すこし期待していたのだが、どうやら常温超電導はガセだったようだ。
 ノーベル賞まちがいなしという報道まで先走っていたが、LK-99もまた見果てぬ夢の残骸となりそうだ。

 ネットなどでは、韓国のチームという時点でうさんくさかったとか、そもそも朝鮮人には無理とか、ゆがんだ歴史教育のせいとか、妙な意見が散見されたが、さすがにそんなわけはない。
 私は優秀な在日韓国人を知っているし、なんなら個人のレベルでは勤勉で能力の高い人間の割合は、日本人より多いかもしれないとすら思っている。

 しかしノーベル賞が遠い。
 しばしば話題になるその理由を、個人的に考えてみた。


 韓国だけの問題ではないが、とくに朝鮮半島に多い宿痾のような病弊がある。
 「上に立つ人間がまずい」。

 太った変な将軍や、乗客を見捨てる船長などは極端すぎる例だが、ともかく上に立つ人間がひどすぎる。
 ひどい人間でなければえらくなれない、構造的な問題でもあるのかと思えるほどだ。

 無能な国王を指して、李氏朝鮮の時代が地獄にたとえられることがある。
 半島を警戒した大陸の罠か、逆に、他国に警戒されないためには無能なくらいがよい、という保身の理屈も通る。

 この伝統は残念ながら、いまや無能を超えて有害の域に達している。
 たとえるなら、あまり効果のない(無能な)肥料をやめて、強い農薬をまいてみたようなものだ。

 もちろん農薬も適量なら役に立つが、まきすぎれば環境全体に汚染が広がる。
 わかっていても毒草が多すぎて減らせない、という地政学的リスクが背景にある。


 まずは「敵」の排除からはじまって、つぎに目先の利益をもたらす研究開発。
 結果が見えづらい基礎研究には当然、リソースが行きわたらない。

 縄張り争いや権力の地盤固めに明け暮れる上司たち。
 もちろん日本やアメリカにも、ひどい上司などいくらでもいるわけだが、朝鮮半島にはその数が異常に多い気がする。

 長期的展望をもったり、目先の利益や追従にとらわれない、すぐれた上司。
 そういう希少価値をもった上司が一定割合いないと、人類の役に立つような発見や発明を許容する素地は生まれづらいだろう。

 農薬とは、即効性を求めること。
 すぐに利益の出ない研究や投資を避け、才能という資源を短期目標に偏って投入する。

 土壌から改良するには、時間もコストもかかる。
 そんな「人類の役に立つ」大目標を、無能な上司が掲げるはずもない。

 だから大きなことをしたい優秀な人間は、最初から海外を目指していたりもする。
 どれだけ能力があっても、やらせてもらえなければどうしようもない。


 人間は3種類に分けられる。
 「役に立つ」人間、「毒にも薬にもならない」人間、そして「足を引っ張る」人間だ。

 プラス、ゼロ、マイナス、というシンプルな見方でよいだろう。
 ひとりの人間をそう単純に評価できないことは承知だが、統計的にはいずれかの傾向に収斂されていく。

 人種や民族で差別するつもりもないが、現実的には所与の環境や文化によって、微妙な差が生じてもおかしくはない。
 とくにノーベル賞受賞者の多いユダヤ人は出色であり、明確に「役に立つ」と言っていい。

 理由はいくつか考えられる。
 社会的に圧迫されていたことから、優秀でなければ生き残れない、そのために学習が重視された。

 閉鎖的なコミュニティの近親婚などではぐくまれた、アシュケナジム系ユダヤ人の知能の高さが指摘されることもある。
 病気のリスクが高まるので諸刃の剣ではあるが、無視できない実績は事実ある。

 ほかにも、異教徒に囲まれている環境で身内で助け合う以外にすべがなく、「足を引っ張」っている余裕がなかった。
 ひとりでも犯罪を犯せば、ユダヤ社会全体が窮地に陥る、などといった事情も勘案できる。

 ともかく「優秀」とされるユダヤ人。
 宗教的にも、慎重な研究に値する民族だと思う。


 一方、東アジア文化圏に目を転じてみよう。
 とりあえず見た目で国籍の区別をつけるのは無理、文化的にもかなり似ている。

 似たような農耕民族・環境下で、アメリカのような多様性はまったくない。
 飛びぬけて優秀な「天才」が生まれる可能性も含め、個人の能力に大きな差がつく要素はあまりないといってよいだろう。

 おそらく「役に立つ」人間の割合は同程度。
 にもかかわらず結果に大きな差があるとしたら、問題視すべきは「足を引っ張る」タイプだと思う。

 日本人は戦後、あらゆる手段で牙を抜かれたので、「毒にも薬にもならない」タイプがかなり多くなった。
 おかげで相対的に「足を引っ張る」タイプが減ったのではないだろうか。

 一方、朝鮮半島では、政治的な緊張関係などもあり「足を引っ張る」こと自体に利用価値があった。
 中国でも、ごく最近まで血みどろの政治闘争をやっていたし、おそらく現在進行形だ。

 このような性質は、目先の「権力争い」には向いた体制だが、未来の「科学」にとっては不幸な状況となる。
 中国人のノーベル賞受賞者が少ないのも、このためだろう。


 どれだけ社会に余裕ができても、愚かな上司が多く、足の引っ張り合いをしていたのでは、視野の広い研究開発はやりづらい。
 逆に言えば、この部分だけ改善すれば、高いレベルの研究者は自然に増えていく。

 自国の小さな利益、目先の小競り合いからは、さっさと足を洗う。
 そうしてお互い切磋琢磨できる環境になれば、東アジアのポテンシャルはかなり高いのではないかと思う。

 やりたいこと、おもしろいことを、やらせてやる。
 結局、ただそれだけのことなのだ。