を果たしてきた。
 人類の多くは「筋を通す」べきだと思っているのに、しばしば現実がその期待を裏切る。

 なぜか。
 人類の数%は、いぜんとしてサイコパスだからだ。

 優秀なサイコパスも、もちろんいる。
 しかし、ただのクソ野郎も多い。

 自分はやっていいけど相手はダメ。
 そんな考え方に共感するには、人類はまだ個人的すぎるのだろう。

 いいことをすれば、いいことが返ってくる。
 そう信じたほうが、善良な人間になれる。

 わるいことをすれば、どうなる?
 それを淡々と、するだけだ。

 社会・秩序を維持するためには、必要なのだ。
 報いが。